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2007年1月 3日 (水)

タイ王室の由緒

中西輝政著「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」(PHP新書)より引用。

 タイの現王朝はチャクリ王朝(バンコック王朝ともいう)といって、日本でいえば天明の頃、18世紀後半に誕生しています。ですから、二百数十年の歴史しかないわけです。その前は、いまバンコクの北にあるアユタヤというところのアユタヤ王朝で、こちらは400年近く続いています。いまのタイの王様もアユタヤの王様も中国の雲南省近辺からやってきた外来人による王朝であり、いまの王朝はという名の華僑の出身です。外からやってきた王様というわけです(ただし、そもそも現在のタイ国民の大半も過去400年~500年の間に中国南部の雲南省などからやってきたシャム族です)。歴史から何から、日本とは出自の異なる王国ではあります。

 それから面白いのが、タイの王様は商人の代表も努めるということです。主力産品であるお米を外国に売るための商業連盟をつくって、その連盟の代表者として対外貿易を差配する。日本でいえば江戸時代の「札差」の元締めが、200年ほど前に王に成り上がっただけ、といえば失礼ですが、それが事実です。たしかに「お米と王様」という関係だけは、ちょっと日本とも似ていますが。

 そういう違いはあるにしろ、タイの国王と日本の天皇に共通するのは、いずれも国民の尊敬が非常に篤いということです。 (163頁~164頁)

米だけじゃなくてオピウムの元締めもしていたんだが・・・・

この本の第三章「日本人にとっての天皇」は必読です。

(ja.wikipediaより)

チャクリー王朝

・・・・・・・ラーマ1世が即位したとき、他のアジアの王朝同様、当時の中国政府に建国の報告をした。その後中国から返ってきた答えは「シャム国(タイ国)の新しい王鄭華は、父タークシン王の意志と遺領を受け継ぐことを認める」となっていた。これは中国側の勘違いであるのか、チャックリー王朝側あるいは中国側の意図であるのかは分からないが、とにかく当時中国との貿易や華人勢力が台頭していた時期にあって非常に重要なことだった。この後も中国の公文書にはある時点までチャックリー王朝を鄭姓で記録している。

その後チャックリー王朝の中国への朝貢船は無税、無制限で荷物を輸出することが許され、チャクリー王朝は大いに利益を得た。

当時中国は急激な人口増加に食料生産が追いつかず、特に人口増加の激しかった華南では主に東南アジアにむけて多くの中国人が流出し、タイにも、中国から多数の移民がやってきた。タイ語の言語構造は中国語とよく似ており、華人の定着が非常に進み、米精製から米輸出まで幅広く手がけ、食料供給に手を焼いていた中国へ輸出した。これはタイ国内に大きな利益をもたらし、タイ国内ではこうした華人の中で台頭してきた勢力が無視できない存在になっていた。そのため、歴代のチャクリー王はラーマ5世までを中心に、華人に対して官位を与え、優遇する動きをみせた。なかでもラーマ2世の正室の一人は、華人であり、その後の王もこの人の血を引いているため、タイは華人国家という側面が多少含まれている。

しかし、ラーマ6世の時点に状況は一転した。ラーマ5世の末期に起きた人頭税増税に反対する華人ゼネストにショックを受けたラーマ6世は華人東洋のジューユダヤ人への蔑称)と称し、しこたま儲けてさっさと帰る華人中国人はどこで生まれても中国人、などと活字上では激しく批判したが、一方で華人のタイ人への同化を奨励した。

この後のタイ華人の歴史については、タイの華人を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%8E%8B%E6%9C%9D

>人頭税増税に反対する華人ゼネストにショックを受けたラーマ6世は華人東洋のジューユダヤ人への蔑称)と称し

自らを当然白人の下位の存在として貶めへつらいつつ、白人世界の人種主義をそのまま学習し内面化してしまうという、タイ人独特の文化、タイ的白人至上主義・タイ的人種主義がよく表れていると思う。

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コメント

「タイの事典」には、ラーマ5世(キングモンクット)が「王家の祖先は、ナレースワン大王が戦勝時にビルマから連れて来た貴族の末裔であると語った」とされていました。雲南省でしょうか?ビルマでしょうか?

投稿: ONO | 2007年4月12日 (木) 00時49分

その「タイの事典」というのも知りませんが、タイ族が雲南省あたりから来ていることは確かでしょう。
王室にも実際はいろんな血が混じってるんだと思いますが。

しかし、もしタイ王室にビルマ人の血が混じっているなんてことになったら、やばくないですか?

タイ人のビルマに対する差別意識+怨念は相当なものみたいです(坊さんは別でしょうが)。ミャンマー人がバンコクの空港イミグレを無事に通過することは難しいと聞いています。日本からのトランジットでさえタイ役人に現金を要求されたビルマ人に会ったことがあります。

一方、王室にモンMonの血が流れているなんてうわさはありますよね。Monはバンコクあたり(ビルマからタイ中部にかけて)の先住民だから、これはむしろ多少混じってたほうが純粋雲南よりは収まりがいいかもしれません。だから、そのビルマからつれてきたというのはモンのことなのでは?

でもタイ人は「自分たちはもともと中国から来た」と強調して自慢するし、タイヤイやタイルを尊敬(または憧憬)していると聞きました。色が白いからかもしれませんが。

「われわれタイ人はもともと中国から来た」という自慢話を何度聞いたことか。

それを強調する裏には、「自分たちはモンやクメールやマレーみたいな色黒の土人とは違うんだ」、という含みがあるようで嫌味でした。

「中国人」ブランドなら日本人より上にもなりうるわけです。

投稿: Kuantan | 2007年4月12日 (木) 03時05分

現王朝は臣下の乗っ取りから始まったみたいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%8E%8B%E6%9C%9D

チャクリー王朝(-おうちょう)は、1782年(タイ仏歴2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ9世を含めて、9代の歴王が名を連ねる。

トンブリー王朝がアユタヤー王朝を占領したビルマに取って代わりタイを掌握すると各地に軍閥のような勢力が力を付けてきた。ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック(後のラーマ1世)もそのような中の一人であった。トンブリー王・タークシンはその圧倒的なカリスマ性と軍事力で何とかタイ全国を維持していた。しかし、タークシン王は晩年、精神に異常をきたして、そのカリスマ性にかげりが見え始める。その中で、官吏のプラヤー・サンがタークシン王を寺に幽閉し、自分が摂政に就いた。これはソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックがカンボジアの遠征に行っている途中であった。プラヤー・サンカブリーはついでに王位もねらったが、急報を受けて戻ったソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックによって摂政から降ろされた。

ラーマ1世はトンブリー王朝下でも破格の出世を遂げ、タイ史を通して滅多に与えられることのなかったソムデットチャオプラヤー(一位)の位を受けた。そのカリスマ性はタークシンに負けず劣らずで、プラヤー・サンカブリーによる反乱軍を制した後、官吏らに推挙され王位に就いたとされる。ここにチャクリー王朝は成立した。

この王朝の体制は絶対王政であるとされるが、しかし、まだ中央集権国家ではなかったため、実際に「王の威光」が及んでいる地域はバンコクとその周辺地域のみだった。地方政治は中央に忠誠を誓う地方の豪族・あるいは中央の派遣知事に任せられ、その行政は実質野放し状態であった。

ラーマ2世、ラーマ3世は詩人であり、ラーマ4世(モンクット王)は仏教改革者あるいは西洋に門戸を開いたという功績がある。この時代王一人が何十人もの妻を持ち、何十人もの子供を持つと言うことが行われていたため、王族の数が多くなり、権力が分散されていってしまった。中央政府では王侯貴族の権力が強く、戦時中以外は王の権力が一般に弱かった。王の特権は富と文化の中心であることだけだった。特にこの時代、ブンナーク家が王族との婚姻により大きな力を付け、本来王が行うはずの王の承認まで口出しするようになった

ラーマ5世(チュラーロンコーン大王)は王の力を強めるため、チャクリー改革を行った。チャクリー改革はここでは詳しくはふれないが要は近代化政策のことである。西洋を手本に国内の交通・通信を整え、中央政権支配の基礎を整えた。この時代、ラオス・カンボジアと南部の一部をそれぞれフランス・イギリスに取られていた。残った領土を死守するため、タイを中央集権国家にすることを決め、各地の王を廃止し、各県を中央政府の支配下に置いた。一方、中央にはびこっていたブンナーク家のたぐいは奴隷解放などの政策により財力を失い、官僚制導入によって、ほぼ行政的な意味での支配力を失った。ラーマ5世は自ら王=文武官吏の長となって、ほぼ完全な貴族政治から離れた絶対王政を実現した。

(中略)

その後のチャクリー王朝の王は単なる傀儡として扱われた。ラーマ8世時にはその権威は完全に失墜し、戦時中には、日本の友好象徴として祭り上げられた。その後ラーマ8世は戦後、謎の変死を遂げるが、あくまでも暗殺説を唱える人は、日本との友好的な印象が敗戦後にはマイナスに作用したため殺されたと主張する人もいる(この記述はタイでは違法)

その後現タイ国王ラーマ9世には憲法の枠内での立憲君主として大きく国家元首としての地位の回復をした。

タイの華人と王朝

ラーマ1世が即位したとき、他のアジアの王朝同様、当時の中国政府清に建国の報告をした。その後中国から返ってきた答えは「シャム国(タイ国)の新しい王鄭華は、父タークシン王の意志と遺領を受け継ぐことを認める」となっていた。これは・・・・とにかく当時中国との貿易や華人勢力が台頭していた時期にあって非常に重要なことだった。この後も中国の公文書にはある時点までチャックリー王朝を鄭姓で記録している。

その後チャックリー王朝の中国への朝貢船は無税、無制限で荷物を輸出することが許され、チャクリー王朝は大いに利益を得た。

ラーマ8世

この顔はやっぱり中国系では?
辻政信が暗殺したなんていってる毛唐がいる。悪いことは何でも日本人のせい。
つまりは現国王自体、かなりいかがわしい背景で即位しているということ。まあネパールのギャネンドラみたいなものだね。
そして現国王即位の原点が、戦後の反日・媚白人だってことだと思う。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E8%E4%B8%96

ラーマ8世(Rama VIII、1925年9月20日 - 1946年6月9日)は本名をアーナンタ・マヒドン王という。外国ではアーナンタ王、マヒドン王とも呼ばれる。タイの現王朝のチャクリー王朝の8代目の王。

ラーマ5世の孫で、ラーマ7世の甥に当たる。1925年(タイ仏暦2468年)ドイツのハイデルベルクで生まれた。

1928年(同2471年)年に初めてタイに帰ってきた。翌年に父親が亡くなると、兄弟三人でスイスのローザンヌで修学した。1934年(同2477年)ラーマ7世が退位するとタイの国会の決定で即位したが、すぐにスイスに帰り学業を続けた。

1945年(同2488年)に学業を終えると帰国する。しかし翌年には「事故」で崩御した。

ボーロマピマーン宮殿で銃声がしたので駆けつけてみると、ラーマ8世は死んでいた、といわれる。そのまま銃の暴発事故で片づけられそうになったが、警察が検死結果を元に他殺説を示唆した。ラーマ8世死亡事件捜査本部が設置されたものの結局それ以上の捜査は続けられず、責任をとって内閣は総辞職し、数人の王室関係者が処刑されたが、真相は未だもって不明である。

不敬罪に抵触する可能性があるので、タイではこの問題に深入りすることが今なおタブーとなっている。

後にこの事件に関してラーマ9世の協力の下で調査した小説家でジャーナリストでもあるウィリアム・スティーブンソンはその著作・革命の王(原題:The Revolutionary King)で証拠を提示し、旧日本軍の参謀・辻政信による犯行の可能性が高いと示唆した。しかしながら辻政信の記録、『潜行三千里』によれば辻は1945年にタイを脱出しており、1949年6月9日は中国にいた[1]ことから、わざわざバンコクまで戻りラーマ8世を暗殺するのは不自然であるともいえる。


パタニ王国の歴史も平行してみると面白そうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%90%9B%E4%B8%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E3.83.91.E3.82.BF.E3.83.8B.E7.8E.8B.E5.9B.BD.EF.BC.88.E3.83.9E.E3.83.AC.E3.83.BC.E4.BA.BA.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E7.8E.8B.E6.9C.9D.EF.BC.89

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%B3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%8B%E7%8E%8B%E5%9B%BD

このパタニ王国は現在マレー王朝のなかで一番古いイスラム王国であると考えられている。

これはマレー半島に限定した場合だと思う。イスラム教の伝播はスマトラが一番初めだし、マレーの起源もスマトラ。マレーシアのヌグリ・スンビランの王族はスマトラのパダンの辺から来たという(9人兄弟で来て割拠したからスンビランなんだとか)。

もっともタイの学者は、シュリービジャヤ王国(東南アジア最古の文明)はスマトラでなく、現在のタイ領内にあったと主張しているらしい。
ほとんど「ウリナラ最高」の半島クオリティ。

シュリービジャヤはスマトラのいまのパレンバンを中心に栄えたというのが通説。

(おまけ)

タイ王国 歴史 第二次世界大戦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD

むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが黙認し、一方で日本に対しては「自由タイ」などないかのように振る舞っていた。

しかし、1944年頃より日本の敗色が濃くなるとプリーディーが「自由タイ」を指揮するなど急速に連合国との関係を強め、1945年8月に日本が連合国に対して敗北すると、プリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた上に、国際連合での敵国条項にその名を連ねることも無かった。


投稿: Kuantan | 2007年4月12日 (木) 15時04分

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