「英語は論理的だが、日本語は論理的でない」。
笑ってしまうかもしれないが、いまなお根強く、しかも蔓延している説である。
私はおもに海外にいることもあり、ネットに流される記事を除き日本の新聞を読むことは少ないが、つい2、3年前にもこんな説を当然の前提としてあれこれ所感を並べた評論(?)をある大新聞が載せているのを見た。(私が日本に帰ったときに買う新聞なので読売か産経かどっちか)。書いていたのは英語屋の日本女性。
私には少なくとも、「日本語は論理的でない」、ではなくて、「日本の英語屋は論理に弱いので彼らの日本語は当然のように論理的でなく、彼らの英語はさらに没論理的だろう」、というほうが実態に近いように思われる。
日本人なら日本語は十分できる、という思い込みが彼らの失敗の第一歩であり、自らの論理機能の著しく荒廃した(あるいは生まれてこの方論理的訓練をまったく経ていない)日本語に日本語を代表する資格があるかのように思い込むことによって、このような結論が自明の事柄として導き出されているのであろう。
だから、「日本語の論理性」の問題について考えるよりは、「英語屋はなぜ馬鹿なのか」について考えたほうが本当は現実的なのである。
それにもかかわらず、この俗説が日本人の間に根強く蔓延していることは認めざるを得ないと思う。英語業者や西洋人にとっても都合が良い説なので、彼らによって教育機関を通じて助長されてもいるのだろう。
そうである以上、このような俗説はトンデモ説だからただ放置しておけばよいというものでもないと思う。
まず、「論理的」とはどういうことだろうか。「言葉が論理的」とはどういう意味だろうか。そもそも「論理」とは何だろうか。「英語はより論理的」と主張する人はどのような「論理」を想定して「論理的」といっているのだろうか。
彼らにはそのような反省は無縁である。そのような反省をしたことのある者なら、「英語は日本語より論理的」「日本語は論理的でない」といった恥ずかしい教条を振り回すことはないだろう。
彼らはナイーブに、論理とは普遍的な唯一の論理であって、英語によって表現されやすい論理こそまさにザ・論理に決まっている、とどこかで教わったことをそのまま受け入れて、そう決め付けてそれを信仰しているというだけであろう。
しかしこのような信仰箇条が胡散臭いと思われず無批判に受け入れられているとすれば、そのような社会を構成する日本人の論理的な素養に問題があることは確かだ、といわなければならないかもしれない。
外国語や言語学が専門ではないので(というか、私に専門はないので)、この問題についても私は常識的な指摘しかできないが、思いついたところを少し述べてみたい。
タイ語や中国語やマレー語には文法上の過去形がない。だからといって、タイ語で育った人に「過去」の観念がないわけではないだろう。現在と過去を区別できないわけではないし、現在と過去を区別する能力が過去形のある言語の話者よりも劣るということはないはずであると思う。(猿には過去も現在もないというのはここでは言い過ぎだろう)。
文法構造上のシステムとしての時制(これは英語などに固有なものであって、英語などを体系的に説明するために作られた概念である)がないという意味では、日本語にも時制はないというべきだろう。
だからといって英語など(印欧語といっていいかどうかわからない。すべての印欧語に英語と同じような時制があるかどうか私は知らない)が中国語や日本語よりも時間について考えるのに有利であるということはいえないと思う。
常識的に言って、まず、「時間」はわれわれの意識に先立って存在していることがらである。人類も猿も生まれる前から時間は流れていたはずだ。
時間という範疇は、「言語とともに成立した」といえるかもしれない。しかし、「言語から生まれた」わけではない。(私は「初めに言葉があった」とは思っていない)。
このような客観的な(主観を超えた)範疇は、言語を制約するものであって、言語によって制約を受けるものではないと私は考える。
およそ論理といえるものはこのような客観的な範疇を基礎に成り立つものだから、論理が言語を制約するのであって、言語が論理を制約するのではない。
過去形がない言語においても、過去をあらわす副詞をつけることによって過去のことであることを示すことは当然普通に行われる。日本語でも「して来た」などという連用表現によって英語の完了表現を訳しているうちにそれが定着しているということがある。
だからあえて言えば、自然言語の中では、論理の制約を受け入れやすい言語、言い換えれば、「その言語固有の特殊論理を強くもたない言語」、可塑的な言語ほど、使える言語なのであり、論理に適した言語といえるのである。
言語の制約があるとすれば、語彙の制約だろう。
日本では、色事がらみの愛念・執着と仏陀の慈悲のようなものとでは当然まったく違う世界の事柄なので、両方に使い分けられるような「愛」という言葉は不要だったし、思いつきもしなかった。
しかし西洋世界には色事から神の愛までなんにでも使える「愛」という概念が昔からあったようである。旧約聖書の「雅歌」は普通に読めば色事の歌なのだが、ユダヤ教でもキリスト教でもこれを神への愛を歌ったものと解釈してきたといわれる。また、色事が言葉もないほどに禁圧されていたなら、いったんそれが解放されたときにそこに持ってこれる適当な言葉はキリスト教用語の「愛」しかないということにもなるだろう。
インドシナの山岳少数民族の中には、「罪」という言葉がをもたない民族がある。その民族に属する女性が人身売買でシンガポールに売られて法廷に立つことになったが、二重の通訳をつけても「罪」や「犯罪」という概念を持たないので翻訳も困難だったというニュースを読んだことがある。
歴史的に商取引が盛んだった国民の言語は商取引の用語が豊富になり、裁判が盛んだった国民の言語は法廷技術に関する言葉が豊富になるということは考えられることである。
法廷技術に強い言語は、法廷をモデルとした論理を操るのに強いといえるかもしれない。今日の資本主義、新自由主義、市場原理主義などは、当事者主義的な法廷モデルの論理と深い関係があるように私は感じる。
英語ないし欧米語が「ある特殊の論理」を表現するのに強いということはありうるかもしれない。しかしそれは「論理的思考力」とは無関係である。
言語が論理を制約する、という錯覚もまた西洋思想の伝統に属すると思う。アリストテレスの範疇表は文法をもとに作られたということ。
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