a.ミャンマー

2008年2月 6日 (水)

ジャパンハート

今、「ジャパンハート」という団体に注目しています。といっても最近知ったばかりなのでまだ評価はしません。
 

日本からアジアへ  ~ジャパンハートの試み

 1995年にミャンマーでの医療活動に関わりを持って以来、早9年が過ぎようとしています。国際貢献するとは、水面に石を投げ入れた時のごとくであると考えます。すなわち石が落ちた地点が自分であり、そこから始まる同心円状の波は内側から自分を包む家族、地域社会、日本、アジア、世界、宇宙とその大きさを拡大します。宮沢賢治の言葉を借りれば、その意識の広がりこそ人間としての進化であるということです。

この関係の中で大切な事は、小さな円は大きな円の一部であるという事実です。すなわち、アジアと関わりアジアに人々のために生きるということは、日本のために生き、自分の地域社会や家族ひいては自分のために生きているという事にならなければ、その行動はどこか和を失った行動であると考えます。援助とは決して一方向的なものではなく、双方向性に働く力なのだどいうことです。


 もうひとつ大切なことがあります。それは歴史性ということです。私は人と人に恩があるように、やはり国と国にも、民族と民族にも恩があると思うのです。50年前多くの日本人が名もなきミャンマーの人たちの命がけの行動で命を拾いました。戦後貧しくお米のなかったこの日本に、大量のお米の支援をしてくれたのもこの国でした。

どれほどの日本人が救われたでしょう。誰かが私に言いました。どうしてその恩をあなたが返さねばならないのかと。答えは簡単です。私は日本人であり、多くの戦争に行かれた方たちは、この国の長い歴史の中で私と血を分けた同じ民族であり家族であるからです。

あの酷暑の国で亡くなられた人々は子孫である我々が彼らの命に思いを寄せミャンマーの人々のために尽くすことでまた、安らかになっていかれると思うのです。私は天が私に与えられた医療という技術で多くの貧しく名もなきミャンマーの人々のために、またアジアのため、日本のために尽くそうと思います。
その貧しさゆえに治療や手術を受けれずにいる人々がいます。

私たちは今後も活動を続けていこうと思います。それは日本人の使命であり、日本の使命の一つである思います。

国際医療奉仕団 ジャパンハート   代表  吉岡 秀人

http://www.japan-heart.com/info/info1.htm

 
民間の援助組織にとって、その財源を獲得することは大変なことです。その労力の半分以上が、その資金を得るために費やされると言ってもいいかもしれません。資金が潤沢でない組織は、資金集めのその先にある本当の使命を全うすることができないと私は考えます。ここに日本の援助組織の弱点があります。

アジアで、アフリカで、南米で、欧米の民間組織がその潤沢な資金に支えられながら活動を大きく展開しています。

例えば国境なき医師団(フランス本部)は年間予算200億円の資金力を持ち全世界で活動を展開しています。この世界第2の経済大国日本にありながら、日本で一番大きい医療団体は年間総予算3億円、うち実際の活動費は2億円という実に100倍近い資金力の差があります。これでは到底彼らには及びません

ですから私が皆様に申し上げたいのは、アフリカはともかくアジアは日本がやらねばならない。歴史的にみても、地理的条件でも、そして将来の関係性の中でも、日本こそがアジアで最も存在価値のある援助団体を持たなければならないのです。皆様に是非、ご寄付をお願いしたいと思います。

ジャパンハート 代表 吉岡秀人

http://www.japan-heart.com/support/Support-a.htm

 
私はまだこの団体の存在を知ったばかりなので、どんな背後関係があるのか無いのかなどまったく知りません。ただページを読んだ限りでは悪くないように思いますが。

(この主宰者の先の大戦の評価、たとえば「第二次大戦で20万人以上の日本人が亡くなった土地、ミャンマー(ビルマ)が、そして日本の歴史の力が、その嘘の積み重ねの延長線上にあの60年前の戦争もあったのだと私に教えてくれました。」には疑問のある人がいるでしょうが、まだましな方だと思います。本格的に先の大戦の再評価をすることは暗黒時代にそれでも地球が回っているというのと同じで、個人ではそれだけで一生かけても足りないことでしょう。それよりもこの人が、日本のNGOであること、日本の心による活動であることにこだわっているらしいことを評価したいと思います)。
 

日本人だけではないですが、ボランティアをやるというと現地に出て行って動きたがるという傾向があります。

その方が「いいことをやっている」という気分になれて自分が気持ちがいいし、ボランティアをやってる人には若い女の子が多いかもしれないというのでそれが目当てに行くというのもいるでしょう(念のために再度言っておくと、こういうことは日本だけではありません。タイ北部の山岳少数民族の村に遊び〔素朴な伝統村でのホームステイとヤンチャと馬鹿騒ぎ〕気分で「ボランティア」に出て行く白人男たちがいかに多いことか。彼らの多くがチャンマイやチェンライのバーの売春婦は嫌だまたは飽きたというので山村のスレてない女の子との恋愛=セックス目当てであり、何割かは〔潜在的な〕ぺドフィリアだと言っていいでしょう。山村では白人活動家によるレイプなども頻繁に起きているようですが主宰する白人NGOは不祥事はもちろん隠す)。

悪質な話は別にするとしても、一般的に言って、技術も資格もない人間が「心」だけで現地に出て行っても足手まとい以外のなにものでもないでしょう。

第一、実社会で充実した活動が出来ていないような人間がもっと厳しい条件で活動しなければならないNGOに入って使い物になるはずがない。ボッカ(山村などへの物資の荷揚げ)や土方(土木作業)だって技術と訓練が必要でしょう。

それでもボランティア団体側がそういう役に立たない人たちを拒否しないとすれば、それはそんな形であっても出来るだけ多くの人にその団体に関係してもらえれば宣伝になるだろうし、キミは足手まといだから参加してくれるなと言って拒否したら逆に悪宣伝になるだろうと考えるからだと思います。
  

人のためになることは必ず自分にとっては苦痛なものです。少なくともわれわれ凡夫の境涯ではそう心得ておいた方がいいと私は思います。

つまり本当に意味のある援助をするということは、自分が一番与えたくない物を与え、一番やりたくないことをあえてやることだと私は思います。少なくともほとんどの人はそう思っておいた方が無難だと思います。

要するに、「良いこと」をしたければまず身銭を切って自分のカネを寄付するのが一番良いということです。(これは一般論であって、上に掲げた団体が読者のそういう行為にふさわしいといっているのではありません。念のため)。

日本のボランティア団体やNGOが発展しないのは、個人の意思でバーンと自分のカネを出すバッカーが少ないからだと思います。

そのため、政治的背景、外国の支配、宗教支配の団体ばかりがはびこり、ますますマトモな人たちはNGO一般に対して正当な懐疑を抱くようになります。

しかしその隙に、文明的支配を本質目的とする白人NGOやミッショナリーが幅を利かせ、援助と称して文化的、精神的、宗教的な搾取抑圧洗脳活動を展開し、あるいは白人の文明的支配をイデオロギー的に支える「白人の道義的な優位性」を奪っていくということになっていることに注意する必要があります。
 

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2007年11月24日 (土)

タイがミャンマー軍政にタイ人犯罪者の保釈を要求 プ国王80歳記念祝賀で ミャンマー側も応じる

精神異常の道をまっしぐら突き進んでいるように見えるタイ。

しかしこれは彼らのにとっては異常なことではなく、タイ族の「解放シナ奴隷」としての根っからの卑しい本性によるもののようにみえる。

タイという国は相手の立場が弱いと思えば、どんな理不尽なごり押しでもしてくる国だということがよくわかるニュースである。

日本も欧米から袋叩きにあったりして政治的にもっと弱くなっていけば(この先クリントンが大統領になり、福田がまたあちこち土下座をして回ればそうなるだろう)、タイ人売春婦(マッサージ師、介護師、看護師、あるいはタイ料理人名目の)の就労を自由化しろとか、タイも認めているように日本もタイ人のノービザ入国を認めろとか、何とでも言ってくるだろう。

なにしろタイは政治家が「わが国は世界に広く門戸を開いてきた、日本も見習うべきだ」なんて身の程知らずな説教を日本にしてくる国である。(タイの場合は門戸じゃなくて万個だろということだが)。これは数年前の読売新聞で読んだこと。


タイ人受刑者33人釈放へ=ミャンマー軍政、国王誕生日前に

11月23日20時0分配信 時事通信

【バンコク23日時事】タイ陸軍は23日、同国のプミポン国王が12月5日に80歳の誕生日を迎えることに合わせ、ミャンマー軍事政権が同国内で服役しているタイ人受刑者33人の釈放を決定したことを明らかにした。
 タイ陸軍などは7月以降、国王の誕生日を祝福するため、受刑者の釈放をミャンマーに要求。ミャンマー側は旧首都ヤンゴンのインセイン刑務所に収監している35人のうち薬物事件などに関与した33人の釈放を決めた。受刑者は今月30日、タイ空軍の輸送機で帰国する。 

  

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2007年10月31日 (水)

ミャンマーの元麻薬王、クン・サ氏が死去

クン・サ「氏」、というのも妙な感じ。

ゴールデントライアングルの麻薬利権の元締めといえばクンサーというのが定番だが、クンサーなんて番頭に過ぎないと言う人もいた。本当の麻薬利権の元締めは何を隠そうタイ王室だと。

10月30日21時56分配信 読売新聞

 【バンコク=太田誠】ミャンマー、ラオス、タイ国境にまたがる世界的なケシの産地「黄金の三角地帯」で、1990年代半ばまで麻薬生産と密売を牛耳った麻薬王、クン・サ氏がヤンゴン市内で死去した。

 ミャンマー軍事政権筋が30日、明らかにした。74歳と見られる。正確な死亡日時や死因は不明だが、糖尿病や高血圧を患っていた。

 国内人口の約1割のシャン族の母と、中国系の父の間に生まれた。ミャンマー東部シャン州の分離独立運動のため、兵力数千の武装組織モン・タイ軍を率いて中央政府と戦闘を繰り広げ、「将軍」と呼ばれた。

 その資金源となったのが、シャン族が栽培するケシを原料とする麻薬だ。タイや中国経由で麻薬を世界に密輸して得た莫大(ばくだい)な利益で武器を購入した。米国が80年代後半に麻薬密輸罪などで起訴し、200万ドル(約2億3000万円)の懸賞金をかけた。

   

シャンというのはシャムと同義で、本来は地域の名前。一般に「シャン族」と呼ばれるのは、ミャンマー・シャン州を中心に住むタイ・ヤイ(大タイ族、ヤイは大き い)のこと。タイのタイ族はタイ・ノイ(小タイ族)。

タイヤイとタイノイは本来同系の言葉を話すが、タイ語に多いインド系の単語はタイヤイには通じないことが多いようである。

タ イ語というときの「パサ・タイ」のパサ(言語)がチャイントーンのタイヤイの人にはまったく通じなかった。(それでもタイヤイはタイ人と違ってニコニコしていた。タイ人なら耐え難いしかめっ面をする場面である)。

ちなみに、ネパール語では「ネパリ・バサ」、マレーシアでは「バハ サ・マレーシア」。

ルンビニはタイではルンピニ。ルンピニ公園では・・・・。

どれもインド系の言葉(梵語かパーリ語か)で、タイに入るとbからpへという子音推移があるらしい。

タイ人はタイヤイを密かに(?)尊敬しているのだという話も。「中国に残っている色白のご先祖様」みたいな感じか。

「俺たちタイ族はもともと中国から来た。モン・クメールやマレーやフィリピノみたいな東南アジアの土人じゃないんだ」というのがタイ人の哀れなプライドである。

しかし、中国にいたころのタイ族は全体としてシナ人の「総体的奴隷」だったという話。
 

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2007年10月21日 (日)

ミャンマーについて

今朝のテレビの感想。

日曜朝のテレ朝のくだらない「討論ショー」番組はいつもは見ないのだが、今朝たまたま見ていたら(日本に帰ってはじめて)、元駐ミャンマー日本大使の人が出てきて大変興味深い話をしていた。

ミャンマーでデモをやっていた坊主どもは外国勢力からカネをもらった「にわか坊主」のいんちきで、そのバックには外国勢力、要するに欧米勢力があるという。坊主の服装はいくらでも手に入るから(男は皆家に一組ぐらいあるだろうと思うが)、にわか坊主に変装することは簡単である。アウンサンスーチーも20年前は民意を受けていたといえるが、今は何の展望も示していない(欧米勢力の傀儡に過ぎない・・・とはいっていないがそういう意味だろう)。ミャンマーは天然資源豊富な国で、豊かな国である。とくに天然ガスはタイや中国やインドに売っているほどだ。というような話だった。

私は何の知識も持たないが、この数年の間にミャンマーに3度ほど旅行している。タイ国境なら何度越えたかわからない(パスポートのスタンプを数え上げればわかるが)。

私はミャンマーの日本大使館には非常に良い印象を持っているので、それだけでもこの元大使のいうことを信用しようという気になるのである。

ヤンゴンの日本大使館は、中で働いている人はもちろん外にいる守衛までみなたいへん上等な日本語を穏やかに話し、一介の薄汚い日本人旅行者の頼みごとに親身に耳を傾け対応してくれた。私はヤンゴンでインドビザを取ったのだが、そのために日本大使館の発行する書類が必要だったのである。あのとき感じたホスピタリティは、タイはいうまでもなく近隣諸国にある日本大使館では経験できないものだったと思う。大使館の雰囲気はもちろんミャンマー人やミャンマー社会の雰囲気を反映しているのだろうが、日本人旅行者をほっとさせるあの統一感ある穏やかさには、あの空間を主宰していた大使の寄与も大きかっただろう。

彼に反対する席に座っていたのは、いかにも活動ゴロ的なNLD海外活動家のビルマ人と、しゃべり方ひとつとってもクソ左翼の典型のような日本人「ジャーナリスト」。

「ジャーナリスト」は、豊かな資源があるがその富が正しく分配されていないので「人民は貧しい」のだという聞き飽きた左翼テーゼをあたかも立派な真理でも説いているかのようにもったいぶって繰り返すのみ。その話に具体的な内容は何もない。

活動ゴロビルマ人は、天安門事件の後に海外に亡命して良い生活をしていた活動ゴロシナ人学生と似たようなものである。亡命チベット人にせよNLDにせよ、彼らが世界支配者たる白人の恩寵を受けられる以上、祖国を売りに出してもすがれるところはいくらでもあるのである。

そりゃミャンマーでつつましく生活しているよりは、スーチーの味方で売り込んで白人帝国主義者どもからタンブンしてもらって海外活動家生活してたほうが良い思いができることは確かである。

イラクも石油が出なかったらアメリカは何もしなかっただろう。北朝鮮と同じである。北朝鮮も日本よりは鉱物資源豊富らしいが。ミャンマーはそれ以上に白人資本にとっては宝の山である。白人がミャンマーにこだわり介入しようとする動機は明らかだろう。

(おそらくはタイヲタ系の)糞ウヨブログのミャンマー軍事政権批判など、左翼と白人帝国主義者どもが仕掛けた枠組みにすっかりはまっているだけなのだが、そのことにまるで気づいていないようである。

ミャンマーの人民が飢えている?冗談じゃない。

ミャンマーの人民の生活が苦しい?タイの貧困層よりははるかに人間らしい生活をしている。とくに少数民族は独自文化もタイよりははるかに尊重されて生き生きとしている。その幸福度はすくなくともタイよりは高いと思う。

少数民族の幸福度は、多数派のビルマ族の社会の中で、少数民族がその独自の文化的な表現を守りながらどれだけのびのびと振る舞い明るい笑顔を見せているかを注意深く観察すれば推測することができる。

それは、タイのチェンマイ近郊の観光用少数民族村の人たちの作り笑いとは全く違うものである。タイの山岳少数民族はそんな作り笑いさえすでに失っている。

ヤンゴンの町には日本で数十年前に廃車になったバスが走っている。床は板張りだったりして、隙間から道路が見えることもある。

そんなバスに行商らしい数人の山岳少数民族の女性たちのグループが、ヤンゴンの真ん中で、民族衣装のまま、そして裸足で乗り込んでくる。

決して貧しいのではない。彼女らは彼女らのラインの中で普通の生活をしているだけである。そんな格好をしていても誰も邪険にしない。官憲や兵隊がちょっかい出したりIDカードで因縁をつけたりすることもない。タイでは考えられないことである。そしてミャンマーではタイと違い少数民族もほぼ確実に完全なIDを取得することができる。

ヤンゴンの街中でも、観光客に見せるためでもなく普通に伝統的な格好をして歩くことができるのだ。村にいるときに裸足で歩いているなら同じように裸足で歩くことができる。昔からやってきた交易を淡々と続けて銭を稼ぐことも許される。「タイ語を話せ」と強要されることもなければ、タイ語の発音が変だといって邪険にされることもない。みすぼらしい格好をしているからといって公共の場から追い出されることもない。

こういうことが少数民族の「豊かさ」なのであり幸福なのだろう。ヤンゴンのど真ん中でも、村でいつもそうしているように裸足で歩けるということが豊かさなのである。

チャイントーンやトーンジーのマーケットでは、誰に見せるわけでもない民族衣装のままやってきて買い物をしたり商売したりしている少数民族の人たちをいくらでも見ることができる。彼らの立ち居振る舞いを良く見て、彼らの生き生きとした表情を良く観察し、タイのチェンマイあたりの少数民族の悲惨な境遇と比べてみるのも良いだろう。

ミャンマーの少数民族はきわめて多様で、ワ族などには首狩りの習慣もあったという。昔からやってきた首チョンパはやめなさいというのも弾圧といえば弾圧であるから、中央集権国家たるミャンマー国家と各地の少数民族との間に軋轢がないわけではない。伝統的に白人帝国主義者の下僕となりキリスト教に改宗してビルマ族と対立してきた大きな部族も存在している。

 
 

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2007年9月26日 (水)

イギリスがアウンサンスーチーを使って傀儡政権樹立に忙しいようです

読者からいただいたメールから。

イギリスがアウンサンスーチーを使って傀儡政権樹立に忙しいようです。
http://www.afpbb.com/article/politics/2289032/2179916

「日付のある紙面」の過去ログの↓の部分が興味深かったです。

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/03/cia_4e26.html#search_word=%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E 3%83%9E%E3%83%BC
しかし別の事情通のアメリカ人からも、CIAは、タイ女を囲って逗留している白人やキリスト教ミッショナリーに混じって、タイ全土にくまなく根を張っているということを聞いた。

だからこそ、ミャンマーは非難されるが、タイは何をやっても非難されないのである。

これに関してですが、 「エコノミック・ヒットマン」と呼ばれる人の証言に面白いものがりますす。アメリカのPeace Corpsと呼ばれるプログラム(日本でいうところの海外青年協力隊)でトレーニングを積んだと告白しています。
http://democracynow.jp/stream/070605-1/
http://amesei.exblog.jp/6145627/
リンク先のブログにはこれの日本版として竹中平蔵があげられていますが、私は「英語教師」の方がすぐにピンときました。N ovaだけじゃなくて、日本政府が税金を使って毛唐を連れてくるJET Programmeというものがあります。アホが「知日派」と言ってありがたがるマイケル・グリーンもこのプログラムの前身のやつに参加してました。
 

パーキンスは、10年にわたって国際経済コンサルタント企業で働き、主任エコノミストをつとめましたが、じつはその間に「エコノミック・ヒットマン」とい う影の仕事に従事していたと主張しています。エコノミック・ヒットマンは資源のある第三世界の国の指導者に近づいて、世界銀行の融資を受ければ飛躍的な経 済成長が可能になるともちかけ、巨額の借入をさせます。でも実際の受益者は巨大なインフラ構築を請け負うべクテルやハリバートンのような米国の巨大企業 (融資の大部分は彼らの手に落ちます)と、現地のエリート階級のみであり、庶民には国家が背負った巨大な負債のみが残ります。この借金はとうてい返済でき ないので、世銀の指導により社会福祉や民生支出が大幅に切り詰められ、天然資源が略奪されます。パーキンスは、自分の役割は、エコノミストという肩書きの 裏で第三世界の指導者を抱きこんで、自国民をないがしろにして、米国の政府と企業にとってのみ好ましい政策をとるように誘惑することだったと告白していま す。

http://democracynow.jp/stream/070605-1/

   
 

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2007年7月31日 (火)

日本人多住地区でバラバラ遺体発見、クアラルンプール【Mont Kiara】

この事件マレーシアの新聞ではまったく報じられなかったようだ。
タイ発ニュースではじめて知る。

 
2007/7/30 (18:23)| インドシナ

【マレーシア】マレーシア・クアラルンプール郊外で日本人が多く居住するモントキアラ地区にある高級コンドミニアムの一室で29日午後、バラバラに切断された男性の遺体がテープで密封された冷蔵庫から発見された。

 地元報道によると、コンドミニアムの購入者が室内の掃除をしようとしたところ、冷蔵庫内から遺体を発見し、警察に通報した。死亡からかなり時間が経過しており、警察は殺人事件として捜査を開始した。室内からはサラワク州出身の女性の運転免許証の写しが発見されたため、警察は何らかの事情を知っているとみて、女性の行方を追っている。http://www.newsclip.be/news/2007730_014260.html

  

モン・キアラは用もないところなので行ったことがないが、スリ・ハルタマスという高級住宅地に隣接していて、日本企業の駐在員が肩を寄せ合うように集まって住んでいるところらしい。

ひとつの高級コンドミニアムに集中して住んでるのだそうで、中華街の中国人おやじでさえMont Kiaraに関して「日本人は同じところに集まりたがる」と言っていた。これは日本でよく聞くような白人のセリフの受け売りでもない。固まって住むからカッコ悪いという感覚は中国人にはないので、別に悪意のある発言ではなかったと思う。

私から見ると中国人も十分に固まっているが、数が多いので他にもあふれているのと、安いところにいるので余所者(インド人、マレー人、ツーリスト)が入って来やすいだけだと思う。中華街ではインド人丸出しのおっさんが中国語(広東語)をしゃべっている。

女がらみの事件っぽいのが嫌な感じ。サラワク(ボルネオ)の非ムスリム・ブミプトラ(土人)の女か・・・?

駐在員はタイもマレーシアもやってることは同じ?
 

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2007年5月20日 (日)

ラノンRanong=コートーン Kaw Thaung、タイツーリズムと児童買春の現実。および、タイ入管役人の私怨による「国王大権」濫用と有色人種外国人旅行者への嫌がらせの一例

4月26日。

午前10時半ごろJansom Chumporn Hotelをチェックアウト。フロントにラノンRanong行きのバス停まで行きたいからモトサイ(バイタク)を呼んでくれと頼むが、ホテルの裏だから歩いてすぐ、5分で行けるなどというので、荷物を担いでしばらくホテルの周りをうろうろする。バス停らしいものはまったく何もなかった。近所の人に聞くとまったく別の方角を教えてくれる。その方角にあるというバス停は地図にはのっているがホテルの人間はもう使われていないといっていたところのようだった。

もう一度ホテルに戻ってフロントに確認すると、そのフロント女は逆上して大声でボーイを呼びつけた。私はもうそこにはいないかのようである。ボーイがモトサイを拾ってくれた。ミニバスの発着所はまったく別の場所でホテルからはかなり離れたところだった。

私は最初からモトサイを呼んでくれと頼んでいたのだから、そうしてくれれば何も問題はなかったのだ。その手間が嫌だったのだろう。タクシー(モトサイ)さえ呼んでくれないというホテル。その上歩いてすぐそこだなどとでたらめを教え、それが間違いだとわかるとヒステリックに逆上する。若い女でもない。ここはタイでは安宿というわけではなく結構な構えのホテルである。こうやって客を炎天下歩かせて不便をかけても何の罪悪感も感じないようである。

タイ人には「職業倫理」などというものはカケラもない。いくら日本のポップカルチャーの真似事をしていても、日本的な倫理の対極にあるのがタイという生き物だと思う。この種の逆上はマレーシアのホテルではあまり見たことがない。

モトサイはそんなにぼろうとしない。15バーツぐらいである。ぼっていても5バーツくらいだろう。

午前11時半のミニバスでラノンRanongに向かう。ミニバスは山の中のよく舗装された道を通っていく。

2時間ほどでラノンRanongにつく。ミャンマー国境へはそこからソンテウでさらに数キロ。ラノンでもタナカをした女の人が目立つ。ソンテウに乗っていたはビルマ語を話していて、女の子の一人はタナカをしていた。男もほほにほんのちょっとだけつけるのがはやりのようである(流行なのか昔からやっているのかは定かでない)。タナカをしていた女の子は若いのに(ネパールなどで言う)「パン」(ビンロウ)を噛んでいて口の中が真っ赤だった。野菜などの入った大きな買い物袋を提げていた。服装は普通の洋装。金の装飾品をいくつもつけていた。ミャンマーからラノンに買い物に来たのだろうか。

女の子たちが降りたところでソンテウを降りた。彼らもミャンマーに行くという。そこの路地を入ると小さな桟橋があったが、イミグレーションオフィスはもっと離れたところで500メートルほど歩かなければならなかった。イミグレには当然のように毛唐がいっぱいたまっていた。土人連れもいる。役人はしきりに私のパスポートのスタンプ履歴を見ていた。

桟橋あたりをうろうろしている斡旋人が最初は300バーツと吹っかけてきたが、100バーツが外国人ツーリストの相場だった。

水しぶきのかかるような小船にのる。船は途中の桟橋で給油したり、海上にある別のタイのイミグレによったりしながら行く。海上の小屋のほうでパスポートにイミグレが添付した紙切れにもう一度出国スタンプを押す。小船に乗る人はみなかさをしている。妻たちなのか顔前面覆う黒いベールをした女性を3人連れたムスリムの男といっしょだった。彼もミャンマー人だった。

ミャンマーらしい暑さ。サンダルの足の甲が日射でちりちりと痛くなる。

ミャンマーのコートーンKaw Thaungイミグレーションにパスポートを預けパーミットを受け取り、10ドル払ってすぐに入国。ミャンマーのイミグレの役人は、ニコニコして日本語を少し話す人だった。タイとは大違い。ミャンマーのイミグレはどこも感じが良く、事はスムーズに進む。

いい気持ちでミャンマーに入国したが、コートーンに上陸してすぐ、早速ひどい光景を見る。

向こうから刺青をした獰猛な毛唐が2人幼い地元の女の子の手を引いて歩いてくる。女の子の一人はどう見ても小学生だ。12歳以下に見える。もう一人は15くらいだろう。ジェティの方に向かっている。 海兵隊丸出しの男たちである。この女の子たちをいつどこで調達したのか、タイから連れ込んだのかコートーンで調達してこれからタイに持ち帰るのか、それはわからない。とにかく早速写真を撮る。にらみつけてくるが、白昼堂々とやっていることだ。

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/crime.html

ここにくるツーリストはミャンマーへのツーリストではない。あくまでタイへのツーリストである。つまり、こういう児童買春はタイツーリズムの一環に他ならない。これはタチレクのツーリズムがタイツーリズムに他ならないのと同じである。

ヤンゴンやマンダレーからミャンマーに入ってコートーンやタチレクに行く人はめったにいないだろう。コートーンやタチレクからミャンマーを出国することはできないと思う。

海兵隊野郎も当然ながらプーケットあたりにたむろするファランであろう。彼らは手ぶらでイミグレのあるジェティのほうに歩いているところである。おそらくタイに戻るのだろう。コートーンへはデイリターンでちょっと上陸しただけなのだろう。連れている子供たちもミャンマー人には見えない。タイから連れてきたのだろう。特に男の子は明らかにタイの子ども。

そしてタイのイミグレもミャンマーのイミグレも、このような子供連れで難なく通過したようだ。「ただの友達だ」とでも言い、役人たちも「納得」したのだろう。ローカルが国境を越えること自体は簡単である。兄弟を連れてきたのもよかったかもしれない。

しかし、娘の兄または弟が一緒にいるからといってセックス目的でないとはまったく言えない。なんなら実の母親さえ一緒にいてもいいくらいである。

今東南アジアで子供を買っている白人は家族全体を買い取るようなやり方をする。小さな娘の「偽の母親」を雇って一緒に連れて歩く白人はさらに多い。

海(江)から見えていたBear Honey Hotelに入る。全室一泊800バーツ。ジェティにいた客引きはもっと安いところ(500バーツほど)に連れて行くといっていたが、下手に安いところに行って毛唐の巣のようなところに連れて行かれてはたまらないと思い、高いところにした。窓からすぐに海が見え、下は波止場と市場の賑わい。

後で聞いたことだが、この800バーツは外国人料金で、ミャンマー人は10000チャットだという。(現在100バーツ=3720チャットほど)。

ミャンマーイミグレがくれたエントリーパーミットを見ると、国籍がJapになっていた。

Bear Honey Hotelはミャンマーのホテルなのに朝食はつかない。

このあたりは茶髪の子供、金髪の幼児が目立つ。髪を染めている若者は別である。カンボジアもそうだがそういう人種のようだ。モン系だろうか。

Kaw Thaungは雰囲気もカンボジアみたいである。ああいうクズ毛唐が舞い込むせいか、ミャンマーにしては素朴な笑顔が少ない。

両替レート100B=3720Kyat。バーツがかなり高くなっている。2年ほど前は2000チャットくらいだった記憶がある。

ミャンマーの田舎にありがちなことだが、コートーンも停電が多い。Bear Honey Hotelは自家発電機で夜は電気をつけているが昼間は大体停電している。

インターネット屋が一軒だけあった。しかし自家発電のせいか、2台しかないパソコンのうち日本語が入れられたほうはほとんどいつも故障していた。もう一台はどうしても日本語を入れられなかった。パソコンに触れると電気がびりびりきたり、USBケーブルをつなぐとまたびりびりきたり、なかなか怖い代物だった。使えたのは一日だけだった。インターネット屋というより電話中心の店。

そのネット屋にはネパール風にやわらかく付きまとってきたムスリム(パキスタン系)の少年に案内してもらった。少し小遣いをやる。

ネパール式付きまといが妙に懐かしかったりする。友達風に近づいてきて案内を申し出る。最初はカネなど問題ではないようなことを言う。いくらほしいとはっきり聞いても、up to youなどといっている。結局はいくらかやることになる。この少年はバイクもない歩きのガイドである。それを考えるとたくさんやりすぎたかもしれない。最初から金額の交渉をしていたらバイクがない時点で終わりになっていたかもしれないから、これは彼の知恵ということになる。

ミャンマーは以前はwwwに合法的にアクセスすることはできなかったはずだが、少なくともいまコートーンから主なポータルサイトのメインのページにアクセスすることはできる。しかしWEBベースのEメールにはアクセスできないようである。ヤフーメールにサインインすることはできない。グーグルメールはサインイン画面にもアクセスできなかった。

コートーンに上陸した直後にかち合ったあの幼女連れ毛唐たちが今夜どこに泊まったのか気になってきた。ジェティの方に歩いていったからラノンに戻ったのだろうか。それとも明日もまたこの町で見ることになるのか。

あれが今夜も同じ町で幼女と泊まっているのかと思うと気持ちが悪くなる。ケガラワシイとしかいいようがない。

27日。

Bear Honey Hotelは午前中は電気が止まる。電気は午後2時から2時間ぐらい通って、また止まり、6時過ぎからもう一度通るようになる。発電機が東向きにあり、日向になるからかもしれない。ホテルで英語が通じるのは一人いるかいないか。

ミャンマーの楽しみはやはりティーショップである。これはKaw Thaungでも健在。マンダレーより盛んである。その辺ティーショップだらけ。イジャコイ(揚げローティ)が旨い。しかし閉まるのも早い。とくにジェティのある街区は夜は閑散としてしまう。

ジェティに近い海沿いの通りはまるでカンボジアというより、ポイペトのよう。どう見ても薬をやっているとしか思えない男が喧嘩していたり叫んでいたりする。

ホテルの裏手の通りの地味な茶店にいた中国系オヤジが親しげに筆談で話しかけてきた。日本人だとわかったらしい。ここではほとんど日本人と当ててもらえる。後でわかったことだが、この人は英語も話せるのだが、日本人はまったく英語を話せないと思ったのかどうか、ここらに来る日本人にはそんなのが多く、それがうれしくてたまらないのかもしれないが。この人は祖父が1890年に海南からミャンマーに移住したミャンマー3世だという。

夕方クズ毛唐オヤジ数人のグループがBear Honey Hotelに入ってきた。せっかく高いところに泊まっているのに最悪だ。日に焼けきってあれ切った肌をして首にタオルを巻いているのもいる。50過ぎの連中だろう。何十年このあたりをうろついているのか知らないが、まだ徒党を組んでガイドまで連れている。ミャンマーの制服役人もホテルの前まで付き添っていた。

夜、毛唐たちが帰ってくると1階のロビーをずっと2時間ぐらいは占領している。ほかのアジア系宿泊客も結構いるのだが、毛唐たちはロビー全体をずっと占めきって大声でしゃべり続けてお構いなしである。他者、有色人種の他者のことはまったく顧慮しない。あるいは、ひととおり顧慮した上で、彼らを無視できる他者、対等の者として相手の立場に立つ必要がない他者と断定して、きれいに切り捨てているということなのかもしれない。

このようなことからもわかるとおり、日本人専用の場所も必要だが、それとは別に、白人お断りの場所、白人を入れない場所を広範に作ることが、何よりもまず、人類の福祉のために必要なのである。

29日。正午ごろBear Honeyをチェックアウト。このホテル、男はろくに働かずチップをねだるばかりだったが、女の子はかわいかった。最初はよそよそしくしていてもだんだん打ち解けていく。

ミャンマーイミグレーションはすぐに通過。日本語でお愛想を言ってくれる。それからが問題である。

帰りのフェリーは大型で良い船だったが、スタンプを押しにくるだけのデイリターンの毛唐だらけ。ケガラワシイ。

午後1時ごろタイ側、ラノンRanongにつく。ラノンのイミグレはファラン(毛唐)だらけで嫌な予感はあった。

タイではまったく珍しくないことだが、ラノンイミグレの若い男の役人は、ファランには国籍を問わず丁寧な英語でへらへら話しかける。そして有色人種ツーリストには、外国のパスポートを見せていても頭からタイ語のみで話しかける。

一人、とても日本人とは思えない真っ黒でチビな男が私の前にいた。日本の5年パスポートを持っていたので始めて日本人だとわかった。タイ役人にタイ語で話しかけると卑屈にへらへらしてタイ語で答えていた。これ以上ないほどの卑屈な態度である。こういうのが2ch海外旅行板あたりではタイ通ぶって偉そうな説教しているのだろうと思った。

白人にはかなり丁寧な英語で接客、非白人には問答無用でタイ語を頭から押し付けるというのが、役人を筆頭としてタイ社会のスタンダードのようである。

私の番が回ってきた。日本のパスポートを見せているのに当然のようにタイ語で押しかぶさってくる。情けない日本人タイヲタツーリストの卑屈な態度を見た直後であったこともあり、ちょっといらついて、" I don't speak Thai. Speak English to foreigners."とはっきり言った。私が言いたかったのは、If you ever speak English to foreigners, you should speak it to every foreigner without racial discrimination,that is, not only to farangs but to asian tourists!ということである。

しかしこれがすべての始まりだった。

この一言がこのタイ役人の歪んだ「プライド」を傷つけたようである。彼らの「プライド」とはつまり、「俺たちはファランよりは当然のように下だが、アジアでは一番ファランに好かれていて偉いんだ」という、タイ猿またはタイ犬の犬猿的序列意識である。(この犬猿的序列の頂点にいるのがタイ国王プミポンに他ならない)。

この役人はふっと反り返るようにして、1時間待て、といい、次にすぐに、2時間待てと言い直し、パスポートを取り上げた。

もうスタンプを押しているのにパスポートを返そうとしない。入国許可をキャンセルするというのでもない。ただの「嫌がらせ」である。最低の肉便所国家=土人売春国家タイランドの卑屈で歪んだ情念が下司役人の行動に率直に噴出したというところ。

この若造をいっそそこで袋叩きにしてやろうかという衝動に駆られたが、それは抑えた。

ファランの列ができている。ファランが全部終わるまで待てということだろう。私の前でファランにはますますことさら卑屈な英語の応対である。sirとかpleaseとか卑屈なタイ猿役人口真似をしてからかってやったが、どうしてもパスポートを返そうとしない。

このまま待っていたら終業まで待たされるだろう。ファランツーリストはスタンプを押しにどんどんやってくる。

そして最後は別室に連れて行かれて何をされるかわからない。荷物をひっくり返し裸にされるのは当然として、顔は殴られないとしても腹に蹴りくらいは入れられるだろう。あるいは荷物調べ中に麻薬を組み込まれるかもしれない。今はファランの目があるから何もされていないだけである。

とにかくこのままここにいては危険である。この国は危ない。そう痛感したので、私はミャンマーに戻ることに決めた。

ニコニコと片言の日本語で話しかけてくれるミャンマー役人に事情を話して、なんとかヤンゴンまでいけるように取り計らってもらおうと思った。

つまり、正式にミャンマー政府に「人身保護」を求めることに決めたのである。seek refugeというやつである。

私は隣に出てきた女の役人に、自分はタイには入国しない、ミャンマーに戻ってミャンマーオフィシャルに話をするからパスポートを返してくれ、というと、その場の雰囲気ががらっと変わった。女の役人はまだ何かぶつぶつ言っていたが、もう30日(タイ滞在)のスタンプを押してあるからといってパスポートを返してきて、結局解放される。

女役人は「お前がpoliteじゃないからいけなんだ」とか言っていた。Politeじゃない毛唐ははいて捨てるほどいる。見るからに小学生の女の子を連れてイミグレを通過する海兵隊たちは、このタイの豚女には色が白くてPoliteな白人様に見えるのだろう。

しかしこのトラブルの要点は、あの若い猿役人の卑屈で歪んだ個人的プライド、俺はファランに媚びていても有色人種外国人よりは偉いんだという卑しい感情をちょっと傷つけたために、個人的な嫌がらせを受けていたというだけだった

いっそのこと、そのスタンプはキャンセルして入国拒否のスタンプでも押してくれといいたかったところである。

deportedなんて書いてもらうのも良いだろう。その理由は、「日本人ツーリストが『タイ語は知らんから英語で話せ』と言ったから」、ということになる。

タイ側の入国拒否の証明があれば、ミャンマー側で第三国に出るためにヤンゴンまで行かせてもらうことも頼みやすくなると思う。私にとってはこれもまた楽しい旅になるだろう。

あとでスタンプなどをよく確認したが普通のものだった。うわさで言われているような特別な印などはない。もっともコンピューター管理をしっかりしていれば何か書き込むかもしれない。しかしこれもタイはいい加減なもののようである。どちらにしても次回入国できるかどうかによってチェックされているかどうかもわかるだろうと思う。

タイなどはもう一度こっぴどくビルマに攻められて今度はバンコクまで占領されたほうが良いのだ。

ラノンのイミグレ近くからソンテウでミニバス停まで行き、120バーツでチケットを買ってチュンポンに向かう。午後2時ごろ発。

チュンポンからラノンに行ったときは検問所らしいところはあっても検問はなかったが、ラノンからチュンポンへ行く途中には検問所に目つきの悪い兵隊が何人もいた。ジロジロ乗客をにらんでいたがミニバスのドアをちょっと開けただけ。

午後4時ごろチュンポンにつく。ミニバスにはジャンソムJansomホテルの近くまで行ってもらう。660バーツの部屋にチェックイン。今日は本当に不快な一日だった。

タイという国は白人にとっては非常に居心地のいい国であることは言うまでもない。買春目的客や、今日ラノンのイミグレで見た黒い蛆虫のような卑屈に振舞える日本人にとっても楽しい国なのかもしれない。しかし、それ以外のまともな日本人にとっては非常に不愉快な国だと思う。

唯一良いことはホテルが安いことだが、これもタイ社会全土を覆う広範な奴隷的労働の上に初めて成立している価格なのであって、良識ある文明人が頓馬に喜ぶべきことではない。

問題はタイの国土が広すぎることである。インドシナで陸路の旅をしようと思うとタイを避けて通れない。分裂してもっと小さな国になってくれるといいと思う。

しかし、あのままイミグレで言われたとおりに待っていたらどうなっていただろうか。ファラン客が尽きるまでは待たされるから、もちろん2時間ではすまない。そして、その後別室に連れて行かれてファランの目のないところで拷問である。どんな目に合わされるか。タイ北部の山岳少数民族が日常さらされている脅威にさらされる。タイ人にとって日本人は「カネをもった山岳少数民族」に過ぎない。あくまで相対的に「下位」のものがタイ人に楯突いたことが許せないのである。

彼らは国を挙げて白人に媚びる代わりに有色人種外国人を見下し彼らに卑屈な振る舞いを強要することで精神のバランスを維持している国民である。国王プミポン自身がまずそうだろう。王女シリントーンなどはその代表選手である。だから、タイ人に対して偉そうにするという意味は「白人との対等の扱いを求める」ということである有色人種ほど許せない連中はタイ人にとってはいないということである。そういう日本人はよほど懲らしめてやってタイ猿としては失われた精神のバランスを回復しなければならない。だから、彼らが私にやりたかったことは、イタブルためにイタブルということ、懲らしめるために懲らしめる精神的な拷問が待っていただろう。彼らの足に額をすりつけて謝るまではパスポートを返さないなど。

数日前に来たチュンポンのネットカフェに来てみると雰囲気がまったく変わっていた。タイのバービアそのものである。スタッフも変わっている。売春婦まがいの赤いタンクトップを着た女が毛唐に媚びている。 白人爺が入ってくると満面の笑みでサワディカーといい、有色人種客はほとんど来ない。もちろん私がインターネットを使いに来てもことさら陰険な目で睨み付けるのみである。何か頼むたびに嫌悪感丸出しの表情。その上ネット代も一時間60バーツになっていた。前回は異常に安かった。常識的に見てネットは30バーツ前後が普通である。パッタニなら15バーツもある。KLでさえ高くて4リンギ。数日のうちにオーナーが変わったのか。

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マレーシアの役人が英語オンリーなのは言うまでもない。面倒な手続きでもわかるまで話してくれる。

インドネシア国内ではインドネシア語が必要になるが、インドネシアイミグレの役人がインドネシア語でたたみ掛けてくるといういことはない。インドネシア語は使用人口が数億に達するというだけでなくスマトラ、ジャワ、インドネシア諸島、マレー、ボルネオ・南部フィリピン、ポリネシア、パラウ島などを含む南洋諸島の国際共通語とさえいえる地位にあるのだが、イミグレーションの手続きでその言葉を知らない外国人に自国語をおしつけるような蛮行はしない。外国人の人種を問わず、英語で応対している。

ネパールのイミグレも当然英語が基本である。私はネパールでスタディビザを取ったことがあるので、私に対してはわかりやすいネパール語で話しかけてきたことはあったが。

いずれにせよ、白人外国人と有色人種外国人とを截然と分け、白人客には国籍出身地を問わず英語で卑屈に話しかけ、アジア系有色人種にはイミグレ役人が頭から自分たちの民族語(相手に理解できない言葉)を浴びせかけてきて、それを理解できないほうが悪いというような態度を取る国は、世界広しといえどもタイ以外にはそういくつもないのではないか。白人諸国には国がたくさんあるしひどい国も多いようなので、少なくともアジアでこういういくにはタイくらいだろう。(中国も態度は変わるが、逆に日本語で話しかけてきたりする〔チベットの場合〕。韓国だけはまったく行ったことがないので比較のしようがない。)

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くどくなるがもう一度繰り返す。

プミポンの臣たるタイ猿役人は、

白人ツーリストには国籍を一切問わず、英語で話しかけ、へこへこと生まれつきの醜い猿面をさらに卑屈に引きつらせて立ち回り思いつくあらゆる便宜を提供し卑しい愛想を振りまく。

一方、アジア系ツーリストに対しては日本のパスポートを提示しているにもかかわらず、さまざまな細かいいやがあらせをやったあと、

(たとえばgender欄のチェックをし忘れている)とけちをつけ、その一秒の間に、すぐに私の後ろにいる毛唐を優先受付するのである。そしてそのプーケット系のクズ毛唐にはことさらな微笑みをふりまき卑屈な丁寧英語で話しかけ、その「差」を私の目の前で見せ付けて楽しむのである)

そしてようやく私の番が戻ってくると、この猿の微笑みも卑屈もどこにもない。

私が日本語のパスポートを見せているにもかかわらず、もちろん微笑みもせず、居丈高に、押しかぶさるようにして、私にタイ語のみではなしかける、わからないのがわかっているのにそれで押し通そうとする。

ここで私が、うろたえたり、ソーリーとでも言ったりしたらあの猿ボクサーは「勝った」という気持ちにでもなれたのだろうか。

これは彼らが、日ごろ少数民族や、異教徒たち、国内マイノリティや、近隣国からの労働者に対してやっている態度に他ならないのである。

彼が言いたかったことは、俺は日本人を北部山岳少数民族やビルマ人やクメール程度にしかレスペクトしていないぞ(いずれも尊敬に値する民族ばかりだが、タイ族にとっては賎民である)、という意思表示に他ならない。

このような彼らの侮日的態度を拒否し、やつらが毎回卑屈に白人に話しかけているのと同じ英語で話せといっただけでこの猿は逆上して怒り出し、パスポートを取り上げるという。

パスポートを取り上げる根拠などは一切示さない。すでにスタンプが押して手続きが済んでいるのを単に嫌がらせのために取り上げるというだけである。

それも最初は1時間待てといい、次には2時間待てという。何を待つかさえ明らかでない。ファランがいなくなるまでということだろうか。そしてファランがいなくなれば、タイ警察・軍が北部や南部で毎日ごくふつーに実践している、逆らう少数民族にたいする暴行凌虐の行為をファランの目のないところでのびのびとできるということであろう。殴るけるくらいは当たり前。日本人だから顔に傷が残らないように腹に徹底的にけりを入れられて半殺しにされた後メタアンフェタミンを仕込まれて開放され、数日後「密告」によりまた逮捕である。

いずれにせよ、これが「タイ」という国家なのである。このタイ猿役人の卑しさは、そのまま「タイ国家」の卑賤な体質を如実に表現するものである。

いったい、日本が「美しい国」を目指すというのなら、このタイのような卑しい国が「親日国」たりえようか。美しい国を目指す国にとって、敵の敵は味方とか、反日をかかげていなければOKなどという理由でタイのような国によくしてやる理由はまったくないのである。「仏教国」などもってのほか。日本は仏教国ではないし、イスラム教国との付き合いのほうが多い。

日タイ関係にはいろいろな面があるが、すべてチェックしなおす必要があるのではないか。とくに切り捨てるべきは外務省タイスクールと偽りの「皇室外交」である。日本の皇室が(タイ王室に対しプロトコルに照らして破格の敬意を表していることにより事実上)支援するタイ王室、タイ王妃の開拓プロジェクトによって、(日本法でいえば入会地のような)土地を追われて、タイ市民権さえ保証されないまま、チェンマイやチェンライの花売りに娘を売らざるを得ない少数民族があとをたたない。彼らはパタヤやプーケットまでも花を売りにいくのである。もちろんすべて白人セックスツーリストの餌食である(日本人ぺドは花売りに声をかける度胸がなかったり英語ができなかったり、その後連れて行く場所の手配などが組織的にできていないため、こういう犯罪はまったく苦手なようである。また白昼日本人が現地幼女の手を引いて歩いていたら、高邁なる白人人権NGOに直ちに誰何されて警察の御用になるだろう。そして日本人は白人と違いすぐゲロってしまう)。

このようなタイ王国と日本の皇室との皇室外交というものは、タイ王国の卑しい出自、由緒の浅さからだけ見ても日本の利益になることは何もないと思われる。

実に、日本の天皇に比肩しうるものは現世界にはどこにもない、というところが日本皇室の特殊性なのである。

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「黒人バックパッカーはなぜ少ないのか」という一般的な問いがある。タイに限らずということなのだろう。

タイに関して言えば、タイでの黒人差別がひどすぎるため、よほどなんか用でもないかぎり黒人がわざわざタイへ来ることはないように思われる。一方でマレーシアには本当にたくさんのアフリカ系の黒人がいるが、彼らはバックパッカーではなく普通の旅行者、出稼ぎに来ている人という感じの人が多い。英語とPCの達者なものは事務処理の請負のようなバイトをやっていていつも特定のネット屋を溜まり場にしている(私もそこの常連である。彼らアフリカ黒人は白人ほど大声を上げないし、うるさくなってるときでも「うるさいから黙れ」というと静かになることが結構ある。白人だったらシニカルににらみつけて完全に無視だけだろう。黒人は白人ほど臭くない。白人にとって重要なのは、「この場所が俺たちのための場所なのかどうか」ということであって、「他人の迷惑を考えましょう」という倫理は最初からどこにも存在しないのだ。そして、かれらにとって東南アジアは、本来白人のための空間である。タイはますますそのことを政府役人自身が表明している国であり、植民地以上の事実上白人植民地であることを持ってあらゆる悪事を帳消しにしてもらい国を維持していこうとしている賎民乞食国家である。

で、黒人バックパッカーがなぜ少ないかだが、世界中のバックパッカーに便宜を提供する場所がタイやネパールに集中しているということがそのひとつだろう。とくに東南アジアのハブとして位置的には利用したいタイは、日本を裏切るために親日家のラーマ8世を暗殺して現国王プミポンを即位させたたところまではよかったが(そうでなければ日本と並んで戦争責任を問われたことになる)、ナチスドイツにたいしてははっきりとした立場を表明しなかった。タイ猿の頭からすればホロコーストのようなことはタイ族がシナからインドシナ半島乱入してきたときにいくらでもやったことだし、今もやっていることである。しょせんはファラン同士の内輪もめに過ぎず態度をはっきりしておかないのが得であるとみたのだろう。そういうわけでタイ人は人種主義についてはいまもナチ教義のまま、色は黒いのが悪く白いのがよい、だけでなく、黒人だというだけであらゆる場面で犯罪人扱いを受ける国である(マレーシアでも黒人は弾圧されることも多いが(やんちゃしているからでもあるが)彼らに聞いても、いくら金をもらってもタイにだけは行かないという)。

ネパールでも、カースト的な発想から色の黒いものが差別されるということはあるが、ヒンドゥー教における差別は大真面目なものであり本気なものであって、相手を嫌がらせするなどは2の次3の次である。井戸に近づかせない。彼らの調理したものを食べないなど。タイ人が接客場面で、ひとつの接客文化として大げさに表現する白人崇拝や人種差別とはまた異質なものである。

ネパールのタメルにあった、あるバウン(ブラーマン)の経営するゲストハウスの客は黒人だらけだった。その経営者のバウンは、バウンに似ず非常に親切な人で誰に対しても分けへだけなく接していて、私も一晩泊った。さすがに黒人がうるさかったので一晩だけでやめたが、その後も私はトラブルを抱えていたりするとその主人は何の報酬も求めずずっと親切にしてくれていた。彼は、真のブラーマンだったのだろうか。こういうことはタイでは経験できないことである。

タイという国は、道義的にも美的にも、腐りきった最低の便所国家である。

欧米がろくでなしを本国から追い出すために、アメリカが海兵隊のやみがたい幼女姦淫欲求をかなえてやるために、白人たちが維持している「白人の便所」にすぎない。

アメリカの海兵隊帰休兵がタイのビーチで幼女と寝てバカンスするというベトナム戦争にさかのぼる栄光ある伝統を捨て去ることがないかぎり、タイでの幼女売買がなくなることはない。彼女たちは必ずしもビーチの地元の子ではなく、ミャンマー国境の山岳少数民族の村などからもタイ国家・とくに王室の保護を受けて南部へ移送されてきているのである。

何度でもいうが、タイほど構造的にしつらえられた、腐りきった便所国家は少ない。最低の便所国家である。

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2007年5月15日 (火)

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ミャンマーKaw Thaung(タイ・ラノンRanong対岸の国境の町)のネット屋で。

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(2007/04/26 10:52 PM)

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2007年4月26日 (木)

【犯罪】 東南アジア某所にて 2007年4月26日撮影 [crime] White Sex Tourists in S.E.Asia [Tourism of Thailand]

 
コメントのしようがない。

これでもまだ「東南アジアで児童買春しているのはほとんど日本人」などと言い続けるつもりだろうか。それは自虐というよりむしろ「うぬぼれ」といったほうがいいくらいである。

Imgp3244

Imgp3245

いま東南アジアでこんなことをしている日本人はまずいないだろう。もちろん最近急に白人がこういうことをやり始めたのでないのは言うまでもない。

白昼堂々とこのざまである。この刺青したごろつきたちは「孤児と遊ぶボランティア」だとでもいうのだろうか。

東南アジアの児童買春は今なお非常に深刻である。かつて日本人などアジア系セックスツーリストが児童を買っていた「置屋」での児童買春の取り締りがすすみ、「子供を買っているのが白人ばかり」という状態になったことによって事態は却って深刻になっている、とさえいえるだろう。白人がやる悪事は有色人種の悪事と違い、マスメディアにさらされ強く批判されることが少ないからである。

被写体の「ココログ掲載」許可あり。

ウソだと思うなら本人たちに聞いてみればいい。

くだらない難癖つけてこないように。

づくづく思うのは、もしもこの海兵隊野郎がモンゴロイド系か黒人で、手を引かれて連れて行かれていく少女が白人だったとしたら、世の中どんな大騒ぎになっていたことだろうかということ。想像してみて。場所はヨーロッパの最貧国でもいい。

もしそのような現実があるとしたら世界中の白人メディアが殺到するだろうが、その前にただちに権力が動くだろうから(もしその国の権力が動かないときはアメリカのゲバルトが)、そのような現実がおびただしく展開するということはほとんど考えられない。

しかし、こういう(肌色逆の)写真一枚が流出したとしたらどんな大騒ぎになるか。そういう写真一枚で白人メディアは連日の狂騒を引き起こし、国際的な公的機関を動かすに十分だろう。

植民地主義時代以来の世界の枠組は今もなお健在である。

これらについて少し想像力を働かせてみれば、「人権」も、「女性の権利」も、フェミニズムも、「子供の人権」も、(子供の)「性的自由」も、なにもかも、これらのお題目は「白人の世界支配」という構造の中でのみ存在し機能しうる、白人イデオロギーに過ぎないということがわかるはずである。

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/05/ranon_kaw_thaun_2b26.html

(この記事はリンクフリーです)

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2007年4月 9日 (月)

ミャンマー武装勢力同士の戦闘再燃

タイ=ミャンマー国境、混乱している模様。

AFPのニュースのほうは、政府に近い民主カレン仏教徒軍とキリスト教徒カレン民族同盟との戦闘という。newsclipの記事は、ミャンマー政府軍がカレン民族同盟に攻撃をかけたとする。

同一事件のことなのかどうかも確かにはわからないが、newsclipのニュースの出所が「タイ国営テレビ局チャンネル9など」なので、AFP=時事のほうが確からしい?

カレン族200人以上がタイに逃げ込む(AFP=時事)

【バンコク8日】タイ西部と国境を接せるミャンマー南東部で、ミャンマーの反政府武装勢力、カレン民族同盟(KNU)とミャンマー軍事政権に協力してKNUと敵対している民主カレン仏教徒軍(DKBA)との間で7日から8日早朝にかけて戦闘が再燃し、戦火を逃れてカレン族200人以上がタイ領内に逃げ込んだ。タイ国境警察が8日、明らかにした。

 逃げ込んだカレン族の大半は戦闘がやんだ後、ミャンマー領内に戻ったが、婦女子ら60人がタイ領内にとどまっている。この戦闘で双方に合わせて30人の死者が出たと伝えられているが、タイ国境警察は否定している。

 KNUはミャンマー最大の反政府武装組織で、軍事政権との間でまだ和平協定に調印していない数少ない反政府勢力の一つ。ミャンマーは1962年以来、軍事政権の支配下にある。軍政はこれまでに、17の少数民族反政府組織と停戦協定に署名している。タイ国境沿いの難民キャンプでは、最大15万人のカレン族難民が暮らしている。

 ミャンマー軍事政権は1年前に、カレン族に対する大規模な軍事攻勢を開始した。人権擁護団体によると、この攻勢で数千人の村民が村を放棄して密林に逃げ込んだという。
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_int&k=20070409011848a

ミャンマー軍がカレン族攻撃、タイ国境近くで激戦(newsclip.be)

2007/4/ 8 (14:55)| インドシナ  主要ニュース  社会

【タイ】タイ国営テレビ局チャンネル9などによると、タイ北西部ターク県と国境を接するミャンマー領内で7日夜からミャンマー政府軍が少数民族カレン族の武装組織KNUに攻撃をかけ、8日午前中までにKNUの拠点数カ所を奪取した。

 タイ側でも砲声、銃声が絶え間なく聞こえるなど激戦で、双方に数十人の死傷者が出たもよう。また、カレン族の男女約300人がミャンマーからタイ領に避難した。

 カレン族はタイ、ミャンマー国境地域に住む少数民族で、ミャンマーの人口の約1割を占めるという。キリスト教徒が比較的多く、英国植民地時代には、ビルマ族支配の道具として官吏・軍人に登用された。第2次大戦では日本がビルマ族を押し立て、両民族の反目が深まった。

 KNUは第2次大戦後すぐの1947年にカレン族の独立を目指し設立された。49年には首都ラングーン(現ヤンゴン)近くまで攻め込み、その後ミャンマー東部の広範囲を支配したが、94年に仏教徒系のグループがミャンマー軍政側に寝返ったことから勢力が衰え、現在はタイ国境周辺に追い詰められている。
http://www.newsclip.be/news/2007408_010827.html

前記事:

タイがミャンマー国境閉鎖へ、タイ兵射殺への報復
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/03/post_cecf.html

タイ=ミャンマー国境で銃撃戦、1人死亡(国軍同士)
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/03/post_227e.html

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2007年3月31日 (土)

タイがミャンマー国境閉鎖へ、タイ兵射殺への報復

泰緬国境、やはり不穏になっているようです。

http://www.newsclip.be/news/2007330_010654.html

2007/3/30 (18:46)

【タイ、ミャンマー】タイ政府は4月2日から、北部メーホンソン県のミャンマー国境検問所4カ所をすべて閉鎖する。3月21日に同県のミャンマー国境地域でタイ軍のパトロール隊が武装グループの襲撃を受け、タイ兵1人が死亡したことに対する報復措置。

 一方、ミャンマー政府は3月27日午後からタイ北西部ターク県メーソート(タイ・ミャンマー友好橋)とタイ西部カンジャナブリ県スリー・パゴダ・パス(サンカラブリ)の国境2カ所を閉鎖し、30日現在も再開に応じていない。理由は明らかにしていないが、タイの警官2人をミャンマーの武装組織が誘拐した事件でタイ側が一部国境を閉鎖したことに対する対抗措置とみられている。

 タイ北部チェンライ県メーサイのミャンマー国境は30日も通常通り出入国が認められた。

前記事:

タイ=ミャンマー国境で銃撃戦、1人死亡(国軍同士)

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2007年3月22日 (木)

タイ=ミャンマー国境で銃撃戦、1人死亡(国軍同士)

国軍同士の銃撃戦らしい。

ミャンマー側が誤認とあるが、ミャンマー軍が「少数民族の反政府組織と誤認しました」というわけがないので、あくまで推測だろう。タイ側が先に撃たなかったという証拠もない。

死者が出なかったらニュースにならなかっただろう。

一人でも死者が出る銃撃戦というのはかなり激しいものではないだろうか。

案外、国境地帯で両国国軍同士の衝突が起きているのかもしれない。

3月22日19時0分配信 毎日新聞

 タイ国軍によると、北部メーホーンソーン県のミャンマー国境付近で21日午後、タイの国境警備隊とミャンマー軍とみられる集団との間で銃撃戦が発生し、タイ側に1人の死者が出た。ミャンマー側が少数民族の反政府組織と誤認して発砲したとみられる。

最終更新:3月22日19時0分

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ブログホームのエントリーのタイトルが無様なリンクに化けてるのはこのブログだけか?

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2006年10月30日 (月)

若い娘を「国境の町」に売った女に12年の刑 - ミャンマー

Imgp2692_1

【ヤンゴン】裁判所は、2人の若いミャンマー女性を売春に売った罪で、女に12年の懲役を言い渡しました。昨日(28日)New Light of Myanmarが報じたところによると、 裁判所は10月3日Nang Aye Naw(41歳)に判決を言い渡しました。女は、(タイの)メーサイのレストランで仕事を見つけてやるという約束で2人の娘を誘惑し、代わりに国境の町に売り飛ばしたということです。(マレーシア紙New Straits Times10/29)

ミャンマー政府は悪いことばかり言われていますが、役所は仕事もしているのだということをまず確認しておきたいと思います。

「国境の町」というのがどこかは定かではないですが、メーサイかタチレクかのどちらかと思われます。売られた娘の年齢も不詳。

「メーサイのレストラン」はたしかに、ミャンマーの女性が働いていることが多い。もちろん普通のレストランの話。(タイの田舎には「レストラン」という言葉を「売春バー」くらいの意味で使っている人もいたが)。

私もメーサイに長期滞在していたことがある。

ノービザで滞在できる一ヶ月が近づくと国境を越えてタチレクに日帰りで出るだけ。2週間パーミットを取ってチャイントーンやモンラにも行けた。4,5ヶ月目になるとタイのイミグレが少しうるさくなり、パスポートのコピーを提出させられた。

ミャンマーイミグレは日本人にはあくまで親切だった。ニコニコしてかわいいお姉さんがいたこともある。

メーサイで私が逗留していたゲストハウスは看板もないところで、レストランの2階だった。そのレストランに3人女の子が働いていたが、3人ともビルマ族のミャンマー人だった。一人はピンマナ出身だと言っていた。そのほかの店でもミャンマー人がいっぱい働いていた。

メーサイで働いている彼女たちは、ミャンマーの女の子の「夢」を実現したということになるのだろうか。

愛想も特に良くはないがタイ人のような嫌味もなく、部屋に掃除に来ても変な警戒も挑発もせず、何かしたくなるほど性的に魅力的でもなく、総合的に見て感じのよい人たちだった。

ミャンマー旅行で持ち帰ったピカピカの1000チャット紙幣の新札をチップにやったらたいそう喜んでくれた(レートで言えば50バーツぐらいか)。

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2006年9月10日 (日)

"Discrimination"、BBCの日本批判【忘れないために】

自称日系ペルー人、カルロス・ピサロ(ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ)による、広島市の木下あいりちゃん強姦殺害事件に関し、BBCニュースは、その背景に日本社会の「差別」があることを強く示唆した。

この事実を忘れてはいけないと思う。
これが白人ジャーナリズムの日本批判、日本報道の基準を示すものであるからだ。

またBBCニュースは、「ある一人のセネガル人」から聞き取ったという日本での「差別体験」を紹介し、日本人の「外国人差別」を強調する。それは何の具体性もないただの被害妄想と言ってもいいもので、次のようなものである。

For many foreigners living in Japan, however, discrimination is a real problem. Treatment appears to be determined by a range of factors - from socio-economic status to ethnic background.

Gemba, a Senegalese who works in a topless bar in the red-light district of Kabukicho, said: "Every day, I feel discriminated against. Japanese people don't like foreigners.

"If you are inside a train, the Japanese will not sit close to the foreigners."

http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/3708098.stm

これはもうお笑いというしかないが、彼がもし差別を感じたとしたら、それは彼が歌舞伎町の「トップレスバー」で働く不法就労外国人だからというのが、普通のマトモな頭の人間の考え方だろう。しかし、BBCはそうは考えないのである。

大男が大股開きで中途半端な位置に座り、足をぐらぐらゆらし、周囲の日本人を睥睨し、コカコーラをラッパのみしたりチューインガムをくちゃくちゃ噛んでいたりすれば(この種の振る舞いは、ほとんどの白人が東南アジアでごく普通にやっていることでもあるが)、そいつが外人であろうと日本人であろうと、白かろうと黒かろうと、普通の人間なら近寄りたくないのは当然である。

合法的に日本に滞在しているまっとうなセネガル人は、この「トップレスバーのセネガル人」についてどう思うだろうか。

また、欧米豪の白人諸国において、白人たちは、電車で不法滞在者らしきアフリカ出身男性の隣の席に座る義務を感じ、その義務を誠実に履行しているというのであろうか?

ともあれ、ジャーナリストがこのような一人の(事実上匿名の)外国人の主観的経験の聞き取りで記事を書いていいのなら、私にも言うことがある。

私が3年ほど前にタイで話をしたあるタイ女性は、かつてデンマーク人と結婚していて、一年ほどデンマークに住んでいた。その間、初めて雪の実物を見るという楽しい体験もあったが、見知らぬデンマーク人から「アジアへ帰れ」と罵倒されることはしょっちゅうであったという。言葉だけではなかった。あるとき彼女が自転車に乗っていて、交差点で信号待ちをしていたとき、2人の巨体のデンマーク女が突然彼女の自転車を二人がかりで押さえつけ、前へ押し出してきた。彼女はただ恐ろしいだけで、何事が起きているのか一瞬理解できなかったが、それがひたすらなる「悪意」による「嫌がらせ」であることを了解した。女二人で示し合わせたこの犯行は個人の思いつきや出来心とはいえないない。ネオナチでもないだろう。白人社会の本来の土壌に根ざしたきわめて悪質な人種差別犯罪といえる。

有色系外国人は白人諸国で、白人の人種差別に基づくこのような現実の生命の危険に日々晒されているのである。

このような犯罪は、白人国家では毎日起きているはずだが、白人ジャーナリズムがそれを報じることは決してない。

また、BBCニュースはタイでいかに白人が優遇され、有色外国人、とくに色の黒い人種がひどい扱いを受けているかについても一言も語ったことがないはずである。

優遇のあるところには差別もある。不当に優遇されるものがいれば必ず不当に差別されるものがある。しかし、白人メディアはタイにおけるきわめて明瞭かつ明示的な「白人ゆえの白人優遇」については一切語らない。

というのも、このようなタイのシステムが、白人にとってもっとも都合の良い「アジアのあり方」を示すものであるからである。すなわち、白人の理想とするアジアは、全アジアが「タイのような自由な国」になることだからである(その対極にあるのがイスラム社会であろう)。

したがって、白人の作り上げる評価基準は、タイを「自由な国」とし、デンマークのようなレイシスト国家を「高度に人権の保障された国」と認定し、ロシアでさえ自由で民主的な国と評価する。

ロシアをはじめヨーロッパ各国で、東洋系人種が投石、暴行、殺害等、直接の暴力の危険にさらされていることはほとんど論じられない。

これらの問題が白人ジャーナリズムによって「ネオナチ問題」という「特定地域の特殊問題」として語られることはあるが、彼ら自身の世界の人種差別問題として問われることは一切ない。

すなわち、ヨーロッパ全般で見られるアジア系人種に対する嫌がらせ、罵詈雑言、暴行、投石等の事案は、「ネオナチ」の枠内で処理され、そのことによって「知的でリベラルな」彼ら自身とは無関係な特殊な人々の問題と見做され、安心して脇に置かれる。

これらの切迫した現実の危険を伴う問題が、「ネオナチ」問題の定式を介さず、「白人による有色人種差別」すなわち「白人世界の人種差別主義的な土壌に根ざした人種差別犯罪」として、白人ジャーナリズムによって率直に問題にされたことが一度でもあるだろうか。

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白人の「日本の人種差別」批判は白人自身の人種差別・アジア蔑視に由来する

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2006年2月 1日 (水)

【インドシナ】ミャンマー東部に特区、タイと共同開発

ミャンマー第1工業省とタイ工業団地公団(IEAT)は共同で、ミャンマー東部の3カ所に経済・工業特区を開発する計画だ。第1工業省が現在、事業化調査の結果を検討している。新華社電が英字週刊紙ミャンマー・タイムズの1月30日付の報道として伝えた。

 特区開発は、2003年11月にミャンマーの古都バガンで開催されたタイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスの4カ国による経済協力戦略(ECS)会議で採択された「バガン宣言」に基づく経済協力緊密化策の一環として計画された。ミャンマーが土地を提供する一方、タイが開発費を負担する。

 特区開発が計画されているのは、カレン州ミャワディ(面積384ヘクタール)、パアン(同396ヘクタール)、モン州モウラミャイン(275ヘクタール)。

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2006年1月10日 (火)

モンラーの風景 ミャンマー

中国国境の町、モンラの風景。
ここは人民元経済圏。
小さな町の中に、極端に違う風景が並存している。

チャイントーン-モンラ間の道のほうが、タチレク-チャイントーン間よりも舗装がよかった。
ミャンマーだが、ゲーム屋でインターネットができる(日本語のできるところは見つからなかった)。
マーケットはおぞましいところ(好きな人にはたまらないところということになる)。

タイヤイかタイリュかの集落。

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モンラ・マーケット方面を望む。中国人の欲望を満たすものはすべて、狭いマーケットの範囲内で効率的に手に入るようになっている。
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モンラのホテル。
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マンダレーで撮った写真 ミャンマー

マンダレーで。

日本で廃車になったピカピカの車が活躍。
テーブルの上のビンはガソリンではなく、「マックスコーラ」の商品のようです。ミャンマーでは、コカコーラは敵性飲料ということで、限られたところでしか飲めず、「スターコーラ」か「マックスコーラ」が一般的だった。スターコーラのほうがおいしい。
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仏像。
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チャイントーンの湖 ミャンマー

ここはとても良いところ。
湖畔に数件の茶屋、レストランがあるだけ。
外国人ツーリストはめったに見なかった。

この場所が、タイ人売春婦連れ白人によって占拠されるようなことにならないことを祈るのみ。最近はどうなのだろう。

ミャンマー軍事政権には、ミャンマーが、「自由」と称する白人のデタラメが大手を振ってまかり通る汚らわしい国になってしまわないように、気を引き締めてがんばってもらいたいものである。

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チャイントーンで見た仏像 ミャンマー

チャイントーンのお寺の仏像。

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チャイントーンのお寺の鐘 ミャンマー

鐘を担ぐ変な人たち。
ネパールのジャナクプルとかそっちのほうを連想するが、チャイントーンのお寺で撮影したもの。

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チャイントーンのお寺 ミャンマー

ミャンマー・シャン州、チャイントーンのお寺。

市の中心部にあるお寺。
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仏塔。
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ちょっとムガール風?
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2006年1月 9日 (月)

チャイントーン(Keng Tung,景棟)、ロイムウェ ミャンマー

チャイントーン市内の風景。ミャンマー・シャン州。

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チャイントーンのマーケット。アカ族の人たちが普段着の民族衣装で買い物に来ている。頑丈な塀で囲まれた四角い市場。
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昼過ぎには店じまいが始まり、夕方には市場全体がロックされ、無人になる。ミャンマーの大きな市場はだいたいこの形式(モンラーの酒池肉林中国人マーケットを除く)。
城塞都市というのはもともとこういう市場から発達したのかもしれない、と思ったりする。

チャイントーンの目抜き通り。
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チャイントーンではパキスタン料理がおいしかった。日本人の口にも合う(少なくとも私の口に合う)カレーとたくさんの生野菜や香草がついてくる。鶏肉もよく血抜きがしてあり、味がしみこんでいておいしい。
その店には、ロンジの似合うきれいなパキスタン人(ムスリムインド系)の女の子がいた。お客の来ない時間に、ふだんはしないスカーフをつけてコーランの勉強をしている。

ミャンマーでパキスタン系だという人は多かったが、パキスタンという国ができてからパキスタンからミャンマーに渡った人なのか、インドとパキスタンが分裂する以前に渡ってきたイスラム教徒のインド人なのかは、よくわからない。もしかすると、インド領から来たムスリムのインド人が、「インド人」という呼び名を嫌がって「パキスタン系」と自称しているのかもしれない。

ロイムウェ。チャイントーン近郊の村。
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タチレクの仏塔 ミャンマー

タチレクのパヤ。
ここで古いビルマの紙幣を売っているおばさんが観光案内もしてくれた。

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タチレクの仏像。

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タチレク。

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ヤンゴン

ヤンゴンで取った写真はこれだけ。

えりこ。Aye Li Ko。(ちなみにTokyoはトーチョー。)
となりは「ダイマルストア」。
たぶんボジョク・マーケット。

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スーレーパヤ。

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マハーバンドーラゲストハウス。泊まったことはないです。

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タウンジーからヤンシュエへ ミャンマー

トーンジーからヤンシュエへ行く途中の風景。

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トーンジー市内の風景 ミャンマー

トーンジー市内の風景。
トーンジーは静かで快適な町。
しかし、シャン州の少数民族が軍事支配している地域とも隣接していて、厳しい雰囲気も同時に存在する。市の周囲は軍事的に囲い込まれているようで、ぴりぴりした感じもどこかにあるが、私はそれが不快というほどでもなかった。

ミャンマーのインテリジェンスもすごいらしいが、ミャンマーの警察は外見的にはさほど怖そうに見えない。警察官もなぜか小柄な人が多いと思う。タイの警察官は大柄で、見るからに強そうなのが多い(マフィアが制服着てる感じ)のにたいして、ビルマの警察官は見た目は弱々しく見える。
ただ、ミャンマーに詳しい人によれば、その一見弱々しい警察官が、実にいやらしく手ごわいのだとか。

トーンジーの大通り。

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市場。

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バスパーク。

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軍か役所。

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法話。

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ロンドンカフェ(ハラール) ミャンマー トーンジー

トーンジーの「ロンドンカフェ」。
ムスリム経営。
お茶はラペイエ、コーヒーは「コーヒーミックス」のみ。

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トーンジーにもモスクがあった。
ミャンマーで、道に迷ったりわからないことがあって困ったときはいつもモスクに行っていた。お祈りのためではなく、モスクの近くにいるインド系の人たちに英語で教えてもらうためである。インド系の人たち(ムスリムが多い)は、英語が達者で親切な人が多い。ビルマ人も親切だが地方では英語が通じないことが多かった。

モスクの近くで出会ったインド系の青年にいろいろ親切にしてもらった。いろいろと案内してくれる。ネパールに行き過ぎた私は、こういう状況はカネがかかると覚悟していたが、彼は寺院などを案内してくれ、バス代まで彼が出してくれて、一銭もカネを取らなかった。

彼はアフガン人のようなギリシャ風の顔をしてたし、モスクの近くで出会ったので、私はてっきりムスリムかと思っていたが、メインストリートにある仏教寺院にすたすたと入っていって、完全に自分だけの世界に浸り、ひざまずいて床に頭を3度つける仏教の礼拝をしていた。

ミャンマーでは他でも、ガイドのほうからお寺に行こうと勧められることがあった。ネパール観光ズレしていた私は、これまたカネがかかるのかと思ったが、お寺の近くに来たのでとにかく自分が礼拝したかっただけ、という感じで熱心に拝んでいた。

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五月花銀行東枝分行 ミャンマー

ミャンマーメイフラワー銀行トーンジー分行。

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祭 ミャンマー トーンジー

ミャンマーシャン州トーンジーの祭。(たぶん)パオ族の人たち。

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http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-9.html

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2006年1月 8日 (日)

ミャンマー・モンラで見つけた小さな仏塔

ミャンマーシャン州、モンラで見つけた小さなストゥーパ。
ネパールのストゥーパを思い出した。
後ろはタイヤイの村。
モンラーは中国人が作った中国人のための町、という感じのところ。
周囲には伝統的なタイヤイの村がある。

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ミャンマー女性のうしろ姿

ミャンマー女性のうしろ姿。メイティラで。
ミャンマー女性の、髪にさした花とローンジー(タメイ)のうしろ姿がとってもいいです。
正面が悪いという意味ではないです。
頬にべったり塗ったタナカも、すこし見慣れるとセクシーに見えます。

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このピックアップトラックはピンマナに向かう。

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ミャンマーの花祭り

ミャンマー4月の祭。
シャン州のトーンジーで。
中国人は「東枝」と書くらしい。
トーンジーは観光地ではないが、観光地以上に良いところだった。標高が高くて涼しい。

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未検閲記事:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/17/

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2005年12月24日 (土)

Behold, your King is coming to you!

Look, your King is coming to you!
He is meek and rides on an ass.....

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未検閲画像:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/16/

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2005年12月22日 (木)

ロイムウェ ミャンマー

チャイントーン(Kyaintong;イギリス語Keng Tung)近郊のロイムウェという村で。

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2005年12月19日 (月)

ミャンマー“新首都”準備加速 軍政中枢は山中に

【バンコク=岩田智雄】ミャンマー政府が首都機能移転を進めている同国中部の都市ピンマナでの新しい省庁や住宅の配置など、“新首都”の概要が十八日までにわかった。各省庁は、南北を貫く片側四車線の幹線道路西側に分散配置されるが、軍事政権の中枢ともいえる国防省などは、さらに奥まった山中に建設される。一方、ミャンマー政府は今月上旬、各国に対し二〇〇七年末に大使館の移設を許可する方針を伝えるとともに借地料三十年分前払いを要求するなど、移転準備を加速させている。
 計画によると、北側に官庁街、南側に職員住宅が配置される。官庁は北から科学技術省、林業省などが並び、最も南側に外務省、内務省などが建てられる。貯水池やゴルフ場などの整備も進んでいる。ただ、国防省や国家平和発展評議会(SPDC)議長府などは、ピンマナの北方五キロのイエーセンの山林の中だ。
 一方、ヤンゴンの外交筋によると、ミャンマー政府は今月九日、各国外交団を外務省に呼び、ピンマナでの大使館の建設について、「二〇〇七年末までには建物の建設を開始できる」と説明した。各国にはそれぞれ七エーカー(約二万八千平方メートル)の土地が割り当てられるというが、前払いする三十年分の借地料の額は明らかにしなかった。
 ミャンマーでは外国人による土地の購入は認められておらず、ヤンゴンの各国大使館の敷地も第二次世界大戦以前に購入したもの以外は借地。現在の日本大使館は一九七二年に建設が始まり、〇二年に三十年の借地契約が更新されたが、当時数億円の借地料を支払っている。仮に日本大使館が移転した場合、支払い済みの借地料が返済されるかどうかは不明だ。
 一方、現地からの情報では、政府職員の間にはインフラの整っていない地方都市への移転を嫌い、退職を考えている人も少なくないとされ、政府は年金を支給しない条件で退職を認める方向で検討しているという。

(産経新聞) - 12月19日2時36分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051219-00000010-san-int

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ヤンゴンの日本大使館は良いところだった。
静かで人が少なく、待たされない。
待合室も清潔で、しっとりした高級感があり、日本の雰囲気がある。
待っている間もうっとりできる。
何よりミャンマー人職員がとても親切で、日本語もよくでき、大使館員にありがちな高飛車な態度がまったくない。玄関の守衛まで上手な日本語を話す。
ただ日本人職員の顔は見なかった。

関係ないけど、ヤンゴンのインド大使館も閑散としていてあまり待たされない(午前中のみ営業)。
ヒマなせいか職員もそこそこ親切。
インドビザを取るならヤンゴンがお勧めかも。カトマンドゥで取るよりはいいと思う(みんな苦労してるみたいだった)。日本大使館のリコメンデーションレターは必要。

ピンマナはちょっと立ち寄っただけだが、観光ずれしていない市場のある田舎町という感じのところ。悪い印象はない。
ビルマ族の勢力の強い地域らしい。

チェンマイのナイトマーケットで売り子をしていたカチン州出身のカチン族の女の子にピンマナの話をしたとき、ピンマナはビルマ人(バーマ)が多いから嫌だとしかめっ面をしていたのを思い出す(こういうどうでもいい記憶ばかり鮮明に残っている)。
カチン州は、植民地時代からバプティストなどのキリスト教ミッショナリーのターゲットになって集中攻撃された地域で、現実にキリスト教徒が多いので仏教徒のビルマ族とはそりが合わないということがあるのかもしれない。

いずれにしてもなぜピンマナに遷都するのかはよくわからない。石油も出ないミャンマーを米国が攻撃するとも思えない。
やっぱり占い説が本当?

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2005年12月 8日 (木)

新首都、省庁を2カ所に分離=地中のビルも-ミャンマー

【ヤンゴン6日時事】ミャンマー軍事政権が移転を進めている同国中部ピンマナの新首都は、全34省庁のうち国防省など軍関連の3省庁とそれ以外の31省庁を分離して設置していることが6日、分かった。国防省などは山中に置かれ、同省に近い南側の一帯に残りの31省庁が配置されている。新首都の詳細は機密扱いとなっており、概要が判明するのは初めて。
 軍政の「省庁建設計画」などによると、国防省などはピンマナ北方のイエーセン農業大学東側の山中にある。東西6.4キロ、南北19.2キロの範囲に、同省や国家平和発展評議会(SPDC)議長府、軍ホールなどが置かれている。
 この地域には計14棟のビルがあり、その一部は外から見えないように山の地中に建設された。軍政はこの地域をビルマ語で「王の地」を意味する「ネイピドウ」と命名している。 

(時事通信) - 12月7日7時1分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051206-00000190-jij-int

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2005年11月21日 (月)

ミャンマーのアカ族

わりとまともそうなアメリカ人の見方

Akha Myanmar

We do not support boycotts of Myanmar.
There are 200,000 Akha in Myanmar, most residing in Eastern Shan State with the central town of Keng Tung.
The Akha in Myanmar enjoy a peaceful relationship with the government of Myanmar. They have equal access to education, ID cards, Passports if desired, and land rights.

Despite endless journalistic prejudice against Myanmar, in fact, the bulk of human rights violations against the Akha in the most severe forms, occur in Thailand, a US ally and considered a "democratic" "tourist paradise".

Akha Clans in Myanmar are diverse and colorful, Ooh Loh, Loh Meeh and Pah Meeh Clans make up the three general categories, but there are many more clans than this.
The Pah Meeh village in Keng Tung has a lot of natural dying and weaving going on, and Keng Tung is also an excellent place for Akha head dress ornaments which are made by Shan craftsmen at several residences.
In December each year there is a large traditional festival near to the same time that the Catholic church holds its festival, though some years this is quite small. Despite the fact that the Catholic church is quite wealthy, little can be seen that changes from year to year in their aid to the Akha of Joseph village which is the rather captive village near the mission. Alcoholism and other problems plague this christian community, but there is no shortage of catholic church buildings and shrines in this community, probably the highest density of church structures in Myanmar.

Thailand exploits the Akha of Myanmar, imposing heavy prison fines for infractions, and sending many Akha prisoners far from the borders with Myanmar so that their families can not visit them. Often they die in prison in Thailand.

Thailand also exploits hundreds of Akha women from Myanmar in debt bondage in the frequent brothels of Thailand. One can find these brothels in any city or even small town, and frequently hill tribe girls from Myanmar are prisoners there. Without ID cards or advocates they are sexually exploited for years. Only the fortunate return home. These human rights violations which occur in Thailand are seldom talked about. Western men can readily be seen with hill tribe women in Thailand, many of them from Myanmar. Myanmar makes every effort to keep young women from traveling to Thailand where they can become trapped in this work.


http://www.akha.org/index.html

(ポイント)
この人は偽善白人人権屋がよく主張するような「ミャンマーボイコット」を支持しない。

ミャンマーのアカ族は、ミャンマー政府とわりといい関係を持っていて、IDカードや教育や土地所有権について、ビルマ族と平等に得ることが出来る。

際限のないジャーナリズムのミャンマーに対する偏った批判にかかわらず、現実には、アカ族に対する最もひどい形での人権侵害は、「民主主義的な」「ツーリストパラダイス」とされているタイで大量に起きている(ミャンマーのほうがアカ族の人口ははるかに多く20万人。タイは7万人)。

タイは、ミャンマーのアカ族を搾取している。ちょっとした違反に高額の罰金を科し、あるいは、家族が面会できないミャンマー国境から遠く離れた監獄に送っている。タイの監獄で死ぬミャンマーアカ族も多い。

借金のカタにタイの売春宿に拘束されて性的搾取をされているミャンマーのアカ族女性が何百人もいる。タイのどんな小さな町にもそういう売春宿があり、ミャンマーからの山岳民族の少女たちが拘束されていることが多い。タイのIDカードがなく支援者もいないので、何年も性的に搾取され続ける。タイで起きているこのような人権侵害についてはめったに語られることがない。西洋男がタイで山岳民族の女性と一緒にいるのは容易に見つけられる。多くはミャンマーから来た女性である。ミャンマー政府は若い女性たちをタイに行かせないように大変な努力をしている。というのは、タイではこのような罠にかかる危険があるから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(補足)
タイはミャンマー人労働者の入国を認めている。一日数十バーツ、一年4000バーツほどでパーミットを取り合法的に働ける。これはその上での話。(タイにおける山岳少数民族の人権問題を、日本における三国人不法滞在者のゴネドクと同視してはいけない
パーミットを取って入国しているミャンマー人や、恒久的IDカードを持たないタイの山岳民族にたいして、タイ警察がちょっとした違反で高い罰金を要求したり、若い女の子なら性的サービスを要求したりすることはよくあるということ。
とくに拘束的な性的搾取は深刻だが、これを人権問題としてとりあげる欧米メディアは皆無である。白人にとってタイほど楽しい国はないだろうし、タイの売春問題はその起源から見ても「白人のための慰安婦」問題にほかならないからだ

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2005年11月16日 (水)

タチレクの丘からメーサイ方面を望む

ミャンマー・タチレクの寺のある丘からメーサイ・イミグレ方面を望む。                                   

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2005年11月15日 (火)

ミャンマー・タチレクの寺

ミャンマー・タチレクの寺。                                                  

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2005年11月 3日 (木)

タナカ タチレク(ミャンマー)

タナカをしたビルマ人の女性たち。ミャンマー・タチレクのマーケットで。
タナカは、タナカの木から取れる粉で、肌の保護、美容のために使う。

検閲により画像削除

検閲により画像削除

タイのメーサイからミャンマーのタチレクに出ると人の顔立ちも変わる。
タイではひっそりとしているインド系の顔立ちの人たちが、ここでは活き活きとしている。タイ人のインド系(インド人顔の人)に対する差別はとくにきつい。

検閲により画像削除

タチレクは、メーサイと隣接する国境の町。 マーケットがあり、2、3年前までは虎の皮なども違法に取引されていたという。タチレクのマーケットで仕入れた虎の皮で儲けたという日本人にメーサイで会った。自称貿易商で、いまはタイのジーンズが日本で売れるのだとか。まだ若いのに前歯が全部抜けている異様な風体の人だった。

ミャンマー旅行でタチレクに行く人は少ないと思う。少数民族支配地域が間にあるので、ヤンゴンからは陸路では行けないことになっている。大部分のツーリストは、メーサイに行ったついでに、またはタイでのビザなし滞在(一ヶ月)を更改してパスポートにスタンプを押してもらうためだけにタチレクへ出る。タチレクへは250バーツくらいで一日(日中のみ)滞在が可能。一泊するためには2週間のパーミットが必要。

タチレクのマーケットには中国茶や乾物、中国製の安い雑貨などが多く、チェンマイあたりから買い物に行くタイ人もいる。
ミャンマー人は一日数十バーツ、一年間4000バーツでパーミットを買い、タイに入国し働くことが出来る。メーサイの露天やマッサージ屋で働く人にはミャンマー人が多い。

画像未検閲記事:
http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/21/


メーサイの日記。
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2005年9月18日 (日)

2004年9月10月ミャンマー(マンダレー、ミチナ、ヤンゴン、バゴ、モーラムヤン)

2004年
【マンダレー】
9月9日。午後2時半ごろ、チェンマイ空港からエアマンダレーでマンダレーへ。マンダレー空港から以前と同じく8000チャットのタクシーで市内へ。5時半ごろ、前と同じサバイプユゲストハウスにチェックイン。サバイプユのフロントはフレンドリーで感じがいい。4月に泊ったとき、私が受付で並んでいると、白人客が横から割り込んでフロントに何かを聞こうとしたことがあったが、フロントの女の子は相手にしなかった。タイなら別の展開になっただろう。
10日。マンダレーは雨季。よく雨が降る。道路が川のようになり、ロンジのすそをたくしあげて水の中を歩かないとどこへもいけない。私は4月以来タイでもロンジをはいている。マンダレーはティーショップがあまりない。夕方の六時くらいに閉めてしまうところが多い。雨が降って道が川のようになるとティーショップはどこも閉めてしまう。
11日。川のフェロー乗り場を見に行く。以前と少し雰囲気が変わった。川沿いを歩くと変なにおいがする。
ホテルの同じ部屋に陣取っている中国人がうるさいので昨日部屋を変えてもらった。ドアを開けたまま十数人がひとつの部屋に集まり大騒ぎをしている。紙切れを細かく破って放り投げあたりに散らかすので、中国人の部屋の前はゴミだらけ。バクチかなにかしているようだ。エアコンの部屋なのにどうしてもドアを開けたいらしい。中国人と同じ階になってしまったら、部屋が離れていてもダメ。その階中響き渡る。インド人も泊っていて、やはりドアは開けているがおとなしく行儀は良い。中国人が泊っていないという別の階の部屋に移るが、運悪くそのあと別の中国人が同じ階に入り、同じように扉を開けたまま大騒ぎを始める。
【ミャンマーエアウェイズ(MA)】
12日。ミャンマーエアウェイズでミチナへ。ミチナへはミャンマーエアウェイズしか飛んでいない。空港のチェックインはスムーズ。チャイントーン空港より簡単で、荷物を開ける検査はない。X線のみ。ミャンマーエアウェイズはとっても良い飛行機だ。座席指定がない。自由席。みんな思い思いに座る。座席は廃車になった観光バスよりさらにぼろい感じ。飛んでいる間に食事用テーブルが留めがはずれて落ちてくる。英語アナウンスはない(ヤンゴン路線はある)。一応ジェット機でエアマンダレーの国際線より機体は大きい。その飛行機はヤンゴンから来て、マンダレーで客を入れ替えてミチナに向かう。ヤンゴンからマンダレーまでの客が食べた弁当の屑が、椅子の前のポケットに入ったまま。
ロンプラはこのミャンマーエアウェイズをキチガイのようにたたきまくっている。その理由は、「悪い」政府の経営する国営航空だからというもの。ミャンマーエアウェイズを使うと「悪い」政府にカネが入るからよくない、という小学校のクラス委員的な立派な理由である。その裏には、ミャンマーエアウェイズは、「ツーリスト」(=白人)の方を向いていない、媚びてくれない(「フレンドリー」でない)、というのもあるのだろう。
しかし私は、ミャンマーエアウェイズは、少なくともタイ航空(TG)なんかよりはずっと立派な航空会社だと考える。MAはミャンマーの辺鄙な町にも飛んでおり、ミャンマー国民の重要な足になっている。乗客はほとんどミャンマー人で、大きな荷物を客席に持ち込む人もいる。大きな竹篭に入った行商用らしき品々など。スチュアーデスは無愛想だがよく見ている。困っている人がいると表情も変えず手を差し伸べる。赤ん坊を連れた客が入ってくると、混んでいる客席のなかで子供を寝かせられるような席を見つけてやる。
【ミチナ】
空港付近は兵隊が厳重に警備していてあらためて軍事政権を実感する。
空港からオートリクシャで800チャット。YMCAにチェックイン。ロンプラの記述に反してシングルルームあり。バストイレ共同の広いこぎれいな部屋。7ドル。部屋には無料のインスタントコーヒーとお湯が用意され、毎日換えてくれる。インスタントコーヒーは小袋に入った砂糖入りネスカフェ。こちらにはブラックコーヒーを飲む習慣はない。ここも雨。YMCAには一人汚い感じの白人がいて、YMCAで勉強してるらしい地元の女の子たちに囲まれてしゃべっている。
14日。ミャンマーエアウェイズのオフィスを聞き出し、プータオにいけるかどうかを聞く。パーミットがあるガイドが一緒でないといけないようだ。そしてパーミットはヤンゴンでないと取れないらしい。ミチナのイミグレーションオフィスにも行って頼んでみる。イミグレの役人と一対一で対面し、なんとか行けないものだろうかと聞く。パーミットがないからダメだというので、あなたがパーミットを出してくれるわけにはいかないのかと聞くと「自分はオーソリティがないから」ということだった。賄賂も示唆したつもりだったがムリのようだった。そのときはどうしてもプータオまで行ってヒマラヤに近づきたい気持ちだった。
16日。ミャンマーエアウェイズのオフィスまで行きヤンゴン行きチケットを申し込む。ヤンゴンまで165ドル。つり銭はくれないというので、5ドルまできっかり払う。ドル札の番号を一枚一枚控えていたのに驚いた。午後一時もう一度オフィスに行きチケットを受け取る。
YMCAの「ボス」にドルをチャットに両替してもらう。ミチナはマーケットでも両替してくれない。一ドル900チャットだった。マンダレーよりずいぶんいいレート。「ボス」によるとヤンゴンでは910チャットくらいらしい。
ミチナに日本人が寄進したらしい巨大な寝釈迦大仏がある。新しいものだがミャンマー人の仏教徒が跪いて礼拝している。その敷地の隅に、日本人が立てた招魂碑がある。静岡県の人が寄進したらしい。ミチナでも多くの日本兵が玉砕した。日本兵とともに最後まで闘い玉砕したビルマ人兵補のことを忘れない、とあった。日本軍が強い間は日本軍と一緒になって英領ビルマ(チャイントーン)に進駐したりし、日本軍が劣勢になると手のひらを返したように連合軍に付いたタイ人たちとは対照的だと思った。戦争の是非でなく人間の質の話。
ミチナはカチン州の州都だが、民族衣装はほとんど見ない(ビルマ族のロンジを除く)。ロンプラによれば、カチン州は戦前からキリスト教のミッショナリーが集中攻撃して宣教したところだかららしい。そういうこともあって、少数民族の伝統を守る人が少ないようだ。北タイやミャンマーでのミッショナリーのやり方は、少数民族の固有の文化や伝統を野蛮なものとして一切捨てさせるというもので、その結果、キリスト教徒の子供は本来の名前を持たずクリスチャンネームのみとなる。祖先崇拝や自然崇拝などの宗教的伝統を一切捨てさせる。
山岳少数民族の中には祖先の名前を何十代も暗証するのが習慣になっているところもある。そういう文化を野蛮なものとして一切否定し捨てさせるのがキリスト教ミッショナリーのやり方。(キリスト教徒自体、マタイ伝の系図を暗記してたりするのだが)。
ミチナの人々がミャンマー人にしては冷淡に見えるのはキリスト教徒が多いからかもしれないなどと思った。
17日。空港までオートリクシャで700チャット。ミチナの空港の建物は木造で村の小学校という感じ。発着ロビーのほうは鉄筋で少しいい。11時チェックインとあったが午後2時まで待たされる。白人女が2人乗った以外はアジア系ばかり。マンダレーまではローカル線という感じ。マンダレー-ヤンゴン間はお菓子と薄いミルクコーヒーが出た。お菓子は弁当のような紙箱に入っていたが、小さなカステラとビスケット。マンダレーを出たときスチュアーデスが酸素マスクの使い方を初めて簡単にやっていた。
【ヤンゴン】
ヤンゴンに着くとき英語アナウンスがあった。ヤンゴン空港から4000チャットで4月に泊った大富華旅館へ。一泊10ドル(以前と同じ)。窓のないエアコンの部屋(どの部屋も同じ)。
18日。宿の中国人のオヤジに人民元をチャットにしてもらう。100元10000チャット。モンラに行った時にチャイントーンで買った人民元がたくさんある。このオヤジは華人だがロンジをはいていてビルマ語も話す。しかしやっぱり中国人の猛烈さはある。
19日。タチレクのビルマ人チョーチョー(Kyaw Kyaw)さんから紹介されていたチョーチョーさんのお姉さんのところに朝電話をかけて訪ねる。ドー・キン・タン・ミンというおばさん。草木染の工場を経営している。ヤンゴンの郊外の公営住宅のようなところに住んでいる。工場はメイティラだという。工場を見学できると思っていたが商品が少しあるだけ。老眼鏡をかけたおばさんだが日本に4年ほど留学していたそうで、日本語はかなりできる。漢字も読めるようだ。お茶とラスクのような質素なミャンマーのお菓子がでる。ミャンマーのお菓子だと言ってしきりにこれをすすめてくれた。食パンを乾燥させたような、甘くないラスクみたいなもの。この人も日本からミャンマーに帰るとき、タイのイミグレでやばいことになりそうになったという。バンコクはトランジットだけだったが、間違えて団体客に混じって外に出てしまったそうだ。タイ人役人の嫌がらせをうけるのは必至なので、乗ってきた大韓機のオフィスに行き、付き添ってもらってなんとか事なきを得たとか。チョーチョーさんも、日本でオーバーステイをして送還されるとき、バンコクのイミグレ役人に3万円要求されたという。
行きはタクシーで1500チャット。帰りはキン・タン・ミンさんの娘(か使用人の女の子)と一緒にバスで市内に戻る。バス代は20チャット。えらい違い。ボジョクアウンサンマーケットの近くで降りる。
毎日インド人街の屋台でダヒ(ヨーグルト)を食べる。一人だけ露骨にぼるババアがいるがあとはいい人が多い。
20日。午前中にインド大使館にビザ申請に行くが、日本大使館のリコメンデーションが必要と言われる。日本大使館に電話をすると今日(敬老の日)もやっていた。日本大使館に行きリコメンデーションの書類を作ってもらう。
ミャンマー日本大使館の職員は守衛まで日本語をよく話す。チェックは厳重ですべてガラス越しの会話だが、概してすごく親切。特に中の窓口の人は、日本語が良くできるミャンマー人でいろいろな質問に丁寧に答えてくれる。わからないことはわざわざ調べて教えてくれた。地図まで書いてくれる。日本人職員は見えるところにはいないようだった。待合室にはミャンマー人がちらほら。インド大使館にもどるが、開いているのは午前中だけ(9:30~11:00)で今日は申請できない。
Bogyoku通りの西の端のほうにあるBahosiクリニックに行く。最初ヤンゴンジェネラルホスピタルに行くと職員が親切に、ここは国立で(外国人は)ドル払いで高いからといってBahosiクリニックを紹介してくれた。
21日。午前中にインドビザ申請。金を払う。「4仕事日」待てといわれる。来週の火曜日までヤンゴンから動けない。(パスポートがないとホテルに泊れない。ツーリストが民家などに泊るのはご法度)。
23日。スーレーの近くのエアマンダレー代理店に行き、チェンマイ行きを予約。20ドル払う。総額75ドル。
24日。スーレーから東に行ったところのバス停で218番のバスに乗り、タンリインへ。小さな町。マーケットがある。シャンヌードルのようなものも。バスの番号はビルマ文字だけだが、少しわかるようになった。
大富華旅館近辺はチャイナタウンで中国人施設が多い。「江氏家族会」「戴氏家族会」「陳氏敬愛会」などの立派なビルがある。特に江氏のが大きい。華人は氏族のつながりが強いのか、そういう名の秘密結社のようなものか・・・・。
25日。昨日とは別のルートのバスでなんとなくまたタンリインに行ってみる。すぐに帰ってくる。20K×2。
26日。バゴ(ペグ)に日帰り旅行。アノーラタ通りの西の端の公園(ターキンミヤThakhyin Myaパーク)にあるバスステーションから、バゴ行きのバスに乗る。Phyo Express。400チャット。バゴは客引きが多かった。日本語を話すサイカ(トライショー)の運転手兼ガイドが日本語で話しかけてきた。モンMon族地区に近い寝釈迦大仏のある寺でも日本語を話す物売りの女の子がたくさん寄ってくる。帰りはソンテウのようなピックアップバスしか捕まらない。これも400チャットで行きの「エアコンバス」(例によってエアコンは動かない)と同じ。ヤンゴンに着いて48番の市バスでスーレーへ。行きのバスはちょうど2時間、帰りのピックアップは3時間くらいかかった。
27日。空港への行き方を調べる。空港への市バスは、スーレーの南のマーチャントストリートを西に入ったところから51番のバスで、ピヤイロードを通って「10マイルズマーケット」(セマイルズゼイ)まで行き、そこからピックアップで行くか、歩く。10マイルズマーケットは終点ではないので注意。金色の門を通り過ぎたらすぐ。
【バゴ(ペグ)】
28日。午前インド大使館に行きインドビザを貼ったパスポートを受け取ってから、大富華旅館をチェックアウト。
ターキンミヤ公園のバスステーションからPhyoエキスプレスでバゴ(ペグ)行きに乗る。正午発。バゴに着き、エンペラーモーテルにチェックイン。6ドル。狭い部屋。エアコンは夜だけ。スコール。
インド人のトライショー運転手に頼んで、モンMon族の集落を案内してもらう。バゴのまちからそれほど遠くないところに高床式の集落があり、昔ながらの機織を営んでいる。そのひとつをお願いして見学させてもらった。木造の古い織機に女性たちが一本ずつヒを飛ばして絹の生地を織っていく。商品も売っているがどれも一枚布ばかり。女性のロンジ用が主流のようだった。そういう家内工場のある家がいくつかあった。いまもモン語を話す。しかし、インド人の話では、モン族は貧しいのだという。(Mon族はタイ中部にも分布する。しかしタイのモンがどれだけ民族的なアイデンティティを保持しているかは疑問。モン語を話せるモンがタイにもいるのだろうか。なおラオス等のHmongはまったく別の民族)。
29日。エンペラーモーテルをチェックアウト、右斜め向かいにあるサンフランシスコホテルに移る。同じく6ドル。広い部屋。ただしエアコンはPM11:00以降のみという。ファンはある。サンフランシスコホテルのスタッフは、チェックインのときはいい顔をしていたが、そのあとがらりと態度が変わって悪くなる。変な感じ。電気も深夜になると切れ、エアコンなどまったくのウソ。広くて窓が多いわりに蒸し暑かった。エンペラーモーテルの下の切符売り場でチャイティオ行きのバスを予約する。1500チャット。
【タットンThaton】
30日。9時半、エンペラーモーテルの前からバスに乗り、Thatonに行く。チャイティオは通過。タートンでトライショーにBlue Cloudゲストハウスというところに連れて行ってもらう。昼からエアコンがあるが、バストイレ共同の部屋で8ドル(言い値は10ドル)。タートンは小さな町だが立派なパヤがある。町が小さいだけにすばらしく大きく見える。

【モーラムヤンMawlamyaing】
10月1日。タートンを出る。正午ごろのピックアップでモーラムヤンMawlamyaingに向かう。500チャット。3時ごろ埠頭に着き、外国人料金1ドルを払ってフェリーに乗る。ピックアップはさほど混みあわず、後ろの席でもわりと快適だった。フェリーはモーラムヤンのHpa-an Jettyに着く。着く頃にひどいスコールになる。4月にロイムウェーで夕立にあったときに買ったビニールをまとうがびしょぬれに。川沿いを右にしばらく歩き、Breezy Rest Houseにチェックイン。途中、親切な人がバイクに乗せてくれた。乗っている間いくら請求されるかはらはらしたがタダだった。いろいろあると善意を受けるのもだんだん心苦しくなってくる。
Breezy Rest Houseのだだっ広い2回の部屋に入る。一泊8ドル。2泊15ドルにしてもらう。ほんとうにだだっ広い部屋。このBreezyは、植民地風のつくりというのだろうか、床は板張りで柱や壁はコンクリートと木造のミックス。
部屋の壁に隙間があるらしく、夜のあいだこうもりのような小さな動物が、部屋の中をすごいスピードで飛びまわる。真っ暗だから鳥ではない。正体を見極めようとしたがすごいスピードで部屋の壁の端から端へと飛ぶのでわからなかった。この部屋は天井も高くがらんとした空間。ベッドに蚊帳がつってあるので、この動物に噛まれることはないだろうと思っておそるおそる寝る。
2日。朝遅く起き出すと部屋の前のホールに朝食が出された。すぐに出せるように用意されてあった。小さい食パンのトーストとオムレツと「コーヒーミックス」(ミルク砂糖入りインスタントコーヒー)とオレンジジュース。
バスチケット売り場を教えてもらい、ヤンゴンへのナイトバスのチケットを買う。セイジョーというバスステーションから出る。2700チャット。昼、果物ばかり売っているマーケットでドリアンを半分買う。1500チャット。高いが色も濃くてうまかった。
3日。正午にチェックアウトし、マーケットやティーショップ、ゲストハウスの下のロビーなどで時間をつぶし、3時45分ごろモスクの近くのチケット売り場の前まで歩き、セイジョー行きのピックアップを拾う。セイジョーまで30分ぐらい。100チャット。
バスは日本製でゆったりした新しいもの。一応エアコンが働いている。しかし時々停車して車輪か車軸かにさかんに水をかけていた。
タットンThatonまでは来たときと同じく3時間で行く。タットンからがのろのろで長くかかった。時々検問もある。ほとんど全員おろされた。それでも降りない人もいる。ネパールほど高圧的ではないが、人の顔を見ているようで調べる人は念入りにチェック。しかしタイほどいやらしい感じはしなかった。服装や人種でどうこうというやり方ではないようだ。逆に言えばもっと高度なチェックをしているということになる。ミャンマー人にしかわからないサインがあるのかもしれない。
【ヤンゴン】
4日。午前5時過ぎ、12時間かかってヤンゴンに入る。その間、食事休憩二回と故障らしきこと一回。初めて停車するバスターミナルで降ろされる。マハーバンドーラ通りをずっと西に行ったところで、バスターミナルらしさがまったくない場所。そこから市バスでマハーバンドーラをスーレーのほうに行き、ライライホテルが見えたところで降りる。シュウェトンダンロードを北に歩いて、大富華旅館にチェックイン。市バスの中に山岳少数民族と思われる女性が三人はだしで乗っていた。一人は若く、短いスカートをはいていた。バスに裸足のまま乗る人ははじめて見た。表情を見る限り悲惨でも不幸でもなさそうだった。周りの人も気にしない。
昼過ぎまで眠ってからエアマンダレーオフィスに行き、チケットを受け取る。
7日。10時までにエアポート。エアポートまでは、大富華旅館近くのバス停から51番のバスで10マイルズ(セマイルズ)まで行く。バスの中でシャン族の太った女の子が親切に荷物をひざに乗せてくれた。英語教師で日本語も少し話せた。
チェックインは非常にわかりにくい。人に聞いてもあそこここといいかげんな答えしか返ってこない。最初は指示されてドメスティックロビーの方に行かされた。
【チェンマイ】
飛行機は時間通りにチェンマイに着く。チェンマイ空港からはるばる歩いてコンコートホテルまで行く。350バーツでエアコン付の部屋。一時間以上歩いた。
夕方、ナイトマーケットの近くの「デパート」のノースフェイス代理店と、カドスアンケオ(セントラルデパートなど)をまわり、カドスアンケオの方でアディダスの小さなショルダーバッグと「スポーツジャンクション」でノースフェイスの大き目のショルダーバッグを買う。
8日。銀行でドル札を買う。チャイントーンのブラックマーケットとレートはさほど変わらないが、札が汚いし古いのがある。変えろといってもでかい態度で「無い」という。ミャンマーなどでは札がきれいで新しいことは重要だ。特にドル札の場合、古かったり汚れていたり破れていたりすると受け取ってもらえないことがある。タぺー通りのクルンタイバンクで1000ドル(レート41.55バーツ)とカシコーンバンク(かつてのタイ農民銀行)で200ドル(レート41.56バーツ)買う。とくにクルンタイは態度が悪かった。

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2005年9月17日 (土)

2004年7月8月チャイントーン、モンラ

2004年
【チェンマイ】
5月10日。チェンマイラム病院。
チェンマイは夜も早くなり、今の時期、売春婦連れ白人は少なくなっている。
【チェンライ】
16日。チェンマイアーケードからエアコンバスでチェンライへ。バーンブアゲストハウスにチェックイン。
17日f。ブーンブンダンゲストハウスに移る。
【メーサイ・タチレク・チェンライ】
26日。午前11時。ブーンブンダンをチェックアウト、メーサイに向かう。2時間ほどで着く。
Sureerat Restaurantの部屋に入る。200バーツ。以前は150バーツだったが、テレビがついた。
27日。タチレクに出る。最近はタイのイミグレにパスポートのコピーをさかんに要求される。それも全部ではなく適当なページだけ。そういう情報はコンピューターにも入っているはずなのだが。
28日。チェンライへ。バーンブア。

【チェンマイ】
6月1日。バーンブアをチェックアウト。エアコンバスでチェンマイに向かう。そのあいだチェックなし。ヴァラナンゲストハウスに入る。
2日f。チェンマイラム病院
3日。チェンマイラム病院。
4日。チェンマイラム病院。
5日。Tokyo Opticsで新しいレンズを作る。前に作ったフレームに明日つけてもらう。
6日。歯医者。めがね屋。
11日。毎日オロロットマーケットに「マンゴ+もち米」を買いにいく。
ロイクローのガラス張りコーヒーショップ。
眼鏡を変えてからものの見え方が変わりヘンな感じがする。腰痛も。
14日。夕方部屋に戻ると女を連れたファランが部屋のまん前で裸で座っていた。どこうとしないのでトラブルになる。
15日。ヴァラナンにいるのが嫌になり、チェックアウト。堀の内側のトップノースゲストハウス。
17日。チェンマイラム病院。
【チェンライ】
19日。トップノースゲストハウスを出る。ソンテウでチェンマイアーケードへ。30B。ヴィップバスでチェンライへ。時計塔に近いSiam Hotelという旅社に入る。200B。大通り沿いの旅社で、裏の部屋でもうるさい。
【メーサイ・タチレク】
22日。サイアムホテルを出る。緑のバスでメーサイへ。警官のチェックが2回。チェックされる人とされない人がいる。Sureeratにはいる。
25日。朝、タチレクにでる。

7月6日。日本から本が届く。
18日f。
【チャイントーン】
23日。スリラートをチェックアウト。一ヶ月の滞在。
タチレクのミャンマーイミグレーションに行くと、四月には取れた4週間のアライバルビザが取れなくなっていた。2週間のパーミットしか取れず、マンダレーやヤンゴンには行けない。やむなく、2週間のパーミットでチャイントーンに向かう。パスポートはタチレクのイミグレに預けなければならない。出国もタチレクのみ。車代400B。ゆっくり5時間ぐらいかけて走る。ノイイーホテルにチェックイン。
24日。チャイントーン2日目。朝、マーケットで変な日本人に会う。恥ずかしい買春オヤジにありがちなことだが、メーサイにいたときからこちらの行動を逐一監視していたらしい。こっちはまったく知らなかった。私がどこのマッサージ屋に行くのを見たとか言う。50歳近くになってほとんど買春のためだけに旅している。それがなぜか大真面目にやっているようにみえる。いろいろなことに興味がある人のようで、放送大学の通信講座を受講もしながら海外旅行もしてるという。放送大学に学籍をもっていると日本に帰ったときに大学の宿泊施設を使えるのだとか。その後も何度か出会うが、置屋通いを隠そうともしない。タチレクでたまたま再会したときは挨拶もそこそこに「いま置屋行ってきたところなんですよ。300バーツでした」なんて明るく声をかけてきた。言葉遣いは丁寧で、偉ぶったり自慢話したりはしない人。
バーツでドル札をを800ドルくらい買う。ドル買い1ドル40バーツのところと41バーツのところがある。中国元も1,000元くらい買う。
4月に来たときは本当に白人が少なかったが今度は増えている。ニヤニヤしながらきょろきょろと「野蛮人」を観察する目でマーケットに来ているファランオヤジが不愉快。
チャイントーンマーケットには、「本物の」山岳少数民族が、民族衣装のまま買い物に来たり物を売りに来たりする。ここには北タイトレッキングで見るようなの観光用の見世物にされている少数民族村とはまったく違う本物の生活がある。アカ族もよく見るが、タイのアカ族とは支族が違うようだ。
毎日雨が降ったりやんだりで時々晴れる。人民元を2000元買う。一元=4.95バーツ。
26日。隣の部屋に女を連れたファランが入った。熊のようなバカっぽい若い大男で、女のほうは子供のようなタイ女(と思われる)。音は筒抜け。朝から半裸で庭を歩き回り、女に洗濯をさせている。ノイイーホテルは水が真っ黒。ボーイは「ガヴァメントウォーターだから」などと言いわけをするが。
【モンラ】
27日。ノイイーホテルをチェックアウト。モンラに向かう。10時半ごろ車が来る。ミャンマー人客がフロントシートに陣取っていた。後ろにはもう一人タイ人の若造。モンラーまで6500チャット。道もよく舗装されている。タチレク-チャイントーンよりいいくらい。
モンラの近くのチェックポイントで入境料を払わなければならない。ミャンマー政府に払うのだろうが、なぜか人民元で払わなければならない。36元。午後1時ごろモンラにつく。運転手はミャンマー人客を最優先してホテルのチェックインの手伝いなどをし、そのあいだ車で待たされる。パーミットは運転手が「関所」に預けてしまい、身分証明書は何もなくなる。
「155旅館」という新しいきれいなところにチェックイン。身分証なしで泊めてくれた。ドーミトリ形式のベッドがいくつもある広い部屋を一人で使い15元。お姉さんの感じがいい。ビルマ人のように見えるが、タイ語がすこしできる。漢字は読めない。
28日。モンラの立派な方の橋を渡った向こうに、野球場くらいの広さの大きなマーケットがある。塀で四角く囲った空間で、人間がカネで満たすことのできる欲望はすべてその中だけで満たせるようになっている。いかにも中国的な便利な空間。まだ新しく、建設中という感じ。泰式中式緬式などの按摩屋があり、どこも25元(125Bくらい)。昨日中式按摩というのを試すが、泰式の要素がかなり入っていた。マッサージをするのはほとんど中国人の女の子。たまにタイヤイがいる。モンラはチャイントーンより暑い。メーサイがいちばん涼しい。
町はずれにシャン(タイヤイ)の集落があり、建物など風情があって面白い。新しく建った家と対照的。
29日。ミネラルウォーターは1.5リットルで3元(15バーツほど)。これはまだいいが、中国製のシャンプーが15元もする。ビルマ人茶屋のラペイエ(ミルクティー)が2元。
「シャン邦東部第四特区警察局」というところがあった。初めてパトカーらしき車を見たが乗っている人は警察官に見えなかった。
30日。数少ないタイヤイの屋台(非常に簡素なもの。台だけ地べたに置き低い腰掛に座る形式。作る人と相対して食べる)で、麺類を食べる。スープはほとんどなく少し「たれ」をかけて手でかき混ぜるカオソイ方式。なかなかうまい。155ホテルに近い町外れに2軒だけあって、そのうち一方のおばさんはチャイントーン出身でタイ語を話した。マッサージの子などは、シーサンパンナ出身のタイヤイでもタイ語を話したがらない。「普通話」を話せと漢字で書いてくる子も。彼らは中国人であることにプライドというか面目を感じているようにみえる。
昼間、ビルマ茶屋のテレビで、侮日的な中国の娯楽ドラマをやっていた。滑稽なちゃんばらの日本人が悪役で出てくる。中国のテレビのようだ。この店の主人はムスリムのビルマ人らしい。娘がいかにもビルマ娘という感じでかわいい。ロンジも良く似合う。数少ないムスリム住民がこの店に集まってくる。この町はムスリムが少なくて居づらいと言う人もいた。ラペイエを出す店もたぶんここ一軒だけ。
155ホテルの姉さんもビルマ娘で、いつもジーンズでロンジをはかないが、タナカをしっかり塗ってなかなか魅力的。
マーケットには堂々と、甜蜜蜜酒口巴(口偏に巴)、激情酒口巴、浪花酒口巴、夜来香酒口巴・・・・・などが並ぶ。
31日。近所の山からやたら鉄砲を撃つ音が聞こえてくる。この辺を支配している不正規軍(ビルマ人やタイヤイの混成軍らしい)の演習のようだが激しい。

【チャイントーン】
8月1日。朝、マーケットの近くのバス停まで車をさがしに行き、イミグレーションの人も捕まえて、ようやく155Motelをチェックアウト。155はいいところだった。2時間ほど走って、10時半ごろチャイントーンに着く。マーケットの近くのSam Yweatゲストハウスにチェックイン。「Sam Yweatホテル」は別のところで遠い。
2日。いつも行くマーケットの茶屋に、感じの悪いタイ人老夫婦が来ていた。こんなローカルな場所に来て、タイ語しかしゃべろうとせず、それが通じないといっていらだった顔を見せる。ババアのほうはさらに感じが悪い。タイ語が通じる人もいるが、チャイントーンでは基本的に国語のビルマ語が共通語。支払いの時も、チャットで払ってくれといわれているのにあくまでもバーツで払おうとする。ババアがティーショップのタナカを塗ったお姉さんを呼びつけて、吐き捨てるように「タオライ」という。ジジイのほうは「ライオンズクラブバンコック」という文字の入った野球帽をかぶっていた。ババアの鼻はとって付けたようにまっすぐで、整形でもしたようにみえる。
3日。Sam Yweatゲストハウスはファラン客が少なく、その意味では良い宿。しかしその分タイ人客が多く、中国人のような振る舞いをする。
Sam Yweatはきれいな水が出た。ノイイーホテルのボーイがガヴァメントウォーターだから汚いといっていたのはウソのようだ。たぶんノイイーの貯水タンクが汚いだけだろう。
【タチレク】
4日。Sam Yweatをチェックアウト。宿のアカ族の女の子に11時にタクシーを呼んでくれるように頼むが、12時になってもこない。客の人数が足りないというのだが。少し強く言ったらすぐに来た。来たのはいいが他の客を拾うためにそれからまた一時間ぐらいかける。同じことだった。しかしそれからが最悪。最初運転手かと思っていたのは酔っ払ったタイ人客の一人だった。ミャンマー人運転手をバンのうしろの荷台に追いやって、自分ででたらめな運転を始めた。ミャンマー人運転手のほうはまったく言いなりのようだった。私は助手席に座り、うしろに3人タイ人客がのっている。タイ人ニセ運転手がキチガイじみた大声で後ろのタイ人客と話し続ける。アルコールの臭いをぷんぷんさせてでたらめな運転をしながら、ひっきりなしに強烈な大声で話し続ける。ティッシュペーパーで耳栓をつくり耳に詰め込むがあまり効果がない。どうしょうもないタイ猿だった。タチレクまでの道のりが長かった。車代400バーツ。苦行のような旅で腹が立っていたし、運転手が運転していないので300バーツに負けさせようとしたがムリだった。
この日はタチレクに泊る。ドリームフラワーゲストハウス。160B。汚い宿で水シャワー。ムスリム地区にあり、スタッフもムスリムだが感じは良い。
【メーサイ】
5日。午前中にメーサイに出る。スリラートレストラン2号室にチェックイン。ここの従業員はみんなミャンマー出身のビルマ人。部屋に残しておいた本はとっておいてくれた。夜は01古式按摩へ。いつもやってもらっていたピーム(フィム)は、身体を壊してタチレクの村に帰っていた。この子はミャンマーのアカ族。
6日。眼鏡がどれも合わないので、新しいレンズを作ろうと思い、セブンイレブンの近くの眼鏡屋Top Charoen opticsに行くが、ここで作るのは無理だった。レンズを作るときはバンコクに送るのだそうだ。メーサイにレンズを作れるところはないらしい。
9日。向かいの1号室にキチガイファランが女を連れて泊り、夜中大騒ぎ。ファランにしてはふつうかもしれないが、この宿としては大騒動。裸で廊下を歩き回る。
11日。三日連続でタチレクにでて、昨夜は遅くなり、タイ側で厳しいチェックにあう。タチレクの日本滞在経験のあるビルマ人の店で話し込んでいるうちに遅くなった。タイのイミグレにここぞとばかり身体検査や持ち物検査を受ける。チェンマイラムでもらった薬なども開けられる。
【チェンライ】
12日。スリラートレストランをチェックアウト。チェンライへ良く。清莱(チェンライ)旅社のエアコンの部屋(350B)にチェックイン。チェンライは暑い。ファランが増殖している。ツーリストバスで大量に来ている連中。セブンイレブンでも英語でまくし立てる。このあたりのセブンイレブンのスタッフはほとんど英語を話さない。ネットカフェにも当然自分たちが優先されるはずだという勢いで乗り込んでくる。
美容院で髪を切ったが下手。
20日。ドストエフスキー「悪霊」を読む。
【メーサロン】
21日。清莱旅社をチェックアウト。バスでメーチャンへ行き、ソンテウに乗り換えてドイメーサロンに行く。ソンテウ50B。メーサロンの「Akhaゲストハウス」にチェックイン。シャワー共同100B。このアカゲストハウスはわりといい。アカ族のショルダーバッグを買う。隣のShinesaneゲストハウスはファランが多く夜遅くまでうるさい。売春婦をつれた白人ジジイもいる。
【タートン】
22日。Akhaゲストハウスをチェックアウト。黄色いソンテウに乗りタートンThatonに向かう(途中で乗りかえ。25B×2)。一時間半くらいでタートンに着。小さい町だが立派なゲストハウスやリゾートがある。ガーデンホームというところにチェックイン。ふつうの部屋、ホットシャワーつきで150B。(バンガロー300B)。暑い。アカ族の物売りが目立つ。
【チェンダオ】
23日。10時ごろガーデンホームをチェックアウト。黄色いソンテウでFangに向かう。Fangはかなり大きな町だが、泊るところはホテル一軒しかない。バスに乗りチェンダオに向かう。チェンダオはファンより小さな静かな町。町にひとつしかないホテルはファンより高く(500B)、ゲストハウスのあるチェンダオケーヴまでは数キロある。チェンダオネストという白人の経営するゲストハウス(バンガロー)に泊ることにする。バストイレ別で290Bもする。山の中で環境は良い。イギリス人がタイ人妻とやっている宿。
【チェンマイ】
24日。チェンダオネストをチェックアウト。黄色いソンテウで表通りまで数キロ行くのに100Bもかかる。他の客も乗せてだ。表通りからバスに乗り、一時間ほどでチェンマイに着く。ヴァラナンゲストハウスにチェックイン。
27日。タペー通りのPPトラベルでマンダレー行きの航空券を申し込む。ミャンマービザもついでに頼む。航空券が3500バーツほど。ビザは1400B。(ヤンゴンからチェンマイは75ドルだったのだが。)
ビザ申請用紙にComplexionという項目があったのでGood and beautiful と書いておいた。

9月4日。昨晩はコンコートホテルに泊る。ヴァラナンは借りたまま。ヴァラナンに大量のファランが入って深夜までうるさいので避難。400B。コンコートは水が出なくなる。ヴァラナンにも家賃を払い、荷物も置いたままコンコートと同じカンペンディン通りにある「トラベルロッジ」のファンの部屋にチェックイン。350B。
6日。昨晩はタペープレースホテルに泊る。エアコンを切っても寒すぎる。全館に冷房が効きすぎている。ヴァラナンは借りたまま。
マンダレー行きのチケットとヴィザを受け取る。

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2005年9月15日 (木)

2004年タイ、4月ミャンマー(チャイントーン、マンダレー、トーンジー、ヤンゴン)

2004年1月9日。ロイヤルネパールで、午前8時半カトマンドゥ発、午後1時半ごろバンコク着。タクシーでワットチャナソンクラムへ。Merry5にチェックイン。ウェートレスもフロントも前と同じ。
10日。船着場まで歩いてワットアルンを見学。塔の周りを逆(反時計回り)に回る白人。ワットプラケオを外から見る。
12日。タニヤ、パッポン見学。「有馬温泉」でタイマッサージ。
13日。メリー5に半日滞在。ホアランポーンから寝台車でチェンマイへ。
【チェンマイ】
14日。チェンマイ着。チェンマイに着くとファランだらけ。カンペンディン通りのコンコートホテルにチェックイン。350バーツ。
16日。Rama2に移る。Rama2は経営者が日本に行っていて。無愛想な管理人もいなくなっていた。テーブルもレストランも物干しもない。時々経営者の弟が来て見ている。広い部屋120バーツ。
18日。留守中にエルフがメッセージをゲストハウスにに残す。チェンマイに来たとメールに書いたが、どこに泊っているとは書かなかったのだが。
19日。エルフの部屋に泊る。ゲストハウスに帰るところでたまたま出会う。
20日。エルフの部屋に泊る。
21日。エアポートプラザの映画館でエルフと「ラストサムライ」を見る。一部タイ語の吹き替え。なぜか小雪の台詞は日本語のままだった記憶。
23日。エルフの希望で、ラストサムライをもう一度見る。エアポートプラザ。映画の間ずっとしゃべり続けている客がいる。映画のなかの日本人が何かしゃべるとそのたびに笑いが起きる。
25日。歯医者(サカラ)にいく。
26日。ラーマ2をチェックアウト。同じソイにあるVaranannゲストハウスに移る。広い部屋。ホットシャワーつきで150B。ファランが多い。

【チェンライ】
2月3日。ヴァラナンをチェックアウト。チェンマイアーケードまでトゥクトゥク50B。チェンライ行きのバスに乗る。
チェンライのトゥーリストインにチェックイン。200B。部屋は立派過ぎ。日本人の経営者は言葉遣いがなれなれしく、そのタイ人妻は無愛想。
4日。チェンライを出てメーサイまでバスに乗る。メーサイからメーチャンに戻り、乗り換え、チェンセンに行く。チェンセンゲストハウス180B。
5日。チェンセンゲストハウスの前からソンテウでメーサイに戻り、いつもの宿(川沿いの西の通りのスリラートレストラン)。
6日。午前中にミャンマー、タチレクに出る。ミャンマーはすこしネパールみたいなノリ。パン(噛む嗜好品)を売るスタンドがある。ミタパンだった。
午後チェンライに戻る。パムゲストハウス。
【チェンマイ】
7日。午後バスでチェンマイに向かう。ヴァラナンに入る。
8日。歯医者。
10日。毎日ロイクローのオープンハンドコーナーで食事。ダウ(フィム)の料理。
15日。歯医者
16日。自転車を買う。
25日。歯医者終了。ヴァラナンゲストハウスは不良白人の巣のようなところ。

3月1日。自転車をダウに預ける。
【チェンライ】
3日。チェンマイアーケードから正午のバスに乗る。3時、チェンライ着。ワットチェッヨッの隣のブーンブンダンゲストハウスに入る。きれいな部屋200B。
【メーサイ・タチレク】
5日。チェンライを出て、バスでメーサイへ。スリラートの向かいのゲストハウスに入る。窓がなく息苦しい部屋。タチレクに出てリクシャーを40Bで雇う。お寺で古いビルマ紙幣のセットを買う。本物かどうかはわからない。売っていたおばさんがちょっと観光案内のようなことをしてくれる。お寺の拝観の仕方など。
6日。昨日に引き続きタチレクに出る。タイ側のイミグレ役人が何をしに行くのかと聞くので観光だと答える。タチレク側のイミグレは感じが良い。日本人に親切。
タチレクのイミグレでミャンマーのアライバルビザを取れるようになったらしい。2週間と4週間。4週間のほうは飛行機でヤンゴンまでいける。(これは後に廃止)
タチレクのティーショップはのんびりできる。
バンブーゲストハウスに移る。よくない。
【チェンライ】
7日。メーサイを出て、チェンライへ。ブーンブンダンに入る。
16日。引き続きチェンライで生活。新聞や本を読むだけ。良い妄想は妄想に過ぎないが、悪い妄想は現実。良い妄想にとりつかれても幸福とはいえないが、悪い妄想にとりつかれたら確実に不幸。
18日。午前2時ごろ。タイマッサージ屋のアカ族の子マリが突然部屋に来た。以前友だちと二人で来たことがある。今度は一人で。アカ族と中国人の混血で22歳。英語を少し話す。現金のやり取りはなかった。が、すぐに月いくらくれるかという話になる。距離を置かざるを得ない。
チェンライのタイ人(タイ族)はチェンマイよりさらに感じが悪く、中国人は反日的。ゴーゴーバー街に近い中国茶店のオヤジは華字紙の「殺人魔」という見出しをわざわざ私に見せ、日本人はこれだという。
29日。別のマッサージ屋の24歳のアカ族の子ムイも中国人との混血。メーサロン出身。漢字名を持ち、自分の名前は書ける。黄玲梅(ホアリンムイ)という。阿梅(アムイ)とか梅花(ムイファ)とも呼ばれる。

【メーサイ・タチレク】
4月1日。ブーンブンダンゲストハウスをチェックアウト。チェンライバスターミナルより、メーサイ行きのローカルバスに乗る。3時ごろメーサイ着。スリラートレストランにチェックイン。リンカフェでネット三昧。林という日本語を話す中国人の経営するネット屋。
3日。タチレクに入る。カフェでインスタントコーヒー。タチレクのほうが落ち着けるし、人の感じも良い。ネパール人が経営する茶屋でチヤ。
【チャイントーン】
4日。KyaingTongチャイントーンへ。午前中にイミグレを出て、ミャンマーイミグレにビザを申請。4週間ビザが取れる(ただしスタンプと手書きのみ)。写真2枚要。25ドル。ミャンマーイミグレが車を呼んでくれる。ミャンマーイミグレのビザ係の女の人も親切。万田久子を若くして顔を小さくしたような美人(3ヶ月ほど後はいなくなる)。
ポンコツ車で3時間かけてチャイントーンへ。他に3人タイ人が乗っていたが、このときはさほどひどくなかった。車代500B。LonelyPlanetで見つけたノイイーホテルにチェックイン。コールドシャワー200B(5ドル)。
5日。ノイイーホテルは自家発電で、11時頃になると停電になる。蝋燭だけ。大きなマーケットに行き闇両替。1000チャットが48バーツ。1000バーツ両替。2万ちょっと。
角のお茶屋の隣にネパール人のミルク屋がある。ダヒ(ヨーグルト)200K。祖父が戦争のときグルカ兵でミャンマーに来てそのまま定着したらしい。二人姉妹と兄弟の三人でやっている。ネパールには一度も行ったことはないそうだが、ネパール語を話す。英語はあまりできない。若いネパール人の親戚が二人来ていた。一人はアーリア系でもう一人はモンゴロイド系。パキスタン人のインド料理屋で夕食。
ステージショーがあるというので行ってみる。500チャット払って運動場のようなところに入ると屋台などがいくつかあり、ステージでローカルポップを演奏している。別のネパール人のミルク屋がダヒの屋台を出していて、声をかけられる。メーサイに6年も不法滞在して働いていたとかでタイ語もできるが英語もよくできる。普段はマーケットに屋台を出しているという。
6日。朝9時半ごろマーケットに行くと、昨夜のネパール人はもう店じまいをしているところだった。後は外回りをするという。
MMB(ミャンマー・メイフラワー・バンク、五月花銀行)に寄って両替レートを聞こうとすると、ちゃんと制服を着た感じのいいお姉さんに、当店では両替はやっていないので(ブラック)マーケットに行けと言われる。ここではブラックマーケットが公認両替屋のようだ。
ヤンゴンエアウェイズのオフィス(小さな店のようで女の人が一人だけいる)に行き、マンダレー行きの飛行機を予約する。10日午後1時半発。89ドル。9日に支払えばいいとのこと。エアマンダレーのオフィスでも聞いたが同じ値段だった。ドル払い。
ドルを作るため、マーケットに行き、バーツをドルに両替。親切なムスリムインド人のオヤジに昨日とは別の両替屋のところに連れて行ってもらう。1ドル40バーツで500ドル買う。このインド人は親切で朝も道を教えてくれた。英語ができる。
7日。ミャンマー人は概して親切で、しかし媚びない。外国人に尻尾を振ることもない。タイ人のようにもったいぶったりせず、ネパール人のように腰が軽い。シャン族でも同じ。日本語のできるシャンが何人かいて、時々日本語で話しかけてくる。ネパールみたい。
ダヒ屋のネパール人を捜してマーケットを歩いていると、突然人に呼びとめられる。誰かと思うと女の子で、どこかで見た顔。チェンマイで行きつけだったタペー通りの喫茶店のウェートレスだった。女友達と二人で同じノイイーホテルに泊っているらしい。女友達がチャイントーンの人と結婚するのだとか。
【ロイムウェ】
8日。11時ごろマーケットのへんでバイタクを雇い、ロイムウェという村に向かう。4000チャット。マーケットのネパール人に教えてもらった、コ・トゥン・ルという人を訪ねる。ロイムウェには1時に着。ネパールの山村をこぎれいにして家のつくりをゆったりさせたようなところ。トゥンルの奥さんを見つけた。雑貨屋のような店をやっている。若くてきれいでニコニコしている。カヤ族の女性。ちょっとタマンみたいな感じで、うなずくときにエーエーというのも山のタマンみたい。突然訪ねてきた異邦人を店に入れて席を勧めてくれ、お茶まで出してくれた。トゥンルはアカ族で、この奥さんはカヤ州からこの村に嫁に来たという。カヤ州は鎖国状態。彼女はカヤの村とこの村しか知らず、町に出たことはない。しかし英語をかなり話す。悲しいかなクリスチャン。英語はカヤ州の村の教会で教わったのかもしれない。そうでなくてもミャンマーでは小学校でも英語を教えるので、小学校に行った人は少しは英語を話せることが多いようだ。この村がネパールと違うのは血や糞がころがっていないこと。こぎれいで、家が広々としていること。ロイムウェに着いてから夕立になった。トゥンルは技師で、テレビ塔の勤めに出ていて留守。会えず。雨が上がってから帰る。ロイムウェにも良いお茶屋がある。
9日。午前中ヤンゴンエアウェイズに行き、エアチケットを買う。89ドル。受付のシャン族の女の人がニコニコして親切。ミャンマー旅行に関するルート作りやらいろいろなことをくどくどと聞いてもうるさがらずに答えてくれる。同族でもタイ人とはえらい違い。タイ語とシャン語とではかなり違うところもあるようだ。お茶はタイ語でナムチャだがシャン語ではナムラ。ビルマ語ではラペイエ。
【マンダレー】
10日。12時半ごろノイイーホテルを出る。リクシャでチャイントーンのエアポートへ。チェックインカウンターにチャイントーンのヤンゴンエア事務所のお姉さんがいた。役人がうるさく荷物をチェック。ノーと強くいうと何もいわくなる。もういいだろという意味。賄賂を取る口実くらいのもの。プロペラ機でへーホー経由、マンダレーへ。
マンダレー空港に着くと、タクシー業者が寄ってくる。市内まで8000チャット(10ドルほど)だという。どうしても安くならない。マンダレー空港から市内までは45キロもある。ロンプラにあったトーンザラットホテルは満室。その向かいのサバイプユホテルにチェックイン(サバイといってもタイ語ではないらしい。サバイプユはビルマ語でハスの意味だとか聞いた)。5ドル。コールドシャワーにエアコンつき。トイレットペーパーがネパールでよくみた赤いやつ。
マンダレーは予想以上の大都会。巨大都会と言ってもいい。道も広く車も多い。どうせチェンマイくらいの町で、ミャンマーだから寂れてるのだろうと思っていたが、まったく間違っていた。
11日。マンダレーのホテルはどこもそうらしいが、部屋代が朝食込み。あまりうまくないトーストとフルーツとお茶。パンにはイギリスパンの面影がなくはない。タイのよりはいい。ホテルのフロントやレストランのウェートレスも白人に媚びるということがない。みんな英語がよくできる。
マンダレーのティーショップは、タチレクやチャイントーンと違い、注文しないものをテーブルに並べることはしない。屋根なしのサイクルリクシャ(トライショー)でマンダレーヒルまで行く。800チャット。マンダレーヒルには靴を脱いで登る。仏像にネオンサインがついていることがある。パチンコ屋のネオンみたいな動くやつが光背についていたりする。その前で小僧が跪いて祈る。
【タジ】
12日。10時過ぎに出て、バスでメイティラへ。バスに乗るのに一苦労する。3時ごろメイティラに着く。ここでタジThazi行きの乗り物をさがすのに一苦労。タジ行きソンテウ(のようなピックアップ)を見つけて乗るが、水祭りの猛攻撃を受け狙い撃ちに。タジに着いたのが4時過ぎ。ムーンライトゲストハウスというところにチェックイン。暑い部屋。4ドル。連泊することにして3ドルにしてもらう。タジは小さい何もない町だが、メイティラよりこざっぱりして水かけもすくない。祭りが終了するまでここに滞在することにする。マンダレーからメイティラまでバス代5000チャット。メイティラからタジまでソンテウ(?)300チャット。マンダレーでメイティラ行きのバスが出るのは「ハイウェーステーション」というところ。ここが始発らしい。
13日。宿の人はみんな英語はよくできる。アメリカ帰りという兄ちゃんがいる。宿で売っているロンジを一枚買う。はいてみると気持ちいい。女物はタメイという。作りは同じだが、はき方が違う。お茶屋を転々とする。
いちばん年寄りの婆さんがきれいな英語を話し、私に戦時中の日本軍の話をあれこれ言おうとしたのでさえぎった。英語がうますぎるので戦前にイギリス人の女だったのかもしれない、それで日本人に何か含むところがあるのかもしれない、などと想像した。
14日。アメリカ帰りの兄ちゃんは食事に来る白人客とさかんにしゃべっている。へらへらして白人客が食事中にうちわであおったりしていた。
【トーンジー】
15日。午前4時前にゲストハウスを出て駅に向かう。馬車馬がしゃがんで寝ていた。5時半ごろか6時ごろか、なんとか汽車は出た。眠っていて、気がついたら明るくなっていた。駅(小さな駅舎らしいものがあるだけ)にとまるたびに、少し水をかけに来るが、そんなにひどくはないし、窓ガラスがある。汽車がスイッチバック方式で坂を上る。これは初めて経験した。「アッパークラス」の列車に乗る。7ドル。オーディナリークラスは3ドル。どちらもツーリストプライス。
朝10時半ごろ、まだカラウに着く前に列車が脱線。動かなくなる。代替車か料金払い戻しを近くの駅の駅員に談判しても埒があかず。場所はカラウから6マイルも手前。他の人たちは歩いて散っていった。諦めが早い。ツーリストは私以外乗っていなかった。駅員が車を用意するからカラウまで行って待てという。車代はタダだという。しかしそれはみんなウソだった。車はホテルのもので、有料。カラウのセントラルホテルに泊ることにする。
16日。朝6時にバス乗り場でチケットを買い、ティーショップで食事。ホテルの朝食(料金込み)はまずい。カラウは開けた町でインド系も多い。私にはなんとなく魅力がない。ツーリストのための町という感じ。ローカルツーリストも多い。バスは7時半に来て、10時ごろタウンジ(トーンジー)のマーケットの近くに着く。
トーンジーはかなり大きな町で、大きな通りがある。標高が高いせいか肌寒いほど。カラウからトーンジーまでの道はでこぼこだった。トーンジーはかなり盛大に水掛をやっているが、被害はない。通行人には知り合い以外やたら水をかけないし、やめてくれと合図すればやめてくれる。不意打ちのようなことはカラウで一回あっただけ。ロンプラに載っていた大通りのKhemarat Hotelにチェックイン。トイレシャワー共同しかも水シャワーで5ドル。この町はインド系がいままでにまして目立つ。夜は半そででは寒いほど。夜、アジア女を連れた白人を一人見た。大通りにシーク教寺院。モスクもある。
17日。今日が新年。せっかくトーンジーに来たのに。マーケットなど閉まっている。(ミャンマーのマーケットは塀で囲まれた一種の城砦都市のようなもの。夜は無人になり門に鍵がかけられる)。外では商売をしている。モスクの近くであったインド系ミャンマー人の青年にいろいろ案内してもらう。カネも取られず、それどころかバス代まで出してくれた。カシミール人のような顔(ギリシャ系の顔)をしているし、会ったのがモスクの近くだったので、てっきりムスリムかと思っていたら、仏教徒だった。メインストリートの仏教寺院に入って、跪いて3度頭を地につける礼拝をしていた。
18日。マーケットは今日も休みだが、隣の横丁の市場はにぎやか。黒や紺の衣装のパオ族の人たちが目立つ。頭にカラフルなバスタオルをターバンのように巻きつけて、チベット風の(ネパール山岳民族風の)ショルダーバッグを提げている。ネパールのよりカラフル。女は黒か紺のロンジの下に細いズボンをはいていて、男はタイ族のようなゆったりしたスラックスだがこれも紺のみ。
19日。ヤンシュエまでソンテウでいく。インレー湖を見るためにはボートを借切らなければならない。外国人とミャンマー人とはまったく別のボート。ローカルボートには外国人は乗れない。ボートはあきらめる。ヤンシュエはひなびた観光地という感じ。白人が2、3人。インターネットにアクセスできるというところがあり(ミャンマーでは原則としてwwwにアクセスしていけないことになっているそうだ)、ホットメールのチェックもできるというが、30分2000チャット(ミニマム)。ヤンゴンとマンダレーに地下サーバーがあり、違法にやってるということだった。違法といっても看板も出しており(ホットメールとヤフーメールのチェックができるという)、半公認のよう。ヤンシュエは別に魅力もない。お茶屋もひどくぼってきた。ホテルは安い(多いから)。トーンジーは何があるわけでもないし、整備されすぎていて古い家など見当たらないが、観光地でないところが良いし、空気もすがすがしい。
21日。12時ごろ、トーンジーのエンパイアホテルの角をしばらく入ったところにあるピックアップ乗り場から、ピックアップのフロントシートに乗り、メイティラに向かう。3000チャット。荷台は2000チャット。メイティラについたのが夜8時ごろ。
メイティラについてからが大変だった。車を降りるとすぐにコミッション狙いの男たちにつきまとわれる。それをふりきってハニーホテルをさがすのにひと苦労。ハニーホテルは夜遅いのでこちらの足元を見て15ドルと吹っかけてくる。断ってそこを出て、荷物を持ったまま夜道をふらふらする。やけっぱちな気持ちで、いっそお寺に泊めてもらおうかと思って、境内に入ってみると、坊さんがヴィパッサナの立ち瞑想をしていた。最初はまったく気づかなかった。変なところに像があるなあと思って通り過ぎるようとしてはっと気づくと生きた坊さんだった。立ち瞑想のための場所がちゃんとあり、それがそこに身じろぎもしないで立っていた。こちらが近づいてもまったく無反応。そのあと寺の前の茶屋で、お茶一杯200チャットをふっかけられて腹を立てる。普通は100チャット。80チャットもある。チャイントーンの角のお茶屋は70チャット。捨て鉢な気持ちでふらふらしていると(どうしてそれほど捨て鉢な気持ちになったのか自分でもよくわからないが)、日本語で声をかけられた。15年前に日本にいたことがあるという、少し日本語を話すそのおじさんに事情を話すと、その人の家の向かいにある8ドルのモーテル(ゴールデンドリーム)を紹介してくれた。そこに泊る。
22日。午前11時ごろまでにピックアップ乗り場を自分でさがしあてる。ピックアップバスの後ろの長椅子にのり、ピンマナに向かう。砂ぼこりで全身が汚れる。道は悪くない。午後4時ごろピンマナ着。フェニックスモーテルにチェックイン。トイレシャワー共同の部屋が7ドルもする。ミャンマー人は2000チャット。メイティラでもトーンジーでもトライショーは見なかったが、ピンマナにはトライショーが多い。馬車もメイティラ同様に多い。フェニックスモーテルは発電機らしい音で夜うるさい。反対側に部屋を変えてもらう。
23日。24日発のバスチケットを買う。ヤンゴン行きエアコン2450チャット。ほとんど満席で23日のは売り切れ。一日歩き回る。
【ヤンゴン】
24日。夜行バスに無事に乗る。「エアコン車」だが、エアコンはなし。JRバスのお古で、フソー製だがエンジンはあまりよくない。途中でタイヤ交換。隣の席の若いミャンマー女がひっきりなしにゲロを吐いていた。袋が足りないようだったので、ビニール袋をやった。ちょっとインテリ風の感じだったがタメイをはいていた。
25日。午後5時半ごろヤンゴンのバスステーションに着く。市バスに乗り換えるが、どこに向かっているのかどこで降りればいいのかわからない。30分か40分乗っていると少し都会になって、たまたまロンプラに出ていたライライホテル(来来旅館)を見つける。すぐにその次のバス停で降り、行ってみるが、12ドルのシングルはフル。そこの感じの良い中国系の若者に、近いホテルを紹介してもらう。Full Wealth Hotel(大富華旅館)。10ドル窓なしの部屋にチェックイン(エアコンあり)。ライライホテルのある通りとと平行に走る大通り(アノーラータ通り)から、シュウェドンダンロードを北に少し入ったところにある。このあたりは中華街。しかしバンコクの中華街とはまったく違う。閑散として旅社もない。市バスは最高に古くて20チャット。床が板張り。
26日。スレパヤの傍らの旅行代理店で航空券を買う。タチレクまで買おうとしたが120ドルもする。ヤンゴンエアもエアマンダレーもこれは同料金。チェンマイまでは、エアマンダレーがプロモーション中ということで75ドルだった。チェンマイまで買う。
27日。夕方なんとなくヤンゴン川を大きな渡し舟で渡り、どこにいくかもわからないままバスに乗る。レココンビーチに行くらしいので乗っていた。終点まで行ったときはもう暗くなっていた。ホテルも帰りの車もない。茶屋の兄ちゃんにお寺に案内してもらう。坊さんに頼んでお寺に泊めてもらえることになり、坊さんに言われるまま水浴びをして出てきたら、警察がいっぱい来ていた。しつこい尋問を受けヤンゴンまで護送される。タクシー代12ドルを払わされたが、運転手でなく警察官のほうに払わされる。おそらくこのカネも運転手でなく警察官の懐に入ったのだろう。運転手は受け取ろうとしなかった。ヤンゴンに入ってからも、この私服(ロンジー)のいやらしい感じの警官がつきまとおうとするのでふりきった。
28日。夕方アノーラータ通りを歩いていると、すぐ後ろで日本語を話す声が聞こえたので、思わず振り返って声をかけた。おじさんと若い男。おじさんの方とそのあとしばらくぶらぶらする。このオヤジ昨夜ナイトクラブ「エンペラー」で売春詐欺にあい30ドルほど騙し取られたそうだが、全然怒っていないのに驚く。店に全額前払いして女の子を連れ出し自分のホテルの部屋に連れ込んだところ、女の子がおなかが痛いと言い出して帰すしか仕方がなくなったのだという。本当ならバカまるだし。会社をやっているというが頭が悪そうで声が下品。8時ごろ別れる。
【チェンマイ】
29日。朝9時ごろホテルの少年にタクシーを呼んでもらい空港へ。ヤンゴン空港はマンダレー空港よりずっと小さい。わかりにくいところで空港税を払いチェックイン。出国のイミグレで係員たちが少しもめていたようだった。タチレク発行のビザがスタンプと手書きだけだったからだろう。このあとファランの坩堝のようなところにいくと思うと気が重い。エアマンダレー。国際線だがプロペラ機。ミャンマーの12時半発、チェンマイに着いたのはタイの2時。約1時間のフライト。ヴァラナンゲストハウスにチェックイン。

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