
3月11日。
午前9時過ぎにYakホテルをチェックアウト。村の外に出たらたいへんな霧になっていた。視界10メートルくらい。ムナを悼むような冷たい霧だなどと感傷に浸りながら歩く。
宿に忘れ物を取りに帰ったり道に迷ったりして10時ごろデウラリDeurali着。(本当は30分ぐらいの道のり)。バサンタプルをデウラリの方に出たところにセメントで固めた用水路がある。それに沿って歩かなければならない。
デウラリは本当に小さな村。標高2475メートル。
東南アジアの腐った水に浸かりすぎて心身ともに堕落しているのを痛感する。ちょっと歩いただけでヘトヘトになりヨロヨロ足で11時ごろようやくグルビセGhurbiseに着く。ここもたいへんな寒村。板葺きの家が数軒。茶店2,3軒。
タイを代表選手とする東南アジアが軽蔑されるのは貧しいからでも後進国だからでもなく、別の理由によると思う。
つまり、清清しい要素、禁欲的な要素がないからだ。
マレーシア人に「ネパールに行く」というとみな口をそろえたように「貧しい国だ」と言ってしかめっ面をする。彼らはその程度の基準しか持ち得ない。
東南アジアの国々が土人国としてさげすまれるのは、貧しいからでも後進国だからでもない。それはちょうど、売春産業が栄えるのは貧しいからでも後進国だからでもないのと同じである。
貧しさならネパールのほうがずっと貧しいしずっと後進国といえるが、ネパールがタイのように世界中のマトモな人々から軽蔑されるということはない。
タイよりずっと貧しいネパールで、タイのような売春産業が盛況を極めることも(いまのところ)ない。
いまだにタイの売春産業を貧しさや途上国であることのせいにする人がいるが、それは全く見当はずれである。
タイで売春産業が栄えるているのは、タイ人自身がそのような自分が好きで、それを選択しているからである。
グルビセGhurbiseの茶店で30分休憩。本を何冊も持ってきたので荷物が重い。
30分ほどのろのろ歩くとパンチポカリPanch Pokhariの村に着く。ここは少し大きめの村。今度歩いたルートではいちばん標高の高いところ(2850メートル。グルビセのPathibhara Mandirの丘を除く)。近くにラリグラスが咲いている。せっかくなのでまた休憩。茶店でチヤを飲む。白人のような子供たちが遊んでいる。タイの山岳少数民族の村ではないので、毛唐が生ませた子というのではないのだろう。茶店のアーリア系の女はチヤを注文しているのにコーヒーかコーヒーかと何度も念を押す。どうやらツーリストズレしているらしい。そして何度もチヤ、ドゥッチャ(ミルクティー)だと言ったのにインスタントコーヒーを出してきた。ミルクコーヒーなので見た目はわからない。もちろん拒否。
パンチポカリを出るとちょっと険しい道になる。濡れた岩が滑りやすいので注意が必要。道に迷うところもあるので探しながら行かなければならない。
3時半近くになってようやくPhediに着く。
4時半過ぎにチョウキChauki着。ロッジ「ラリグラス」は閉まっている。
どこに泊まろうかとウロウロしているとどこからともなくYanziが現れた。彼女は私を早々と追い越してチョウキに来ていたのだ。どこで追い越されたのかもわからない。道は狭いのに彼女に会っていない。パンチポカリの手前でYanziの弟に会った。弟は姉はもうチョウキに行ったというのでキツネにつままれたような気がした。まず彼がYanziの弟であることに気づくのに時間がかかった。Yanziはチョウキに行くようなことはひとことも言っていなかった。
ムナの葬式はまだ続いていて「ラリグラス」は営業していなかったが、Yanziに連れられて裏口から入るとムナの姉妹たちに出迎えられた。
数年前にここに来てムナたちに連れられてジリキムティまで歩いたことがあると言うと、ムナのいちばん末の妹モヌ(マヌ)に「あなたはゲストだ」といって迎えられ、お茶を出される。モヌはダランの学校に通っていて英語を話す。
モヌによれば、ムナはニューモニア(肺炎)でダランの病院に11日間入院したあと、10日ほど前に亡くなった。
入院するまで体の調子が悪いことをひとことも言わなかったという。ムナはダランで火葬された。享年は、ある人は28歳だというが30歳くらいのはず。
モヌはいま18歳。この日はモヌとYanziが私の世話をしてくれた。
タマン族の葬儀は12日間続き、今日が11日目。モヌたち親族は今夜、外の芝地にしつらえられている祭壇の前で徹夜の儀式をする。ラマの説教を聴いたり礼拝したり。
数年前、ムナとムナを姉のように慕っているチェトリの少女プジャと一緒にチョウキからテルトムまで歩いた。途中のジリキムティにはムナの従姉のビマ
ラがやっているロッジがあり、そこで1,2時間休憩した。そのあとテルトムで二人と別れ、ジリキムティを経てラスネまで一人で戻った。しかし、そのときの
ことはもうぼんやりとしか覚えていない。本当に思い出せるのは、ムナとプジャと一緒にジャングルの道を歩いたこと、風になびくムナの長い髪が異様に美しかったこと、プジャがしきりに話しかけていたことくら
い。テルトムやジリキムティがどんなところだったかもまったく覚えが無い。
たった1,2時間立ち寄っただけの私をジリキムティのビマラが覚えていてくれた。私はこの人に会ったことも全く思い出せない。
プジャは当時14歳と聞いたはずだが、みんなが言うにはいま22歳でロンドンに留学している。彼女は当時から英語が流暢で歩いている間ひっきりなしに無駄口をたたいていたが、アーリア人によくある高飛車なところはなく、チェトリは嫌いでタマンが好きだと言っていた。ムナを本当に慕っていて尊敬もしていたようだった。ムナが死んだあとモヌと国際電話で話をしたとき、プジャはムナの死を信じず、モヌの話に怒り出し、やがてたいそう泣いたということ。今もまだロンドンにいる。
ムナはチョウキの学校で英語の教師をしていた。学業は17年目まで修了していて、まだ続けていた。「ディグリー」をとったら結婚するといっていたという。品行方正でタバコや酒はもちろん肉も食べなかった。ミルクティーさえ飲まず、いつも白湯(タトパニ)を飲んでいた。なんで病気になったのかわからないとみんないう。白湯は体に悪いという珍説を唱える人もいた。
そこで徹夜の読経や礼拝が行われる祭壇にはラリグラスの花が捧げられていた。
私も参列した。葬式が12日も続いたおかげで、私もムナの葬儀に参加することが出来た。
チョウキChaukiの村の目抜き通り 左端の青い家が「ラリグラス」。

チョウキはこのあたりでも美しい村でロッジが数件ある。村の入り口にはバサンタプルのよりも詳しいトレッキング地図が掲げられている。
ムナの髪の美しさは姉妹たちの共通認識にもなっていた。
プジャがロンドンに留学できたのはあるイギリス人ツーリストがプジャの両親と知り合いになり、その人が全面的に援助してくれたかららしい。以前はプジャの親は医者だと聞いていたが、「ラリグラス」の正面にある小さな家が彼女の家。父親はツーリズム関係の仕事をしていたとも。
日本人はやはりカネを惜しみすぎているかも知れない。個人で自分の財布から個人を援助すると言うことも必要である。その方が印象は強くなる。
私は眠くもなかったので深夜まで付き合って外で起きていた。18歳のモヌはときどき休憩して飲み食いするラマたちや客たちの接待に大童だったが、ずっと私に気を使ってくれた。ミルクティーをついでくれたり、ときどき何か不足なものはないかと聞いたり、ここにいるようにと言ったかと思うと自分たちは起きているが眠くなったらいつでも寝てもいいといってくれたり、明日は帰らないようにと言ってくれたり。まるで親戚のような扱いをしてくれた。もちろん他の姉妹たちがどう思っていたかはわからない。
モヌは東南アジア風の美しいルンギをはいていた。
家族の雰囲気はそんなに悲しそうには見えなかった。ときどき笑い声も聞こえる。悲しい気持ちを紛らわすために12日間もこんなに盛大な葬式を続けるのかもしれないと思った。
祭壇の前に立つムナの遺族 左から3人目の赤茶色のルンギをはいている女性がモヌ。

Yanziによれば、タマンの仏教はチベット人の仏教とはかなり異なるということ。チベット僧は本来妻帯しないがタマンのラマは妻帯する。(もっとも、ヒレのゴンパロッジのチベット人オーナーは坊主のはずだが妻帯しているようだが・・・・)。
やがて会衆はロクシーやらチャンやらを好き放題に飲み始めた。トランプに打ち興じている連中は何しに来ているのかわからない。
Yanziは午前1時ごろに寝た。早朝また起き出して手伝わなければならない。
11日目の夜に灯された108のバッティ(灯り)

翌朝も祭壇の前でラマの太鼓に合わせた親族による礼拝が続く。祭壇をしつらえてあるのは「ラリグラス」の裏の丘の片隅。
モヌは昨夜は一時間しか寝なかったという。昨夜灯された108つの灯明の前でたった前の礼拝が続く。
ラマのデンデン太鼓の音頭にあわせて時々みんなが祭壇にラリグラスの花を投げる。
葬儀の最後の日である。
昨日はきわめてクールに振舞っていたYanziが、今日はうしろの席に座ってポロポロ涙を流している。隣にいた私が何か声をかけようとしても相手にしてくれない。祭壇の前でたったまま礼拝している姉妹たちもみんな泣いていた。ムナとの最後の別れの儀式だったのかもしれない。
葬儀はクライマックスを迎えていた。昨日は白くて美しかったモヌの顔が重労働と睡眠不足と悲嘆のためか、腫れ上がっている。
別れの儀式は午前中3,4時間続いた。祭壇のまわりはラリグラスの赤い花びらであふれている。
私もムナとの「儀式的な別れ」をしたいと強く感じた。しかしそれは私には許されないことだった。というより彼らの儀式の流れを理解していなければ、そして、「その時」が別れの時点だということを信じていなければ無理なことだった。
Yanziは昨晩、タマンの仏教とチベット人の仏教との違いを強調していたが、今日は完全に儀式の流れの中にいた。
日本の葬式と違い、祭壇に遺影が飾られることもない。参列者が一人ずつ焼香するという儀式もない。個人的に別れを告げる機会が設定されていないので、少し物足りなさを感じる。しかし個人的な別れの儀式をしないのは祭壇の前の聖域に入っている遺族も同じのようだった。
生前のムナの写真を見たかったが葬儀が全て終わるまで見せてもらえなかった。すぐに出せるところには一枚もなかった。
そのかわりモヌが携帯で撮った火葬前のムナの死に顔写真を見せてくれた。モヌは死に顔写真を撮ることや見ることに何の抵抗も感じていないようだった。確かに美しい顔といえた。4年前より美しくなっていたかもしれない。しかしやはり死に顔だった。
午後に行われた最後のセッションは、親族だけのものだったが、私も参加させてもらった。Yanziも参加しなかったから、かなり特別な扱いをしてくれたのだと思う。ラマから薬の入った水を一人ずつ手に受け取り少し飲んで残りを捨てる。ラマの投げる米粒と水を手のひらに受ける。米粒を投げながら祈る、などの儀式を聖域の中で行った。
葬儀は午後4時半ごろにすべて終わった。
葬儀がすべて終わったあと若いラマによる余興のダンスが行われた。ボスラマが音頭を取る。
ムナの姉妹のなかでもいちばん悲嘆していた次女のバンダナはそれを見たがらず、家に下がってしまった。
葬儀のあともお客さんの接待は続く。むしろ葬儀が前部終わった後が客の接待のクライマックスのようだった。ただ飲み食いするためだけの客がたくさん入ってくる。
バウンやチェトリの男が数人ズカズカと入ってきた。ムナの母親に何かぎゃあぎゃあと不平を言っている。彼らは相伴にあずかろうとお茶を飲みにきたのだが、ビスケットがないとかなんとか言っていた。食堂でビスケットを食べお茶を飲むとすぐに出て行ったようだ。もちろん仏教徒でもない。焼香という制度もないから、ムナ(ホトケさん)に哀悼を捧げるようなことは形さえしない。ただ飲み食いするだけで行ってしまう。それが普通のことのような振る舞いだった。
それでも家の娘たちは通りがかる人たちに誰かれなく声をかけてお茶に誘っている。
昨夜の徹夜組には当然ながらバウンやチェトリは一人もいなかった。
ロッジ「ラリグラス」 ムナの家

下)ムナが英語を教えていた学校

チョウキは標高は2690メートルの丘にある村。