a.ネパール

2008年6月 6日 (金)

ブログ終了のお知らせ

2005年7月開設以来3年になろうとしているこのブログ「日付のある紙片」ですが、このたび事情により終了することにしました。

このブログは一貫して匿名ブログとして運営してきましたが、匿名ブログ筆者としての人格の維持が困難になったからです。

ただし、閉鎖ではありません。コメントは受け付けています。もちろん承認したもののみ表示となります。

このブログは、ブログ所有者の個人的な事情や背景はなるべく書かず、筆者が経験したこと、感じ方、考え方、価値観などを出来る限り率直に表現し、実名や顔出しでは(主観的に)なかなか言えない微妙なこと(「人種差別」にまつわることなどはほとんどそうですが)も書いていく、という方針で運営してきました。しかし、そのような方針を継続させていくことが事情により困難になりました。

その事情というのは、一部で実在の筆者つまりブログ所有者である私が特定されたことです。

理解力があり信頼できる人になら特定されてもかまわないのですが、私にとって最悪の場所にいる、私の目には最低にくだらない部類の男に特定されてしまったからです。

その男というのが、私もよく訪れるアジアのツーリスト基地の、日本人の溜まり場になっているような店で接客業に従事している、たいへん口が軽く、なんでもぺらぺらとしゃべってくれる男であるため、アジア旅行記を軸としたこのブログをこれ以上匿名ブログとして継続していくことが主観的に困難になりました。

そういうわけでブログ「日付のある紙片」は終了することにしました。

この男が私に詰め寄った経緯については次の記事をご参照ください。

このブログは匿名ブログです
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/06/post_0c81.html

この男が私のブログをどうしたかったのかは分かりませんが、筆者を特定した後おそらく記事の訂正か差し止めを要求したかったのだろうと思います。

彼が問題にしていた記事は、(実に天下国家とはまるで無関係ですが)次の記事。

「ロータスレストラン」 タメル カトマンドゥ
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/04/post_a2fb.html

この記事の特に「カマル」について書いた箇所です。

つまりこの男が崇拝しているロータスレストランの日本人オーナー(サウジ)が溺愛するネパール人青年カマルについて私が書いた内容が気に入らない。それで義憤に駆られてか、記事を潰そうとしてきたということのようです。

カマル(日本人の耳には「コモロ」と聞こえるネパールではありふれた男の名前。「蓮」すなわちロータスを意味する)について補足しておくと、

ロータスレストラン近所に住むネパール人のなかにはカマルをひどく嫌っていて「たいへんな悪人」とこき下ろす人もいた。

一方、ロータスのサウジ(日本人オーナー)の評判は、カマルを嫌うネパール人にも良い。

私もカマルには良い印象は持っていない。陰険な雰囲気だからというだけでなく、サウジがいるときは卑屈にニコニコして丁寧に振舞うが、サウジがいないとさらに陰険かつ尊大な態度で投げやりな接客をするところが私は好きになれない。

私が書いたことはこの限りのことです。

「そうでない」と思う人は、そうでない、そう思わない、私は好きだ、と自分のブログにでも書けばよいのだと思います。

タメルの日本人の間ではこのロータスレストランの日本人サウジがたいへんな威光を放っていて、このサウジが養子のように育てて溺愛しているカマルの悪口だけは、誰も決して言えないという雰囲気があるらしい。

それで、このサウジを崇拝するあの小僧が紅衛兵よろしくシャシャリ出て匿名ブログ記事の取締りにまで手をつけようとしたようである。

しかし、接客業に従事していて「その世界」で名前も顔も売れている人に毀誉褒貶があるのはむしろ自然なことではないか。

ネット上であれこれ言われるのも覚悟すべきでしょう。

むしろ、接客業者の評判や接客の感想をインターネット上で自由に書けないということのほうがおかしいのではないか?

それ以上のことは民事または刑事の法律問題として処理するということにならざるをえないと思います。しかしそれは第三者が口を出すべきことではない。(民事についてはいうまでもない。日本法では名誉毀損罪や侮辱罪は親告罪、すなわち被害者の告訴がなければ問題にならない。信用毀損罪の場合は「虚偽の風説の流布」が要件になる)。
  

このブログを書いてきた者がどんな人間かどうしても知りたいという人は、カトマンドゥ、タメル地区にある“Cha Cha Cafe”(ちゃちゃかふぇ)に行って聞けば、何でもぺらぺらとしゃべってくれることでしょう。
 

「日付のある紙片」というブログ名は、いうまでもなくサルトルの小説「嘔吐」の冒頭にでてくる「日付のない紙片」をもじったもの。しかし、Kuantanはロカンタンをもじったというわけではないです。
  

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2008年6月 3日 (火)

“Cha Cha Cafe”(ちゃちゃかふぇ) カトマンドゥ

ロータスレストラン」と並び、カトマンドゥ・タメル地区で日本人が経営し、常駐している店のひとつ。

イタリアンスパゲッティを主体にしている店で、味はやや中途半端な感じもするが値段を考えるとまずまずといえる。

コーヒーの味はカトマンドゥレベルでいえばかなり良い。「ロータス」はもちろん近頃の「ちくさ」よりも良いと思う。

ネパール人従業員の態度や仕事ぶりは「ロータス」の連中より良いように見える。

場所はロータスレストランが以前あったところ。つまり、「おふくろの味」(かつて「味のシルクロード」があったところ)のわきからジャータJyatha通りに抜ける横丁にある。この小路は便利な抜け道である。(いま「ロータス」はこの小路をジャータ通りに抜けた角にある)。
 

こういう場所ではやむをえないところもあるのだが、この店の問題もまずはそこに集まる「お客さん」であるようにみえる。

カトマンドゥ在住日本人、沈没日本人などの溜まり場になっていて、朝覗いても昼覗いても晩覗いても同じ日本人がカウンターにずっとへばりついているという光景を見ることがある。

常連は、JICAの日本人、日本語教師、そのほか長期滞在日本人ツーリスト、たとえば英語もネパール語も一言もしゃべれない日本では「土方」をやっているという沈没滞在者・・・・とか。

これだけ書くとおぞましいところだと思うかもしれないが、この程度をおぞましがっていてはアジアのツーリスト基地で生活することはできないかもしれない。

日本人同士仲良くすること自体が悪いことだというのではない。外国で日本人同士仲良くしていることを悪いことだともカッコ悪いことだとも私は思っていない。むしろ逆である。日本人は外国でも足を引っ張り合う傾向があるが、白人同士はアジアでは国籍を越えて助け合うことが多い。この点は白人を見習うべきだと思う。
 

それにしても、あの「土方」さんは超うざかった。

私はコーヒーが好きなのだが、本当にいつ覗いてもこの人がへばりついていて仕切っていた。「中卒」という感じの人で、実に内容のない話をどうしてそんなにしゃべれるのかと不思議になるような勢いでしゃべり続ける。日本人客を囲い込んでいる。

なんでも、嫁さんが中国人だとかで、ときに聞き飽きたような「反日」風発言を口走ったりもする。

体が大きく存在感がある分なおさらうざかったのだが、彼にとってみれば私みたいなのが一番ウザかったかもしれない。
 

こういう人が集まるのは、その店の日本人オーナーに「声の大きい人」に阿るようなところがあるからでもあるだろう。

どういう成り行きだったか今でもぴんとこないのだが、私は以前このかふぇのオーナーの「指図」でその「土方」さんに詫びを入れさせられたことがある。

小さいことだったが、ちょっと腑に落ちないところがあった。なぜオーナーが口を出す・・・ということである。

このオーナーはネパールで商売しているにもかかわらずネパール語はまったくできないらしく、ひとこともしゃべろうとしない。

ネパール人に対しても英語を好んで使うが、英語を話すとなると声まで変わり、人格が入れ替わったようなパフォーマンスを見せたがる、という典型的な日本人。

日本には英語を話すときは声が変わるのは当然だと思っている人もいるかもしれないが、そうでもない。

ネパール人、インド人は英語を話しても声が変わるということはない。マレーシアでは英語、中国語、マレー語を自在に操る人をたくさん見たが、みんな「自分の声」「自分の言葉」で自由自在に使い分けていた。

英語を話す段になるとまるで新劇俳優のようになってしまうのは、日本独特のNOVA的「英会話文化」ではないかと思われる。

   
ただ、この「場所」自体に、どこか良くないところがあるのかもしれない。

というのは、数年前「ロータス」がこの場所にあったときもやっぱり変な日本人客がへばりついていたからである。

カトマンドゥで「繊維の商売」をしてるとかいうタイヲタオヤジで、タイに批判的なこと‐といってもこのブログに書いているような重いことでなくもっと軽い断片的なこと‐をちょっと言うと、「タイのことは俺がいちばん知っている」という感じで猛烈に叩いてくる人だった。

ロータスがあそこにあった間、季節を問わずいつ通っても見かける人だったが、いまはどうしているだろうか。

オカルト的になるが、そういう人が集まりやすい土地(?、一角)というのがあるのかもしれない。
 

オーナーはまた、ここで日本のヤクザに絡まれたことがあるなんて話もしていた。

日本ネパール混血のヤクザに付きまとわれて命も危ないほどになったが、カトマンドゥの有力者のコネで収めたのだとか。

どこまで本当の話かわからないが、一見物柔らかで謙虚に見えるが下手(したて)に出ている者にはジリジリ態度がでかくなり、からみついて来るような粘っこい雰囲気のある人なので、ヤクザの恨みを買うこともあったのかもしれない。そういう人間と縁ができるかどうかは人によるのだろう。

一般的に言って、飲食店経営は簡単な仕事ではないと思う。日本ではちょっとした喫茶店を始めるのもたいへんなことである。採算はもちろん、客層も考慮して計画しなければならない。

ネパールには衛生基準もなく飲食店営業それ自体には何の規制もないので、ビジネスビザさえ取れれば素人の日本人でも簡単に始められるところがあるようだ。

そういう夢のある人には良いチャンスといえるが、落とし穴もあるかもしれない。 
 

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2008年6月 2日 (月)

ダランDharan ネパール

宿の夜番のバウン(ブラーマン、アーリア系)の男にダランのほうに行くと言ったら、ダランはネパール人の間では「女で有名」なんだと言っていた。

「女で有名」というのは風俗遊びがあるという意味ではなく、美女が多いことで有名という意味らしい。

私はもう何度かダランを訪れている。女性の着物はなるほど色鮮やかで美しいと思ったが、「美女が多い」という印象はなかったので、彼の言っていることの意味が良く分からなかった。

そこで彼に、どういう美人が多いのかと聞くと、「ライ族とか、日本人みたいな顔した女がきれいらしい」ということ。

それなら確かに日焼けした垢抜けない日本人みたいな女はいっぱいいたような・・・・。

東ネパールで日本人がよく似ていると言われるカーストはリンブー族だが、ライ族もリンブーと同系の民族で、一括してキラトと呼ばれている。(Kirantと書いてだいたいキラトと読む。なおラリグラスのローマ字表記はLaliguransh)。

アーリア系ネパール男にとっては「日本人女みたい」ということは美人と同義なのか?

キラトの容姿の特徴は、私には、顔が扁平で両目の間が間延びしたように広がっていることのように思われる。

ダランのバスパーク近くの美容院の看板 モデルはモンゴロイド系というより日本人モドキのような。昔郵便受けにいっぱい入っていたピンクチラシをちょっと思い出した。カトマンドゥなどの美容院の看板はインド人とも白人ともみえるアーリア系の女の写真または絵が多いと思う。

Imgp5657

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下)ダランの金持ち住宅街 グルカ兵などでお金持ちになった人が住んでいるという。

Imgp5684

ダランはネパールのファッションの発信地でもあるという。日本人のような女の子は日本風のファッションをしていることもある。たとえば、クルタスルワールの代わりにスパッツのようなパンツをはきその上にスカートをはくとか。

こっちのほうで見るアーリア系の女はきれいである。私にはそれのほうが魅力的だった。肌が黒く、輝いている感じ。山のアーリア系や白人のように険しい目でにらみつけたり蔑むような目つきをしたりもしない。リラックスした目で前だけ見ている。何か原始的な生命力が沸いてきているように見える。この人たちと比べるとモンゴロイド系民族はみんなどこか洗練されていて、文明によって作られた種族という印象を受ける。

マイティリまたはマデシと思われる女性たち、つまりタライ平原系の色黒アーリア人の女性には、私の目には文句なしの美人と見える人が少なくない。なぜか、どこか日本の美人女優のニュアンスがあると思った。日本で美人女優になる人には白人風というよりインド風味の人が多いのかもしれない。肌色は違うがこの人は確かに日本のテレビで見たことのある女優さんにどこか似ていると思うような人がいる。午後1時半ごろからフジテレビでやるヨロメキドラマで主役をはりそうな、名前はさほど売れていないが確かにキレイな女優という感じの人。

ダランは色気のある町だと思う。

もちろん風俗産業があるという意味ではない。セックス産業はない。外国人(白人)はほとんど見ない。ミッショナリーはかなり来ているはずだが白人はあまり見かけない。

大きすぎず小さすぎず、緑が豊かで町の色彩も豊か。標高が低いせいかベンガル地方に近いせいか、濃厚な空気を感じる町。地図を見るとここからバングラデシュは近くである。交通の便さえ良くなれば、カトマンドゥ、ポカラに次ぐツーリスト基地になる可能性があると思う。インドへのアクセスもカトマンドゥよりは良い。

タイのチェンマイにセックス以外にもツーリストをひきつける何かがあるとしたら、ダランは十分にツーリズム拠点になる条件を備えていると思う。

つまり、セックス目的以外でチェンマイに行く人間の大部分は、何かを見るためというよりも、チェンマイ自体を見てチェンマイに滞在すること自体を目的で行くのだろう。彼らはたぶんチェンマイにいると言うことだけに何か意味を見出そうとするのだと思う。

そのように考えてみると、ダランはチェンマイ以上にそういうタイプのツーリズムの条件を備えていると思う。

ダランは空気のやわらかいしっとりとした町で、宿さえ整っていれば落ち着けるところだと思う。インドに近い町にありがちなガサガサした埃っぽい空気はない。ダランの人間はもちろんチェンマイのようにスレきっていないししかめっ面もない。チェンマイよりははるかに「夢の中の東南アジア」という雰囲気の町である。

ダランの色気の源はベンガルに近い気候もあるだろうが、おそらく背景に控えているチューリア丘陵‐ヒマラヤに連なる美しい丘陵地帯‐から供給される生命力だと思う。あえてチェンマイと比べてみたのは、このあたりにある共通性と異質性とを探ってみようと思ったからである。

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このブログは匿名ブログです

匿名ブログの是非についての考え方はいろいろあるかと思いますが、このブログは開設以来3年近く一貫して「匿名ブログ」として運営しています。

つまり、実名や顔出しでは「主観的に」恥ずかしくて言えないような本音もたくさん盛り込んでいるということ。

私はここで論じているような内容を口に出して話すほうではないので(よほど信頼できて理解力のある人間になら別だが)、その意味ではこのブログは顔出しでは「恥ずかしい」内容がほとんどだとも言える。

しかし、だからといって表現する意味がまるでない内容だとも思わないので、こうして公表しているわけです。

したがって、「身近な読者」にお願いしたいことは、このブログの書き手、つまり「この私」が誰であるかということをあえて推知し特定しようとしないでいただきたいということです。

あえて推知し特定しようとしないでいただきたい、という意味は、具体的に言えば、たとえば仮に「この私」がネットカフェでこの管理画面と格闘しているところを見かけてこのブログの管理人が「この私」であることを知ることになったとしても、私をつかまえて「あなたがあのブログを書いているんですね」「あなたはこんなことを書いていましたね」「どうしてそんなことを書くんですか」などと言ったりしないでいただきたいということです。ヤクザじゃないんでしょうからね。

(そんな野暮なことをする人がいるのか、と思う人もいるでしょうが、実際いたんですね)。

これ以上のことを要求することは私には現実に不可能であるし、人の口を封じることができないこともわかっている。

しかし、単に「あの匿名ブログはあの人が書いている」と知られているということと、面と向かって「こう書いただろ」といわれることとでは、質的な違いがある。

繰り返して言うと、このブログはあくまで「匿名ブログ」として運営しているものです
 

この機会に匿名ブログに対するありうべき批判について少し考えておこうと思う。

まず、匿名ブログと「匿名掲示板」とは違う。匿名掲示板はそのとき限りの書き殴りが可能で、そのような書き込みが優勢になることが多いものである。

匿名ブログは、フィクションながら「ブログ人格」とでもいうべきものを設定した上で、その人格に同一性、継続性を持たせて運営しているものである。

さらに、「言論の責任」という観点から匿名ブログへの批判がありうる。

「法的な責任」について言えば、このブログの作成者はブログ提供会社であるニフティには完全に身元が知られているので問題にならない。これは有料ブログでもあり、毎月私の口座からお金が落ちるのである。

しかし、「言論活動に固有の社会的責任」ということになると、言論を評価する仕方についての考え方によって意見が分かれると思う。

言論を評価するときに、①その言論の内容(言っていること)自体を重視するのか②その言論を行っている人が誰であるか、その人の経歴や業績、社会的地位を重視するのかによって、「匿名ブログ」(というもの)の評価はまったく分かれることになると思う。

私の社会的地位や経歴を詮索しそれらを公表しろなどというコメントを書いてくる人は、明らかに後者を重視する人である。

日本の言論の風土はいまでも後者重視であるように思う。だからこそ逆に、日本では匿名ネットメディアが繁盛しているのでもあろう。

現実の日本人の社会において、このブログを作っている私がどういう経歴でどういう風体の人間かということを公表すれば、多くの野次馬の関心は私が論じている内容自体よりも私がどんな人間かの方に集中することになるだろう。

そしてこのブログのコメントも他での評判も、「私が『そういう人間だから』そんな考え方をするのだ」式の低次元の非難で埋め尽くされることになろう。

今でもこのブログを批判する人たちのコメントはほとんどそういうものばかりである。いちばんありふれた例を挙げれば、「お前がタイを批判するのはどうせタイ女に振られたからだろう」という類のつっこみである。

日本の環境には残念ながら、そういう低級で単純な言論のほうが力を持ちやすいところがあるようである。多くの人がそういう卑俗で「わかりやすい」理屈に迎合し、それ一色になる傾向があると思う。

だから、どんな人間がこんなブログを作っているかを少しでも公表すれば読者の関心はそちらに集中し、記事の内容自体に注意を払う者はほとんどいなくなるに違いない。

私自身は当然のように、言論はその思想内容自体によって評価されるべきである、と考えている。の立場に立つ。もしそうでなければ匿名ブログなどやらないだろう。

つまり、これを書いている「この私」が重要なのではなく、書いてある内容、事実と論理、が重要なのであり、それに注意してほしいと思って書いているのである。
 

いまさらこんなことをわざわざ書くのは、カトマンドゥ在住のある日本人との間で次のようなやりとりがあったからである。

男 (突然)「ちょっと聞きたいんですが、ブログもってますか」 (私はこれまでこの男にブログの話などしたことがないのだが・・・・)

私 「もってますよ」

男 (いきなり)「ロータスレストランについて何か書きました?」

私 「書いてません」

この男は「ロータスレストラン」の当事者でもないのだが、ロータスのオーナー(日本人)の心酔者らしく、私がロータスについて書いた記事が気に入らなかったようである。

下調べをして「この私」をほぼ特定したあと、紅衛兵よろしく「取り締まり」に出たもののようである。

私がブログで「ロータスレストラン」について書いている記事はおよそ次の3つ。

「ロータスレストラン」のカキ氷

「ロータスレストラン」 タメル カトマンドゥ

英語が得意な日本人

一般的に言って、飲食店の客がその店についての率直な感想をブログに書くことが悪いことだとは思われないので、これらの記事に問題があるとは私には思われない。

接客業に従事している(「その世界」でかなり有名な)個人にたいする個人的な感想を書くことも言論の自由に属するだろう。

「そう思わない」という人は、「そう思わない」という言論を展開すれば良いのである。

ただ、当事者からの直接の要求があり、その主張に合理性があると認められる場合には、記述内容について再検討することもありうる。

しかし当事者でもない第三者にあれこれ指図される理由はない。

この男‐白うるりのような小僧だが‐、人の噂を何でもよくしゃべってくれる人なので、その口に封をすることは不可能だろう。

ただ、カトマンドゥの日本人社会(どんなものか私は知らないが)のなかで何を言おうと勝手だが、私に面と向かって「あのブログはあなたが書いているんですね」「あなたはこんなことを書きましたね」・・・と詰め寄ってくるようなことはしないでもらいたいと思う。
 

どうせ誰が書いてるかわかってしまったんだからいいんじゃないか、って?

それでは、

「あなたの胸は大きいですね。サイズはいくつです。輪郭が見えてるんだからサイズを言ってもいいじゃないですか。ついでに出して見せなさい」

と言っているのとあまり変わらないように私には思われる。

このブログには顔出しでは決して(私は)言わないような微妙なことも書いているからである。
 

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2008年5月31日 (土)

峠から カトマンドゥ盆地

街道の峠からみたカトマンドゥ盆地。ここを越えると急に都会になり、あっという間に市内に入る。
カトマンドゥにいると田舎に行きたいと思うが、ここを越えて市内に入るときにはいつも懐かしいようなホッとしたようななんともいえない気持ちになる。いまは魅力の少ないろくでもない町になっているが・・・・。

Imgp5683

ここは重要な地点なので当然武装警察が配置されているが、いまはそれほど厳重ではない。

ちょっと前AFPの日本語訳者がKathmandu Valleyを「カトマンドゥの谷」なんて訳していたが、どう見てもこれは「谷」ではなくて「盆地」。
 

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ナラヤニ川 ナラヤンガート ネパール

ナラヤンガートNarayangarhは私の好きな町のひとつ。
広々としていて、活気があり、しかも人はそれほど多くない。
インド人も多く、インドの雰囲気もあると思うが、町は比較的きれいで殺伐とはしていない。
ネパールの辺境の町へ行くときには、カトマンドゥから長距離バスに乗るよりもここから乗ったほうが早くて安い「こともある」。

Imgp5686

ここはカトマンドゥからは4時間ほど。
遠い町に行くときには、デイバスでここまで行って一泊してから行ったほうが、カトマンドゥから直行するより楽でスムーズなことがあると思う。
たとえばジャナクプルへ行くとき、カトマンドゥから夜行バスに乗るよりも、ここに泊まって翌朝のデイバスでジャナクプルに向かうほうが、費用は多少高くなるとしても旅行としては快適。バンダBandhがあれば話は別。
カトマンドゥの出入りは峠を越えるので平野の道より遅くなると思う。
 

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ナラヤンガート、ジャナクプル、ダラン、バサンタプル、チョウキ

5月8日

カトマンドゥのナヤバスパークから午前10時40分発というバスでナラヤンガートNarayangarhに。バスは2時間ぐらいバスパーク近辺をうろうろ。午後4時過ぎナラヤンガート着。

プルチョークの「Royal Rest House」の半地下の部屋に泊まる。トイレ水シャワー付3ベッドの広い部屋で150ルピー。たまたまそこにいた男が「日本人が好き」で、安くしてくれた。

数年前に泊まった「フィッシュテイルゲストハウス」(英語看板なし)は、かつては道路側の部屋125ルピーだったが、いまは最低でも200ルピー。

ナラヤニ川の橋のたもとの数件のバラック屋台は立て替えられて残っていた。見覚えのある(ような気がした)おそらくチェトリのおばさんに話しかけると、よく覚えていてくれた。数年前に滞在したときこの屋台群によく通った。おばさんはそのとき私が食べたものも覚えていた。といってもチョウミンくらいしかないが。私がチヤを2杯注文したことなど。私はまったく覚えていない。

9日。

Royal Rest Houseの反対側からでる小さなローカルバスでビールガンジBirganjに向かう。たくさんのバスがある。5時間くらいバスに乗り、2時半ごろビールガンジ着。暑い。

ちょうどジャナクプルJanakpur行きのバスが見つかる。

以前はビールガンジに泊まったが今回は気が進まなかった。がさがさした国境の町のほこりっぽい感じが、かつては好きだったが、だんだん苦手になってきた。

午後7時過ぎジャナクプル着。もう暗い。ホテルが見当たらない。

「ゼロマイル」近くのRam Janaki Lodgeと書かれた宿に泊まる。シャワートイレ蚊帳付150ルピア。町を少し離れたところにあるので静か。同名の宿が市街地にもある。(人にRam Janaki Lodgeはどこと聞くと市街地のほうのを教えられる。この宿にリクシャで帰るときは「ゼロマイル」といわなければならない)。

この辺の人はひとことで言えば「インド人」。英語は通じないことが多い。油断できない感じで、しつこく迫ってくるが、白痴のようでもある。山で通じるネパール語が通じないこともある。

住民の多くはアーリア系だと思うが、色黒で顔つきもバウンやチェトリとは違う。もっと「野性的」。小さな女の子は本当にかわいい。炉全開で萌えまくりなかんじ。マイティリが多いらしい。

一応、ジャナキ・マンディールJanaki Mandirなどを見て回る。ジャナクプルは牛車が美しかった。牛が立派なのだが、ここで牛車をひいている白い牛はさらに立派で美しい。山の牛とは大きさも姿も違う。日本の昔の貴族が牛車を好んだのがわかる気がする。

10日。

バスパークで正午発ダランDharan行きのバスチケットを買う。200ルピー。乗ってみてわかったことだが、ダラン行きではなくビラトナガル行きだった。イタハリで乗り換えなければならない。

「マイティリ」は地元発音でもそう聞こえるが、私が「マイティリ」と言っても通じなかった。バスで隣り合わせた英語のできるマイティリの男によればMathiri(マティリ)が正しいのだというが・・・・。

バスはあちこちで人を乗せながらのろのろ進む。午後6時半ごろようやくイタハリ着。ダラン行きのバスは20ルピー。午後7時半近くダラン着。時計塔に近いNava Yugホテルの400ルピーもする水シャワーの部屋に入る。ダランは豊かな町だからか、ホテルが少ないからか、宿代が高い。それ以外はのんびりできる良い町。

11日。Nava Yugホテルに連泊。

12日。

午前9時のバスでダラン発。バサンタプルBasantapurに向かう。12時半ごろヒレ。その後も食事休憩をしたりしてのろのろ行き、午後2時ごろようやくバサンタプル着。Yakホテルに入る。

バサンタプルは相変わらず、寒い。といっても、もちろん3月ほどではない。

13日。バサンタプル近くの丘に登り、ジャングルに少し入ってみる。野いちごがいっぱい。

15日。

午前9時前にバサンタプルを出る。しつこくチョウキChaukiに向かう。4時間ほど歩いてチョウキ着。「ブルースカイロッジ」のいつもの部屋に入る。

16日。ブルースカイにうるさいネパール人がたくさん入ったので、名もないロッジに移る。ネパール人20ルピーの部屋だが50ルピー請求される。

こういう小さいカネで欲張って大きな魚を逃すのがネパール人。

食事はブルースカイで食べる。

かわいい女の子がいる家なのに、トイレがネパールの田舎の水準からみても格別に汚く臭く危険だった。扉はあるがカギはない。

トイレの扉がなくカーテンだけというところもある。中に人がいるのを確認する方法がない。気配だろうか。夜は明かりもなく真っ暗だから、ネパールの山村の人、特に女性は、夜はトイレに行かないようである。

それでもトイレがあるだけましなのかもしれない。いや、強烈に汚くて危険なトイレがあるよりは何もないほうがいいかもしれない。

18日。

バサンタプルに向かう。Yakホテル。

22日。

Yakホテルが繁盛しすぎているので、バサンタプルのバスターミナルに近い「アンナプルナホテル」(英語看板なし)に移る。150ルピア。鉄筋だが音はよく響く。

ネパール人は深夜まで騒いでいても、朝の4時ごろから起きだしてすぐにまたしゃべりだす。絶え間なくしゃべり、とつぜん歌を歌いだしたりする。

ネパール人の性格をひとことで言うなら、アホで田舎者。

アンナプルナホテルは従業員が朝の4時から起きだして階段で歌を歌っていた。

23日。

バサンタプルを出る。午前8時半ごろのバスでダランに向かう。午後2時ごろダラン着。高度差1500メートル以上の下げだが、バスがかかる時間は登りのときと同じ。
Nava Yugホテルは改修中で、良い部屋がなかった。中庭に向いた小さな薄暗い部屋が300ルピー。

ダランはいま非常に暑い。あいかわらず色鮮やかでしっとりした感じの町。

サリーを着て自転車をこぐモンゴロイド系のおばさんを見た。

24日。

午前10時のビールガンジ行きのバスでジャナクプルへの乗り換え地点であるダルケバールDhalkebarまで。3時半ごろDhalkebar。ここでローカルバスに乗り換え、4時半ごろジャナクプル。

前と同じRam・ジャナキ・ロッジ。

ジャナクプルはダランに比べても異質な土地という感じがする。バサンタプルと比べると外国に来たような気がする。多少イスラム色もある。

25日。

9時ごろRamジャナキロッジを出る。ナラヤンガートへ行くバスはバスパークとは別の停車場から。ナラヤンガートへの直行バスは11時から。ビールガンジ行きのバスに乗りパクラヤで乗り換えることにする。

隣の席にバックパックを乗せ2座席占領する白人女

12時半ごろパクラヤ着。1時過ぎのバスに乗り換える。

午後3時ごろヘトウダでバスが動かなくなる。バンダBandhのため。タイヤを燃やして道路を封鎖している。どういう種類のバンダなのか、どういう勢力がやっているのかはよくわからない。

そのバスはそのままビールガンジに戻り、乗客は歩いてバンダを越えて別のバスに乗り換えさせられる。

夕方になり、ナラヤンガートに20キロほどという地点でさらにバンダ。盗賊団のような連中がバスを襲っているらしい。棒を持った一団が乗っ取ったバスを乗り回し気勢を上げている。バスが通ろうとすれば同じようにガラスを割って乗っ取るぞと脅しているらしい。

武装警察の車両もどんどん到着するが、どうすることもできないようである。武装警察は一車両に銃一丁ほど。ククリも持っていない。杖のような細い木か竹の棒だけ。隣に座っていた学生に聞くと、彼らは「ノーパワー」だという。

バスのドライバーたちと学生たちとの抗争だと説明する人がいるが、棒を持っている連中はどう見ても「学生」にはみえない。地元のいろいろな種類のグループが「政治的」になっていて、何かあるとバンダを起こすように見える。

バスのドライバーたちは壊された窓ガラスの補償を要求しているらしいがもちろん「学生」たちは応じない。隣の男は警察がドライバーに金を払って治めることになるだろうという。武装警察が実力で排除することはないという。「それがわれわれのカルチャーだ」というが、以前は実力で排除していたはずだから最近のカルチャーなのだろう。

バスは4時間ぐらい足止めされていた。大部分の乗客はバスをあきらめ、歩いていくかリクシャに乗り換えた。タクシーはない。バイクやリクシャだけは通してもらえるらしい。夜のリクシャは危険だというので、数人の人たちと最後まで残っていた。

結局、バスは抜け道を行くことになる。ドライバーも道を良く知らない。聞きながら行く。抜け道もおそらくその地元の連中の封鎖を受けていて、バスは100ルピー払わなければならなかったという。コンダクターがどういう口実か25ルピー私に請求したが、断った。他の人も払わない。

午後11時近く、ナラヤンガートのバスターミナルらしきところに着く。そこから20分ぐらい夜道を歩きプルチョークのRoyal Rest Houseへ。ちょうどプルチョークまで行く人がいたのでよかった。道はまったくわからなかったし変なのもうろうろしていて声をかけてきたりする。

Royal Rest Houseの先日150ルピーで泊まれた部屋が250ルピー。安くしてくれた昼の人はおらず、夜遅い到着に付け込まれた。

ジャナクプルの宿で干していたTシャツを忘れてきた。本当にひどい一日だった。

5月26日。

10時ごろナラヤンガート発。

午後2時半ごろカトマンドゥ市域に入る。3時、ナヤバザール着。宿まで歩く。
 

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2008年5月30日 (金)

新500ルピー札 ネパール連邦共和国

5月28日に王制廃止が確定するずっと前から、国王写真のない新札は流通していた。いまはもうくしゃくしゃのもある。

右が故ビレンドラ元国王の旧札、左上がギャネンドラ、左下が人物の代わりにエベレストとラリグラス(赤い石楠花)をあしらった新紙幣。

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右系のブログなどを見ていると、「ネパールは共産主義国家」とか「中国の手先になった」とか、そんな書き方が目立つ。

しかし私は、ちょっと違うような気がする。

国王は王宮を追い出されるが、ギロチンにかけられるわけでも資産を没収されるわけでも国外に追放されるわけでもない。これからも大金持ちのビジネスマンとしてネパールで活動する予定。

マオイスト支持者やマオイスト活動家もたいてい商売には熱心で、私有財産制度を否定するような話はまったく聞かない。田舎でオルグ活動をしていたマオイスト活動家は「共産主義とはバランスということだ」なんて言っていた。

こういう国を共産主義国家とは言わないしこの王制廃止を共産主義革命とも言わないと思う。いまのところ、たんに共産党が与党の国ということ。

いちばん「共産主義者」らしいのはジャングルでコミューン生活しているマオイスト兵士たちだろう。兵士と町の党員活動家とはまったく違うものを見ているかもしれない。

中国や北朝鮮の工作員が自由に活動してる(だろう)ことはいままでも同じ。

これはタイなんかもっとひどいだろう。

インド人はいままでどおり自由に入ってきて商売している。インドルピーはカトマンドゥでも普通に通用する。国家高権のひとつである通貨高権がインドに事実上侵されているような状況は変わっていない。

そもそも、いまの中国が、「マオイスト」を掲げ社会的な公平にこだわる共産主義政党が近隣国で躍進することを本当に喜ぶかどうか。

中国共産党が外国の共産党を喜びブルジョワ政党を嫌うだろう、というのは、いかにも子供じみた連想のように思われる。

たとえば、日本の共産党が額面どおり「覇権主義」を批判して「日本民族の独立」を強く主張し、自民党がいままでどおりなあなあでシナにも白人にもいい顔をしているなら、中国は当然自民党を絶賛して共産党を糾弾するだろう。

また、共産主義組織というのはいつも、「ブルジョア政党」より、自分たちとちょっと意見を異にする他の共産主義組織をいちばん目の敵にするものである。

ネパールのマオイストと同系のマオイスト(毛沢東主義ゲリラ)は、ネパールよりもインドにたくさんいる。

いずれにしても、中国にとって都合がいいかどうか、中国の手先といえるかどうかは、中共による政治的コントロールが可能かどうかに尽きるのであって、共産党であるかブルジョワ政党であるかなどイデオロギーは関係がない。

ネパールのマオイストは、官僚組織よりも下からの武装した細胞組織が強いと思う。その意味でかなりイデオロギー性が強く、上から官僚的にコントロールしやすい組織ではないと思う。彼らのエネルギーの源は山村でありジャングルである。現在はプラチャンダのカリスマ性で統制を保っているが、プラチャンダと理論的指導者 であるバブラム・バタライとの確執、分裂騒ぎもあった。いまでもいつ分裂するかもわからないような組織だと思う。もし分裂したらゲリラはますます元気になりそうである。

インド、ネパールの農山村で進化を遂げた毛沢東主義のようなラジカルな共産主義思想が中国の農山村に逆輸入されるようなことになったら、いちばん困るのは中国共産党じゃないのか?

私は政治情勢の話題は苦手で勉強もしていないので、見当はずれであるかもしれないが、賢明な読者はどう思うだろうか。
 

それにしても、「クライン孝子」は本当に○ホ。だと感じるんですが。

この人「カタカナ○子」であること以上に何かあるの?

小池百合子が防衛庁長官になったときこれ以上ないくらいに絶賛してたかと思ったら、襤褸が出た後でしきりに叩きまくってたよね。あとづけで叩くなら誰だってできるじゃん。

こういう無定見な人が「右」を称しているのでは、「右」のほうが迷惑でしょう。

だいたい、毛唐とくっつくような日本女にそうそうマトモなのがいるはずもなく、ましてまともな愛国者や保守派でありうるはずがないわけで、こんな人に頼らなければならない日本の右派、保守派の状況は本当に情けないものだといわなければならないと思う。
 

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2008年5月29日 (木)

満員のローカルバスで2座席ひとりで占領する白人女 ネパール

5月25日、ジャナクプルJanakpurからビールガンジBirganjへむかうローカルバスで。

ジャナクプルでバスに乗り込むと、白人女が、二人がけのシートを占領し、横の席には大きなバックパックを座らせて悠然と座っていた。毛むくじゃらの赤犬のような汚い茶髪の女だった。

その時は席が空いていたので私は座れたが、バスはだんだん混んで来る。

ネパールのローカルバスは、数年前ほどではないが超満員になるのが普通で、腰掛けられるところならどんなところにでも腰掛ける、ちょっとでもあけさせて腰掛けさせるというのが基本。

チケットの釣り銭のやり取りで立ったときに、ちょっとこれは・・・とその女に注意してみたら、ヒキツケを起こしたように怒り出した。なるほど白人女らしい反応だと思った。

バスはさらに混んできて多くの人が立っている。

子供を抱えた女がそのバックパックの席に座ろうとしたが、白人女は断固拒否。

その次は、おばあさんがそのバックパックにもたれかかってきたがこれも完全に無視。

(なぜ私自身がそのおばあさんに自分の席を譲ってやらなかったのか、と突っ込むやつがいるかもしれないが、ここはそういう文化でもない。そのおばあさんを呼びに行っているあいだに、近くにいる若いインド人男に席を取られてすべて終わり、という可能性が高い。

しかし、人間とカバンでは価値が違う、ということ。人間はカバンよりもクジラよりも価値がある、ということが分からなくなっているのが多いから変な理屈がまかり通ることになる。)

ここまでやるからにはこの女は料金を二人分払っているのだろうか。

仮にそうだとしても、座席指定もないローカルバスでカネで席を買い占めるということに無理がある。

ただでさえ超満員になる、ローカル住民の生活のためのバスである。ローカル住民の生活に必要な空間をツーリストがカネで買い占めていいものかどうか。

しかしこの女の場合はたんに「白人の特権」で2座席占領していただけだろう。ネパール語は話せそうにないし、ガイドも連れていない。そんな分かりにくい交渉が出来たとは思われない。ビラトナガルかカカルビッタからネパールに入ってこのバスでビールガンジまで行き、カトマンドゥに行くかまたインドに戻る、というツーリストだろう。

たしかに、ローカルバスで隣のネパール人がうざいというのは分かる。すぐに眠ってもたれかかってくるし、ゲロを吐くこともある。最近はマナーが良くなってバスでタバコを吸うのを見なくなったが、噛みタバコのにおいはぷんぷんする。しかし、それがどうしても嫌なら、ローカルバスの旅など最初からしなければいいのである。

ローカルバスの車内に大きなバックパックを持ち込むこと自体、望ましくない。地元の人たちは、穀物の袋や段ボール箱に入った商品や生きた鶏などを車内に持ち込むが、それは彼らのルールに従ってやっていることである。自分のバックパックを大切に抱え込み、人に踏まれたり上に座られたり勝手に移動させられたりすると怒り出すような外国人ツーリストがまねすべきことではないと思う。

屋上に荷台があるので(たいてい番人も乗っている)そこに乗せるか、それが嫌なら、小さいカバンいくつかに分けて座席の上の棚や足元に置くか抱え込むのがいいと思う。

私は先日、買ったばかりのデイパックを足元に置いていたら隣の席の男が床にゲロを吐きぐちょぐちょに汚されるという悲惨なことがあったので、バスに乗るときは荷物を3つに分けて二つは上の棚にねじ込むことにした。

とにかく、私だったらどんな立派な理由があってもあの状況で席を二つ占領して座っているのは、隣の男のゲロに勝るとも劣らぬしんどいことだろうと思った。あの汚い髪の白人女のように平然として窓の外の風景など眺めながら楽しいバスの旅、というわけにはいかない。やはり他人の立場を考えてしまうという「日本的な」欠点があるのだろう。

この世界で生き残るためには少しは白人を見習って、どこまでも「自分の正しい論理」だけを貫き通して悠然と構えていられるようになったほうがいいのかもしれない。
 

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ネパール共和制宣言、国王に王宮退去期限を通知へ

今日(ネパール時間28日)はネパールにとって特別な日だった。

カトマンドゥはバンダBandhだった。マオイストの大きな赤旗を掲げたデモがジャータ通りを誇らしく通過していく。新聞売りが聞いたことのないような強烈な声で「ギャネンドラ・・・・」と叫んでいる。

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近頃ネパールの武装警察(Armed Police Force)はほとんど丸腰である。10人乗りの車両に銃が一丁とか。田舎ではブーツを履いていればいいほうで、サンダル履きの「武装警察」が並んで立ち小便していたりする。

バンダBandhはハタヨガのムーラバンダ、ウディアナバンダの「バンダ」と同じで、締める、閉じる、という意味。ストライキにもロックアウトにも使うようだが、街道封鎖のバンダが多い。

あちこちでいろんなバンダがあるが、(普通の警察は言うに及ばず)武装警察は手を出せない。さまざまな地元のグループ間の抗争によるバンダも多いが、武装警察はただ見守るだけか、話し合いの仲介をするくらいのようである。武装警察が当事者に(国の)金を払って収めたりもするという。軍隊は近頃さっぱり見かけない。

カトマンドゥの武装警察は盾だけは立派な透明のプラスチック製で、銃は持たず山仕事の人の杖のような棒だけ持っていることが多い。昨日シンハダルバール(政府官庁庁舎)の前を通ったが銃は見なかった。

だからといって治安が悪くなっている感じはない。

「武装警察」 トリデビマルグ付近で

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今の政治情勢を語るとき、ネパール人はみんな本当に明るい表情を見せる。

バサンタプルで世話になった(ネパール国民である)チベット人の女の子も、カトマンドゥのバウン(ブラーマン)の学生も、

「今日から新しいネパールだ」(制憲議会選挙でマオイストの勝利が確定した日にチベット人の女の子)、

「今日はネパールにとってビッグな日だった。僕たちが国王を辞めさせた」(今日、日本語を話すバウンの学生)

など、ナイーブなほど晴れ晴れしい表情でうれしそうに語る。本当に幸せそうな顔をする。ネパールくらいの小さな国だと、「政治的な幸福」がただちに自分の個人的な幸福の一環と感じられるのかもしれない。

田舎で出会った人でマオイストを支持しないという人は少なかった。カーストを問わず、モンゴロイド系だけでなくアーリア系も、マオバディが好きだ、マオイストを支持していると言う人が多い。ツーリスト向けのせりふなのか初めは「マオイストは嫌いだ」と言っていたのが、しばらく話をしたあとで自分はマオイストをサポートしていると言いだしたり・・・・。

ネパールにいるチベット人の関心はまずは金だが、私が田舎で出会った若いチベット人(亡命チベット人の子供)の多くがマオイストを支持していた。マオイスト活動家もいた。

日本人が期待するほどネパールのチベット人は中国を憎んでいてくれないし、共産主義政党が嫌いでもないようである。

中国にコントロールされているといわれるマオイストが権力を握ることによって自分達の生命や生活が危うくなるのではないか、という危惧は、私が会った限りのチベット人からは残念ながらまったく伝わってこない。むしろ逆だった。なお、ネパールにいる亡命2世以上のチベット人でチベット語がちゃんと話せるのはほとんどカトマンドゥのボーダに住んでいる人たちだけらしい。だから、ボーダの人たちはどうかわからない。

本当かどうか知らないが、マオイストは寡婦の生活支援など生活保障制度や保険制度なども作っているそうで「貧しい人にお金をやっている」という人が多い。

プラチャンダを支持する、プラチャンダに期待する、プラチャンダを信じている、という人が本当に多いようだ。プラチャンダの人望が厚いことは確かなようである。

ついさっき、カトマンドゥのニューバネスワール近くで爆弾が爆発したらしく、テレビはもっぱらそのニュースを放送していたが、死傷者はなかったようである。
 

ネパール王制廃止、国王に王宮退去期限を通知へ

2008年05月28日 21:52 発信地:カトマンズ/ネパール

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2008年5月28日 (水)

ネワール族3 ネパール

ネワールはカトマンドゥ盆地の「先住民」だが、先住民といっても、「ゴルカ王朝のアーリア人が侵入する前からカトマンドゥ盆地に住んでいた人々の総称」という程度の括りのようである。

ベースはモンゴロイド系らしくネワール語はビルマ語系ということだが、古くからインド人が来ていたので顔立ちや肌色はいろいろ。ネワール族固有のカースト制度はインドからブラーマンをわざわざ招いて真似して作ったのだとか。

シュレスタというカーストがいちばんありふれているが(おそらく商業カースト)、シュレスタの中にもいろんなカーストがあるのだという。バジラチャリヤ、カルマチャリヤ、シャキャ、などが祭司カーストだと聞いた。

モニタ・シュレスタ ダランDharanで。私はこの人はマイティリかマデシか、とにかくタライ平原のアーリア系の人かと思った。

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カリスマ・シュレスタ
ちゃん チョウキChuakiで。この記事の下の写真の女の子が化粧をとったところ。普通に言って、かわゆいですね。

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チョウキChaukiからヒマラヤを望む

4月19日

チョウキChaukiの丘から見えたヒマラヤ。この時期はほんのたまにしか見えません。赤いのはラリグラスの花。

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2008年5月23日 (金)

ダランのネット屋から

今日ようやくダランDharan。

バス停前の大きなネット屋で日本語IMEを入れてもらって久しぶりに自分のブログを見てみたら、ずいぶん荒れてますね。

荒れているのはタイネタの特定の記事ばかり。

タイがからむと必ずこうなる、タイを批判するときっとこういうのが集まってくる、ということがよくわかるコメントがいくつか来ているようなので、そのままにしておきます。

「悪い人間はどこでもいる」という在日中国人などがよく使う手垢のついたセリフの「虚偽性」については、このブログで何度も批判して来たんだが、こういうセリフを何の抵抗もなく使える人が多いらしい。このことのほうが「日本人の知能の低下」を象徴しているように私には思えます。

ブログの管理人あてに「自作自演だ」なんてコメントをしてくる人は、2ちゃんしかやったことのないような人ですね。

ブログが「自作自演」なのは当然。ブログは匿名掲示板ではないんです。このブログのコメントはどんなふうにでも編集できることをお忘れなく。

なお「赤ディンゴ」さんは、そのペンネームでブログを持っておられる方だと思いますが。

それにしても、「タイは素晴らしい国」なんてこんなサイトで真顔で言える人がまだいるということに驚き。タイの実態をよく知らない人向けのサイトで自演するならともかく。

上の写真のような光景が展開されているだけでも、それがどんな理由であれ、まともな神経を持った人間には「素晴らしい国」とはいえないと思いますけどね。

ネパールはタイよりずっと貧しい国、しかも可愛い子いっぱいだが、あんな光景はありえない(警察が取り締まらなくてもすぐに刃傷沙汰になる)、あの写真のような白人はあまり寄り付かない。

この違いは結局、それぞれの国民自身の選択だと思います。
 

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2008年5月 7日 (水)

妻殺害、ネパール国籍の夫逮捕 倶知安町 オーストラリア人観光客らに人気の「ひらふ地区」近く

いまほんの少しの間ネパールにいるだけで、それにどちらかといえば人目を避けたような生活をしているのだが、つい昨日ももうすぐネパール人と結婚するといって喜んでいる日本人女性と出会った。できちゃった婚なんだとか。

ネパール人だからといいたくはないし、中国人や韓国人やタイ人だったら良いわけでもまったくないが、文化の違いの深刻さということの覚悟もないままネパール人とホイホイくっついてしまう日本人女性が多すぎるように見える。

しかも、日本人女性が結婚したがるネパール男はバウン(ブラーマン)やチェトリ(クシャトリア)などアーリア系が多い。

容疑者の名前が出ているのでわかってしまうが、カーストはカミ(鍛冶屋カースト)。モンゴロイド系でもネワールでもない。シェアム・バハドゥール・カミという名前だと思う。

先日ネット屋でたまたま隣にいたバウンの男から、「ネパールに来る日本人女性の80パーセントが結婚目的だというのは本当か?」といきなり聞かれた。

何のためにそんなことを聞いてくるのかわからないが、他の外国人女性客が何人もいる場所だったこともあってとても恥ずかしい気持ちがした。

しかし反論できない現実もある。

男の不躾な態度にむかついたので、話を切り替えて「自分はバウンやチェトリは嫌いだ」と言ったら、そのバウンは「俺もグルンやタマンなどモンゴリアンは嫌いだ。そういうカーストの人間には友達もいないし話もしない」と言っていた。

そんなに「モンゴリアン」が嫌いならどうして日本人の私にわざわざ話しかけてくるのか、隣や向かいにいる欧米アーリア人に話相手になってもらえばいいだろう、と思ったが・・・・。
 

また、数年前にネパールで出会ったあるバウンの男は、もうすぐ日本人女と結婚して日本に行けるといって喜んでいたが、「彼女がなぜ俺を気に入っているのかまったくわからない」とも言っていた。冗談半分に「その鼻だろう」といってやると、このバウンはますますうれしそうな顔をして「そうらしい。この鼻が気に入っているらしい」と全肯定していた。
 

今いるネット屋のネパール人男(チェトリ)によれば、「日本人や韓国人は人を見る目がなく人をすぐに信用してだまされるが、アメリカ人は人を見る目があり賢い」のだという。もちろんこいつのいうこともあまり信用できない。アメリカ人といっているが要するに白人は賢いという感じである。自分たちと同じアーリア人だからと言いたいのかも知れない。

この男によれば、ネパール人が特別悪いのではなく悪いのもいれば良いのもいるのであり、悪いのを見抜けない日本人が馬鹿なのだということのようである。

「どの国にも良い人もいれば悪い人もいる。それは日本人も同じだろう」というのは全アジアで使われる聞き飽きた理屈だが、いまだに日本人相手の場面ではそんな屁理屈が立派な見識であるかのようにまかり通っているのは、そう言われるとなんとなく納得してしまう日本人が多いからだろう。

そんなことを言う程度の人間にわざわざ反論する必要もないが、そういう理屈をこねる人間とは付き合わない、利益を得させないということは重要だと思う。
  

<妻殺害>ネパール国籍の夫逮捕 不明の長女も? 倶知安町 5月6日21時32分配信 毎日新聞

5月6日21時32分配信 毎日新聞

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2008年5月 6日 (火)

中国がネパールの「宗主国」?

あるネトウヨブログを見ていたら、中国のチベット弾圧を批判するついでにネパールの中国従属的な姿勢を批判し、ネパールの「宗主国」が中国だなんて書いていた。

もちろん比喩だろうが、しかし、それはちょっと違うだろう。

「宗主国」の意味は「従属国に対して宗主権をもつ国家。」だそうで、宗主権とは「 他国の内政・外交などを支配・管理する権能。植民地などが独立する過程で、本国がその植民地に対してもつ例が多い。」ということ。

ただ比喩的に宗主国という場合には、要するに「ご主人様国家」、すなわち、その属国を政治的のみならず「文明的に」も支配し服属させている国家、ということだと思う。

つまり属国の国民に価値の尺度や思考様式まで与えて、精神的な支配従属関係を作り出している国ということだろう。歴史的文化的言語的に優位に立ち、内面まで支配できる関係がなければならない。

そうだとすると、ネパールは単にどんな強国にも楯突くことのできない小国ではあるが、「中国を宗主国と仰ぐ国」とはまったくいえないと思う。

現在比喩的に、中国が「宗主国」である国といえるのは、まずもってタイ、そして朝鮮半島諸国であって、ネパールはどんな意味でも「宗主国が中国」とはいえないと思う。
 

文明的な意味で、ネパールの「宗主国」といえるのは誰が見てもインドである。ネパール政府からもっとも特権を与えられている国もインドだろう。

中国人がネパールに入るには当然ビザが必要だがインド人は完全にフリーパス。パスポートさえ不要。インドのIDカードだけで自由に入国し働くこともできる。国境付近だけでなくカトマンドゥまで来て自由に働けるようだ。

ネパール人がカーストを問わず嫌っている国・国民も、インドでありインド人である。

そういうことの反動で、よく知らない中国に幻想を持つ人が多いことは確かなようである。

今度政権をとることになった(と思われる)マオイストの活動家にも、インドへの反感から中国に幻想を持っている者が多いと思う。

ただマオイストの指導層はアーリア系上級カーストが大部分で、体質的に言っても中国人の文明的な支配を受け入れるとは考えにくい。

たんに政治的に楯突くことができないというだけでは文明的な支配従属関係に入っているとはいえない。
 

ネパールはもちろんインドやアメリカにも楯突くことはできないが、いまはインドやアメリカ以上に中国が強く出て来ていて、しかもそのことをインドやアメリカが黙認しているから、中国の言いなりになっている、というだけだろう。

アメリカの意向が「中国の言いつけに従いなさい」ということらしいから中国に従っているのである。この関係は日本も同じはずである。

ネパール程度の関係で中国の従属国だというなら、今の日本などはすでに中国の完全な属国だといわなければならない。

日本はネパールに多額の援助をしてきているが、ネパールの内政に対する影響力などまったくないといって良い。このことも日本国自身の責任である。

ネパールはどんな強国にも楯突くことのできない小国だが、どんなにカネを出してもらっていても日本は軽くあしらうことができる国だという現実のほうをもう少し深刻に受け止めたほうがいいと思う。
 

中国のチベット弾圧を批判するネット右翼だが、彼らがもうひとつの重要な中華主義国家、東南アジアにおける中華(隠れ蓑)王国であるタイ王国の、さらに悪質な中華的少数民族弾圧を批判したことはまったくない。

彼ら右翼たちは、タイ族がシナ人の支族であることすら認めず、タイ国王が「氏」というシナ人であることも認めず、「タイは親日」幻想をふりまくのみである。ネトウヨはトヨタのお抱えなのだろうか。

右翼にとっては自由、人権、民主主義、少数民族の権利などはそもそもどうでもいいことなのだろう。

自分ではぜんぜん尊重していないそれらの理念を、3代前から信仰していたかのように振り回す姿は実に滑稽で醜悪といわなければならない。
 

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2008年5月 4日 (日)

「カーストは何?」 ネパール

グルビセの村で。写真の姉妹たちとの間に実際にあった会話。
 

女 「国(デス)はどこ?」

私 「ジャーパン」

女 「ジャト(カースト)は何?

私 「???・・・・ジャパニーズ!・・・・つーか、ビデシ(外人)はジャトはないの」

女 「ふんふん、ビデシはジャトはないのか」

女 「ボート(投票)は行った?」(4月10日に行われた制憲議会選挙の投票のこと。この写真を撮ったのはちょうど投票日の夕方だった。voteだがvというよりbまたはbhのような発音)

私 「???・・・・ビデシは投票には行かないの」

女 「?・・・・・」
 

他の場所で。 

ある女 「どの政党を支持してる?」

私 「???・・・・・カングレス!(ネパール会議派)」

私ついでに 「あなたはマオバディ?」

ある女 「いえいえ、私もコングレス」
 

ネパールは世界だ!

4月10日の投票はネパールの山の中でも一大行事になっていた。どんな寒村でも人が2,3人集まればその話ばかり。マオバディ、エマレ、カングレス・・・・。

もしかしたらネパールは、「民主制」といえるものを国民全体として今回初めて経験することになったのかもしれない。
 

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2008年5月 3日 (土)

小倉清子「ネパール王制解体」(NHKブックス)

タメルのある日本人経営レストランに誰が作ったのかこの本の「全部コピー」(違法)が置いてあったので、コーヒーを飲みながらざっと目を通した。

どちらかといえばマオイストにシンパシーを持っていると思われる著者だが、マオイストの原郷ともいうべき(特定の)山村地域への体当たり取材に基づいたレポートで、引き込まれる面白さがある。

「民衆」という手垢のついた言葉を無造作に使った副題からもわかるように、私には全体として「カースト」の観点が弱すぎるように感じられる。

しかし、マオイストの原動力となった「主体」は決して、単なる「民衆」や「抽象的に虐げられている貧困層」なのではなく、またその動因はどこにでもある「悪い権力」でもなく、ネパールの「特定の歴史」に基づくものだ、ということははっきりと描かれている。

すなわちマオイスト運動の原点は、モンゴロイド系マガル族という「特定のカースト」=民族の「ある山村」なのであり、彼らの闘いの根本の動機は、何をおいても数百年に及ぶアーリア人による侵略、支配収奪にほかならない。つまり彼らの闘いの原点はアーリア人侵略者とマガル族を中心とするモンゴロイド系諸民族との闘いだったのである。

ネパールの山村地方住民たちが共産主義思想を容易に受け入れた背景であるという、マガル族の伝統的な原始共産制的コミューンに関する著者の記述はあまりにナイーブで、美化されすぎていて、性悪説の私には受け入れがたい。

しかし、アーリア人のネパール侵入が、旅行ガイドブックが描くような牧歌的なものではなく、虐殺、強姦、略奪、奴隷化をともなう旧約聖書的な侵略のプロセスであったことも具体的に示唆される。また、モンゴロイド系カーストに文明がなかったのではなく、彼らの独自の歴史はアーリア人によって意図的に消し去られているのであり、現在も書かれることがないということ。

インドやヨーロッパにおいては神話時代にほぼ完了したと思われるアーリア人による侵略が、ネパールにおいてはほんの300年ほど前に行われた。

だから、歴史が消されたとはいえ、モンゴロイド系カーストの人々に語り継がれて伝えられ記憶に残っている事実も多い。

ネパールとアーリア人の歴史をたどることは「アーリア人」という種族の「悪性」を考える材料にもなると思う。

それはアーリア系の種族が、なぜ現在、世界支配の座についているのか、という問題をとく手がかりにもなると思う。

世界史は、普通の日本人の想像をはるかに超えて、民族皆殺し、輪姦、女奴隷狩り、民族丸ごと奴隷、民族丸ごと女奴隷、支配民族は村で見つけた良い女をその場でレイプOK・親兄弟は指をくわえてみてるだけ・誰も文句言えず、・・・・ということの連続だった。

そういう「自由競争」の舞台に参加する気力のないような民族は本当に消されてしまうか、女だけ残されて性奴隷にされるか、力のある種族がわざわざ来たがらないような山奥や離島に逃れるしかなかったのだろう。

数千年にわたる世界史のこのような血なまぐさい舞台でほぼ勝利を収め、現在、奇麗事支配の座についているのがアーリア人であり、その系統のコーカソイド、つまり白人である。
 

マガル族の原始共産制的コミューンにおいては、共同体の全構成員が農民であり労働者(といっても山仕事だが)であり、兵士であったという。アーリア人がヒンドゥ主義をもちこむまではマガルは牛肉も食べていた。

マオイストたちはもちろん宗教も来世も否定するが、「しっかりした思想があれば死は怖くない」というのだという。

これは洗脳だと思われるだろうが、長時間密室に閉じ込めて音楽を聞かせたりして洗脳するわけでもないようだ。

ネパールのモンゴロイド系カーストにとっては伝統的に死を恐れずに闘うことがモラルであったのであり、「グルカ兵」(この通称の由来はアーリア系の現王室=ゴルカ王朝だが)の戦闘力の中心も彼らモンゴロイド系諸民族出身者である。日本軍と闘ったイギリス軍・英印軍の主力でもあった。彼らは「デューティのため」に命を捨てることを惜しまない。

(なお英軍グルカ連隊は現在も存在し、ネパールで傭兵の募集もしている。難関でなかなか合格しないようだが、いまでも応募者・合格者の多くはモンゴロイド系のようだ。ミャンマーのネパール人のほとんどは日本軍に当てられたグルカ兵の子孫および男子のためにネパールから呼んだ同じカーストの嫁さん)。

そういう土壌がなければ、ただの「思想」だけでは、死を恐れず「国家」や「階級」のために戦うマオイスト兵士もなく、マオイストの勝利もなかっただろうと思われる。(日本以外の国のたいていの左翼は、「国」のために命を捧げて闘うというものである)。

マガル族のコミューンを原点としアーリア人侵略者=支配層との闘いを動力として急速に興隆したマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派;ネパールの共産党にはマオイストのほかにロイヤルコミュニストと呼ばれる王党派共産党などいろいろある)だが、現実には党官僚エリートの大部分をバウンやチェトリなどアーリア系知識層が占めているという矛盾にも触れている。

つまり、「しっかりした思想(=その中核にはモンゴロイド系山岳民族の原始共産制コミューンの懐かしい理想郷イメージがあり、また、アーリア人の横暴に対する積年の憎悪があるはずだ)があれば死も怖くない」と断言でき、現に戦い、現に命を落としていくジャナジャーティ(下位カースト)出身のマオイスト兵士たちと、彼らの上に立ち、銃弾の来ない安全なところで一般民衆に比べればはるかに良い生活をし、難しい理屈を言ったり勇ましい号令を出したりして素朴な民衆たちの崇敬を集め、子息をイギリスの一流大学に留学させたりしているバウン(ブラーマン)やチェトリ(クシャトリア)などアーリア系のマオイスト指導者たちとの矛盾である。

また、マオイストは近年になって、(毛沢東主義派という名にもかかわらず)中国共産党式の一党独裁を批判し(欧米世論にこびるような)複数政党主義、議会制民主主義などを打ち出しているということである。共産主義者でも全体主義者でもない者から見れば、それ自体結構なことといわざるをえない。しかし、「毛沢東主義」という看板を掲げながらの方針転換である。日共のような調子のよさ、党官僚の既得権温存のためなら何でもやるという姿勢の現われ、というように見えなくもない。

 

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2008年5月 1日 (木)

「ロータスレストラン」のカキ氷

うまくないぞ!
それに危ないかも。

そもそもネパール人にカキ氷なんか作らせることに無理がある。ネパール人に限らないが、日本でカキ氷を食べたことのない者に作らせるのは無理だろう。

一昨日ロータスで、「小倉+アイスクリーム」というのを食べた。

小倉もアイスクリームも合格だが(これらは日本人のサウジが作っているのだろう)、盛り付けがカキ氷になっていない。

まず氷が少ない。氷をケチっていてはカキ氷にならないだろう。氷は惜しみなく大盛りにしないと。

そしてシロップが氷にかかっていない。小倉とアイスクリームの上にちょっと何かかけてあるだけ。

因果関係を証明することはできないが、昨日から下痢だ。近頃めったなことで下痢などしないから、おそらくあれだと思う。

山村でもカトマンドゥでも、ドラム缶などに汲んだ「きれいな飲料水」を手桶でくみ出し、その手桶を土足で歩く土間に直に置いたりしている。水がめの蓋などを普通に地べたに置くが、逆さにして置くという配慮もない。きれいな面を地べたに置いてしまう。

しかしそういう生水を普通にごくごく飲んでも下痢などしない。

途上国ではだいたい食用の氷は汚い地面に直に置いて滑らせたりしているもの。そういう場面はマレーシアでもよく見た。表面を洗って溶かせば無問題という理屈らしい。

氷は水よりあたりやすいのだろう。細心の注意が必要なことをネパール人に任せるのはどうかと思う。

前記事:

「ロータスレストラン」 タメル カトマンドゥ 

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2008年4月29日 (火)

チャインプルChainpur ネパール

チャインプルChainpurはネパール東部サンクワサバ地区のネワール族の町。住民によれば、住民の99パーセントはネワールだという。

チャインプルの出入りには未舗装の車道はあるがバスはない。いちばん近いバスのある町(Mude)まで行くのにでこぼこ道を乗り合いランドローバーで3時間(地元の人も300ルピア)という苦行に耐えなければならない不便な場所にある。

ぎゅうぎゅう詰めのランドローバーではきっと吐く人が出る。ネパール人は乗り物酔いに弱いのである。それでも、ランドローバーは吐く人のために止まってくれるからバスよりはましかもしれない。バスの場合は隣の人が足元や膝の上に吐いてしまう場合がある。

MudeからバサンタプルBasantapurはローカルバスで1時間半ほど。

チャインプルからこの辺一の都会であるバサンタプルまで、ランドローバーとバスを乗り継いで(待ち時間を含み)約6時間はみなければならない。

それにもかかわらず、チャインプルは清潔で美しい豊かな町である。

町というより都市といったほうがぴったりする。人の出入りは少なくひっそりしているが、やっぱり都市である。

このような都市を作り出すのはネワールの「本能」のように思われる。

ネワールを10家族、日本の山の中の不便で何もないところに誘致して自由に住まわせたとしたら、たちまちそこにネワール都市を建設してしまうだろう。(もっとも地震で一瞬にして倒壊する可能性も高いが)。

なおチャインプル周辺を戦場とする、アーリア人(ゴルカ王朝)による「リンブー王国」侵略戦争の歴史については、http://en.wikipedia.org/wiki/Limbuwan_Gorkha_War。アーリア人の白人的卑劣さがだまし討ちなどに表れている。

チャインプルの町並み。

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ネパール東部丘陵地域の旅 その2

4月7日 カトマンドゥ発。夜行バスで、ヒレへ。

8日 ヒレ着。ヒレには泊まらず、バサンタプルに向かう。直行バスが見つからず、シドワで乗り換え。バサンタプル着。Yakホテルに泊まる。

10日 バサンタプル発。Yakホテルを出て、チョウキChaukiに向かう。グルビセでビニタの写真。パンチポカリでチェトリの子供たちの写真。チョウキ着。「ブルースカイ」ロッジに泊まる。3泊する。

13日 チョウキ発、グファポカリGufapokhariへ。グファポカリのYakホテルに泊まる。

グファポカリは周囲の環境は良いが村はごみごみとして汚い。チベット系が目立つ。ジョルポカリまでハイキング。アーリア系の男にジョルポカリへの道を聞いたら、完全に間違った道を教えてくれた。アーリア系の中でも底意地の悪そうな顔をしている男だった。

ミルケMilkeまで行ってみる。ジョルポカリからすぐ近く。標高3000メートルちょっとの丘。ミルケには家が一軒建っているだけで食堂などは何もない。その家も人が住んでいる感じではない。ミルケから先はロッジはもちろん店など何もないということ。

14日 グファポカリを出てチョウキに戻る。新年の祝い客たちでどのロッジも満室。フットボールのゲームが5日続く。
ポルジャタ(カトリ)の家の物置のような2階に泊めてもらう。他にネパール人二人と同室。

15日 チョウキを出てバサンタプルへ。ヤンジの家に泊まる。ヤンジの家に2泊。

17日 ヤンジの家を出てチョウキに向かったがデウラリまで来て気が変わり引き返す。Yakホテルに入る。服の洗濯と水浴び。

18日 バサンタプル、Yakホテルを出る。チョウキに向かう。チョウキ「ブルースカイ」泊。3泊。

20日 感じの悪いアーリア系がブルースカイにたくさん入ってきたので、ブルースカイの部屋を押さえたままで「ラリグラス」の屋根裏部屋に泊まる(50ルピアにしてもらった)。

21日 「ラリグラス」と「ブルースカイ」をチェックアウト。グファポカリへ。ジョルポカリまで荷物を持って行ってグファポカリに戻る。グファポカリ、Yakホテル泊。
ジョルポカリにはチベット人のロッジが一軒あるが、チベット婆のボリ根性があまりにあからさまなので泊まるのをやめた。

22日 グファポカリを出て、ヌンダキNundakiを経てチャインプルChainpurに向かう。10時間以上の行程。たいへんな苦行だった。ヌンダキまで1500メートルほどの高度差を一気に下げる。ヌンダキからの未舗装車道がまた長い。

チャインプルChainpurは隔離されたような交通不便な場所にあるが、整然とした豊かなネワール都市。農家がぽつんぽつんとあるだけの里山の中に忽然と現れる白い立体的な都市である。この辺りのほかの町や村では見かけない送金機関(ウェスタンユニオンやIME)のネオンサインがいくつもある。

看板もないロッジ(「ダイヤモンドホテル」)に泊まる。2泊。宿泊100ルピー、ダルバート(肉なし野菜なし、ダルスープと豆のタルカリのみ)45ルピーはまだよいが、ペプシ一本60ルピー(近所のHariホテルは冷えたペプシ50ルピー)。その上どんぶり勘定で多めに請求してくる。

24日 チャインプル発。ぎゅうぎゅうづめのランドローバーででこぼこ道をムデMudeまで3時間。当然吐く人も出る。ムデでローカルバスに乗り換え。1時間半ほどでデウラリ着。ムデから2時間かけてバサンタプル着。バサンタプル、Yakホテル泊。

25日 バサンタプルを出る。ダランへ。ダランから夜行バスでカトマンドゥへ。

26日 カトマンドゥ着。

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ラリグラスジュース チョウキChauki ネパール

ラリグラスジュースを作るチャンドラカラチョウキChaukiで。

チョウキ辺りは4月の半ばごろがラリグラスの最盛期だった。

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前記事「チェトリの少女 チョウキChauki ネパール」で「サンドラカラ」と書いたが、正しくはチャンドラカラだった。本人や周囲の人の発音がサンドラカラ(というより「ソンジョコラ」)に近かったのでそういう名前なのかと思ったが、都会帰りの人のが発音するのを聞いたら「チャンドラカラ」だった。

チャンドラカラはチェトリだが、「痛いから」という理由で鼻ピアスをしていない。親たちもそれを許しているようである。

ラリグラスジュース。妹のミトラカラ

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ラリグラスジュースはチョウキやパンチポカリのいろいろな家でそれぞれ作っていた。自分でラリグラスの花弁を取ってきて絞るだけ。味も家によってまちまち。自然に醗酵してアルコール分が2,3パーセントありそうなのもあった。醗酵の結果、自然発泡しているのもあった。味はややすっぱくて苦味がある。ちょっとワインのような味。そのままでは甘くないので、砂糖を入れている。グラス一杯15~20ルピー。

 

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仕事場のラクシミ バサンタプル ネパール

仕事場で。

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見合いでダランの人と結婚するらしい。

前記事:「ラクシミ
 

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リンブー族2 ネパール

ネパール東部を歩いていると、日本人はリンブーに似ているといわれることが多い。

ネパールではどんなにすごい田舎でも日本人を見たことのある人が多い。JICAやNGOやトレッカーなど、さまざまな日本人が訪れている。救世軍(サルベーションアーミー)の日本人が来るなどということもあるそうだ。
(アジアではよくあるパターンだが、開発から取り残されたネパール東部の山村は、キリスト教ミッショナリーの宗教的文化的収奪の格好のターゲットになる。リナはクリスチャンを毛嫌いしていた)。

リンブーの男たちは見るからに卑屈そうでしょぼくて風采が上がらない感じ。日本人もこういう風に見られているのかと思うとがっくりくる。

リンブー族のカースト的な地位は低い。ライ族より低いかもしれない。モンゴロイド系ではヒンドゥ教色の強いマガルやグルンが威張ってる感じがする。タマンは仏教色が強いが大カーストである。
 

たしかに、こんな感じの女の子は日本にもいそうである。

顔立ち以外にどこか似ているところがあるのを確かに感じる。他のモンゴロイド系カーストとは一味違う雰囲気があるように思う。

日本発祥と思われる「茶髪」はネパールの山村でも見かける。たいていはモンゴロイド系の女の子がしている。アーリア系の女の子は黒髪のままか全体をほんの少し赤っぽくするくらいでこういう茶髪にしているのは見なかった。

アムリタ・リンブー、15歳。グファポカリGufapokhari、スケバザールSukebazarで。ここは標高2900メートルくらい。

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関連記事:

リンブー族の人たち

ジリキムティJirikhimti
 

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ネワールの子供たち2 チョウキChauki ネパール

この子たちもネワール。カトマンドゥでネパール人にこの写真を見せたら、グルンだろうといっていた。
ネワールは他のカースト以上にいろんな顔立ち(顔の形)があるが、共通した何かを持っていると思う。特にカトマンドゥで見ると、それがはっきりと容姿にも現れているように見える。顔立ち自体はアーリア風であってもモンゴロイド風であっても、角が少なく柔和な感じの瓜実顔、どこか都会的で洗練された雰囲気、悪く言えば京都人みたいな閉じた都市住民のたたずまい・・・・という感じで、一見してネワールとわかることが多い。
ネワールの女性は鼻ピアスをしない。

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下の子は他の子たちにリンブーニ(リンブー族の女)とからかわれていたが、ネワール。

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関連記事:「ネワール族の人たち
 

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バウニ2 バウンの女性 ネパール

グファポカリGufapokhariで。

マヤ・ダハル、22歳。
ネパールのバウン(ブラーマン)の女性のひとつの典型のような顔立ち。はっきりいって、私にはこの人と見分けがつかない顔の人を、カトマンドゥでもどこでもいっぱい見かける。もちろんプライドは非常に高い。
ダハル姓にはバウン・ダハルとチェトリ・ダハルがあり、自分はバウンであってチェトリではないことを強調していた。バウンにもチェトリにもダハル姓があることはこの人に教えてもらった。
5歳と3歳の息子がいる。旦那もバウンだが、この5年間ずっとドバイに出稼ぎに行っている。もちろん3歳の子供ができたときにはネパールに帰っていたのだが。

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息子たち。

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関連記事:

バウンの女の子 カトマンドゥ
 

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2008年4月28日 (月)

チェトリの女の子2 ネパール

ネパール東部、グルビセGhurbiseで。

グルビセの村。

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ビニタ・ダハル、16歳。
「ダハル」という姓にはバウン・ダハルとチェトリ・ダハルがあるということ。この人はチェトリのダハルだという。(なお、プラチャンダ(プスカ・カマル・ダハル)はバウン)。
若いが髪の生え際に赤いのを入れているので既婚らしい。

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その場に3人いた姉妹たちの中で、容姿が白人風なのは彼女だけだった。姉たちは肌色ももっと黒くすこし東南アジア風の顔立ち。アジア風の容姿の姉たちは表情もアジア風だった。
ビニタは、英語その他外国語など一言も知らないし欧米を知っているわけでもないのに、なぜかちょっとした表情や目つきなども白人風に見える。つんとした表情やお高くとまったような感じ。それは他の姉たちには見られない。やはり遺伝的な情報の中にそういう要素まで含まれていて、ビニタの場合それが表に出てきているのかもしれないと思った。
しかし決して欧米人を意識しているわけではない。本人も姉たちも「彼女が欧米人に似ているからどうこう」という意識はまったく持っていないように見える。そんな話はまったく出なかった。
ちょっと話すとまったくネパール人そのものだった。立ち居振る舞いも村のネパール人そのもの。私がバウンみたいな顔だというと、彼女は少し困惑したような表情を浮かべた。どのカーストもそれぞれに強いアイデンティティの意識を持っているのだろう。
村の子供たちは私を見て「アメリカ人か」とか言っていた。

姉たちもビニタはきれいだというが、どういう風にきれいかというと、ムナに似ている、ということだった。彼女たちも当然のようにムナを知っていた。ムナはもちろんモンゴロイド系。どこがムナに似ているのかというと、頬が赤いところだという。

日本で、誰かがちょっと白人風だとか外人みたいだからどうだとか言っているのは視野の狭さを暴露するものにほかならず、卑屈で滑稽なものであることがわかると思う。

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インドでの遺伝的な調査によると、高いカーストのインド人ほど遺伝的に「現在の」東ヨーロッパの人に似ているということである。
しかし、だからといって、アーリア系のインド人が東ヨーロッパ方面から渡ってきたということにはならない。ちょっと考えればわかることだが、共通の祖先を持つというだけでは、その祖先がどこに住んでいたかの答えにはならない。
これは当然のことだが、多くの日本人が錯覚しがちな点でもある。
日本には、白人はヨーロッパ起源のもの、ヨーロッパは白人のものという固定観念があるように思う。

なおヒンドゥ教徒の大部分は、アーリア人はインドが発祥だと考えているようである。
カトマンドゥで出会ったイラン人も、(自分たち)アーリア人はもともとはインドから来たんだと思う、と言っていた。インド周辺の人々には、インドは良いものも悪いものもすべてを生み出す母なる国というイメージがあるように見える。

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以上、グルビセ。 
 

パンチポカリPanch Pokhariで。

パンチポカリの村。

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次の4枚の写真を見て、あなたはどんな印象を持つだろうか。
この子たちもチェトリ、アーリア系のネパール人である。

日本の子供たちよりも「容姿に関して」かわいいと思うだろうか、そう思わないだろうか。より美しいと思うだろうか、そう思わないだろうか。そう思うとしたらそれは何故か。

私は、この子たちは日本の子供たちよりも「容姿に関して」より美しいと思った。
なぜそう思ったかを自己分析してみると、やはり彼らの容姿が「白人的だから」だと思う。

「なぜ私は白人的な容姿をより美しいと感じるのか?」、と問うて見る。
考えられる答えは、

①この世界に容姿の美というものが客観的に存在していて、白人の容姿がそれにより適合している。
②われわれの感覚に「先天的な美の基準」があり、白人的な容姿がその基準により適合している。
③後天的に、教育や環境や宣伝によって、白人的な容姿を容姿の本来あるべき形(「整った容姿」など)と教え込まれ、洗脳を受けている。

①と②の立場は実は、神が人間を創造したときに神自身に似せて作ったが、神にいちばん似て作られたのが白人で、出来損ないが他の人種であると言っているに等しい。あるいは神は白人を特に選んで自分に似せて作り、他の人種は白人に奉仕させるために作ったのであり、そのために神の容姿とは少し違うものにして作った、というのでもいい。実際多くの欧米白人は意識の根底にそれに類する確信を持っていると思う。

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ネット上には「アーリア人は容姿が整っていた」などという「事実」を平気で記述しているサイトもある。

では一体「容姿が整っている」とはどういうことか。「整った容姿の理念」を彼らはどこから受け取ったのか?

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私がこの子たちが日本の子供たちより容姿に関して美しいと思ったのは、やはり、この子達の容姿が「白人的」だったからだと思う。そして「白人的だからより美しい」と感じたのは、上の③の理由によると思う。つまり洗脳である。

そしてほとんどの日本人は同じような洗脳を受けているのではないかと思う。しかも、自分たちが洗脳を受けていることにも気づかず、客観的な容姿の美の基準が存在するかのように思い込んでいるのではないだろうか。

私自身を振り返ってみると、小学生のころ家にあった美術全集をよく見ていた。ギリシャ彫刻や、ルネッサンス絵画、白人に描かれたマリアやコーカソイドである十字架上のイエスの像など、これらが知らず知らずのうちに、われわれの意識下に美のモデル、美の理念型、美の範型と言うものを植えつけてきたのではないかと思う。もちろん外国映画、白人が出演するCMなどもあるだろうが、私個人に関して言うと、美術全集のルネッサンスの裸体画を見て初めてエロい気持ちになったと言うのが大きい。小学生のときはエロ本代わりに美術全集のルネサンスのところを見ていた。白人を理想的に描いた絵で初めてエロい気持ちになると言うのは、洗脳効果も高いといえるだろう。

「美の模範」による洗脳は必ずしも直接的なものとは限らず、通俗的なさまざまなメディアで俗化されて再生産される。たとえば手塚治の漫画など。そしてそれがさらに模範になってより俗なものが果てしなく再生産される。

確かなことは、江戸時代の浮世絵師は、彼らが描く美人画の顔だちを女性のもっとも美しい容姿と感じて描いていたということである。あれが当時の日本の「美しい容姿」だったのであり容姿の美の基準だったのである。

美は権威である。権力が美を作る。美ほど強力な心の支配手段はない。ということをよく認識する必要があると思う。

逆に言えば、美の基準を作れない程度の権力(たとえば日本国家、日本政府など)は、たいした権力とはいえないのである。

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関連記事:

「アーリア人は容姿が整っていた」という言説について

「白人コンプレックス」論  美意識は先天的か


この子達もチェトリ。チョウキChaukiで。

ポルジャタ・カトリ、13歳。

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ポルジャタの妹、エルナ。

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ネパールの田舎で見た英語の授業

4月24日、バサンタプルBasantapur

午後、リナたちのtuitionに邪魔させてもらった。リナはバサンタプルの病院で看護婦をしながら「ディグリーをとるために」(どういうディグリーなのかよくわからないのだが、要するに就学年数として認められるための「年数」のことをここではディグリーと呼ぶようである)学校も続けていた。

リナはしかし今月から看護婦の仕事はやめて、朝などに学校に行くほかは自分の家の店を手伝ったりしているようである。この日はディグリーのための試験準備のの補習授業でみんな結構真剣だった。大学のサークル部室のような小さな部屋で女子生徒のみ4人と私で授業を受けた。カーストは、チェトリが一人いたほかはライやリンブーなど(リナはライ)。

ネパールでは10年で「高卒」、最低12年で「大卒」とされるようである。つまり日本の高卒にあたる人が「大卒」ディグリーを持っていることがあるということ。

ネパールでは全日制で通うのでなく朝だけ通ったり時々スクーリングと試験を受けるような形で「大学」までの(あるいはそれ以上の)ディグリーを取得できるようである。

リナはネパールの制度では今おそらく「大卒」で、さらに上の「学位」を目指しているのだと思う。

この日の科目は英語だった(英語以外の教科を習うのかどうか私は聞いていないが・・・・)。内容は日本の中学3年レベルの文法知識。

ただし、文法を文法としては教えない。仮定法過去完了などの作文がバンバン出てくるが、「仮定法過去完了」としては教えない。

仮定法過去完了という言葉もまったく出てこない。どういう場面で、どんなことを言いたいときにそういう表現を使うかという実用的なやり方で、そういうものとしてとにかく理屈ぬきで覚えさせているようだった。

試験が迫っているということで、バウンらしき男性教師も試験に出そうな要点だけをバンバンとすごいスピードでこなしていく。

テキストには、たとえば、

「誰々はベッドでタバコを吸っていた」「彼は眠ってしまった」 

とか、

「誰々のフィアンセが部屋に入ってきた」「彼女は電気屋とキスをしていた」

という文章が書いてあり、そこから展開していく。

「ベッドでタバコを吸っていた」「眠ってしまった」から、catch fire(私は懐かしい感じがするが)で「彼の部屋が火事になった」を導き、次に、「彼がベッドでタバコを吸わなかったら火事にならなかっただろうに」という条件表現の文章自体を考えさせて、仮定法過去完了の英文で書かせる。

しかし日本の英文法の教室で見るような論理学的な頭の体操はしない。仮定法とか接続法という概念自体は教えていないようで、とにかくこうだという感じである。

ちょっと考えさせたあとですぐに教師が正解を示してノートに書かせていく。リナは生徒たちの中で一番積極的に発言していた。

リナは何度もwouldやcouldのあとのhaveを抜かしていた。なぜそこにhaveがこなければならないのかよくわからないようだった。文法自体は教えないようである。althoughで始まる節とin spite of/despiteとを互いに書き換えるという練習もしつこくやっていたが、in spite ofの後は名詞句だと教師が言っているのに主語で始まる文章を書いてしまうことがある。つまり「名詞句」という概念がよくわかっていない。英文法を論理学的に講釈することはしていないようである。

しかし、そういうことのほかはかなり高度な文章をさっさとこなしていた。日本の学校では習わないような日常的な事柄を表す形容詞などもでてくる。リナはこの町で会う人の中で一番英語が話せる感じの人である。

「部屋にフィアンセが入ってきた」「彼女は電気屋とキスをしていた」から「フィアンセは怒り出した」となり、「彼女が電気屋とキスをしなかったら彼は怒らなかっただろうに」などという展開をするので、私はつい「他の場所でキスしていれば怒られなかっただろうに」でもいいのでは、と余計な口出しをしてしまったが、バウンの教師には相手にされなかった。

何かの事務所の建物のような粗末な学校の小さな部屋で行われた一時間ほどの授業は充実したものだった。

速く読み、速く構成し、速く書くという訓練としては、日本の中学高校の英語の授業に比べれてはるかに実用的なものとはいえる。

ただ、そのような英語学習を日本の公教育の場に今から導入するのが良いかどうかは別問題である。

つまり、日本がいまから途上国型の実用英語教育の真似事をすることに、どれだけの意味があるのかは疑問である。

いまさらそういうことをやってみても、生徒のほとんどは途上国のちょっと教育のある層に(実用英語をこなす点で)まったく追いつけないだろう。

また、国民がそういう実用的英語力をつけることで経済が良くなるというのなら、フィリピン経済は絶好調でなければならない。

日本はむしろ、明治以来の伝統である「文法と講読」をこれまで以上にみっちりやり、古典的な名文といわれているものをしっかり読ませるということを徹底したほうがいいのではないかと私は思う。

漢文を読み下し文で自在に読んで理解し解釈できるというのと、中国語がちょっと話せて書けるというのとで、どちらが尊敬に値するだろうか。中国人は彼らの文化に合わせてやるといっそう態度がでかくなるものではあるが、どちらが中国人に一目おかせることになるだろうか。

「漢文」がすでに日本の文化の一環であるといえるように、「英語」もいっそのこと日本の文化(翻訳文化の伝統の一環)にしてしまったほうがいいと思う。
 

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2008年4月27日 (日)

「相手の目を見て話せ」は白人の文化にすぎない

日本でも「目を見て話せ」「目をそらすから不誠実・またはやましいことがあるに違いない」と言われることがあり、「目を見て話せ」という教育も行われているようである。

しかしネパールの田舎の、いろいろな「人種」が外の影響をあまり受けずにローカル住民として暮らしているところをしばらく歩いて感じることは、「目を見て話せ」は白人またはアーリア人の文化または少なくともコーカソイドの文化にすぎず、モンゴロイド系の文化ではないということである。

ネパールの山村で出会うアーリア系ネパール人は、もちろん「欧米」など知らないし外国語も一切話さなくても、他人(余所者)を見つけると覗き込むように目を睨み付けてくることが非常に多い。

試しにこちらも目をそらさないように凝視し返してしてみても、彼らはまったく堪えない。同じ視線でほとんど際限なく凝視し続ける。食い込んでくるようである。

その凝視の仕方はあまりに単純で、原始的、即物的、あるいは動物的な印象を受けるのだが、「文明諸国」(オーストラリアは「先進国」だそうである)の白人も(自分が余所者だとみなした者に対して)これに近い覗き込むような凝視をすることが多い。(たとえばアジアのツーリスト基地に来るアジア人旅行者は、白人にとっては白人の圏域に侵入してきた余所者という位置づけになる)。

凝視の次は(英語であれネパール語であれ)質問の連発である。警察かマオイストの身元調べのような質問を連発し、その大きなかばんの中に入っているのは何かというような「取調べ」が続く。そして最後は「日本人はモンゴリアンにすぎない(下位カーストだ)」という彼らの内輪話で締められる(「アーリアン」「モンゴリアン」という言葉はネパールではどんな田舎でも普通に聞かれる言葉である)。こんなようなことをよく経験する。

私が同じく「余所者」として現れたとしても、モンゴロイド系ネパール人がこのような攻撃的な作法に従うことはまずない。

モンゴロイド系ネパール人が他人の目をどこまでも同じ視線で覗き込んでくるということはまずなく、仮にはじめに凝視したとしてもこちらが睨み返せばいったん視線をそらすとか笑顔を作るとか何かしゃべるとか、何らかの反応を見せることが多い。

容姿が強烈にアーリア系になればなるほど(この意味はネパールで見ていればどういうことかわかるはず)、このような攻撃的な対人関係、すなわち覗き込み、凝視、睨み付け、詰問、という作法が強くなるようである。

遺伝と文化とは決して無関係ではないように思われる。
 

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2008年4月 3日 (木)

ネパールビザの延長

ネパールは、空港で60日のアライバルビザが取れる。これが30ドル。延長する場合は一回30日で30ドル。3回まで延長できるそうである。つまりツーリストとして年間最長5ヶ月ほど滞在できるらしい。最初の60日はネパール滞在料一日半ドル、その後は一日1ドルということになる。(たとえば11月に入国して60日のビザを取り翌年にまたがって滞在した場合も、その後の延長ビザは30日づつしか取れない。延長ビザは常に30日のようである。いったん出国してまた入国した場合は不明)。

以前はタメルから遠くないカンティパトの辺にビザ延長の手続きをする窓口があったが、いまは遠くまで行かなければならない。

いまは「Impact」という、役所なのか公証人役場なのか弁護士事務所なのかよくわからないようなところで延長手続きをしている。

「イミグレーションオフィス」ではビザ延長手続きはやっていないようなので注意が必要。

Impactの場所は、まずラトナパークを越えてシンハダルバール(政府官庁)の前まで行く、その通り沿いに南に歩く。しょぼい最高裁判所Supreme Courtの建物を左に見ながらさらに歩いていくと、通りが二股に分かれるところにくるので左の道を選ぶ。少し行って左手の小さな通りを入るとImpactという看板が見える。その建物の2階に役所風の窓口がある。

数日前に延長手続きをしたが、30ドルと言っているのに米ドル札は歓迎されなかった。米ドルを出したら、みんなが寄ってきて透かしてみたりしていた。偽札を疑っているようだった。

タメルから歩いて50分くらい。タクシーの運転手はほとんど知らないので、知っているというのを真に受けて乗るとまったく違うところに連れて行かれるかもしれない。

午前10時ごろに行くのが無難かも。午後は早い時間に閉まってしまうようである。写真一枚必要。手続きをして午後にパスポートを受け取る。
 

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The North Faceのショールーム トリデヴィマルグ カトマンドゥ

カトマンドゥ、タメルの町で売っている「ブランド物」は、どんなにそれらしい正札がついていてもすべて偽物だと思う。

「すべてフェイクだけど・・・(いいクオリティだ、ジッパーが壊れることなどない、などなど)」と言って売ってくれる良心的な店もあるが、いまだにオリジナルだと強弁するところもある。お客の出方次第かもしれない。

たとえば、The North Faceの商品のオリジナルを売っているのは、タメルの横のホームレス少年たちがたむろするトリデヴィマルグという大通りにある「The North Faceショールーム」だけらしい。

トリデヴィマルグにはノースフェイスのほかにも、オリジナル商品らしいものを売っているきれいな店が何件かならんでいる。しかし「Go Go Bar」というネオンサインを掲げているいかがわしいダンスバーもできている。

私はこのノースフェイスショールームで何度か買い物をしたことがある。3年以上前はここはたいへん感じの良い店だった。模範的な英語をゆっくり話す店員が丁寧に接客していた。

ところが3年ぶりに来てみると、このノースフェイスショールームは完全に「タイ」になっていた。

有色人種客など客ではないという態度。店に入るとき、商品を見ているときに無視してくれるのはむしろ良いが、何か聞こうと思って店員を呼んでもほとんど無視、不機嫌そうな顔をしてなかなか来てくれない。説明もまるで怒っているようである。3年以上前にここにいた店員たちのようなグラマーの教科書のような英語などしゃべるはずもない。今回も2、3度ここに行き買い物もしたのだが、何度行ってもいつもどの店員もそんな態度である。

ところが白人客が店に入ってくると態度がまったく変わる。店員たちがキャーに近い感じで白人に駆け寄る。もちろん接客態度は180度違う。一人の店員だけがそうなのではなく、全体がそういう感じ。

白人客たちは例によって無駄話をし、だいたいサロンのソファにだらっと座って長居してるだけのようである。白人客が商品を買うかどうかは関係がない。

これはタイでは普通の風景だが、ネパールでこういう光景を見ることは以前はあまりなかった。

気のせいか、このノースフェイスショールームの店員は土人顔が多くなったように見える。ひょっとするとタイ人を店員に雇っているのかもしれない。

この近くの「ゴーゴーバー」といいタメルに蔓延する「(タイ式)マッサージ」といい、ネパールのタイ化、タイ式腐敗は急速に進んでいるように見える。

タイ式奴隷文化が、日本を含むアジアのあらゆる白人密集地域に深く根を下ろし、アジア全体を侵食しつつあるように思われる。

タイ式奴隷文化は、支配者白人文明と対をなす人種的被支配階級の奴隷文化であり、アジアの身売り文化である。

なおThe North FaceショールームのならびにあるYoung Oneという店は、似たような構えの店だが、いまもたいへん感じのいい丁寧な接客をしている。かつてのノースフェイスショールームの店員を思い出すネパールらしい接客で、店員も丁寧な英語をゆっくりと話す。売っているのはあまり有名ではないブランドだが一応オリジナル商品だと思う。
 

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2008年4月 1日 (火)

英語が得意な日本人

昨晩「ロータスレストラン」で見かけた日本人女性は英語がとてもよくできる人だった。「まるでネイティブみたい」。

私は人のオーラを読むことができる。というのはウソだが、旅行をしていると、しゃべる前に人間が醸し出している「雰囲気」に敏感になる。

その女性は別に変な人ではなかった。それほど親しいわけではない知り合いといった日本人男性と二人で入ってきたが、その瞬間から私はイヤーな感じがした。

カウンターの私のすぐ隣にドシンと腰を下ろす。隣の人間との間で「自分の空間」を加減する気配が感じられない。

そしてきわめて流暢な英語でカウンターの前にいる料理人に話し始めた。まず注文だが、それも一言や二言では終わらない。

「ペラペラしゃべれる」というのはこういうことなのだろう。しかし私なら、仮に外国語がよくできても注文を出すだけにこれだけの単語は費やさない。日本語でならなおさら。

しかしすでにその段階で料理人には通じていなかった。ここの料理人たちの多くは英語はそれほど話せないと思う。第一彼女の英語はこの辺で普通に使われる英語とは違う。アメリカの英語のようだった。

次に、さらに流暢かつ高速の英語で料理人に向かって「ミスターササキ」(ロータスレストランのサウジ)について質問をし始めた。もちろん通じるわけがない。

この女性は一緒に来た日本人男性とは普通の日本語で会話していた。英語はとてもよくできていたので、NOVAで仕込んだとかでなくて、アメリカに長く住んでいたかアメリカの学校に行った人なのだろう。

しかし、自分の言葉がいくらすばらしく模範的であるとしても、現に通じていないということはすぐにわかるはずではないだろうか。

どうして彼女はもう少し「別の英語」で話してみようとはしないのだろうか。

もしも彼女が、(私が話すような)日本で普通に教わる学校英語でしゃべっていたら、彼らにも通じたかもしれない。本当を言うと、日本語と同じ順に単語を並べるだけでもここではよく通じるのだが・・・・。

それに、通じていないとわかったなら、なぜシャベリの速度だけでも少し落とそうとしないのだろうか。立派な語法と発音を維持したままでも速度を落とすことはできるはずだろう。

しばらくしてからこの女性は、ミルクティーを飲みながら本を読んでいた私の横で、私のすぐ脇のカウンターに叩きつけるように自分の荷物を「ドン」と置いた。

怒っているわけでも嫌がらせをしているわけでもなく、それが彼女の「文化」でありごく自然な普通の振る舞いのようであった。

私はその瞬間に店を出ることにした。「こうなっちゃうともう日本人とはいえないね」と思いながら。

英語文化というのはわれわれにとって危険な文化だと思う。日本人を「得体の知れない東洋人」(=世界では三流四流の存在、もちろんネパール人以下)に変えてしまう力を持っているように見える。

ネパール人やインド人は英語がいくらよくできてもネパール人たることまたはインド人たることをやめない。日本人は特にこの種の感化に弱いようである。
 

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「ロータスレストラン」 タメル カトマンドゥ

今朝日本語が使えたネット屋の同じPCを今使おうとしたら、日本語IMEが消えてなくなっていた。そして、その代わりにEnglish(Australia)なる言語 が入っていた。

もちろん、これを入れたからといって日本語をリムーブしなければならないわけではない。この言語を入れて日本語をリムーブしたのは悪意によるものと見て良いだろう。当然この変な言語はリムーブしておいたが。
 

ロータス・レストラン」は、日本人のおじさんが経営し一応常駐している「日本式カレー」中心のレストランで、味に関しては評判がいい。

たまに白人も殴りこんでくるようだが、見たところネパール人客が多く次に多いのが日本人客。

私は3年以上前このレストランが別の場所にあったときはときどき食事もしたが、最近はたまにミルクティーを飲むくらい。

そのころは今のCha Cha Cafeがあるところ(小さな土産衣料品店「サイババ」の隣)にあり、小さなカウンター式の店だった。

私は外国で日本食を食べる趣味はないし、どうしても日本食を食べたいとも思ったこともない。

ネパールでもマレーシアなどでも、うまいローティと上手に入ったミルクティーまたはコーヒーがあれば上出来である。しかしそれがなかなか手に入らないのが残念だが。

ロータスレストランのミルクティーはいま15ルピー。このあたりのツーリスト向けレストランのミルクティーとしてはたいへん安い。味も上出来とはいえないが悪くはない。

ロータスレストランが「サイババ」の隣(いまのCha Cha Cafeの場所)にあったころ、この店に通ったのは日本式カレーを食べるためではなく、コーヒーやミルクティーを飲みながら日本人オーナーのおじさんと雑談するためだった。

当時はこのオーナー(サウジ)が自分で丁寧にコーヒーやお茶を入れてくれていて、今とは比較にならないほどおいしかった。

このオーナー(サウジ)は一目見るだけでも面白い風貌の人だが、なかなか奥の深い人だった。黙っていても非常に存在感のある人で、人の心を見透かすようなちょっと怖い感じのある人でもある。

話してみると面白かった。どうでもいいような微妙な話の中に個性と洞察と見識とがにじみ出る人といったら褒めすぎかもしれないが、役に立つ話をするよりもどうでもいい話に味の出る人だと思った。

実際このオーナー(サウジ)はタメルの日本人の評判はいまもすこぶる良い。面倒見がよく曲がったことの嫌いな人格者ということで、たいていの日本人の尊敬を受けているようである。

サウジは、私のようにお茶しか飲まない客に対しても恐縮するくらい丁寧な挨拶をしてくれる人である。

しかしロータスレストランは現在の場所に移転して店も大きくなり従業員も客も増えて忙しくなり、いまはなかなか店でサウジ(主人)をつかまえてどうでもいいような話をするという雰囲気ではなくなった。サウジがいないことも多い。

そして私が特に苦手なのは、何を隠そう、この日本人のサウジが愛情を注いでいるらしい「義理の息子さん」のほうである。

「義理の息子さん」というのがいいのかどうか分からないが、少年の頃にネパールのどこかでサウジが「ピックアップ」したというグルンの青年で、「コモロ」と呼ばれている。多分「カマル」の日本語訛りなのだろう。

数年前に見た頃から暗い感じではあったが、それなりに愛想も良かったりした。今でもサウジがいるときはそれなりニコニコするのかもしれない。

私がたまにこの店に来て15ルピーお茶を飲むのはサウジが帰ってから、夕食時がすんで店が多少すいてきてからである。

サウジがいないときにはこの青年「コモロ」がサウジ(主人)然として座っている。どうしても顔をあわせるのだが、その発している雰囲気はなんとも陰険かつ尊大。

日本語もよく話せるが、日本人の尊敬を集めるサウジの絶対的寵愛を受けている自分は貧乏っくさい日本人ツーリストなんぞより偉いんだ、という感じで投げつけるように「15ルピー」と言い、カネを払っても挨拶ひとつしない。

幼いときからずっとあの厳しいサウジと一緒に生活していて日本のシツケを受けているはずなのだが・・・・

サウジは優しい人だが厳しい人でもあるようである。

ロータスレストランが今の場所に移って店が大きくなり使用人が増えてからも、物の洗い方など細かいことを厳しく指図した。ネパール人の使用人たちはそれに反発して、一時「バンドハ」めいたことにもなったらしい。「サウジはサウジらしくしていてほしい。細かいことは自分たちに任せて黙っていてほしい」というのが従業員の言い分らしく、職場放棄するものも出たとか。その後、サウジも折れてあまり口出ししないようになり、細かいことは従業員に任せるようにしたという。その結果、主力でないコーヒーやお茶は話にならないほどまずくなり、ぬるいのを平気で出したりようになってしまったようでもある。(以上の経緯は人の噂であり、直接サウジに聞いたわけではない)。

コモロ青年の評判は近所のネパール人の間でも相当悪い。これは私が直接近所のネパール人から聞いたことである

ロータスレストランが「サイババ」の隣から今の場所に移ったのも、コモロが「サイババ」のネパール人女主人との間におこしたトラブルが理由のひとつだったようである。屋上タンクの水をめぐるちょっとした諍いだったようだが、コモロが「サイババ」の人たちに非常に居丈高な態度をとっていたという。

サウジがコモロに出会ったのはコモロが13歳くらいのときだったらしい。そのときコモロはツーリストなど来ない山村のグルンの少年だったということ。おそらく貧しい家庭の子だったのだろう。

一方当時サウジは50過ぎのバックパッカーだった。サウジは以前、コモロにめぐり会ったのは「縁」だと思うと語っていた。

その後のことは詳しく聞いていないが、サウジはコモロ少年を寒村から「拾い出し」、一緒に旅をし始めたようである。

今だったら、男の子とはいえ児童虐待ないし人身売買の疑いを向けられるような状況である。もちろんサウジにそんな趣味があるわけでは決してない。

サウジは独身だった。いまもきっとそうだろう。何か考え方があったようである。

数年前私には、自分が子供のとき何で自分は生まれてきたのかなんで自分を生んだのかを親に聞きたかったが、いまもし自分が子供を作って同じ質問を受けたとしても自分は答えられないから、、、と語っていた。しかし自分の財産などを遺す相手は見つけたいからコモロを選んだのだとも言っていたと記憶する。

そういうわけで、サウジはコモロには英語、日本語、絵画(タンカ)などの教育を十分に受けさせ、それらを習得させた。自分がいなくなっても生活に困らずタンカ画修行が続けられるようにとロータスレストラン(タンカギャラリー付)を始めたということである。

サウジがコモロに会ってからコモロに対してやっていることはすべて正しいといえる。

しかし、コモロの目にそれがどう映るかはわからない。

自分がなぜこんな僥倖を得ているのか、本当は理解できないだろう。そしてそれを聞くこともできない。サウジが「縁だ」というのはわれわれには十分理解できる。しかしコモロに理解できるかどうか。多くの自分と同じような境遇の少年たちが山村に留まり、教育の機会も受けられず、自分がしているような生活など経験もできずに同じような生活を続けている。自分だけがなぜか偶然によって(それが縁なのだが)特別な環境と機会とを与えられた。自分は彼らからは孤立している、嫉妬や敵意から疎外感を感じているかもしれない、しかし同時に、そのような特別な縁を得られた自分はどこかで選ばれた人間だという気持ちもその半面で強くなるのではないだろうか。現に日本人たちからも「人を見る目がある」と尊敬を集めているサウジに自分は選ばれたのである、自分は選ばれている、と。以上はもとより私の勝手な推測である。

ネパールの貧しい村にいる筋の良い(才能がある、向学心がある、頭がいい、精神的な面で輝いている)少年少女をピックアップして理想的な人間に育ててみたい、というのはひとつの誘惑である。独身で子供もおらず多少カネのある放浪者の陥りやすい誘惑といっても良いと思う。私は自分がそういう器でないことが十分わかっているのであえてやらないが、自分の人格に自信があり余裕のある旅行者にはそういうことを真剣に考える機会もあると思う。

私だって、12歳のサンドラカラをピックアップして最高に「調教」してみたいと妄想しないでもない。

しかし仮にそうしたときに、どんなに理想的な教育を施したとしても、いま私を魅了するサンドラカラの輝きは私の手を加えることによって確実に失われることが手に取るようにわかるので、現実にやりたいとは感じないのである。サンドラカラが輝いているのはサンドラカラのいまの環境においてなのであり、その輝きの時間も最初から限られたものなのだ。
 

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2008年3月31日 (月)

タマン族のラマの踊り チョウキChauki ネパール

ムナの葬儀の余興として行われたタマン族のラマのダンス。葬儀とは直接関係なく故人の哀悼とも関係ないようである。ムナの妹のなかでいちばん悲しそうにしていたバンダナはこれを見たがらず家に下がってしまった。
タマンの仏教はチベット仏教だといわれるが、チベット人に言わせるとかなり違うものだということ。

タマン族のラマの踊り
タマン族のラマの踊り

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ネワール族の人たち ネパール

「ネワール」は、カトマンドゥ盆地の先住民というより伝統的にカトマンドゥ付近に住んでいた人々の総称。アーリア人が攻めてくる前からネパール(カトマンドゥ盆地)にいた人々のこと。そのころは山岳部などは「ネパール」とはいわなかったらしい。ネパールが訛ってネワールになったのだとか。

しかし東部の辺境にもネワールはいる。チョウキから近いところではチャインプルChainpurがネワールの町。

ネワール語はチベット・ビルマ語系。

ダランで。

右がアンジュ・シュレスタ、左がロビナ・シュレスタ。

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上)男のほうは母親がネワールで父親はライ族。彼女たちの従兄弟にあたる。
 

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タマン族の人たち ダランDharan

タマン族はネパールのモンゴロイド系の大カーストのひとつ。カトマンドゥで見ているとグルンやマガルに比べて少し卑屈な印象を受けることがある。インドのダージーリンからカトマンドゥに出稼ぎに来ているタマンに会ったこともある。インド国籍なのでネパールには自由に出入りして働けるのだとか。

ダランで。

この店で一度バフスクティを食べたらブラックティーをタダでつけてくれて、その晩たまたま店の前を通りがかると呼び止められてスクティ付ダルバートをただで食べさせてくれた(それが目的で店の前を通ったわけではない)。翌朝も翌々朝もお茶のお金を取らない。かえって行きづらくなる。
今日来たばかりの外国人にどうしてそんなに親切にしてくれるのか本当にわからなかったが、ツーリストが珍しいということとネパールのモンゴロイド系カーストはモンゴリアン同胞意識が強いので、「同じモンゴリアン」でしかも成功している国の人間ということで歓迎してくれたのかもしれない。
ダランでみるタマン族の人たちは外見はタイ人に似ている感じではある。もちろん性格はまったく違う。

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下)左の子がムナの従姉のビマラの娘(タマン族)。右の子はネワール。
ジリキムティで。

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チェトリの少女 チョウキChauki ネパール

チョウキChaukiで。

サンドラカラ 12歳。

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チェトリということだが、私のもっていたチェトリのイメージからはそれらしくない容姿と雰囲気。
この子の魅力を私の写真で伝えることは難しい。写真はいつもそうだが、実物はもっと細面。
たまに見せる笑顔がすばらしい。なにより澄みきった瞳。
家の仕事は何でもてきぱきとこなす。料理やお茶入れはもちろん炉の周りの掃除、家畜のえさ炊き、指図されなくても自分で判断してすべてやっている。両親がいるが親にあれこれ言われているところを見なかった。
まだ12歳。「学校に行かないの?」と聞くと、自然な虚無感を漂わせて「ラグダイナ」と小さく答える。「虚無感」といっても(日本のガキのように)斜に構えて虚無を気取ったり仕事もしないで引きこもっているというのとはまったく違うもの。日本の不登校とはいうまでもなく別次元の話。
しかし彼女の家は決して「貧しい」わけではない。両親も健在。立派な牛も持っているし、この贅沢なチョウキの村の目抜き通りに質素とはいえ食堂兼ロッジを構えている。

自家牛の世話をするサンドラカラ

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お母さんと

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妹のミトラカラ

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この写真を母親に見せたら、「かわいくない」といっていた。美意識は本当に人それぞれ、文化や社会によってまったく異なるものなのだと思った。

お父さん

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2008年3月30日 (日)

ダランDharan ネパール

午前9時ごろのミニバスでヒレを出る。とりあえずダンクタまで行ってみることにする。ヒレからダンクタまで20ルピー。

30分ほどでダンクタに着く。ダンクタはヒレより少し大きな町だが賑わいはない。静かな感じの町である。道は舗装されていて小奇麗。標高も低くなり、暑くなる。といっても1000メートルくらい。

インド風味が強くなり、ヒレ以北ではあまり見なかったインド人らしい人間を見かける。菩提樹もある。

ダンクタもマオイストだらけ。赤旗と日章旗のような変な旗が一緒に掲げられているビルもある。あとでダランで聞いたところによれば、この日章旗(日の丸と旭日旗の中間のような赤い太陽の旗)は「スリヤMRA」という別の共産党の旗だということ。マオイストの友党らしい。なぜスリヤなのかわからないが、スリヤはヒンドゥ教で太陽神のことだろう。

ダンクタは特に見るべきものはないので、少し休憩してダランDharanに向かうことにする。

ミニバスでダランまで120ルピー。途中でサトウキビ売りがくる。生で直接かじるおやつである。ヒレ以北では見なかった。

曲がりくねった丘陵の道を一時間半ほどひたすら下り、正午近くダランに着く。かなりの都会。

東南アジアにきてしまったような感じもするが、もっと色鮮やかである。オートリクシャを今回はじめてみた。ここでは健在である。

ダランはムナが死んだ町である。

バス停の近くのNava Yugというホテルの冷水シャワー付の部屋に入る。300ルピー。

ダランは海抜428メートル。ヒレから持ってきたペットボトルがへしゃげている。都会だがのんびりした感じの町で、人の感じも悪くない。

バスステーションの周りには山では手に入らないフルーツが安く買える。バナナ、パパイヤ、りんごなど。インド人商人も特にボッてこないようにみえる。

暖かいところに来たせいか眠くなり、山ではしたことのなかった昼ねをしてしまった。電機についてはバサンタプルのほうがまだ便利だった。バサンタプルでは昼は来ないが夜はほぼ電気が来ていた。ダランでは昼電気が来ていることがあるが、夜になっても電気が来ない。カトマンドゥと同じような時間制限になっているのかもしれない。

たまたま立ち寄ったタマン族のローカル食堂でなぜか歓迎される。今日来たばかりなのに、夜その店の前を通ると呼び止められて招き入れられ、バフ肉のスクティ付のダルバートをタダで食わせてくれた。こういうことは珍しい。ダルバートは嫌いだといってバフ肉スクティ付を断るわけにはいかない。山村は貧しいので好意があってもそれ以上に金が欲しいという感じになる。ダランは豊かなのだろう。

店が閉まるころになるとタマン族の友人たちがぞろぞろと集まってきてバフ肉スクティ付のタダ飯を食べていく。

ここで見るタマン族は山で見るのともカトマンドゥで見るのともちょっと雰囲気が違う。顔だけ見るとタイ人のようでもある。しかし性格はまったく違う。話している言葉はもちろんネパール語。

ネパールの地方のカースト意識はやはり強いと思う。アーリア系の店には入りにくい感じがする。「モンゴリアン」カーストの人々はやはり互いに親近感をもつようであり、モンゴロイド系の外国人に親しみを感じるようだ。アーリア系に呼び止められてタダ飯を食わせてもらうようなことはありえない。アーリア人同士でもないだろう。チェトリはまだいいが、バウンらしき店はちょっと入ろうとしても睨み返されて入りにくいことがある。それは彼らが地元のモンゴロイド系カーストの人間を見る目でもあるのだろう。

夜、山にはいなかったよくわからない虫に手のひらや足やらを刺される。非常に痒い。南京虫に刺されたときみたいな感じだが、南京虫のようなあとは残らない。

Nava Yugホテルのすぐ近くにある時計塔が深夜にもかかわらず1時間おきに大音響をならし、そのたびに起こされる。

24日。

昨夜のタマンのローカル食堂に朝のお茶を飲みに行く。お茶代くらいは取るだろうと思ったが、受け取ろうとしない。とても不思議な感じがする。昨夜集まっていたメンバーの顔も見る。

Nava Yugホテルのスタッフも英語は通じないがとても感じがよい。ヒレなどより外国人ツーリストが少なく珍しいのかもしれない。

25日。

正午前、Nava Yugをチェックアウト。4時発カトマンドゥ行きのナイトバスチケットを買う。荷物をホテルに預け、時間までぶらぶらする。

別のローカルな通りでネワール族の姉妹と知り合う。アンジュ・シュレスタとロビナ・シュレスタ。シュレスタはネワール内部の中間的な位置にあるカースト。タダ茶を飲ませてもらう。

アンジュとロビナにダランに日本人は来るかと聞くと、来る来る「救世軍」の日本人が、というので、ゲット思った。バサンタプルでお前は仏教徒かキリスト教徒かとよく聞かれたことを思い出した。この辺は各種キリスト教ミッショナリーの重点攻撃目標なのかもしれない。

Yanziはダランからのバスはヒレからより良いバスだと言っていたが、乗ってみるとカトマンドゥから来たときと変わらないおんぼろバス。あるいはヒレからだともっとひどいバスになるのか?

午後5時ごろ発車。イタハリを出たところでバスはまったく動かなくなってしまった。何が起こっているのか乗客に聞いても要領を得ない。故障ではないらしい。何かもめている。チケットのことで誰かがゴネているか、何か問題がおきているらしい。カネのトラブルでバスは止まったまま。

近くの乗客に聞くとネパール人はダラン‐カトマンドゥ間たった500ルピーだそうである。私が払ったのはまったく同じチケットで650ルピー。

その上くだらないカネのことで揉めているので運転手に「ドライバー、早く行け、俺は650ルピー払っている」と大きな声をかけるとようやく車が動き出した。目の前に出てきた悶着に気をとられて、何をしていいのかわからなくなって止まっていたのか。ちゃんとカネを払っていない乗客を運んでしまってはいけないと思ったのだろうか。もめていたのはネパール人乗客数人とエイジェントらしい人間だった。「コントラクター」とか呼ばれていた。

326日。

午前8時ごろカトマンドゥ市域に入る。

バスで隣り合わせた男は英語がまったく出来ないのだが、マレーシアリンギ札を持っていた。聞くとマレーシアに(たぶん出稼ぎに)行っていたらしい。

市内に入ってからが渋滞。バスはナヤバスパークまで行かず、どこかの小さなバス停で下ろされる。そこでボーダ行きのミニバスを拾い、ナヤバザールに近いところで降りる。ナヤバザールから歩く。

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ヒレ(帰り)

3月22日。

Yanziラクシミリナにそれぞれお別れをする。

Yanziの家で朝食にツァンパを食べさせてもらう。

バター茶も出してくれた。Yanziの家で普段飲むのはブラックのチベット茶(塩味)。

午前9時半ごろ、ダラン方面に向かうバスに乗り込む。バサンタプル-ヒレ間は90ルピー。100ルピーとウソを言ってきたが、90ルピー。

おんぼろバスの中にはところどころに新しいラリグラスの花が飾られている。

10時過ぎに「シドワ」というところで食事休憩。しかし地図を見るとシドワはヒレより南にある。別のシドワなのかもしれない。

11時半近くにヒレに着く。本当に大きな町になった。ヒレではホーリーがまだ続いていた。顔を真っ赤に染めたヒンドゥ教徒の女たちが酔っ払ったように練り歩いている。

ヒレは都会になり人の感じも4年半前に比べると刺々しくなっている。マオイストと軍との戦闘もあったのだろう。リナはバサンタプルで市街戦を見たと言っていた。そのとき一般市民が一人巻き添えになって死んだらしい。

しかし紛争の中で、ヒレもバサンタプルも発展しにぎやかな町になり豊かになっている用に見える。マオイストのコントロールの下で、あるいはマオイストと政府との競争の下で町にカネが落ちるようになったのだろうか。戦闘が終わってからまだ1年しかたっていない。

あるいは、紛争にもかかわらずこの地域がこれほど発展し活気があるのは、インドの経済発展の影響があるのかもしれない。この地域はカトマンドゥよりインドからのアクセスが良い。

ヒレの丘は本当に全面的に削られている。かつていちばん良いところだった高い丘の上には堡塁が築かれて、丘の形もまったく変わってしまっている。あちこち鉄条網が張り巡らされていて丘の上に民家や畑が出来ている。人口が増えたのだろう。町からいちばん近い小さな丘はほとんど削られてホテルになり、その前に新しい車道が出来ている。かつては車道は一本しかなかった。その道にはマオイストの拠点らしき建物ができ、ハンマーと鎌と赤旗がいくつもなびいている。あちこちの壁にマオイストのスローガンとハンマーと鎌の印が描かれている。 

ヒレは、ミルクティーのミルクが濃くてうまいほかはほとんど魅力のない町になった。 

今度もホテル・ヒマーリに泊まる。このヒマーリはいろんな意味で最悪。しかしヒレのロッジはみんなこんなものかもしれない。ケダモノのような女主人が吠えているのを聞いているだけで気分が悪くなる。この世でいちばん自分がえらいと思っているような典型的なチベット女。
 
323日。 

朝、バス停前で4年半前から知っているバウンのオジサンがヤギを解体していた。タマンの女と気っ子ウンしてかわいい娘が何人もいる。ヤギの腸から糞を搾り出し、水を通して洗い、素手で腸を裏返しにして素手で洗う。ネパールでは糞に素手で触れることをさほど汚いは感じないのかもしれない。糞は大きな鉢に食えないところといっしょにためていく。そして糞に触ったあと水で軽く洗っただけの手で、他のきれいな肉にも触る。ヤギの脳を見せてくれて、これがいちばんおいしいんだと言って笑っていた。解体した肉はその場で売り、全部で400ルピア。このオジサンが200ルピア、ヤギを持ってきた人が200ルピアとる。

午前9時ごろのミニバスでヒレを出る。とりあえずダンクタまで行ってみることにする。
 

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再びバサンタプルに戻る

3月20日。

午前9時頃チョウキを出る。午後1時半ごろバサンタプル着。今度は下りで道にも迷わず速かった。

途中のパンチポカリの村の入り口などに鳥居のようなものがある。タイの山岳民族の村にあるような形だが、ただの道具なのかもしれない。同じような「鳥居」に大きな天秤がつるされていることもある。

Yanziの家は閉まっていて誰もいなかった。人に聞くと、ジャングルに薪取りに行ったのだろうということ。

バス停に近い看板のないロッジ「ダージーリンホテル」に入る。80ルピア。ここもチベット人の経営で、家の人はみなYanziはもちろんムナのことも知っていた。

21日。

Yakホテルに移る。今日はヒンドゥ今日の祭り「ホーリー」。子供たちが顔に赤や緑の染料を塗り、竹の水鉄砲やペットボトルで赤い水をかけあたりしている。しかしタイの「水掛祭り」とは全く違い、ひどい無作法はしない。大人や赤の他人や仏教徒に水をかけたりはしない。

リンブー族の茶店で家の娘にあなたの宗教(ダルマ)は何かと聞くと、「トゥンバ」だという答えが返ってきた。何のことかよく分からない。トゥンバを飲むのが宗教なのか。

午後バサンタプルのバス停近くで、4年半前に会ったライ族の女の子に声をかけられた。彼女は私の名前をフルネームで覚えていた。リナという子だったが、私は名前もすっかり忘れていた。顔を見てもしばらく思い出せなかった。彼女は日本まで電話をしたという。そうしたら誰か女の人が出て英語は話せないと片言の英語で言われてきられたとか。

ネパール人は会って5分もしないうちにメールアドレスやら電話番号やらを聞いてくることがあるが、安易に教えないほうが良いかもしれない。

ネワールだと言っていたラクシミはダマイ(仕立て屋カースト)だった。ラクシミはバサンタプルの目抜き通りに仕立て屋を構えている家の子だから、考えてみればそれが自然だった。ラクシミも毎日その店で働いている。彼女はもちろんヒンドゥ教徒である。ホーリーのお祝いのティカを額に大きくつけていた。

ラクシミの店の前のベンチに座って話していたとき、ラクシミが私にチヤを出すようにと店の人に命じた。ネパールでは客とちょっと話をするときすぐにチヤを持ってこさせる。店の人たちはちょうどチヤを入れているところだった。ところが、彼らはラクシミの言葉を無視して私にもラクシミにもチヤを出さなかった。

ネパール人は被差別カースト(ガイドブックを見るとダマイは不可触民だとある)が料理したものを決して食べないという。働いている彼らもダマイだろうからそういうことに気を回したのかもしれない。

リナの家で夕食をご馳走になる。ローティ(チャパティ)が食べたいがどこで食べられるだろうといったら、作ってくれることになった。カネは取らない。

リナの家は4年半前はローカルな茶屋だったが、今は家も建て替えやや大きめの雑貨屋になっていた。そのとき私が適当にしゃべったちょっとしたことをよく覚えていた。私は正直に言うと「そんなでたらめもしゃべったかもしれない」という感じである。当時彼女は17歳で少しぽっちゃりした内気な感じの女の子だったが、今は時に攻撃的な話し方もする。

リナによれば、Yanziのカトマンドゥにいる兄(もちろんチベット人)は完全にマオイストだということ(Yanziは強く否定)。

マオイストが中国にコントロールされていることはネパールの田舎では常識になっている。ネパール人にとっては何よりも間に障碍のないインドが最大の脅威である。

ジリキムティで会ったリンブーのマオイスト活動家は私に「なぜ中国が嫌いなのか?」と不思議そうに聞いた。マオイストが組織として中国の手先であるというだけでなく、中国人をそれほど見たこともない彼にとっては、中国は「モンゴリアン」でもありインドのような直接の脅威でもなく、むしろ敵の敵であり、味方であるという感覚があるのだろう。このあたりで中国人といえば、汚い格好で時計を売り歩く行商人のことという感じ。馬鹿にはしてもインド人のような歴史的脅威ではない。

マオイストは反印・親中(というよりは手先)だが、大部分のネパール人も反印という点では彼らと一致しているように思われる。ただし王室はインドの手先だということ。王室を良く言う人はあまり見ない。王室は売国的なマフィアで、仮に王室が廃止されてもブラックマーチャントとしてネパールでうまくやっていくだろうと言う人がいた。タイの王室みたいなものだが、タイより立ち回りがヘタだと言うことだろう。

ネパールではどんな田舎の村に行ってもインド人を見るものだと思っていたが、この地域ではカトマンドゥよりインドに近いにもかかわらずインド人をほとんど見なかった。チョウキでもまったく見なかったし、バサンタプルでも一度ひとり見ただけ。数年前バルパックに行ったときもインド人の行商人を見た。バルパックはゴルカのバス停から山道を二日歩かなければならない村で、チョウキよりもっと不便なところである。そんなところにもインド人は入っていた。やはりこの地域のマオイストの勢力がインド人を抑えつけているところがあるのかもしれない。

リナはクリスチャンが大嫌いだと言っていた。健全な感覚である。バサンタプルの村の近くにはキリストミッショナリーが教会を作っている。最近クリスチャンが増えているらしい。吐き捨てるように嫌いだと言っていたから、相当イヤな連中なのだろう。

リナはまたマオイストも嫌いだと言う。しかしYanziに聞くと、リナの叔父こそがこの村のビッグなマオイストなのだとか。

たしかにリナの家がリナの言葉どおり「勤勉と倹約」だけでこれだけ豊かになれたのかどうか、疑問なしとしない。もっといえば、紛争にもかかわらずバサンタプルやヒレの村々が豊かになっているのも、マオイストとの関係がないとはいえないかもしれない。

みんな言うことがまちまちで、自分はマオイストでなく他人がマオイストだという話ばかり。
 
 

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チョウキChaukiでのんびり ネパール

3月17日。

ジリキムチからチョウキへ。

10時頃女子供と一緒にジリキムティを出たがついていけず、途中から一人になる。

人に聞きながらジャングルの入り口にたどり着く。何度も道に迷った。ジャングルの入り口付近で柄の悪そうな少年たちとすれ違う。いきなり100ルピーくれといわれたが断るとあきらめて行ってくれた。

なるべくゆっくり歩くようにする。ゆっくり歩いたほうが山賊に襲われにくいような気がした。なんとなくそんな気がしたのだが、いざというときに覚悟を決めるにはゆっくり歩いていたほうがいいと思う。

3時ごろようやくチョウキに着く。心細い道のりだったが、無事についてよかった。

ムナの葬儀の最後の日くらいに、「ラリグラス」と同じ目抜き通りにロッジを構えるグルン族の家のお父さんが亡くなった。その葬儀をやっていたのでちょっと覗く。タマン族と違い屋内に祭壇がしつらえてあった。良い匂いの香が焚かれていた。

習慣の違いなのか経済的な理由なのかはわからないが、グルンの家の葬儀はムナの家ほど大規模な葬儀ではなく、期間も短かった。翌日には終わっていたから5、6日である。

「ラリグラス」は葬儀の大仕事が終わったばかりで疲れきっているだろうし、また気を使わせるのが気詰まりだったので、隣のチェトリのロッジに入る。ローカル50ルピーの汚い部屋に100ルピーで。しかも夜になると完全に締め切ってしまい、外に出られずトイレにも行けない(トイレは当然のように屋外にある)。

18日。

「ラリグラス」のはす向かいにあるロッジ「ブルースカイ」に移る。ここは清潔で広く、(板壁で仕切られた隣の部屋がないので)静かな部屋が100ルピー。快適だったので2泊する。

ブルースカイはチェトリだが、母親はグルンだという。いつも怒っているような感じの娘が二人いたが話してみると感じがよかった。なるほどチェトリとグルンを掛け合わせた感じの角ばった顔。

チョウキはほとんど電気が来ない。宵の口に1時間くらい来るだけ。もちろん発電機などない。「ラリグラス」だけ持っていると聞いたが、葬式の間も使っていなかった。

電気がともる時、この家の娘は合掌して電気を拝む。私には奇異に見えた。電気は電気だろうと思う。しかしすべての灯りに神なり神性なりが宿るという考えなのかもしれない。バサンタプルのリナも自宅でやっていた。

日本人はこういうのを見るとすぐに、「感謝」の気持ちだというかもしれない。

しかし私はちょっと違うと思う。

「自然に感謝する」とか「不特定の人々に感謝する」ということを文字通りに感じて納得するのは日本人だけではないかと私は思う。

まず、「感謝」という感情自体、われわれが普通に考えるほど普遍的なものではないのではないか。

東南アジア人には「感謝」という概念はない。そんな感情もないと思う。将来の利益(りやく)以外のことを神仏に祈ることはあまりないだろう。

ネパール人にも「感謝」の概念や感情はあまりないと思う。

「感謝」という概念があるのはキリスト教徒と日本人だけではないだろうか。しかしキリスト教徒の場合はあくまで唯一神への感謝だろう。彼らは人間から恩を受けても「お前の行いをappreciateする」などというだけである。

日本でありふれている日本人の「感謝」の気持ちは決して自然なものでも普遍的なものでもない。われわれ固有の特殊な文化だと思ったほうがいいと思う。(だから悪いとか良いとか言う話でないことはいうまでもない)。

私の感想では、彼女たちが電気を拝むのは、ひとつは習慣だが、「力ある存在」ないし神性にたいする畏れを確認して心を白紙にするための儀式、というような感覚だと思う。

19日。

ブルースカイでは毎日ローティばかり食べていた。私はダルバートは好きになれない。主食はローティ(チャパティ)がいちばん。

ブルースカイはお茶はまずい。正面にある質素なお茶屋に通った。看板は全く掲げていないがここもロッジもやっていた。ネパール人客ばかりで、一泊20ルピー。外国人はこの料金では無理かもしれない。

このお茶屋の小さな娘、12歳のサンドラカラがたいへん魅力的だったことを告白しておかなければならない。

彼女がいれるお茶を一緒に炉を囲みながら飲むために毎日足繁く通ったと言っても、大きな間違いとはいえない。

ブルースカイのレストランは立派過ぎて寒かった。立派なロッジほど寒い。台所の炉に当たるのは仕事の邪魔になるので気が引ける。

どうしても、質素な茶屋のほうが居心地が良い。などといいながら私はサンドラカラに少し夢中になったのは確かである。
  

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2008年3月29日 (土)

ジリキムティJirikhimti ネパール

3月15日。

午前7時過ぎ、Yanziの家を出てジリキムティへ向かう。

ときおりバス、トラック、UNとでかく書かれた国連の車が通って砂埃を舞い上げる未舗装の車道を3時間近く歩き、10時ごろようやくラスネLasuneに着く。そこそこの村。

このルートは魅力がない。

ラスネは無作法な若い連中がいっぱいで集まってきてはビデシだのチャイニーズだのと言い、兵隊がうろうろし、悪そうなアーリア系が目立ち、道路工事をしていて、魅力のない村だった。バサンタプルでもチョウキでもこんなふうに人に囲まれるということはなかった。

ラスネのリンブー族の茶店で休憩。なるほど日本人に似ていると思える少女がいた。ただ単に顔が似ているというだけでなく、たたずまいのやわらかさ、声の出し方、外に主張するより内にまとまろうとする感じ、基本的にキュートな感じなど。

なるべく外に主張しないで、人と闘わないで、自分たちの伝統や暮らし方を守って生きるために、どんどん辺境を目指した諸民族もあったのではないだろうか。白人の歴史家はこれを「辺境に追いやられた」と表現するだろうが、逃げることを選択し、辺境で身を守る(固有の文化、伝統、宗教を守る)ことを選択するという生き方も、当然、人間らしい生き方である。

「山岳少数民族」と呼ばれている諸民族にはそういう選択の歴史を経て今に至っている人々が多いのではないかと思う。もっといえば、日本人、日本列島を目指した人々も、山岳を目指した人々と同様の動機を持っていたのかもしれない。

主張せず闘争しない生き方によってしか守れない文化を、自己に固有の文化と考えるなら、強くて凶暴な者からは身を隠すしかない。それは臆病でも負け犬でもなく、人間としてのひとつの選択である。

白人には「競争(戦争)に負けたら奴隷になるのが当然だ」、「競争に負けたやつは必ず奴隷にする」という強い確信ないし信念がある。

タイを中心とする東南アジアは事実上ほぼ奴隷にした。中国も農奴の親分くらいにはできるだろう。

初めから競争に参加しようとしない者たちも世界の隅々から見つけ出してきて、彼ら白人の競技場=市場に無理やり連れ出して必ず競争させ、有無を言わせず負けさせて、正当に奴隷にしようとする。これがいわゆるグローバリズムだろう。

日本にはやはり鎖国がふさわしいのではないかと思う。

鎖国こそ最も日本にあった外交政策なのではないか。鎖国は絶対に悪いと、誰が言い出したのだろう。

競争力、闘争力があり、野心があるものはどんどん外に出ればいいのである。そして白人式の闘争の文明によっては保持することのできない日本固有の文化を日本列島に残すために外から支援すればいい。日本列島には外国人とくに白人は入れず、質素で穏健な静かな暮らしをしたい人だけが残ってできる限り伝統的な暮らしを守るようにしたほうがいい。

リンブー族の人たちのかもし出す雰囲気を感じながら、そんなことを考えた。

午後1時過ぎ、ようやくジリキムティJirikhimtiに着く。

荷物を全部持ってきたので重い。ジリキムティは暑い。バサンタプルより少し大きいくらいの町。今までの村に比べると人間の感じがたいへん悪い。特にアーリア系。アーリア系の子供に小石を投げられる。

茶店に入り隣に居合わせたモンゴロイド系の若い男にDo you know...と聞くと(ネパール語を使ってやる気分ではなかった)、すぐに「ビマラ?」という答えが返ってきたので驚いた。チョウキでムナの葬儀に出ていたらしい。私はまったく覚えがなかったが相手は私を見ていたようである。その男にビマラ(ムナの従姉)のロッジに連れて行ってもらう。

ビマラのロッジに泊まることにする。看板もないローカルな宿。

ジリキムティはもともとリンブー族の町。"Return our Limbuwan land"などというスローガンのサインボードもある。バスの尻には"State of Limbuwan"という標語も。その横にデヴァナガリで書いてある言葉はリンブー語だとか。

しかし今はアーリア系のほうが目立つ。のさばっているといってもいい。

バザールで聞いた話では1年前まではこの町でも軍とマオイストとの戦闘があったという。

ビマラはマオバディ(マオイスト)だった。自分ではっきりそう公言する。「サッバイ・・・」などといってまるで「ラリグラス」もみんなマオイストであるかのような口ぶり。

食事時に多くのリンブーたちがロッジの食堂に入ってきたが、彼らもみなマオイストかマオイストのシンパのようだった。

英語を少し話すリンブーの若い男が話しかけてきた。

この男は自分はマオイストだとはっきり言っていた。日本の民青や層化のようなねっとりした目で私を見つめ、自分が獲得している予定調和まで目覚めない人たちを導く使命感に燃えているように、盛んに語りかけてきた。

「大学」では物理を専攻したらしいが中退して教師にもなれないという。教師になったとしても給料は小学校で月5000ルピアほど(8000円くらいか)。しかも何年勤めても昇給しないのだという。

職もないというのに毎日昼も夜もビマラのロッジでぶらぶらしていて、ヤギ肉をたらふく食べている。

本人はドバイに出稼ぎに行っている兄の仕送りで生活しているというが、ドバイで出稼ぎしているネパール人の月給は3万円くらいだから、その仕送りでこんな生活ができるわけがない。

実家が近くにあるのにビマラのロッジに泊まるのは人々をconvinceするためだと言っている。つまり、マオイストの専従活動家、オルグだった。このロッジはマオイストのアジトのようだった。ビマラもマオイストとしてこの活動家に部屋と飲食を提供しているのだろう。

しかし殺し合いもする革命政党が今日会ったばかりの外国人に何でもしゃべってしまうのだから、ネパールはやっぱりのんびりしていると言えるかもしれない。

私が「バブラム・バタライもプラチャンダもバウンじゃないか、バウンは死ぬまでバウンだ、マオバディも指導者たちはバウンやチェトリばかりだろう」と言うと、「彼らはバウンだが考え方は普通のバウンとは違う」とか苦しい言い訳をしていた。「バタライは自分の子供たちをイギリスに留学させて高い学校に通わせている。そういうカネはみんなマオバディがジャナジャティの村からスクイーズしたカネだろ」というと、「それはデマだ」などとウソを言う。

しかしこのリンブー族の男は決して、「人種やカーストには意味がない、どの人種も同じ人間で同じだ」というような日本によくあるナイーブな考え方をしているのではなかった。この点は重要である。

彼はあくまで「モンゴリアン」ないし仏教徒カーストの立場を強調した上で、ネパールの政治においてモンゴリアンないし仏教徒の利益をいちばん代表してくれるのが現にマオバディだという主張をしていた。これが彼らの「モンゴリアン」向けのオルグマニュアルなのかもしれない。私が「バウンやチェトリは悪いやつばかりだ」と言うと大いに賛成していた。"State of Limbuwan"のデジカメ画像を見せてリンブー族の独立を目指さないのかと聞くと、ネパールからの分離独立は目指さないと言っていた。英語がなかなか出てこないようだったが、地位向上や自治権獲得を目指すというようなことを言いたいようだった。"Return our Limbuwan land""State of Limbuwan"のスローガンもマオイストと連携したものだということ。

彼によればリンブーのカースト的地位は低く、上から「4番目くらい」だとか。

この男は田舎のインテリとして自分では英語ができるつもりらしいが実際はほとんどダメ。文法知識はほとんどなく語彙も偏っている。しかしそれでも、ネパール人のほとんどは(ネパールに限らないが)「日本人は英語ができない」という神話を慰めにしているところがある。だから、私が難しい構文を使ったり(難しいといっても関係代名詞who、whichを使うくらいだが)、不規則変化動詞や彼らが知らない英単語を使ったりすると、いっぺんに「わけのわからないことを言っている、やっぱり日本人は英語ができない」ということになってしまい、彼らで喜びあう。「日本人は英語ができない」ことは、この男に限らずアジアの後進国の下流インテリの卑屈な慰めになっている。後進国では「英語が出来ない」=教育がない≒「頭が悪い」でさえある。

この男はactivistという言葉を知らなかった。activityか?などというから、それを知っているならactivistはわかるだろうと思ったが・・・・。その場に居合わせた英語などほとんど話せない別の若いリンブーのマオイストといっしょにネパール語で日本人は英語が話せないと喜び合っていた。またか、と言う感じである。土人はそうやって自分たちのほうが上手に白人のマネができることを確認して喜ぶのである。

こういう卑屈さを示すことは、残念ながらモンゴロイドに多いのが事実である。モンゴロイドの遺伝的性格のように思われてならない。アーリア系は教育があって英語もよくできることがあるがこういう態度を取ることは少ない。

モンゴロイド系にはどうしても卑屈なところがあるのは事実だと思う。アーリア系のような、(それがどこから来ているものかはわからないが)無条件・無前提なプライド、「高貴」意識、をモンゴロイド系はもつことができない傾向がある。その結果、相対的に「下」の者を探しては鬱憤を晴らすことになるようである。鼻の骨の辺りに「自尊心のチャクラ」でもあるのかどうか。

もっともネパールなどに来る日本人は、ツーリストだけでなくこういう田舎に来るジャイカやNGOなどの活動家も含めて、英語がほとんど話せない者が多いのは事実である。(日本人はネパール語は良く出来ると地元の人は言う)。

アーリア系の「敵意の眼差し」もほとんど遺伝的・人種的な性癖のように思われる。ジリキムティの町で特に感じたことだが、他人を敵意のこもった目で睨み付けたままいつまで放さない者が多い。そういう彼らの態度はやはり西洋白人に非常に近いものがある。紛争の影響かもしれないが、モンゴロイド系の住民がそういう態度をとるのは見なかった。

このリンブーのマオイストの男も、ムナのことはよく知っていた。ムナは「ポピュラー」だったと言っていた。ムナが好きだったのかと聞いてみるとニヤニヤして好きだと答える。その後、ラスネLasuneで撮ったリンブー族の少女の写真を見せると、知っている子だという。きれいな子だという。この子は好きなのかと聞くと、またニヤニヤして好きだと答えた。ネパール人の性格をひとことで言ってしまうと、良くも悪くも田舎者である。

もう一度チョウキへ行きたいと思った。

先日は葬式だけで終わってしまってチョウキでのんびりするというわけにはいかなかった。

しかしビマラも、ジリキムティからチョウキへ行くジャングルの道は一人では危険だと言う。命の危険があるとさえいう。とくに外国人が一人で行くというのはやばいということ。チョウキに行く人が誰かいれば一緒についていくことにした。

翌日はチョウキに行く人が見つからず、もう一泊する。

16日。

ビマラのいれるお茶はそこはかとなくサンダルウッド(白檀)の香りがする。薪からくるものだろう。その他のマサラも入っていてなかなかおいしい。

ムナは「風邪がもとの肺炎で死んだ」といわれているが、ビマラも呼吸器を病んでいるように見える。苦しそうなセキをしている。それもそのはず、この家は炉から出る煙が屋内にこもっている。こういう家が多い。薪を使うと料理はおいしい。私は薪の炉が悪いとは思わないが、どうして彼らが煙を十分に排出する工夫をしないのかがわからない。Yanziの手製の炉は(どの家の炉も手製だろうが)一応煙突をつけて煙を外に出すようにしていた。それでも煙が漏れて屋内にこもっていた。風向きにもよるし、煙突があまりにお粗末なため。

ビマラのロッジで見かける人はだいたい昨日を同じ顔ぶれ。マオイストのたまり場。

3月17日。

ビマラがチョウキに行く人を見つけてくれた。女二人と子供二人。女子供でも複数なら安全らしい。

午前10時ごろジリキムティを出る。荷物が重いこともあり(それだけではないが)、女子供の足についていけない。まったくの赤の他人なので荷物を分担してくれともいえない。

結局、ジャングルに着く前に彼らを先に行かせて一人になる。

今日が最後の日かもしれないとしみじみ思ったのは、ラオスからカンボジアに越えて小船でプノンペンへ行ったとき、船がメコン川の中洲に座礁してしまい、得体の知れないカンボジア人の船頭と二人、中州で夜明かししたとき以来だった。
 

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バサンタプルに戻る ムナのこと

3月13日。

朝、モヌにようやくムナの生前の写真アルバムを見せてもらった。私がムナに会ったころは、彼女がいちばん太っていた時期だった。

私は無駄な脂肪をつけて歩 いているというだけでダメなのだが、それでも彼女は美しく見えた。髪の美しさに全体を美しく見せるような力があったのかもしれない。

亡くなる3ヵ月前にハ イキングに行ったときに撮った写真もあったが、特にやせているということもなくまったく健康そうに見えた。

午前11時ごろチョウキChaukiを出る。ムナの家族に別れ、Yanziたちと一緒にバサンタプルに向かう。

ジリキムティに行ってみたかったが(どんなところだったかまったく忘れていたため)、チョウキからジリキムティへの道はジャングルで、一人では本当に危ないということ。山賊が出るらしい。女子供でも何人かいれば一応安全だということである。

Yanziとムナの友人だったチェトリの女とムナの従弟の少年と私の4人で、来た道を戻る。私はスニーカーを履いていたがサンダル履きの女たちについていけそうもないので、荷物を重くしていた本などを女たちに分担してもらって山道を歩く。ムナの従弟はよくいそうな少年で恩を受けるとあとが厄介そうな予感がしたので、チェトリ女に結構重い本を2冊持ってもらった。

グルビセでPathibhara Mandir(ヒンドゥ寺院)に登る。ここが標高2900メートル。私は別に興味もなかったがみんなが行こうというので丘に登る。記念撮影をする。このあたりのヒンドゥ教徒の聖地。その丘からムナの従弟だけが知っているジャングルの中の近道をトゥーテー・デウラリへ降りる。

午後5時ごろバサンタプル着。みんなでYanziの家に入る。Yanziの家に泊めてもらう。

3月14日。

バサンタプルに連泊。今夜もYanziの家に泊めてもらう。

バサンタプルは昨年のこの時期に雪が降りかなり積もった。昨夜その雪の写真
を見せてもらった。今夜は風が強く寒い。

Yanziの部屋にススで真っ黒になったKansai Airport Duty Free Shopの古い紙袋が物入れとしてぶらさがっている。

Yanziは、「シェルパ」はシェルパだがダライラマ亡命後にチベットから移住したシェルパで、「ソルクーンブのシェルパ」とは言葉も違うという。

 
ムナが「特別な人」だったということは、ムナについて語るすべての人が認めている。ムナは現地の基準でも美しかった。しかもたいへん「できた人」でカーストを問わずみんなに好かれていた。とくに髪の美しさは格別だった。Yanziによれば、葬式をしたタマンの僧も美しい人は早死にするなんて説教をしていたという。

私は旅先で多くの人に出会うがほとんどみんな忘れてしまう。しかし何年も前にほんの2日顔をあわせただけのムナのことを忘れなかった。ムナはみんなにとって特別な存在だった。

もしも今ここにいろんなカーストのネパール女性の写真を並べてどの女が美しいと思うかと聞いたとしたら、たいていの日本人はどこにでもいるみんな同じような顔のバウニを選ぶだろう。しかしムナにはそういうお約束の外見を超えた輝きがあったと思う。

なお、ムナの末の妹のモヌはかわいい18歳だが髪は美しくなく、ダランで150ルピア払ってアイロンをかけたんだとか。Yanziが教えてくれた。
 

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2008年3月28日 (金)

ムナの葬儀 チョウキChauki ネパール

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3月11日。

午前9時過ぎにYakホテルをチェックアウト。村の外に出たらたいへんな霧になっていた。視界10メートルくらい。ムナを悼むような冷たい霧だなどと感傷に浸りながら歩く。

宿に忘れ物を取りに帰ったり道に迷ったりして10時ごろデウラリDeurali着。(本当は30分ぐらいの道のり)。バサンタプルをデウラリの方に出たところにセメントで固めた用水路がある。それに沿って歩かなければならない。

デウラリは本当に小さな村。標高2475メートル。

東南アジアの腐った水に浸かりすぎて心身ともに堕落しているのを痛感する。ちょっと歩いただけでヘトヘトになりヨロヨロ足で11時ごろようやくグルビセGhurbiseに着く。ここもたいへんな寒村。板葺きの家が数軒。茶店2,3軒。

タイを代表選手とする東南アジアが軽蔑されるのは貧しいからでも後進国だからでもなく、別の理由によると思う。

つまり、清清しい要素、禁欲的な要素がないからだ。

マレーシア人に「ネパールに行く」というとみな口をそろえたように「貧しい国だ」と言ってしかめっ面をする。彼らはその程度の基準しか持ち得ない。

東南アジアの国々が土人国としてさげすまれるのは、貧しいからでも後進国だからでもない。それはちょうど、売春産業が栄えるのは貧しいからでも後進国だからでもないのと同じである。

貧しさならネパールのほうがずっと貧しいしずっと後進国といえるが、ネパールがタイのように世界中のマトモな人々から軽蔑されるということはない。

タイよりずっと貧しいネパールで、タイのような売春産業が盛況を極めることも(いまのところ)ない。

いまだにタイの売春産業を貧しさや途上国であることのせいにする人がいるが、それは全く見当はずれである。

タイで売春産業が栄えるているのは、タイ人自身がそのような自分が好きで、それを選択しているからである。

グルビセGhurbiseの茶店で30分休憩。本を何冊も持ってきたので荷物が重い。

30分ほどのろのろ歩くとパンチポカリPanch Pokhariの村に着く。ここは少し大きめの村。今度歩いたルートではいちばん標高の高いところ(2850メートル。グルビセのPathibhara Mandirの丘を除く)。近くにラリグラスが咲いている。せっかくなのでまた休憩。茶店でチヤを飲む。白人のような子供たちが遊んでいる。タイの山岳少数民族の村ではないので、毛唐が生ませた子というのではないのだろう。茶店のアーリア系の女はチヤを注文しているのにコーヒーかコーヒーかと何度も念を押す。どうやらツーリストズレしているらしい。そして何度もチヤ、ドゥッチャ(ミルクティー)だと言ったのにインスタントコーヒーを出してきた。ミルクコーヒーなので見た目はわからない。もちろん拒否。

パンチポカリを出るとちょっと険しい道になる。濡れた岩が滑りやすいので注意が必要。道に迷うところもあるので探しながら行かなければならない。

3時半近くになってようやくPhediに着く。

4時半過ぎにチョウキChauki着。ロッジ「ラリグラス」は閉まっている。

どこに泊まろうかとウロウロしているとどこからともなくYanziが現れた。彼女は私を早々と追い越してチョウキに来ていたのだ。どこで追い越されたのかもわからない。道は狭いのに彼女に会っていない。パンチポカリの手前でYanziの弟に会った。弟は姉はもうチョウキに行ったというのでキツネにつままれたような気がした。まず彼がYanziの弟であることに気づくのに時間がかかった。Yanziはチョウキに行くようなことはひとことも言っていなかった。

ムナの葬式はまだ続いていて「ラリグラス」は営業していなかったが、Yanziに連れられて裏口から入るとムナの姉妹たちに出迎えられた。

数年前にここに来てムナたちに連れられてジリキムティまで歩いたことがあると言うと、ムナのいちばん末の妹モヌ(マヌ)に「あなたはゲストだ」といって迎えられ、お茶を出される。モヌはダランの学校に通っていて英語を話す。

モヌによれば、ムナはニューモニア(肺炎)でダランの病院に11日間入院したあと、10日ほど前に亡くなった。

入院するまで体の調子が悪いことをひとことも言わなかったという。ムナはダランで火葬された。享年は、ある人は28歳だというが30歳くらいのはず。

モヌはいま18歳。この日はモヌとYanziが私の世話をしてくれた。

タマン族の葬儀は12日間続き、今日が11日目。モヌたち親族は今夜、外の芝地にしつらえられている祭壇の前で徹夜の儀式をする。ラマの説教を聴いたり礼拝したり。

数年前、ムナとムナを姉のように慕っているチェトリの少女プジャと一緒にチョウキからテルトムまで歩いた。途中のジリキムティにはムナの従姉のビマ ラがやっているロッジがあり、そこで1,2時間休憩した。そのあとテルトムで二人と別れ、ジリキムティを経てラスネまで一人で戻った。しかし、そのときの ことはもうぼんやりとしか覚えていない。本当に思い出せるのは、ムナとプジャと一緒にジャングルの道を歩いたこと、風になびくムナの長い髪が異様に美しかったこと、プジャがしきりに話しかけていたことくら い。テルトムやジリキムティがどんなところだったかもまったく覚えが無い。

たった1,2時間立ち寄っただけの私をジリキムティのビマラが覚えていてくれた。私はこの人に会ったことも全く思い出せない。

プジャは当時14歳と聞いたはずだが、みんなが言うにはいま22歳でロンドンに留学している。彼女は当時から英語が流暢で歩いている間ひっきりなしに無駄口をたたいていたが、アーリア人によくある高飛車なところはなく、チェトリは嫌いでタマンが好きだと言っていた。ムナを本当に慕っていて尊敬もしていたようだった。ムナが死んだあとモヌと国際電話で話をしたとき、プジャはムナの死を信じず、モヌの話に怒り出し、やがてたいそう泣いたということ。今もまだロンドンにいる。

ムナはチョウキの学校で英語の教師をしていた。学業は17年目まで修了していて、まだ続けていた。「ディグリー」をとったら結婚するといっていたという。品行方正でタバコや酒はもちろん肉も食べなかった。ミルクティーさえ飲まず、いつも白湯(タトパニ)を飲んでいた。なんで病気になったのかわからないとみんないう。白湯は体に悪いという珍説を唱える人もいた。

そこで徹夜の読経や礼拝が行われる祭壇にはラリグラスの花が捧げられていた。

私も参列した。葬式が12日も続いたおかげで、私もムナの葬儀に参加することが出来た。

チョウキChaukiの村の目抜き通り 左端の青い家が「ラリグラス」。

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チョウキはこのあたりでも美しい村でロッジが数件ある。村の入り口にはバサンタプルのよりも詳しいトレッキング地図が掲げられている。

ムナの髪の美しさは姉妹たちの共通認識にもなっていた。

プジャがロンドンに留学できたのはあるイギリス人ツーリストがプジャの両親と知り合いになり、その人が全面的に援助してくれたかららしい。以前はプジャの親は医者だと聞いていたが、「ラリグラス」の正面にある小さな家が彼女の家。父親はツーリズム関係の仕事をしていたとも。

日本人はやはりカネを惜しみすぎているかも知れない。個人で自分の財布から個人を援助すると言うことも必要である。その方が印象は強くなる。

私は眠くもなかったので深夜まで付き合って外で起きていた。18歳のモヌはときどき休憩して飲み食いするラマたちや客たちの接待に大童だったが、ずっと私に気を使ってくれた。ミルクティーをついでくれたり、ときどき何か不足なものはないかと聞いたり、ここにいるようにと言ったかと思うと自分たちは起きているが眠くなったらいつでも寝てもいいといってくれたり、明日は帰らないようにと言ってくれたり。まるで親戚のような扱いをしてくれた。もちろん他の姉妹たちがどう思っていたかはわからない。

モヌは東南アジア風の美しいルンギをはいていた。

家族の雰囲気はそんなに悲しそうには見えなかった。ときどき笑い声も聞こえる。悲しい気持ちを紛らわすために12日間もこんなに盛大な葬式を続けるのかもしれないと思った。

祭壇の前に立つムナの遺族 左から3人目の赤茶色のルンギをはいている女性がモヌ。

Imgp4000

Yanziによれば、タマンの仏教はチベット人の仏教とはかなり異なるということ。チベット僧は本来妻帯しないがタマンのラマは妻帯する。(もっとも、ヒレのゴンパロッジのチベット人オーナーは坊主のはずだが妻帯しているようだが・・・・)。

やがて会衆はロクシーやらチャンやらを好き放題に飲み始めた。トランプに打ち興じている連中は何しに来ているのかわからない。

Yanziは午前1時ごろに寝た。早朝また起き出して手伝わなければならない。

11日目の夜に灯された108のバッティ(灯り)

Imgp4004

翌朝も祭壇の前でラマの太鼓に合わせた親族による礼拝が続く。祭壇をしつらえてあるのは「ラリグラス」の裏の丘の片隅。

モヌは昨夜は一時間しか寝なかったという。昨夜灯された108つの灯明の前でたった前の礼拝が続く。

ラマのデンデン太鼓の音頭にあわせて時々みんなが祭壇にラリグラスの花を投げる。

葬儀の最後の日である。

昨日はきわめてクールに振舞っていたYanziが、今日はうしろの席に座ってポロポロ涙を流している。隣にいた私が何か声をかけようとしても相手にしてくれない。祭壇の前でたったまま礼拝している姉妹たちもみんな泣いていた。ムナとの最後の別れの儀式だったのかもしれない。

葬儀はクライマックスを迎えていた。昨日は白くて美しかったモヌの顔が重労働と睡眠不足と悲嘆のためか、腫れ上がっている。

別れの儀式は午前中3,4時間続いた。祭壇のまわりはラリグラスの赤い花びらであふれている。

私もムナとの「儀式的な別れ」をしたいと強く感じた。しかしそれは私には許されないことだった。というより彼らの儀式の流れを理解していなければ、そして、「その時」が別れの時点だということを信じていなければ無理なことだった。

Yanziは昨晩、タマンの仏教とチベット人の仏教との違いを強調していたが、今日は完全に儀式の流れの中にいた。

日本の葬式と違い、祭壇に遺影が飾られることもない。参列者が一人ずつ焼香するという儀式もない。個人的に別れを告げる機会が設定されていないので、少し物足りなさを感じる。しかし個人的な別れの儀式をしないのは祭壇の前の聖域に入っている遺族も同じのようだった。

生前のムナの写真を見たかったが葬儀が全て終わるまで見せてもらえなかった。すぐに出せるところには一枚もなかった。

そのかわりモヌが携帯で撮った火葬前のムナの死に顔写真を見せてくれた。モヌは死に顔写真を撮ることや見ることに何の抵抗も感じていないようだった。確かに美しい顔といえた。4年前より美しくなっていたかもしれない。しかしやはり死に顔だった。

午後に行われた最後のセッションは、親族だけのものだったが、私も参加させてもらった。Yanziも参加しなかったから、かなり特別な扱いをしてくれたのだと思う。ラマから薬の入った水を一人ずつ手に受け取り少し飲んで残りを捨てる。ラマの投げる米粒と水を手のひらに受ける。米粒を投げながら祈る、などの儀式を聖域の中で行った。

葬儀は午後4時半ごろにすべて終わった。

葬儀がすべて終わったあと若いラマによる余興のダンスが行われた。ボスラマが音頭を取る。

ムナの姉妹のなかでもいちばん悲嘆していた次女のバンダナはそれを見たがらず、家に下がってしまった。

葬儀のあともお客さんの接待は続く。むしろ葬儀が前部終わった後が客の接待のクライマックスのようだった。ただ飲み食いするためだけの客がたくさん入ってくる。

バウンやチェトリの男が数人ズカズカと入ってきた。ムナの母親に何かぎゃあぎゃあと不平を言っている。彼らは相伴にあずかろうとお茶を飲みにきたのだが、ビスケットがないとかなんとか言っていた。食堂でビスケットを食べお茶を飲むとすぐに出て行ったようだ。もちろん仏教徒でもない。焼香という制度もないから、ムナ(ホトケさん)に哀悼を捧げるようなことは形さえしない。ただ飲み食いするだけで行ってしまう。それが普通のことのような振る舞いだった。

それでも家の娘たちは通りがかる人たちに誰かれなく声をかけてお茶に誘っている。

昨夜の徹夜組には当然ながらバウンやチェトリは一人もいなかった。

ロッジ「ラリグラス」 ムナの家

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下)ムナが英語を教えていた学校

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チョウキは標高は2690メートルの丘にある村。

  

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ラリグラス ネパール

ラリグラスという言葉が不思議な呪文のように迫ってくる。ラリグラスといわれただけで、心の中にある「何か」を言いあてられたような気がする。

ラリグラスとは何のことか長い間はっきりわからなかった。花の名前らしいことはわかっていたが、それ以上の特別な意味があるのだとずっと思っていた。

「ラリグラス」という言葉を口にする人はみな、心を言いあてたときのような控えめな笑顔を作る。バサンタプルで「ラリグラス」というと、ニコっとして「チョウキ」という答えが返ってくる。

私は「チョウキ」という地名をすっかり忘れてしまっていた。しかし「ラリグラス」だけはよく覚えていた。

あの時と同じ場所に行くために、ここからどちらへ歩けばいいのかを聞きたかった。

バサンタプルの村はずれのチベット人の娘からすぐに答えが返ってきた。同じように人を見透かすような微笑と一緒に。

長い黒髪が異様に美しいタマンの娘がいたロッジの名前も「ラリグラス」だった。

チョウキは普通の地図には載っていない。

 
以上のようなタワゴトを日記帳に書いたときには、私は何も知らなかった。ラリグラスはまずネパールの国の花だった。4年半前に来たときはラリグラスの季節ではなかったので、私はラリグラスの花を見たことが一度もなかった。

3月11日。

バサンタプル、Yakホテルの同宿者たち(うるさいネパール人たち)は午前6時ごろに起き出してバタバタと出て行った。

7時過ぎに外を歩いてみても茶屋がほとんど開いていない。開いていても客にお茶を出していない。

薪が積んであるところを通るとサンダルウッドの匂いがしてくる。

「ラリグラスのタマン」と言っただけで誰のことを言っているのかわかってしまったらしい。朝村はずれのチベット人の娘(Yanziという)の家の前のベンチに座って話していると、ネパール人の女の子が割り込んできた。

Yanziがにっこりして「(私が)ラリグラスのタマンのところに行きたいらしい」とそのネパール人の娘に言うと、彼女はいきなり私に向かって大きな声で「彼女は死んだ。10日前。テンデイズ・バヨ(ネパール語と英語の混交)」と言う。

私はこのネパール女に何も聞いていないし言ってもいない。私はきのう一回だけYanziとの会話の中で「ラリグラス」と「タマンのロッジ」という言葉を使っただけなのだが、Yanziにはただちにすべてわかってしまい、それを聞いたネパール人の女にもわかってしまった。

Yanziも彼女が死んだことは知っていたようだったが、それまで何も私に言わなかった。あのタマンの娘には姉妹が何人かいたはずだが、私が誰のことを考えているのか彼らには全部わかっていた。

念のために「髪の長い娘」というと、Yanziはわかっているというふうに笑った。

10日前ダランDharanの病院で、Yanziによれば「ダイファイト」で死んだという。

たった10日前に亡くなっていた。彼女の名前はムナ。ムナ・タマン。

チョウキはここから遠いのだが、彼女たちには付き合いがあったようである。そして髪のこともよく認識されていたようだ。

11日間入院して「鼻から血を出して」死んだ。入院するまではまったく元気だったという。

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バサンタプルBasantapur ネパール

カトマンドゥのバサンタプルではなく、ネパール東部テルトム地区のバサンタプル。標高2288メートル。

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3月10日。

9時前にヒレのホテル・ヒマーリを出る。警察屯所前からバサンタプルに向かうローカルバスに乗る。バスはのろのろとあちこちに止まりながら行く。止まる理由がわかるないこともある。ローカルバスなのに長い食事休憩を取ったりしている。運転手の食事か。

バサンタプル近くに教会ができている。こんなところまでキリスト教ミッショナリーの侵食が進んでいる。

22キロほどの道のりを2時間以上かけ、ようやくバサンタプルに着く。

4年半前に来たときには侘しい感じの静かな寒村だった。くすんだ板葺き屋根の家屋ばかりで、心がずんと落ち込んでいくような気がしたのを覚えている。しかし今はそういう感じはまったくなくなっている。ほとんどの家がトタン葺きの屋根になっている。チベット人が経営しているらしい立派なロッジもある(タプレジュンホテル)。人の姿も多くあちこちで音楽を鳴り響かせている。カトマンドゥの悪趣味な風俗がそのまま反映しているような気もするが、全体に相当豊かになっている印象を受ける。

Yak Hotel & Lodgeの100ルピアの部屋に入る。チベット人の宿なので値下げ交渉はしない。そこで食事もあまりしないだろうし、嫌な顔をされるだけ。

村の入り口には以前からトレッキング地図が掲げてある。バサンタプルは標高2288メートルの丘の峠にある村。

ヒレもそうだったが、ここでも村の入り口あたりに多すぎる武装警官がたむろしている。以前来たときもマオイストが武力闘争をやっている時期だったが、警官や兵隊は見なかったと思う。選挙が近いからかもしれない。今は以前あったローカルバスの検問はなくなっている。

バサンタプルはヒレよりさらに寒い。夜のために薄いセーターとマフラーを買う。

Yakホテルの屋根裏部屋は昼間から外よりも寒いので外をうろついて過ごす。

デウラリ、チョウキ方面に向かう道の村はずれでチベット人の少女と知り合う。よく見ると気づくような小さな店をやっていた。中に迎え入れてくれて炉にあたらせてくれ、ブラックティーをおごってくれた。しばらく話をする。チベット人のわりには穏やかな感じの子だった。苗字はLamaだがチベット人のLama(という苗字)とタマン族のLama(という苗字)とはまったく違うんだということを強調していた。ソルクーンブのシェルパとも言葉はまったく違うという。「シェルパはカネカネだね」、というとそうだといっていた。あとでわかったことだが、彼女も「シェルパ」は「シェルパ」だった。ただしダライラマ亡命後にネパールに移動したチベットのシェルパである。シェルパは単に「東の人」という意味。

たしかに昨日会ったライの青年に比べるとこのチベット人の少女の方が賢そうに見える。英語はあまり話せないが理解力はしっかりしているように見える。

チベット語はほとんど話さず読み書きはできない。親との会話もネパール語。チベット語ができるのはカトマンドゥのチベット人地区(ボーダなど)のチベット人だということ。彼女はチベット人の伝統的な主食ツァンパ(彼女はチャンバと発音していたが)をはるばるカトマンドゥのボーダまで買いに行くという。家畜のえさに混ぜると育ちが良くなるのだとか。

私は「優しさ狩り」の旅もセックスツーリズムに等しいと思っているので、「人の暖かさ」などを求めて田舎に踏み込むようなことを戒める。それは「特別な待遇」を求める旅に過ぎない。

私がここまで来ているのは、静かな場所を見つけたいのと、この丘陵地帯にうまく表現できない魅力を感じるからである。

ラリグラスの季節は4月で、今はまだ咲いていないという。

ここでネパール人たちが話しているのを聞くと、とくに「モンゴリアン」系の人たちはしきりに韓国を話題にしていることが多い。いまは韓国人が「モンゴリアン」の星のように見られているところがあるように思う。

あるモンゴリアン系の食堂で、地元の人たちが「コリアコリア」の話題でもちきりだった。私が日本人とわかるまで彼らは私をネパール人だと思っていたらしい。日本人だとわかると、よくわからないが「モンゴリアンどうこう・・・」とカーストあるいは人種の話に入っていったようだった。彼らのアーリア人に対する敵意は相当に根深いように見える。そして、モンゴリアンは日本人であろうと韓国人であろうと、あるいは中国人であろうと良い人々で自分たちの同類のように考えたがっているようにも見える。

日本のネトウヨなどが、日本人には「コーカソイドの血も混じっている」からチョンコなどとは違うんだ、といったタワゴトを唱えることがあるようだが、世界的な位置づけでいえばコーカソイドの血が混じったモンゴロイドは女奴隷または売春婦の子にすぎず、賎民カーストということも多いと思う。タマンにもグルンにも日本人の基準でいえばコーカソイド風の容姿の人は少なくないが、自他共に認める「モンゴリアン」である。太宰治の有名な小説の中の「外人みたいだから」という恥ずかしいせりふが忘れられない。くだらない小説で、他のところは全部忘れてしまったが。日本の幼児的な人種観の水準を示していると思う。

バサンタプルでは本当にいろんな人の親切にしてもらった。あまり外国人慣れ、ツーリストずれしていないせいか、いろんな人にチヤホヤしてもらった。男は尋問口調の質問を連発してくることが多かったが(これは内紛の影響か)、女の子に構ってもらえるのはうれしい。ラクシミに出会う。

宿で働いている娘たちにも「デレ・ラムロ」などといわれてチヤホヤされた。私がチヤホヤされるのだからたいていの日本人はここにくれば同じような経験をするだろう。

ヒレでもバサンタプルでも今回は白人を見ない(白人そっくりのアーリア系の少女とかは見るが)。この点も大きいだろう。

同じチベット宿でもヒレのホテル・ヒマーリとバサンタプルのYakホテルとでは雰囲気がかなり違う。もちろんYakのほうがのんびりしていて良い感じである。

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ヒレHile ネパール

ガイドブックにはHilleと書いてあると思うが、地元のローマ字表記はHileが多いようである。4年半ぶりの訪問。

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3月8日

カトマンドゥ、タメルのゲストハウスをチェックアウト。歩いてナヤバザールまで行きミニバスでナヤバスパークへ。10ルピー。ナヤバスパークまで10分くらい歩くところで降ろされる。人に聞きながらナヤバスパークへ。

ヒレ行きのバスは「午後2時30分発」というナイトバス。チケット1750ルピー。チケットは外にいるブローカーたちを相手にせず、中の窓口で買う(そうすると安いのかどうかは確認していない)。

午後3時20分になってようやくバスにエンジンがかかる。しかし2時ごろバスに乗り込んだときには席の半分くらいは埋まっていた。前の方の席から埋まっていく。商用らしく大きな荷物を持ち込む人も。満席にならないせいかなかなか発車しない。

バスというものはたいてい後ろのほうの席にゴロツキが集まるものだと思う。

インド人らしいサドゥーが二人乗ってきた。

ローカル乗客のマナーが良くなっているのに驚いた。ラジカセをならすのはいたが、タバコを吸うのはあまりいない。もちろん噛みタバコの臭いはしている。

2時間後に食事休憩があり、その後はひどいでこぼこ道が続く。

夕方の休憩場ではまずいチヤが10ルピーだったが、明け方の休憩場では少し濃いのが5ルピーだった。

9日。

午前7時40分ごろヒレに着く。ホテル「ヒマーリ」Himaliに入る。ホテルといっても板壁のロッジ。この辺でホテルというのは普通はレストランのこと。

ヒレは大きな町になっていた。しかし町中で薪の匂いがしている。チヤは美味くて5ルピー。ミルクがおそらく生で濃い。薪の香りがお茶にも移っている。

町を歩き回るが3年前にあった人は見当たらない。毎日通ったタマンの未亡人の茶屋もなくなっていた。

以前ホテル・ヒマーリにいた足の悪い娘はもういなかった。あの子は家の娘のように見えったが。チベット人経営の宿で食堂はチベット形式。

ヒマーリの部屋は一番いい部屋で150ルピー。トイレ共同。水浴びをすると20ルピー取ると英語で書いてある。下働きにアーリア系の娘が一人いる。バウンかと思ったらチェトリだった。トッゥクパはまずくて高い。カトマンドゥのチェトラパティのチベット食堂のほうがずっと美味くて安い。

午後、町外れの街道を歩いているとライ族の学生につかまった。韓国語のテキストを抱えている。若いのに妻と幼児がいる(これは普通)。ネパール人がわれわれにしゃべることはだいたいいつも同じこと。英語を良く話せるようなほとんど話せないような、どっちか良くわからない感じだった。英語はかなりできるようだが、英語の問題以前に理解力自体が不足している印象を受けた。

一緒にお茶を飲むと「アーリアンは嫌いだ」と繰り返す。最初から、私が「モンゴリアン」だから声をかけたと言っていた。彼にとっては日本人も韓国人も中国人も「モンゴリアン」で同じ、と言う口ぶりだった。

田舎に行くとアーリア人と「モンゴリアン」(モンゴロイド系)との対立をより強く感じることがある。カトマンドゥにはネワールという土着の権威が第三項として強くあるからかもしれない。ネワールは人種的にはいろいろ(どちらかといえばモンゴロイド系)のようだが言語的にはチベット・ビルマ語系、しかしボテ(モンゴリアン)とは言われない。アーリア系の有力者たちも好んでネワールの女と結婚しているという。ネワールが不動産を持っているからかもしれない。

彼が泊まっているライ族の汚い宿屋(もちろん看板などない食堂)に誘われる。妻も子もそこにいた。

「ネパールはアーリアンが来る前はモンゴリアンの国で平和だった。アーリアンが来てから争いが絶えなくなった」と言うようなことを何度も繰り返す。

確かにそのとおりだろう。アーリア人が来てからすべてがおかしくなった。アーリア人の問題はアーリア人がいる限り続くであろうことも確かである。

ネパールは世界の縮図のようでもある。アーリア人は好戦的で合理的であり、人間が思いつく感性的な目的を達成する能力に他の人種よりも長けているのだろう。その意味で彼らはなるほど優秀な種族である。そのようにして現にネパールでも世界でも、アーリア人は支配的な地位を占めている。問題は彼らが思いつく目的を人間の普遍的な目的とみなしていいかどうかであろう。

しかしながら、より現実的に考えてみると、ネパールにもしアーリア人が来ていなかったらネパールも今タイのような国になっていたかもしれないとも思う。(あそこまでひどくなる国はまたとないと思うが、ラオス程度になっていたかもしれない)。

今は「モンゴリアンマンセー」を繰り返す彼だが、ひとたび現実にぶち当たったら、転向して(タイ人ほどではないにせよ)醜く白人に媚び始めるのに3分もかからないような気がする。

現に「ソルクーンブのシェルパ」の白人への媚びぶり、世界中で白人の周りをくるくる回っている亡命チベット人の醜悪な身振りは、どんなアーリア系ネパール人にも見られないものである。(「シェルパ」といっても「ソルクーンブのシェルパ」は特別である。他のシェルパとは言語も違い、性格もかなり違う。ネパールにいる他のシェルパはチベット動乱後に移住した人が多いが、「ソルクーンブのシェルパ」は以前からそこにいた人たち)。

彼はマオイストも嫌っていた。戦闘も見たらしい。(この辺の人はみんな見ているが)。

ホテル・ヒマーリは、働いている女の子たちはみんな愛想が良いが、チベット人女主人の金銭欲がヒシヒシと伝わってくるので素泊まりで(ホテルのレストランで食事をしないで)泊まるのはちょっときつい感じである。

「ソルクーンブのシェルパ」はもっとはっきりと食え食えと要求してくる。ネパールの山村の非常にローカルな宿には宿泊料は取らずやや高い食事代だけというところが多いが、ソルクーンブの宿は宿泊料もしっかり取る。その上に食え食えである。食わないと本当に嫌な思いをするから結局食うことになる。

ソルクーンブのトレッキングをしたとき、どこかの宿で食い物が口に合わず胃を悪くしているというイラン人の女の子がいた。(あるいは宗教上の理由で食べたくなかったのかもしれない)。彼女があまり食事を注文しないでいると、宿のシェルパの婆がやってきて、「食え食え、何で食わないんだ、あんたも金が惜しいかもしれないが、私も金が要るんだ」というわけのわからない説教を延々としはじめた。そんな気まずい場面に出くわしたことがある。まあ、シェルパ(ソルクーンブのシェルパ)というのはそういう連中であり、ソルクーンブというところはそういうところだということ。ソルクーンブには山自体以外に良い要素は何もない。人心の荒廃しきったところである。ネパールにおける白人ツーリズムのメッカでもある。

ソルクーンブのシェルパほどではないにしても亡命チベット人の感覚もだいたい同じだと思う。

現に存在する仏教が、上座仏教からチベット仏教にいたるまでどれも現世利益宗教にすぎないからだろう。

夕方になると濃い霧が立ち込めてくる。日が沈むと霧が晴れている。今ヒレからヒマラヤはまったく見えない。その上寒く、良いとこなしである。

丘があちこち削られていてごみが目立つ。以前ここに来たときに感じたような不思議な雰囲気はもうない。

ホテル・ヒマーリはチェトラパティのチベット食堂なら30ルピーで食べられるバフトゥクパが45ルピーもして味付けは異常に塩辛くバフ肉も少なくてまずい。このあたりのロッジはどこもなじだが、壁は板一枚張っただけだから、話す声はもちろん飲み食いする音、いびきなどすべて筒抜けである。宿にいる限りカトマンドゥよりうるさい。しかし、昼間町の外を歩くと今でもとても静かな瞬間がある。

バウンの夫とタマンの妻の茶店は今でもあった。正面に武装警察の屯所ができている。このあたり、のんびりした雰囲気ではなくなった。バウンの夫は気さくな人だったが、タマンの妻のほうは前と同じく白人とくっついたアジア女のようにツンとしている。幼い娘はかわいい。寄り目は母親に似、長い鼻は父親に似ている。鼻が大きいのは必ず遺伝するように見える。全人類が乱交していけば、みな同じような長い鼻をもつ人間になるかもしれない。

ヒレの丘はずたずたにされている。丘をほとんど削ってホテルを作ったりしている。鼻をたらした少女に会ったのもあの丘だった。
 

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ラクシミ バサンタプル ネパール

バサンタプルではもてもてだった。男は警察やマオイストから教わったような尋問口調で何時も同じことをあれこれ質問するのであまり付き合いたくないが、女性に付きまとわれるは大歓迎である。

ラクシミ 18歳。

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道を歩いていたら猛烈に付きまとってきた。ネパール語一本で際限なく話しかけてくる。一時間くらい放してくれなかった。英語はほとんど知らなかった。英語を話すと不機嫌そうにするので、出来るだけネパール語であわせていく。しかしそのネパール語の語り口が妙に面白くて、意味はわからなくてもどんどん引き込まれていく。

外人と話すときはこうあるべきだという見本を見せてくれているような気がした。お茶もおごってくれた。

自分はネワールだといっていた。顔立ちもネワール風だと思った。その辺の田舎者のネパール人のしゃべりとは一味違う洗練されたしゃべりはさすがネワール、都市文化の香りを感じさせる、などと納得していた。

しかし彼女がネワールだといったのはウソだった。彼女はバサンタプルの目抜き通りで仕立て屋をやっている家の娘だった。当然のように仕立て屋カースト(ダマイ)だった。ヒンドゥ秩序では仕立て屋カーストは被差別カーストである。

誰に聞いたのでもない。そういうことをわざわざ、しかも嬉しそうに教えてくれる人たちがいるのである。Yanziリナも。

彼女が私に接近したのは、私がカースト外の人間で、仕立て屋が被差別カーストだなどと思いもよらないであろう外国人だったからかもしれない。ネワールだといったのもカトマンドゥから来た外国人には自分の容姿がネワールに見えると思ったからかもしれない。

彼女が被差別カーストに属することを私が知らされたことに彼女が気づいたと思われる時節から、彼女は私に距離を置くようになった。ポンポンと際限なく話しかけてきた調子は無くなり、顔をあわせても遠慮がちにしか話してくれないようになってしまった。

いままで付きまとってくれていた女の子が急によそよそしくなったのが当然のように寂しい気がしたし、自分が他の人たちと同じカースト意識を共有していると思われたくもなかったので、私のほうから積極的に声をかけて誘い出すようになった。誘うと付き合ってくれる。行く場所も決めてくれた。「マティ」へ行こうということで「マティ」で撮った写真。

そもそも私がヒンドゥ秩序に特有のカースト意識を共有していようはずがない。

カースト自体について、私はカースト(制度)が全く悪だとは言い切れない。文明とはそのようなものかと思う。

現にネパールにあるカーストを完全廃止して全ての人間をただのアトム的な「市民」に還元すべきだとは思わない。そういうことを建前にする白人文明が、もっとも凶悪で陰湿な人種カースト制度を言葉によってではなく事実と暴力とによって守り抜く決意を示している。カーストなど存在しないかのように語りながらもっとも悪質なカースト制度を全世界に展開しているのが白人「市民」文明である。

またこれまでにも述べたことがあるように私は、「日本人」がこの世界においてひとつの「カースト」として自己を確立すべきであるとも常々思う。

異なる文化や生き方を有する人々は、互いにどうしても理解しあえないところがあるということを互いに認め合った上で、別々に滞在し、節度ある「住み分け」をするのが良いと思う。カースト自体を全て破壊せよというのは固有の文化を破壊することであり、ひとつの強力な特殊文化を普遍文化として全ての人間に受け入れさせろということである。

しかしながら、私も、被差別カーストが作った物は食べない、被差別カーストの人間が泉や水場に近づくことを許さないといった差別、人に「不浄」のレッテルを貼るような差別については理屈抜きの強い怒りを感じる。

数年前にカトマンドゥで知り合ったタマンの男は、市の委託を受けて町の掃除やごみ集めをしているカーストの人たちを指して、自分たちは彼らが作ったものは食べないのだなどと自慢げに語っていた。

人が人に「不浄」のレッテルを貼りたがるときの「不浄」の観念について、正面から研究している者が日本にどれだけあるのだろうか。左翼は左翼システムによって自動的に全てが解決されるくらいに思っているだろう。同和団体の「糾弾」について私は詳しく知らないが、人に「不浄」のレッテルを貼る意識のメカニズムをどれだけ解明し克服しえているだろうか?黙り込ませることがこの種の問題の解決であるはずがないと思う。

天皇や皇族貴族が存在するから、対称的に「下」への差別があるのだというような図式主義には与し得ない。仮に「上」を廃止したとしても、「下」へと向けた差別、「下」を作る差別は十分生き残るだろうし、むしろいっそう陰険で悪質なものになっていくに違いないと思う。共和主義、民主主義を理念とする白人および白人世界の人種的差別意識が、世界でもっとも陰湿かつ悪質であることからもこの成り行きは明らかだろうと思う。

同様に、天皇(制)を支持肯定するから当然のように伝統的な被差別グループに対する差別意識をも肯定するのだというようなネトウヨ式の右翼主義をも排する。

なお、私がここで彼女の所属カーストについて述べたことが、彼女の秘密の暴露に当たるとは私は考えない。彼女はネパールの田舎の村の仕立て屋の娘であることは彼女を知る人全てが知っている。それ以上に、彼女の苗字を見るだけでヒンドゥ世界の人には誰にでも彼女の所属カーストはわかってしまう。この世界では姓を見れば所属カーストは明らかなのである。この点はカースト制度が日本の被差別部落(問題)とは趣を異にするところである。ヒンドゥ秩序においては「破戒」のような小説は成り立たないと思う。

日本語を使う世界において、彼女がヒンドゥの被差別カーストに属することについて「不浄」と感じるものがあるだろうか。彼女が仕立て屋カーストに属することがネガティブな要素だと思うものがあるだろうか。私はそうは思わない。

話はそれるが、ヒレでバウン(ブラーマン)の男がヤギを露天で解体しているのを見た。この人は4年前から知っている人で、「アーリアン」であることを自慢にしていた。素手でヤギの臓物を腑分けし、腸を裏返して中を素手で洗う、その手をちょっと水で洗っただけできれいな肉まで触るのであまり清潔な作業とはいえなかったが、ヒンドゥ世界では肉の解体や食肉処理自体が「不浄」という観念はあまりないようである。私に脳みそを見せてここが一番うまいんだとか言っていた。屠殺を彼がやったかどうかはわからない。他の人が持ってきたヤギを彼が解体してその場で売り、400ルピーの売り上げを持ち主と半々で分けるのだと言っていた。
 

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2008年3月27日 (木)

リンブー族の人たち ネパール

「リンブー族の土地を返せ」というスローガン。リンブー族のマオイストによればこれは分離運動ではなく地位向上にちかい自治権要求のようである。この地域でのこの種の運動はすべてマオイストと連動しているようである。

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リンブー族はライ族などと並んでネパール東部に多いモンゴロイド系カースト。

弱小な山岳少数民族といってもいいと思う。もしタイだったら徹底的に差別され収奪されていただろう。もちろんネパールでもカースト的な地位は高くない。ジリキムティというところでであったリンブー族のマオイスト専従活動家によれば「4番目」ぐらいということ。彼の意見ではどちらかといえば被差別カーストだということである。

ネパールはどんな田舎に行っても日本人を見たことがある人が多い。そして私はこれまで東部の田舎のネパール人から「日本人はリンブーに似ている」という意見をたびたび聞いた。そのたびにがっくりきたものである。リンブー族は身体が小さい人が多く、なんとなく存在感がなく、とくに男は貧乏くさく、はっきり言って卑屈な感じがする。たまにお前はグルンに似ているといわれるとホッとしたり。

しかし今回リンブー族の女性たちに会う機会があり、なるほど日本人に近い雰囲気だと納得した。

顔形がどうこうというのではなく、たたずまい、立ち居振る舞いになんとなく「日本的」なものを感じる。雰囲気がやわらかく、外に主張していくよりは内にまとまろうとする感じ。他のモンゴロイド系カースト以上になぜか懐かしい感じを受ける。

ちなみに韓国人はチベット人に親和性を感じるらしい。チベット人も韓国人に同属感覚をもつようである。彼らはどっちも骨ばっていて、態度が大きく、堂々としている。チベット語を話しているのを聞くと確かに韓国語に似ている感じがする。大げさな話が好き、ホラ吹きなところもまた、チベット人と韓国人に共通する性格であるように見える。Yanziは静かな性格だったが。

私の写真では「たたずまい」までは表現できないが、顎のあたりに注目すると(チベット人韓国人を含む)他のモンゴロイド系カーストよりも日本人に似ている感じがするのではないかと思う。

ラスネLasuneで。

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ジリキムティJirikhimtiで。

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リナ バサンタプル ネパール

リナ・ライ 21歳。4年半前からの知り合い。4年半前にバサンタプルに滞在していたときに毎日のように話をし、彼女の家の店でチョウミンを食べたりタダ茶を飲ませてもらったりした。

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彼女の家はバサンタプルのバス停の近くにある。4年半前はそのあたりも板葺きの家が多い「寒村」という感じだったが、今ではすっかり町になってしまった。

彼女の家もコンクリートに建て替えられ、以前のローカル食堂は廃業し、いろいろなものを扱う雑貨屋になっていた。

彼女はバサンタプルで看護婦をしているそうだが、学校も続けていてビジネスのディグリーをとることをめざしているのだとか。私が今度の小旅行で出会った人の中でいちばん英語のできる人になっていた。

4年半前に彼女とよく話したことは覚えていたが名前は忘れてしまっていた。それに当時の彼女は17歳の女子高生で、ぽっちゃりしていたので、今回彼女から声をかけられてもしばらくの間彼女だということが分からなかった。ライ族と聞いてようやく思い出す。

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ライ族はネパール東部に多いモンゴロイド系のカースト。モンゴロイド系の人のことをネパールでは「モンゴリアン」と普通に言う。モンゴリアンは普通の英語だがネパールでよく使われる言葉。「アーリアン」の反意語のように使われる。アーリアンAryanも普通に使われる。なお英語のモンゴリアンには「蒙古症」(ダウン症)の意味も普通にあり、差別語ともみなされていないらしい(英語のことは詳しくないが辞書に「差別的」というような注意書きがない)。

リナには今回もタダ飯を食わせてもらった。「ローティ(チャパティ)が食いたいけどこの村には作っている店がない」といったら自分で作ってくれた。結構うまかった。タルカリもカトマンドゥのローカル食堂などよりずっとうまい。キャベツなどの生野菜サラダ付だった(酢で和えてあったがネパールの田舎ではあまり見ない)。

勝手なことを言わせてもらえば、リナの「タダ飯」の良さは、有形無形のあるいは現在または将来の見返りを期待する感覚が全く感じられないこと。

彼女は自分の家族が勤勉と倹約によってこの数年で豊かになったことを誇っている。その上で私をまだ歓迎してくれた。

旅先でタダ飯やタダ茶にありつけると大変ありがたい気持ちになるものである。

ローマ字表記ではReenaとしていたが、発音は日本語風にリナ。
   

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ヤク

ヤクの写真もたくさん撮った。全部お見せしたいが、今はこの一枚だけ。

チョウキChaukiで。

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ヤギ

ヤギの写真はいっぱい撮った。

全部お見せしたいが、カトマンドゥのネット環境(写真を吸い上げるのに大変時間がかかる)やネット屋環境(ウィルスの脅威:メモリーにウィルスが感染して破壊されることがあるので、一応安心できるネット屋でしか作業ができない)のためにいまはすべてあげることができない。

チョウキChaukiで。

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2008年3月26日 (水)

Yanzi バサンタプル ネパール

バサンタプルの村はずれに住むチベット人の女性ヤンジ(20歳)。今回の旅行ではいちばん世話になった。綴りはYanziでもYangiでもいいというので、ヤンギにならないようにYanziのほうにする。

Yanziとお父さん
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炉はYanziの手製。

Yanziはカレッジを出たといっていたが、学校に行った年数は12年だった。
ネパールでは年数で「ディグリー」を表現することが多い。そして、ネパールでは10年でハイスクール卒業、最低12年で大卒になるらしい。だから、日本の基準では高卒でしかない人が大卒として「ディグリー」をもっているということになる。
Yanziの毎日は楽ではない。「ジャングル」へ薪を伐りに行き担いで持ってくるのも彼女の仕事。芋ほりや家畜の世話もある。

チョウキChaukiの「ラリグラス」のベランダから。YanziImgp4027
ベランダの鉢植えはムナが大切に育てて世話をしていたもの。
   

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バサンタプルBasantapurからのトレッキング地図

バサンタプルといってもカトマンドゥのバサンタプルではなく、ネパール東部辺境、海抜2282メートルの丘の上の小さな村。

ヒレはすっかり終わってしまっていたが、バサンタプルまで行くとまだかつてのヒレのような情緒を感じることができると思う。

バサンタプルの村の入り口に掲げられている地図

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今回の小旅行で歩いた辺り

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ネパール東部丘陵地域の旅

4年半ぶりにネパール東部の丘陵地域に小旅行をした。

3月8日 カトマンドゥ発、ナイトバスでヒレへ。約16時間。

9日   ヒレHile着。一泊。

10日  バスでバサンタプルBasantapurへ。一泊。

11日  バサンタプルから徒歩でチョウキChaukiへ。チョウキに2泊。ムナの葬儀。

13日  チョウキを出てバサンタプルに戻る。バサンタプルに2泊。

15日  バサンタプルから徒歩でジリキムティJirikhimtiへ。ジリキムティに2泊。

17日  ジリキムティを出て徒歩でジャングル越え、再びチョウキへ。チョウキに3泊。

20日  チョウキを出てバサンタプルに戻る。バサンタプルに2泊。

22日  バサンタプルからバスでヒレへ。一泊。

23日  ヒレからバスでダランへ。途中ダンクタで休憩。ダランに2泊。

25日  ダランからナイトバスでカトマンドゥへ。

26日  カトマンドゥ着。
 

8日カトマンドゥを出て今日カトマンドゥに戻るまで、この旅の間白人を一人も見なかった。
 

4年前の記録

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2005/09/2003_84ba.html
    

 

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2008年3月 6日 (木)

ダルバール広場 カトマンドゥ

写真はお寺の台座から。

ダルバール広場(旧王宮前広場)は、数年前世界遺産に登録されるまでは外国人も無料で自由に入れることができた。そのころはカトマンドゥにいる間、毎日のようにここにやってきて寺の台座に座って何をすることもなく時間をつぶしていた。ヨガとかヴィパッサナとかに凝ってたころだったので、何もしないで座っていると自動的に瞑想に近い状態になっていくのが楽しかった。当時のカトマンドゥの人たちは今よりずっと無邪気でフレンドリーで白人にも日本人にも幻想を抱いていて、しばらく座っていれば必ず誰かが話しかけてきた。多くは客を探しているガイド(売春婦ではない!)だったが、外人や日本人などと話すこと自体が楽しい、あるいは話しをしたい、という感じだった。今はそういう人はあまりいない。

右側が旧王宮

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ガルーダの像

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奥に見えるのがカスタマンダップKasthamandap寺院
ここでいちばん古いお寺。他の寺院と作りが違い、吹き抜けになっていて日本の寺社を連想する。「カトマンドゥ」の語源はカスタマンダップだという。

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この広場でいちばん高いお寺

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バサンタプルを望む

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今回のネパール旅行ではじめて牛を見た。タメル近辺ではまったく見なくなった。

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段ボール箱であやされている物売りの子供の写真を撮る白人ツーリスト。
この辺の小商人、屋台、物売りなどの写真を片っ端から撮っていた。

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下の茶髪の白婆(毛唐)もローカル住人をまったく物としか思っていない。
ここで商売している人たちは自分たちが観察して写真に撮るために供されている物だくらいにしか思っていないようだ。この女も小さな商店や屋台の人たちの写真を片っ端から撮っていた。

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ジョッチェン カトマンドゥ

今日は「シヴァラートリー」のお祭りだったが、今日になるまで知らなかった。子供たちが家を回ったり道に紐を張って関所を作ったりしてお金をねだる。

子供たちが「・・・シヴァラートリー!」という掛け声で金をねだって歩くのはいろんな国に似たようなものがありそうな祭りである。

ただ大人たちが喜んでカネをくれるとは限らない。小銭を渡す人もいればまったく無視する人もいる。怒り出して紙つぶてを投げつける人もいた。

関所を作っているガキのなかには「ファイブルピー」など要求してくるのもいる。今日はいつもにもまして傍若無人な白人ツーリストが多いなと思っていたが、祭り目当てに来るやつもいるようだ。
 

今回のネパール旅行で初めて今日ジョッチェンを歩いた。カトマンドゥに来たら一度はジョッチェンを歩かないとという感じがある。

「フリークストリート」という名前がついた60年代を知るわけもないが、10年以上前に初めて来たときには、なるほどそうかもしれない、と思う雰囲気があったと記憶している。

数年前でもそこそこになにか残っていたように思う。今ではまったく何の痕跡もない。これがジョッチェンだったっけと思うほど何の面影も趣も残していない。

"Budget"という旅行代理店の看板が目立つ。インド方面はここが安いという人もいる。

喫茶店「スノーマンSnow Man」に入り、お約束「クリームキャラメル」を食べる。

ずっと同じ味。黄色いカスタード(?)に砂糖を煮詰めて作ったらしいカラメルをたっぷりかけたのが、崩れかかって出てくる。普通のカスタードではないようだがどうやって作るのだろう。

「スノーマン」の兄ちゃんは白人に近い容姿のアーリア系だったが、物腰が柔らかく愛想も良い。タメルあたりではもう見られない雰囲気である。

私が店に入ったとき、ちょうど白人客が入ったところで何か話しかけていたのに、一見のアジア人客である私のほうに十分な注意と笑顔を向けてくれたのは、やはりちょっとうれしかった。

アジアの後進諸国でこういう経験をすることは少ない。

以前は「スノーマン」も薄暗い隠れ家的な「フリーク」な雰囲気があったと思ったが、今はすっかり明るく普通な感じになっている。健全そうな若いネパール人たちに愛用されているように見える。

バサンタプルの方からダルバール広場にコソーリと入る。番屋はあるが、こちら側はいちいち監視していないようである。数年前に世界遺産に登録されてから、外国人がダルバール広場に入るときにはかなりの大金を取るようになった(定期券のようなものを発行する)。インドラチョークの方から入ろうとすると今でも取られるはず。

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2008年3月 5日 (水)

カトマンドゥ、タメルの必ずしも薦められない安宿

カトマンドゥに来るといつも宿を転々とする。チェンマイでもそうだった。

クアラルンプールではずっと同じ宿にいた。

いい宿を探して転々とする場合でも、大きな荷物、生活用品一式を預けておける信頼できる宿を確保しておくと便利になる。私は3年前に預けた荷物を受け取ることができたが、それは運がよかったから。しばらく来なければ勝手に開けて使えるものはパクッて捨ててしまうところもあるはず。オーナーが変わったり改築したりしたときにはストアに預けた荷物はたいてい処分されてしまうだろう。タイではツーリストが預ける荷物に関して一日いくらの料金を取るところもあるらしい。そういうところに何年も荷物を預けて旅行している人もいた。

自分で見たことと人から聞いた話を総合して、今の時点であまり薦められない宿をあげておく。あくまで一旅行者の見解なので、これに不満がある人は反論すればいいと思う。訴訟起こしたいなら日本まで来てもらわないと。

Fuji ホテル」  昔はFuji Guest Houseといっていたところ。高いわりに内容がない。旅なれない日本人をカモにする雰囲気。ネパールの悪いところと日本の悪いところを融合させたような押し付けがましい親切感がたまらない。近くにダンスバーができたため。そちら側の部屋はいくら高い部屋でも深夜までやかましいはず。このホテルには白人も泊っていた。こうなるとさらに悪いことになる可能性がある。経営者が日本人の気弱さ、控えめさに付け込み日本人客を邪険にし日本人を搾取しながら、一方で白人客を優遇することによって店の格を高めようとする動きに出る可能性がある。経営が軌道に乗るまでは「日本人用」の看板を掲げて何とか切り抜け、経営がある程度安定してきたら白人優先へと方向転換して格を高め商売を大きくしようと考えるものが多い。(たとえばチェンマイの「バナナ某」、チェンライの「ツーリスト某」などもその典型だろう。昔バナナに泊った人はバナナに泊るのは日本人しかいないようなことを言うが、数年前に私が泊ったときは白人客のほうが多かった。白人好みのボランティアなどに関係してロンリープラネットもべた褒めである。日本人客はクレームをつけないし多少つけてもやりこまれてしまうので、利用し搾取するにはいいカモだといえる)。

Holy Land Guest House」  今回は泊まっていないが部屋が狭い。若いバッカパッカーがグループで来たりするので、そういうのが嫌いな人には向いていない。噂によれば、よくドロボーが出るということ。それも夜中寝ているときにに堂々と入ってくるという。女の子には向いていない。

Holiday Kathmandu Inn」  昔は「ホテル・カトマンドゥ・ホリデイ」という「親日的」な雰囲気の宿だった。カトマンドゥホリデイには若いタマンやグルンのボーイが何人もいて、日本人のほとんど英語を話さない女の子たちに大人気だった。ホテル内でやれた話もボーイから聞かされたっけ。でもダラッと滞在するにはいい宿だったと思う。サントスというグルンの男(ベルキャプテンという肩書きで当時二十歳くらいだった)は英語が良くでき、ネパールに関する知識をいろいろと教えてくれた。悲しいことにネパール語より英語のほうがよくできる(そのくらいネパール語は苦手)という人だった。母語はグルン語なのかもしれないが、一番できる言語は英語ということだった。彼は腰が軽くややこしいことを頼んでも「マネッジする」と言って引き受けてくれる人だった。時計を買うのが値段交渉などで面倒くさいので全部頼んで買ってきてもらったこともある。日本人を重視していて、信頼できる男だった。もちろん今はいない。外国に行ったとか。カトマンドゥホリデイでは毎年のように顔を合わせる日本人ツーリストもいた。もちろん変なやつである。当時は良い部屋でも一泊250ルピアくらいだった。今は経営者が変わって別のホテルになったが、建物のつくりは前とまったく同じ。同じ部屋にテレビなどを入れて料金も倍(500上)。アーリア系の感じ悪そうなボーイがいてフレンドリーな雰囲気はない。ネパール人客、インド人客目当ての宿になっている感じ。

Sweet Dreams」  Holy Landの通りにある。ドミ風の部屋。チェックインの時にはボイラーがあり湯はいつでも出るといっていたが、後でボーイに聞くとソーラーだけだった。当然冬の時期満足なお湯は出ない。ウソ平気なアーリア系の宿。

Lucky Star」  ボイラーがあるらしくお湯はよく出るほう。しかし部屋が湿っていてたまらなく寒い。夜遊びしていたネパール人客が夜中に入る宿。どの宿も深夜はシャッターを閉めるが、ここはブザーを鳴らせば嫌な顔もせずに開けてくれる。つまり深夜いろいろ出入りがあるということ。

Hotel Prince」  ここはまた最悪。周りをナイトクラブで囲まれている。しかし、バーは昼間はほとんど目立たない。昼間見る限り静かそうな一角にあるが、夜は1時過ぎまで大音響。横並びの部屋で、両側からナイトクラブの大音響の挟み撃ち。料金は高め。しかもデポジットを要求する。そして「静かな部屋」に案内してくれる。昼はそんなにうるさくないし、快適な部屋だが夜眠るのには向いていない。デポジットを要求する理由は、夜にならないとわからない酷さがあり、しかも料金が高いからだろう。暖かいシャワーを浴びて静かに眠りたいと思って少し高いホテルを選んだ人にとっては最悪の宿である。カネを返せ、半額にしろという抗議が跡を絶たなかったからだと思われる。夜になってからこの宿を捨ててどこか眠れる宿に移ろうとすると「タメルはどこでもこんなふうだ」とウソをいう。初心者をだます手口。「静かな部屋」のことで文句を言うと、「あの部屋がうちでは一番静かな部屋だ、ウソは言っていない」と開き直る。

Imperial」  Fujiホテルの近く。ジャータから外側へ入る横丁を左のほうに奥まで行ったところにある。宿泊者はおそらくほぼ100パーセント韓国人。フロントのネパール人がはっきりと韓国人用の宿だというが、頼めば日本人も泊めてくれるらしい。3年以上前、若い日本人の女の子が、コリアンの友達に教えてもらって泊っているが安くて最高だ、と言っていた。韓国人が好きな人向きの宿だといえる。日本人の女の子はもてるようだが、日本人の男が韓国人の女の子に相手をしてもらえる可能性は低い。日本人女とのセックス自慢のネパリも、韓国人は嫌いだ、「スマート」だから、韓国人女はやらせてくれない、と愚痴を言っていた。韓国人女も白人にはやらせるのだろうが、日本人女のほうがネパール人男には親切のようである。けっきょく後進国の人間が日本が好きとか嫌いとかいう理由はカネと女のみ。

Cherry Guest House」  ここはバウン経営だが、かつてはのんびりしたいい宿だった。オーナー家族が隣に住んでいるのであまり荒れた雰囲気にはならない。かつて、「日本人宿」を毛嫌いしている日本人ツーリストからは、日本人の溜まり場というような批判を受けていた宿である。ところがいつの間にかゲストハウスの奥に韓国料理店ができていた。それ以来、韓国人客が増え続けたようである。韓国人たちがロビーを占領するようになり、ソファーに横になったり、怖い顔で一人で何か演説していて他の韓国人たちが黙って拝聴していたり、とにかく日本人ツーリストがロビーでだらっとする雰囲気ではなくなった。今はだいたい7割くらいは韓国人客だそうである。

数年前このゲストハウスで泥棒にあったことがある。2回か3回の部屋で暑い時期に夜窓を開けていたら、突然若い男がカーテンをめくって覗き込んできた。電気もついていた。男が泊っていたと思っていなかったのか、目が合うと一目散に逃げ出した。私は大声を上げ何とか捕まえたかったが、中庭向きの窓の桟を伝ってすごいスピードで逃げていった。

廊下の本棚に残された大量の日本語の文庫本が「日本人宿」だったころの面影を忍ばせる。韓国人ツーリストが多いわりに韓国語の本は少ない。韓国人は英語の本ばかり読むのだろうか。

韓国人が嫌いでなく多少の無作法も気にならないという人には今でも悪くない宿。ただしホットシャワーは、かつては電気ボイラーがあったがいまはソーラーのみ(寒い時期はホットシャワーなしということ)。バウンのオーナーは日本人客には日本式に頭も下げる。しかしバウンはやはりバウン。あるネパール初心者の日本人の女の子は、なにかクレームをつけるたびに「ここはネパールだから・・・」といういつもの言い訳を繰り返されて何も聞いてくれなかったと言っていた。「ここはネパールだから」というのもバカな日本人がわざわざ彼らに教えてやったような言い訳だろう。そういえば日本人は黙る。タイヲタが「だってタイなんだもん」とか「マイペンライ」でタイに擦り寄って得意になってるようなものである。

チェリーに以前いた夜番の男(チェトリ)は白人ツーリストには高い料金を要求してなるべく泊めないようにしていたが(番人にとっても毛唐は気配りがなく厄介だからだろう)、最近は同じ料金で泊めているようだ。夜番に今どんな人が泊まっているかと聞くと「アメリカ人7人、韓国人2人、日本人ゼロ」などということも。

いったん泊って顔なじみになれば他の宿に移ってからも行っていろいろ話を聞くことができる雰囲気。バウンだから助けてくれるのはあくまで情報面だけだが、ネパールの基本的な知識を仕入れるには良い。バウンだから腰を動かす仕事は極力しないと思う。(以上、チェリーゲストハウスの話)。

その他。

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2008年3月 3日 (月)

モンゴロイドは卑屈。ほとんど「遺伝的」に白人に媚びずにいられない。日本のネトウヨの類も同類

モンゴロイドは卑屈で、ほとんど遺伝的に白人に媚びずにいられない。

色が黒くなり、土人的、または北方モンゴリアン丸出しの容姿になるほど白人に媚びたがる。

彼らは他の有色人種との関係で相対的に優位に立とうとするが、白人の絶対的な優越性を何の抵抗もなくうけいれて醜く白人の周りを回って媚びまくる。

彼らにとって重要なのは、自分がいかに白人にかわいがられているかである。それ以外の尺度はない。白人に愛され一目置かれれば、それでアジアでは勝ちだというのである。彼らが本国でいくら「国際人」を気取ったとしても彼らの世界は結局「アジア」ないし自分の国に限られる。

ネパールでいろんな人種=民族≒カーストを比較しながら見ているとそれが良くわかる。

ある意味、モンゴロイド(非白人非黒人のアジア人)はもともと謙遜な人々といえる。しかしいくら謙遜でも生き延びていかなければならない。これに対してコーカソイド、とくにアーリア系はおそらくその人種集団としての形成の過程において高慢な刻印をほとんど遺伝子レベルで獲得している。高慢というのもプライドが高いというのもも同じことである。卑屈も謙遜も同じ意味だ。

日本のネトウヨなどのチョンコ叩きも、結局は、タイやマレーシアやモンゴロイド系ネパール人の土人が、ことさら白人に媚び、ことさら日本人などを引き下げ邪険に扱うことで溜飲を下げているのと、精神的なレベルはまったく変わらない。恥ずかしい土人の姿というほかない。

バウン(アーリア系)は口先だけで本当に腰が重い。使えない人々である。昨日、バウンとグルン(モンゴロイド系)がいるところであるレストランの場所を聞いた。

どちらの男も知らなかったがバウンの方は知らない知らないというばかりだった。このバウンは何度も話をしたことのある感じのいい男である。毛唐に必要以上に媚びることもなく客を平等に扱う。

しかし、何かを頼みごとをすると、何とか結果を出そうと考えるのではなく、「なぜそれができないか」の理由をまず考える。ホテルのボーイでも使用人でも同じである。「できない理由」を巧みに説明すること(といってもネパールの田舎ものなのであれこれ知ってる英語を立て続けに並べるくらい)こそ知識と知恵によって上位に立つバウン(ブラーマン)の証だと思っている。

一方、そこに居合わせたグルンの男はまったくの初対面だった。彼もそのレストランを知らなかったが、何も頼んでもいないのに一緒に外に出てくれて、その辺の人間にレストランの場所を聞き回って一緒に探してくれて、ついに目当ての場所を見つけ出してくれた。そこまで一緒についてきてくれたが、まったく見返りを要求しようとしない。サンキューというとウェルカムというだけで、それ以上何も私に言わせず、恩を着せるようなネットリした目で見ることもなく、むしろすべてを避けるように何の屈託も残さずサッと去っていった。

ここまで話すと、グルンはすばらしい人々だと思うだろう。確かにグルンは私の好きな人々である。

モンゴロイド系の方がバウン(アーリア系)より親切だと思うのは自然である。確かにそれは一面当たっている。モンゴロイド系カーストのほうが働くし(というよりでバウンは極力働かないことを高貴なものの証と考えているように見える)、雇うなら使いやすいことは確かある。

しかし、この場面には白人が絡んでいなかった。

この関係に白人が介入するとどういうことになるかわからない。

ここにいったん白人が絡むようになれば、彼らの卑屈なまでの親切はもっぱら白人に集中するのみならず、人間なら誰もが感じるはずの卑屈な振る舞いに伴う鬱憤や嫉妬が、非白人にもかかわらず自分たちより豊かなあるいは国際的に上位にいる日本人などにはけ口を求めることは十分にありうることだろう。

もっともネパールではタイのように嫉妬・妬み・ヤッカミや「ランケー」や「トーレー」が確立した制度として定着しているというわけではない。カーストがあまりにも複雑に細分化されていてタイのように絶対優位の一民族が文化を作り出しているという国ではないからである。

日本人はどうだろうか。

日本人も非白人のアジア人という意味で「モンゴロイド」である。ネパールのアーリア系は日本人も中国人も韓国人も一緒にして「セイム・モンゴリアン・フェイス」などという。

日本人が白人に媚びる文化を容認している限り、決して白人とは対等になれない。白人と対等になれないということは、経済的にも2流以下にしかならせてもらえず、政治的軍事的には3流以下にしかならせてもらえないという意味である。

日本にとって政治的に最も脅威なのは脅威は、いうまでもなく中国である。

しかし政治的な脅威が中国だということの意味は、日本はいつでもアメリカに捨てられる可能性のある国だという意味である。日本は政治的軍事的にもちろんアメリカの保護国にすぎない。しかしいつでも捨てられうる保護国だと思う。アメリカ経済にとって日本が必須だといっても、日本は経済しか頼るものがないのだから、経済でアメリカを振り回すことなどできるはずもない。

アメリカが部分的にでも日本の保護を放棄し始めれば、その部分で直ちに中国がヘゲモニーを取るだろう。チョンコなど最初から脅威ではない。

中国がモンゴロイド特有の卑屈さで、世界支配など夢にも志していないこと、東アジアだけで満足するということを説得しアメリカの信任を得るならば、アメリカは安心して中国の日本に対するヘゲモニーを認めるだろう。

中国が世界の中華の志を捨てて、(モンゴロイド特有の卑屈さで)白人様には勝てないし逆らうつもりもないが有色人種の盟主にならせてください、有色人種の問題はわれわれに任せてください、白人様の権益とアジアでの手前勝手な振る舞いはすべて容認します、と提案したら、アメリカないし白人世界はそれを拒否する理由はもうなにもないだろう。

中国を監視する駒としてアメリカはすでに北朝鮮を手に入れているはずである。日本はまったく必要がない。

日本の右翼勢力が韓国叩き、チョンコ叩きにうつつを抜かしていることを、中国もアメリカもほくそえんでいる(かやっぱり12歳だったと思っている)に違いないと思う。
 

否定的な話ばかりでもなんなので、ポジティブな話もするとすれば、日本人は日本人をある種の独自の「カースト」として確立するほか生き残る道はないのではないかと私は思う。それはいわば世界の「神官カースト」である。もちろん(主観的に)最高位のカーストでなければならない。やはり独自の宗教の体系も必要だろう。和の心では不十分で、厳格な律法が必要だと思う。律法といっても特殊なものではなく当たり前のことと日本独自の習慣の基本的なものを厳格に行うということで十分だろう。それに外れている連中は日本人であろうがチョンコと同視してカースト外の者とする。日本が生き延びるためには「日本教」がぜひとも必要である。この言葉が奇異に聞こえるという人は世界を知らない人だと思う。ヒンドゥ教、ユダヤ教、すべて民族の名を冠した民族の宗教である。旧約聖書の神はなにより「イスラエルの神」であり、ユダヤ人の神である。ユダヤ人にとって異教の神々でない「われわれの神」こそが、人間と世界を作った唯一最高の生ける神であると彼らは信じるのである。外国の神を外国の習慣とともに崇め奉り祭り上げている日本の宗教(キリスト教など)は本物の宗教ではないことはいうまでもないだろう。本物の宗教がいまの日本の土壌からは生まれそうにないところがなんとも残念である。

 

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2008年2月29日 (金)

仏塔と共産党 カトマンドゥ

マオイストのバナーと仏塔を供養する人。

マオイスト(マオバディ)はネパールの「いろいろな共産党」の中のひとつ。ネパールの政党の大部分が共産党のようで、今も議会の過半数は「いろいろな共産党」が握っているということ。4月に行われる選挙でも「いろいろな共産党」が過半数を占めることはほぼ間違いないらしい。

ストゥーパ(仏塔)が赤いのは共産党が荒らしたからではなくて、「供養の痕」。

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デジカメのメモリーがウィルスに感染し開けなくなってしまった。

タメルのネット屋でデジカメやUSBメモリーなどを使う人は要注意。

パソコンに詳しいあるネット屋(「ちくさ」のはす向かいのネット屋)でウィルス除去してもらったが、すでに撮った写真は開けず、メモリーもフォーマットしないともう使えないようだった。

結局フォーマットすることにし、かわいい女の子たちの写真もブログに上げたもの以外は消えてしまった。この4枚の写真はカメラ本体に残しておいたもの。

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タライ平原のバンダが収束 タライの少数民族に一定の自治権承認へ ネパール

「バンダ」というのは「閉める」ことだが(だから本来はロックアウトの意味になるはず)、ネパールではストライキの意味に使うようである。工場などなく小商店ばかりだからロックアウトもストライキも結局は同じということか。

今日はネット屋の兄ちゃんが、タライのストが収束したのでうれしい、ガスも来る、停電もいままでの8時間から2時間へって6時間になる、と言っていた。ガスボンベはタライのスト(道路閉鎖)のためにインドからの物資が届かずカトマンドゥに来なくなっていた。

タライ平原の少数民族(今度のバンダをやっていたのはマデーシという民族らしいが、マイティリーなどの大民族も)はカトマンドゥを含む山地のネパール人からはほとんどインド人(≒悪人)と同視されている。言葉もヒンディ語に近いらしい(あるいはぜんぜん違うがネパール語よりはヒンディ語のほうを好むということかもしれない)。

ただ武装集団自体は講和に参加していないような話。

 http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/7269289.stm

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2008年2月28日 (木)

Now available "Foreigners in Japan" カトマンドゥの本屋にて

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どんなことが書いてある本なのかまったく知りませんが、この手の本には日本にとっていいことは書いてないんでしょうね。

日本ネタなら中傷と歪曲と嘲笑で固めれば白人は喜んで読み、他のアジア人(タイ人などを含むことに注意)も満足する。そうなってないとかえってあちこちから苦情が殺到するという仕組み。
 

ところが「タイ」が相手の場合、白人の言論の態度はまったく変わる。

経済を含むあらゆる場面で白人優先主義の接待を全身にたっぷりと受けて多少は後ろめたさを感じるのか、下半身の恩を受けすぎているせいか、なにより東南アジアの野蛮な後進国としてはるか下方に見下しているからか、白人はタイに関しては外国人に「フレンドリー」で「自由」なすばらしい「微笑の国」ということしか書かなくなる。
  

ネパールやタイだけ行って「アジア」を「理解」してしまうという白人が非常に多い。

「ロンリー・プラネット」などの影響力も決して馬鹿にできない。若い白人ツーリストの大部分が持ち歩いているガイドブック。

こういう本屋に並ぶ本から白人のアジア観、日本観が形成されて行くと考えてしまっても、あながち的外れなことにはならないと思う。

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2008年2月27日 (水)

日本人専用インターネット屋の必要性

日本人は日本にいる限りはわざわざ六本木のネット屋などに行って不快な時をすごす必要はないが、海外では別である。インターネットにアクセスするためにどうしても「六本木のようなところ」のネット屋にいかなければならないことが少なくない。

私がここカトマンドゥでよく利用するネット屋はなかなかフレンドリーなところである。大きなところと違い、いろんなトラブルや問題に時間をかけて親切な対応をしてくれる。接続の状態が悪いときも考えられる原因をひとつずつチェックして(プラグのほんのちょっとの傾きで接続状態が変わったりと手作業的な部分が多く、山仕事的な勘がものをいうこともあるらしい)プロバイダーに電話をかけたり、できる限りの対応をしてくれる。

ボスの男はチェトリだが、いつも私を格別の笑顔で迎えてくれて、一見の外国人客が一時間30ルピー払うところを私には25ルピーにしてくれている。(もっともネパール人の友達などはただでやっていくのでその辺はネパールの感覚である)。

ところがその下で働いているバウンのような男はつっけんどんだった。しかもちょっと疑問のある接客をしていた。

このネット屋はPC6台の店だが使用者が2人を超えると「ビジー」な状態になる。2人くらいまではネパールとしてはかなり快適な接続である。

そういうわけで私はしばしばこの使用人の男に追い返されてきた。白人客が2人ほどいるときにはビジーだといって入れてくれない。

ところが昨日店に私一人しかいなかったときに、白人客が3人4人と押しかけてきた。彼が私に説明していた原則からいえばビジーだからといって2人を超える人数は追い返すべきだった。

白人客たちが入ってから出て行くまで50分ほどの間、ココログの管理画面の操作がまったくできなくなった。

ヤフーコムやマイクロソフトなど欧米の大きなサイトには容易につながる。彼らがやっているヤフーメールやホットメールは動いている。(ただグーグルのgmailは重かったりするようだ。そういう時白人は大げさに騒ぐのですぐにわかる)。

ココログの管理画面が動かないのでログアウトもできない。白人が出て行くまでそのPCにへばりついて待つしかない。

50分ほどして白人が3人消えるとすぐに見事に良くつながるようになった。

白人が消えるのを待っている間、その使用人の男に談判をしていた。

「お前のやってることはダブルスタンダードだろう。俺にはいつもビジーだといって追い返していたじゃないか。こいつら(白人たち)が入ったおかげでまったくつながらなくなった。ログアウトもできない。いまはまったく時間を無駄にしているだけだ・・・・」。

使用人の男は私の話をかなり神妙な顔で聞き、少し考え込んでいるようだった。白人たちの勢いに負けて(実際白人の「勢い」は狂気じみている)なんとなくそうしていたのかもしれない。ネパールのネット屋に来る白人は本当に幼稚園児のような白痴っぽいのが多い。日本人も白痴っぽくないとはいえないかもしれないが奇声まではあげない。

このあたりはタイをはじめとする東南アジアとの大きな違いである。こういう問題を神妙に考える人はタイはもちろん東南アジアにはまずいない。

白人たちにも私の話が聞こえていたはずだが彼らにはまったく気にならないらしい。幼稚園児のようにはしゃいでいる。

結局、白人が入ってからの時間分の料金はとらず、その前も1時間以上使っていたと思ったが、1時間分の25ルピーにしてくれた。白人たちは50分で30ルピー払っていたので、まあまあの結果ではある。
 

インターネット屋というのは、種々のツーリスト施設の中でもとくに白人至上主義的な傾向のある場所である。アジアには、インターネットは白人による白人のための道具だという観念がある。もちろんそんな考えはナンセンスである。それをいうなら紙は中国人のもの、有価証券を発明したのも中国人だから紙幣も株も中国人のためのもの、ということになってしまうだろう。

ネパールのネット屋は日本語の読み書きの環境はよく整っているほうだが、回線のインフラはもちろん悪く、欧米の大きなサイトにはつながっても日本のサイトにはまったくつながらない状態になることが少なくない。

たとえばヤフーコムは動かせているがヤフージャパンにはまったくつながらないということもある。回線が重くなると自動的にそういう状態になるらしい。

大きなネット屋だと、白人客がみんな使えているというのを見せて、つながっていないのはお前だけだからお前の責任だといって開き直り、ほとんどなにもできなかったとしてもカネだけはしっかり取る。途中からそういう状態になる時が一番厄介である。メールをサインアウトすることもできない。

海外に存在すべき「日本人のための施設」の第一は、日本人が安心して快適に泊れる(毛唐があまり来ない)日本人のための宿だが、第二は日本人用のインターネットだと思う。(日本食は私はどうでもいい。3食チャパティとカレーとお茶で十分)。

既出のロジナちゃんが働いている「チェリーゲストハウス」に数年前いたあるスタッフは、白人客は最低一泊500ルピー出さなければ泊めないと公言していた。(日本人は200とか。安い部屋なら125くらいから)。白人客は働いているネパール人にとっても厄介だという意識がその人にははっきりとあるように見えた。ところが今の「チェリー」は白人客も日本人客と同じ値段で泊めてるようだ。

日本語が表示できない、書けないPCばかりというインターネット屋も日本人があまり行かない場所には多い。欧米の大きなサイトへの接続と日本のサイトへの接続とでは回線の条件も変わる。

日本人専用のネット屋を作るのはもっと簡単である。PCのスタートメニューを全部日本語のみにして勝手にやれといっておけばだいたいOKだろう。

ドコモなどが海外でもパケホーダイを使えるようにし、iModeがネパールなどでもちゃんと使えるなら別かもしれないが。
  

(ここからは別の話)

ネパールは日本に一番援助してもらっている国である。もっと多くの日本人がネパールを旅行してよく見ておくべきだと思う。

いろいろな場面で日本人が正当に扱われているかどうかを確認することは(ネパールに限らないが)大切なことではないだろうか。

政情不安定といっても、不便ではあっても危険ということはない。ドンパチやっているとしても、風土とか歴史とか文化というものは生きて働いている。

(ただ今のタライ平原の騒乱はネパールの文化から外れているかもしれない。犯罪集団的な色彩が濃く、よりインド的な少数民族の分離主義的な運動のようでもある。カトマンドゥや普通にツーリストが行くようなところは安全だと思う)。

政府とマオイストが武力闘争をしていた時でさえ、マオイスト支配地域に一人で歩いていっても何の危害を受けることもなかった。→「バルパック
 

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ネパールのネット屋に乗り込んできて「サワディカッ!」と叫ぶバカ白人

今、ハゲ白人オヤジがネット屋に乗り込んできてスタッフに向かって「サワディ・カッ」とのたまいやがった。

こいつはまだタイにいるつもりらしい。

白人がいかに「アジアはひとつ」だという観念に凝り固まっているか、彼らがいかにタイによってのみ「アジア」を知り、タイを基準にして「アジア」を解釈しようとしているか、が伺われようかと思う。
 

実に白人の日本に対する不満は、要約すれば、「日本がタイのようにしていないこと、日本人が白人に対して、完全にタイ人のように振舞っていないこと」に尽きる。

日本を誉めそやすような白人にも気をつけたほうがいい。

日本のことを良く言う白人たちのほとんどは、日本のいちばん「タイ化」した土人売春婦的な部分にどっぷりと浸って満足しているに過ぎない。彼らによる称賛は日本にとって何の名誉でもないばかりか、奴隷化の証でさえある。
 

バンコク=カトマンドゥ間に直行便が飛んでいてクズ白人が往来するために、どんどんネパールのタイ化が進んでいく。

接客にも現れている。

かつて感じたネパール人のカーストや人種を超えた日本に対する「尊敬」の感覚が薄れつつあるように見える。

それと並行するようにタイ式の白人絶対優先接客が浸透しつつあるように感じる。
  

そのうえ今ではタイ人までがネパールやブータンを荒らしに来るようになっている。

おとといネット屋でタイ土人売春婦数人と糞掃衣を着た腐れタイ坊主を見た。

恥ずかしげもなく外国にまで来てタイ語を話している。

タイ人であることが恥ずかしくないと言うのだから本当の「恥知らず」である。

ここに来ている外国人はたいてい「タイがどんな国か」、どんな恥ずかしい土人売春国家かを知っている。白人はアジアの基本はアレ(タイ式)だと思い込んだうえで、ネパールはちょっと精神的な国だくらいに思っているのである(その根拠を「アーリア人」の存在に求める白人も多いはずだ)。

タイ人がタイで恥知らずな行為を際限なく続ける時の言い訳は、「ここはタイだ、タイに来たらタイの流儀に従え」と言うものだった。

しかし、いま「ここ」はタイではない。
 

タイ人など海外旅行をすべきではないのだ。

タイ人は中東にでも行って土方とメイド売春でもしていればいいだろう。

本国でムスリムをはじめ白人以外のあらゆる異民族を虐待している報いで、中東で虐待されてもやむを得まい。カルマが落ちたというものである。

タイ猿は海外に出ても毛唐に媚びるという。

海外の接客の場面で働いているタイ人には不快な思いをさせられると言うことを聞いたことがある。

つまり、タイ人は世界中どこで働いても、タイ式の白人最優遇、「人種差別(白人優先)=ホスピタリティ」主義接客を売りにするのである。

この「差別をつけて(上客を上げる以上に被差別者を引き下げることで)ホスピタリティを表現する」というタイの接客観、歪んだしかも(下げればいいだけだから)安上がりな「ホスピタリティ」の観念が、ネパールをも汚染しつつあるのではないかと懼れる。

タイ女とタイ坊主だけは排除しなければならない。

タイの売春とタイ仏教タイ坊主とは昔から深い関係があるのだ。
 

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ストリートチルドレン カトマンドゥ

タメルの横のトリデヴィマルグで。

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10年以上前始めてネパールに来たとき、夜カンティパトなどの歩道で数人の子供が犬と一緒に固まって寝ているのを見て新鮮な驚きを感じた。そのころも堂々とアンパンやりながらその辺歩いている子供は見た。

しかし当時はなぜか不潔感は感じなかった。あまり臭わなかったように思う。ネパールの乞食は日本のホームレスよりきれいだと思ったものである。そのころは家があっても本当に襤褸をまとってるような子供をカトマンドゥでも普通に見た。

当時に比べると、ホームレスの子供が汚くなったように思う。この辺を通るだけで日本のホームレスとまったく同じ強烈な臭いがしてくる。逆に家のある子供はまったくこぎれいになった。

小学生中学生くらいの子供がタバコの火を借りに前記事の茶店にやってくる。

あのディディ(お姉さん)も平気でろうそくの火を渡す。

 

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2008年2月26日 (火)

ローティを焼くバウンの女性 カトマンドゥ

ローカル茶屋でチャパティ(種無しパン)を焼くバウニ。

ローティを焼くバウンの女性 カトマンドゥ
ローティを焼くバウンの女性 カトマンドゥ

ここでは撮れなかったが、しゃべり始めるとどんどん自分の世界に入っていく感じでやたら面白い。

容姿はバウンの典型、見るからにバウン、という感じ。

前記事のロジナちゃんもそうだが、横顔はもっと「原始彫刻的」で、インドの女神像のような古典的な雰囲気がある。

バウンはプライドも高い。バウンやチェトリなどアーリア系は使用人としては使いにくいと聞く。私はバウンよりチェトリの際限のない言いわけ、屁理屈の方が苦手。

しかし、ネパールのブラーマンはどこか抜けてる感じもある。

インドに行くとバウンであろうがモンゴロイドであろうが、ネパール人はみな犬畜生のように扱われるのだとか。

日本人そっくりの色白のグルンの男が日本人の友達と一緒にインドに行ったが、ネパール人だとわかった時点でホテルに泊めてもらえなかったという話も聞いた。

「ローティ」というのは(マレーシアでもそうだが)インド系世界で「パン」一般のこと。(タイやカンボジアでは「ル・パン」と言っていた)。

何で焼こうが「種無しローティ」は「チャパティ」。

首を横にかしげるしぐさもインド世界共通。マレーシアのタミル系インド人も使う。「肯定」の意味を表す。マレーシアでもインドレストランばかりに通っていたので私もほとんど身についてしまった。

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2008年2月25日 (月)

バウンの女の子 カトマンドゥ

カトマンドゥ、タメルの「チェリーゲストハウス」の昼のフロントの女の子。以前いた別のバウンの女の子は日本人の男と結婚してしまったということ。
バウニかどうか確認したわけではないが、典型的なバウニだと思う。この宿のオーナーはバウンで、働いているのも(掃除などは別だろうが)バウンばかりのよう。

①私の名前はロジナです。
②バスンダラに住んでいます。
③日本語が少しわかります。
④日本に行きたいと思っています。

というような意味。

この宿は数年前までは「日本人宿」と言われ、「旅慣れた」日本人たちには見下されているようだったが、どういうつもりか同じ敷地内に韓国料理レストランを作ってしまったため、今ここに泊る客の大部分が韓国人になってしまった。

バウンの女の子 カトマンドゥ ネパール
バウンの女の子 カトマンドゥ ネパール
  

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2008年2月23日 (土)

「ふる里」 タメルの日本料理屋 カトマンドゥ

私は海外でとくに日本料理を食べたいとは思ったことはない。マレーシアに何ヶ月かいた間も日本食は一度も食べなかった。中国料理も嫌いなので、マレーシアではインド料理のみ。(「マレー料理」と言うほどのものが存在するのかどうか私は知らない)。

しかしカトマンドゥでは昔からよく「ふる里」に立ち寄る。それは単に、タメルでは(私の知る限り)ここだけ日本の新聞(タイ発の読売新聞)が半日遅れで来ているからである。

3年以上前は、タメルの日本料理屋の中ではましなほうだと思っていたが、今回はそうでもなかった。安心して食べられるのは親子丼と味噌汁くらいか。

どこかの情報ノートに「ふる里」のすき焼きがうまかったと誰かが書いていたので先日ためしに食べてみたが、大変まずかった。(ネパールにある情報ノートは日本語のできるネパール人がチェックしていることが多いのだとか。自分の店の批判やゲストハウスでの日本人被害事件に関する書き込みを切り取ったりするという噂。店の宣伝もするかもしれない)。

以前はミルクティーだけで新聞を読んでいても嫌な顔をされなかったが、最近はどうやらそれが気に入らないらしい。

どうせ席はがら空きなのに、金を支払う段になってうちは本当はお茶だけは出さないんだなどとわざわざ念押ししてくる。

お茶だけの客が嫌なら注文した段階で断ればいいのに。

3年以上前はもう毎日のようにお茶だけで新聞を読んでいたが、そういうことをいわれたことはなかった。人が変わったからかもしれないが。カトマンドゥ全体の雰囲気も確実に変わっているようだ。

以前15ルピーだったミルクティーは少なくまずくなって20ルピーに。ブラックティーも20ルピー。ネスカフェは25ルピーだという。

とにかく読売新聞がおいてあることだけがこの店の長所。

日本人客が多いが、ヨーロッパから直行便でネパールに来て、ネパールで「アジア」をすべてわかってしまうつもりでいるような感じの白人が殴り込んでくることもある。中国語をしゃべる客も来る。若い韓国人のグループが座敷に立て膝で座り込み箸で鉢をたたいて騒いでいたこともある。

味や清潔さでいえばやはり日本人が経営し駐在している店(「ロータス」など)が安心だと思う。オーナーが日本人でも日本人が駐在していないところは安心できない。

お茶が高くなっている原因にはガスの問題がある。

世界的な原油高騰で燃料が一般的に高くなっているだけでなく、ネパール南部のタライ平原の政情不安のためにインドからの交通が遮断され、ガスボンベがカトマンドゥに届かなくなっていることによるという。タライ平原の政情不安はマオイストではなく、もっと犯罪者集団的なギャングコミュニティによるものだということ。

数年前は茶店やローカル食堂は手押しで圧力をかける石油コンロを使っているところが多かったが、いまはほとんどの店がガスボンベを買って使っている。しばらく前は数百ルピーだったガスボンベが今年になって1200ルピーになり、いまではどうしても手に入れようとすると5000ルピーも出さなければならなくなっているとか。この数日は店を閉めるローカル食堂が増えている。お茶だけ値上げしている店もある。

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白人よりは韓国人のほうがよほどマシであるという事実

このタイトルでネットに流せばバカどもがいっぱい食いついてくるだろうということは容易に想像できる。いまここで話題にするのは、直接的にはツーリストの振る舞い、白人ツーリストも韓国人ツーリストも多いこのカトマンドゥで私が見ている限りでのツーリストの水準についてである。

なぜ韓国人を取り上げなければならないかというと、今のネパールには韓国人ツーリストが本当に多いからである。

ネパールに限らず南アジア全体で、東アジア系のツーリストといえば韓国人ばかりのようになっているところが多いようである。

韓国人ツーリストがウザイという声ももちろんあり、それもよく理解できる。日本人ツーリストの平均に比べれば、騒々しい、共用トイレなどの使用法が悪い、日本人女にしつこく付きまとうなどの苦情が日本人ツーリストの間でひそかに語られていることがある。

ただ、ネパールに来る日本人ツーリストの「層」は、タイの売春バービアで韓国人と女の取り合いをやっている日本人タイヲタや2ちゃんねらーとは多少異なるようである。

まず、関空からの直行便が飛んでいるせいか、特に若いツーリストに関西出身者が多い。関西の人間は他の地域の人間に比べれば韓国人慣れしているようである。

看板に韓国の国旗のデザインが入っているようなゲストハウスに泊まることは、東京出身者にとってはちょっと抵抗のあることだが、大阪出身者には平気なようだ。

数年前までは日本人ツーリストが多かった宿など、今は韓国人に占領されていることが多い。かつて「日本人宿」といわれていたところに韓国国旗のついた看板が出ていることもある。

ただ、そういうところでも日本人が駆逐されているというわけではない。韓国人ツーリストが激増しているのに対して日本人ツーリストはどんどん減っているらしく、また日本のガイドブックに紹介されている宿に韓国人が泊まりたがる傾向があるようで、その結果そういうことになってきているようである。

さまざまな先入観や偏見を排除して、できるだけ客観的に見て、白人と韓国人とどちらが共存しにくい迷惑な連中かと観察してみると、やはり白人のほうが迷惑な連中だというのが、私の今のところの所感である。

そもそも、異人種・異民族というものはなんであれウザイものである。異民族はウザイのが自然である。この前提を無条件に否定してきたから変なことになっているのだと思う。

異民族がぜんぜんウザくないという人は、相手を完全に見下しているか、それともはるかに見上げて卑屈に構えているかのどちらかだと思う。

アジアの旅行先で、白人はいいが韓国人はウザイという人は、アジア旅行さえ白人とのおしゃべりが目的で行く=白人とのおしゃべりが「国際交流」だという、アホ日本人女が白人に囲まれてはしゃいでいる英会話学校の広告ポスターそのままのような人か、あるいは実はもともと親韓派で、最初から韓国人を対等に見ていて、韓国人も日本人も同じようなものに違いないなどと思い込んでいたが、ある時点でその期待が裏切られたというのでウザイウザイと騒いでいる人かのどちらかだろう。

後者のような善良な連中に比べれば、私などはもともとかなりタチの悪い「差別主義者」といえるかもしれない。私にはもともと、「韓国人なんて・・・・に決まっている」という大前提が、嫌韓廚が騒ぎたてるよりはるか以前からはっきりあったことを告白しなければならない。
 

具体的に見ていくと、まず、韓国人はそれなりに道を譲るが、白人が前から来る有色人種に道を譲ることは非常に少ない。

ローカルであれツーリストであれ有色人種の方が道を譲るのが当然だというのが白人の態度である。白人ツーリストは、「アジア人はすべて哀れむべきローカル」とみなしてことさらわざとらしくフレンドリーにする場合以外、アジア人人間として見ることはない。自ら人間をよけていく臆病な犬か、そうでなければ生き物でもない歩く障害物くらいにしか見ていない。

ゲストハウスやホテルで、韓国人も日本人よりは騒々しいが、白人は明らかにさらに騒々しく迷惑である。

彼らは白人世界の掟にはそれなりに従っているのかもしれない。しかし、その掟にはアジアでは何をやってもいい、アジア人は人間ではないという条項も含まれているのだろう。

韓国人もトイレの使い方が汚いといわれるが、白人も同じかそれ以下。白人には共用トイレで大をしてまったく流そうとしないのが少なくない。

白人の夜の騒ぎ方はさらにひどい。カトマンドゥのゲストハウスにはたいてい門限がある。11時ごろには鍵をして夜番は玄関あたりで眠る。夜番といっても昼も働いていたり学校に行っていたりする連中で本当に夜は眠る時間なのである。

白人はそういうこともまったくお構いなしに、夜中何度でもエントランスを開けさせる。門限時間を聞かされていても必ず遅れて帰ってくる。門が閉まった後に鍵を開けさせて出かけ、朝方の3時4時に帰ってくるのも平気である。(さすがにネパールはタイと違い、売春婦をゲストハウスに連れ込むという者は人種を問わず少ないようだが)。夜中に門の開け閉めがある度に、ガラガラギーギーという大きな音が家中に響き渡り、白人が帰ってくると時間を問わず昼と同じ大声で廊下で喋りまくり、しかも白人の場合は必ずそれが長引く。自分の大きな足音を気にするなどということはさらにまったくありえない。ドアを昼間と同じように思いっきり開け閉めし大音響を立てる。共同の部屋に泊まっていればトイレに行くたびにバタバタバシンバシンと同宿者をたたき起こすことになる。白人はほかの人間に「配慮する」ということがまったくない。これに比べれば韓国人ツーリストのほうが幾分か周囲への「配慮」という観念があるように見える。

宿泊客の80パーセントくらいが韓国人であとは日本人、というゲストハウスに泊まっていたことがある。そこは以前は「日本人宿」とよばれていたところである。

韓国人も深夜帰ってくるのはいるし、声も大きいが、多少配慮していることは感じられる。夜中に廊下で話していたので「ここで話すな!」と文句を言うとおとなしく引き下がったのは意外だった。怖そうな面構えのいかにも朝鮮という感じの男だったので一悶着あるかと思った。

しかし白人が有色人種客からこういうクレームを受けて素直に受け入れるということはまずない。完全に無視することもあるし、侮蔑的に互いにニヤニヤして無視する、良くても口だけでソーリーくらい言って行いはまったく変えようとせずそのまま同じように続けていることもある。野蛮人による「そのような不当なクレームに従わないこと」が、「文明」的価値の中核たる個人の自由を守ることであり、正しい権利の主張であり正義である、くらいの考えからだろう。

その宿にたまに2,3人の白人が泊まると、その夜は騒々しさが普段とまったく違う。どんな時間でも平気で出入りする、廊下でしゃべる、扉を全力で閉める・・・・。

韓国人もうるさいと思っていたが、白人よりは相当マシだと実感した時である。

白人のうるささは常に特有の政治的な嫌味を伴うものである。ゲストハウスでもレストランでもインターネット屋でも、「ホストとの関係で自分たちが有色人種客よりも上客であることを有色人種客の前でホスト側に確認させる」、という白人特有の「承認儀式」がさらにその空間を嫌らしく騒がしいものにする。彼ら白人はどうしてもその儀式をホストに要求しないではいられない。自分たちの「空間支配」への承認、その空間における白人の優先権をホストに承認することを要求するために、大声を上げ、笑いたて、余計なことをまくし立てる。やんちゃをわざわざやり、それが承認されていることをいちいち確認することで、自分たちのヘゲモニーを確認する。これらはアジアのツーリスト地域でどこでも見られる白人の振る舞いである。このようなことも白人特有の迷惑さであって、アジア人ツーリストには見られない。

韓国人ツーリストは、かかわり合うと面倒なことが多いかもしれない。日本人女なら大変面倒なことになるだろう。しかし、極力かかわりあわないようにしてい る限り、無視していても、韓国人のほうからちょっかいを出してくるということはまずない。

この点も白人との大きなちがいである。白人はつねに、その場所における 自己の承認を求めて、いちいちちょっかいを出してくる。互いにかかわり合わないということを許そうとしない。

排除さるべき野蛮人として睨み付けてくるか、憐れむべき後進人種と見てことさらフレンドリーに擦り寄ってくるか、出方はいろいろだろうが、必ずちょっかいを出してくる。

彼らは「無視は敵意だ」という教条に則っているので、本当に無視していたら白人はいきなり突き飛ばしてくるか殴りかかってくるだろう。

彼ら白人にはもともと静寂の価値を自然に理解する能力はない。静寂は無であり、無は無価値であり、無価値は人間にとって反価値だという教条から、どこにいても常に騒がしく承認を求める政治闘争を展開するのである。彼らはどこにいても政治的に行為しようとする。空間占有の承認を求めてつねに誰かにちょっかいを出す。彼らにはそれ以外の人間の存在の仕方が想像もできないからだ。

もっとも、中国人ツーリストとの比較ということになるとまたまったく別の世界の問題になってしまうかもしれない。
 

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2008年2月18日 (月)

白人フリーの場所を!

数日、悪い風邪をひいていた。たぶんインフルエンザ。インドでは鳥フルがはやってるそうなのでもしそれだったら免疫ができてよかったが。

体調が悪くなれば精神的にも弱くなる。そういう時はますます毛唐にだけは近づきたくない。日本人専用といわなくても、毛唐だけは来ない場所でじっとしていたい。

カトマンドゥには韓国人専用の場所はいくつもある。イスラエル人用の場所ももちろんある。しかし、日本人用の場所はほとんどないといって良いと思う。

日本人がオーナーの喫茶店はあるが、白人客が多く店員は白人の方を歓迎する雰囲気である。

白人とは、たとえば喫茶店で人が読書をしているときに、いきなり「そこどけ俺たちが座るんだ」、というようなことを平気で言ってくることのできる人種である。こういうことは日本にい る人にはあまりわからないかもしれない。彼らは店主もそれを拒否できず白人の意向に従って取り計らうことを知った上でそういうことをするのだ。そして争いになれば先に暴力を振るってくるのも白人であ り、アジアでも白人国でも警察は常に白人の味方であることをよく知った上で彼らは暴力を振るう。私はこれらを全部体験している。(少なくとも大阪民国以外のア ジアではそうであろう)。

だから、「まともな店」には白人は入れてはいけないのである。

本来ならば、「外国人お断り」でなく、「白人お断り」とはっきり書くべきである。

どんな店もその雰囲気を売り物にするものだ。それが「安っぽさ」であってもいい。店(や旅店)には客層を選ぶ権利がある。それはどの国でも当然のことだ。客も自分にふさわしい店を選ぶのがマナーである。

白人が喉の奥から出すゲロを吐くような声が生理的にダメだという人がいて悪いだろうか。だから白人を消してしまえなどと一言でも言っただろうか。

白人とわれわれとは、基本的に別々の場所に滞在し、通じ合う部分で交流すれば良いだろうと言っているだけである。

しかし白人はそれを断じて認めない。アジアの、アジア特有の、もっとも柔らかく壊されやすいところを捜し求めて蹂躙することに特別な喜びを感じ、そういう行為を制限なく行うことを「権利」だ主張するのが白人である。

庭に積もった雪を眺めて楽しみたいという人と、新雪を自分の靴で踏みつけて勝利感を味わいたいという人種とでは、最初から共存し得ないのである。

内外の旅行関係業者はもう一度考え直してほしいと思う。いまどき毛唐とお喋りしたいために海外に行くような日本人は下流な連中であり、金も落とさず評判だけ落とす連中ばかりである。

日本人のためのサービス、日本人のための場所、少なくとも白人がめったに来ない場所を世界の各都市に作るということを考えてほしいと思う。レストランなら日本語と現地語だけの看板を掛けるようにすればいいのである。それでもアルドウ某のような毛唐が荒らしにくるなら完全に看板なしの「秘密クラブ」にするほかない。ネットだけで知りうるような店である。

もちろん事実上白人専門の店は世界各地にいっぱいある。それもいいことである。もっとあってもいいくらいだ。

私はタイでネット屋を経営してみたいと思うことがある。日本人経営というのは絶対に伏せて、白人(とアジア女)しか事実上入れないネット屋にする。(とはいってもタイ人は入れざるを得ないだろうが)。アジア男が入っても店員は完全に無視する。PCはスタッフが開かないと使えないようにしておく。だからアジア人客はへどもどして立ち去るしかない。それだけではなく、このネット屋にはサロンがついている。そして、なぜか若い女子学生のスタッフが5,6人いる。みんな現役の女子学生で、ファランとお喋りして英会話を上達したい「向学心豊かな」ボランティアのような女の子ばかり。。。ネットの合間に彼女たちと白人客たちとがサロンでまったりし英語で交流できる「英会話喫茶ネット」。これなら多少料金は高くても白人客がいっぱい集まってくるのではないか?

白人専用の場所をもっともっと明確な形で打ち出して行くことによって、白人フリーの場所も確保することができる。
 

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2008年2月11日 (月)

バウンの男 カトマンドゥ

一見してバウンBahunとわかる男。バウン以外の何者でもない顔。この顔ならバウンかチェトリかなどと迷うこともない。日本人女が結婚したがるのもこの手が多い。

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小さいころから親や周囲に言い聞かされているので(われわれは最高位カースト・ブラーマンであり浄である、それ以外は不浄である、と)特権意識が大変強い。もったいぶった振る舞いをしている。この人は英語はあまり話せない。しかし、チェトリもそうだが、英語が話せるとまた別の意味で厄介なことになる。必要以上に理屈っぽく、「いちいちくどい言い訳」をさんざん聞かされるからである。

彼らは「言い訳」の理屈を上手にこねることこそ、優れた頭脳ゆえに高位カーストに位置づけられているアーリアン(高貴な者)の証だと思い込んでいるようである。この辺はアーリア人の末裔であるらしいヨーロッパ白人の発想と一脈通じるところがあるかもしれない。

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しかしこの人言っては悪いが頭のほうはまったく空のようだった。

ネパール人なのに、なんと、「国王の所属カースト」を知らなかった!

私はちょっとこずるい方法だが、自分が知っていても何も知らないような風に質問を始めていく。

まず「バウンとチェトリは違うの?」と聞いてみた。即座に違うという答え。どう違うのと聞くと、英語は出てこず身振りで「バウンのほうが上」という意味らしいしぐさをする。

そこで「国王はチェトリだよね?」と聞いてみると。

なんと「いやバウンだ」という答え。

さらに、「国王のカースト(ジャティ)は“サハ”だよね?サハはチェトリじゃない?」と突っ込んでみたが、よくわからないという顔をするばかり。

要するにこの人は「偉い人はみんなバウン」だと思ってたようである。

今まで私が出会ったバウンはあまり尊敬できないようなのが多いが、国王がバウンだと思っている人はさすがにいなかった(と思う)。

なんか自信がなくなってきたが、現王室は「サハ・タクリ」のはず。だから4分類で言えばチェトリのはず。そもそも国王は武家なのだからクシャトリアであるのが当然。

ネパールのカースト秩序は非常に複雑怪奇だが、私の知識でいうと、アーリア系のカーストは、バウン、チェトリ、バイシャ、スードラ、に大きく分類され、近世になってネパールを征服したアーリア人の支配階級がバウンやチェトリに納まり、モンゴロイド系の諸民族やカトマンドゥの先住民ネワール(ビルマ語系だという)は基本的にバイシャに位置づけられた。しかし、ネワールのカトマンドゥ盆地における権威もクマリなどの形で存続している。ネワール内部の司祭カーストも、アーリア系のバウンのような特権意識を持っているように見える。バジラチャリア、カルマチャリアなどという苗字が有名。ネパールでは苗字を聞けばカーストがわかってしまう。モンゴロイド系山岳諸民族の中にも複雑なカーストがある。グルン内部にも細かいカーストの区別があるようで、お互いに自分たちのほうが上だと思っているようだ。モンゴロイド系山岳民族はたいてい仏教系だが、マガルはヒンドゥ教色が強いといわれる。プライドも強いらしい。同じくモンゴロイド系のライ族は、長くマガルの隷民だったとか。しかし、いずれにしても、アーリア系から見れば、「ティン」(よくわからないが第三階級という意味か?)とか「ボテ」(チベット人)で一括のようである。

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2008年2月10日 (日)

女子高生たち カトマンドゥ

左の子はマガル族。右の子はネワールだという。(右の子は私の抱いていたイメージではネワールとは思えなかった)。ここで「族」というのはすべて民族でもありカーストでもある。

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左の子のかわいい表情を見せるために右の子を犠牲にしてこの写真を選んだ私の如何わしい心根を、このブログの読者は理解してくれるものと思う。
  

次の二人はグルン族。私はチェトリかと思った。

この子の名前はラクシミ。このグループのリーダー的な存在らしく、みんなが何かあると「ラクシミ」と呼びかけて、この子中心にまわっている感じだった。他の子の名前が呼ばれるのを聞かなかった。

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この子はラマ(タマン)。

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最初、顔立ちから判断して「タマンか?」と聞くと、強く否定してラマだと答えた。タマン族内部の上級カースト(僧侶カースト)ということなのだろう。
 

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タマン族の少年とグルン族の少女 カトマンドゥ

チェトラパティのチベット食堂で働いているタマンの少年とグルンの少女。

タマンの少年。実物はもっと少年風。これでもすごくポーズを作っている。

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(下)グルンの少女。写真に撮るとおばさんに見えるがまだ20歳ぐらいの少女。
タマンの少年とは対照的で、照れて動き回るので何枚撮ってもいいのが決まらなかった。

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先に少年の方を撮っていたのでこの後で少年の写真を見せると、うらやましそうな顔をして「カスト・ラムロ!」と言っていた。

今まで出会った人たちの印象から言うと、タマンはふにゃふにゃした感じで志があまり高い印象を受けないが、グルンの方が骨がある感じはする(どうしょうもない馬鹿や、政治家になっていて権力を振り回したがる男もいたが・・・・国会議員だが私のようなツーリストと話す機会があったのだから、まあネパールはのどかな国というか、こじんまりした国)。



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2008年2月 9日 (土)

今日はLhosar ネパール

「ロサル」だが「ノサル」に聞こえることも。チベット仏教のお祭り。
その辺のネパール人に聞いても、ある人はチベット人とタマンの祭りだといい、ある人はブータンの祭りだという。

今日はカトマンドゥも春らしい陽気になった。

2、3日前からタメルの街にはチベット仏教の旗(?、チベット仏教に限られないのかもしれない)がかけられている。

タメルチョーク付近

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下もタメル。
昔「味のシルクロード」があった通り。
「味シル」はさすがに潰れて、「おふくろの味」という日本料理店になった。
(この道をまっすぐ北に行った右側にある「ふる里」とオーナー(ネパール人)は同じなのだという。しかし料理人が違うので味が違うと断言する。「ふる里」と同程度なら外国の日本料理店としてはまあまあではないかと思う。ふる里で働いていたビジェイという男はいまは「おふくろの味」にいる)。

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ここを先に進むとタメルチョーク、左にずっと行くとチェトラパティ。うしろに行くとタヒティ。

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2008年2月 8日 (金)

茶店で働くタマン族の少年 カトマンドゥ

12歳ぐらいだろうか。この子はネパールでもちょっとかわいいほうだが、珍しい美少年というわけではない。
モンゴロイド系の仏教徒カースト、タマン族の少年。
この店の子ではなく、児童労働である。この店のオーナーはタパ(アーリア系、チェトリ)。
タマンにはこういう女性的なやわらかい感じの少年が多いと思う。
こういう美少年(もう少し成長したの)を目当てに日本人女性セックスツーリストがネパールに殺到する。

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