2004年12月タイ、イサーン周遊
2004年
【パノムルン遺跡・プラコンチャイ】
12月3日。
アランガーデンホテルをチェックアウト。アランチャプラテートのバスステーションからブリラム行きのバスに乗り、バンタコで降りる。途中、感じの悪いタイ警察がまたしつこくパスポートをチェックしてきた。ロンジをはいてアカ族のショルダーバッグを提げているからだろう。
バンタコでモトサイを雇い、パノムルン遺跡を見に行く。大きくはないがなかなか立派な神殿。中心にシヴァリンガがある。クメールのヒンドゥ神殿。そのままモトサイでプラコンチャイという町に行き、「プラコンチャイリゾート」というホテルの150Bの部屋にチェックイン。モトサイは250B。プラコンチャイリゾートの近くには何もない。マーケットまで数キロ。夕方ホテルのオーナーの自家用車でマーケットまで乗せてもらう。食べ物を買って持ち帰って庭で食べる。
【スーリン】
4日。午前9時ごろチェックアウト。ホテルのバンでバス停まで送ってもらう。スーリンに行くエアコンバスに乗る。1時間ちょっとでスーリンに着く。このあたりクメール系の顔も目立つが表情や振舞いはタイ的。クルンスリホテルの140Bの部屋にチェックイン。
午後バスに乗り、シーコーラプーム遺跡を見に行く。5分で見終わるようなもの。どこまでが本物でどこからが再建なのかわからない。
スーリンの町は、2年半ほど前に来たときにはうらぶれた感じの静かな町だったが、今は妙に活気がある明るい感じの町になっている。
【プラサート】
5日。午前11時ごろチェックアウト。バスステーションから立派なエアコンバスでプラサートに行く。プラサートはけっこう大きな町。バスステーションの近くのHotelとだけ表示のある旅社にチェックイン。150B。スーリンのクルンスリより清潔な感じ。
バスステーションからソンテウでカンボジアボーダーの方に向かう(カプチューン)。途中でモトサイに乗り換え、チョンチュムのボーダーへ。スタンプなしでタイを出るが、カンボジア側で300B要求される。オスマチOsmachというマーケット。掘立小屋の小さな集落がある。オスマチのマーケットでカフェを2杯飲む。カンボジアの味。コンデンスミルクをかき混ぜるまでは透明で舌がしびれる刺激。
プラサートのマーケットは閉まるのが早い。午後8時には半分くらい店じまいをしてしまう。バスターミナルとマーケットと役所だけの町。
6日。引き続き名もないホテル(旅社)に滞在。プラサート・ヒン・バンプルアンを見に行く。その近くに住んでいる人の世話になる。ところがいいところに、パタヤにファランのボーイフレンドがいるという若い女がやってきてぺらぺらとしゃべりまくりうんざり。雰囲気ぶち壊し。しょせんここはタイだと再確認。
バンプルアンからプラサートに戻ってバス停近くのマーケットをぶらぶらしていると、バンプルアンに行くソンテウにたまたま乗り合わせて少し話しをした姉妹の姉のほうに声をかけられた。ソンテウの中で教えた私の名前を覚えていたのに驚く。スーリンの自分の家に戻るところだというのでスーリンへついていく。スーリンで一緒にバーベキューを食べて帰ってくる。姉のほうが23歳でオームといい、妹は20歳でオーという。母親がクメールで父親がクイ族だという。クイ族はスーリンあたりに昔からいる象使いの部族。
今日会った人たちはみなクメール系だが、本人たちはタイ族のつもりらしい。家庭ではクメール語を話すが、それはただカンボジアが近いから話しているだけだといっている。しかし、たとえカンボジア国境近くに住んでいても、クメール系以外の人がクメール語を話すということはないだろう。
【シーサケット】
7日。10時半ごろ発ってスーリンに行き(プラサトからシーサケット行きは2本のみ)、スーリンでバスを乗りかえる。
スーリンのバス停近くのコーヒー屋台のおばさんに最後の挨拶。このおばさんは英語を話す。この人の話によれば、イサーンには(方言として)3つの言葉が存在するという。一つは、固有のイサーン語で、スーリンやブリラムなどで話される言葉。この言葉も標準タイ語とは外国語といっていいくらいに違う。第二は、ラオ語で、コーンケーンやウドンターニの方で話される。タイ語と同系の言葉。第三はクメール語で、クメール系の人たちが話し、タイ語とはまったく違う。
シーサケット行きの途中で降りてサカンペンヤイ遺跡を見る。これもどこまでオリジナルでどこからが補修かわからない。彫刻も新しそうで、クメール風の顔のものは風化している。バスを拾い、シーサケットへ。鉄道駅前で降りてサムロー(リクシャ)でThai Siam Thaiホテルへ。180Bの部屋にチェックイン。シーサケットはスーリンより小さいくらいの町だが、町の人の感じはスーリンよりとげとげしい。
【カンタララク・カオプラヴィハーン遺跡】
8日。シーサケットの町は感じが悪いのですぐに出る。何も面白いことのない町。ローカルコーヒーもない。バスステーションに行くと、ちょうどカンタララク行きのバスがあったのでそれに乗る。昼ごろカンタララクに着。バス停の向かいの飯屋のオヤジの車でカオプラヴィハーンに向かう。その前にホテルを見つけてもらう。300Bでファンの良い部屋にチェックイン。新しいこの辺でナンバーワンの宿だそうだ。英語看板はないが、First Service Roomというところ。カオプラヴィハーンの前でタイ側の公園事務所に200B払わされる。そのあとイミグレのようなところでパスポートのコピーをとらされ、カンボジア側の事務所でも200B払う。カンボジア領に近づくにつれて風景は荒れ野のようになってくる。耕地が少なく木がまばらに生えている。地雷危険の標識に囲まれた道を行く。神殿は毀れているがなかなか立派なもの。敷地に入るとキーンと耳がなるような感じのところ。行き止まりは絶壁で柵も何もない。曇りがちの天気で展望は良くなかった。最初からずっとついてくるカンボジア人の物売りの女の子がいた。「私たちはクメールであることに誇りを持つ」という意味の言葉がクメール語と英語で大きく掲げられていた。あれはなんて読むのと聞くと、クメール語で読んでくれた。
【ウボン・ラーチャターニ】
9日。10時ごろにFirst Service Roomをチェックアウト。カンタララクを出る。バスで2時間ぐらいでウボンに着く。バスターミナルは北の方。インフォメーションが親切にソンテウの番号を教えてくれる。すべて5バーツ。最初、トーキョーホテルを見るが部屋が狭いのでやめる。次に乗ったソンテウがワーリンまで行ってしまう。もう一度戻り、シーイサンNo.2の160バーツの部屋にチェックイン。ツインベッドで広い部屋。安旅社だが臭くなく静かそうな環境。
ウボンの国立博物館を見る。施設も展示も貧弱。職員は怠惰におしゃべり。ふざけた態度で応対している。見るべきものもあまりない。クメールの仏像も風化して顔がよくわからなくなっているものばかり。管理もずさんで、古い文字の刻まれた石板が直射日光にさらされている。館内にある年表などによれば、タイ(ラオ)族がこの地域に侵入したのは18世紀になってかららしい。それ以前数百年はクメール、その前はモン(ドヴァラヴァティ)が支配していたとなっている。
【ピブーンマンサハン】
10日。朝シーイサンホテルの近くの通りでソンテウを拾い、ワーリン市場へ行き、そこからローカルバスでピブーンマンサハンに向かう。ピブーンは小さな町だが、かなり大きなマーケットがある。サムローでホテルへ。Phiboonkitホテル。英語はまったく通じない。大きなツインルームで280バーツ。宿にバッグを置いて、チョーンメックに向かう。一時間以上かかる。タイ側イミグレーションでラオスのアライバルビザが取れるかどうか聞いてみると、取れるということだった。
ピブーンにもどり、コンチアム行きのトラックバスに乗る。橋のところから出る。1時間ぐらいでコンチアムに着。ゲストハウスが2軒ほどあり、薄汚いファランも見かけた。コンチアムに着いたのが午後5時ごろで、もう帰りのバスがなくなっていた。ファラン宿のババアは私を完全に無視しやがった。バス停前の強欲オヤジの白タクで300バーツ払ってピブーンに戻る。車で飛ばすとほんの30分の距離。
【パクセ】
11日。ピブーンキットをチェックアウト。ソンテウでチョーンメックへ。アライバルビザを取る。土曜日ということで、ビザを取るにもスタンプを押すにもいちいち賄賂を要求される。ビザで1ドル。スタンプで70バーツも。しかも一ドル50バーツというでたらめな計算で、ビザ代をバーツで払うと1500バーツだという(普通は一ドル40Bくらい)。パクセまでトラックバス。パクセのラオチャルンもサラチャンパもほとんど満室。タイ人団体客がはいっているらしい。ポンサヴァンという汚いゲストハウス(3ドル)に入る。このあたり、タイ側よりラオス側のほうが白人ツーリストが多い。
【チャンパサク】
12日。サヴァナケットに向かうバスに乗るが、12時ごろから4時ごろまでずっとパクセ周辺のバス停をのろのろまわっていてまともに走ってくれないので、うんざりしてバスを捨てる(2.5ドル)。トゥクトゥクを拾い、チャンパサクの手前の渡しまで500Bで行く。渡し舟ででメコンを渡り、チャンパサクのAnouxa(アヌサ)ゲストハウスというところにチェックイン。5ドルでホットシャワー付の部屋。こんなところにもやっぱり毛唐がアジア女連れで来ている。
パクセは寒いが、チャンパサクは暖かい。パクセの夜はほんとうに寒い。
【ウボン・ラーチャターニ】
13日。10時ごろアヌサをチェックアウト。チャンパサクを出る。パクセでソンテウ(ピックアップトラックバス)を乗りかえて、ヴァンタオ(チョーンメック)まで行き、タイに入る。
ラオスのトラックバスのうしろにぶら下がって車掌をしていたラオス人の若い女の子とタイ国境前の食堂で食事をする。いい女だった。ラオスのトラックバスはタイのソンテウとは違い、車掌がうしろにぶら下がって乗客の世話をする。ピブンマンサハンでソンテウを乗りかえウボンラーチャターニーへ。シーイサン2にチェックイン。160B。
【ムクダハン】
14日。シーイサンをチェックアウト。ウボン工業技術大前のバス停から立派なバスに乗り、アムナートチャルンに向かう。アムナートがあまりに小さな町で何もなさそうだったので、そのままムクダハンへ。ウボンから3時間でムクダハン着。バントムカセム(Banthom Kasem)ホテルにチェックイン。英語看板はない。150B。
ラオスのパクセは寒かったが、ウボンは暖かかった。北へ向かったが、ムクダハンも暖かい。ムクダハンは川湊のある小さな町で、マーケットもさほど活気があるわけではない。ファランはときどき見かける。ラオスから入ってくるやつや、タイ女を連れたやつ。
町の人はウボンやシーサケットに比べて穏やかな感じがする。
15日。バントムカセムの居心地がいいのでもう一泊した。宿の人の感じが良い。同じ150Bでホットシャワーのあるいい部屋に変えてくれた。ムクダハンは小さな町だがケーキ屋がいくつかあり味もいい。ファランが少ないのが何よりいい。バントムカセムは英語表示のない商人宿で静か。商人宿だが旅社の雰囲気はない。床も板張りで外人向けのゲストハウスみたい
だがファランは見ない。ムクダハンは衣料品などの市場が充実していて、ウボンなどよりずっと品揃えが豊富。昨日米軍の迷彩シャツを買った。人は少ないのに、品数は充実している。
【ナコーンパノム】
16日。バントムカセムをチェックアウト。タートパノムへ行くがまともな旅社もない。流水のないようなところだけ(溜め水)。泊ろうかと思ったが、蚊の多さに閉口し、ソンテウでナコーンパノムに向かう。ファーストホテルにチェックイン。160B。近所が一晩中うるさい。
パノムというのはプノンペンのプノムと同じで、クメール語で丘という意味だそうだ。地元の人はパノムよりプノムに近い発音をする。
【ウドンターニー】
17日。サコンナコンに向けて出発。サコンナコンに着いたのがまだ11時ごろだったので、ウドンターニまで行くことにする。2時半ごろウドンに着。バス停前のSri Trakarnという安旅社にチェックイン。140B。ぼろいがそんなに汚くはない。ウドンはかなりの大都会で、ロビンソンデパートもあり、女連れのファランが目立つ。タイマッサージ屋も多い。
【アランヤプラテート】
18日。9時ごろバスでウドンを出て、コーンケーンへ。コーンケーンで降りてから、急にアランヤプラテートに行きたくなり、コラート(ナコンラチャーシーマ)行きに乗る。コラートで乗りかえ、アランヤプラテートに向かうが、アランヤプラテートだと思って降りたのがカビンブリだった。5時ごろ。運転手に聞いて降りたが、でたらめにそうだと言っていたようだ。結局、乗りかえてアランヤプラテートまで行く。50Bの損。アランガーデン2は満室で、アランガーデン1の道側のうるさい部屋。200B。
19日。アランガーデン2の300Bの部屋に移る。道側だが交通量も多くなくわりと静かで安眠できる。ファランも少ない。高いからだろう。
【ポイペト】
20日。ポイペトに出る。タイのイミグレにずいぶん時間がかかる。カジノ目当ての異様な雰囲気の白人団体が並んでいた。ドイツ人のようだったが、ふつうのツーリストと雰囲気が違う。顔立ちからしてなにか異様。ガタイが大きく、肌が荒れていて、みな無表情で黙っている。東ドイツの農民という印象。農協のカジノツアーなのかも知れない。ほかにはフィリピン人も多い。
ロータリーのロンセンリLong Seng Lyゲストハウスの一階の窓のない部屋にチェックイン。200B。天井は高く換気扇があるのでさほど閉塞感はない。
21日。ロンセンリに連泊。
23日。毎日ドリアンを食べる。シーズンではないと思うが甘い。窓のない部屋の居心地もまあまあ。
ポイペトは悪くない。ネットカフェもある。
25日。下痢で寝込む。熱もある。ドリアンの食いすぎと思われる。
26日。インド洋津波。部屋のテレビで知る。
注:インド洋津波に関する報道は偏っていた。多くのタイ人売春婦や「レンタルワイフ」が犠牲になったはずだが、そのことはまったく報じられない。白人の死や行方不明のみが報じられる。スウェーデン人少年が病院から行方不明になったことで欧米メディアは大騒ぎし、kidnapされた疑いもあるなどと連日報じていたが、ローカルが何人不明になっているかにはまるで無関心だった。伝え聞くところによれば、タイ人救助隊による救助の場面においてさえ、ツーリスト(=白人)が最優先され、アジア人被害者は後回しにされていたという。
28日。ずっとロンセンリに沈没。毎日やることも同じ。ポイペトは空気が悪いほかは居心地が良い。毎晩、道に並ぶ屋台をうろつき、殻ごと焼いた卵を食べたり、ドリアンやジャックフルーツの入った濃厚なカンボジア風フルーツシェイクを飲んだりするのが楽しい。これは一口飲むと口の中が痒くなる。
【アランヤプラテート】
31日。ロンセンリをチェックアウト。タイに入国。入国カードに、タイでの滞在先としてバンコクのタイペイホテル(台北大旅社)とを書いたら、女のイミグレ官にこれはどこだとしつこく聞かれた。バンコクだというとバンコクのどこだというので、ヤワラーの近く7月ロータリーの近くだといっても要領を得ない。知らないようだった。
2005年
【ブリラム】
1月1日。アランガーデン2をチェックアウト。ブリラムに向かう。ブリラム行きと教えられたバスに乗るとまったく別方向のチャンタブリ方面行だった。途中でバスを乗りかえ、午後4時過ぎようやくブリラムに着く。2年半前に一度来たはずだがまったく覚えがない。リクシャで適当なホテルに行ってもらう。「タイホテル」という安旅社の220Bの部屋。
ブリラムは死んだような町だが、売春婦連れ白人が溜まっている大きなバービアがあり、タイホテルにも売春婦連れが入っている。
【ナコンラーチャシーマー(コラート)】
2日。タイホテルをチェックアウト。11時の汽車に乗る。鉄道駅が近かったので汽車に乗ったのがマチガイだった。三等しかなく、満席で立ち。しかも込み合っている車両を3分おきくらいに物売りが大きなバケツを提げて乗客を書き分けて通る。駅だけでなく、走行中も頻繁に売りに来る。何を考えているのか、タイ人の頭の中はわからない。ナコンラーチャシーマ駅で降り、旧市街のほうに歩く。チュムポルホテルにチェックイン。240B。
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