「日本人もやっている・・・」で黙らせる論法について
「日本人もやってるだろ。」
これは、いろいろな問題についての議論で日本人を一言で黙らせる合言葉であり、白人がらみの話では「白人コンプレックス」論に肩を並べるものである。「白人コンプレックス」論ほどではないが、外国人から日本人というよりも、日本人から日本人に対して投げつけられることが多い。
ここでは、「買春」あるいは「レンタルワイフ契約」の問題に関する次のエントリーの私のコメントを補足する。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/07/post_3d74.html
「日本人もやっているから白人を批判するな」というあなたのような人は多いが、それは何も批判するな、どちらも肯定せよということでもある。
「日本人もやっているだろ・・・」という論は、「白人はやっていもいいが(同じことを)日本人がやるのは罪である」という特殊な(?、案外特殊でもない?)立場に立つのでない限り、「どちらのやっていることも肯定する」「すべて肯定する」ということを意味することは、上のコメントで述べた通り。
しかし、この主張の本当の実際的な意味は、この言説によって誰が一番利益を受けることになるのかを考えてみればより明瞭になると思う。
ここで「利益」というのは積極的な利益である必要はなく、消極的なものでもよい。また物質的な利益でなくともよく、「道義的な優位性」も当然ここに含まれる。今日の世界では「道義」は実益をもたらす。
「日本人もやっている」という言説による利益とは、日本人以外の者が免罪される利益、あるいは、免罪されないまでも「世論の関心の焦点からはずされる」利益、罪が相対化される利益である。
双方肯定されたものは、すぐにでも双方否定される。しかし、「同じ割合で」という枠組みは崩されにくい。
つまりこの言説によって最も利益を受ける者は、日本人以外の者であって、質量ともに日本人など比較にならないほど圧倒的に「罪」を犯している者たち、もっともハデに、もっともひどく、もっとも多く、それをやっている者たちということになる。それは白人にほかならない。
そしてさらに、「日本人も・・・・」という言説は、彼ら(もっともハデに、ひどく、多くやっている者たち=白人)の「罪」、すなわち道義上の負い目を、「日本人」と半々の割合で分配することを意味する。
なぜなら、「あれもこれも」で形式的に2者を並立させるならば、それぞれの責任分担は2分の1ずつで均等になるのが論理的だからである。
この問題(タイなどでの買春、レンタルワイフ遊びの問題)に関してしばしば繰り返されるこの一見中立的で公平そうに見える言説「日本人もやってるだろ」には、こういう「悪意あるシステム」が潜んでいることはよく認識しておく必要があると思う。
しかし、それにもかかわらず、「日本人もやっているだろ」は日本人自身に受け入れられやすいらしく、現実に多くの日本人がそれを受け入れて納得しているように見えるのはなぜか。
それはおそらく、この言説が一見中立的に見えることに加えて、「現実」を変えるよりも「自分の物の見方」を変える方が、はるかに簡単で心労が少なくてすむという事情があるからだと思われる。
とくにタイなどに長期滞在している人や在住者にとってはこれは切実な問題である。どんな理屈を使ってでも目の前の現実を合理化するかあるいは見ないようにしていなければやっていられない。毎日目にしなければならない現実を「これはおかしい」「ひどいことだ」「こんなことはよくない」と思い続けるのは大変なストレスだからだ。
そういうわけでタイ愛好者、在住者、長期滞在者などは、「日本人も・・・・」という決まり文句をやがて本心から受け入れ、合理化し、さらには、そうまでして獲得した心の安定を守るために、却って積極的にその説を反復し、他人に対しても本気で主張するようになる。
白人愛好者、白人に囲まれた環境にいる日本人、白人と付き合わなければならない日本人、に関しても似たようなこといえると思う。
この決まり文句は日本人自身によって反復されることにより、やがてあたかもそれが議論の結論のようにみなされてまかり通るようになる。
このように、「日本人もやっている」という論法は、第一に、「悪意あるシステム」を仕込まれた虚偽であり、第二に、無意識的虚偽である。
考えられる選択は、
①「現実」を変える代わりに「自分の物の見方」を変えてしまう。
②「物の見方」を変えないで「現実」変える努力をし、現実に対する働きかけをする。
③たとえ「現実」が変わらず、あるいは変わりようがなくても、「自分の物の見方」は堅持する。
の三つであるように思われる。
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