2008年12月31日 (水)

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    2008年12月 1日 (月)

    移転します

    このブログの数少ない読者の皆さんにお知らせです。

    このブログは有料ブログであるにもかかわらず、管理画面に広告めいたものが強制的に入るようになりました。これはココログ当局=ニフティの一方的な処断です。

    それも、ただの商品の宣伝ではなく、「こんなネタでブログを書きましょう」「皆さんはこんなネタでブログを書いていますよ」というような、いかにもいかにも悪い意味で「日本的な」プロモーションなのです。

    私はニフティという会社の「知的道徳的な水準」にほとほと愛想が尽きています。

    嫌だと思ってもなかなか移転できないのが実はブログというものなのですが(たとえばフォトアルバムなどの読者もいますが、これをこの形で他に移転させることは出来ません)、みんなのそういう怠惰さが、ますますココログ=ニフティを増長させていると考えられますので、思い切って移転することにしました。

    このブログのような一般人のブログというものは、高い思想内容があるわけでなく、しかしそれでもなんとなく見るものであろうかと思います。つまり、そこにある「空気」のようなもの、見慣れたデザインやフォントなどが意味を持つわけです。同じ人間が作っていても(書くというより作るというのが正しいでしょう)移転すれば全く別のものになってしまう可能性が大であります。その意味で心苦しいのですが、黙って続けていればますます彼らを甘やかし、増長させることになりますので、移転を決意しました。

    移転先はこちらです。

    http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/
      

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    2008年11月26日 (水)

    「人種差別」に関する考え方

    私が以前作っていたブログのなかで、とくに多くの人に見ていただきたいカテゴリーの一つです。

    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat5203597/index.html

      

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    2008年11月23日 (日)

    ニューヨークタイムズの人種主義

    これは残念ながらどう見ても中国側の主張に分がありますね。分があるというより理があるといって良い。

    ニューヨークタイムズも(切羽詰ると?)こういう幼稚なところでボロを出す本質的に白人至上主義新聞だということがよくわかります。

    非常に古いアメリカ先住民の遺骨の顔立ちがコーカソイド風だといって大喜びしていたのもアメリカ人だった。白人がアメリカ大陸を支配する正統性が見つかったと思ったらしい。しかしそのDNAを良く調べてみたら、日本のアイヌに近い種族だった。つまりいわゆる「古いタイプのモンゴロイド(東ユーラシア人)」だったということでしょう。そんなニュースも数年前に報じられていました。
      

    <楼蘭の美女>新疆は中国じゃない?ミイラが明かす歴史の「真実」―米紙

    11月23日14時13分配信 Record China

    2008年11月、米紙・ニューヨークタイムズは新疆ウイグル自治区から発見されたミイラ、通称「楼蘭の美女」はかつて新疆が中国とは異なる別の地域であったことを示しているとのコラムを掲載した。22日、環球時報が伝えた。

    新疆ウイグル自治区ではチベット同様、少数民族の独立運動が続いている。こうした動きに対し、中国政府は新疆ウイグル自治区は古来より中国の領土であると 主張している。しかし、ニューヨークタイムズのコラムは「楼蘭の美女」は中国政府の主張を覆すものだと指摘する。1980年に発掘されたこのミイラはおお よそ3800年前のものと推定されている。中国が新疆領有の根拠としている張騫の西域遠征のはるか以前に人が住んでいたことを証明し、しかもその顔つき、 体つきはいわゆる中国人のものとは大きく異なっており、中央アジア系の特徴が明らかだ。 【その他の写真】

    一方、新疆ウイグル自治区社会科学院中央アジア研究所の潘志平(パン・ジーピン)所長は「中国は多民族国家であり、中国人であることと漢民族であることは 必ずしも一致しない。『楼蘭の美女』は漢民族ではないが、中国人だ」と反論した。歴史学者の張偉(ジャン・ウェイ)氏も、ニューヨークタイムズの理屈に従 えば米国はネイティブアメリカンに返還するべきではないかと皮肉った。(翻訳・編集/KT)

      

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    2008年11月22日 (土)

    「鳥居みゆきの社交辞令でハイタッチ」第一回~(「赤頭巾ちゃん」など)

    「鳥居みゆきの社交辞令でハイタッチ」第一回から。
    「赤頭巾ちゃん」など〔ノーカット〕。

    Online Videos by Veoh.com
    http://www.veoh.com/channels/syakoujirei-de-High-touch

     

    「やばい」赤頭巾ちゃんはこっちかも。
    http://jp.youtube.com/watch?v=W0_wfM_VQV4

     

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    2008年11月15日 (土)

    「鳥居みゆき」 My latest obsession

    日本に帰ったら読書三昧、勉強もして、英語にフランス語にロシア語に集中的に・・・・なんて、海外にいる間は思っていましたが、現実はまったくそんなふうにはなりません。

    ネット読書(ニュースや時事ブログ、経済ブログなどをあさる)さえ、海外のネット屋でのほうが限られた時間で熱心にやっていたような。

    その代わり、海外のネット屋で見る余裕のなかったものに気づくことはでてきました。

    最近取り付かれているのがこれ。特にこの作品(?)は飽きない。

    http://jp.youtube.com/watch?v=rrBm94-Dq0c

    何で面白いのかといわれても説明できないんですが、、、脳みその一部が痒くなるような気持ち悪い感じがして、最初はちょっと気分が悪くなったり、吐き気がしたりしましたが、やっぱり面白いです。

    鳥居みゆき
      

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    2008年11月 9日 (日)

    リーマン・ブラザーズ破綻を契機に、世界恐慌への危機を演出する国際金融資本

    (後段に転載するのはメルマガで届いたものであり、著作権上の問題がありうるでしょうが、大変印象の深い評論であるので転載させていただきます)。
        

    私は、この世界が市場原理や「見えざる手」や「立場の互換性」や「共感」などによって成り立っているとはまったく思いません。それはある人工的に設定された舞台、たとえば、強烈に野蛮な植民地収奪を土台にしてそれは一応見えなくしたところに設定された舞台の上でのみ成り立つフィクションだと思っています。つまりウソです。

    人間にとって一番信用できるのは何か。

    まずは【血縁】であります。(親は〔本能が壊れていない限り〕子をかなりの苦労をしても持ち出しで養います。受け取る側にとってこれほど有利な関係はありません)。

    しかし、愛念は本来弱く繊細なものですから、それを外部からの攻撃や嫉妬や侵略から守る防壁=力が必要です。つまり、そのために必要なのはいろいろな形の(合法非合法の)【暴力】であり、暴力装置を支える【お金】の循環です。

    それでもどんな人間にも常に「不安」が付きまといます。若くても年をとっても将来の不安があり、いつかは死ななければならない。それに、「死」というものは生きている者は誰も決して本当には体験のしたことのないものです。なぜなら「死とは『不可逆』だから死という」のであって、いわゆる「臨死体験」は「生の範囲内での特殊な体験」に過ぎません。人間の不安は、究極的には死の不安です。死が怖くないという人は、死というものについて真剣に考えたことがない人だと私は思っています。

    また人間には、不思議な「運不運」というものがあります。しばらく生きていると不思議なことを体験することがあるものです。そうでなくても、誰でも病気や災難で本当に「すべて」を失うことを常に考えておかなければならない。

    このように、人間として生きるということは常に「不安」だらけなことであり、合理的な理屈では解決できない、言葉にもうまく表せないような諸問題に囲まれて生きているのが人間だということです。

    そうすると、やはり【宗教】というものが無視できなくなります。

    われわれは、若くても老人でも、いつ死ぬかわからないしあと何年生きれるかもわかりません。それでも人間は「業」ともいうべきものにより生き続け、あるいは苦しくても生かされ続け、何かを愛し続けなければならない宿命にあります。

    そのようなわれわれ人間にとって、究極のソリューションはいやでも【宗教】だということになると思います。

    そこで新興宗教に飛びつく人もいるでしょうが、ここでも生まれや育ちの違いは出てきます。【宗教】との付き合い方にも、上流階級には伝統や節度があるでしょう。

    そしてこういう問題は上流階級ほど、つまり宗教的に洗練されている人々ほど、その本質部分を安易に口外したり人に教えたりしないものではないかと思います

    このように、【血縁】のネットワーク、【お金】のネットワーク、さまざまな【ゲバルト】(合法非合法を含む)、そしてそれらを包み込む【宗教】的なネットワークが、全体として複合的なネットワークとなり、人々の「今の普通の生活」を支えているのです。

    このことは少し伝統的な普通の中流階級でも基本的には変わりません。が、何百年も特権的な支配層にいる人々にとってはその「特権的な地位にいる」ということが、「今の普通の生活」なのです。何しろそれらの人たちの家族はもちろん、普通に親戚にいる人々や幼馴染たちがわれわれ(私のような)一般人とは違うのですから。
     

    長くなりましたが、私が言いたかったことは、世間で「陰謀論」と呼ばれかねないような言論を、「陰謀論風だ」というだけで排除するような風潮には私はつねづね疑問を感じている、ということです。

    以下転載。


    ★ 表題: リーマン・ブラザーズ破綻を契機に、世界恐慌への危機を演する国際金融資本
                         林 凛明 kxnb@104.net

    ◇ 米国の大手証券会社「リーマン・ブラザーズ」が、再建策(米国政府の支援等)に失敗、米連邦破産法第11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請し、負債総額63.75兆円で経営破綻しました。

    ◇ リーマン・ブラザーズは、信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン等)の評価損が大きく、資本不足を目前に控え、会社の信用が失墜しものであります。

    ◇ 米国の株式市場の株価急落に続き、9月16日の東京市場(日経平均)は、前日比605.04円安(4.95%の下げ)の大幅下落となり、その終値は1,609.72円で、1万2千円を大きく下回りました。

    ◇ 日本銀行は、日本の金融市場の混乱を防止するため、9月16-17日で合計5兆円の資金を供給します。

    ◇ 拡張(成長)型の施策(公共事業・不動産投資等)を続けて来た国家・企業・金融機関は、金融バブルがはじける強烈な影響を受けて、今後次々と破綻の淵へ追いやられて行きます。China や日本も、大影響を予測して置くべきであります。

    ◇ サブプライムローンから始まった米国金融界の革命的な「大再編成」は、同じ「国際金融資本」「闇の勢力」の傘下企業でも、既に発生しており(犠牲者=破綻企業を出しつつあり)、世界的な「恐慌」へと移行する危機感を捨て去る事が出来ません。

    ◇ 米国のFRB(連邦準備銀行・発券中央銀行)の背後には、「国際金融資本」「闇の勢力」が控えています。もちろん・表向きは「世界経済の安定」を目指しております。しかしながら、本音は、未必の故意的に、世界に大混乱を巻き起こし、弱者(弱企業)の切り捨てに走っているのではないか、と推測しております。

    ◇ 「国際金融資本」「闇の勢力」は、世界が恐慌或は巨大不況に転落すれば、1929年の世界恐慌と同様、本質的な優良企業を、格安に入手出来ると考えております。

    ◇ 前項の手始めとして、FRBは、米国政府と提携(合同)して、9兆円の融資と引き替えに、米国保険最大手のAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の79.9%の株式を取得出来る権利を確保しました。

    ◇ 日本において、付和雷同型(赤信号皆で渡れば怖くない式)の金融機関・企業は、これから連鎖的に倒産に近づいて行きます。独自の情報網を持つ、万全の注意が肝要と申せます。

    (日本の進路、No.0450、リーマン・ブラザーズ破綻を契機に、世界恐慌への危機を演出する国際金融資本、完)

    (日本の進路、統合版090★2008/09/04-09/17完)

    (メルマガ発行元)

    ★ 読者の皆々様からの問合わせ・質問・感想・意見・コメント等のご投稿を取り入れ、内容の充実を図って参ります。「読者の広場」への積極的送信を、下記電子メールアドレスで、お待ち申しております。(06/1/5変更)

    mailto:n21cq@yahoo.co.jp    21世紀研究会
    mailto:npslq9@yahoo.co.jp  日本戦略の研究会

    (日本の進路、統合版090★2008/09/04-09/17完)

     

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    2008年11月 7日 (金)

    「カタカナ○子」のおしゃべりについて

    私は、「カタカナ○子」がどんなにマトモそうなことをいっていても、決して信じないようにしている。マトモそうなことを言うカタカナ○子ほど信用できない。

    その発言内容が保守的だったり、愛国的だったりするほど疑わしい。言論スパイの疑いが濃いといわなければならない。

    「カタカナ○子」を称している時点で、白人男の雌犬である。どんなに愛国者風のことを言っていても、そのアイデンティティは毛唐の雌犬である。

    「雌伏」という言葉は正しい。それらの雌どもは、隷従の象徴であり実証なのである。

    彼らは愛国者ぶってアジアの反日諸国を批判することはするだろう。しかし、そんなことはネットでは小学生でもやっていることだ。彼らには決してできないことがある。「白人世界」を「白人世界」として批判することである。白人イデオロギー、白人のヘゲモニー、白人の覇権を、それとして批判することである。

    「反日主義」というのはちゃんとしたイデオロギーである。その根本は人種主義すなわち白人至上主義である。人種主義とは白人至上主義のことに他ならない。白人至上主義でない人種主義とは原理的に存在しない。なぜなら「人種」という概念が白人至上主義に奉仕するために作られたものだからである。

    「反日主義」イデオロギーの当面の担い手が誰であろうと、その根本は白人至上主義に発している。有色人種=非白人が決してやってはならないとされていたことに最初に着手し、非白人もそれをやっていいのだと言ったのは、黒人でも他のアジア人でもなく、日本人だったからである。

    論壇やインターネットにのさばるカタカナ○子=毛唐の玩具・雌犬ども、の発言を決して信じてはならない。
        

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    2008年11月 2日 (日)

    ブログ検閲の回避の仕方

    植草先生ブログが著作権者の通告に基づいて一方的に閉鎖されるという事件があった。もしも植草氏がニフティの要求に抵抗していたら、抵抗せざるを得ないような部分であったなら、今も先生のブログは閉鎖されたままになっているだろう。

    確かに、このニフティという会社は官僚的で、反省というものがなく、同じことを何度でも繰り返すようだ。おそらく事務連絡もろくにできておらず、検閲の基準もあってないようなものに違いない。問題が起きるたびに、つまりクレームがつくたびに、場当たり的に目立たないように処理して、一件落着すればあとは議論もしないという感じである。

    ニフティの介入の仕方には、「ココセレブ」的な志向、つまり、キレイゴト、体裁をつくろう感じ、権威に弱い感じ、などがにじみ出ていて、それがたまらなく嫌らしいのが特徴である。「言葉狩り」などになじみやすい印象を受ける。

    ところがニフティ自身はエロポータルサイトもやっていて、リンクから12歳の女の子が水着でエロいポーズをとっているようなる写真がすぐに楽しめたりしていたのである。(最近マスコミで問題にされていたのでやめたかもしれないが)。偽善的な体質。。。

    だいたいこんなところである。

    しかしニフティはある意味でまだマシなほうなのである。

    ブログ記事の検閲に関してはもっとひどいと思われるところがある。たとえばYahoo Japan のブログ。

    ヤフーブログは、ヤフー側が不適切と判断すると、警告なしでいきなり完全削除だそうである。ドラフトも残らないという。もちろん基準もはっきりしない。

    ニフティの場合、原稿は尊重してくれる。写真を検閲されてブログを閉鎖されたとしても、会員でいられる限りは原稿としてアップロードした写真まで削られることはないと思う。(会員資格まで停止されればそれも終わりだろうが)。不十分だが、メールで一応予告をしてから閉鎖をするのが通常のようである。

    そこで、ブログを作る側の心得としては、大事な原稿や写真に関しては一つの会社のブログを信頼しないということが重要である。大事な原稿はバックアップを取っておくことも重要だが、いつでもほかに引越しできる心の準備をして、サブブログを持っておくのがよいと思う。

    そして、万一ある記事が検閲されて削除しなければならなくなった場合、その記事を完全にあきらめるのでなく、その記事を許容する他の会社のブログにその記事だけをアプロードするという方法もある。本ブログには別働ブログのその記事へのリンクを貼っておくのである。

    リンクだけでは文句は言われないだろう。(なにせsexy.nifty.comのサイトからは児童ポルノ販売会社にも飛べたのである)。そこから先は相手方サイトの問題であって、たとえば今度の問題で毎日新聞がニフティにそんなリンクを貼ってあるのはけしからんと抗議したとしてもさすがに相手にされないだろう。

    そこで、「避難先」にふさわしいブログ会社を選ぶことが重要になる。避難先でも同じように検閲されて閉鎖されてしまったのでは意味がない。したがって、この種のクレームに強く、あまり検閲をしない会社を選ばなければならない。

    たとえば今度の事件で、毎日新聞は、日本の電通系のプロバイダーであるニフティに圧力をかけるのは容易であり、電話一本の仕事だっただろう。

    しかし、これがBloggerやAolだったらどうなっていただろうか。

    毎日新聞はそのブログがBloggerであっても同じように削除申し込みをしただろうか。あるいは、毎日がそれをしたとして、Bloggerがすぐに毎日新聞の要求を呑んでニフティの同じことをしただろうか。疑問である。

    日本のブログ会社でも、たとえばベンチャー系のFC2だったら対応は変わっていたかもしれない。(FC2でブログ検閲などやり始めたら、FC2のお客さんの大部分が逃げてしまうだろう。あそこはまあそんなのが多いのは確かであろう)。

    次の記事は、「日付のある紙片」というココログに掲載していたところ、記事とは無関係の第三者からのニフティへの「ご連絡」に基づき、ニフティの要求によりココログからの削除を余儀なくされた写真を含む私のブログ記事である。まったく同じものをブロガーとFC2で公開し続けている。

    http://journal-ibrahim.blogspot.com/2006/09/fuck-offrednecksklmalaysia_03.html

    http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-9.html

    (写真削除を要求されたココログ)
    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/07/fuck_offredneck_cfd2.html

    こういう工夫で検閲を逃れることもできるし、そういうことを常に考えておくこともブログで言論表現活動をする人には現実に必要なことであると思う。

    なぜはじめからBloggerなどでやらないのか、ココログなどやめてしまわないのか、という疑問があるかもしれない。その疑問はもっともである。

    しかし、ブログをやったことがある人ならわかると思うが、ブログというのはシステムへの慣れもある。なじんだデザインやブログ画面の質感が惜しかったりもする。また、人から見たらどうでもいいような記事ばかりだとしても、やってる本人にとっては蓄積になる。仮にニュースを貼っただけのような記事ばかりのブログだったとしても、製作者にとっては、大げさに言えば「人生の蓄積」になってしまうのである。続けてやっていると、くだらないようなブログでも有難い読者が出来てくる。自分のブログの読者が「読者層」として形成されてくるのを感じることができるようになっている。

    このように、ブログというのはなかなかやめてしまったりURLを変更したりしにくい、「未練の残る」個人メディアなのである。

    そして、そのことがまたブロガーの「弱み」にもなる。閉鎖するぞと恫喝されれば、理不尽だと思ってもやむを得ず要求を受け入れてしまうことになりがちな理由である。

    ネットの世界はある意味で広くまた狭いものなので、一つの会社やSNSにとらわれてしまうと、言論内容だけでなく本人の感性や発想までが狭くて偏ったもの になりかねないと思う。活動範囲をあらかじめ広く取っておき、臨機応変に発表場所を選んでいく、というのもネットでの知恵ではないかと思う。
       

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    2008年10月31日 (金)

    植草一秀先生ブログ(ココログ)一時閉鎖事件

    植草さんのブログがニフティによって一方的に一時閉鎖された。理由は、毎日新聞からの「著作権上の」クレーム。要するに記事をコピペしたのが著作権を害するというクレームがニフティにあったからだという。

    ニフティは、植草さんにメールで閉鎖予告をしたようだ。(私もされたことがあるが、何日までにその記事ないし写真を削除または修正・訂正しなければ、「ブログを見えないような措置をします」というものだろう)。

    そして私ももうすこしでそうなるところだったが、植草さんもそのメールに気づかず、期限が来てしまいニフティにより一方的な閉鎖処置を受けたということのようである。

    つまり、この場合もクレーム主である毎日新聞は、植草さんに直接要求するのでなく、問題点について議論もしようとしないで、ただブログ提供会社であるニフティに圧力をかけることによって植草さんの言論を任意に制限しようとしたわけである。

    植草先生は著名な経済学者だが、冤罪さらには国策捜査の疑いが強いといわれる容疑により現在マスメディアを追われている身であり、ブログは先生の貴重な発信手段であり、生命線ともいえるものである。

    そのブログに対して毎日新聞は、正々堂々と議論しようともせず、プロバイダーのニフティにクレームすることだけで、ブログ閉鎖につながりかねない圧力をかけたのである。

    新聞記事のコピペ一つでブログを潰せるなら、大新聞社はブログなどいくらでも潰せるだろう。ほとんどの政治系ブログを潰せるのではないか。

    大きなブログ(長く継続しているブログ)で新聞記事の引用の多いブログの場合、要求された新聞記事を削除するだけでも個人には大変な作業である。

    たとえば、朝日新聞などの記事を批判することが中心になっているような個人のブログの場合、著作権を持ち出されて記事のコピペをすべて削除せよといわれたら、事実上少なくとも一時閉鎖するしか仕方がなくなるだろう。

    新聞社が気に入らないかもしれないようなブログは、安心して新聞記事のコピペもしていられないということだ。
      

    私もかつてニフティの要求にしたがって、人物写真を削除する作業のために、自主的に一時ブログ閉鎖をしたことがある。

    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/(左欄をご覧ください)

    このときもクレーム主は、私にはコメントでもメールでも一切何も要求して来ないまま、ニフティに直接圧力をかけてブログ潰しを試みたようである。

    そしてニフティは、クレーム主のプライバシーは非常に尊重して、それがどういう人物であるかさえ私には教えず、規約を盾に閉鎖の恫喝をもって一方的に私のブログ記事の人物写真を削除させたのである。(その人物写真の人物とクレーム主とは関係はなかった。クレーム主がクレームをつけていたのはニフティによれば「文章」つまりは思想内容だったのである。ところが、ニフティが規約を盾に私に削除を迫ったのは「写真」だった。ニフティは文章を削除させる理由を見つけることができなかったために、誰からもクレームのついていない人物写真の肖像権〔ニフティによれば「パブリシティ権」だという〕を持ち出した。そしてニフティは同時に、すべての「ココログ掲載の明示の同意」のない人物写真の削除を要求してきた。そのため私は大量の写真を削除せざるを得ず、ブログを一時閉鎖せざるを得なかった)。
      

    こちらもご覧ください。

    http://iscariot.cocolog-nifty.com/times/2008/10/post-4397.html
      

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    2008年10月22日 (水)

    『「民営化された日本郵政はアメリカに出資せよ」とぜひ申し上げたい。アメリカに対しても貢献できる』(竹中平蔵)

    外貨準備を監視する法律を整備せよ(植草一秀氏ブログ「知られざる真実」より) 


    繰り返し主張するが、100兆円の外貨準備を早急に売却すべきである。同時に、国会の監視の働かないところで、米国経済支援のために巨大な日本国民の負担が発生することを防ぐための法律改正が求められる。外貨準備の取り扱いを国会決議事項にしなければならない。


    竹中平蔵氏は、本年4月20日のBS朝日・朝日ニュースター『竹中平蔵・上田晋也のニッポンの作り方』第3回放送で、「「民営化された日本郵政はアメリカに出資せよ」と ぜひ申し上げたい。日本にはかつてとんでもなく巨大なSWFがありました。それが今の日本郵政なんです。資金量でいうと300兆円。他のSWFとは比べ物 にならないほどのSWFがあったんです。民営化したので、今はSWFではない。だからアメリカから見ると安心して受け入れられる、民間の資金なんです。ア メリカに対しても貢献できるし、同時に 日本郵政から見ても、アメリカの金融機関に出資することで、いろいろなノウハウを 蓄積し、新たなビジネスへの基礎もできる」と述べた。


    渡辺喜美元金融相は、本年7月16日、米国政府元高官に対して、「米政府が必要とすれば日本の外貨準備の一部を公社救済のために米国に提供するべきだと考えている」と述べたことが報道されている。


    また、渡辺氏は英国の通信社ロイターのインタビューで も、「資本増強で国際的な枠組みを作るのであれば、外貨準備を使うことも、私が金融担当相のときの私的懇談会(金融市場戦略チーム)でブレーンストーミン グをした。これもあり得ないことではない。運用している米国債を(金融機関の株式と交換する)デット・エクイティ・スワップ(DES)する話で、ドル危機 後の新しい通貨秩序の形成にもつながる戦略になる」と発言している。


    また、9月20日付ファイナンシャルタイムズ紙は、自民党総裁選に立候補した小池百合子氏、石破茂氏が、日本の外貨準備を米国金融危機対策に流用する提案を示したことを伝えている。


    渡辺氏が言及した金融市場戦略チームのブレーンストーミングでの検討内容については、高橋洋一氏が9月24日付『フォーサイト』誌で説明している。


    高 橋氏は寄稿で、「いずれにしても当面、日本は巨額な外為資金を持たざるをえないだろう。であれば、その結果のリスクとリターンを考慮してポートフォリオを 入れかえ、たとえば、ドル建て債券の代わりにアメリカのファニーメイ、フレディーマックなどの株式に投資するという政策は、十分に検討に値する」と記述し ている。

     渡辺氏が主宰した勉強会での高橋氏の主張を、竹中氏、渡辺氏、小池氏、石破氏がオウムのように発言している図式がよく分かる。


    いわゆる「上げ潮派」と呼ばれるグループに分類される人々は、高橋氏の主張をそのまま援用している。高橋氏は、①霞が関埋蔵金を活用した積極財政、②小さな政府、③日銀による徹底的な金融緩和、を主張している。


    竹中平蔵氏はどの講演会でも、①規制が強化されたことに伴うコンプライアンス不況、②改革逆行に伴う期待成長率の低下、③日銀の短期金利引き上げ、の三つが景気悪化の原因だとし、①法人税減税、②外資への市場開放を軸とする規制緩和、③日銀の金融緩和強化、を主張する。


    こ れらが、「市場原理主義者」=「新自由主義者」=「対米隷属派」の主張である。「市場原理主義」は「資本優遇=労働搾取」を奨励し、「弱肉強食」と「セー フティーネット破壊」を推進してきた。外国資本の日本進出を奨励し、円安誘導で外国資本による日本資産の安値取得を側面支援する。


    こ れらの人々が、日本の外貨準備や郵貯資金による米国金融危機への資金流用の流れを作り出している。財務省は、外貨準備を巨大化し、新興国支援に流用するこ とが、財務省の利権拡大につながることから、これらの施策を肯定的に捉えていると考えられる。高橋氏は、高橋氏の主張が財務省の意向と対立しているかのよ うな説明をするが、これは事実に反していると考えられる。裏側ではつながっていると考えられる。


    高 橋氏は、「外為資金の圧縮を考えるべきである」としながら、外貨準備をリスクの高い米国金融危機対策に流用することを主張しており、主張に一貫性がない。 日本政府が外貨準備を活用して、米国の金融危機対策を実施する正当な根拠はまったく存在しない。国会論議、国会決議を経ずに、外貨準備を活用した金融対策 について、日本政府が海外で意思表示することは、絶対に許されることでない。 


    竹中氏の金融危機対策に郵貯資金を充てるべきとの提言は、郵政民営化そのものが、米国が350兆円の郵貯、簡保資金を米国のために利用するために画策した政策であったことを、明確に裏付けるものである。


    日本の政治は日本国民の幸福実現を目的に運営されなければならない。小泉政権以降、米国による日本の属国化が日本政府の中枢から進行した。「市場原理主義」によって、日本社会も相互不信と相互敵対の「格差社会」に変質させられてしまった。


    日本の政治から「対米隷属派」を排除しなければならない。日銀に超金融緩和政策を強制し、日銀を政府管理下に置くとの主張も、国民の利益に反する。円安誘導は外国資本による日本買い占めを促進する側面を持っており、日本国民の利益に反する政策である。


    日銀の超金融緩和政策の延長には、日本でのインフレ誘発が期待されており、政府はインフレによる政府債務帳消しを密かに目論んでいると考えられる。財務省から日銀への天下りは、この意味でも遮断しておかなければならない。


    「市 場原理主義者」の罪を明らかにし、「市場原理主義者」の退場を確実に実行しなければならない。まずは、外貨準備の流用政策を国会論議で取り上げ、対米隷属 派による国益喪失の政策にブレーキをかけなければならない。外貨準備管理を国会の厳しい管理下に置く法改正が早急に求められる。

    http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-7819.html

     

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    2008年10月16日 (木)

    日本へ

    10月15日

    23時30分のマレーシア航空(全日空との共同運航便)で成田に向かう。

    午後8時ごろ宿に大きな荷物を預けてチェックアウト。荷物を預けるために荷物のストアを明けさせたら、6日に泥棒が入って部屋を荒らされたときに盗まれたバックパックが放り込んであった。ジッパーは開いたまま。

    驚きである。いったん盗まれたものがどうしてこんなところにあるのか。バッグの中はかき回したあとがあった。犯人がこのバッグを盗んで中を探り、金目のものがないのがわかって(あるいは何か取っているかもしれない)放置したのだろう。しかしその辺に放り出しておいてもよいようなものを、逃げる犯人がどうしてわざわざ2階のストアに放り込んで行ったのか。そのせいで今日まで私は、犯人がこのバッグを放置していることを知らなかった。

    犯人はこのホテルの内部に詳しい人間だと思わざるを得ない。ここの下働きが絡んでいるか、常連客の類だろう。その点を追求しようとしても、夜番の男は知らぬ存ぜぬ、まったく知らないというばかりでどうしようもない。

    見つかったのは生活用品や日本語の本などが入ったバックパックだけで、これと一緒に盗まれた携帯電話二つ(ドコモとノキア)と音楽プレーヤーはもちろん戻らない。これらはマレーシアでは売れるらしい。

    マレーシア警察のふざけた対応には本当に腹が立つ。マレーシアはツーリストが被害者になる犯罪が多いところだ。ホテル荒らしの窃盗などはきっとタイより多いだろう。マレーシア警察はタイ警察ほどヤクザではないかもしれないが、マレー人だらけのこの警察は怠惰さや仕事の杜撰さでは東南アジア随一かもしれない。

    KLセントラルからKLエクスプレスに乗り、KLIA(クアラルンプル国際空港)へ。KLエクスプレスに毛唐が目立つ。

    KLIAでの日本行き飛行機の搭乗のチェックは、ネパール行きのときとは全く違う雰囲気で行われる。

    ネパール行きの便でネパール人に混じっているときは犯罪者扱いだった。1月にここからネパールに向かったときは、消えかかった黄色い線を少し踏み越えたといってトゥドゥンをした土人女役人がいきなり私の胸を張り叩いて来た。ネパール人たちはみな両手を上げて犯人扱いの身体検査に耐えている。私は来年一月にまた同じルートをたどる予定である。そのときもまた同じことが繰り返されるのだろう。

    日本行きの便の搭乗ではそういうことはない。

    客室乗務員は、全日空の女の人は相変わらず若くてきれいで結構だ。接客もまあ日本人らしくて、無駄もなく棘もなく、大田区の金型のような出来と言えるのかもしれない。

    猿丸出しのマレー男の客室乗務員もいた。こいつはやっぱりちょっとタイ猿似だったかもしれない。

    私の前の席にウザイ毛唐が座っていた。食事のときにもシートを倒していて、しかもバタバタともたれて背もたれを揺らす。

    マレー猿クルーは、タイ人ほど真性猿ではなかったが、この毛唐に長々とメニューの説明をして嬉々としている。

    そして私のところに来ると、私が少し倒していたシートを起こせと言う。私は素直にシートを起こしたが、前の毛唐にはこれを言わない。

    私は食べにくいので前のシートを蹴ったり叩いたりしてみたが、毛唐はまったく気にしない。何も気づかない。毛唐はそういうことにはまったく鈍感である。

    というよりも、そこがアジアであり、その相手が白人でなくアジア人であるならば、その相手の不都合などは一切気にしなくてもよい、という信念が、白人には感性レベルにもしっかり染み付いている。ここまでになるにはやはり数百年の蓄積がいるのだろう。そのような感性もまた歴史と文明に支えられているのである。

    結局、口で言ってやっと反応した。物理的な障害でも入ったかのように無表情にちょっと背もたれを戻しただけである。

    この飛行機には、日本風のファッションをした中国系の若い女の子が一人で乗った。連れはないようだった。ブーツを履いた足で日本人の女のこのように内股をしていた。マレーシアで内股をする女の子はあまり見ないと思う。どんなビザで何しに行くのかと思ったが。
     

    約一年ぶりに見る東京は、思っていたより良い感じだ。貧困問題などが深刻になりもっと荒廃しているのかと思ったが、予想したより明るい感じだった。もちろん季節がよくて天気がよかったからでもあるだろう。そして東南アジアのどの都市よりも毛唐が目立たない(ミャンマーを除く)。

    都区内にある自分の部屋のある町に帰って来ると、本当に良い感じだった。これほど穏やかで豊かでキレイで「普通の」町というのは、私が旅行してきたところにはまずめったにない。パリで都区内のなんでもない町を少し覗いて歩いたが、移民系の人が多くてちょっと切羽詰った感じがあった。この東京の普通の街のような穏やかさや豊かさは感じない。

    日本人の顔をあらためて見る。中国人みたいな顔も意外に多いがやっぱり日本人である。とくに若い女の子にはアジアのどこでも見ることができない何かがある。もちろんアジア以外でも見ることはできない。
       

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    2008年10月13日 (月)

    私は個人として発言している

    私は個人として発言している、というのは私の個人主義的な限界かもしれないが、やはり私は個人として発言している。われわれの時代、今生きている日本人の大部分は、個人主義的な教育を受けてきた。

    私は何の専門家でもないが、またネットだけで新陳代謝しているような人間でもない。旅行を通じて見聞きしたことや感じたことから、自分の一応の見解を作ってそれを表現するということをネットで行ってきた。

    私が外国や外国人を批判すると、必ず同じような反論や人格批判が返ってくる。「日本人もこんなに悪いことをしている・こんなに悪いことをしてきた・なぜそれを批判せずに外国を批判するのか」「日本にもこんな問題がある・部落差別や在日朝鮮人差別がある・それなのになぜ外国の差別を批判する資格があるのか」、というもの。

    これらについては何度も「日付のある紙片」などで反論し、このような非難の仕方について批判してきたが、頭の鈍い人はまったく同じ能書きのような理屈をどこかで仕入れてきて得意になって盛んに繰り返す。要は、私がしているような主張が、彼らのどこか敏感な部分に障る、ということらしい。

    いうまでもなく、私は日本人の代表でもないし、日本国を代表して発言しているわけでもない。

    他の日本人が過去行ったことや現在行っていることについて、どうして私が責任を負わなければならないだろう。それらについて弁明する義務がどうして私にあるのか?

    仮に他の日本人が何をし、何をしてきたとしても、私には私が見聞きし身近に感じた事柄、たとえば悪を、個人として自由に告発し批判し批評する権利があるのではないか?

    私が日本人の悪行に直接触れていたらそれを主題にした批判をしただろう。しかし私が旅先で触れたのは何より、白人の悪行であり、土人たちの醜悪な行動だった。だから私は彼らの行為を題材にして書いてきたのである。

    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/

    ところが、日本の進歩主義者たちは、自分の都合によってどんなふうにでも「集団主義者」になれるらしい。

    そして、自分の気に障る主張をしている人間をネットから見つけ出してきては「連帯責任の論理」を援用して黙らせようとする。

    自分の気に触る思想や表現に対しては「ブログ廃止も当然だ」などということを平気で言っている。

    日本の進歩主義者、左翼、市民主義者ほど偽善的で汚らしいものは少ない。実に汚い。彼らは結局、「白人崇拝主義土人」の日本的形式に他ならない。

    彼らは、「外国人」は「個人」として尊重しなければならないが、「日本人」個人は「日本人集団」として一括りして扱ってよいと信じている。

    これはタイ人などが「アジア人」「非白人」を一括りにして扱うのに似た土人思考である。
       

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    土人最悪

    ちなみに、このブログのURLを匿名掲示板に貼らないでくださいね。

    このブログはどっちかといえば身内ブログ。

    ただし馴れ合いブログではないので公開している。

    馬鹿な読者コメントほどブログ主にとって厄介なものはないですね。
    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/06/post_439d.html
     

    今年6月にネパールを出て、イラン、アルメニア、エストニア、ラトビア、ハンガリー、フランス、イスタンブール、レバノン、UAEと回り、マレーシアに来ましたが、マレーシアで痛感するのは土人のいやらしさです。

    みんな中国人が嫌いでしょう。確かに中国人は政治的に手ごわいだろうし、本質的に性悪で、日本国にとっては害悪でしょうが、マレーシアで個人的に接する限り、私はマレー人のほうが嫌ですね。

    マレー人のほうがタイ人よりは多少マシであることは認めます。
      

    土人のこの嫌らしい「ネットリ感」はほかの世界にはない。

    マレー男が、空いてる席がいくつもある喫茶店でわざわざ目の前に座ってくる。そして勿体つけて、えらそうなそぶりをする。ギロギロとにらみつけたりする。

    (実際私服警官だったりするのかもしれないが、本当に警察活動に必要ならむしろ目立たないようにするだろう。それが逆である)。

    (なお、ミャンマーの私服警官は優秀である。ロンジをはいていて決して外人に悟られるようなことはない。気がつくとそこにいる。トラブルが起きてはじめて警察に囲まれていたことがわかる。トラブルといっても、旅行者の入れないところに迷い込んでしまったとかで、後は親切に対応してくれた)。

    中央制御式のネット屋のマレー人の店員は、毎回PCを開くのを「忘れる」。ところが見ていると白人客に対しては決して忘れない。私に対しては必ず「忘れる」。

    日本なら店員が謝るところだが、土人国では客のほうが頭を下げて頼みに行かなければならない。そうするとまたネットリともったいつけてPCを開いてくれる。

    つまり、ここでは「現実に困らせられる」者が権力を持っているのであり、権力のある者が「偉い」のである。

    そして、彼らにとっては権力のある偉い人が絶対であり、力は善、善は力だから、権力をひけらかし偉ぶることは何の留保もなく「善」なのである。

    これはマレーもタイも変わらない。(ミャンマーは多少趣が違う)。

    この東南アジアの風土は確かに、人間をクズにしていくところがあると思う。
       

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    2008年10月12日 (日)

    「論理的な言語」と「論理的でない言語」があるという俗説

    「英語は論理的だが、日本語は論理的でない」。

    笑ってしまうかもしれないが、いまなお根強く、しかも蔓延している説である。

    私はおもに海外にいることもあり、ネットに流される記事を除き日本の新聞を読むことは少ないが、つい2、3年前にもこんな説を当然の前提としてあれこれ所感を並べた評論(?)をある大新聞が載せているのを見た。(私が日本に帰ったときに買う新聞なので読売か産経かどっちか)。書いていたのは英語屋の日本女性。

    私には少なくとも、「日本語は論理的でない」、ではなくて、「日本の英語屋は論理に弱いので彼らの日本語は当然のように論理的でなく、彼らの英語はさらに没論理的だろう」、というほうが実態に近いように思われる。

    日本人なら日本語は十分できる、という思い込みが彼らの失敗の第一歩であり、自らの論理機能の著しく荒廃した(あるいは生まれてこの方論理的訓練をまったく経ていない)日本語に日本語を代表する資格があるかのように思い込むことによって、このような結論が自明の事柄として導き出されているのであろう。

    だから、「日本語の論理性」の問題について考えるよりは、「英語屋はなぜ馬鹿なのか」について考えたほうが本当は現実的なのである。

    それにもかかわらず、この俗説が日本人の間に根強く蔓延していることは認めざるを得ないと思う。英語業者や西洋人にとっても都合が良い説なので、彼らによって教育機関を通じて助長されてもいるのだろう。

    そうである以上、このような俗説はトンデモ説だからただ放置しておけばよいというものでもないと思う。

    まず、「論理的」とはどういうことだろうか。「言葉が論理的」とはどういう意味だろうか。そもそも「論理」とは何だろうか。「英語はより論理的」と主張する人はどのような「論理」を想定して「論理的」といっているのだろうか。

    彼らにはそのような反省は無縁である。そのような反省をしたことのある者なら、「英語は日本語より論理的」「日本語は論理的でない」といった恥ずかしい教条を振り回すことはないだろう。

    彼らはナイーブに、論理とは普遍的な唯一の論理であって、英語によって表現されやすい論理こそまさにザ・論理に決まっている、とどこかで教わったことをそのまま受け入れて、そう決め付けてそれを信仰しているというだけであろう。

    しかしこのような信仰箇条が胡散臭いと思われず無批判に受け入れられているとすれば、そのような社会を構成する日本人の論理的な素養に問題があることは確かだ、といわなければならないかもしれない。

    外国語や言語学が専門ではないので(というか、私に専門はないので)、この問題についても私は常識的な指摘しかできないが、思いついたところを少し述べてみたい。

    タイ語や中国語やマレー語には文法上の過去形がない。だからといって、タイ語で育った人に「過去」の観念がないわけではないだろう。現在と過去を区別できないわけではないし、現在と過去を区別する能力が過去形のある言語の話者よりも劣るということはないはずであると思う。(猿には過去も現在もないというのはここでは言い過ぎだろう)。

    文法構造上のシステムとしての時制(これは英語などに固有なものであって、英語などを体系的に説明するために作られた概念である)がないという意味では、日本語にも時制はないというべきだろう。

    だからといって英語など(印欧語といっていいかどうかわからない。すべての印欧語に英語と同じような時制があるかどうか私は知らない)が中国語や日本語よりも時間について考えるのに有利であるということはいえないと思う。

    常識的に言って、まず、「時間」はわれわれの意識に先立って存在していることがらである。人類も猿も生まれる前から時間は流れていたはずだ。

    時間という範疇は、「言語とともに成立した」といえるかもしれない。しかし、「言語から生まれた」わけではない。(私は「初めに言葉があった」とは思っていない)。

    このような客観的な(主観を超えた)範疇は、言語を制約するものであって、言語によって制約を受けるものではないと私は考える。

    およそ論理といえるものはこのような客観的な範疇を基礎に成り立つものだから、論理が言語を制約するのであって、言語が論理を制約するのではない。

    過去形がない言語においても、過去をあらわす副詞をつけることによって過去のことであることを示すことは当然普通に行われる。日本語でも「して来た」などという連用表現によって英語の完了表現を訳しているうちにそれが定着しているということがある。

    だからあえて言えば、自然言語の中では、論理の制約を受け入れやすい言語、言い換えれば、「その言語固有の特殊論理を強くもたない言語」、可塑的な言語ほど、使える言語なのであり、論理に適した言語といえるのである。

    言語の制約があるとすれば、語彙の制約だろう。

    日本では、色事がらみの愛念・執着と仏陀の慈悲のようなものとでは当然まったく違う世界の事柄なので、両方に使い分けられるような「愛」という言葉は不要だったし、思いつきもしなかった。

    しかし西洋世界には色事から神の愛までなんにでも使える「愛」という概念が昔からあったようである。旧約聖書の「雅歌」は普通に読めば色事の歌なのだが、ユダヤ教でもキリスト教でもこれを神への愛を歌ったものと解釈してきたといわれる。また、色事が言葉もないほどに禁圧されていたなら、いったんそれが解放されたときにそこに持ってこれる適当な言葉はキリスト教用語の「愛」しかないということにもなるだろう。

    インドシナの山岳少数民族の中には、「罪」という言葉がをもたない民族がある。その民族に属する女性が人身売買でシンガポールに売られて法廷に立つことになったが、二重の通訳をつけても「罪」や「犯罪」という概念を持たないので翻訳も困難だったというニュースを読んだことがある。

    歴史的に商取引が盛んだった国民の言語は商取引の用語が豊富になり、裁判が盛んだった国民の言語は法廷技術に関する言葉が豊富になるということは考えられることである。

    法廷技術に強い言語は、法廷をモデルとした論理を操るのに強いといえるかもしれない。今日の資本主義、新自由主義、市場原理主義などは、当事者主義的な法廷モデルの論理と深い関係があるように私は感じる。

    英語ないし欧米語が「ある特殊の論理」を表現するのに強いということはありうるかもしれない。しかしそれは「論理的思考力」とは無関係である。

    言語が論理を制約する、という錯覚もまた西洋思想の伝統に属すると思う。アリストテレスの範疇表は文法をもとに作られたということ。
      

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    2008年10月 7日 (火)

    盗難に遭う

    悪いことは重なるもので、株で大損しているときに今度は盗難。8年ほど海外をぶらぶらしているが、盗難に遭ったのはこれが初めてである。

    賊は留守中にホテルの部屋をこじ開けて入り、充電していた携帯電話2機(ドコモとノキア)と音楽プレーヤー、本や日用品を入れていたバックパックを盗んでいった。幸い、金やクレジットカードを入れていたカバンは取られなかった。

    夜9時半ごろ部屋に帰り、携帯をコンセントにつないでネット屋に行き前の記事を書いたりしていた。11時過ぎに帰ってみたら部屋の様子がちょっと変。携帯がないことに気づく。しばらくたってからカバンもひとつなくなっていることに気づいた。

    そのときちょうど外から帰ってきた毛唐を捕まえて、あんたの部屋はどこ、と聞くと(まあ、こんな聞き方は変といえば変だが)、何でそんなことを聞くんだ、とかぶさってきた。それで実は携帯がなくなったというと、俺もラップトップがなくなって今警察に行ってきたところだという。その男は白人の女友達と一緒に私の隣の部屋に泊まっていた。同じようにドアをこじ開けられて部屋を荒らされたらしい。

    私の盗まれたカバンの中身の一部がその男の部屋に残されていた。私の部屋を先に荒らして、次の隣の部屋を荒らしたのだろう。

    そのときになって私は初めて扉の鍵がこじ開けられていることに気づいた。帰ってきたときは鍵をかけ忘れたかぐらいにしか思っていなかったのだ。この安宿は扉の鍵のほかに南京錠がつけられている。しかし、道具でこじ開けてしまえばそんなものは意味がない。4階の部屋に泊まっていたのは私とこの白人カップルだけだった。賊はそのことも知っていたのだろう。

    最悪なのはマレーシアの警察である。私もすぐに近くの警察署に届けを出しに行った。この警察署には以前1年近く前にもある件で行ったことがある。

    女の警察官たちはやる気なさそうに待たせていたが、英語のレポートを私が自分でコンピュータに打ち込むだけ。それを印字してコピーを渡されてサインして終わり。

    英文レポートを打ちながらしみじみ英語が書けなくなったと思ったりした。

    その場のボスらしい婦人警官の態度は非常に横柄で不愉快だった。まるで私が犯人か何かごねてる人間であるかのようである。彼らが白人被害者に対してどういう態度をとっているかはわからないが。

    警察はレポートを受け取るとそれですべておわってしまった。もうそれ以上何も使用としない。この後何してくれるんだということを聞こうとすると、偉そうなボス婦人警官が怒ったように向かってくるだけ。

    警官が後でホテルに来るようなことを言っていたが、結局来なかった。

    ドアもこじ開けられて壊れており、証拠もいろいろあるはずだが、現場検証ひとつまったくしない。写真ひとつ撮りに来ない。指紋もいっぱい残っているはずだが、そんなものにはまったく無関心である。これで新聞には毎日のようにいろんな犯罪の犯人が挙げられているのだから、そういう容疑者の容疑もほとんどいい加減なものだということがわかる。

    警察が現場に来たとしても、私を犯人扱いして根掘り葉掘りあれこれ尋問するのが落ちだから、来なかったのがよかったかもしれない。隣の部屋の白人がやられているから、それだけでも私の立場は悪くなる。

    これがマレーシア警察の、というより、東南アジア警察の水準である。

    彼らの仕事は犯人を捕まえたりすることではなく、ブーツを履きでかいバイクに乗ったりして威張って歩くことなのだ。

    東南アジア土人は、威張っている人がどこかにいないとまた不安になるのかもしれない。威張っていてくれればいいのであって、その人たちが何か意味のある仕事をする必要はないのだろう。

    マレーシアの政治家は2020年くらいには先進国の仲間入りするというようなことを抜けぬけと言っているようだが、日本の江戸時代の岡引にも及ばない警察しか持てないこんな国が先進国と呼ばれるようになることは100年たってもないだろう。

    東南アジアの国はみんなこの水準かこれ以下である。

    また、こういう問題では日本大使館に何を言っても仕方がない。日本大使館が援護するのはパスポートをなくしたときの再発行や、日本から大使館宛に金などを送ってもらうときなどだけ。金は貸さないと明記している。幸いパスポートと金は盗られていなかった。

    ドコモの携帯を盗まれたのが痛い。

    本当に、東南アジア旅行はやめたほうが良い。私はこの宿に荷物を置いていたので来てしまったが。ネパールやイランのほうがずっと安全である(イランはイスラエルが攻めてこない限り)。人間の質もはるかにまともだろう。

       

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    2008年10月 6日 (月)

    KLからカトマンドゥへの航空券

    クアラルンプルからカトマンドゥへ飛んでいるのは、ロイヤルネパール、タイ航空、ビーマン・バングラデシュなど。

    タイ航空は使わないので他の航空会社になるが、KL発カトマンドゥ行きのe-ticketが買えるところはないようである。タイ航空の場合もおそらく、オンラインで予約ができたとしても紙チケットの現物を受け取らなければならないと思う。(タイ航空はKL発成田行きもオンラインでは予約のみ)。

    いつものように、バンダラヤというところ(LRTスターライン=今のRapid KLアンパンラインのBandaraya駅近く)にあるM.S.STar Travelという旅行代理店に行く。

    1月発の飛行機のチケットを買えた。金も払った。しかし買えたと思ったのは間違いだった。午後5時チケットができるのでまた来いといわれて、5時に行ってみると、同じ人(マレー女)が1月発のチケットは12月にならないと発行できないという。キャンセルするかとも聞かれる。面倒なのでそのままにして、予約ということにしておいた。金も全額払ってしまった。12月にもう一度来て現物を受け取れる予定。

    とはいってもこの旅行代理店は安い。インド方面に強い。KL・カトマンドゥ片道が1040リンギ。3万円ちょっと。出発一ヶ月以上前でないとカトマンドゥ行きは売り切れていることが多い。ネットで販売している代理店の値段を見るとこの倍くらいは取るようだ。

    航空券はエア・アラビアのようにネットで買ったほうが安く買えて代理店を通すと却って高くなるものもあるが、一般には良い代理店で買ったほうが安く買えることが多いのかもしれない。ただ、あらかじめ座席を指定したりはできない。(e-ticketはネットで座席まで予約できることが多い。エアアラビアは、座席指定を売る。前のほうの良い席だと高くなる)。
       

    今日は証券口座で散々な目にあった。昨日の夜のネットのニュース(欧州関係)で今日は日本の株も大荒れになるとは思っていたが、自分の持っている銘柄が崩落するように予想した底値を大きく割ってしまってどうにもならない。先週のうちにさっさと売っておくべきだったというのは簡単だが、損を覚悟で売ってただ損をしてチャンスを逃すこともよくあるし、損切り売りひとつとっても難しいもの。今が買いのチャンスかもしれないがこういうときに限って余裕資金がない。これまで散々逆張りをしてしまった。経験則からいうと、一ヶ月間口座を見てないような時のほうが儲かっている。
              

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    2008年10月 5日 (日)

    Anti「アンティ」

    「アンティ」は、マレーシアで年上の女性に対する呼称・敬称として使われている言葉。

    つまり、「お姉さん」とか「おばさん」(この日本語はすでに敬称どころか適当な呼称でさえなくなっているようだが)という意味。

    語源は英語のAuntだそうである。しかし、Antiで定着していて、小さい子供がその辺のおばさんのことを「アンティー!」と呼んでいる。アクセントはアンではなくティの方につける。中国系の子供も中国語に混ぜてこの言葉を使う。

    婦人警官の胸バッチなどにも呼称として「Anti何某」と書いてあり、すでに正式なマレーシア語のようである。植民地にされた過去の醜い名残というほかないと思うのだが。

    情けないことに、今年ネパールに行ったとき、この「アンティ」が山村の子供たちにかなり普及しているのを見た。マレーシアと同じ発音である。

    ネパールには、(お姉さんもおばさんも含めた)年上の女性を呼ぶ「ディディ」という言葉があり、数年前は山でももっぱらディディで、「アンティ」などという言葉は聞いたこともなかった。

    ネパールのアンティは、マレーシアに出稼ぎに行ったネパール人たちが最近持ち帰った言葉なのではないかと私は推測する。カトマンドゥでは聞かず山村で聞いたのもマレーシアへの出稼ぎ者が多いからだろう。
     

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    クアラルンプルから成田への往復航空券

    以前は航空券は必ず旅行代理店で買っていたが、最近はネットで買う癖がついてしまった。

    クアラルンプルから成田への往復航空券(エコノミークラス)をネットで買う場合、10日ぐらい先(平日)出発で間2ヶ月くらいの往復航空券が、マレーシア航空なら4000リンギほど(1リンギ30円とか=今の正確なレートは知らない)。

    タイ航空なら、同じ日程、同じクラスで2360リンギほど。

    それにもかかわらず、私はタイ航空(TG)だけは決して使わないことにしている。

    タイ航空のひどさについて
    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/11/tg_9262.html

    マレーシア航空で成田往復のe-ticketを買った。
      

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    2008年10月 2日 (木)

    クアラルンプルでまた幼女(10歳くらいに見える)を連れた白人男を見る

    あまりに堂々としているので写真も撮らなかった。「正当な理由」があるのかもしれない。「正当な理由」を準備して堂々と振舞うことで白人は世界を制覇してきた。

    今日、クアラルンプルの中華街で、10歳くらいに見える幼女を連れた30歳くらいのバックパッカー風白人男を見た。10歳くらいに見えるというのは、もし日本人の女の子だったらそのくらいの年頃に見える、ということ。東南アジアの子だから12歳か13歳くらいかもしれない。

    どう見ても白人の子には見えないが、父親に似ないこともあるのでこの汚い白人男の子でないとは断定できない。かわいいアジアの女の子、どっちかといえば中国系の子に見えた。

    「正当な理由」はいろいろある。

    「養女(義理の母親もあり。カネで現地女を雇う)」「孤児と遊ぶボランティア」「少数民族の子供にただで英会話や勉強を教えてあげるありがたい白人青年ボランティア」「現地妻の連れ子(現地妻を雇うがそのオバサンが目的ではもちろんない)など。こちらにも書いておいた。
    http://kuantan.aboutme.jp/user_statuses/show/82392

    白人の強みは情報、ネットワーク、「野蛮の地」における惜しみない相互扶助、重要なことにはカネを惜しまないこと、長いバカンスが取れる「生活の質」などである。これらの諸要素は、「正当な理由」付の児童買春・児童性的虐待遊びや「ガールフレンド」遊びにも有効である。

    「イスラム国家」マレーシアの首都クアラルンプルで幼女連れ白人を見たのはこれで2回目である。いずれも中華街。一回目はこれ。
    http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-116.html
    http://journal-ibrahim.blogspot.com/2007/03/kl.html

      

    なお、タイの幼女連れ白人の実例はこれ。
    http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/crime.html
      

    アジアの現地警察は(日本を含めて)、白人の性犯罪に関してはよほど目に余ることをやっていない限り手を出せないということにも注意すべきである。

    カンボジア警察はよくやっているほうだが、これは国連が作り出した「スワイパー村」での幼女買春(お客は国連関係者)が問題になった経緯があり、国連機関・国際警察機構が取締りの後押しをしているからである。

    タイ当局は「取り締まらないことによって問題がないことにする」政策を貫き、映画「闇の子供たち」をも弾圧している。
    「闇の子供たち」、タイで上映中止に=バンコク国際映画祭
    (私はこの映画を見ていないし原作も呼んでいないので、その内容についてはここで評価することはしないが)。

    実際、タイの田舎を回ってみれば、不自然な3人家族を見かけることは珍しくないはずである。白人の「父親」とタイ人「妻」と12歳前後の「娘」が、会話も交わさず人目を忍ぶように、あまり人の来ないようなホテルに滞在し、転々としている。

    タイ北部の田舎でゲストハウスを経営していたあるアメリカ人は、そういうドイツ人の「父親」から宿泊の依頼を受けたが断ったと言っていた。しかし、このアメリカ人は「良心的」といえるか?

    「野蛮」の地では白人同士はやばいことでも遠慮なく頼むし、頼まれたほうもできるだけ力になろうとする。野蛮人の警察に通告したり恐喝したりはしないのである。

    タイなどで日本人同士足を引っ張り合うことばかりしている日本人は、白人のこの相互扶助精神を少しは見習ったほうがいいかもしれない。

    アジアの白人ツーリズムは異常である。中東から西では、これに類するような嫌なものは見なかった。ごくまれに土人売春婦連れの白人を見たくらい。
        

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