a.インドネシア

2007年11月20日 (火)

パーム油タンカーを襲うグリーンピース船

白人NGOは80年代からパーム油を標的にして攻撃してきたが、当時の理由はパーム油が身体に悪いということだったようである。

ところがその後の科学的な研究によりパーム油が身体に悪くないということがわかると、彼らは理由を変えていった。

現在の理由は、パーム椰子栽培が森林を破壊し生態系やオランウータンの棲息を脅かすという理由である。

彼らにとっては有色人種の人間よりもオランウータンの棲息のほうが大切なのである。

アジアの黄猿ももっとしおらしく棲息していたらオランウータンなみに白人に大切にしてもらえただろうか、というと、そうとも限らない。

黄猿はオランウータンと違い数が多すぎるし、なにより喋るから。

白人NGOのターゲットにされているのはなぜかマレーシアとインドネシア。

タイもパーム油を生産しているが白人の攻撃を受けることはない。

彼らの主目的は、彼らが都合よく変えるこれらの理由にあるのではなさそうである。

とにかくマレーシアやインドネシアのパーム油プランテーションを弾圧したいということだろう。

白人にとってはアジアの国が豊かになること自体が気にいらない。

アジアは貧しく後れていた方が本当は白人には都合が良い。そのほうが収奪しやすいからである。

例えば、貧しい国だから女が安く買える、幼女も買える、 というのと同じことで、貧しい状態に維持しておいた方が一番取りたいところを簡単に収奪しやすいのである。

もしもマレーシアやインドネシアのパーム油プランテーション主が当然のように白人だったら、白人のこんな運動は最初から起きていないだろう。

Imgp3582
(右の黄色い旗がグリーンピースのテロ船。左がパーム油タンカー。グリーンピースが「敵」と定めた船舶に対していかに危険な妨害行為をするか良くわかる。彼らがどんなテロ行為を行っても攻撃を受けるほうは撃沈することも拿捕することもできない。彼らのテロ行為を支えているのが全白人マスコミだからである。ぶつかって彼らを沈めたら「環境破壊者がNGO船舶を攻撃した」といわれるだろう。もし日本船舶がそれをやったなら日本の猿がKamikaze攻撃で環境保護活動家を殺そうとしたと言われるだろう。〔BBCが日本の捕鯨を報じる見出しはkillである。huntでさえない。日本の捕鯨記事はkillで満たされる。狐のときはhuntだろう。「日本人がクジラを殺しに出発した。日本人は南極海に来るべきでない。・・・」そもそも白人がヨーロッパから出なければよかったのだ〕。彼らの卑劣さは、彼らは決して死なないし非難されることもないことをわかっていながらやっているところにある。この点で、グリーンピースよりはアルカイダのほうが道義的にはよほど上等だといわなければならない。)

 
世界で石油資源の流通を支配する白人が、白人の支配に属さないエネルギー資源を支配する有色人種の出現をいかに恐れていることか、それが「マレーシアとインドネシア」を標的としタイやフィリピンはスルー、という彼らの態度に表れているように思う。

白人の「力をもった有色人種への恐怖」、その恐怖心はほとんど生理的なものだが、それは彼らの歴史的悪業に由来し、人種的無意識とでも言うべき通路を通って表出されているように思われる。

白人は中国に対しては何かにつけてアマアマだと思うが、それは中国が白人にとって有利なマーケットだからというよりむしろ、中国がエネルギー資源には乏しく、どれだけ発展しても結局は白人が支配している石油と食料に依存する国で、究極的に白人の脅威にはなり得ないということがわかっているからではないだろうか。

Imgp3581

(写真はマレーシア紙New Straits Timesより)
 

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2007年2月16日 (金)

オルグされたオランダ元慰安婦(DM)

また読者から詳しいサイトを教えてもらいました。(ただ叫んでいるところでなく、)かなり本腰入れて調べているところです。

先日お伝えしたオランダ人自称「従軍慰安婦」について、当時の事件背景について詳しく伝えているブログがあります。ご参考にどうぞ。

http://ameblo.jp/disclo/entry-10025797294.html

内容の一部を引用すると、

例の”従軍”慰安婦決議案に関して公聴会が開かれる。で結局例の三人が証言するらしいのですが韓国人の女性は論外として、もう一人のオランダ人女性もまた出てきます。どちらにしろこの三人は例の「女性国際戦犯法廷」のバウネット仲間で国際機関に巣食う偏向リベラルNGOの大切な道具なわけです。・・・

この人は慰安婦問題となると韓国人証言者とともにセットで連れまわされます。

なぜでしょう。

韓国人証言者の虚言が明らかにされ、矛盾がどんどん出てきて説得力がなくなってきたからです。

だから都合が悪くなると、スマラン事件の当事者と思われるこのオランダ人女性を引っ張ってくる

このスマラン事件っていうのはインドネシアで慰安所を開設した時、本人の同意なく慰安婦とされ、その後関与した軍関係者が”戦犯”裁判で極刑を含む、重い判決を受けた・・・という事件。

ただし、これはインドネシア・ジャワ島の第16軍は「本人の明確な同意」のもとに慰安所の開設を許可していたが、一部にそれに違反した部隊があり、抑留されていたオランダ人数十人が強制売春をさせられたという事件。

この慰安所は二カ月後に事実を知った第16軍によって直ちに閉鎖させられている。つまり、スマラン事件は軍の命令に違反した行為であり、

軍が強制的に売春を行うことを禁じていたという証拠ともなる。

なぜ、「スマラン事件」が利用されるのか。「強制性」の証明のためには論理的に逆効果であるにもかかわらず。

ようするに、「白人女性が日本人(有色人種)の慰安婦にされていた」という事実を突き出すだけで白人の思考は全面停止し、欧米を味方につけるには十分効果があるからだろう。

そして、「白人女性が日本人のための慰安婦に?!・・・・そんなところに同意があるはずはない!」「同意があろうがなかろうがこれは強制だ、強制に決まっている!」という言論が、白人世界では当たり前に流通していく。

これは「日本の戦争犯罪とオランダの小さな過失(インドネシア植民地支配)とを同列に並べるな!」と臆面もなく主張するオランダ人の言論、あるいは「有色人種に使役されたことが耐えられない」というイギリス白人捕虜の怒り、などの延長線上にある感覚であるといえる。

「白人の威を借りて」、「白人のトモダチの威光を笠に着て」、というのが「アジア土人」の習性であり哀しい性である。韓国人がこういうやりかたを続けている限りいくら威勢よく「反米」を叫んでみてもその心性は「アジア土人そのまま」と笑われても仕方がないだろう。

それと、国際社会で「リベラル」といわれるものをもう一度、ウヨサヨの話に終始するのでなく、白人至上主義・人種主義との関係という視点でよく観察してみる必要があるように思う

参考記事:

「失踪白人女性症候群」

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2005/11/post_bdc7.html

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/01/post_5152.html

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/01/post_6af9.html

いずれ「日本の女が英語教師名目の白人性奴隷を買いあさり虐待していた」とか批判されそう(白人メディアも認めざるを得ない「アジアでの英語教師職は性犯罪者の隠れ蓑」-AP通信(ジョンべネ事件) )

http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/08/ap_8cc8.html

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2007年2月10日 (土)

オランダ毛唐関連です(DM)

読者から。

在オーストラリア自称日本軍従軍慰安婦オランダ人アメリカ下院委員会で証言するそうです。

オランダ人の歴史認識について面白い記事を見つけたので、ヒマつぶしにでもどうぞ。
http://zeroplus.sakura.ne.jp/u/2000/0422.html

オーストラリア+オランダ+「従軍慰安婦」・・・・・最強のブランド!というほかないが、内容も最強なので一部引用します。

この前、オランダの週刊誌記者というのが突然、訪ねてきた。何でもこの欄で書いたオランダ評が向こうの新聞に載り、それで結構な騒ぎになっているという。

 江戸時代末、欧米を巡業した旅芸人一座の座長がオランダを評して「人わるし、国また悪しく」と書いた理由をその後のオランダ人の行動から分析してみたものだ。例えば、日本人を悪臭を放つ猿と表現する人種差別意識の強さ、植民地だったインドネシアの独立のさいに謝罪どころか逆にばく大な“独立許可金”を請求したあこぎさ、それに何度も日本から賠償と謝罪を繰り返させながら、日蘭交流四百年記念の今年、また同じ要求をするしつこさなどをあの座長は感じ取っていたのでは、というごく妥当な結論にしておいた。

・・・・・・・

日本軍とオランダ人の遭遇という一断面だけで、つまり自分たちがやった植民地支配などをさっぱり棚上げして、あのころの歴史を評価するのはいかがなものかと問いかけ、その意味でコック・オランダ首相がこの三月下旬、日本に何度目かの謝罪を求める一方で、インドネシアへの非道な行為を初めて認めて「わびる用意がある」と語ったことを高く評価してみた。

 そうやって他人のあら探しだけでなく、自分のふりも見つめれば、おのずと歴史を正しく見ることができるじゃないか。そうすればお互いの理解も増すはずだ、と。

 その辺でやめてもよかったけれど、ついでに日本には、いわれるように拡張主義、侵略主義を展開するほど資源や軍備に余裕はなかったことにも言及してみた。

・・・・・・・・

 しかし、これもまた逆効果だったらしい。この私見がハンデルスブラット紙に掲載されるや、同紙の投書欄に山のような反論が次々に載せられた。

 いわく「タカヤマは日本の歴史をゆがめる唾棄すべき偽善者で、アジア諸国を植民地のくびきから解放したというとてつもない虚構をでっちあげようとしている」

 「彼は傲慢にも日本軍が犯した重大な戦争犯罪と、オランダ人がインドネシア人に対してやった小さなミス(Lapse)を同じに扱おうとしている

 「インドネシアの占領は日本の拡張主義の最後の到達地で、彼らは抑留者にそのままでは食うこともできない大豆を食事に出し、オランダ人を淘汰しようとした。朝鮮や中国で日本軍が行った無慈悲さをもって」

 以下、少なくとも八通の投書はいずれも本人が読んでいていやになるようなものばかりだが、もう一つ共通しているのが、三百五十年にわたって搾取を続けたインドネシアの植民地支配について、あるいは戦後、独立を求めて立ち上がったインドネシア人を近代兵器を総動員して八十万人も殺しまくった事実について「ささいなできごと」にしている点である。

私は、「オランダ人は卑劣だがイギリス人は紳士」、だとか、「ドイツ人は日本のトモダチ」だとか、そういう園児的な妄想に与するものでは決してないが、思想戦においても弱い環から潰していくという発想は必要ではないかと思う。

同じ傾向のグループの中でも、そのうちのもっとも卑小な構成員において、そのグループ全体のもつ卑劣さが集中的に表れるということはあると思う。そこで、その卑小なチンピラの弱みに付け込み、まずはその男をいわば「スケープゴート」にし、血祭りにあげて他に示すということが戦略としても有効であろう。

だから、オランダごときと言って高踏的な態度であしらうのでなく、むしろここで日本は集中的徹底的な「日本の反論」をすべきだと思う。それは、その他の諸案件に関するアピールにもなる。

イギリス人ネタ、イギリス人は「泰緬鉄道問題」になぜ怒るのか、

英国紳士にみる落差 植民地支配と謝罪要求

後にオランダKLM航空東京支社長になった元捕虜氏は「体重が半分になるほどひどい作業だったが、最もこたえたのは白人が有色人種に使われたという屈辱感だった」と語っている。

・・・・・

 「英国は植民地時代の搾取と横暴についてはいまだに謝罪も賠償もしていない」とはミャンマー政府の要人の言葉である。ついでながら、マレーシアにも仏領植民地だったベトナムにも旧宗主国はわびもいれていない。

ちなみに、泰緬鉄道ネタでいまもいちばん直接的に反日の旗を振り続け、白人の反日感情を梃子にして白人のご機嫌を自国へと取り結ぶことにもっとも執心な国は、大日本帝国の「同盟国」であったはずのタイ王国である。

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2007年2月 8日 (木)

ジャカルタからクアラルンプルへ 2/3

スカルノハッタ空港は平面的でわかりやすい。国際線はTerminal2。

イミグレまで来て大失敗に気づく。

インドネシアのビザ期限は「30日」。ところがKLの旅行代理店が設定した出発日は、行きが「1月4日」で帰りが「2月3日」。旅行代理店が「1ヵ月」と勘違いしたのか私が「1ヵ月以内でいちばん遅い日」といったのか、そのへんはよく覚えていない。とにかく1月は31日まであるので2月3日は「31日目」になる。

1日のオーバーステイ。イミグレ役人に指摘されてはじめて気づく。リコンファームのときに気づくべきだった。

後ろの事務所に行き20ドルの罰金。これも全部役人の懐に入るのだろう。イミグレ役人はいくら頼んでみても見逃してくれない。ルピアで払うと言うと20万ルピアだというので、そんなことはないだろうと思い、19万ルピアまで負けてもらう。もっと泣いてみてもよかったと悔やまれる。作業自体はすぐに終わる。書類を作るわけでもなく、ただ普通のスタンプを押すだけである。領収書もくれなかった(請求もしなかったが)。パスポートに何か書き込んだりもしない。

インドネシアはオーバーステイにはうるさいらしい。観光ビザは1ヵ月までしか取れないので、帰りの飛行機の出発日には気をつける必要がある。

外国にオーバーステイをするのはこれが初めて。「オーバーステイ」というのはタイ旅行者みたいで好きではない。

さらに、搭乗の時のX線検査で、空港役人に今まで一度もチェックされたことのない日本で買って持ってきた小さなハサミ(刃渡り5センチぐらい)を見咎められてケチをつけられる。チェックインカウンターのところに戻って荷物を全部預けろという。

「お前にやるよ」と言って放りだしたら(ネパールだと役人がすぐにポケットにしまいこむが)役人は当惑していた。

いったんは「やるよ」と言ったが日本製のハサミがちょっと惜しくなったので撤回し、ハサミだけ別にして送ってくれないかと頼んでみた。が、役人はダメだと言い張る。

別に送ることはできるはずだろ、やれよ、と言ってもめていると、ちょうどいい具合に白人客が来て救われた。

こういうことでもめているのを白人客に見られたくなかったのだろう。空港役人の態度が急に変わり、マレーシア航空の女性職員が呼ばれた。

女性職員がそのハサミをまるでデパートの商品のように「マレーシア航空の包み紙」で包み、別にして送るのかと思いきや、そのまま私に手渡した。

結局、「紙で包んだ」だけで「凶器」が安全なものに変わったというわけである。

ただケチをつけるためだけのチェックである。しかし、役人というのは日常のこういう嫌がらせを通じて自分の利権を保持しているのだろう。

他方、周りにいたインドネシア人客たちは、インドネシア人によくあるように、こういう状況を見ると役人(空港職員)の側について他人のことに口を挟んでくる。しきりに私に説教しようとし、ハサミは機内に持ち込んではいけないものであることを教えてくれるのだ。その姿は本当に頭悪そうである。

カッターナイフも入っていたがチェックされなかった。まだ一度もチェックされたことがない。ハサミがたまたま開いていたところがX線に映ったのがまずかったようだ。爪切りもチェックされたことがない。

ライター・乾電池はネパールでしばしばチェックされた。役人が「ライターや乾電池を持っているだろう、持っているはずだ、出せ」と言って迫ってくる。そして渡すとすぐにポケットにしまいこむ。

ただネパールやミャンマーではNo!と大きな声で言い、「てめえは金が欲しいのか、何で日本人にだけそういう言いがかりをつけるんだ」という感じに喚きちらすと、OKOKといって何もなかったことになることもあった(今日もそれにちかいが)。

30分ほど遅れて4時15分ごろ出発。

マレーシア時間午後7時半ごろ(インドネシア6時半)、KLに着。イミグレは今回は混んでいなかった。

5日。KLCC伊勢丹に行きLevi's512を買う。512は日本ではもう作られていないと聞いていた(ちょうど新宿伊勢丹だったが)。

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ジャカルタ 2/2

2月2日。バンドゥンのホテル・チトラCitraを正午前にチェックアウト。

チトラの前の道から23番のアンコタ(Ciroyon-Cikudapateuh)で、ルウィ・パンジャンLeuwi Panjangバスターミナルに向かう。このアンコタは直通でなく途中で別のアンコタに乗り換えなければならなかった。

ルウィ・パンジャン・バスターミナルではあまり人が寄ってこなくて、却って当惑した。最初ジャカルタ行きだというバスに案内されたが、Kp.ランブータン行きではなかった。

ジャカルタ、カンプン・ランブータン・バスターミナル行きの、冷房の効いた座席にゆとりのあるバスを見つける。3万と言う掛け声で乗ったがやっぱり4万5千だった。

バンドゥンを出てしばらくは景色が美しいが、ジャカルタに近づくにつれてつまらなくなり、やがてひどい渋滞に巻き込まれる。

ジャカルタが洪水であることはこのときは知らなかった

午後5時ごろになってようやくジャカルタ着。対向車線の道路が水没しているところがあった。水の中を車が走っている。カンプン・ランブータン・バスターミナルに着く。

カンプン・ランブータンで、パサル・バルPasar Baruに行く17番のバスをひたすら待つ。夜になると怖いが、タクシーもあまり見ないのでとにかく待ってみることにした。。。。と思ったが、人によって言うことがマチマチで、17番のバスは来るという人と来ないと言う人があり、来ないと言う人のほうが多いようだった(実は彼らが言っていることの意味はよくわからなかったが、内容全体を腹で捉えるとそんな感じだった)ので、結局タクシーを使うことにする。

しかしブルーバードタクシーがいない。普通のタクシーに乗る。運転手は英語を話したが、非常に非常に感じが悪い。何人だとかインドネシアに来た目的は何かとかイミグレ役人の尋問のようなことをいい怒鳴り声を上げる。日本人だというとシメタという感じでニヤッとした(バックミラーで顔が見えていた)。有料道路に来ると必ず余分に金を取ろうとする。1万ルピアまとめて渡せと脅すような声を上げる。道路料金の釣りを渡せというとWhy!?だと。

このタクシーは途中で放棄する。あまり感じの悪いタクシーは早めに降りてしまったほうがいい。メータータクシーだが、料金3万ルピア弱のところ5万ルピア札を見せると釣りがないと言いながら札だけもぎ取ろうとする。おそらくそのままとって釣りをくれないか、どこかで両替して釣りをくれるとしても余分に取ろうとするだろう。そういうときは怒ったフリをして、料金を一銭も払わずにさっさと外に出てすたすたと行きかけるというのも良い。この日はその手を使った。そうしたら急に運転手の態度が変わり、なかったはずのつり銭がすぐに出てきて、なぜか1000ルピーくらい余分に釣りをくれた。

ちょうど良くブルーバードグループのタクシーがあり、乗り換えることが出来た。ブルーバードのタクシーは運転手の態度も良い。英語は話さないが、有料道路はそのつど請求しその釣りは500ルピアまできちんと渡してくれる。

大変な渋滞が続く。夜8時過ぎになってようやくパサル・バルPasar Baruに到着。前回も泊まったホテルAlia Pasar Baruにチェックイン。ブルーバードのタクシー代はAliaまで2時間ほど渋滞の中を走っても7万ルピアぐらいだった。しきりにソーリーを連発する。悪いので少し多めにやった。

Aliaのスタンダード・ルーム(21万5千ルピア)に入る。金曜日の晩だったがどのタイプの部屋も空いているようだった。出入りする客も多い。部屋数は多いようである。Aliaも隣のホテル・パサル・バルも満室だったらこの渋滞の中どうしようかと内心心配していたのでホッとした。

フロントクラークは前回と同じ人間だったが、「このホテルはレディー(連れ込み)禁止」だと念を押す。俺のことを覚えてないのかときくと、覚えていると言う。よほど女を連れ込む日本人客が多いのか?

Aliaに一台だけあるインターネットは故障らしく使えなかった。

午前3時ごろ、胸のあたりに水が落ちてきて変な夢を見て目を覚ます。

ベッドの真上から雨漏りが始まったところだった。午前0時ごろ眠ったときには雨漏りはしていなかった。フロントに電話して部屋を変えてもらう。フロントは人は変わっていたがちゃんと起きていた。部屋はすぐに変えてくれた。しかしソーリーのひとことも言わない。

このホテルAliaは新しいが音は良く響くし、建付けが悪いのかもしれない。

新しい部屋に落ち着くと午前4時近く、眠いが目が覚めてしまった。やがて隣のマスジッドのアザーンが鳴り始める。

3日。午前6時ごろにレストランで無料の朝食をたっぷり食べてから眠る。

朝10時ごろに目が覚めた。間に合った。

3日のジャカルタポストによれば、インターネットが不通になっているのも洪水のためと言うことである。主要な電話交換所の近くの電線が切れたため自家発電に頼らざるを得なくなり、固定電話のサポートで手一杯になったためとか書いてある。

早めに空港に向かうことにする。ホテルの前でブルーバードグループのタクシーを待つ。道路は依然あちこちで冠水している。通れないところもあるらしく遠回りしていくようだったが、結局途中でブルーバードのバスに乗り換えさせられる。これが空港まで2万ルピア。最初からそういう話だったようだが、インドネシア語がわからなかった。

昨日カンプン・ランブータン・バスターミナルでつきまとってきた見るからに下心ありそうなある男は、私がインドネシア語がよくわからないと見て「あんたインドネシア語が出来ないね(ニタ)」と言ってシメタという顔をしさらに手玉に取ろうという態度をあらわにした。私があわてて「ビサ、ビサ(できる)」言って開き直ると、今度は「スディキ(少し)だろ?」とニヤッとした。

インドネシア語は、インドネシアという広大で多様性を持つ世界の「国際共通語」なのかもしれない。そして、ジャカルタで「あんたインドネシア語ができないね」と言う人は、ちょうどシンガポールで「キミ英語が出来ないね」という人と似たような感覚で言っているのかもしれない。もっとも下心はかなり異なるだろうが。

バスの通り道もあちこちで水没している。もちろんそういう場所は徐行。全体的に渋滞が続く。

11時ごろホテルを出て空港に着いたのが1時半ごろ。2時間半ほどかかった。

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バンドゥン 1/30

午前10時ごろチパナスCipanasのポンドック・プサカPusakaをチェックアウト。アンコタでガルッGarutのアンコタターミナルのようなところまで行き、そこでバスターミナルに行く別のアンコタに乗り換える。

バスターミナルで降りるとすぐにバンドゥンのチチャフゥムCicaheumバスターミナル行きのミニバスが見つかる。

バンドゥンへ行く途中、チビルCibiruという町を通る。いろいろなところをまわっていてなかなかバンドゥンに着かない。

午後1時ごろようやくチチャフゥム・バスターミナルに着。ジャラン・ガルドゥジャティGardujatiに行くという06番のアンコタに乗る。しかし、ガルドゥジャティだといって降ろされたところはガルドゥジャティではなく、結局もう一度乗り換えることに。

午後2時過ぎ、Jl.ガルドゥジャティのホテル・チトラCitraにチェックイン。

Citraのおっちゃんの車(ぼろぼろのダイハツのミニバン)でJl.Sundaにあるマレーシア航空の事務所まで乗せてもらい、KL行きの航空券をリコンファームする。ここはホテル・イスタナやナリパンからなら歩いて行ける。

その後、Citraから歩いていけるところにある新しく出来た私立病院Santosa Bandung International Hospitalに連れて行ってもらう。この病院は鉄道駅の近く。

頭の傷の糸を抜いてもらう。Garutの診療所では確かに4針と言っていたが、糸は3本だった。

Santosaはとても清潔で近代的な病院。KLのパンタイ・メディカル・センターなどよりずっと清潔で設備もよさそうに見える。

夜、チトラのロビーで30歳くらいに見える日本女に会う。インドネシア人の平均から見てもかなり色黒な日本語を話す若いインドネシア人男を連れている。

一緒に旅行しているが「カップルではない」という。確かにそのようだ。

女のほうはバリ島在住の日本人だという。タバコをすぱすぱ吸い、「インドネシア語も英語もしゃべれない」と平然と言う。これには驚いた。

私が一人で旅行しているのをよほどすごいことのように言い、目を見張るようにして「英語はなせるの?」と聞く。「いやいやぜんぜん」と答えるほかない。

バリ島に「日本人社会」があって、その中にどっぷり漬かってその中だけで生活しているのだろうか。

私は在外日本人社会には肯定的だが、そのことはともかくとして、インドネシアに住んでいるのにインドネシア語がほとんどできず英語もダメというのでは、自分の利益も自分で守れないのではないか?トラブルが起きたら全部、今日連れていたような日本語の出来るインドネシア人や日本人仲間にお任せするのだろうか。

敗戦まではアジア各地に日本人社会があり、それらは日本民族の財産だったはずだが、敗戦とともにほとんど消滅してしまった。いろいろな理由があるのだろうが、しかし、たとえば在外中国人社会やインド人社会は、中国やインド本国が破綻したり国家滅亡の危機に瀕したりしたからといって消滅することがあるだろうか。まずあり得ないだろう。この対比から教訓を学ぶ必要はあるのではないか?

私は、はっきり言って、この女のような日本人女のシマリのなさが気持ち悪くて仕方がない。

インドネシア男のほうは、肌だけは白いこの女といつかヤレルかもしれないし日本に行ったり日本人ネタで金を稼ぐチャンスもあるかもしれないと思って、こんなつまらない女と一緒に「カップルでない」旅行をして面倒を見てやっているのだろうか。

確かに部屋も別々でカップルではないようで、ガイドとして金を払って雇っているのでもないようで、ただの「お友達」のようである。そのあとこの男がロビーなどでひとりで待たされているのをしばしば見かけた。女といるときと一人でいるときとでは表情から何から違う。日本人女がいるときには明るい表情を作って私にも話しかけてきたりするが、一人でいるときはふてくされた顔をして私を見ても一言も口をきこうとしない。

インドネシアを旅行するには、少なくともインドネシア語をしゃべる意志・学ぶ意志は必須であろう。これはタイにおけるタイ語の比ではない。

金も払わずヤラセもせず、通訳も全部おまかせして、ただの「お友達」として困ったときに利用だけして一緒に旅行できるという考えでやっているらしい。

私はこれは、戦後日本固有の空想的自由主義、空想的個人主義の実践以外のなにものでもないと思う。学校教師などが教え込んでいる、あいまいな個人主義と「性善説」とが奇妙に都合よく結びついた空想的な人間関係観をそのまま妄信し、実践しているだけのものと思われて仕方がない。

このような都合のよい人間関係が現実的であるはずもなく、いつかその「借り」を返さなければならない時が来るだろう。本人が手ひどい目にあって現実に直面し「借り」を返すことになるというのなら良い。しかし問題は、日本人全体が、あるいは日本全体が、量産されたこの種の空想家たちの妄動の「借り」を返さなければならないことになる恐れがないとはいえないことである。

海外で見かけるこの手の日本女の特徴をひとことで言ってしまうと、「中途半端に××(2字伏字)なこと」である。○○(2字伏字)は現実に財になるから論ずるに値する。もっとハッキリと××(2字伏字)だったらもうすこしマジメな生き方を模索するかもしれない。この程度の女でも日本人女なら海外ではそれなりにいい思いが出来るのだろう。

31日。

駅の北にあるバンドゥン・インダ・プラザ(ジャラン・アチェから北に入ったところ)の隣にあるインターネット屋に行く。いろいろ聞き歩いて探し当てた。しかしここも日本語IMEのインストールは出来ず、日本語表示は出来るが書けない。非常に遅くて不安定。

ネット屋にいるとたまたま昨日の日本人女が入ってきた。ここはチトラからは遠く離れたところで、宿の人も知らなかったところなのだが、どうやって見つけてきたのか。偶然である。バンドゥンは大きな町なのだが。

夜、宿に帰ると今度は毛唐である。禿げた白人オヤジが来ていた。白人は必ずロビーで自己の空間を主張しようとする。しかし、スタッフは英語は一言も話せない。ローカル客もだいたい同じようなもの。結局うろうろとしただけで誰にも相手にされず部屋に引き下がって行った。こういうところは白人ガイドブックでは「フレンドリーでない」「ツーリストに不親切」などの評価が下される。

2月1日。

昼過ぎまで寝て下に降りると、例の白痴女がインドネシア男とロビーに陣取っていた。白痴女に対するインドネシア人男の気の使いようは大変なものである。外で食事と買い物をして戻る。まだそこにダラッと溜まっていたが、コンビニAlfa Martで買ってきたアイスクリームを食べたかったのでちょっとそこに座る。

聞けば、昨日のネット屋も全部このインドネシア男に聞いてもらい見つけてもらって行ったらしい。この女は本当に、インドネシア語も英語もぜんぜん出来ないようだ。チトラのおっちゃんがインドネシア語の初級文法的なことを教えてやっていた。

確かにこういう男を連れて歩くのは便利なわけだ。しかし、世間の人は「肉便器」などというハシタナイ悪口を言うが、そういう悪口はよくないのである。この女はヤラセもしないで、途上国の男を利用しコキ使っている。これはサクシュではないのか?

こんなことができるのはもちろん、この白痴女がたまたま先進国に生まれて、日本国の威光を背負っているからにほかならない。

ITB(工科大学、イ・テ・ベ)に行ってみることにした。大学の近くにはネット屋があるかもしれない。ダゴDago行きのアンコタでITBに向かう。

ITBの学生が、大学の近く(キャンパスの北側の道を右に行ったところの左手)のK100というネット屋に案内してくれた。日本語IMEが使えた。ブログの更新などをする。

ネット屋に夜11時ごろまでいた。遅くなりすぎて帰るアンコタがない。通りがかるのは郊外に行くのばかりで、スタシオン(鉄道駅)方面に行くアンコタはもうないという。

仕方がないので数キロの道を歩いて帰ることにする。しばらくあるくとスタシオンまで行くというアンコタが見つかる。しかしこういうのは貸切タクシーになりがちである。他に客も乗っていたが。

鉄道線路を右に渡ったジャラン・ブラガBragaの近くで降りる。やっぱり、アンコタ運転手が遠回りしたといって1000ルピア余分に取る。最初は4000ルピア取ろうとしたが3000にさせた(普通は2000)。夜遅かったし実際助かったのであまり争わなかった。バンドゥンの町はずれの夜道は必ずしも安全ではないと聞いていた。

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2007年2月 7日 (水)

チパナスCipanas 07年1月 その3 怪我

1月25日。

ポンドック・アジサカAjisaka最初の朝、室内で転倒。タイルの室内階段の角で後頭部を強打。

9時ごろ目がさめて寝ぼけ眼でトイレに入ろうとしたら、大家のオバサンがコーヒーを入れたといってノックしたので、出ようと振り返ってちょっと歩いたところの2段のタイルの階段ですべる。少しぬれていた。床も全部タイル。

階段から滑って床に着いた足も滑り、さらに滑って面白いように真後ろに転倒した。右手にコップを持っていたので、それを壊さないようにと気をつけたのが却ってまずかった。後頭部の骨の出っ張ったところがちょうど階段の角に当たる。

2,3分動けなかったが気は失わなかった。ぶつけた後頭部をさすった左手を見ると手のひらが血だらけ。どす黒い赤のねばねばした血ではなく朱色のサラサラした血だった。身を起こしてみると、そのへん血だらけだった。そんなに血が出ていると思わなかったので、やや仰天する。

ちょうど入り口まで来ていたアジサカのオーナーに連れられてアンコタで(自家用車でないところがつらい)ガルッGarutの診療所へ。プレハブというわけでもないが、雰囲気は「野戦病院」のよう。汚い感じのところで黒い処置台にうつぶせ、カーキ色の役人の制服を着た男女3人ほどに囲まれて処置を受ける。

すべてインドネシア語の説明。傷を水とヨードでよく洗ってくれる。局部麻酔らしき注射を打ち、次に「4(epat)針縫う」という。

仕事はさっさと片付けられて、あとは痛み止めと抗生物質をもらうだけ。これで78000ルピア(1000円くらいか)。

処置はそれだけ。レントゲン撮影や破傷風予防注射の接種もない。脳波の検査なんてあるはずもない。処置をしてくれた軍服(公務員の制服)の人たちは、いちおうゴム手袋をしているが、手袋をしたままペンを握り書類を作ったりしている。

もらった抗生物質は、あとでよく見ると「シプロフロクサシン」だった。アジア諸国で下痢から性病まで何にでも使われているようだが、効くのだろうか。最強の抗生剤というふれこみだったらしいが、数年前にネパールで下痢が続いたときには、これを飲んでもティニダゾールを飲んでもまったく効かなかった。気休めだが別系統のZithromaxも自分で飲んでおいた。

後頭部のため傷の状態を実検できないのがつらい。出血はやがて止まる。

ガーゼが糸で傷に直接縫い付けてある。ガーゼにヨードをしみこませてある。夜には歩きまわれるようになった。

首をやられなくてよかった。しかし、不注意でこんな怪我をしたことはショックである。いつ何がおきても不思議ではない。

3、4年前、タイのチェンマイのあるゲストハウスで、やはりぬれたタイルの階段で滑って転倒した時のことを思い出す。タイ人オーナーやスタッフたちはみんな座ったまま見ていて「ハ、ハ、ハ、イープン(日本人)、イープン(が転んだ)」といってせせら笑っていた。白人客の多い宿だった。血は出なかったがかなり派手に転び、猛烈に痛かったのである。そのときぶつけた肘の骨の痛みは最近まで消えなかった。もし転んだのが白人客だったら、彼らはただちに総出でかけよって助け自家用車で病院に運んでいただろう。タイ人とはそういう連中である。

一方、アジサカの人たちは私の怪我を知るとすぐに集まってきてそれなりの手当てをしてくれ、病院にも送ってくれた。クリニックでも英語はまったく通じないので、私に代わって事情の説明をしてくれた。

インドネシアは危険なところも多いし、医療施設もあてにならないが、人間は(白痴やキチガイは多いが)タイ人ほどは嫌な連中ではないといえる。

私の旅行は無意味なものだが、旅行をしているうちに精神的にタフになった面は確かにある。日本にいる間は自分の血を見ることはまずなかったが、近頃ではかなり大量の血を見てもうろたえなくなった。

Liaは今日も店を閉めたまま。

ロータリーの入り口のところにある別の店の女の子に傷を見てもらう。ガーゼが傷に直接縫い付けてあるのがなんとも変なので、これをはさみで切り取ってくれというと、いいよといって同じ店の雑貨売場から売り物のハサミを持ってきたが、ちょっと傷の状態をみて、これは「ベッソ」(明日)だと断言する。そして翌日もう一度頼みにいくと、約束通り売り物のハサミでガーゼだけ切り取ってくれた。

ところで、インドネシア等で中国人が嫌われているのは歴史的な理由からである。すなわち、インドネシアでいえば350年にわたるオランダの植民地支配を通じて、徴税などの現地人に嫌われる仕事を担当させるために中国本土から中国人が「誘致」され、一定の特権を与えられて利用されたという経緯からである。

もっとも、そのような歴史を通じて(近代)中国人の「体質」もまた形成されていったともいえるのだろう。白人とは真正面から対決しては損である、白人に媚びてむしろ利用されることにより、他のアジア人に対する優越的地位とカネを確保することができるという教訓を中国人は学んだのだろう。

だから、中国人の悪ごすい性格は直接にはこの白人による中国人利用に負うていると思う。近代中国人は、白人の茶坊主・徴税人として自己を確立した民族集団なのであり、近代中国人の「反日主義」の淵源が白人の反日主義・人種主義的反日意識にあることはこのことからも容易に推察される。華夷思想的中華思想は共産中国の成立後にむしろ「復古」されたものなのではないか?

そして、東南アジアで中国人がもっとも深く社会の隅々まで浸透しているのがタイである。あまりに深く浸透しているために、ここの中国系はすでにタイ化しているようであり、タイ人は中国化している。タイ以外の東南アジアの国々では(ベトナムは知らないが)、中国人と原住民との境界がはっきりしているがタイではそれがあいまいである。厳密に言語学的には諸説あるようだが、タイ語と中国語が実際に互換性の高い、互いに学びやすい言語であることは確かだろう。タイ人は中国語を容易に習得するし、中国人がタイ語を習得することもやさしいようである。

いわば、タイ人は、自らを東南アジア化したところの中国人なのであり、東南アジアに地方(じかた)役人、徴税人として土着した中国人の典型がタイ人(上層タイ人)に対応するのである。タイが白人の植民地になったかならなかったかはあまり意味がない。なぜなら、中国人にとって東南アジア諸国の「国境」にはあまり意味はなく、むしろ中国人内部の流派・氏族・血脈のほうが大きな意味を持つだろうからだ。

タイ人の白人崇拝の源泉の一つは、アジア全域のスケールにおいて白人の茶坊主、地下(じげ)役人、徴税人として自己同一性を確立し現地に土着した東南アジア中国人の白人崇拝に由来すると見ることもできると思う。本来卑屈な白人崇拝が、「独立王国タイ」においては、「由緒正しいタイ式文化」の一環としてのブランドを得て「制度化」され、タイの立派な国柄にさえなっているが、これも本質的には植民地徴税役人文化としての近代中国文化に固有の白人崇拝にタイ風味を加えたものにすぎないのかもしれない。

いずれにしても、タイ人と(白人の茶坊主・植民地役人として自己を確立した)東南アジア中国人とは、マレー人と中国人、インドネシア人と中国人、などに比べれば明らかに特別の因縁を持つのであり、「シナは嫌いだがタイはマンセー」などという2chあたりの低脳ウヨの滑稽さはあきらかである。しかし、この種の「日本的な脇の甘さ」、「性善説的妄想性」は、日本の現実の国益にとって深刻な問題を含むものであると思われる。

白人は聖書を読んでいる分、日本人よりも植民地支配が上手であることは確かであろう。聖書には異民族(ローマ人)がどうやってパレスチナの支配に成功していたか、その機微が表現されていると思う。福音書でもローマ人はキレイゴトしか言っていない。パレスチナ下層民(キリスト教徒を含む)の憎悪は直接の弾圧者であるユダヤ教官僚・法学者(パレスチナ上層民)に向けられるように仕向けられる。

毎日雨が降る。雨季のようである。

26日。

傷を治すために睡眠薬で夕方まで眠る。

ロータリーの入り口のところのレストラン(ガーゼをハサミで切り取ってもらったところ)に行くと、若い日本人ツーリストが入ってきた。猫背でおどおどきょろきょろとして色白で、店に入ってくる姿はまるで白痴まるだしである。へこへこしていちいち「テリマカシ」を連発する。

日本人は「堂々とする」ことの価値を、学校でも家庭でも教わらない。日本人が海外で馬鹿にされるのもある程度やむをえないのかもしれないと思ってしまった。

海外で日本人にかかわりあいになるのは現実に危険なことが多いから最後まで知らん振りをしていたが、金を払って出るときにちょっと声をかけてみたらやっぱり日本人バックパッカーだった。バンドゥンに帰りたいが帰り方がわからないから教えてほしいという。ここまで来ているのに「アンコタ」も知らない。「テリマカシ」は連発するがバンドゥンへの行き方を聞くインドネシア語は工夫できないらしい。

もっとも、私も旅行を始めたころはあんな感じだったかもしれない。初心のころは必ず日本人と当てられたが、そのうち中国人と間違われるようになり、近頃では韓国人にされてしまうことが多い。

日本は、孤立した文明、一国一文明の日本としての孤独な宿命をもつ。われわれはこの宿命を正面から引き受けていかなければならないと思う。それが日本人としての誇りでもあるはずだ。

決してどんな外国(文化)にも甘えたり、幻想を抱いたり、特定外国に対して個人的友情に比せられるような「友情」を抱いたりしてはいけないのである。外国というものは常に、われわれが主体となって「利用すべきもの」である。外国および異民族の利用の仕方を巧みにし洗練されたものにすることこそが「国際化」ということの本当の意味であるはずだ。日本は世界を相手にこれからも基本的には「孤独」に、闘い続けなければならない国家であり文明である。この日本の宿命を日本人ひとりひとりが忘れてはいけないと思う。

そういえば、チパナスでは乞食を見ない。ジャカルタを出てからこれまで通った町でも乞食はあまり見なかった。

28日。

われわれはいつか必ずみんな死ぬことはわかっているのだが、もしも仮に、いつか死ぬ人間と永久に死なない人間との二種類の人間がいて、自分がどちらに属するかわからないとしたら、どんなに恐ろしいことかと思う。

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チパナスCipanas 07年1月 その2

1月22日。

朝、ポンドック・プサカPusakaに移る。2部屋借りて10万ルピア(1部屋なら7万5千)。

ガルッのジョグジャに行ってズボンを買う。

ポンビキが叫んでいる「ノーナー、ノーナー、ノーナー」というノナは「スンダ語」で「女」のことだそうである。未婚がノナで、既婚だとニョニャになるのだとか。

バンドレックやバジグールにもそれに対応するスンダ語があるという。これらも由緒ある飲み物のようである。

なお、インドネシア語で「おっぱい」はPayudaraパユダラーである。世の中にこれほど正しい言葉は無いように思う。

23日。

よぼよぼの毛唐オヤジがカナダ国旗のついた帽子をかぶってきょろきょろしながらチパナスのメインロードを歩いている。物欲しそうな青い目は若い毛唐とかわらない。毎日雨が降っていて特に平日はツーリスト自体が少ないが、たまにこういう毛唐が闖入する。

ジャワ人がしゃがみこんでタムロしている姿は、不潔というほかはない。どこまでも安易なほうへ、低きに流れる東南アジアの風土を象徴しているようで汚らわしい。

ああやってタムロするのを「ノンクロン」というそうだが、まともな人間が真似すべき風習ではない。

私が見た限りで言えば、「ノンクロン」は女がするものではない。女でノンクロンをしているのは売春婦だけである。売春婦がポンビキといっしょに座り込んでいる場合だけ。日本人女性が書いている「指さし会話帳」は「ノンクロン」を勧めているようだが、これはもう現地同化主義を超えた「土人化主義」「自己ヴァンダリズム」とでも言うほかない。日本女がノンクロンをしていたら、現地人には白塗り売春婦としか見られないだろう。

ノンクロンは、スマトラではあまり見た記憶がない。それほど気にならなかった。

ネパール人も同じようなことをするが、「ノンクロン」よりはもうすこしスガスガしさがあると思うのは私の偏見でもないだろう。ノンクロンとは趣が異なる。内容はともかく何か真剣に議論したり論じたりしていることが多い。ネパール人は黙って座っていることもあるが、黙っているときは本当に黙っている。東南アジア人のように、突然奇声をあげてわめいたり、狂ったように歌ったり、汚らしく笑ったりはしない。彼ら東南アジア人はほとんど内容のある話はしないようである。

しかし「文明がない」ということはこういうことなのだろう。ネパールは一応インド文明圏である。東南アジアは一部の敬虔なムスリムを除けばただの土人の群れといわざるを得ない。

ネパールの場合、外に座るにしても、みな同じ方向あるいは別々の方向を向いていることが多い。つまり菩提樹の下の休憩所(チョータラ)に木を背にして腰掛ける形が基本である。車座になるときは論争するときか、ばくちをうつ時かだろう。ネパール人は夜は家に入る。

ネパール人が座っている近くに座ったとしても、相手がツーリズム関係者でなければ何の問題もない。ただ空間を共有しているだけである。彼らは沈黙の意味も、距離を取ることの意義も、無関心のやさしさも、わきまえている。(ネパールについては2年行っていないので多少美化されているかもしれない)。

しかし東南アジアの未開人の間ではまったく異なる。彼らの近くに座ることは「空間を共有する」だけではすまされないことである。彼らに近づくことはそれだけで彼らの粘液的な人間関係に参入することを意味する。それはつまり、利用されるのでなければ敵としてひどい攻撃を受ける可能性を意味する。彼らに近づいて無関心をよそおうなら、それはただちに敵意の表明と受け取られるだろう。彼ら未開人(マレー人もそうだが、白人の植民地になるまで文字を書くことも知らなかったのだから未開人というほかはない)の近くに座って良いことがあるといえるのは、誰とでもセックスを楽しめる日本女くらいのものであろう。

「文明がない」ということは恐ろしいことである。いきなり他人の心の中にズカズカ踏み込むことも平気である。初対面の他人に何の用もないのにべたべたと触るのも挨拶である。彼らには「無意識の世界」がない。だからそれに対立すべき「意識の世界」もない。「全部」ダラダラと流れ出すに任せるのが常態だからである。夜中まで大騒ぎしても人迷惑ではない。そういう意識はまったくない。眠る連中はなにがあろうと犬が眠るように眠るだけである。だから、迷惑と感じることもない。

東南アジアの土人、未開人の素(す)の気持ち悪さは、体験してみなければわからない。ちょっと見ただけでもダメである。「旅行自体が新鮮な体験であるうち」はなかなか見えてこない。あの粘液性!「節度」という概念との無縁さ。境目のなさ。こういう連中と本当に楽しく付き合えるという日本人はすでに日本人とはいえないと思う。マトモな日本人ならあまりに徹底した気持ちの悪さにむしろ恐怖を覚えて逃げ出したくなるはずである。たとえば日本で風俗大好きな男がどんなに女とやりたいと思っていたとしても、ここの全身から粘液がにじみ出ているようなポンビキに覆いかぶさるように迫られたら、ギャッといって身をよけるはずである。やりたい気持ちもいっぺんに萎えてしまうだろう。これが正常な日本人の反応であって、そうでなければ日本人とはいえない。

(タイのずる賢さは、ポンビキを使わず、客の自由意志ですべてやらせようとするところだと思う。客は女にたどり着くまでのさまざまなプロセス(バービアetcからはじまり・・・)においても、擬似的探検を通じて好奇心の満足を得る。擬似恋愛もその一環である。これがタイ人の中国人との混血に由来する「悪ごすさ」といえる)。

東南アジアを楽しく旅する秘訣は、人間にあまり近づかないこと、「見る立場」に徹することである。

未開人というのは本当に何もしないでいられるのだ。一晩中、同じところにただタムロし、何をするということもなく、時に突然奇声を上げ、夜明かしすることができる。彼らの大半は日本の基準から言えば「白痴」である。

同じ小路の同じ近辺に何の用もないのに時おり奇声を上げながら、下水管の汚れがこびりついてとれないように、一晩中タムロしている。

とくに悪事をたくらんでいるわけでもなさそうである。トランプやチェスをやっているわけでもない。ただ「こびり付いている」のである。特に凶悪でもないがゆえに、なおさら汚らわしく感じる。人間の尊厳性と考えられているものが生じる以前の人類の動物的生態を見せ付けられているようである。時々意味もなく名状しがたい奇声を発するが、とくに狂っているというわけでもないようである。これが意識が生まれる前の、意識と無意識が分離する前のナマの生の姿というものなのかもしれない。とにかく、気持ち悪いことこの上ない。

この下水溜のような連中は理屈では理解できない。したがって、今危険でなさそうに見えるものが次の瞬間どんな行動にでるかも予測しがたい。どんな恨みを買うのか、なぜ恨みを買うのかも合理的には予測しがたいだろう。だから、防御の仕様がない。

ジーパンの尻を切られてだめにされるくらいはまだ良かったほうだと思わなければならない。いきなり血を見たりするよりは。あの男は自分がどういう動機でどういう感情からそれをしているのか、自分でもよくはわかっていなかったかもしれない。はっきりした理屈もなく、マグマが噴出するようにそれをしたのだろう。

悪いことばかり書くようだが、美女を見慣れてしまえば次には悪いことばかり目に付くようになるという、ありふれた顛末である。

24日。

この2,3日、Liaが店を閉めていて姿を見せなかったが、夕方とつぜんプサカの私の部屋に継ぎを当てたジーンズを持ってきてくれた。金は取らない。すそを切ってその布を当て、すそを短くまつってある。すそが短すぎる。Levis512のスタイルが奪われてしまった。512はいまはもう日本では売っていないと聞いた(マレーシアには売っていた)。

ここにも親切にしてくれる人はもちろんたくさんいる。ちゃんとした人もいる。しかし、マトモな人はたいてい女性である。男はほとんどクズばかり。野蛮人そのものといっていい。女もクズばかりなタイよりは、少しましな国といえるのかもしれない。

プサカが連れ込みとノンクロンとで一晩中うるさいので、ポンドック・アジサカAjisaka(Adysaka)に部屋を取る。4万ルピア。このへんでも一番安い。アジサカのキモチわるいおばさんはなんと家族もちだった。売春婦を30年続けてなお現役という雰囲気なのだが、若い亭主と中学生くらいの男の子(女の子でなかったのは本人のために幸いである)がいる。

プサカPusakaの方も継続。プサカの方が清潔だし風呂場は快適である(チパナスは何より温泉である)。一長一短あり。プサカは以前泊まったときよりもうるさくなった。シーズンオフにもかかわらず、否、シーズンオフだからいっそう、一晩中騒がしいことになる。ツーリストが来ない分地元の若者の連れ込みや売春貸しで稼ごうとしているかのようだ。

アジサカは奥まったところにある中庭式の宿なので、夜は静かなように見える。少なくともバイクが頻繁に出入りするということはなさそうに見える。アジサカは深夜は外から中庭に入る鍵を閉めてしまう。売春の濃厚な臭気が立ち込めたような一角だが、やっていることはプサカも同じ。

インドネシアの猫はMAU!となく。なくというより吼えているように聞こえる。体格の良いネコだけを交配していったら虎のようになるのだろうか。

Liaは今夜も店は閉めている。理由はよくわからない。スポーツをしに行くとか言っていたが、このところ精神的にも身体的にも参っているように見えた。

おそらくLiaは隣の店の白塗り女とトラブルがあったのではないかと想像する。隣の白塗りの若い女(Intan)はLiaの店に客が入ると大音響でステレオをかけ始める。

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チパナスCipanas 07年1月 その1

1月19日。

午前10時過ぎにガルッGarut着。アンコタを市内で一回乗り換えて、チパナスCipanasへ向かう。11時ごろチパナスCipanas着。

ポンドク・ムンターリーPondok Mentariに入る。週末のため6万ルピア。2階の二部屋を借りる。片方は5万。

ロータリーの食堂のリアLiaちゃん(ちゃんというにはお姉さんすぎるが)に、Bajigur(バジグール)という飲み物を教えてもらった。リアの店にあるのではなく、近くの高級ホテル、ティルタ・ガンガTirta Ganggaの残り物をこのへんの人にただで配っている。これも一種の薬湯。バンドレックBandrekほどの刺激はない(たんに生姜があまり入っていないということ)。

今回リアは顔色が悪く、頬がこけて元気がなさそうである。

いつも夜中じゅう店を開けていて、店のコンクリートの床にダンボールを強いて寝ていれば体を壊すのも無理はない気がするが。

いまもホテル・ティルタ・ガンガには日本人がたくさん泊まっていて、昨日は5人もリアの食堂に来たという。しかし私はまったく見ていない。

20日。

一人で来ているらしい毛唐がうろうろ歩いているのを見た。キョロキョロとスケベそうに覗き込み、通りがかる普通の女の子たちをジロジロ見ている。ポンビキたちにいちいち反応している。女目的のようである。こういうやつがアジアにエイズをまきちらすのだろう。

21日。

アンコタでガルッGarutの町に出てみる。あらためて見ると、ガルッは緑が多い良い町である。ジョグジャYogyaデパートに行きTシャツを買う。ガルッのジョグジャは荷物の取り上げもなくのんびりした雰囲気である。

ガルッの町を歩き回り聞きまわってインターネット屋を探し当てる。わかりにくいところにある小さなネット屋に入る。Linuxだった。日本語を書くことはできない。日本語の表示はできるが、サイトにより表示できたり出来なかったり。ココログの管理画面は「ごくたまに入れる」ようだが、操作はほぼ不可能。日が暮れるまで、たぶん3時間ぐらいネット屋にいた。アンコタでチパナスに帰る。

Liaの店に若い日本人グループが来ていた(しかしなんだか韓国人のようなキツイ目つきだったが。日本人も最近は茶髪をあきらめて黒髪にもどしたのだろうか。みんな黒髪だった)。チパナスで日本人を見るのは多分はじめて。

私は日本人がこういう新しい(?)リゾートにどんどん来て、日本人のためのリゾート環境が開発されていくことに基本的に大賛成なのだが、・・・・店の外にいたLiaに日本人だよといわれてちょっと覗き込み(目が合ったやつの目つきがキツかったこともあるが)思わず、見つからないようにという感じで逃げてしまった。

毛唐がたくさん来ることを思えばはるかに良いのだが・・・・。長く旅行しているうちにだんだん隠者体質になってきているのかもしれない。

部屋に帰ってみると、部屋の外に干しておいたリーバイス512の尻のところが真一文字に5センチ以上切り裂かれていた。

ここで働いている小間使いの男がやったのに違いないと思う。2階は2部屋とも私が借り切っていて、小間使いと大家と私以外誰も上がってこない。外部のものが、リーバイスを切り裂くために上がってくるということは考えられない。

この男とは以前からソリが合わなかった。直接には、私が自分の衣類を自分で洗濯をするのが気に入らなかったのだと思う。前回ここに来たときにも、この男は自分に洗濯をやらせろとといってきた。しかしかなり高いチップをやらなければならなかった。洗濯は毎日のことである。また、この男がしょっちゅう女を持ってこようとするのをいつも断っていたのも気に入らなかったのかもしれない。一回女を世話すれば彼らの収入から見ると大変な額が手に入るのだろう。夜中に突然「マッサージ」女がノックしてきたのもこの男が差し向けたのかもしれない。(トビキリいい女(町で見かける素人のかわい子ちゃんのような)を持ってくるなら別だが、こいつなどの持ってくる女はその辺にタムロしている見慣れた白塗りお化けの類である)。

彼はいつも自分を現実以上に偉そうに見せたがる男で、私が大家と何か交渉ごとしていると英語も一言も話せないのに口を挟もうと入ってくる(大家はすこし英語がわかる)。3,4人の妻を持っていること(養う甲斐性があるということ)をしきりに自慢する(バンドゥンの屋台の兄ちゃんでも3人妻がいるといっていた。通うだけなので要するに3人女がいる程度の意味だろう)。とはいっても、すでに中年なのにこんなところで掃除や洗濯の小間使いとして働いていて、夜は外の長椅子で寝ている。

明日は当然のようにこのポンドック・ムンターリーをチェックアウトする。ポンドック・プサカPusakaを予約しておいた。

若い日本人ツーリストたちが帰ったあとのLiaの店に行くと、Liaがしきりに日本人は英語が出来ないという。Liaの英語もむちゃくちゃなのだが、どこからか「日本人は英語が出来ない」という「日本人の弱点」を仕入れてきたらしい。

(先日このネット屋でアフリカ黒人から「英語を話せる日本人にはじめて会った」みたいなことを言われた。どれだけの日本人に会ったことがあるのか知らないが、私が日本人は彼らみたいにしゃべくること自体あまり好きじゃないからそう見えるんだろうとか言うと、「いやいや君は英語が話せる」とか何度も念を押してくれる。そういうとこっちが喜ぶと思っているようである。「日本人は英語が出来ない」だけでなく「英語ができないことにコンプレックスを持っている」というのも通説になって流布しつつあるようである)。

こういうくだらないことは言わない女だと思ったのだが・・・・、おそらくさっき来ていた日本人ツーリストたちが英語が出来ず、卑屈になって自分の「弱み」を強調して見せたのだろう。

しかし、土人に「弱み」をみせれば、それが本当に弱みであってもなくても、これ幸いとそこに押しかぶさってくるだけなのだ。

言葉の世界では、「通じないのは相手が言葉を知らないから」という原則を堅持できたほうが勝つ。つまり政治力。英語を母語とする国民には、英語が通じないのは非ネイティブの方がわかっていないからだという推定が働くから、それだけでも英語の世界では政治的に優位に立っている。この優位性は永久に変わらない。つまり、外国語の語学力を重視すれば重視するほど、非ネイティブは政治的に不利な立場に追いやられることになる。

Liaは今までわかっているフリをしていたようだが、私の英語もわからないという。「彼らはスチューデントか」と聞いたのがLiaにはまったく通じなかった。「ステューデント」でもダメ。結局、「ストゥーデント」でなければ通じない。Liaによれば、スチューデントやステューデントは「日本人英語」で、正しい英語は「ストゥーデント」だそうである。

「白人の英語がわからないのは自分のせいで、日本人の英語がわからないのは日本人のせいだ」というのが、国や民族を超えてアジア土人に共通な思考パターンになってきていることも注意である。

これは旅行上は結構大事なところ。土人国に行く人はよく押さえておいた方が良い点である。ここで卑屈な態度やひるんだ態度を見せるなら「それゆえに」待ってましたとばかりに押しかぶさってくるかもしれない。「それゆえに」見下され軽んじられるかもしれない。未開人にとって力は聖なるものである。(古代日本では「天子の徳」と書いて「スメラミコトのイキホイ」と読んだそうである)。

アジアの国々を旅していて普通に出会う英語話者は多かれ少なかれこの手の連中が多い。ちょっとまともな人間でも英語を学ぶと「奴隷同士」の上下を競い合う下司に成り下がる。この意味で、英語というのはそれを学ぶ人間を卑しくする言語であるといえる。そして、そうなった結果いちばん得をするのはもちろん英語国民である。

インドネシア語のような片言言語が国際共通語であったならこんなことは問題にならなかっただろうし、言語産業(この場合はインドネシア語産業)もふるわなかっただろう。インドネシア語は一応話すには簡単すぎるからである。

他民族にとって習得しにくい支配民族固有の民族言語を国際共通語として押し付けるためには政治力・軍事力が必要だが、帝国主義時代にいったんそれに成功してしまえば支配民族としてはこれほど都合のいいことはない。他民族はその支配言語を習得することだけのために知的精力の大部分を使い果たし、しかもカネも払ってくれるからである。支配民族の固有言語を習得するためには、支配民族の文化習慣やものの考え方も身につけなければならない。こういうことをやらせていれば他民族が固有の創造性を発揮して支配民族が思いも及ばないようなことを企てる知的余力は残らないだろうから、どこまでいっても言語支配民族の勝ちということになる。

アジアに長期滞在し国を転々としながら幼女姦や日本での「肉便器滞在」などを常習としている白人の多くが「英語教師」の肩書きでビザを取っている。貧しい国では彼らが落とす金のためにも周囲の者は英語を学ぶ必要がでてきて、ますます英語が必要とされ英語教師の需要は尽きることがない。

アジアで英語教師になるためには英語が出来るだけでは難しく、是非とも白人でなければならない。また、白人でありさえすればオーストラリアの中卒高卒でも可なのである。

日本の学校では週5時間も6時間も英語の授業をやっていたと記憶するが、この時間をすべて日本語の訓練に切り替えてシゴいていたなら、相当優秀な日本人が出来ていただろう。私の環境では国語教師は愚かで教授法も確立していないようだった。しかし本来なら、もっとも優秀な者が国語教師になるべきなのだ。

ロシア語やアラビア語を(インドネシア語はもちろん)大学で学ぶ人たちが、大学に入ってからの訓練でこれらをモノにしてしまうことを考えると、外国語は必要になったときに本気で勉強すれば必要な限りですぐに身につくものと思われる。50を過ぎてからタイにはまった買春オヤジが(必要と欲望に迫られて)タイ語の読み書きまでできるようになる例も少なくないのではないか?

50を過ぎてから買春旅行を始め、女遊びのためだけにタイ語とスペイン語(中米で遊んでいたらしい)をマスターしたと言う人に会ったことがある。バーで覚えたタイ語は素性がばれるとかそんなことはこの際どうでもいいことである。大阪で覚えた日本語は嫌われるといっているようなもの(その通りだろうが・・・しかしその人も「日本語ができる人」に分類されるだろう)。

義務教育でどうしても外国語を教えたいというのなら、インドネシア語を必修にするのも面白いかもしれない。マレー語などを含めれば世界の話者人口は英語ネイティブ人口に匹敵するだろう。週一回の授業で3年もやればかなり話せるようになるのではないかと思われる。

しかし、日本の義務教育から英語をはずすことは、アメリカの政治的な圧力により不可能なのかもしれない。

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2007年2月 6日 (火)

チアミスCiamis ジャワ島

1月18日。

正午前にクニンガンKuninganのホテルPurnamaをチェックアウト。

まず、クニンガンのチレンダンCirendanバスターミナルにアンコタで向かう。チアミス行きのバスはここから出る。ここはホテルからかなり距離がある。

チレンダンバスターミナルはチルボン方面など行きのミニバス発着所とジャカルタなどへ行く長距離バス発着所に分かれている。チアミスへ行くバスはちょっと降りたところにある長距離バス発着所から。

12時ころ発。チアミスまで2万ルピア。こういう金額はいくらぼられているのか(ぼられていないのか)見当もつかないが、毎度のことでもあるしいちいち争っていても仕方がない。とくに低地のジャワ人は時に危険でもある。

くねくねした山道をずっと走り続ける。チアミスは意外に遠い。

3時近く、チアミスのバスターミナルに着く。ターミナルの飯屋で食事をし、ホテルの名前とそこへ行くアンコタの番号を聞く。

7番のアンコタでホテル・マニスManisへ。ホテル・マニスは工事中だったが泊まれる部屋もあり清潔。一見快適そう。Manisには甘いという意味のほかに「愛らしい」という意味もある。「甜蜜蜜酒店」といったところだが、色気はまったくなく健全そのもの。今回の旅では不健全な宿には-パマヌカンのFavoriを除いて-当たっていない。ボーイがポンビキをしたり夜中に呼んでもいないマッサージ嬢がノックするような宿はまったくない。

マニスの10万ルピアの部屋にチェックイン。ホテル・マニスには珍しく英語を話すボスがいる。マニスのバスルームはこのへんの三ツ星ホテル(たとえばチルボンの「カリスマ」)よりも清潔で快適である。水シャワーだけだがそれにもかかわらず快適。シャンプー、石鹸、タオルなどもちゃんと具えてある。

このあたり、バスに乗っていてもホテルのボーイを見ても、変になよっとした男が多い。バスの中には、顔をいくら見ても男なのか女なのか見分けがつかないが、尻の形からどうやら男のようだと思われる少年が乗っていた。化粧をしているわけでもなく髪を長くしているわけでもないが、どうしても見分けがつかなかった。またまた文化の多少異なる地域に来たのかもしれない。

チアミスも大きな町。清潔で広々と明るくブルジョア的な雰囲気がある町である。食堂なども本当に清潔なところが多いが、物価が高いわけでもない。

ホテル・マニスは夜も静かだった。

19日。

なぜか眠れず、午前6時過ぎにチェックアウトする。ガルッGarut、チパナスCipanasまで行くことにした。

宿の前でアンコタを拾いバスターミナルへ。タシッマラヤTasikmalaya行きのミニバスに乗る。ガルッGarutまで行く大きなバス(おそらくバンドゥン行きの大きなバスはなかなか来ない。

1時間近く走ってようやくタシクマラヤTasikmalayaのバスターミナルに着く。周囲は田舎だが、巨大なバスターミナルである。きっと大きな町なのだろう。

すぐに人が寄ってくる。この人たちはまるでバスのポンビキのようである。ガルッに行くと言うとミニバスに案内される。ガルッ行きは午前8時発。

タシクマラヤにはコタ(市内)にも小さなバスターミナルがあり、ガルッ行きのミニバスはそこも通っていく。

バスは、客が集まらないので、客が来そうなところで車を止めて待っている。ミニバスはいつもだが、客が集まらないといつまでも待っていて大変時間がかかる。

ぜんぜん進まないので後から来たミニバスに乗り換えた。他の人たちも金を払わずに乗り換えていたので自分もそうすると、運転手が追いかけてきた。金を払えというが無視。乗り換えたミニバスには客がたくさん乗っていた。最初のミニバスは、結局客が3人くらいになってしまった。このバスには車掌がいなかったのがいけなかったようである。客の多いほうのミニバスは車掌がいて呼び込みをやっていた。どうやらこのミニバスはタシクのコタのほうのバスターミナルから出たもののようである。

午前10時過ぎにようやくガルッ着。アンコタを市内で一回乗り換えて、チパナスCipanasへ向かう。

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クニンガンKuningan ジャワ島

1月17日。

正午ごろチルボンのホテル・カリスマをチェックアウト、クニンガンに向かう。

クニンガン行きのバス乗り場までアンコタで2000ルピア。かなり遠かったがそれ以上はとられなかった。

クニンガン行きのミニバスに乗る。1万ルピア。

坂を上って行き1時間くらいでクニンガンに着く。また標高の高いところに来た。クニンガンは涼しくのんびりした感じの町。近くには温泉もいくつかあるようだ。

クニンガンのアンコタの中では、ジルバブをした超かわいい女子高生が人なつっこく話しかけてくる。グループの中でいちばんかわいい女の子が話しかけてきて、そのあと車に乗っているあいだ目が合うたびににっこりしてかわいいお目目をぱちぱちさせるのだ。そういう感じの町である。

クニンガンはこれまでの町とはうって変わって人間の感じがやわらかいところである。同じジャワで狭い地域を回っているのにどうしてこんなに違うのか。人の顔立ちもチルボンとはかなり違うように見える。もっと「日本的」。顔立ちだけとって言うとタイ人みたいに見える人もいるが、人間の感じのよさはタイとは対極的で日本の田舎に近い。とにかく若い女の子たちが警戒心がないのか人なつっこい(女の子だけでなくオバサンもだが)。そして、驚くほど美人が多い。幼女から女子高生のお姉ちゃんまでかわいい子ぞろいである。

こういうところを桃源郷あるいは「幻の国」というのだろうかとさえ思ったが、それは大げさかもしれない。その辺にいるかわいい女の子を片っ端からヤレたら「幻の国」と呼ばれ得るのかもしれない。しかしそのときにはこの人なつっこさも笑顔も消えてこわばった表情とシカメッツラだけが残っているというのが人間性の法則だろう。タイがそうであるように。

町はわりとにぎやかで車の通りも激しいが、しつこくつきまとう車夫はいない。それがこれまでの町との大きな違いである。馬車もたくさん通っている。

食堂に入ってこれまた人なつっこいおばさんの話を聞きながら近い安ホテルの場所や名前や値段を聞き出す。そこにいる娘がかわいらしくてたまらない。小学生のような背の低さだが胸のふくらみや表情や話し方から高校生くらいと思われる。少女のころの安達祐実をやわらかくしたようなかわいこちゃんだった。

スーパーで買い物をしたあと(ミネラルウォーターなどスーパーが安い)、3時ごろ食堂で教えてもらったPurnamaというホテルの10万ルピア(水シャワー・エアコンなし)の部屋に入る。

この町では道端に一人で座り込んで何かを書いていても人に煩わされることがない。チルボンまでの町とは大違いである。決して寒村ではない。むしろ人々には市民的な雰囲気がある。人種が多少違うのかもしれない。あるいは、これが「スンダ」の原風景に近いのだろうか。豊かな人が多いのか高地にあるためか、飲食店も清潔で快適なところが多いようである。値段が高いわけでもない。

しかしアンコタ車夫(この町は坂があるためかべチャはない。アンコタと馬車のみ)がともすればぼろうとするのはどこも同じである。

車夫というのは国際的に見て、また歴史的に見ても、一般的に賎業といえるのかもしれない。人を乗せるものが下で乗るものが上であるというイメージは一貫している。特に東南アジアには、上客は歩くべきでなく車に乗るべきであるという観念があるように見える。とくにタイではインドネシアで言う「ジャランジャラン」などというものの価値はまったく認められておらず、少し金のできた人はちょっとの距離でも車に乗るようだ。是が非でも車に乗らずにおくべきかという感じである。なお、日本の社会党の始原は明治の初めに人力車夫が作った「車界党」だそうで、国鉄労組の源流も同じく車夫の組合だそうである。なお、「車夫」は日本では差別用語として放送禁止用語にリストアップされているという。「車夫」と言わなければ表現できないものがあるにもかかわらず、日本では人前でこの言葉を使うことができない。たしかに日本の表現の自由には多くの制約がある。表現の自由が十分に保障された国とはまだいえないかもしれない。「車界党」ができたきっかけは、マラソン大会で人力車夫が一番だったにもかかわらず、「プロ」の走り手だからという理由で優勝資格を剥奪されたという事件だと聞いた。いわゆるスポーツのアマチュア主義というやつである。生活のための労働から解放されている、自由な意思と分別を具えた自由市民、つまり働かなくても生活でき生活時間を自由な創造的活動のために捧げることができる自由市民にしてはじめて、さまざまな人間的徳性を健全に発展させることができるという考え方であるように思う。この「オリンピック精神」つまりアマチュア主義にのっとったフェラチオ競技大会なんてのもいいかもしれない。審査に人種差別がない限り日本の優勝は最初から決まっているようなものだが・・・。(旅行日記にそう書いてあるのでそのまま書いた。なぜフェラチオの話が出てきたかというと「クニンガン」が「クンニガン」に聞こえるので、最初クンニガン、クンニガンと言っていたのだが、それで地元の人やアンコタの運転手にも通じていたからである)。

クニンガンのスーパーGriya(ジョグジャYogyaと同じ)は、かばんを持ち込んでもうるさいことを言わず、係りの愛想も極めて良い。もちろん当然のようにインドネシア語のみ。

チルボンはガイドブックには中国系の住民が多いと書いてあるようだが、行ってみるとほとんどいなかった。しかしクニンガンには中国系の混じった人が多少いるように見える。中国仏教寺院があるが中国丸出しでなく、ローマ字でSatiyaなんとかとインド語を書いて「仏教」であることを強調している。

夜、マーケット付近にはマルタバク(Martabak)の屋台が立ち並ぶ。こちらのマルタバクはマレーシアのマルタバクのような揚げローティではなく、ふっくらとして甘いホットケーキそのものである。インドネシア人はパンの作り方が上手なようである。「シキシマパン」もある。

「シキシマパン」は愛国的な動機から「敷島」(日本)を社名としブランドにもしたのだが、近年、左翼および外国人からの攻撃を受け、クレームに弱い食品会社としてはやむを得ず「パスコ」のブランドを採用し「シキシマ」を表に出さないようにしたのだと聞いた(この情報はちょっと電波系である)。

で、屋台のマルタバクはいちばん安いのでも1万ルピアである。そんな屋台がずらっと立ち並んでいるのだから買う人も多いのだろう。このあたりはやはり金持ちが多いのかもしれない。

18日。

12時前にPurnamaをチェックアウト、チアミスCiamisに向かう。

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チルボンCirebon ジャワ島

1月15日。

12時前にホテル・ガルーダ3をチェックアウト。今日は昨日とは違い、頼まなくても11時ごろに水が出た。荷物をまとめて部屋を出ると、ドアの外に椅子が置いてあってパン一斤とポットのお茶がたっぷりとおいてあったがすでに遅し。昨日の朝は何も出なかった。

ホテル・ガルーダ3の前の食堂で食事、食堂の人にチルボンCirebonへの行き方を聞くがよくわからない。

ガルーダ3の近くの交差点を越えたところでミニバスに乗り、チルボンへ向かう。1時間ほど走ってチルボンに着く。

チルボンは大きな町のようだが一見して特徴がない。適当にアンコタを拾いいい加減なことを言って「ターミナル」に行ってしまう。郊外のバスターミナルだった。そこからコタ(市街)まで戻るのに1万ルピアくらいはしそうである。

ここでアンコタにぼられそうになる。同じようなアンコタでも言い値が2千から5万まである。もうちょっとで2万の車に乗りそうになった。ドゥアプロ(リブー)とドゥアリブーを勘違いした。ようやくドゥアリブー(2000)の車を見つけてコタに向かう。

インドネシアでは降りるときにまた値段が変わり、交渉しなければならなくなることが多い。何かわけのわからない理由をつけてぼろうとする。このアンコタもあちこちまわって他の客を全部降ろしたあと、最初に言っておいたホテルから遠く離れた町はずれに向かって行った(後でそのホテルの位置を確認してわかった)。町はずれに来たところで強く「キリ(左)!」といって降りる。普通の言い方で言ってもまだだといって降ろそうとしないのは何か下心があるからである。渡す金額は最初に何度も念を押しておいた2000ルピアだけ。不服そうに受け取っていた。

よくしゃべる運転手には要注意である。インドネシア語が少しわかるようになって調子に乗ってつきあい始めるとすぐにカモにされる。帰れないようなところに連れて行ったり、ガイド料のような感覚で平気で増額を要求してくるだろう。その迫り方は強引で危険でもある。ネパールなどの弱気なぼり方とは構えがぜんぜん違う。ネパール人はこちらが強く出ればすぐに引くことが多い。しかし「素の土人」のこわさ。石器時代人直系の怖さとでも言うべきものをここにきてしみじみと感じる。もちろん女が一人で旅行していい場所ではない。インドネシア通の女なんてのがいたら、初日から最後の日まで一貫して肉便旅行の女というほかないだろう。

ところで、チルボンの女子高生は美人ぞろいである。アンコタに乗り込んでくる女子高生のほぼ半分は魅力的である。日本で、電車に乗っている女子高生の半分が魅力的ということはめったにないことであろう。イスラム風の制服+ジルバブ(ヘッドスカーフ)の少女と、日本式の制服(といってもスカートはひざの上くらいの長さで制服のファッション性は論ずるまでもない)でジルバブなしの、2タイプがある。非イスラム風の制服を着ている女の子はたいてい細身でしぐさなど日本の女子高生に近い。ちょっと中国系の血が混じっている感じの子もいるし、インド系もほんのり混じっている感じの子もいる。バンドゥンあたりの女の子とはまた違った美しさがある。バンドゥン近辺の女の子は黒い瞳の輝きが印象的だったが、ここではむしろすっきりとした白目の美しい子が多い。白目の切れの良い女の子はインド美人的な印象を与える。いずれにしても、長い時間をかけて中国系やインド系が土人ベースの上に混血していったという感じであり、昨日や今日の混血という感じではない。

アンコタを降りたところから歩いてホテル・カリスマKharismaまで行く。エグゼキュティブルームを半額ほどにディスカウントしてもらい、25万ルピアでチェックイン。もうちょっとと言うたびにするする値が下がっていった。交渉はしてみるべき。

久しぶりに毛唐を見かける。

べチャ(リクシャ)に何度か乗ってみたがヤクザばかりである。最初にいくら料金を確認しても降りるときにその値で満足することはまずない。必ずどこか遠いところに連れて行こうとする。単に大回りして増額の理由にするためだけである。

夜、誰もいないホテルのロビーに座って、格調高い「ザ・ジャカルタポスト」でも読もうと思っていると、ホテルの料理長という男が近づいてきた。もう新聞は読ませてくれない。ひっきりなしに話しかけ上手なわかりやすい英語を話す。謙虚なのか嫌みなのかそれとも自分の英語をほめてもらいたいためか、自分は外国人とコミュニケーションをしたいがなかなかその機会がないので(話に付き合ってほしい)などと正直に言ってくる。「英語が下手ですみません」とか、あなたは英語が上手ですね、どこで習ったんですか、などと何度も言う。私はといえば、このところ英語を読むことはあっても話すということはまったくなかったのでさっぱり舌が動かない。簡単な単語の発音にも苦労する。彼がしゃべっていた英語のほうが、語彙も語法も私がしゃべる英語よりずっと練達したものだった。

この手のアジア人に一番用心しなければならない。悪意を表に出していないだけやっかいで、こういうアジア人には近づきにならないのがいちばんである。このホテルはいまよほど外国人が来ないのだろうが、しかしいったん白人客でも来れば、こういうやつは手のひらを返したように向き直り、白人の周りをくるくると回り始め、その末には必ず日本人を見下す態度をとろうとするに違いない。この種のアジア「英語人」の生理と病理はどこの国に行ってもまったく同じである。彼らは同じ自然法則に従って動かされている人形のようなものである。日本にも「英会話」をしたいためにわざわざ「ガイジンハウス」に泊まりに行ったりするのがいるそうである。国辱以外の何ものでもない。

昔の人はほぼ「読本」だけで外国語を習得できた。カントやヘーゲルを読み辞書を暗記して覚えたドイツ語を引提げて留学し、いきなり講義を聴いたりしたのだろう。私は昔々、そのやり方をほんの少しまねしてから、「シュピーゲル」を読んでみてぜんぜん歯が立たず落胆したことがあったが、それは修行が足りなかったからであろう。しかしそのようなやり方で身につけた外国語こそ「内容のある話」をする道具になるのだと思う。

大学を出ても英語が話せないのは「受験英語」が悪いからではなく、「受験英語」をしっかりやらなくなったからである。(白人の都合もあってNOVA的・白痴的英会話がスラスラできることこそ「英語ができること」であるという宣伝が盛んになされているからでもあるが)。

インドラマユの石油プラントを作っていたときには、チルボンにも日本人がたくさん来たらしい。それでこのホテルに日本食レストランを作ったらしいが、プラント建設が終わって日本人が来なくなったため、日本食レストランも閉鎖になったのだとか。

16日。

Hotel Kharismaに連泊。ここは夜も静かな宿である。英語も通じて問題ない。

チルボンにはネットカフェもあるが日本語IMEを入れることはできない。日本語が書けるようにするためにはPCをリスタートしなければならないが、リスタートするとそれまでにした変更が一切キャンセルされて元の設定に戻るようになっていた。こういう風に厳重管理されていることがインドネシアでは多い(マレーシアでは比較的勝手に入れられることが多い)。

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2007年2月 5日 (月)

インドラマユ Indramayu ジャワ島

1月13日。

午前8時ごろスバンSubangのポンドクFavoriを逃げ出し、ベチャ(リクシャ)でバス停まで行き、インドラマユに行くバスに乗る。バスはすぐに出る。

バス代2万5千ルピアというのは高い。おそらくぼられているだろう。良いバスでもない。ジャカルタ-バンドゥンが安いバスで3万ルピアである。

バスが出て少しすると潮のにおいがしてくる。ところどころで海が見える。バスの物売り、演説家はさらに粗野になる。がなってうるさいだけの演説。そしてカネを集めるときのしつこさ。

バスの窓から見える風景はややインド的。人間も見るからに狂気的で、バンドゥン近辺よりはるかに粗野。

10時過ぎ、何もないところにあるバスターミナルで降ろされる。インドラマユのコタ(市街)に行くと車掌に言っておいたら、そこで降りるように指示された。すぐにアンコタに乗り換え。

11時ごろ市内へ。ベチャ(リクシャ)に乗り換え、Hotel Garuda3というところに入る。エアコン付、水シャワー、8万ルピア。静かで清潔でまあまあの宿だったが、水道水は「アイル・マンディ!(水浴びの水)」といって催促しないと出ない(水だめはある)。冷房入りでも浴室は暑いので水シャワーで十分だった。

インドラマユは大きな町だが、ただだだっぴろく広がっている感じで特に面白い感じはない。並木道がこの辺にしては整然としてこぎれいな感じ。

静かなうちに身体を休めておかないと、本当に休めないときもある。声がリアルに筒抜けの部屋の前で地元の連中が下品な大声でがなり奇声を上げたり歌いだしたりする環境では体を休めることもできない(できる人もいるのだろうが、私にはできない。普段日本にいて日本の静けさや清潔さや時間の正確さなどに「うんざりし」文句を垂れているような旅行者とは私はちがう)。高級ホテルで死にたい。とはいっても、オリエンタルバンコックはいやだ。ベルボーイにやるチップの額を思案しながら死ぬというのも嫌である。とびきりの女奴隷3人くらいに看取られて死ぬというのがやはり理想的なように思われる。

夕方、海(laut)へ行く。人に聞いてもすぐそこのような感じで言うので歩いて行ったが、とても長い距離だった。最後の3キロくらいをバイクにただで乗せてくれる人がいた。

海は、ああ海か、で終わりである。

帰りはベチャ(リクシャ)に乗った。これが悪党で、ホテル近くに来てからわざと辺鄙な方向へ向かっていく。こっちは今日来たばかりの町で暗くもなっていて道がよくわからないから、なかなか指示もできない。明らかにおかしいと思って強く言うとようやく修正する。そして、はじめに2万ルピアと何度も確認させておいたのに、「いろいろまわったから3万だ」という。かなり強情に言い張るがもちろんそんな金は払わない。幸い街中だった。あのまま変なところに連れて行かれたらカネを脅し取られたかもしれない。

インドラマユには製油所らしい施設があり、煙突から炎が見えている。

宿から遠くないところにYogya(ジョグジャ)デパートがある。いつも持ち歩いているデイパックを持って中に入っていろいろ探していたがやっぱり警備員が付きまとってきた。しかし、ニッコリしていてマレーシアほど不躾ではない。このデイパックにはパスポートも大金も入れているのでこんなところで人に渡すわけには行かない。この点に関して言えばタイはより洗練されているといえる(その分人をよく観察しているといえる)。

この辺りの住人は、ざっと見たかぎり、生きる意志の希薄な白痴のような人か強烈な野蛮人かのどちらかに分類されてしまうように見える。しかし、ジョグジャYogyaの女店員は英語は話さないがさすがに洗練されていた。

この町あたりからみると、バンドゥンは洗練された文明圏のように感じられる。

インドラマユよりはパマヌカンの方が町としては面白いところだった。

インドラマユはだだっ広いのでどこへ行くにもベチャを使うのが普通になっている感じである。

「スンダ」と「ジャワ」とではどうやら人種も民族も違うようである。「スンダ」すなわちバンドゥンあたりの人間はジャワ島ではかなり上等な部類に属する人々なのかもしれない。パマヌカンやインドラマユの白痴のような人たちや超野蛮な連中を見ているとそう思う。

パダン人というのもまた違うようである。しゃべっている言葉が違うのがわかる。パダン人はそつがない感じで、ちょっとベトナム人のような雰囲気がある。私の見たところでは、パダン料理店の娘は少女のころの安達祐実似であることが多い。あの系統の顔立ちが多いように思う。

ホテル・ガルーダ3は土曜の夜だったが静かだった。しかし、家主は白痴のようなおばさんで気持ちが悪い。いちいち頼まないと水道の水を出してくれない。たまり水で口をゆすいだりするのはあまり好きではないので1日3回くらい頼むことになる。同じことを何度言っても一向に平気で客の不便ということに対する感性がゼロ。この辺の人は白痴かケダモノかのどちらか。ケダモノでなければ物を感じる力のない白痴的な人が多い。これは風土というより彼らの遺伝なのではないかという気がする。

14日。

疲れたのでホテル・ガルーダ3に連泊。

本当にここの人は白痴。インドネシア語で「もう一泊する」と言うとすかさず、ソファに座ったまま銭クレのしぐさをする。指でお札をこするしぐさ。こっちも負けずにビルを書くジェスチャーをするとようやく腰を動かして仕事を始めた。

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インドネシアからマレーシアに来て感じること

インドネシアを1ヶ月旅してマレーシアに戻ってみると、電車内や駅で見かけるマレー語表示の言葉がかなりわかるようになっていた。マレーシアに1年いても本気でマレー語を学ぼうという気持ちにはなかなかならない。むしろ、ちゃんと英語を話さなくちゃと思うばかりである。ところが、インドネシアの英語がほとんど通じないところに1ヶ月いただけでインドネシア語≒マレー語の知識が、私としては意外なほど進捗した。外国語は「ほんとうに必要に迫られること」が習得の秘訣であり、必要に迫られないのにやっている外国語学習はドブにカネを捨てるようなものといわざるをえない(だから、そういう趣味的な外国語学習は独学でやるのがよい。外国語は独学でかなり習得できる。そして学校に行ったり外国に住んだりしても、「完全に習得する」ことは困難であるといわれる)。

インドネシアからマレーシアに来て感じるのは、まず、飯がまずいこと。料理がまずいというより、米自体がまずい。飯を食ってもまずいので、インド料理店でナーンでも食べていたほうがいい。インドネシアでは白米だけ食べていても結構うまかった。

そしてやはり、マレーシアでは、より「タイ的な」ものを感じる。「よりタイに近づいた」ということ。デパートなどの店員が生気なく色白で、生きた人間というよりは人形のようであり、文字通り血が通っていない(貧血気味)に見える。そしてなによりも、インドネシアでは見なかった「白人客に媚態を見せ、差をつける接客」が現れ始める。それに呼応するかのように(私の見た)インドネシアでは概ね小さくなりビビルようにしていた白人たちの態度がでかくなる。

そして、これもまた人形のような、戯画的なマレーシア特有の警備員。マレーシアの警備員は本当にマンガそのものである。

インドネシアのチパナスというところのあるゲストハウスで、宿の主人がインドネシア語でいろいろ話しをしてくれた。ほとんど理解できなかったのだが、インドネシアは「350年間」(tiga ratus lima pluh tahun)、「ブランダ」(オランダ)の植民地であったという事実をはっきり語り、それを悔やむべきこと、彼らの恥辱であると強く感じていることが伺えた。

そして、こういう話には私は警戒するのだが(「嬉しがらせ」である可能性もある)、その人は、インドネシアのMerdeka(ムルデカ=独立)は「ヒロシマ・ナガサキ」によるものであることをはっきりと強調した。ここで「ヒロシマ・ナガサキ」とは、原爆のことというよりも「日本がアメリカと戦争したこと」という意味だろう。

「ヒロシマ・ナガサキ」に関しては、ネパールのバルパックという村で、マオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)の戦闘員がアメリカ非難の合言葉としてチョータラに座ってのアジテーションに使っていたことを思い出す。いうまでもなく、その他の有名人も反米主義の一つの合言葉として使っていたことは周知である。

インドネシアは長い植民地時代の屈辱の歴史を払拭することに苦心してきたように見える。つい最近まで中国語(教育)を禁じていたことも、日本のネットウヨが思いつくようなシナ人が嫌いというようなことよりも、オランダが中国人を徴税役人など嫌われる仕事のために誘致して使っており、中国人は植民地支配システムの一環に組み込まれておりその直接的な目に見える象徴でもあったからであろう。

分断して統治する、という原則は聞き飽きた陳腐なものに思われるが、白人はこの原則に忠実であり、しかもその実際について巧みである。これは被支配者を単に目に見える形で分断することだけではなく、アジア人の心の中に分け入り分断することも含まれる。それぞれのアジア人の醜い部分を噴出させる、そしてそれをお互いに見せ合わせ、互いに軽蔑しつつスパイラル的に落ちていくように仕向ける。アジア人同士で醜い面を見合い、軽蔑しあうことによって結局はアジア人としての自尊心も失うことになるのである。ただひたすら反特亜を叫んでいるネットウヨの一部に時に見られる「日本人にはコーカソイドの血も混じっていてチョンコなどとは違うのだ」といった説を援用し自慰にふけっている姿などは、このような白人の思う壺にスッポリと嵌ったものと言わざるを得ない。

このようなことを書くとすぐに「お前はタイを批判してチョンコを批判しないからどうせチョーセン人だろう」というのがでてきて執拗に仕事をしたがるので非常にやりにくいのだが、このようなレベルの議論?のみに終始することがわかっている以上は、匿名掲示板や殴り書き可能なコメント即時表示のブログなどは、内容のある議論や批判を期待できる場所ではもはやなくなっているといわざるを得ない。

実態は、仮に多少「コーカソイド」の血が混じっていようと、アングロサクソンを頂点とする白人の人種秩序の中ではほとんどゼロと同じということである。米国ではヒスパニックがもっとも人種的地位が低い(最近はどうかわからないが)と聞く。白人エスタブリッシュメントからみれば白人と有色人種との混血などは基本的に、「ろくでもないやつが女奴隷に生ませた子かその子孫」にすぎないだろう。白人世界では、「周辺的なコーカソイド」のほうがいっそう賎民視されるようでもある。ユダヤ人、アラブ人は別格としても、「コーカサス系白人」が最も攻撃を受けている場合もある。

中国人が(日本人よりも)特に白人に賎視される場合も、人種的理由と言うよりむしろ、自分たちのアジア植民地支配において広範に中国人を直接の汚れ仕事に利用したことに起因していることのほうが多いように思う。この場合は、自分たち白人が行った汚い支配の「穢れ」の部分を、中国人に転化して合理化しようという機制が働いているのではないかと思う。いずれにしても、白人の人種意識から見れば、ちゃんとした白人でないならばむしろ格式のある純粋の有色人種であったほうがマシである、というぐらいだと思う。

徴税人、これは聖書的な概念でもあるだろう。

マレーシアに来て感じるのは、やはり小さな国でせこい国だと言うことだが、言論はインドネシアよりもむしろ「翼賛的」なのではないかという印象を持つ。英字紙を見る限りでしかないが、マレーシアの一流紙の1面2面あたりにはいつも「首相や大臣がここでこういうお説教をしました。マレーシア人はもっとこうしなければいけません」と言う話を批評抜きでただ垂れ流す記事が載る。

そして、マレーシアは、インドネシアと違って「植民地支配の汚辱」をそれほど強く感じていないように見える。むしろ、大英帝国の植民地であったことを他のアジアに対して誇るかのような態度である。これは最近の白人世界の言論の中にある、「イギリスの植民地支配は自由主義の布教・拡大に貢献したものであり、日本の支配と違い、『良い植民地支配』であった」、という論調と軌を一にするものといえる。

このようなことをいうからと言って、インドネシアのほうがマレーシアよりも良い国だとか、日本にとって重要な国だとか、日本人にとって良いトモダチだとかいうのではない。外国との関係や、外国人との関係は、幼稚園のトモダチ選びとは違う。そういう園児的な発想を一般国民が卒業しないと、政治や外交に携わる偉い人たちも賢くはなれないのではないかと思うのである。インドネシアもマレーシアもくだらないと言えばどちらも同じくくだらないし、くずばっかりと言えばくずばっかりである。(ただし、タイが特別に悪質なのは、最悪であるにもかかわらずよさそうな幻想を上手に垂れ流し、中国仕込みの手法である種の「タイスクール」を日本人の中にも作り出し、すでに綻びている幻想をドグマにまでして批判を許さない堡塁を築いているところであると思う)。日本に匹敵するような立派な国、日本人が譲ってやらなくても本当にトモダチになれるような国・国民はないということである。

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2007年2月 4日 (日)

パマヌカンPamanukan ジャワ島

1月12日。

スバンSubangを出て、パマヌカンPamanukanに向かう。正午過ぎにホテル・スバン・プラザをチェックアウト。インドネシアのホテルは概してチェックアウト時間にあまりうるさくないようである(タイのカオサン辺りのゲストハウスなど、鍵を返すのが1分でも遅れたら一晩分取るぞとか張り紙がしてあったりするが)。

ホテルの近くでアンコタ(ミニバス)を拾い、スバンのバスターミナルまで行くが、それからが長い。パマヌカン行きの(大きめの)ミニバスの中で1時間ほど待たされる。乗客が集まるのを待っている。ぎゅうぎゅうに詰め込まれて発車。最初助手席を勧められて座ったが(助手席を勧められるときは特別な料金を取られることもありうる)、これが失敗だった。当然ながら後からほかの客がさらに助手席めがけて乗り込んでくる。しかも2人も私の横に座ろうとしたので逃げるように後ろの席に移る。ひっきりなしにタバコを吸う運転手(タバコを吸わない運転手は見たことがない。タバコを吸わないインドネシア人男というのもあまりいないように見える)にべったり押し付けられて出発するところだった。後ろにはもう席など残っていない。後進国ではいつものことだが、床の上に置いた台の上に座る。

バスはぎゅうぎゅう詰めになったときが出発時間である。女子高生がいっぱい乗っていたのはせめてもの救いだった。パマヌカンまでのバス代は8000ルピア。

午後2時過ぎにパマヌカンに着く。パマヌカンは西ジャワの他の町とは町の雰囲気がハッキリと違う。面白い町である。少しインドのような雰囲気である。(この先の町はこういう雰囲気になるのかと思ったが、あとでそうでないことがわかる。パマヌカンだけがちょっと変わっていた)。不思議なことに町のいたるところに両替屋がある。大きな両替店もあれば屋台のような道端に台を置いただけの両替屋もあり、同じ通りの狭い範囲にひしめき合っている。Asian Cekアジアン・チェック専門と書いてあるところが多い。日本円もインドルピアも両替できるようだ。

この町は物価も少し高いような気がした。雰囲気はインドかネパール南部の地方都市のようである。Es Campurエス・チャンプル(氷入りフルーツチャンポン。EsはIce)にトマトが入っていた。

しかしホテルは少ない。チャンプルを食べたところでPenginapan(ホテル)の場所を聞くがあいまいな答えしか返ってこない。もちろんインドネシア語しか通じない。

泊まった宿は最悪だった。

ベチャ(リクシャ)に「ポンドックPondok」と言ってFavorit(ファヴォリ)という宿へ。英語は一言も通じない。話を聞いた感じではこの町にはいろんな国の人が来るらしい。なぜだかも聞いたが意味がわからなかった。

安宿は夜のほうが人の出入りが多くやかましくなる。しかし朝になってもやかましい。同じ人間が音を立てているのであれば、いつか眠るだろうし出て行くかもしれないが、立ち代り立ち代りやってきて騒ぐ場合には、24時間ずっと大騒ぎで眠る暇がないということもある。ちょうど、ロシア兵に輪姦される日本婦人のようなもので、休む暇がない。

宵の口はまだ静かなほうだった。しかし、中庭を隔てた向かいのオヤジが早々と寝込んだらしくその寝息が響いてくる。隙間だらけながらコンクリート作りの建物であるせいか、寝息の音が反響して自分の部屋の中からその寝息が聞こえてくるようにありありと聞こえるのがなんとも気持ち悪かった。最初はどこからその寝息が聞こえるのか不思議だった。しかしそんなことでうるさがっているうちはまだ甘かった。

ここはローカルなラブホテル、連れ込み宿だった。夜半を過ぎるとひっきりなしに新しい客がバイクでやってきて、ことさら大きなエンジンの爆音を誇示しながら中庭、客の部屋の前まで乗り入れる。女を連れてくる客もあるようだし、売春婦のグループもどこからかやってくる。これが5時くらいまで続く。アノ声も聞こえるがそんなものを楽しむ雰囲気ではない。夜が明けると別の連中が中庭に座り込んで、あの耐え難いインドネシア特有の未開人のおしゃべりを始める。その声も部屋の中でしゃべっているくらいに良く響く。

金曜の晩だったこともあってか、ひどい祭りだった。

まったく眠らず、朝8時半ごろ逃げ出す。

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スバンSubang ジャワ島

1月11日。

11時ごろPondok Inti Sariをチェックアウト。スバンSubangに向かう。

アンコタ(ミニバス)を2回乗り継いで、午後1時ごろスバンに着。乗り換えは運転手が次の車を見つけてくれた。

スバンのHotel Subang Plazaという年代物のホテルに入る。

一応ホットシャワー付で17万5千ルピア。部屋はミャンマーの田舎で泊まった植民地建築ゲストハウスのような感じである。天井が高い。

スバンの町にはネット屋が2軒あったが、どちらも女子高生で満員。何人も待っているような状態。勉強らしい。

これらのローカルなネット屋は雰囲気が良い。ついたてなどもきれいで、こざっぱりしている。しかし、どちらも日本語は表示すらできず、CDを使うことができずウィンドウズXPのCDを使ってIMEを入れることができない。スタッフに頼んでも難しい。一方のネット屋に詳しいスタッフが居てなんとかIMEをインストールすることができた。しかしここはとても遅い。ヤフーはそれほどでもないが、ココログは結局管理画面に入れなかった。

スバンは暑い。今回のインドネシアで初めて経験する「熱帯」。バンドゥンでは屋台で蚊にさされることもなかった。レンバン、チアトルは言うまでもない。

タイのような熱帯の臭いがする。熱帯の臭いでタイを思い出してしまうというのはいかにも残念なことである。タイに長居しすぎたようである。

スバンの夜は活気がある。バイタクやべチャ(リクシャ)の運ちゃんが声をかけてきてうるさいが、大都会から離れたせいか、レンバンよりもチアトルよりも人間は愛想が良い。

ホテル・スバン・プラザは夜は静かで良い。客が少なかったからかもしれないが、インドネシアじゃないみたいである。

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チアトルCiatre ジャワ島

1月10日。

レンバン市場近くからスバンSubang行きのミニバス。1時間ほどでチアトルCiatreに着く。車掌に教えてもらって降りる。

チアトルは温泉地だが少し寂しい感じのところ。丘陵にあり坂が多く、チパナスほど宿などの集中した地点がない。宿や食堂を探して坂道を歩き回るのがたいへんになる。

通りでミニバスを降りたところからバイタク(オジェというらしい)の男が付きまとう。客が少ないせいか、付きまとい方はチパナスよりもしつこい。騒がしいところも嫌だが、あまり寂しい感じのところも物足りなかったりする。

いろいろ探した末、Inti Sari(インティ・サリ)という宿に入る。150000ルピア。お湯は1会派出るが2階は出ない。チアトルは温泉郷といってもチパナスほど湯量は多くないようである。(チパナスは四六時中どぶに湯が流れている)。

観光バスが止まる、荒涼として広いマーケット地域があるが、その周りには宿がない。このマーケットはバラック風で、いささかカンボジアを連想させる。

周りに障害物がなく、周囲の風景を楽しむことができる。なだらかな丘陵の上、高原のリゾートといえる。チパナスより立地はよいと思うが、湯が少ないせいか客も少ないようだ。

チパナスは周囲に家が建て込んでいる豊かな村だが、ここチアトルは寒村という感じ。

泊まったPondok Inti Sariは2部屋1組になっていて家族、グループ向けのつくり。中の小部屋にも鍵がありその外の共用スペースに居間があり、料理もできるキッチンが付いている。私は中の小部屋を小分けにした一部屋だけ借りた形だったが、小部屋の鍵は渡されず全体の鍵だけ渡されたので、全部自分専用に使っていいものと解釈していた。夜別の客が来てもうひとつの小部屋を使わせろといって来たらどうしようかと思ったが、誰も来ず大丈夫だった。キッチンにはリンナイのガスレンジがありなべやコップや皿なども置いてある。やかんはなかったが飯蒸し用のなべがあった。コーヒーやバンドレックは自分で入れられる。

表で早速毛唐を見かけた。貧乏くさい痩せたオヤジで、半袖半ズボンで早足で歩き回っている。思いつめたような表情で歩いていた。ここに長居していそうである。こういうやつはタイに飽きたかタイに居られない事情ができてタイを離れているのかもしれない。しかし毛唐は死ななければ治らない。死なない限り解決はないだろう。毛唐だから英語教師として就労ビザを取り長期定住している可能性もある。英語教師は英語圏白人なら高卒中卒すべてOKである。

「タイ落ち」の毛唐だとして、毛唐がタイにうんざりしたとかツーリズムが嫌いになったなどと言っているのはまったくのお笑いである。なぜといって、「タイ」もツーリズムも実は「毛唐の似姿」でしかないからである。

「タイそのもの」はただの汚らわしいドロでしかない。そのドロは生暖かく、舐めるとときに甘く、近づけば近づくほどドゥリアンのような臭気を放つ。タイへ行く人間がそれぞれ自分の国から持ち込んだ妄想の型にタイのドロを流し込んでいるにすぎない。

タイへ行ってしまうような人間、タイに引っかかってしまうような世界中の下衆たちが持ち込む妄想の型が、「現実のタイ」を、タイの歴史を、タイの社会を、形作っている。

思いっきり背伸びしたテロリストにとってさえ、それがどんなに訴求力をもつ行為であるとしても、タイの白人の溜まり場を吹き飛ばすことだけはタブーなのである。

世界最強のテロリストたちがそれに本気で取り組んだとしても、タイのヘドロの堀を渡りきることは難しいかもしれない。というわけは、タイとは「白人の裏の顔」にほかならないからである。

午後6時をまわったら電気が止まった。8時ごろに復帰。夜遅く2階の部屋に人が入りキチガイのように音楽を鳴らすがやがて静かになった。夜中は本当に静かでちょっと怖いくらいである。

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レンバンLembang ジャワ島

1月9日。

午後1時ごろバンドゥン、ジャラン・ガルドゥジャティJl.Gardujatiのホテル・チトラCitraをチェックアウト。レンバンに向かう。鉄道駅の南のアンコタ(ミニバス)ターミナルから。

2時ごろレンバンの市場の近くで「キリKiri!」といってアンコタを止め、おろしてもらう。ホテルの看板が見えた。

メインロードから横道に入ってしばらく歩いたところにあるLingga Jayagiriというホテルの85000ルピアの部屋に入る。水シャワー。

市場の周りには屋台やレストランがたくさんあり、ご飯を小さな竹篭に入れて出してくれたりする。バンドゥンでは蒸した飯を大きな台付きの竹篭に移して保管していたが、それと同じ形で大きさだけ小さいもの。ご飯たっぷり、生野菜たっぷり、チキン一個で11000ルピア。安くはない。バンドレックBandrek(生姜湯のような飲み物)を出すところも多い。ここのバンドレックには黒くない(黒砂糖でない)のもある。

レンバンは坂が多い。宿の水はとても冷たい。

市場の近くにはバンドゥンにもあったAlfamartというコンビニが2件ある(ただし深夜は閉まる)。

この宿は夜は静かだった。宿の水道水は深夜は止められてしまう。濁っていて清潔ともいいがたい。

10日。

夜は特別寒いと思わなかったが、午前10時ごろ外に出てみると風が冷たい。半袖では寒い。地元の人たちはみなジャンパーを着ている。

市場に出ると、バスで毛等の団体が来ていた。ジジイたちが乗っている。レンバンには泊まらないだろうが、チアトルに行くのだろうか。あるいは火山か。このあたりも安全ではない。こいつらはどこでも貪るように歩き回る。時に、テロは×いものだ(1字伏字)。

昼ごろLingga Jayagiriをチェックアウト。市場の近くでスバンSubang行きのアンコタより少し大きなミニバスを拾う。

チアトルに向かう。チアトルまで7000ルピアもする。

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2007年2月 1日 (木)

バンドゥン 1/8

やはり日本語を話すアジア人は、しばらくしゃべっているとしまいにくだらないことを言い出しがちなものである。

外国語をしゃべる人は、自分がしゃべる内容よりも、「しゃべること自体」に意義を見出しがちなので、自分の語学力を確認するためにもどうでもいいことを際限なくしゃべり続けることになり、やがて必然的に?くだらないことをしゃべってしまうということもあるのかもしれない。

「日本が攻めて来なかったらバンドゥンは(オランダの引きで)インドネシアの首都になるはずだった」「バンドゥンはジャワのパリ(バリではない)と呼ばれていた」

ジャラン・ガルドゥジャティのホテルCitraのおっちゃんの弁。この人決して感じの悪い人ではないのだが。

「日本が攻めて来なかったら」・・・・・インドネシアはまだ十分にオランダの植民地だろうが・・・・・

なんて言ったら怒るだろうか。しかし、「フレンチポリネシア」なんて例もある。いまだに欧米の植民地であることに満足しきっているということだって現実にあるのだ。ハワイだってグアムだって・・・。

「日本が攻めて来なかったら」・・・・アメリカに移管されているくらいが関の山。あるいは分割されていろんな白人諸国の植民地になり、インドネシア全域がバリやタイのようになっていたかもしれない。統一して独立したインドネシアなんて夢のまた夢。

・・・・・と私は思うのだが。

わざわざ分厚いバンドゥンの歴史の本を持ってきて見せてくれた。インドネシア語の本だったが、日本軍の写真なども載っている。日本兵が整列して体操している写真とか。

今バンドゥンでは白人はめったに見ない。外国語もめったに通じない。ラオスやカンボジアと違って、オランダ語を話している学生とか若者なんてのは絶対に見ない。(ラオスではネット屋で高校生がフランス語できゃっきゃとしゃべくっていた。カンボジアにも英語はまったくだめだがフランス語が話せると言うレストランのおじさんがいた。)

鉄道線路の北の緑が多い地域は昔はオランダ人居住地区だったという。インドネシア人は主に線路の南に住んでいたという。しかし、いまは線路の南にいってもデパートの中のマクドナルドなどを覗かない限り、白人を見かけると言うことはめったにない。

インドネシア人は独力でオランダとかけあって、線路の北の緑多い地域に気持ち良く住み着いていたオランダ人たちを追い出すことができたとでもいうのだろうか?

このおっちゃんは長く日本人相手の仕事をしていて、日本語ガイドとしてボロブドゥールに千回登ったというから、日本人のことを良く知っているのだろう。日本人の多くは、過去の戦争の話をして日本軍を批判してやると、恐縮するだけでなく却って感心し、喜びさえし、畏まる、と言うことを十分知った上でやっていることだろう。

日本人客のほうもおそらく深い考えはなく、どう接していいかよくわからない外国人とのあいだの気まずい「間」を埋めるために、手っ取り早く共通の共感できる話題を引っ張り出そうとし、戦後の学校で習った「日本軍の罪」の話をとにかく持ち出したりするのかもしれない。あるいは、外国人の機嫌をとるために(これは見下すことでもあるのだが)、オランダ植民地だった=西洋文化がある=おしゃれ、といったいかがわしい図式を持ち出して、日本軍は×、オランダの植民地支配は○、という式でバンドゥンのオランダ遺物を称揚したり、半ば本気になってインドネシアを持ち上げたりするのかもしれない。

9日。

ホテルCitraをチェックアウト。レンバンLembangにむかう。

レンバンに向かってみたのは、以前CipanasのレストランのLiaちゃんがレンバンは静かなところだと言っていたのを思い出したからである。

12時過ぎに下に降りてみると、日本語のおっちゃん(チュチュというような名前らしい。ちょっと白人が混じっているような顔だが実は半分中国系で教会に行かないカトリックだとか)がいて話につき合わされる。ジャワ原人はソロSolo(Surakarta)だがバンドゥンの博物館にあるのだとか・・バンドゥン自慢。

1時ごろ鉄道駅南のアンコタ(ミニバス)ターミナルに向かう。Lembangと書いてあるところでアンコタを拾う。

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バンドゥン工科大学(ITB、イ・テ・ベ)

今日、バンドゥン市の北郊にあるバンドゥン工科大学の近くで、ようやく日本語が書けるインターネット屋を見つけた。はじめから日本語が入っているのでコントロールパネルの操作だけで日本語IMEを使うことができる。ただし、遅かったりは当然する。

ジャラン・ガルドゥジャティ(Jl.Gardujati、ホテル・チトラCitraやキングガーデンのある通り)から入ったところの小さなネット屋は、バンドゥンではアクセスが速いほうで、以前は店主に頼んでIMEを入れてもらえば日本語が書けたが、ウィンドウズがバージョンアップしたのに伴ってか、日本語表示できるようにすることはできるがどうしてもIME が出せないようになってしまった。何もしなければ日本語の表示もできない。

マレーシアのネット屋はわりと勝手にウィンドウズXPのCDを使ってIMEを入れられるところが多かったが、ジャワ島でたまに見つけられるネット屋はすべて厳重に管理されていて勝手なことはできないところばかり。頼んでもやってくれない、あるいはできない。

バンドゥン工科大学近辺は緑が多く、散歩をするのに気持ちのいいところ。ただし今は毎日雨。駅などバンドゥン中心部からはかなり離れる。

キャンパスの中を歩くと白人の学生も見かけるが、かもし出している雰囲気が白人風でない。

「毛唐」というものはやはり何か由緒のある特殊のイデオロギーであって、その理念、内在的論理、固有の評価的な表象・・・などを自らの人格に体現し、社会的に表現している者のみが真の「毛唐」と言えるのだろうか、、、などとも思ったりもしたが、しかし、今の現実の世界のルールは、彼ら自身の主観的な条件にかかわらず、彼らを「白人」として白人らしく扱っていくから、この「白人風でない」白人学生たちにしても、彼らが外に出て行けば結局は「いかにもな毛唐」と同じようになっていくのだろう。

すがすがしいキャンパスを歩きながら、育ちのよさそうなインドネシア人の学生さんたちにインターネット屋の場所を聞いて歩く。みな一様に親切。当然ながら英語も話せる人が多い。

最初に教えられて行ったのは、キャンパス内にあるComlabsという研究所だった。そこでインターネットができると言うから行ってみたが、当然と言うか、学外者は使えないということだった。

そのあとまたまた親切なインドネシア人の学生に案内されてこのKIOO(K100か?)というネット屋にたどり着く。

大学というところには、「大学病院」以外では本当に久しぶりに来た。

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2007年1月 7日 (日)

バンドゥン 1/6

バンドゥンは特に面白いという町ではないが、ツーリストが少ないのは魅力である。近代的な旅行生活もできるし、どこがどこへつながるのかわからない狭い迷路をさまようこともできる。迷路はいたるところにあったりなかったりするので、どこが迷路かということは難しいが、駅の近くやホテルキングガーデンの裏手あたりには、たぶん安全な迷路があるようである。

初めてバンドゥンに着いたらまずどうすべきか。とにかくアンコタ(ミニバス)を拾い、カラパKalapaかスタシオンStatsion(鉄道駅)に着いてから身の処し方を考える、というのが良いと思う。駅近くにはホテルが多いし、カラパの近くにもホテルがあった。

バンドゥン中心部の地理を掴むためにおさえておくと良い大通りは、ジャラン・アジアアフリカ(アジアアフリカ会議の遺物が立ち並んでいる近代的な大通り)と、ジャラン・オットー・イスカンダルディナタ(Jl.Otto Iskandardinata)。

ジャランアジアアフリカは東西の通りで、途中で通りの名前は変わる。名前が変わったほう(西のほう)に銀行(ATM)や両替屋がめだつ。

ジャラン・オットーイスカンダルディナタは駅の南口近くから南にまっすぐ伸びる大通り。途中にパサルバルPasar Baru(デパートのようなコンプレックス)がある。ジャランアジアアフリカとの交差点の南にGolden Money Changerという有名な両替屋がパチンコ屋のようなでかい看板を出している。

ホテルパレムやホテル(ニュー)ナリパンはアンコタの運転手も知っているので便利なランドマークではあるが、そのアンコタがそっち方面にいかない場合は頼んでも無理。それぞれのアンコタに路線がある。外国人だからといってとくにぼられるということもないように思う。タイのソンテウとはシステムも性格も違う。

ホテル(ニュー)ナリパンは、隣に両替屋も旅行代理店(とても親切)もあるので最初の晩に泊まるには便利かもしれない。私の経験からいえば、部屋によってお化けが出るかも知れない。

旅行代理店は鉄道駅の北側に多いようである。

インドネシア、とくにジャワの飯はうまい。長粒米だがご飯だけでも結構食べられる。ただ、バンドゥン郊外の田んぼを見るとよく油が浮かんでいて用水も必ずしもきれいとはいえない。この適度の汚染がいいのか、ほかの国の長粒米よりも味が濃くておいしいように思う。

マレーシアの飯はうまくない。マレーシアにいるときは「ナシゴレン」を食べたいと思うことはほとんどない。

マレーシアにはインド料理屋がたくさんあるので、毎日カレー。三食インド料理で耐えられる。毎日三食ナーンとダルカレーとテーだけでOK。たまにナシゴレンを食べてみるととてもまずい。

マレーシアの中国人レストランではコーヒーしか飲まない。コーヒーだけは中国人食堂のが濃くてうまい。

タイの飯はさらにまずい。タイ料理でうまいといえるのはもち米だけ。甘いもち米も悪くないが、プレーンのもち米を手で掴んでナンプリックという辛いのにつけて食べるというのが最高のタイ料理である。あとは糞。

スマトラのメダンの屋台ではひどいナシゴレンを食わされたことがある(私はどんなまずい飯でも残さないが、それだけは3口以上食えなかった)。しかしジャワのナシゴレンはまったく違う。

ここでは飯は炊くのではなく、甑で蒸している。弥生方式である。ブリキの甑に米をそのまま入れて蒸したり、専用の布を使ったりいろいろである。

マレーシアではまったく感じないことだが、ジャワに来るとナシゴレンが食べたくなる。ナシゴレンは所詮は焼き飯である。うまいもまずいもないようなものなのだが、インドネシアのはうまかったりする。

ジャワでも高いレストランのナシゴレンはたいていうまくない。汚い屋台のがうまいことが多い。所詮焼き飯でしかないのに気取って作ると本来の味が抜けてまずくなるのだろう。

ホテルチトラCitraの日本語を話すおっちゃんは、以前10年もボロブドゥールで日本語ガイドをやっていたのだという。わりとちゃんとした会社(JTBや近畿ツーリストと契約があり日本人が社長の会社だという)の専属ガイドだったが、最近は日本人ツーリストがめっきり減ったのでやめてしまったということである。バンドゥンに来てチトラに泊まる日本人も少ないので、今は日本語を使う機会もないという。このおっちゃんはカトリックだそうで、このとき周りにいたローカル客やスタッフ連中もみんなプロテスタントやカトリックだった。バンドゥンの何とかという大学にインドネシアでいちばん古い日本語学科があり、そこで日本語を学んだという話である。先生もインドネシア人だったというからそれなりに伝統もあるところなのだろう。日本語を話す外国人にしては割とまともな感じの人で、夜遅くまで話し込んでしまった。

この人のようにまあまあの日本語を話しちゃんとした態度を崩さない人には、タイなどで出会うことはない。ネパールもだめ。ミャンマーにはたまにいる。同じく日本での不法就労経験者であってもネパール人とミャンマー人とでは人間の出来が違うように感じるのはなぜか。(もちろんミャンマー人が上)。

1階ロビーで話していたので一回の部屋で寝ている人の迷惑になったかもしれないと思いながら2階の部屋に引き上げると、2階は2階で十分騒いでいた。

おっちゃんのお勧めのジャワの町はSurakarta(Solo)だった。古くて静かな町だそうである。ジョグジャカルタの向こうにある。

このおっちゃんの意見では、消息不明のスラバヤ発マナド行きアダムエア機もテロで落ちたのではないかということだった。西洋人客は3人しか乗っていなかったが、乗客のほとんどはキリスト教徒だったはずだということである。

その場にいた中国系インドネシア人客(漢字まったくできず)によれば、一回目のバリテロでやられたディスコは、オーストラリア人専用のディスコで、オーストラリア以外の国の人間はアジア人はもちろん白人でもなかなか入れないところだったという(アジア女・売春婦は入れたのだろうが)。麻薬の温床にもなっていて悪名が高いところだったそうである。まあ、やられてもしかたがないようなところ、やられたほうがいいところだったということだろう。

午前4時近く、のどが渇いて外に出る。近くの屋台はまだやっていた。コーヒーを飲む。そのあと迷路をさまよう。あてどもなくさまよっていると時に奇妙な空間に行き当たる。不思議な空間から若い女の子が日本語で声をかけてきた。少し話をする。かなり上手な日本語である。例によって「バタムで覚えたの?」と聞く。違うという。バンドゥンで覚えたというので、ここには日本人が来るのか?と聞くと、来ないと答える。まだ若いし化粧の趣味は悪い。日本人男と付き合ったことがあるようには見えない。どうやって覚えたの?と聞くと、本だけで覚えたという。バンドゥンで日本のテレビやラジオは聞けるのかと聞くと、まったく聞けないという。ほんとうに「本だけ」で覚えたらしい。それでもかなり筋の良い日本語を話す。なぜ日本語を勉強したの?と聞くと、ただ勉強したかったから、だそうである。

スンガイコロクに、「私はバタムで日本語を覚えたから日本語ができる」といっているタイ女がいたが、まったく日本語になっていなかった。タイ人や中国人に日本語は無理である。自分のほうから日本語で話しておきながら、わからなくなると日本語で話すほうが悪いという態度で開き直るのがこいつらの特徴である。

ホテルCitraのおっちゃんが貸してくれた97~98年版「地球の歩き方、バリとインドネシア」は10年前のだがまだピカピカだった。

「地球の歩き方」も昔は本音の話も書いていたようである。ただ、ナイーブなアジア賛美や頭の悪さをことさら誇示するような文章、同化主義的な現地志向は今よりひどい。

次のような記述がある。

エッチはやめよう  インドネシアでは既にエイズウィルスが発見されている。・・・・会ったばかりの他人とのエッチは避けること」

(ちょっと親切にされると「他人」に思えなくなって股を開くというのが大方の日本人(素人)女性ツーリストだろうからこういう忠告はあまり意味がないように思われる)

痴漢&性犯罪   バリ島クタ&レギャン、サヌールでは、日本人女性が痴漢にあうことが多い。おもに風俗関係で働く日本人女性が男遊び目的にバリを訪れていて、現状では日本人女性はその種の人であるとの認識が一般的になっている。」 (女の側の金払いが悪いとレイプされやすいともある)

これは正しい見方なのだろう。最近の版では、「一部開放的な日本人女性が・・・・」などというインチキな記述になっていたと記憶する。

男の買春を非難する者が、女のセックスツーリズム、「恋愛ツーリズム」を「開放的」などという立派な言葉でごまかすのは理解しがたい理屈である。金を払えば買春で金を払わなければ恋愛だ、というのが現在の言葉の定義であるというだけ。たいていの若い女はたいていの男とタダでやれるというのが生理的な法則だから、よほどすごいことをしようとしない限り買春にはなりえない。

したがって、「健全タイマッサージ」の女と「流れ」でやってしまっても、開き直って金を払わずにバイバイすれば買春ではない。

(「健全タイマッサージ」「古式タイマッサージ」においては頻繁に経験する事例である=女のほうから挑発してきたり抱きついたりしてくるからお互いの欲求(=自由恋愛)だと思い込んでいてもはあとで金を請求されるのが普通だが、不慣れなために金のことを言いそびれる女もいる)。

こういう場合には金を払わずに逃げてしまうことのほうが道徳的に「より正しい」だろうか。しかし、金を払えば「買春」と規定されてしまうだろう。

そのリアリティにおいてはより悪質な行為のほうが、「恋愛」の格付けを得て堂々と、より正しい行為としてまかり通っているということに注意すべきである。

「売春」の問題を一般的に、無限定的に考えるのは難題である。しかし、ツーリズムとの関係において考えることはより容易である。近代ツーリズム(>白人ツーリズム)自体が「覗き見」性をもち、(世俗的な意味での)非日常感覚を求めるものである。しかし実は売春(買春)の本領もこの「非日常感覚」にある。女日照りの学生がバイトしてためた金で風俗に行き早漏を笑われてしゅんとして帰るというのは売春(買春)の本領ではない。

近代ツーリズムがこの「非日常感覚を求める覗き見性」を本質とするとすれば、買春ツーリズムと恋愛ツーリズムとを区別する理由はないと思われる。

「非日常感覚」を求めるというこの共通の一点において、近代ツーリズムと「買春」とは元来親和性があり、ツーリズムが買春ツーリズムに直ちに転化することにはある必然性があると言わなければならない。つまり、近代ツーリズムはその出発点においてすでにある種の「買春ツーリズム性」を帯びているといわざるを得ない。

日本独特の旅行文化と思われる「現地同化ツーリズム」は、ツーリズムのこの「覗き見性」につきまとう「うしろめたさ」を、アジア主義的な(あるいは現地が欧米なら欧化主義白人崇拝主義的な)「同化」によって乗り越えようという、いかがわしくも安易な動機に出たものに他ならない。

「現地同化ツーリズム」は、たとえば現地がタイなら「タイヲタツーリズム」として現れるし、バリであれば「第二夫人志願型ツーリズム」として現象するであろう。

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2007年1月 5日 (金)

インドネシアへ  バンドゥンBandungに直行

クアラルンプルからジャカルタへ。そして当日にバスでバンドゥンに直行。

ジャワというところは本当に、私の体質に合わない。生まれ育ちに根ざした私の謹厳で禁欲的な美意識とは対極をなす土地柄である。育ちが良く、清潔で静かなところが好きで悪い遊びが嫌いな、私のような人間にとっては耐えられない風土である。またあんなところに行くのかと思うと本当に憂鬱になるのだが、なぜか行くことになってしまった。

飛行機のチケットを買うときにちょっと行きたいかなと思ったからであるが、なにより、ジャワは比較的白人が少ないということが最大の魅力である。今の時期イランは寒そうである。

1月4日。

午前10時、KLパサルスニの楽安酒店をチェックアウト。プトラLRTでKLセントラル駅へ。ここでKLIAエクスプレスに乗り換えてKLIA(クアラルンプル国際空港)へ。KLIAのスターバックスのコーヒーはまずい。前回はそれほどでもなかったがこの日はまずかった。

旅行客は白装束のムスリムが多く、この時期インドネシアに向かう白人は少ない。

マレーシア航空MH721は15分遅れで14時10分ごろ出発。今日は特に客室乗務員の要領の悪さ段取りの悪さが目立った。飯の準備にやたら時間がかかる。2時間のフライトであと30分くらいのときにようやく飯を持ってきた。1時間ぐらいばたばた準備をしているように見えた。エコノミークラスに飲み物を出さない。コーヒーのみ。私はオレンジジュースが楽しみだったのに、飯を配ったとき以外一度も飲み物を持って回ってこなかった。その上ワゴンをいすにぶちつける。この飛行機はガルーダとの共同運航便だった。(日本を出たときはANAとの共同運航便のマレーシア航空で、日本人スッチーの美人さとマレーシア人スッチーのフテたような暗い表情との対比が目立っていた)。

この方面は今気流が悪いらしく、飛行機はよく揺れた。窓から右にエンジンの口が見える。なかなか魅力的な造形物であるが、ぶっ壊れそうに揺れてときどきすごい音を突然出したりしていて怖かった。翼がブリキのようにぶるぶると震えて吹っ飛びそうである。羽根がぺらぺらなのはいつものことだが、インドネシアで飛行機事故がおきたばかりなので今日はあまりいい気分がしなかった。

搭乗のとき席に着くときに、毛唐オヤジとアジア人客とが席の取り合いでトラブルになっていた。ダブルブッキングだろうか。毛唐が英語で大声でいきまいていた。クルーが一生懸命をなだめて、ビジネスクラスにその毛唐のための席を作って移動させたようである。私の視界から毛唐が消えたことはよかった。飛行機に乗っていた毛唐はその男だけくらいだった。薄汚いなりをしたやつでインドネシアに何をしに行くのかわかったものではない。本気で幼女買春する白人はインドネシアを目指すという。よく逮捕されてもいる。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/12/4_fb50.html
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/10/post_56af.html

今回はアライバルビザを取るときにしつこくあれこれ聞かれた。どこへ行くのかというので、バンドゥンと正直に答えたのがまずかった。友達がいるのか、とか余計なことをあれこれ詮索する。バリにも行くと言ったバリはいいところだとか何とか言って納得したようだった。

最初からバリに行くと言っておけばもっとスムースにすんだかもしれない。バリなんぞ糞くらえだが。

外務省の海外安全情報では、たとえばタイのページを見ても、安全のため「欧米人の集まるところにはなるべく近づかないようにしましょう」とある。これはまったくもって尤もなこと、正しい定見である。われわれは欧米人ではない。欧米人とは歴史的な立場も違う。だから、白人ツーリズムのマネッコをすべきではない。欧米人の集まるところに行きたいのなら欧米に行けばいいのであって、アジアで白人ツーリストがことさらに集まり白人の植民地主義の延長である白人ツーリズムを展開する場所にわざわざ乗り込む必要はないのである。

イミグレでも帰りの航空券を提示させられた。いずれも前回(ほんの2ヶ月ほど前)はなかった厳しさである。

空港に入るとすぐに下に降り、タクシーを拾う。ブルーバードグループのタクシーでカンプンランブータンバスターミナルに向かう。メーターだがそれ以外にSurchargeなるものが9000ルピアかかり、有料道路の支払いが3回あってそれも合計10000ルピアくらいになる。有料道路もやや渋滞する。

カンプンランブータンに近づくと信号待ちで子供たちが物乞いに来ることがあったが、決して乞食のような汚い格好はしていない。むしろこぎれいな服装をしている子供たちだった。

2時間近く走ってようやくカンプンランブータンバスターミナルに着く。結局タクシー料金はメーターで12万ルピアほど、その上にサーチャージ9000と有料道路のトール、全部で14万ルピアにもなった。

バス停に着くとまた、いろんなところでいろんな金を払わされる。タクシーが着いたところで2000ルピア、バス停構内に入るのに500ルピア。

バンドゥン行きのバスはすぐ見つかった。1時間ほど中で待ち、午後5時50分ほどようやくバスが出る。

バンドゥン行きのバスは何種類もありどのバスに乗るかは客の選択だが、「客引き兄ちゃん」の客の取り合いも激しい。自分で適当によさそうなバスを選んで乗る。

今回のバスはちょっと良いバスだった。冷房車でガラス窓が大きい。客が少ないのでいすを倒して広い夕空を眺めることができる。マレーシアにいたときには感じることがなかった開放感に浸れる。演奏家は入ってこない。物売りもそれほど多くはない。その分バス代は高く4万5千ルピア。安いバスは3万ルピアくらいから。

夜9時ごろにバンドゥンに入る。

バンドゥンに入ると長髪の「吟遊詩人」が乗り込んできた。普通のしゃべり方で挨拶をした後、歌うのではないが抑揚をつけて通る声で「語り」始めた。詩のようであるが、演説なのかもしれない。内容はイスラム教に関するもののように思われた。政治的な演説なのかもしれない。2,3分語ったあと、また普通の声で挨拶をして金を集めていく。前回ジャカルタの市バスでみた演説家のはただの政治演説という感じだったが、今回見たのは風采も含めてあれよりはロマンチックな雰囲気があり吟遊詩人のように思われた。

夜9時10分、バンドゥンのルウィ・パンジャン・バスターミナル着。すぐにアンコタ(ミニバス)に乗る。バンドゥンの夜は安全だと思う。

鉄道駅に行くかと聞いて「スタシオン」に行くというアンコタに乗った。「スタシオン」が鉄道駅のことかどうかわからない。マレーシアでは「ステセン」だったと思う。オランダ語でスタシオンというのだろうか。

このアンコタはカラパKalapaまでだった。カラパのアンコタターミナルである。どこで泊まってもいいのだが、鉄道駅近辺に行くためにはここで乗り換えなければならない。

アンコタの向かいに座っていたたいへんな美青年が英語を少し話し、しかも親切に乗り換えのアンコタを見つけてくれた。たいへん控えめで、小さな声で話し、人見知りをするような青年だった。たいていの日本女ならこのままこの美青年と宿探しをしてこの晩か遅くとも翌日の晩にはやってしまうところだろう。

「スタシオン」はやはり鉄道駅のことだった。アンコタは鉄道駅の北側についた。このあたりに来るのは初めてだ。その近くにもホテルが何件かあったが高そうだったので、地理に覚えのある駅の南側に移動する。

ホテルパレム、スラバヤ、前回泊まったホテルキングガーデンなどの近くにあるホテルチトラCitraにチェックイン。ここも前回見た。日本語を話す人が一人いる。この日案内されたのは2階の部屋で前回見た部屋よりちょっといい部屋だった。9万ルピア。ホットシャワーはない。

ホテルチトラは構内が広々していてそんなに悪くない。キングガーデンよりはかなり雰囲気が良い。夜も、静かとはいえないが、大通りに面した部屋でなければそれほどひどくないだろう。

5日。昼過ぎまで寝て、チトラに連泊を決める。

鉄道駅の北口にATMがありVISAカードが使えるが、一度に引き出せる金額は25万ルピアだけ。これでは3000円くらいである。

ホテルチトラやキングガーデンの通りを南に少し行ったところにあるPermata銀行のATMはシティバンクの銀行カードも使えて一度に150万ルピアまで引き出すことができる。その向かい側にも別の銀行のATMがある。

なお、インドネシアでは「エイティーエム」はあまり通じない。オランダ式を今でも使っているらしく、「アーテーエム」。すべてこの調子。ドイツ語を勉強したことのある人ならすぐに覚えられる。Cはツェーではなくチェ。Jもヨットではなく、Yもイプシロンではないと思ったが、忘れた。Liaという女の子の綴りはエル・イー・アー。

チトラの部屋は扇風機もついていないが冷房が入っているようにひんやりとしている。水シャワーだけなので昼間でも水浴びはちょっと寒い。夜は冷える。今が冬だからではない。ここは南半球である。

チトラに毛唐ツーリストが来た。こいつら本当に嫌である。泊まるのかどうかはわからない。この時期、毛唐ツーリストが来ない国というのは世界中でイラクくらいしかないだろうか。

チトラの日本語のできるおっちゃんにインターネットの場所を教えてもらう。わかりにくいところにあるとても簡素なネット屋。バンドゥンの大通りでインターネットの看板は見たことがない。

最初、日本語は表示すらできなかった。コントロールパネルを開こうとしたが、小さな店なのに中央制御になっていて勝手に開けないようになっている。CDのアダプターも客のほうにはない。しかし店の兄ちゃんは親切で、設定を変えてコントロールパネルを出してくれ、私が持ち歩いているウィンドウズXPホームエディションのCDを中央から入れてIMEをインストールさせてくれて、一台だけ何とか日本語を書けるようにすることに成功した(ここはすべてホームエディションだった。私はプロフェッショナルのCDも持ち歩いている)。

ここも含めて多くのネット屋の人は、日本語のディスプレイができるということと、日本語ワープロが使えるということとの違いが理解できない。

多くの人は日本語が表示できればそれでいいのだろうと思ってしまう。日本語IMEを入れたいといってもなかなか通じないことが多く、何か変な設定の変更をしようとしているのではないかと警戒して相手にしてくれなくなることもある。しかしこのネット屋の兄ちゃんはこちらがやりたいことを理解しようとしてくれたので、頼めばまたやってくれるだろう。このネット屋の場所はホテルCitraで教えてくれる。

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2007年1月 3日 (水)

墜落機発見の報道は誤報、 乗客乗員は行方不明のまま - インドネシア

墜落報道はかなりいい加減な情報に基づくものだったようである。

http://www.actiblog.com/melakajournal/24724

マレーシア紙New Straits Timesの今日の報道によれば、墜落目撃報告というのは村人の噂程度のものだったようである。しかし12人が生き残り救出されたなどという具体的な報告がどうして出てきたのかは謎。

この飛行機には外国人が3人乗っており、いずれもアメリカ人だということ。

アダムエアは2002年に設立され2003年12月から営業を始めた新しい会社。

行方不明の飛行機は製造17年。2005年12月に最後の総点検を受けており、今月の終わりにまたチェックを受ける予定だったという。

地図:http://www.actiblog.com/melakajournal/24777

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2007年1月 2日 (火)

インドネシア、「アダム・エア」のスラバヤ発マナド行きボーイング737機墜落、約90人死亡…12人生存

インドネシアでは国内線飛行機が便利。スマトラで「シュリーヴィジャヤ」と「ライオン」に乗ったが「アダム」は未体験。

1月2日19時9分配信 読売新聞

 【ジャカルタ=佐藤浅伸】インドネシアで1日午後、同国民間航空会社「アダム・エア」のスラバヤ発マナド行きボーイング737型旅客機(乗客96人、乗員6人)が離陸から約1時間後、遭難信号を発して消息を絶ち、2日朝、スラウェシ島の山中で墜落しているのが見つかった。

 アダム・エアによると、同日午前、12人の生存が確認されたが、いずれも重体。約90人の遺体も発見された。

 在スラバヤ日本総領事館によると、搭乗者名簿に邦人の名前はないという。

 一方、別の民間航空会社「ライオン・エア」も2日朝、東部アンボンのパティムラ空港で滑走路をオーバーランする事故を起こした。

最終更新:1月2日19時9分

地図:http://www.actiblog.com/melakajournal/24722

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2006年12月27日 (水)

ジャカルタ行き航空券の購入 またジャカルタへ

ジャワというところは私はどうしても肌が合わない。好きになれない土地柄である。

清潔で静謐で、やや無機的でやや乾燥していて、ゆったりとしていて一人になれる空間、そんな場所が私は好きである。

ツーリストと性悪シェルパさえいなければ、ソルクーンブはやや寒いが気持ちのよい空間ではあった。ヒレやバサンタプルも場違いな毛唐さえ来なければいいところである。中国人と毛唐さえいなければチベットも良い。

いまKLはよくない。去年を知らないので年度比較はできないが、猛烈に毛唐が増えている。各種の毛唐、オーストラリア人が多いようだが、アメリカ人、北西ヨーロッパのレイシスト、ロシア人、そしてシリア人(東方正教のキリスト教徒も多いようだ)。

タイが外国人の「ノービザ滞在」を3ヶ月内くらいに規制したことの影響もありそうである。

タイのこの新制度では「6カ月の内に3ヶ月」は外国にいなければならないらしい。あいまいな規制であり、いつまで続けられるのかは知らない。早く元通りに開放してやってクズ毛唐を全面的に受け入れ、白人用便所国家タイランドの使命を果たしてもらったほうが周囲の国に滞在しているものにとってはありがたい。

毛唐も多くなりKLもうんざりしてきたが、かといってマレーシアの田舎を旅する気分にもならない。マレーシアの田舎は特に面白いところがないところが良いのだが、特に面白いところがないところにわざわざ出て行くためには強い好奇心のエネルギーが必要である。そういう田舎で毛唐にかち合うようなことがあると、都会でかち合うよりも数倍不快なことになる。それが「健全な」毛唐ツーリストだったとしても、ギラギラとした目で貧しく文明の遅れたアジアの隈隈を覗き込み嘗め回しつつ、入り込めそうなところにはどこにもドタドタ入り込み踏み歩き、アジア人ツーリストを自分の縄張りに入ってきたオスを見るような獰猛な目で睨み付ける。その意味で、女を買わなくても白人ツーリズムはセックスツーリズムなのだ。そういう毛唐に出会うことになる。

そういうわけで、どこか外国に出ることにした。そして、どういうわけかまたインドネシアに行くことになってしまった。本当にインドネシアというところはどうも私の肌に合わないので不思議なことである。

今日27日午後、マスジッドジャメでスターラインに乗りバンダラヤへ。Wisma P.K.N.SにあるM.S.Starトラベルでジャカルタ往復航空券を買う。

マレーシア航空のジャカルタ往復航空券(フィックス)が今回は830RM。これが片道航空券だと850RMになる。片道のほうが往復より高いので、ジャカルタから他に飛ぶ場合でも往復航空券を買ったほうが得ということになる。もとよりこの価格は常に変動する。前回は往復が片道よりもやや高かった。

3ヶ月オープンの往復航空券を買おうとすると1200MR以上になる。

前回相手をしてくれたモデルのようなパンジャブ姉ちゃんは今日は休みらしくいなかった。中国人似のマレー女(トゥドゥンにマレー服)がテキパキとやってくれた。

帰りは2月3日。

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2006年12月26日 (火)

インド洋津波から2年

バンダ・アチェ、スリランカ、プーケットなどで大きな被害を出したスマトラ沖地震にともなうインド洋津波から今日で2周年。

インド洋津波のとき私はポイペトのゲストハウスでテレビを見ていた。清潔で200バーツ、テレビホットシャワーつきという結構なところがあった。

私は当時ブログなんてやりたいと思っていなかったが、あの災害に伴ういろいろな報道や事実の不条理に接しているうちに、この地域を旅する間それまで感じていたもやもやしたものがますますつのり多少は明確な形を取るようになってきて、それをどこかにぶちまけたいという気持ちが高まってきた。わけのわからないモヤモヤをぶちまけるところと言えば思いつくのは2chだが、しかし、この内容はどうも2chにはふさわしくない。2chにはそれを書くべきところがないように思われた。

というわけで、津波の半年ほど後にこのブログを作った次第。だから、インド洋津波はこのブログの原点といえます。

(何の仕事をしているのかよくわからない兄に、「ブログを作ってアフィリエイトをすればカネになるよ」とそそのかされたせいでもある。しかし、尊敬すべき兄によれば、成績を上げるコツは「旬のネタを旬のうちに、内容は適当でいいからとにかく大量に投稿しトラックバックを打つこと」だそうで、旅行しながらネット屋でやるのは難しそう)。

過去の記事から。

2004年12月タイ、イサーン周遊

26日。インド洋津波。部屋のテレビで知る。注:インド洋津波に関する報道は偏っていた。多くのタイ人売春婦や「レンタルワイフ」が犠牲になったはずだが、そのことはまったく報じられない。白人の死や行方不明のみが報じられる。スウェーデン人少年が病院から行方不明になったことで欧米メディアは大騒ぎし、kidnapされた疑いもあるなどと連日報じていたが、ローカルが何人不明になっているかにはまるで無関心だった。伝え聞くところによれば、タイ人救助隊による救助の場面においてさえ、ツーリスト(=白人)が最優先され、アジア人被害者は後回しにされていたという。

Sweden bitter over tsunami loss スウェーデン人どものツナミ狂騒【インド洋津波一周年】

Of all western countries, Sweden was the worst hit by the Asian tsunami.

The devastating wave killed nearly 550 and injured some 1,500 Swedish holidaymakers, who had flocked to Thai resorts for the Christmas period.

While the death toll cannot be compared with the enormous loss of life in the tsunami region, it has been felt strongly in this nation of only nine million people.

アジア人遭難者たちの傷ついた身体やハシタナイ姿をいつも平気でパチパチ盗撮していく白人メディアだが、ツナミ直後に「(白人)遭難者のプライバシー保護」をやたら騒ぎ立てていたのもスウェーデンだった。不明者のの名前が公開されることさえ批判されていた。

「その時プーケットにいたこと」を人に知られたくない犠牲者や遺族も多いはずだから、という惻隠の情だろうか。

Dead Rental Wives・・・・あるアメリカ人の手紙【インド洋津波】

No one speak about dead Thai, only how poor suffering white people had crushing disappoitment to their time in Thailand.

CNN never showed the grief of a Thai person in all this, what their tragedy is, here it is CNN puking this information out over and over and over every 15 minutes, to the very people, keeping the very falsehood standing. 

Dead Rental Wives・・・・インド洋津波一周年

カテゴリー「インド洋津波」

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2006年12月22日 (金)

チパナスのラニちゃん

チパナスのラニちゃん。これもココログに載せられない写真。

http://kuantan.blog74.fc2.com/blog-entry-119.html

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こっちもよろしく。

http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-category-1.html

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バンドゥンの少女

ココログには載せられない写真

http://kuantan.blog74.fc2.com/blog-entry-118.html

この写真のデジカメの画像を見せたら、女の子は明らかにがっかりした表情を見せた。

実際、実物とはぜんぜん違う。こんなに汚くない。

ぜんぜんかわいくてピカピカと光っていた。

伝統舞踊の発表会でもあったらしい。

女の子はどんなに幼くても、おめかしをして晴れの場所に立つと、すっかり大人になってしまうようだ。

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2006年12月21日 (木)

バナナの花 チパナスで

バンドゥン近郊のチパナスで(たまたまチパナスで写真を撮ったというだけで、南方ではどこでも見られるもの)。

実るほど頭をたれる稲穂かな、というが、

バナナは、実りもしないのに頭下げっぱなし。

Imgp2898

紫色の花の根っこにちょこちょこっとついているのがバナナの実。

Imgp2891

バナナの花も野菜として生で食べられる。

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2006年12月20日 (水)

オーストラリア人が児童性的虐待で4年の刑 インドネシア

白人の性犯罪がニュースになるのは、起訴されたり判決が下ったりしたときだけです。それも全部報道されている保障はない。報道されるのは氷山の一角のまた一角。

【Mataram(Indonesia)】オーストラリア人男が昨日、インドネシア・ロンボクのリゾート島で4人の少年を暴行(assault)したかどで4年の刑を言い渡されました。

Imgp2890_1 この男は地元のホテル経営者(hotelier)Donald John Storenで、13歳から15歳までの少年にお金やその他の恩恵(inducements)を約束したのち性的に虐待した、と当地の主席裁判官Ida Bagus Putu Madegが宣告しました。
(NST12/20)

白人は、ごろつき滞在者やいわゆるセックスツーリストだけでなく、「地元に根付いて」「地元に貢献し」ている実業家など、堅気に暮らしているように見える者も、ほとんどこの範疇に入ると思ったほうがいい。

なぜなら、これはもともと白人にとっては「普通のこと」だからである。彼らが何百年間アジア太平洋で普通にやってきたこと、地道にやってきた騒ぐほどでもないこと、アジア太平洋(というより世界中の非白人世界)における「白人の権利」であったことだからである。

何度でも言うが、白人世界でゴーギャンが非難されたことが一度もないように、白人のこの種の「特権」概念がラディカルに批判されたことは一度もない。彼らがそれを自己批判する道理もない。

われわれが注意すべきは、彼らにとっては、東南アジアも日本もそれほど区別されていないということである。日本は東南アジアより金がかかるとか(役所で)英語が使えないというだけの違いであって、彼らの基本的な「特権」観念上の違いはない。この際、日本と東南アジアとはまったく違う世界、と思っているのは日本人だけだと思っておいたほうがいい(実際まったく違う世界なのだが、白人はそうは見ていないという意味)。

彼ら白人にとって、アジアはもともと「それをやっていい土地」だったのだ。いつから「いけない」ことになったのか腑に落ちないくらいなのである。

彼らがアジアを見る目は、「最近ちょっと金持ちになってお澄まししているが中学生のときからずっと誰とでも寝て金をせびっていた女」に対して男たちが投げかける視線のようなものである。「どうせ・・・・」「条件次第ではいまだっていくらでも・・・・」「警察さえ何とかすれば・・・・」という感覚である。

「アジア」に来ればあたり構わず女に声をかけ代金を示して交渉する、年齢にかまわずスキのある女児男児に付け入ろうとする、というのが白人の常態である。

外国人犯罪抑止のためにもこの事実は正しく知らなければならない。

だから英語教員・補助教員などの名目で多数の白人を日本に動員することは、女児だけでなく男児を持つ親にとっても、たいへん危険なことなのである。

中卒ゴロツキのオーストラリア男でもアジアではいくらでも「英語教師」の資格を得て「キャリア」を積むことが出来る。

白人好きの女の子をナンパすることができて英語でおしゃべりしながらセックスできるくらいの社会適応能力があればアジアの英語教師は勤まるのである。

そんな「キャリア」をタイで10年間積んだ英語教師を日本が拒む理由はなくなる。英語教師を受け入れるという以上、それは「差別」といわれるであろう。彼らはタイその他の国で「英語教師」の「実績」があるのである。

その結果どんな毛唐が日本に流れ込んでくるか、彼らが日本に来てどんな犯罪を起こそうとするかは明らかだろう。

白人英語教師の導入は(児童に白人に英語を習わせることは)非常に危険なことなのである。

これは偏見でも差別でもない。多くの事実に基づく合理的な判断である。

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2006年12月11日 (月)

ジャカルタからクアラルンプルへ

11/29

ジャカルタのホテルAiaパサルバルをチェックアウト。スカルノ=ハッタ空港へ。

ホテルの前に客を乗せてきた「ブルーバードグループ」のタクシーを拾う。ブルーバードのタクシーはフロントガラスにBlue Bird Groupと書いてある。

中級以下のホテルにタクシーを頼んでもあまりいいことはないと思う。

有料道路の金の払い方が変な方式だった。入るときに4500ルピア、出るときに2500ルピア払うところがあった。入るときに運転手がお金を要求し、1万ルピア札を渡したら釣銭を返そうとしないのであわててしっかりもぎ取った。出るときの分と言う意味らしかったが・・・・タイでは有料道路の支払いのときにお金をごまかされることがあった。

出るときに払う金額は三種類書いてあったので、そのなかで一番安い2500Rpを出してみると当たっていた。

このタクシーは停車をするとすぐにメーターを止めた。

空港へのチェックインは出発1時間半前からだった。

スカルノ=ハッタ空港のカフェはとても大衆的。メニューはインドネシアの普通の食堂と変わらなかった。ミーバッソを食べる。ただし、当然、値段は高い。

残念だったのは、館内放送の"Perhatian"の発音がスマトラとぜんぜん違っていたこと。メダンの空港のほうがぜんぜん良かった。

スカルノ=ハッタの"Perhatian"は、ちょっと英語みたいな気取って口ごもったような発音で聞き取りにくい。

スマトラの空港の"Perhatian"は、歌うような調子で「プラハティア、プラハティア」と屈託なく2回繰り返すのだ。これを聞くとうっとりする。

国際空港はやはり毛唐が多い。多いといってもマレーシアよりはずっと少ないし、タイの100分の1ぐらいである。

マレーシアやインドネシアにいる毛唐は、タイにいる連中ほどクズではないかもしれないし旅行ずれしていないかもしれないが、却って天然の人種差別主義者であることが多い。要するに本当に植民地に来ているという感覚。

空港内のスターバックスで背広をきちっと来た毛唐がサンドイッチをガツガツほおばっているさまは、まさに一個の背広を着たケダモノがそこにいるようである。

スカルノ=ハッタのイミグレを出るときも、飛行機にチェックインするときも何の問題もなかった。インドやネパールは出るときにもったいぶる。

機内食は往きのときよりは軽かった。客席も往きより心持広く快適だった。同じマレーシア航空。

KLIA(クアラルンプル国際空港)のイミグレには外国人が大量にいて、1時間くらい列で待たされた。大部分はアラブ系と中国系。バングラかミャンマーのインド系みたいな感じの人もいた。

列では中共の若い女のグループにはさまれていた。同じ中国人といっても、マレーシアの中国人とはまったく違う。中共中国人はからだ全体に埃っぽい雰囲気が立ち込めている。順番に待っているのだから別に早くなるわけでもないのにちょっとでも人を追い越そうとする。常に空間を詰めていないと間に滑り込もうとする。

インドネシアから来たが、このときはマレーシアの税関検査はまったくなかった。チェックポイントも見なかった。

以前KLIAから日本に帰ったときには、「ランダムチェック」だと言ってアジア系だけX線チェックしていた。スマトラのドゥマイからマラッカ海峡を渡ってマレーシアに入国したときにはかばんを少し開けさせられた。

午後9時ごろようやくKLパサル・スニ(Pasar Seni)に着く。いつもここなのがあれなのだが。

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ジャカルタに2泊 パサル・バルPasar Baru

11/27

午後3時過ぎ、ジャカルタのカンプン・ランブータン・バスステーションに着。3時間もかからなかった。

17番の市バスに乗り、パサル・バルPasar Baruを目指す。

ギター弾きは相変わらずローカルバスにも乗ってきて演奏する。さすがにしょっちゅうやっているだけあって、ギターはそこそこ上手なものもいると思う。しかし、こんな排気ガスで空気の悪いところで歌っていたら喉がおかしくなるだろう。

はっきり言って頼んでもいない演奏を聴かされるのは迷惑。

バスというものはいつも、後ろのほうにゴロツキが吹き溜まるものである。これは日本の田舎のバスでも同じ。だからバスに乗るときは前のほうに乗るのが安全だと思う。ジャカルタの市バスは最後部に車掌がいる。

発車前のバスに乗り込んでくるのは、物売りや演奏家だけではない。堂々たる中年男が乗り込んできて、大きな声で演説を始める。何か偉そうなことを1、2分演説したあと、座席を回って金を集めていく。政治活動家なのだろうか。

この国にはありとあらゆる物乞い系の商売が咲き乱れている。

英語教材、何かのパンフレット、コーランの額、財布などなど、どんどん乗客の腕の上やひざの上に勝手に置いていく。回収に来るまで善管注意義務が発生するだろうかなどとのんきに考える以前に、ひたすらうざかった。

午後5時過ぎにパサル・バルの近くで指示されて降りる。そこから20分ほど歩きHotel Pasar BaruとHotel Alia Pasar Baruとを見る。どちらも満室に近かった。

Aiaパサルバルのほうのスタンダードの部屋に入る。21万5千ルピア。

ホテル・パサルバルとアリア・パサルバルとはAliaというマスジッドのすぐ近くにある。どちらもムスリム色の強い宿で、女の持ち込みは厳禁。

Aliaには「婚外男女(married coupleを除くopposite sexの人)が同室に滞在すること」を厳禁するという注意書きが各所にある。チェックインのときにも一人かどうかを確認し、女性を入れないようにと強く念を押された。

パサル・バルは、カオサンにツーリストがいなかったらこんな風かもしれないと思うような雰囲気のところ。

タイにいたときは、タイ人が好む甘い氷菓子を軽蔑していたが、ジャワの氷菓子は内容が豊かでおいしくちょっと癖になった。タイの氷菓子のようにカキ氷とシロップばかりとかでんぷんみたいなゼリーばかりみたいなのではない。いろいろなフルーツがちゃんと入っていてココナッツミルクが効いている。3000~5000ルピア。毎日のように食べていた。

Aliaには一応インターネットが一台ある。一時間15000ルピア(少し高い。マレーシアの2倍ぐらい)。

バンドゥンにはあったバンドレックがこのあたりにはまったくない。

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2006年12月10日 (日)

バンドゥンBandung (帰り) インドネシア

11/22  

11時過ぎ、ホテルPusakaをチェックアウト。ロータリーからアンコタ(ミニバス)でガルッ(Garut)へ向かう。

ガルッ(ガルーと聞こえたが)はかなり大きな都市だった。アンコタで隣り合わせた女子学生にバンドゥンへのバス乗り場を教えてもらう。運転手もすぐに反応。バス乗り場にはバスステーションらしい施設はない。アンコタを降りるとすぐに「案内人」が寄ってきて、バンドゥン行きの(アンコタよりは大きい)ミニバスに案内される。バンドゥンまで15000ルピア。

バンドゥン市内に入って、バス運転手にどこに行くのかと聞かれる。「ホテル・イスタナ」といっても通じない。

困っていると、バスに同乗していたスカーフ(ジルバブ)をした女の人が早口の英語で話しかけてきて、道案内してくれるという。

その女の人と一緒に鉄道駅のような形をしたバスターミナルで降り、その構内にお金を払って入る。お金は女の人が何も言わずに払ってくれた。

そして、「ホテル・イスタナ」方面に行く市バスを見つけてくれて運転手に「ホテル・イスタナ」と言ってくれた。そこで女の人とは別れる。そこまでは良かった。

ところが、市バス運転手は「ホテル・イスタナ」をまったく理解しておらず、私にも変と思われるような遠くまで行ってしまう。「イスタナはまだか」と何度聞いても、もっと先だと前を指差すだけ。

バスの中で英語の出来そうな女子学生を見つけて聞いてみたが、ホテルイスタナは知らないという。

そんなことをしていると、隣のおばさんがインドネシア語で「クマナ・・・」(どこへ・・・)と聞いてきたので、「イスタナ」と言うと、車掌に「イスタナ」と言ってくれた。車掌はイスタナを知っていて、車内がちょっとした騒ぎになった。とっくに通り過ぎていることがわかった。

バスで行く目的地は、運転手にも車掌にも、周りの人にも言っておいた方がよさそうである。

なんとか「イスタナ」に着き、「スーパーデラックス」にチェックイン。絨毯が敷いてある部屋。30万ルピア。静かではある。

水は汚く、ホットシャワーは出る出ると言いながら出ない。絨毯もチリが目立ったので掃除をさせる。もちろんチップは必要である。

インドネシアでチップをケチるのはただの「くだらない人」だと思う。タイではない。なんでも安くあげることに価値があると考えて、少し高く取られたらすぐに「ボラレタ、ボラレタ」と騒ぐのは、毛唐ツーリズムの「野蛮人の土地での遊びのルール」から発した特殊文化である。

このあたりは食べるところが少ない。コンビニもないし、チパナスにたくさんあった雑貨薬局(ドラッグストア)もあまりない。屋台は日が暮れると店じまいをしてしまう。

仕方がないので、夕食はベーカリーRasa Cafeで菓子パンとコーヒーとデザート。3万7千ルピアほど。パンもコーヒーも悪くない味。とくにパン生地は日本のパンとあまり変わらない。

Rasa Cafeにはインドネシア料理もあるが、ナシゴレンのようなものに何万ルピアも払う気にはならない。屋台で7000ルピアぐらいで食べてもけっこううまいところがある。どっちみち、焼き飯。

11/23  

イスタナの(無料の)朝食は、ただのナシゴレンとコーヒーだった。ナシゴレンは屋台の方がうまい。

イスタナをチェックアウトし、ホテル・ナリパンに行ってみる。「ナリパンデラックス」など高い部屋しかない。高いだけで大通りに面してうるさく、それほどいい感じがしない。

結局またイスタナに舞い戻り、前日と同じ部屋(127)に入る。

この部屋は静かで広いが、ホットシャワーが出ない。フロントに交渉して晩にお湯が出る他の小さな部屋のシャワーを浴びさせてもらうことにする。このこともフロントのボスらしいその人が同意しただけで、夜の係りには伝わらないだろうとは思ったが、一応一番偉そうな人の同意を取っておく。

帰りの航空券をリコンファームしておこうと思い、フロントの女性にマレーシア航空のバンドゥン事務所の電話番号を聞く。ところが、その白痴女は、ただただ困ったような顔をして、女の子のように、知らないわからない、とインドネシア語で繰り返すばかり。

マレーシア航空のジャカルタ事務所の番号はわかっていたので、それを見せて、ジャカルタに電話をかけてくれ、と言って見ると、電話のトラブルでジャカルタにかけられないなどと見え透いたウソを言う。それじゃ公衆電話から自分でかけるからこの近くの公衆電話を教えてくれと言うと、バンドゥンからジャカルタへの電話はいまトラブルでつながらないのだ、などという。

この辺で私のいらいらはむくむくと募り、破壊的な衝動に駆られ始めた。こんなのを相手にしていても仕方がないのだが食い下がってみる。

だったら、バンドゥン市内ならかけられるんですね、ということで、バンドゥンのイエローページはないのかと聞くと、あると言って出してきた。それでマレーシア航空のバンドゥン事務所を調べてくれと頼んでもまったく動こうとせずニヤニヤしている。まったくの白痴。仕方がないので自分でイエローページを繰っていると、奥に居たらしいフロントボスが出てきてジャカルタにかけられるという。私の航空券を取ってまた奥に引き下がる。奥の電話でジャカルタに掛けてリコンファームもしたてくれたらしいが、この男も話がよく通じず、あまり信用できない。ジャカルタには電話がつながらないと言う話はどこから出てきたのか。フロントにおいてある電話は飾りなのだろうか。

ナリパンも似たようなものかもしれないが、ここはまったくホテルの機能を果たしていない。

電話を掛けた男はすぐに電話料金9000ルピアを請求してきたので、ひとまず後払いにさせた。チェックアウトのときにさらに交渉してタダにさせる。これはちょっと譲れなかった。チップは景気よく取るくせに細かいカネはよく計算してがめつく請求する。

このあとナリパンホテルの隣の旅行代理店にも行ってみた。最初からここにくればよかった。本当にリコンファームされているかどうかも心配だった。この代理店はマレーシア航空を扱っていなかったが、親切に地図を描いてマレーシア航空の事務所の場所を教えてくれた。アンコタで向かう。

マレーシア航空はJL, Sunda(ジャラン・スンダ)のYogyaデパートの近くにある。大きな看板を出していたのですぐにわかった。

アンコタ料金はナリパンから1500ルピア。正直に500ルピアの釣銭をくれた。

マレーシア航空の事務員はスッチー(女性客室乗務員のことである)と同じ制服を着ていて、トゥドゥンもつけていた。手早くパソコンを操作してすぐに紙を出し、チケットのケースにホッチキスでとめてくれた。

晩。予想通り、夜のフロント係には別室でシャワーを借りたいという話は伝わっていなかった。夜のフロントにも英語が少しだけ通じるものが一人だけいたが、基本的な単語の意味を知らないことが多く、何度説明してもこちらの言いたいことが伝わらない。

①自分の部屋のホットシャワーが壊れていて出ない、②他の部屋でシャワーを浴びたい、③その部屋のカギを貸してほしい。

この三つの意味を、私なりにわかりやすくひとつずつ説明する努力を続ける。やけくそな気分で続ける。

「ホットシャワーが壊れている」までは通じる。そうすると、すぐに修理しようかという話に流れる。それは昨日もやったこと。直った直った、出ている出ているといわれたが、何も直っていなかった。これをまたやらせてしまうと、とにかくのろい仕事につき合わされ結局何もできずにいい加減なところでごまかされて疲れるだけなので、ぜひとも避けなければならない。

なんでもいいから「他の部屋のカギを(貸して)くれ」というと、今度は私の部屋のカギを探し始める。そして「ない」という。私の部屋のカギは自分で持っていたのでフロントには当然ない。

この同じやり取りを、3回くらいまったく同じように続ける。それでも彼らは平気である。何度同じやり取りを繰り返したら、彼らが別の反応をするのか、何かに気づくなり、怒り出すなりするのか、私は興味があった。

きっと何か別のことを言っているのだろうと想像力を働かせるということがまったくない。率直に言って、本当に頭が悪いとしか言いようがないが、それでもニコニコしているだけ、同じく無能な上にシカメッツラのタイ人よりはマシかなと思った。

この国にも「ビジネスの精神」というものはないようだ。これが東南アジアの原風景なのだろうか。

東南アジアにはもともと「接客」の文化はないのかもしれない。これに比べると、ネパール人は(言葉がよく通じることもあるが、同じく言葉の通じるタイ人と比較しても)はるかにてきぱきとしていてよく働き、ビジネスの精神も接客文化もあるように思われた。(もっともしばらく行っていないのでそう思うだけかもしれない)。ネパール人は仮に言葉が通じなくても、相手の立場に立って頭を働かせるということをしてくれる。

マレーシアの新聞には、インドネシア人メードを雇った時のトラブルとして、テーブルの上を拭くことも掃除の仕方も知らなかった、というような例が挙げられていた。日本と比較することは無意味だが、マレーシア人の目から見てもかなりひどいのだろう。「白痴」にしか見えない人がホテルのフロントなどの仕事をしていることがあるのは確かである。(マレーシアにも「ただ座っているだけのマレー姉ちゃん」はいる)。

11/24 

ATMがないこと以外は、チパナスのほうが便利である。バンドゥンでは石鹸を買うにもスーパーマーケットまで行かなければならなかった。

ホテル・イスタナのすぐ近くにある小さなスーパーは、マレーシアのスーパーより洗練されていた。

マレーシアのスーパーで連想するものはただただ警備員である。その警備員が警察よりも偉そうにして入る客のみならず、前の歩道を歩く市民にも立ちはだかる。それだけでもうマレーシアのスーパーには入る気がしなくなる。スーパーに入るときには荷物を預けなければならない、それをちゃんと保管するのならまだしも歩道に面した外の棚に置くだけというところもある。パスポートやお金の入ったかばんも預けろといわれればひと悶着にならざるをえない。

もちろん白人客にはそんな要求はしない。中国人の犯罪が多いこともあるのだろうが、こういうときに白人と有色人種との扱いの違いが出るのは日本以外、世界共通のようである。近頃はますますその傾向が強まっているようである。「テロとの闘い」もあって、白人国では役人が「俺はレイシストだ」と開き直って堂々と人種差別をすることが認められる時代になっているので、今後ともこの傾向は強まることはあっても弱くなることはないだろう。

人種や民族はあまり交じり合わずに別々に滞在することのほうが、お互いにとって快適であるし、憎悪を抑制し、異質な文化への相互の尊敬を涵養するためにもかえって良いのである。現代では互いのことを知ることは「その気さえあれば」ほかにいくらでも方法があるだろう。

またマレー人は店内に入った客に露骨に付きまとい、万引きを監視する。

この点、バンドゥンのスーパーは洗練された接客をしていた。女の子が少しはなれた目立たないところにたってそっと見ている。

正直言って、「白痴」と「野蛮人」の集まりのようにも感じることもあるジャワだが、繊細な感受性を持っている人も多い。とくに若い女の子がそうである。

広いいレストランで、ウェイトレスが遠くにいても、こちらが何か要求しようとしてちょっと目配せすると敏感に察して向こうからやってくることが多かった。

カフェやレストランの接客はおおむね感じがよく(味も悪くない)、マレーシアより洗練されている感じがする。

客の注文をとるときに自分が馬鹿で聞き取れなくても「ハアア?」とシカメッツラをするのがタイ式接客で、タイの悪影響らしくマレーシアでもたまにそういうのに出くわすことがあるが、バンドゥンあたりでは私の見た限りそういうのはまったくなかった。つねにやわらかい接客である。

ナリパンホテル近辺の夜の屋台はかなり良心的。コピ・ヒタム1000ルピア。ナシゴレンは鶏肉入り6000ルピアと安い。鶏肉もよく血が抜けていて旨かった。卵、生野菜、せんべいもちゃんと乗ってくる。(ナシゴレンはナシゴレンなので、特に旨いとか不味いとかいうものではない。メダンの屋台では2口ぐらい食って気持ち悪くなったのもあったが)。バンドレックを出すコピ屋台もある。

ところが、この近辺の昼の屋台はぼるようである。時間帯によって出る屋台が変わる。

11/25

イスタナに連泊。予約があるといって追い出されそうになった。マレーシアなら素直に追い出されていたかもしれない。

ようやくのんびりしていたところで、また宿を探し歩くのが嫌だったので、まずは泣きつき、次に癇癪を起こして見せて、なんとか同じ部屋を継続する。

結構大きなホテルが本当に満室になることなんてあるのだろうか。

イスタナの近くのBakery & Cafe Rasaのパンはいつ行っても結構おいしい。日本のパンとほぼ同じような味。しかし、フィリングのほうは難しいようである。タイのコンビニに売っているニセ日本風パンよりはずっとおいしい。

白人風の顔のインドネシア人がよく来ている。毛唐か、嫌だな、と思ってみるとインドネシア人のようである。白いアラブ系なのかもしれないし、ポルトガルなどの混血なのかもしれない。ここは高い店なので、やはり白人系は金持ち階級なのだろう。

11/27    イスタナをチェックアウト。ルウィ・パンジャン(Leuwi Panjang)・バスステーションに向かう。

バンドゥンは一方通行の道が多いので、駅の近くの道まで歩いていき、そこで通りがかったルウィ・パンジャン行きの市バス(表示がある)をたたいて止めて乗る。

ルウィパンジャンでバスが車でかなり待たされる。バスに乗ってからも出発まで1時間ぐらい待つ。毎度のことだが、その間にもひっきりなしに物売り、乞食、ギターと太鼓のロックグループ、などが乗り込んできて昼寝などする暇はない。長距離バスが出発しても、市内を走っている間はずっと乗っていて演奏を続ける。帰りは別のバスで演奏をして帰るのだろうか。

バンドゥンからジャカルタまでのバス代は3万ルピア。

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チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その8

Cipanasでは、Pondok Mentariに3、4日いたほかは、ほとんど毎日、宿を変えていた。

・・・・Tirta Murta,Pursabari, Pusakaなど。

Pursabari(プルサバリ)という宿は、はじめ公共の宿かと思った。役所のようなフロントがあり、職員はそろいの制服を着ている。部屋は広いし、まあ清潔だが、宿代が高いわけではない。一泊10万ルピアくらい。

職員はほとんど英語が通じないが、聞いてみるとここは「パブリック」だという。てっきり、マレーシアの国営の宿のような公営の宿なのだと思った。しかし、あとでよく行くレストランの未亡人に聞いてみると、公営などではなく、たんにこの一体の有力な一族が経営しているだけだということだった。公私の観念がまだはっきり分離していないのかもしれない。

Pursabariは、悪党や売春婦の溜まり場のような広場の隣にある。夜更けなのに戸口に物売りが来て竹を鳴らす。

驚いたのは(公共施設だと思い込んでいたから驚いたのだが)、公共施設風の制服を来た職員が、夜中に部屋をノックし、「ノナ?ノナ?ノナは要りますか?」と注文を取りに来たこと。

特別に押し付けるわけでもなく、断るとすぐに行ってしまった。サービスとして親切心で、男一人の客の部屋に注文を聞いて回っていたようだ。ノナは「マッサージ」のことのようである。

Pursabariは見かけは立派なわりに壁が薄く隣の音が筒抜け。隣の人がマッサージを注文する様子も筒抜け。マッサージは時に変な声が出るもののようであった。

チェンガン(Ciengang、公衆浴場)の近くで小さな薬局をやっているきれいな奥さんは、ホテルPusakaの近くに住んでいた。けっこう立派なお屋敷だった。

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2006年12月 9日 (土)

「恋愛ツーリズム」はセックスツーリズムである

チパナスCipanasに滞在中によく食事をした英語が少し話せる若い未亡人のレストランの隣に、白塗り化粧の22歳の女の子がやっているレストランがあり、ときどきそっちにも行った。

この22歳の子は、この辺の女の子にしてはあまり上品とは言えず、かなりきわどいことも平気でしゃべる人だった。英語は片言。

最初は軽い子なのかとか、「別の仕事」もするのかなどと思ったが、まったく見当はずれのようだった。

あるとき彼女の恋人という人が店に来ていた。

精悍な顔立ちでで浅黒い肌の、日本女にももてそうな、感じのいい兵隊だった。男のほうも22歳。

私は当然のように、この厚化粧のあけすけな女と、精力に満ち溢れた兵隊の恋人とは、やることはしっかりやってるものだと思ったが、話を聞いてみると、やっていないし、結婚まではやらないという。それが当然であるという。

東南アジアは売春婦がいっぱいいるから一般の女性もやりまくっているだろうと考えるのは大変な誤りである。

タイはいざ知らず、イスラム圏はもとよりカンボジアなどでも、素人同士はたいへん潔癖で禁欲的なようである。

しかし、問題は男のほうである。

男はいくら立派な人でも、どんなムスリムでもミッショナリーでも、若いときはヤリたいものである。22歳のような盛りのときにやりたい気持ちを我慢するということはたいへんな苦行である。もちろん、多くの人がそれを乗り越えてきたのであり、ギリギリで我慢することもまた良い思い出になるかもしれない。

とはいえ、ギリギリはギリギリに他ならない。ヤレル可能性がまったくないのならいざ知らず、身近に女性がいてモラルで我慢するというのは大変だろう。

このようなギリギリな状況のところに、都合よく後を曳かない日本女が舞い込んで来たらどうなるだろうか。

股関節のゆるい日本女が、ギリギリのところを歩いている若い男の手をちょっと引き、パックンパックンと食べてしまう、ということはやろうと思えば実に簡単なことである。しかし、それをやったとき、現地女性たちがどういう感情を抱くか言うまでもない。

男にとってはこれ幸いなことであるし、外国人男が地元の女を漁っているというのでもない。

しかしこれは確実に、その土地の性に関する倫理規範を破壊し、人心を荒廃させる文化破壊行為である。非難の声をあげにくいだけさらにたちが悪い。

「買春」じゃないから悪いことじゃないとか、恋愛だから自由だとか、そのような理屈でアジア全土で男を食い歩いている日本女たちは、倫理規範破壊者であり「セックスツーリスト」以外の何者でもない。

「無料」で「合意」があるならどんな性行動ををしてもいいんだ、というのは戦後日本の一種のカルト宗教的ドグマである。ほとんどの社会はそういうモラルでは成り立っていない。

日本の旅行ガイドブック等は日本女性のセックスツーリズムに寛容なようである(「開放的な女性たちが」などという表現を見たことがある)。しかし、「恋愛ツーリズムはセックスツーリズムにほかならず、文化破壊行為である」ということを、私は強調しておきたいと思う。

もちろん、セックスツーリズムにいそしんでいる女性は日本人だけでなく、白人にも多い。カリブ海や西アフリカで相当派手にやってるそうである。

白人の恋愛ツーリズムの文化破壊性およびミッショナリー性についてはすでに述べた。→ジャワ島で

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チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その7

11・15  チェンガン(Ciengang、公衆浴場)の前の屋台で、バンドレック・スースー(Bandrek susu、コンデンスミルク入りバンドレック)を飲んでいると、屋台の番をしている若い男が英語で話しかけてきた。

英語を話す人はこのあたりでは珍しい。しかもかなり速く話せるようだった。

英語が話せる人がほとんどいない土地でかなりの英語を話す、そして何をしているかといえば、この小さな屋台の番をしている。このことだけでもこの男の性格はある程度規定されるだろう。それに気づくべきだった。アジアのいたるところで出会う下郎の一人だった。

私に「英語は話せるか」と聞いてくる。ここですかさず「No! Not at all!」と言うのが正しい答えだった。

私も少し、周りの人と言葉が通じない生活が続いていたことで孤立感を感じていたのかもしれない。

毎度おなじみのどうでもいい質問が続く。この男はまず、ただ英語を話したかっただけである。

そして私が日本人であることを確認する。ここからが彼らの勝負どころである。

「日本人よりは英語ができる」ことを確認するのがアジアのインテリのまず第一の慰めである。英語こそ成功の道、英語を覚えることが「教養」、と信じて英語をそれだけ覚えても、結局やっていることは公衆浴場の前のボロ屋台の番だとなればなおさらであろう。これは、より豊かな「アジア英語青年」にも多かれ少なかれ共通する感情であろう。

この男のなまった英語が1語聞き取れなかったのでそれを聞き返したところで、すかさずやってきた。

「お前は英語が話せないね。」とつめよってくる。

「アジア英語青年」のこの悲痛な叫びをこれまでに何度聞いただろうか。アジア各地で何人出会ったかわからない下郎、白人客相手にお茶汲みでもするほか能のない下衆たちの一人だった。

ええええ、確かに私は英会話は苦手。あまり話せない。

この男は、1年前に日本人ツーリストが来たと自慢げに言う。

日本人の知り合いがいることが自慢なのではもちろんなくて、鬱屈したアジア青年がこれを言う場合には、「俺は日本人の足元を知っているよ」という意思表示なのである。

おそらくその日本人が英語が苦手でそのことで卑屈に(「謙虚に」)構えていたのだろう。この卑屈さ(謙虚さ)は、日本人の作法のひとつでしかないのだが。

そこで私もちょっと気を引き締めて(私も気を引き締めると英語も少し話せるようになる)、「日本人ならこの村にはいつも来ているらしいよ。今も何人か来ているときいたし、泊まっているポンドクの人は一ヶ月前にも日本人が来たと言っていた。」とかなんとか、パッパッパと言ってみたら、たちまち通じなくなってしまった。「あんたは英語があまりできないね」と切り返してやったらやっぱり田舎の青年なのかオロオロして「自分の英語は中国系の英語だから・・・・」などと言い訳を始めた。

ちょっとムキになってしまったのは恥ずかしかったが、アジアのあらゆるところで出会うこの手の下郎はほんとにウザイ。

彼らは「日本人は英語ができない」ことを確認するためだけに、日本人に話しかけてくるのである。

このタイプのアジア人のネットリとした嫌らしさ、粘液的な表情や声、全身から染み出す日本(人)に対する嫉妬心は、アジア全土に共通のようである。インドネシアでははじめて見た。

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ネパール人の場合はもう少し端的に頭が悪かった。「日本人は英語ができない。だから、日本人は頭は良くない。日本人はたんに技術で金持ちになっているだけだ」などと、私に面と向かって言うチェトリ(クシャトリアに相当)がいた。(「技術」はカースト的に低い者の生業でもあるのだろう)。

彼らが滑稽なのは、「英語ができる」ことが「教養」であり「頭の良さ」である、と本気で信じていることである。

彼ら「アジア英語青年」の教養観は、漢文ができることが知のすべてであった李氏朝鮮の役人のようなものである。実際、彼らアジアエリートがどんなに教育を積んだとしても、彼らは、白人世界に対しては、李朝のシナに対する関係と同様の限界を越えることはできない。

タイは当然ながら事態はもっとひどい。タイでしか通用しないタイ英語がタイ人以外のアジア人に通じないときには無条件に「自分は英語ができるが彼らはできない」と思い込み、白人に通じないときには大いにへりくだり、自分の英語はまだまだだがそれでも白人に相手をしてもらえたことを喜ぶという猿振りである。彼らが自分は英語ができると思い込む根拠は、白人が相手をしてくれていて何とか通じているからというものでしかない。

タイは、「自分は英語を聞くのは80パーセントでき、話すのは70パーセントできる」なんて大笑いなセリフを白人を集めて本気で言うバカが掃いて捨てるほどいる国である。

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チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その6

マスジッドの近くの路地を歩くのは楽しい。

この辺はカトマンドゥの旧市街に似ていなくもない。ただしもっとこぎれいで、家畜はあまりおらず、深夜まであちこちで音楽がなり、不思議さと不健全さに満ちている。

マスジッド正面の路地に近代的な普通の住宅に見える安宿兼売春宿があり、路地を歩くとすぐに若いポンビキが寄ってきてそこに連れて行く。覗くのはタダだが、あらゆる意味で良い所とはいえない。

白人がうろつかないせいか、外国人を嫌う雰囲気はない。ちなみに(イスラム系)インドネシアでの買春で有名なアラブ人も見かけない。

ポンビキは悪所だけでなく、普通の安宿も紹介してくれる。悪所を見せた直後に、ごく普通の健全な宿につれていったりする。小さなデイパック一つ持っていても今夜の宿を探している観光客だと思われるようだ。

狭い一帯なのですぐにワルイヤツらとも顔見知りになってしまう。小さな何かをそっと手渡す若者・・・・

このような話題は、この健全なブログにはふさわしくないのだが、ネパールやインドでのガンジャやチョコをめぐる雰囲気はもっと明いものがあったのに、東南アジアのドラッグをめぐる雰囲気はどうしてこんなに陰湿で犯罪的なのだろうか、などと思ってしまった。もちろん「種類」が違い「毒性」が違い、法規制も違うということがあるのだろう。しかし、どうして「種類」の違いが出てくるのだろうか。おそらく、「目的」が違うからなのだろう。

カトマンドゥに最初に行ったころは、その辺の道端に腰を下ろしてなんとなく時間をつぶしているだけでも楽しかった。ここでもそれに似た時間のつぶし方ができなくはない。しかし、もっと騒がしく駆り立てるものがある。

マスジッドの正面の売春宿では、住み込みの若い売春婦が一人でフロントの番をしていることもある。私は時々立ち寄って、このニコニコとしたカワイイ売春婦と片言のインドネシア語でカネのかからない時間をつぶした。男の番人が帰って来るとコソコソ出て行くほかないのだが。

「名前は何」「歳はいくつ」「村はどこ」というようなフレーズばかり数カ国語でポンポン出てくるという現象は、好ましくないことである。

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2006年12月 8日 (金)

チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その5 Ciengang(チェンガン、公衆浴場)

チパナスでチェンガンCiengang(公衆浴場)を見つけてからは、毎日のようにそこに通うようになった。あまり清潔とはいえないが、表示によれば湯の温度は摂氏44.2度と高い。誰でも入れて無料。

これがけっこう癖になる。脚だけ入れていると熱くてたまらなくなるが、全身湯につかってしまうとそれほどでもない。子供が泳いだりして波が立つとまた痛いように熱い。

男女はもちろん別になっている。洗い場も別にあるが、そっちのほうは小便臭くて汚い。入浴はパンツをはいてはいるのが原則だが、全裸で入る若者もちらほらいた。

私が通っていたCiengangの場所は、Masjid Jamie At-Tamanのある路地をマスジッドを左手に見てまっすぐに歩き、突き当りを左に折れてしばらく歩くと左手にある。

チェンガンの近くにはコピやバッソの屋台が2,3出ている。

チェンガンの近くの薬局の若奥さんは臨月に見えたが、きれいな人だった。風呂上りはいつもそこでバンドレック(Bandrek)を淹れてもらって飲んだ。

チェンガンは、(ホテル)ポンドク・アジサカ(Pondok Ajisaka)からも近い。

ポンドク・アジサカはなんともおぞましいところだった。泊まったことはないが、一度部屋を見に行った。迎えてくれたのは、30年間売春婦を続けて50を過ぎてなお現役という感じの、バケモノ風のミニスカートのオバサンだった。

この人がこのポンドクのオーナーなのか管理人なのか専属売春婦なのか売春婦を束ねている人なのかはわからなかったが、村の若い売春婦たちを引き連れて歩いているのをよく見かけた。

ポンドク・アジサカ近辺は、得体の知れない安宿が密集し迷路のようになっている。隠微で猥雑な雰囲気が立ち込めた一角である。それでいてどこかちょっとおしゃれっぽい風味がなくもない。気力と体力と好奇心に自身のある若いツーリストならこういうところに沈没してドロドロになってみるのもいいのかもしれない。看板を出していないポンドクも多い。番人が誰もおらず部屋が開けっ放しになっている。覗いてみると、売春婦が3人4人集まって昼寝をしていることもある。幸い、こういうところでも毛唐は見なかった。

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チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その4

11/7  Nugrahaをチェックアウト。Nugrahaは部屋がみな道路に面していた。部屋が2階のせいで温泉の出が悪い。湯の出が悪いと浴槽がぬるくなる。

Cipta Rasaというところに移る。Cipta Rasaも一泊10万ルピア。

ロータリーの周りの店にも英語が通じる人は少ないが、カタコトの英語と日本語を話す31歳の「未亡人」がレストランをやっていた。スラッとした感じで、日によってはおしゃれで、店の中もキレイにしている。

コーヒー(コピ)をくれと言ったら、すぐに「コピ・コソンか」と聞いてきた。

「コピ・コソン」(砂糖なしブラックコーヒー)は、マレーシアでは通じる言葉だが、インドネシアでは普通あまり使わない言葉だと思う。バンドゥンでそう注文してみたが通じなかった。ローカルな店で砂糖なしコーヒーを出すところはない。

この人は日本人が「砂糖なしブラックコーヒー」が好きだということも知っていた。

インドネシアでもマレーシアでも、コーヒーを頼めば何か食うか聞かれるのが普通だが、風邪であまり食欲がないとか言ったらすぐに、お粥はどう、と言って作ってくれた。

もちろん商売だが、このお粥も日本人客の注文で作ったのが始まりだという。もっとも、長粒米のご飯を煮て地元の味をつけたもので、日本のおかゆとは別物である。

11/8  Cipta Rasaは平屋の長屋式バンガロー。昼間は静かだが、夜は静かになるときがない。この村のバンガローは大体そんな感じである。部屋の前に駐車場のあるところは、夜になると車やバイクの出入りが昼よりも激しくなる。

安い宿は隣の部屋の売春営業が忙しいところもある。みんな地元の人ばかりだが、売春婦が部屋を借りて、一晩中いろんな男が出入りするという形式のようである。もちろんポンビキがすべてセットするのだろう。安宿は当然ながら「マッサージ斡旋」がうるさい。宿代よりもこちらが本業かと思うくらい。「ノーナー、ノーナー、ノーナー・・・・」と最初は何のことかと思ったが、ノーナーというのは「女」という意味のようである。マレーシアに帰ってから、「ノナとワニタは同じ意味か?」と聞いてみたが、中国系の人に聞いたせいか、「ノナは知らない」ということだった。インドネシアだけ、あるいはジャワだけの言葉なのかもしれない。安宿の前を通るとそっと寄ってきて「スラトス、スラトス」とささやき、付きまとう男が居る。スラトスとは単に100のこと。スラトスリブーで10万(ルピア)。

Cipta Rasaはこの点に関しては健全で明るい清潔な宿だった。湯もよく出て温度も高い。

しかしちょっといいバンガローは、物売りがうるさくやってくる。

朝4時か5時くらいから、ローカルスナックの行商やバッソ売り(練り物と麺などの入った軽いスープ。練り物のことをBasoというらしい)が戸口に来て、かんかんと竹をたたいてしつこく合図する。

その前に午前4時ごろ大音響でモスクのアザーンが鳴るのだが、その音で起こされるということはなかった。

前述の「未亡人」のお姉ちゃんは日本人常連客をたくさんもっているようで、いろんな人の名前を出した。今も滞在しているという。しかし私は、この小さな温泉村でぜんぜん日本人を見ない。

彼女が以前バンドゥンの会社で働いていたときの同僚にも日本人がいたという。

彼女の一族はロータリーの近くに高級とはいえないが広大なバンガローを所有しているが、彼女自身はあまり金がありそうな感じではなかった。

そのバンガローはLebur Kuringというところ。ほかのところと同じような形式で駐車場が広い(つまり車出入りが激しい)。部屋の内装はあまりよくない。勧められて翌日一泊する。

Lebur Kuringは一晩だけでチェックアウトし、次にAsriという宿に入る。

そこはちょっと変なところだということがわかったので、その日のうちにMasjid At-Tamanのすぐ近くにあるPondok Mentariという看板も出していない宿に移った。ここはしばらく居られたが、ここもちょっと変なところだった。

Asriに移ったと「未亡人」の姉ちゃんに言ったとき、それだけでもう、旦那がハジャイに行ったのを知ったマレーシア女のような目つきで、私を見た。たしかにAsri周辺は、ことのほかチンピラの溜まり場のようだった。

Pondok Mentari(ポンドク・ムンターリー)は、家族経営で清潔な宿で、小間使いが二人いて毎日掃除してくれる。快適なときは快適だった。一泊50000ルピア。温泉もよく出る。

ただ、ここも私が探していたような静かな宿ではなかった。

安いだけに、地元の若い連中がラブホテル代わりに出入りする。一晩中起きていて(寝ていて?)複数の客を取る売春婦も泊まる。そのたびに扉の開け閉めがあり、車が入る庭はないがバイクが突っ込んで来る。この土地の人はそういうことにはまったく寛容である。すぐ近くにはマスジッド(モスク)がある。

ポンドク・ムンターリーは看板もないが、日本人ツーリストもよく来るらしい。小間使いの男のひとりがバックパッカーらしい若い日本人の名前を挙げる。すこし英語を話す方の男はバタムで働いていたと言っていた。そこで日本語も少し勉強したようだが話せない。

英語をまったく話さないほうの小間使いの男は、なんとも貧乏臭い風采の上がらない小男なのだが、妻が4人いることを自慢していた。自分の妻たちの住んでいる家々を指差す。

隣の部屋で売春婦が終夜営業した日、この小間使いに「ジャカルタからすごくいい女が来て隣に泊まるから(買わないか)」と熱心に誘われた。スラトスだという。私を会わせてくれたが・・・・・どこがいい女なのか、、、ただ色が白いだけのふやけたような厚化粧の女。街で見かける超かわいい女の子たちとは正反対のタイプだった。しかし、このタイプがインドネシアの庶民男性の憧れなのかもしれない。

売春婦が終夜営業して入れ替わり立ち代り男が出入りしても、聞こえてくるのはバイクの音、扉の開け閉めの音、ひっきりなしにしゃべる声ばかり。かんじんのアノ声はぜんぜん聞こえてこない。ちゃんとやっているのだろうかと思ってしまった。

チパナスはよほど村はずれに行っても静かなところはない。

この土地の人々は早朝から大音響でロックをかけることを好む。早朝大音響でロックをかけることは一種の儀礼のようであり、周囲の人々へのサービスまたは挨拶のようでさえある。しかし、趣のある伝統建築の家から大音響のロックが響いてくるのは残念である。

民俗音楽とか伝統音楽らしいものは私はついに聴かなかった。

それでも田園風景は美しい。ジャランジャランと称して狭い路地やあぜ道を歩き回っていたらお墓にたどり着いて、そこから先に進む道がなかった。

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チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その3

チパナスのロータリーには屋台とレストランとがある。バラックにペンキを塗ったほうがレストラン。(これは私が勝手につけた区別)。

11/6 屋台のインドネシア語しか話さない、超かわいい17歳の女の子と話をした。彼女はKota(ガルーの市街)の学校から帰ってきてここを手伝うので、夕方から顔を見せる。私はインドネシア語はほとんど出来ないので会話には難儀をする。この辺ではホテル(ロスメン)では「タオル」の一言が通じない。

この女の子も、日本人客がいっぱい来ると言う。知っている日本人がいるというので、なんとなく男の話だろうと思っていたら、ハルカ○○○○○という日本人女性の名前を出してきた。その人はインドネシア語がよく話せるようだ。

しかし、チパナスみたいな、ホテルのボーイはポンビキばかりで助平そうな男に満ち溢れた場所に女ひとりで来て大丈夫なのだろうか。タイのある白人が日本人女はどこにでも一人で行くとあきれたように話していたのを思い出す。

とにかくその超かわいい女の子はニコニコして、こちらがインドネシア語がわからないのもお構いなしにどんどん話しかけてくる。ほとんど何もわからないので、ただ相槌を打っている。

こういうかわいい女の子は性格も良くていつもニコニコしているのであって、「私だから」ニコニコしてくれているわけではないというという点が重要である。

(逆に言えば、タイ女のシカメッツラや仏頂面に出会ったからといってあなたが悪いわけではなく、ほとんどの場合はタイ人の精神の貧困の表現にすぎないのである)。

ともあれ、先達のおかげで、この町の日本人のイメージはたいへん良いと感じた。

超かわいい女の子に「どこに泊まっているの」「センディリ?(ひとり?)」など、あれこれ聞かれるのであるが、ここはタイではないので特別な意味はない。

女の子に、"I love you"は日本語でどう言うのと聞かれて困った。これまでもいろいろなところで聞かれ、いつも返答に困る問いである。

「それにあたる日本語はない」というのが正しいと思うのだが、わかり易いところで「好き」というと答えると、彼女はちょっと変な顔をして「『愛してる』じゃないの?」と聞き返してきた。もう誰かに聞いていたのだ。

こういう変な日本語が海外に流布していることを残念に思った。(ちなみに「ジキジキ」を日本語だと思っている人もアジア各地に多い)。

私はちょっとあせって「スキ」はコピとか友達とかなんにでも使えるが、「愛してる」は男と女のときに使う、とか身振り手振りでかなりいい加減な説明をした。何とか理解してもらえたようだ。しかし、「男と女の」を表現したときに、この辺のポンビキが「ジキジキ」を表すときにする手振りを使ってしまったのは失敗だったかもしれない。

レストランでインドネシアのテレビを見ていると、ルポルタージュのような番組をやっていて、若い白人男が小さなアジア人児童の手を引いて夜の街を歩いている姿を映し出していた。言葉がわからないので、それがどこの国のどこの町なのかもわからないし、状況もわからないが、大都会の繁華街のようだった。ジャカルタだろうか。映されていた白人は不良白人丸出しで、カメラに向かって開き直ったような態度で手を振っていた。その番組には、街にたむろする子供たちがたくさん出てきていたので、ストリートチルドレンの問題を取り上げた番組のようだった。

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バンドレック(Bandrek) バンドゥン

チパナスは標高が高いようである。バンドゥンからジャカルタにバスで帰ったときにはペットボトルが少しへこんでいた。バンドゥンで買ったペプソデントのチューブが、チパナスで使おうとしたときパンパンに膨らんでいたので「腐ったに違いない」と思って捨ててしまった。

そういうわけでチパナスは夜は冷える。昼は暑いし部屋の風呂場に常に温泉が湧き出しているので、バンガローの造りは「夏向き」になっている。あちこち隙間が作ってあって風通しが良い。蚊はそんなにいない。

昼と夜との温度差ですぐに風邪を引いてしまった。

そういうときに良いのがバンドレック(Bandrek)である。薬局でも売っているし、レストランでも出してくれる。

バンドレックは、要するに「黒糖の生姜湯」。「バンドレック・スースー」(コンデンスミルク入り)なんてのも屋台やレストランにある。どっちにしても、薬局で売っているパック入りの既製品をポットのお湯で溶くだけ。種類もいくつかある。

値段は薬局で1パケ1000ルピアほど。その場で淹れてもらうと1500ルピアとか。チパナスのロータリーのレストランなら3000から5000ルピア(スースー)。

バンドレックはバンドゥンにもある。ところがジャカルタにはまったくなかった。ジャカルタの薬局では「バンドレック」という名前も通じなかった。

バンドレックはバンドゥンの特産なのか?バンドゥン発だからバンドレックというのだろうか。

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2006年12月 7日 (木)

チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その2

チパナスにはずるずると20日近く滞在してしまった。両替屋もATMもないのは不便だったが、小さなドラッグストアで日用品は用意することが出来る。屋台も多く、いろいろな料理が食べられる。空気も良いので、その意味ではバンドゥンなどより居心地は良い。

しかし、問題は騒音である。(私の見た)ジャワ島はどこに行ってもうるさいのだが、ここは決して「ひなびた温泉村」ではない。

私は静かでリーズナブルな宿を探してほとんど毎日のように宿を変えたが、結局静かなところは一泊35万ルピアのホテルくらいだった。しかしこのホテルTirta Ganggaは、シーツや枕の洗剤の匂いが強烈で目が痛くなるほどだった。それがどうしても耐えられず、その日はほとんど一晩中屋台を回ったり、その辺に腰を下ろしたりしてすごした。

私の泊まった宿は覚えているところをあげると、Cipanas Indah, Cipta Bela, Nugraha, Cipta Rasa, Lebur Kuring, Tirta Murta, Asli, Pondk Mentari, Hotel Tirta Gangga, Pusaka など。PondokとHotel以外はロスメン。

チパナスの治安は良い。ただ、女性の単独行には向いていないかもしれない。強烈にスケベ丸出しのチンピラ風で優しくてしつこい男がうじゃうじゃといて(やるにしてもやらないにしても)眠る暇がないと思う。

チパナスはローカル色の強いリゾートで、地元の趣味に合わせてケバケバしいところもあるが、店の人たちは外国人ずれしていなくてとても感じが良い。

ロータリーの周りの小さなレストランが並んでいる前を通ると、一人で店をやっているらしいかわいい女の子が寄ってきて呼び込みをする。まるでお兄さんミルダケミルダケみたいな感じだが、もちろんただの食堂である。

そのとき客は私だけだったので、そのかわいい女の子は私の前に座り(これは日本では風営法の届出が必要な行為である)、どこから来たの、名前は、などいろいろ聞いてくる。ビールは飲まないかというので、「あなたはスンナか?」と聞いてみた。すると普通に「スンナ」(ムスリム)と答える。ここではあまり関係がないらしい。

しかし、こんな素敵な場所も、いったん毛唐が来てしまえばそれで終わりである。

幸いチパナス滞在中、白人はあまり見なかった。たまにガイドに連れられた小グループがホテルに泊まるくらい。

チパナスのレストラン街(屋台)も英語が少し話せる人が何人かいる。チパナスに来るまでの道のりでは英語はほとんど通じない。

バンドゥンのホテルですら、英語が通じる人はフロントにひとりかふたりいるだけで、ボーイはまったく英語が通じないことが多い。夜になると、英語が通じる人間は誰もいなくなるということも。

言葉(英語)が通じないということは、白人旅行者、とくに白人個人旅行者にとってはもっとも大きな問題である

彼らは世界中どこにいっても(母国語かそれに近い)英語が通じる、ということに慣れきった上で、海外旅行をしている。

日本人のように、「海外では言葉で不自由する」ということを前提に、それを覚悟して旅行の計画を立てているのではない。

そして白人は、相手の「場」に入って身振り手振りでコミュニケーションするということが出来ない。プライドが許さないのかもしれないが、そういうアナログな発想が出来ないのかもしれない。

実は白人は、身振り手振りや表情でのコミュニケーションが出来ない。

これを読む人は意外だと思うかもしれないが事実そうなのである。

白人が身振りや表情が豊かだという人が(とくに日本人に)いるが、それは単に「白人の身振り」「白人の表情」を上からドーンと押し付けているだけのことである。

すでに確立されている文化的な上下関係を前提に、周囲を従わせ、相手に「推測」を強要し、立ち回らせているだけである。

それはつまり文化的な上下関係が確立しているところで初めて機能する「言語」なのである。したがって、白人文化が浸透していないところでは、それはまったく機能せず役に立たない。

私は日本人なので、ただの一言も言葉が通じない場所を旅しても何とかしのいでいけると思う。世の中には、ただの一言も、たとえば、「ウォーター」も「マネー」も「ボーイ」も「マン」も、英語が通じないところが多い。

そういうわけで毛唐はあまり来なかった。

日本人客が多く来るらしい。知っている日本人客の名前を何人も上げる子もいる。しかし私は、20日近くの滞在中、日本人かもしれないと思う人はひとり見かけただけだった。

小さな村なのに、滞在中日本人に会うということもなかった。

私はなぜか近頃、どこに行っても日本人に会わなくなった。3,4年前はよく会った。それなりに楽しいこともあった。学生や買春オジサン、それなりに魅力的な女の子など。

ところが、このところまったく日本人に出会わなくなった。日本人だとわかる人を見ること自体が少なくなった。

夜になると外は肌寒くなるが、部屋の中は温泉のせいでむし暑い。プールでは夜遅くまで家族連れが遊んでいる。

夜は肌寒いといっても、昼間のクソ暑いうちから革ジャンなどを着て冬の格好をしているひとがこのあたりには妙に多い。

このロータリー近辺の人々はみんなチヤホヤしてくれる。女の子だけでなくおばさんも。

以前はこういうことがあると本当にうれしくて「旅の励み(?)」にもなっていた。しかし今は、地元の人にチヤホヤされてもなんだか素直に喜べないようになってしまった。

白人が同じようにチヤホヤされて調子こいている姿を、多く見すぎてしまった。自分がチヤホヤされることでローカル客などが面白くない気持ちになっていることは大いにありうる。

(今私がいるネット屋のマレー人姉ちゃんは、アフリカ系黒人客の「嫉妬」につねに神経を使っている。過敏なくらいに気を使っている。もうひとりの中国人姉ちゃんも、マレー姉ちゃんほどではないがけっこう気を使っている。

黒人客はいつもディスカウントを要求していて、「他の客は負けてもらっている」などと強く主張する。たしかに、私はよく使うので、すこし負けてもらうことがある。

マレー人姉ちゃんは、黒人客がいるときといないときとでは、私に対する態度がまったく違う。

中国人姉ちゃんは黒人客がいるときに私に対して強い口調で正規金額を請求したが、口で言った金額と実際に取った金額とが違っていた。

しかし、こういう感情を馬鹿にしてはいけない。人間はだいたいこんなようなものであると思う。人間の嫉妬をナメてはいけない)。

しかしながら、若い女の子がチヤホヤしてくれるということは時を越えてうれしいことである。

このあたり、少女のころの安達祐実とか、同じく国仲涼子みたいな女の子はざらにいる。

ある食堂の女の子がまたチヤホヤしてくれて、カタコトの日本語で話しかけてくるので、ちょっと皮肉交じりに「どこで覚えたの?バタム?」と聞いてみると、意外にもここで覚えたのだという。

日本人ツーリストがたくさん来るらしい。

食堂の女の子が、今日は日本人客が何人来たとか、今たくさん来ているとかいう。しかし私にはどれが日本人なのか区別がつかない。

日本人バックパッカーなどが来ていたら、一見して日本人とわかっただろう。

チパナスに来ているという日本人たちは、ツアー客やバックパッカーではなく、インドネシアに勤務している人などが多いのだろうか。

それ以外の人々も、タイ北部の町に吹き溜まっている薄汚い日本人オヤジたちと違い、毎日群れて、弱みを探りあい、足を引っぱりあうといった変態生活を好まない人たちなのかもしれない。

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チパナスCipanas (バンドゥン近郊の温泉) その1

バンドゥン鉄道駅に近いアンコタ(ミニバス)ステーションに行き、チチャフウム(Cicaheum)バスステーション行きのアンコタがあるかどうか聞く。このアンコタステーションには座るところもなく、汚くて空気が悪い。

バンドゥンの下町の汚さは格別のような気がした。デリーとかカトマンドゥと比較にならない。

バンドゥンの汚さは残飯生ゴミ的な汚さ。

結局、チチャフムへ行くアンコタはなく、その辺の人たちの指図に従って、通りでダムリのシティバス(1番)を拾う。

チチャフウムまでのシティバスはエアコンつきでいいバスだった。

チチャフウムに着いてバスを降りるとすぐに、役人の格好をした男になぜか金をせびられる。断るとそれで終わり。その辺の屋台で番をしている男もなぜか役人のような格好をしている。

チパナス方面に行くバスはすぐに見つかった。ミニバスのようなバスでシティバスより小さくエアコンもない。バスの中でチケットを買う。このバスはガルッGarut行き。

バスが停車するたびに物売りが乗り込んでくる。しかし、タイなどのバスのような物売り然とた物売りではない。

綿棒のパケを乗客にひとつずつ手渡していく人がいる。最初は日本のティッシュ配りかと錯覚したが、もちろんそうではない。すぐに回収に来る。それまでに買うかどうかを決めるというシステム。買う人もいる。

新聞も、コーランの章句を書いたプラスチックの板も、ちょっとした菓子も、なぜか「ベルト」も、このやり方で勝手に人のひざの上や腕の上に置いていき、回収していく。

ガルーGarutまでのバス代は10000ルピア。

1時間ほど走ってようやく町を出る。Hazeのせいか風景はかすんでいて空気もあまりよくならない。

当然のことだが山焼きによるスモッグは山のほうがひどかった。いったいにかすんでいる。スマトラとボルネオだけでなく、ジャワでもやっていたのだ。当たり前のことだが。マレーシアの新聞を読んでインドネシアの山焼きはスマトラとボルネオだけのように思い込んでいた。新聞や本だけ読んで何でもわかったつもりになるということは危険なことである。

山を焼く臭いのすることもある。焚き火とはぜんぜん違う臭いである。

教えられたところでバスを降り、チパナス行きのアンコタに乗り換える。アンコタで温泉町の突き当たりの屋台に毛の生えたようなレストランが立ち並んでいるロータリーまで行く。アンコタを降りるとホテルの客引きが寄ってくる。

ロータリー沿いの、Cipanas Indahというロスメンにチェックインする。「デラックスルーム」で一泊20万ルピア。

どの部屋も常にお湯が出ている。プールもあり。日曜で、子供連れがたくさん遊んでいる。プールもお湯。ぬるま湯だが入っている分には快適。

部屋の浴槽は栓をしない限りお湯が出続けている。ただしシャワーはない。

プールには服を着て入る。

水着を着ているのは小さな女の子ぐらい。それもレオタードのような短パンのワンピース。

コマネチ式の水着を着ている人はひとりもいない。男も、上は裸の人もいるが下は普通の半ズボンだったりする。私もTシャツを着てプールに入った。

このあとチパナスに20日近く滞在することになる。その間、毎日のように宿を変えた。

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バンドゥンBandung (往き) インドネシア

11/3 Primajasa社の「エアポートリムジン」バスで、スカルノ=ハッタ空港からバンドゥンに向かう。

バンドゥンに直行したのは、初めての大都会に入るのが少し怖かったからでもある。

バス代は6万ルピア。普通の長距離バスなら2,3万ルピアだと思う。しかし、スカルノハッタ空港から出るのはこういうのしかないようである。

400円程度のカネをケチって暑い中重い荷物を担いで彷徨するよりは、素直にこれに乗ったほうが良いと思った。私もケチりたい衝動に駆られることがあり、そういうときには暑い中何キロも彷徨することがある。

1時に出て、ちょうど4時ごろバンドゥン着。3時間しかかからない。

バンドゥンはバスから見る限りはこぎれいな町だった。

「エアポートリムジン」は、バスステーションには見えないきれいなコンプレックスの前に止まる。

そのコンプレックスのオープンカフェにひとり毛唐がいた。クズ白人丸出し。若ハゲで首が本当に赤い。Redneckとはこのこと。不必要に肌を露出してタバコ。毛唐はどんなに醜くても、アジアではオープンカフェに身をさらすことが本当に好きである。彼らはアジア人を観察対象としか見ていないので、「見られる」ということはそもそも念頭にない。

その辺の人にアンコタ(ミニバス)が出るところを聞いて回るが、要領を得ないのでタクシーに乗る。ホテルパレムに向かう。パレムは満室。近くの安宿Citra(チトラ)をのぞく。かなり上手な日本語を話す人がいた。しかし、9万ルピアでホットシャワーなしの薄暗い安宿。「1000円ぐらい」と説明していたが・・・。

アンコタを拾ってホテル・ニュー・ナリパンへ向かう。アンコタ代は3000ルピア。

バンドゥンのアンコタは特別「ボル」ということはない。1000ルピアくらいは高くなっていることがあるかもしれないが、そのくらいのカネはチップの範囲である。(ホテルのボーイでも1000ルピアではあまりいい顔をしない)。

アンコタが赤信号でちょっと停車する間に、新聞売りはまだしも、アンコタの狭い入り口で半身になってギターを弾き帽子を差し出す人がいる。ほんの10秒ぐらいの演奏である。

こういう沙汰が好きだという人には、ジャワはたまらなく楽しいところということになる。確かに上手だと思うのもいる。適当に太鼓をたたいてがなっている乞食とは違う。しかし、私はどっちも好きにはなれない。

「ニューナリパン」といってもホテル・ナリパンとしか看板は出していない。ジャラン・ナリパンという通り沿いにある。一番安い部屋が22万ルピアくらい。かなりしけた感じ。床がタイルばりの狭い部屋というのはあまり好きではない。結局、デラックスルームに入る。32万ルピアぐらい。ここもしけているが、いちおう絨毯が敷いてある。

ニューナリパンのあたりにはレストランが見当たらない。高いベーカリーカフェがあるくらい(しかしここRasaは悪くなかった)。ローカルレストランらしきものをまったく見ない。たまに焼き鳥の屋台がある。

ホテルニューナリパンは夜少し気持ちが悪い。金曜日の晩なのに泊まる人が少ない。

私が泊まった部屋は気持ちが悪かった。とても静かなのはいいのだが、部屋のあちこちからいろいろな音が聞こえてくる。夜は涼しいせいか、背中がゾクッとする。

11/4 近頃朝寝坊なのでたいていそうなるが、無料の朝食は捨てる。

午後2時過ぎにチェックアウト。ここは立派なホテルなのに、清算後レシートを出そうとしなかった。レシートをくれと頼むと、手打ちタイプライターで打ち始めた。手動タイプライターしか書類を作るものがないようである。うら若い女性が片手でバシバシと打っていた。

ロビーは落ち着いた雰囲気だった。これで手際さえ良ければ手動タイプもひとつの風情なのだが、そういうわけには行かず、時間がかかった。

ナリパンが用意したタクシーでホテルパレムに向かう。途中、幼い現地少女を連れて歩いている白人男を見かけたが、写真は撮れなかった。その少女はたいへん幼く見えたが、実年齢まではわからない。

進歩的で発展的な白人男の中には、インドネシアで遊ぶためにイスラム教に改宗するものもいるようだ。スカルノハッタ空港でも、長くひげを伸ばしたあきらかな西洋白人を見た。イスラム教に改宗しカネさえあればインドネシアで怖いものはないだろう。タイでも近頃はなかなか出来にくいような相当エグイ遊びも出来るはずである。現にアラブ人はジャカルタ近郊のある村にあつまり、数日、時に数時間で結婚と離婚を繰り返すということをしており、インドネシアの大臣が数ヶ月前にこれについて「何の問題もない。ツーリズム振興になる」と発言して物議をかもしたことがある。数日でも数時間でも、結婚・離婚のたびにウラマーやモスクにカネが落ちるということのようである。


ナリパンが呼んだタクシーはメーターだが、6000ルピアのところ10000ルピア札を出すと釣りを払おうとしない。理屈を言って10000ルピア取ろうとする。

10000ルピア札を取り返し荷物を持ってとにかく車から外に出る。

こういうときのために(どの国でも)荷物をタクシーのトランクに入れさせないことが大切である。

懲罰として一銭も払わずに逃げてやろうかとも思ったが(インド圏なら私もやりかねないが)、思い直し、ホテルパレムのフロントで両替してもらい6000ルピアだけ払う。

このタクシーは目的地に着いてもメーターを止めないので、もめている間にもメーターが上がっていたが、着いたときに表示された金額だけ払う。(良心的な運転手はメーターを止める。後に乗った「ブルーバードグループ」の運転手はとまるとすぐにメーターを止めた)。

ホテルパレムはこの日の満室。その後も毎日満室だった。ほとんど予約で埋まるらしい。昨日Citraの日本語の出来る人が教えてくれた、近くの「キングガーデン」という中国系のホテルのビジネスルーム16000ルピアに入る。中国系といってもタイの旅社はもちろんマレーシアの旅店・酒店とも趣が異なる。

土日は銀行だけでなく両替商も閉まってしまう。ATMだけがあいているが、クレジットカードやシティバンクのキャッシュカードが使えるところは少ない。PERMATAというところでは両方使えた。べチャ(リクシャ)で行く。

この国のリクシャは客席が前にあり運ちゃんが後ろから押す形になっているが、なぜそうなっているのかがわかった。排気ガスをもろに浴びるのをいくらかでも避けるためだろう。車道の車の中を走るので、前の席の方が排気ガスを浴びる。確かに一日中あれを浴びていたらすぐに体を壊すだろう。その代わりに客が排気ガスを浴びる。

「キングガーデン」の冷房はあまり効かない。通りに面していることもあり、一晩中うるさいし、空気もよくない。

バンドゥンといえばいうまでもなくバンドゥン会議のバンドゥンである。しかし私は、実はこのアジアアフリカ会議の話にさして興味がなく、その「遺跡」にもまったく訪れずに終わった。

健全で知的でまじめな旅行者たる私としては、初めてバンドゥンに来たからには、バンドゥン会議の復習をしなければならないのではないか、などと思ったことも事実である。しかし、このころかなり疲れていた。疲労は必ずしも過労から来るものでなく、周期的に表れるようである。

バンドゥンは「学園都市」だと聞いていたので、清潔で適当に近代的でネット屋などがたくさんあるのかと期待していた。学校の多いパッタニのように。しかしそういうわけにはいかなかった。

最初車から見たときはこぎれいに見えたバンドゥンの町だが、歩いてみたら相当汚い町だった。インドネシア全域を覆う山焼きによるスモッグのほかに車の排気ガスもひどい。

今日はネット屋にしつこく毛唐が来る。死にやがれ。タイから出てくるな!Rednecks Go back to Thailand!


駅の周辺などひどく汚い。メダンよりひどいかもしれない。どこまでも柔らかく不潔なバンドゥンの下町よりはメダンのほうがすがすがしさがあるように思う。

今までに見たインドネシアの町では、スマトラのドゥマイが天国のようにきれいだった。

マレーシアのコピ・オにあたる砂糖だけ入ったブラックコーヒーを、コピ・ヒタム(黒いコーヒー)という。

漉すものは使わず、挽いた豆の粉と砂糖をグラスに入れてその上から湯を注ぎかき混ぜるだけ。これがローカル標準。

一杯分の挽いた粉と砂糖を混ぜたパックも売られている。一見すると「ネスカフェ」や「コーヒーミックス」などインスタントコーヒーの袋かと思ってしまうが、そうではない。

屋台でコピ・ヒタムを注文するとそのパックをやぶって中身をグラスにいれポットのお湯を注いで出すだけ。コーヒーの粉が下に沈殿するのを待って飲まないと口の中が粉だらけになる。

ホテル・キングガーデンの近くに派出所があり、制服を着た警察官の溜まり場になっている屋台がある。そこから5、6メートル歩いたところにある路地の入り口にはいつもオヤジが立っていて、さかんに声をかけてくる。「ドゥア・ラトゥス・リブー」(2・100・1000)とか。

路地の奥に売春宿があるらしい。しかし、路地を覗く限りただの住宅地に見える。

呼び込みのオヤジは日本の刑事ドラマの脇役にでも出てきそうな怖い顔だった。それだけでも十分引いてしまう。この国ではきっと、女が客引きをすることは違法なのだろう。

ホテル・キングガーデンは、夜中までとおりの騒音がうるさいだけでなく、空気も大変悪い。人気のパレムはどうか知らないが、このあたりの宿は似たりよったりなのではないだろうか。

11/5 土曜の晩だったせいか早朝4時に目を覚ますとまだ表で人が騒いでいた。

午前9時半ごろ、ボーイがわざわざ無料の朝食の注文を取りにきてくれる。部屋まで持ってきてくれた(普通は、朝食は自分でカフェに行かなければそれで終わり。持ってこさせると朝食代がかかると思う)。注文といってもナシ(ご飯)かミー(麺)か、お茶かコーヒーかぐらいのこと。ミーはうまかった。

1時半ごろチェックアウト。チパナスを目指す。

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スカルノ=ハッタ国際空港 ジャカルタ

11/2 マレーシア航空でクアラルンプルからジャカルタへ。

KLIA(クアラルンプル国際空港)の第1ターミナル(?、店が少ない方)のレストランは最悪だったが、第2ターミナル(?、店が多い方)の接客は普通だったと思う。値段も普通に高かった。飛行機に乗る前には何杯もコーヒーを飲みたくなる。

搭乗口近くの椅子に座ってボーっとしていたら、いつの間にか出発時間ぎりぎりになっていて、ファイナルコールの後に名前を呼ばれてしまった。出発5分前ぐらいに搭乗。

機内は狭く、飯がたくさん出て食べるのがたいへんだった(帰りは同じマレーシア航空でもそんなに狭くなかった)。

午後4時ごろジャカルタ上空へ。マレーシアのHazeはこのところかなりよくなっていたが、ジャワ島はまだ少し煙っているようだった。

スカルノ=ハッタ空港の滑走路はかなりでこぼこで、田舎の空港という印象。

ジャカルタに下りたときは特別な匂いはなかった。少し薬臭い。国によってはその国の匂いがはっきり感じられることがある。たとえばネパールのトリブヴァン空港で飛行機のドアから出るとすぐに、またネパールに来たということをはっきりと実感する。

(ネパールでも強姦白人ミッショナリーの活動は活発なようで、少女の手を引いた白人をよく見るようになった。ボランティアとか孤児の世話とか調子のいい理由があると白人はどこまでも開き直る。今度写真を撮って来てここにあげる予定)。

ジャカルタに着いて気がついたのは、女の子が断然キレイなこと。マレーシアと同じようにスカーフをしている子でも、肌のつや、表情、まつ毛の長さ、目の輝きなどがまったく違う。笑顔がこぼれ落ちる感じ。

ようするにマレーシアのマレー姉ちゃんが仏頂面すぎるということ。

今回の目的地は一応バンドゥン。ジャカルタ市内で沈没してしまっても仕方がない。

ジャカルタからバンドゥンへ行く国内線飛行機はない。

市内に入りたくなかったので、高いが明日のリムジンバスの予約をする。空港から出て、バンドゥンまでは3時間ほど。値段はPrimajasaのバスで6万ルピア。普通の長距離バスの2倍くらい。

ビザは30日ビザで25ドル。100リンギちょうど。

入国し、空港内のトランジットホテルにチェックインする。一泊80USドル(720000ルピア)。部屋はマレーシアのホテルなら120リンギか150リンギくらい(30か40USドル)の水準。

ホテルには女子大生風の女の子の集団が来ている。スカーフをつけている子はほとんどいない。やや化粧が厚い。スカーフをつけていない女の子は化粧をしていないのでかえって肌がきれいに見える。

ジャカルタ時間はマレーシア時間より1時間遅れ、タイと同じ。

夜は、ホテルを出たところのフードコートで、23000ルピアくらいの食事。

通りがかる女性がみんないい女ばかりなので、すごい幻の国に来たような気がする。マレーシアはもとより、スマトラよりかなり上である。

ただたんに美しいだけでなく、やさしそうで語りかけるものがある。どの女性にも誘惑を受けているような錯覚に陥る。一人一人に自然について行っても良いような気がしてしまう。つまり女性が一人通りがかるたびに、ふらふらとついていきそうになってしまう。もっとも、本当にそれをやったらかなりヤバイことになるだろう。

インドネシアに残留した日本兵が、インドネシアに帰化しイスラム教に改宗して4人の妻を迎え何十人もの孫がいる・・・・という話があったが、決してとっぴなことではないように思われた。仏頂面女が4人もいたらたまらないが、この姉ちゃんたちなら4人くらいがんばれそうに思った。

毛唐は、空港やエアポートホテルには多くないが、いるやつらは相当程度の低そうな連中。やはりオランダ人が多いのだろう。彼らは長期にわたる最悪の植民地支配について「悪いことをした」とまったく思っていない。

その正当性の根拠は白人の優越性にある、という信念で固まっている。

この信念は、オランダ人のようなクズ白人ばかりでなく、アジア各地で、たとえばタイ北部で、キレイ事を言いながら、つまり手厳しくブッシュのアメリカを批判したりしながら、NPO活動やボランティア活動をしていたりする白人も、「アジア人に対する白人の優越性への確信」という点ではまったく同じである。

貧困地域でまじめにがんばって活動している白人、自己犠牲的に働いているように見える人ほど、「白人の優越性」への確信、アジアは白人が助けてやらなければならないという確信、白人が見ていてやらなければアジアはどんどん悪くなる(アメリカ帝国主義に侵食されるというのも含む)という確信はむしろ強く、心の支えになっているようである。

本当は白人が入って来ないことが長期的に見てアジアにとって一番良いことなのだが、このような偽善白人は、「弱いアジア・貧しいアジア」を探し求め、それをこよなく愛し、「強いアジア・豊かなアジア」を何よりも嫌悪する。

とにかく、オランダ人のようなクズ白人にはからまれると危険かもしれない。

空港に着いたとき、後ろから荷物のワゴンでぶつかってきた毛唐は、謝るどころか爬虫類のような目でにらみつけてきた。

他人の足に金属ワゴンをぶつけても、相手が有色人種なら平気なのである。むしろ、遅く歩いて邪魔をした有色人種のほうを非難の目で睨み付けるのである。この男の意識は完全に、ここは白人の植民地であるというものである。

世の中が良くならないのは、世界中に白人がのさばっているからであり、のさばらせているからである。この点を見落としてはいけない。

アジアの反日主義は、もともと白人が創作し日本の左翼や進歩主義マスコミに吹き込んだイデオロギーが、日本で膨らまされ、それが従属していたマルクス主義の凋落と同時期に、新市場を求めて中韓にわたったものである。中韓にご注進しなさいという策も、白人イデオロギー戦略家たちが日本の左翼、反日マスコミに示唆したものであると思われる。反日で東アジアを分断し、日本を「孤立」させて誰よりも得をするのは白人であることは明らかである。

ジャカルタは暑い。

しかしまたその「孤立」を恐れる必要もないのである。北朝鮮でも瀬戸際外交であれだけもっている。幸い日本は石油が出るわけでもない。隣国にこちらからせめて入ろうというわけでもない。日本との関係をまったくやめて大丈夫な国は少ないのではないだろうか。日本は金で「孤立」を買っていったほうが良いような気がする。

今後もしバブルが再来しそうなことがあったら、中国やアメリカとの間のイデオロギー的な問題を取り上げて過熱しそうな景気に水をかけてやれば良いのではないか。

11/3 無料の食事は朝9時まで。11時半ごろチェックアウト。1ドル9300ルピアで換算される。

ジャカルタのコーヒーはどこも薄い。スマトラと違いコクがなく、酸味が強い。マクドナルドのコーヒーの味もスマトラとはずいぶんと違う。

毛唐の数は多くないが、どうしようもないクズなかんじなのがチラホラいる。ガイドを連れた買春オヤジ風のも。

(毛唐はアジア人ガイドに恥じるということは一切ないので、ガイドに少女や処女を世話させるのは平気である。こういうことはタイ北部・東北部などで白人によって広範に行われている。)

毛唐の中には、私(アジア人ツーリスト)を見つけると30秒ぐらいジーっとにらみつけてくる者がいた。さすがにマレーシアではこういうのにはあまり出会わなかった。タイやネパールにはいっぱいいる。

アジア人が彼らと同じ立場のツーリストとして旅行していること自体が、彼らにとっては、理解しがたい不可思議なことなのであろう。

こういうときは、こちらも相手が目をそらすまでじっと凝視してやることにしているが、毛唐がこちらを人間だと思っていない場合、人間だと気づかない場合は、1分でも2分でもにらみつけてくることがある。実に彼らこそケダモノにほかならない。

バスは“Primajasa エアポートリムジン”。バンドゥンまで、6万ルピア。高いが、スカルノハッタ空港からはこういうのしかないようである。しかし、中が豪華というわけでもない。食べ物も出ない。乗客はほとんど地元の人。

バスを待っている間も空港周辺にはかわいい女の子たちがいっぱい通りがかる。ほんとにかわいいのだ。

この国にイスラムがなかったらえらいことになっていただろう。

かわいくて小柄で出るところはしっかり出たジーンズの似合う女の子が、歩きながら細い指で、自分の肛門のあたりをコチョコチョっと掻いて行く。まったく自然なしぐさであり、一瞬の出来事であった。肛門かその周辺が痒かったから掻いたのであろう。歩いていて痒かったからコチョコチョっと掻いたのだ。まったく何の問題もない。

なんてすばらしい一瞬だろう。お尻がきれいに引き上がっていて少し上向きに開くような形になっているので、腕を後ろに回して肛門を掻くことは物理的にも心理的にも簡単なのである。

午後4時ごろバンドゥンに着。

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2006年12月 3日 (日)

ジャカルタ行き航空券の購入 クアラルンプル

10/31 バンダラヤ駅(Bandaraya、スターラインでマスジッドジャメから一駅)近くのM.S.Starトラベルに行き、2日のジャカルタ行きチケットを買う。

M.S.Star Travelは、StarLRTのBandaraya駅を出て大通り沿い右方向に見えるWisma PKNSというコンプレックスの1階にある。

往復チケットを強く勧められる。(以前チケットを買うのに利用していたブキ・ビンタンのスンガイワンプラザにある安全旅遊〔Safety Travel〕は、どこに行くにでも片道航空券を喜んで売ってくれた)。

マレーシア航空のジャカルタ往復チケットは890リンギ、片道チケットでも850リンギくらいということなので、往復を買っておく。

TG(タイ航空)を勧められたが断った

この代理店にいるマレー系の女の子は、「白痴」のような反応しかしない人が多い。

受付の女性がずらっと横に並んでいて(いろいろな意味で玉石混淆)、どの人を選ぶかは客の勝手というシステムである。

マレー系の受付のところに行ってしまうとろくに話しも通じず、恐ろしくとろい仕事に付き合わされることになりかねない。

パンジャブ系だという、モデルのようなスタイルで端正な顔立ちの女の子が、わりとテキパキと親切に応対してくれた。(ムスリムではないと思う。トゥドゥンはもちろんしていないし、ヒンドゥ式の鼻ピアスをつけていた)。しかし電話が入ると仕事が中断し、電話がまた長い。

支払いはマレーシアリンギ。リンギが足りなかったので、近くのUnited Oversea Bankという銀行で両替する。時間はかかったがレートはよかった。一万円が314リンギほど。市中の両替屋だと(この時期)303リンギくらいだった(今もそのくらいだが)。

この代理店で、見せてもらった料金表では、(KL発)

カトマンドゥ(ロイヤルネパール航空)  片道  920リンギ  (往復だと1500リンギくらいだったと記憶する)

シエムレアプ(カンボジア)         往復  1300リンギ  片道800リンギ

など。 カトマンドゥ行きはTGならさらに安い。

途中、いかにも傲慢そうな白いアラブ系のオヤジが乗り込んできて、他の客の横から割り込もうとしていた。どの女の子にも完全に無視されていて、しばらくして何もせずに黙って出て行った。容姿だけでなく目つきや立ち居振る舞いまで毛唐そっくりだった。

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2006年12月 2日 (土)

ジャワ島で

ジャワ島で見たこと、思ったこと、あれこれ考えたこと。

私が今回見たジャワ島は、ジャカルタとバンドゥン、そしてバンドゥン近郊のチパナスという温泉村だけである。ジャカルタはほんの少しだけ、バンドゥンは少し見ただけだが、チパナスには2週間以上滞在した。

私が見たジャワ島にはジャワカレーがない。

グレ(Gule)という骨付きラム(Kambing)などが入ったココナッツミルク入りカレースープがあった。私が食べたのはラムだったのでケモノ臭かったが、チキンだったらもっとうまかったかもしれない。Sotoもカレー味に近いことがある(ただビーフンが入っていたりする)。

(日本で「スープカレー」などといって喜んでいるのは、外から見るとこっけいである。インド人の作るカレーは基本的に「スープ」だと思う。ダルやチャムが煮詰まってどろどろになることはあるが、最初からどろどろにするためにわざわざ小麦粉を入れるようなことはないのではないか?)。

インド人はたまに見るだけ、インド料理店は私は見なかった。「パダン(スマトラの町)料理」の店が、特徴的なスタイルとこぎれいな店構えと高い値段と澄ました接客でアピールしているが、見た目こぎれいな店でも猛烈にハエがたかってくることが多い。料理の作り置きをしているからのようである。

ジャワ島はどこまでも軟らかい。都会の汚いところの汚さは、湿気ていて本当に不潔感のある汚さだった。

ジャワ島の風土は私には肌が合わないかも知れないと思った。スマトラのほうが快適だった。スマトラはもっと硬質な、乾燥した感じがあった。

私が見た(以下同じ)ジャワ島は、女性がこの上なく魅力的なところだった。ジャワの女性はきれいでかわいくておだやかで、立ち居振る舞いも手足の先まで意識がよく通じているように感じられた。若い女の子はどこのお嬢さんかと思うようなやさしげな微笑をたたえた優雅な所作の子が多い。タイ女のツッケンドンな感じ、ポンポンとした所作、とは対照的。

とくにバンドゥン近郊の女性の所作には、手足までよく意識が通っている感じをうけた。これは女性を優雅にみせる重要な条件だと私は思う。ヴィパッサナ(仏教の基本的な修行:「観」「気づき」)は、タイにはまったく存在せず、イスラムに改宗したジャワには生きづいているのかもしれないと思った。

バンドゥン市内はそうでもないが、ガルッ、チパナスなど近郊になると、女の子の瞳が本当にキラキラと輝いている。星を描いても決してウソにはならないほどである。あの輝きはどこから来るのだろう。

本当にキラキラと光っているのである。日本人の瞳とは、「目の玉の出来」自体がまったく違うように感じられた。しかし、バンドゥン市内など都会になると(暗いわけでもないのに)この輝きが消えてしまうようなので、ますます不思議な現象である。

「どこそこにはいい女が多い」というと、ただちに買春ツーリズムだの女性蔑視だのと、あらゆる理由をつけて激しく論難するものが現れ、結局はそのヒステリックな声が優勢になって他を圧倒し黙らせるという言論環境が日本にはある。

日本には、何か立派な(ようするに左派的な)理論を装ったたんなる情動が、人々の低俗な感情をかき集め、優勢になれば事大主義に訴えて、彼らに対立する言論を封殺する風土がある。

このような風土がある限り、日本の本当の(「国境なき記者団」が発表するようなインチキではない)「言論の自由度」は高くはなりえない。

とかなんとか、難しげなことをこねまわしてみてもしかたがないので、はっきり言ってしまえば、そんなような難癖をつけているのは醜い女たちなのであり、あるいは、醜い女たちに政治的に媚びている連中なのである。

世の中には美しい女とそうでない女とがちゃんといる。

日本ではごまかされているが、バンドゥン近郊に行ってみればわかるだろう。

実に、日本ほど醜い女がのさばっている国は、アジアには少ないのではないか?醜い女はどこにでもいようが、醜いほどにいっそう偉そうにしている女が日本ほど多い国も少ないように思われる。すくなくとも私が旅している国にはそういう女は少ない。これも戦後の文化破壊の悲惨な帰結のひとつなのであろう。

ジャワの女性は一見して文句なく美しいことが多い。本当に魅力的である。日本の漫画に描いてあるとおりの瞳の星がキラキラと輝いている。

まるで生命の輝きそのものが瞳の中に見えているようである。これは否定しがたいことであり、この世に美しい人とそうでない人がいることも否定しがたい。

ところが不思議なことに、男のほうは、ヤクザかチンピラのような連中ばかりだった。

男たちはタバコと騒音が大好きである。ヤクザ風ならまだいいほうで、チンピラ以外の何者でもないような振る舞いと風体と容姿の者が非常に多かった。

ジャワ島の男の下品さはなんともいえない。なまじ豊かなせいか下品さが発酵して臭気を発しているような感じを受けた。カンボジア(ポイペトあたり)の男のほうが、突き抜けたスゴミのなかに、ある種の爽やかさがあったように思う。

本当に、同じ腹から生まれてくるのに男と女でどうしてこう極端に違うのかとても不思議である。

「無料」を口実に「恋愛」と称して開き直った醜悪なセックスツーリスト集団として、世界中の現地女性たちの顰蹙を買い、男たちの嘲笑の的になっている("yellow hole"など)日本人女性ツーリストたちも、このジャワの男たちとは遊ぶ気にはあまりならないかもしれないと思ったが・・・・

しかし、金を払えばセックスツーリズムだが「無料」なら何をやってもセックスツーリズムでないというのは変な理屈である。ある程度若い女ならセックスはどこでもだいたい無料で出来るのである。

私はまた「恋愛至上主義」にも疑問がある。「恋愛」には政治経済的な力関係がからむことは大人なら誰でも認めることだろう。私は、「恋愛ツーリズム」も「セックスツーリズム」に含めるべきではないかと思う。「恋愛ツーリズム」の意味については後にも述べる。

私が体験したジャワ島には「静かなところ」がほとんどなかった

静かなところでのんびりしたい人、ポカラに沈没するのが好きだという人にはジャワ島は向かないかもしれない

ジャワ人は音楽好きというより、騒音好きである。とにかく何かの音を立てることがサービスにもなると思っているようだ。音がないことが貧しさで、音があることが豊かさだと感じているようである。

工芸のセンスは良いようで、ホテルの内装など伝統的装飾が美しくいい雰囲気を出している。たとえばチパナスのティルタガンガとか。そんなホテルの雰囲気のいいロビーでも、巨大な日本製テレビのスイッチを入れてうるさくもてなしてくれる。

中級以上のホテルの部屋は、運がいいと静かになる。

マレーシアの新聞にも書いてあったが、インドネシアのホテルはマレーシアに比べると割高で、設備や環境もよくない。接客の愛想だけはいい。それも大切なことだが、絨毯がゴミだらけだったり、細かな配慮がいきとどかない。割と大きなホテルなのに電気掃除機がなく、絨毯を箒で掃除している。ルームメーキングをした後には必ずホッチキスの針が何本か絨毯の上に落ちているということもあった。そういうような細かいことで何か言っても、ティダッ・アパ・アパ(なんでもない)で終わりのことが多い。自分にとってなんでもなければ相手にとってもなんでもないという、東南アジア一円に広がる思想のようである。

温泉村・チパナスでも「シントー(神道)」がけっこう通じた

日本で「無宗教」の人は、外国で宗教を聞かれたときに「仏教」と答えてタイ人と同列にみなされるより、「神道」と答えたほうがいいかもしれない。(日本人である以上、主観的にどんな宗教に属していても「神道」を離れることは出来ないというのが私の考えである。これを離れたとき、ハレもケもケジメもなくなったとき、その人は日本人でなくなるのだろう)。

私は、マレー語でMandiというのは「ウンコ」のことだとばかり思っていたが、「水浴び」のことだったようである。(たしかにインドネシアの子供が川に入ってクソしている様子を見ると、クソするとは水浴びのことであると理解される)。

「ポカリスウェット」はここでもすっかり定着している。ブランドもデザインも日本とまったく同じ。

昔、「ポカリスウェット」を「正しくない」和製英語の代表のようにあげつらって糾弾していた英語屋がいたのを思い出す。「ブランド」の意味が理解できなかったようである。語学屋って本当に馬鹿が多い。

ジャワ島では本を読んでいる男を私は見なかった。

学校のテキストを見ている女子学生をときどき見ただけ。コーランの勉強をしている様子もジャワでは私は見なかった。

私が見たジャワ島には、敬虔なムスリムは少しはいるようだったが多くはなかった。ほとんどの住民は、アザーンがしつこく鳴り響いていても何の反応もせず、相変わらず、ポンビキ活動をしていたり、安宿の前で座り込んでタバコを吸いながら客待ちをしていたりする(チパナス)。

よりイスラム色の強いスマトラのメダンの屋台の姉ちゃんは、ムスリムはムスリムとしか結婚できないとはっきり言っていた。

ところがチパナスのレストランのある姉ちゃんは、ムスリム女性も改宗すれば日本人と結婚できるなどという。

ムスリムの棄教は大罪ではなかったか?そんなことを公言したら、石打の刑を受けてもおかしくないのではないか?

私はあせって、「ムスリムは改宗できないんだよ」と諭してしまった。

そんな風土である。しかもたまらなく魅力的な姉ちゃんたちがいっぱい。

10年若いときにここに来て、ドロドロに果てしなくのめり込んでぐにゃぐにゃになってみたかったと、いささか思わなくもない。しかし、ジャワの風土は私の肌にはどうしても合わないところがある。

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バンドゥンの鉄道駅周辺は、夜になると売春婦の溜まり場になる。どこの町でも、中央駅周辺というのは寂れていかがわしい雰囲気をかもし出すものではないだろうか。ホアランポーンを出すまでもなく。市内の便利なところで収容しやすい場所ということになるとどうしてもイワクつきの場所になるのかもしれない(イワクに関しては日本特有の事情かもしれないが)。たむろしている女性たちの多くは白塗りお化け系だが、中には若くて小柄で出るところは出て、浅黒い肌もつややかなお目々ぱっちりのかわいこちゃんも散見せられた。日本の買春オヤジがどうしてタイにばかりこだわるのか、ジャワに来ないのかは不思議である。彼らは結局白人セックスツーリストのやっていることを真似しているだけなのだろう。白人オヤジがバービアに行けばバービアに行きおしかけ、ゴーゴーバーに行けばゴーゴーバーに行き、白人がレンタルワイフ遊びをすれば同じようにレンタルワイフを雇いたがる(ただしバカンスの長さや人生設計の関係で白人のようには行かない)。

白人がインドネシアのイスラム地域にあまり来ないのは、彼らにとって宗教問題がわれわれが想像する以上に深刻なことであるだけでなく、インドネシアの一般国民の反欧米感情がわれわれが日本で聞かされている以上に根深いことを知っているからなのだろう。

日本の「個人旅行」や「バックパック旅行」は、白人ツーリズムのマネっこにすぎない。そのキーワードは「個人」であったり「放浪」であったりするが、「個人」(という言葉)に特別な魔法でもあるかのように思いなした日本「個人主義」者の白人礼賛と自国批判とが、それに理論めいたものを与え、何十年か前の「カトマンドゥ」や「カブール」の伝説が「放浪」のイメージを美化し、そのような文学的な処理を経て、そもそも内実などない「個人」の概念に内実めいたものを付与しているように思われる。

カトマンドゥやカブールの「伝説」は、当時1ドル360円で、格安航空券もなく、月給数万円だった日本では多くの日本人にとっては海外など夢のまた夢でごく少数の「エリート」以外経験していないため、それだけにいまなお有効性を持つようである。

しかしながら、日本人がマネっこしている白人ツーリズムの本源は、十字軍ツーリズム、大航海ツーリズム、植民役人ツーリズムであり、その実相はまず持って、レイプツーリズムにはじまり、幼女姦ツーリズム、人買い・児童買いツーリズム、すなわちゴーギャン鬼畜ツーリズムを基本とするものである。

ゴーギャンこそ児童ポルノのパイオニアである

このように、白人ツーリズムは「セックスツーリズム」と不可分である

しかし、この「セックス」は本国におけるセックスと同じではない。「隠されたもの」を暴き出し、「未踏の地」を白人の30センチのビブラムソールで踏みにじり踏破する。目に付いた処女の脚を開かせてその日常における処女膜の様態を確認し、さらにその断裂の様態をも観察する。これもまた人種分類をうちたてた白人人類学に属する。

重要なことは、これら一連の破壊行為が白人にとってはたんなるエネルギーの消費ではないということである。彼らは「野蛮人」の文化の収奪、有色人種の文明的なエネルギーの収奪という意味を持つようなシステムを確立した上で、この破壊行為に及んでいるのである

実際のところ、日本の「個人旅行者」、「バックパッカー」がやっていることは概ね白人ツーリズムがすでに踏み固めた場所をしつこく往来しているだけのことにすぎない。

ツーリズムは多かれ少なかれ伝統文化の破壊を将来するが、白人ツーリズムの特徴はやはりその宣教師的な性格、すなわち、熱心な「破壊+宣教」活動にある

つまり、白人(セックス)ツーリズムは、「破壊」であると同時に「宣教」もあるのである。それは次のようなシステムを持つ。

白人ツーリズムはセックスツーリズムと不可分であるだけでなく、「男女関係」にかんする規範の破壊を必ず将来し、旧来の規範に変わる新しい規範を強要する(恋愛ツーリズム)。

ところが、この「男女関係に関する規範」こそ、あらゆる伝統文化の「形」を維持する堤防なのであり、文化の要(かなめ)なのである

白人ツーリズムによって「男女関係に関する規範」を破壊された土地は、いわば堤防を壊された「輪中」部落のようなものである。

そこには何の歯止めもなくなり、新しい規範たる白人消費文化と(キリスト教を含む)白人イデオロギーとが無制限に流れ込むことになる。

このように、白人ツーリズムは、たんなる「恋愛ツーリズム」によってさえ、白人世界による非白人ローカル文化の破壊と宣教、その文化的なエネルギーの収奪の尖兵となり、その文化破壊と「新規範の注入」を敢行していくのである。

日本のツーリズムが、白人ツーリズムのマネッコをしているかぎり、日本のツーリズムはセックスツーリズムから離れることは出来ない。白人ツーリズムの動因は今も昔も「セックス」(これは「破壊と宣教」でもある)だからである。この点を十分に肝に銘じる必要があると思う。

そして「まったく同じこと」をしていたとしても(実はそうでさえないのだが)、120パーセント非難されるのは常に日本であことも忘れてはならない。

われわれは、白人ツーリズムのマネッコとして現れた「個人旅行」ツーリズム・「バックパッカー」ツーリズムを越えていかなければならない。

どう越えていくかについてはむずかしいが、今思いつくことでちょっとだけ言うと、「日本」を輸出することに気後れしないこと。「日本人宿」、「日本人街区」、「日本人専門店」などを再評価し、これらに新しい意味を与えていくこと。

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2006年11月28日 (火)

ジャカルタJakarta パサル・バルPasar Baru

今日しばらくぶりにインターネットのあるところにやってきました。

ネットにアクセスできないうちにまたニフティから期限付き閉鎖通知でも来ていて、とっくに閉鎖されているのではないかと不安でしたが、このブログもまだ健在のようです。

アクセス数も毎日書いていたときとほとんど変わらない。

要するにこのブログ、私、もう書いても書かなくてもアクセスは変わらないということのようです。

ジャカルタに来たといっても、わざわざ「ジャランジャクサ」に直行する必要はないです。

タイに行く若い日本人ツーリストはなぜカオサンに直行するのか。彼らのかなりの部分は、実は、白人に会いにタイに行くようでもある。一人で外国へ・白人と・英会話、できたもん!

ヤラセル日本女でなければ白人の方が迷惑していることをお忘れなく。

ジャカルタ、カンプン・ランブータン・バスターミナルから、17番の市バスでパサル・バルまで来て、「ホテル・アリア(Alia)・パサル・バル」にチェックイン。この間、毛唐は一人も見ない。

ここは厳格なムスリム宿で、「レディー」を連れ込まないようにと念を押される。インドネシア語と変な英語とアラビア語で、「未婚の異性の同宿を厳しく禁止します」という注意書きがあちこちにある。

スタンダードルーム21万ルピアほど(いま一ドル9000ルピア位)。

一台だけあった個室インターネットブースに自分持ちのウィンドウXPプロフェッショナルのCDで日本語IMEを入れて、日本語も書けるようにできました。日本の漫画喫茶みたいですが、椅子は一台だけ、女の子は連れ込めません。

パサル・バルは下町的ないい雰囲気の場所で、バンコクのカオサンにツーリストがいなかったらこんな風だったかもしれない、と思うような感じの場所。

ジャワ島は一度は行ってみる価値のあるところだと思いました。

私はジャワはどうしても肌が合わないところがあると思ったが、細かいことを気にしない、女好きの日本人オヤジなら楽しくて仕方がないと思う。

ここは最高に親日的。日本人なら相当カスなやつでもモテモテ間違いなし。私がそうだったから。

白人はとても少ない。

女性はとっても魅力的。

女目的の日本人オヤジがどうしてタイにばかりこだわってインドネシアに来ないのか、不思議な現象だと思う。タイ語を覚えてしまったから?

結局、彼らも、白人(セックス)ツーリズムが作ったルートをたどって、その枠の中でマネッコ遊びをしているだけなんでしょうね。

ジャワの日記は追々書いていきます。

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2006年9月30日 (土)

キリスト教徒の偽善・身勝手・わがまま インドネシアでのキリスト教徒処刑に抗議の声 - ローマ 

インドネシアでのキリスト教徒処刑に抗議の声 - ローマ 

当面の日米同盟には私も大いに賛成である。しかし、日米同盟に賛成だからといってアメリカが世界中でこれからも続けていくであろう「テロとの闘い」という名の反イスラム戦争に日本が付き合っていくことに賛成するわけではない。

あなたが白人ならそれもいいだろうが、日本がそんなのにずっと付き合って行って良い思いができるわけがない。そんなことを続けていれば、日本はいずれ捨石にされるだけである。

イギリスの植民地傭兵起用に典型的だが、属国にした有色民族を他の反抗的な有色民族にぶつけて双方弱体化させながら支配するというのが、白人の世界支配の基本戦略である。

今回の自衛隊イラク派遣にしても、「米国と絆が深まった」こと以外に日本の国益にとって足しになったことは何もないだろう。

そして、「米国との絆」ほどあてにならないものはない。

しょせんは毛唐である。米国にとって日本を切り捨てることぐらいわけはない。

日本を無にするためにこそ、米国は大東亜戦争を仕組み、日本を総力を挙げて叩きのめし、再起不能にしようとしたのである。このことを忘れるべきではない。

やたらフレンドリーに近づいて来て、当然のような顔をして話につき合わせ、得意げ自分がやっていると称する奇麗事を披露し、当然の権利のような顔をして他人から情報を引き出そうとするが、こちらが情報を取ろうするとうるさがって知らん顔をするというアメリカ人がいる。

本人は立派な(慈善)事業をしているつもりで、日本人などが彼を援助するのは当然のことくらいに思っているのである。

アメリカ白人は、「奇麗事を掲げるやつ」ほど信用できないものである。他方、「奇麗事を掲げない連中」は堂々とレンタルワイフを連れ歩き、幼女と同棲したりする。

もっとも、「幼女と同棲する」ような毛唐が「奇麗事」を言わないともかぎらない、というのが白人の怖いところである。

「幼女と悪いことをしたい」という欲望と、「奇麗事を言いちらし自分たちの文明の優位性を確認したい」という欲望とを同時に満たせる仕事がある。たとえば、タイ北部山岳民族の村などで活動するキリスト教ミッショナリーになることである。

また、私が一度だけチェンマイのゴーゴーバーに行ったとき、お立ち台にしがみつきながら、アラブ系の客をつかまえてイラク情勢を論じる白人を見た。スウェーデン人だと言っていたが、彼の主張はもちろんアメリカ批判である。

白人は買春しながらでも奇麗事を言える人種である。白人バーでいまで買ったばかりの売春婦を「ガールフレンド」だと称して開き直り、アジア人客の多い「マッサージパーラー」やカラオケを「人道非難」するようなことも平気でやる。

そして、このアメリカ人の身勝手な偽善体質は、「キリスト教白人の本性」にほかならない

そしてキリスト教こそ、今日の「白人」を作り上げ、鍛え上げた宗教なのであるから、「身勝手な偽善」は「キリスト教の本質」であるといわなければならないだろう。

http://www.actiblog.com/melakajournal/16668

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2006年9月12日 (火)

オーストラリア「英語教師」大活躍!Australian pedophile suspect dead【Pedophile Ring】

前記事にも関係しますが、読者から教えてもらったネタです。オーストラリア政府が直接関係する英語学校の教師の犯罪。

これもやっぱり性犯罪の前科者だったようです。

名前を変え、パスポートを偽造してまで「アジアで英語教師になりたい」小児性犯罪前科者白人がわんさといるということに注意すべき。

日本に来ている英語教師にも当然のごとく前科者が一杯いることでしょう。白人にとって「アジアは一つ」。

男児をたくさん虐待してポルノを作っていたとありますが、女児に何もしていなかったという証拠はない。(確かにインドネシアの男の子はかわいいんですけどね。日本のガキはかわいくないので、日本に来るやつはもっぱら女目当てだと思われます。)

http://www.theage.com.au/news/national/australian-pedophile-suspect-dead/2006/08/16/1155407884221.html

AN AUSTRALIAN man who has committed suicide in Indonesia is suspected to have been part of a pedophile ring linked to a language school established and supervised by the Australian Government.

Don Hancock died on Tuesday in Surabaya, where he was director of studies of the Indonesia Australia Language Foundation. He was found in a hotel room along with a quantity of pills. His door was locked from the inside.

Another employee of the foundation, Peter Smith, was arrested in Jakarta this month for allegedly molesting up to 50 boys and producing child pornography.

The affair looms as a diplomatic embarrassment. Australian officials were trying to distance themselves from the foundation yesterday.

The Indonesian police are widening their investigation into the alleged pedophile ring. Australian police are also believed to be examining the allegations.

The foundation's board, which includes two senior Australian public servants, has demanded chief executive Geoffrey Crewes ensure more thorough background checks are made on employees. Mr Crewes flew to Surabaya yesterday, where he refused to answer questions.

Investigators believe Smith was part of a pedophile ring involving several foreigners abusing young Indonesians and distributing child porn. Smith, formerly known as Ellis Eyre, was convicted in 1994 for molesting Aboriginal pupils at the Northern Territory school where he taught.

After his release, Eyre changed his name, was issued with a new passport and moved to Indonesia. A Foreign Affairs spokesman said the passport was issued because police had not alerted the department to the original offence.

Some of Smith's victims said a second Australian man called "Don" had also abused them. Initially police believed they were referring to Donald Storen, who was arrested on child molestation charges in Lombok last month.

However, Indonesian police now suspect that "Don" lived in Surabaya and was Mr Hancock.

Smith was an English language teacher for the foundation and had worked in Surabaya as well as Jakarta.

Sources said Mr Hancock, 55, from Sydney, had not died of natural causes. He had not been interviewed by police before his death.

Indonesian police last night said they had received a fax from Mr Hancock's family granting permission for an autopsy to determine the cause of death. They also said they were examining Mr Hancock's phone records for contacts with Mr Smith.

The charity group that took several street children to police with complaints about Smith said they were told five foreigners were part of the network.

The founder of the Jakarta Centre for Street Children, Andri Cahyadi, said one 12-year-old had told him that before he posed for Smith, he had met a man named Don, who took naked photos of him.

Asked about the pedophile investigation, an Australian embassy spokesman said that "we are making inquiries and have heard of a development in Surabaya".

Although the Australian embassy referred to the foundation as a sub-contractor to Australia's aid program, the foundation website says it is controlled by a board of Australian and Indonesian officials and was established under a memorandum of understanding between both governments.

The foundation says it is the largest language school in Indonesia, providing training to recipients of AusAID scholarships. Most students are mature age, but some courses are aimed at high school students and others are open to all ages.

Late yesterday a note on its website said the foundation was taking the allegations against Smith very seriously and had accepted his resignation.

Indonesian police said Smith had confessed to abusing and filming more than 50 local children, and suggested he was linked to a wider pedophile ring.

For assistance call Suicide Helpline Victoria on 1300 651 251 or Lifeline on 131 114.

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2006年8月 9日 (水)

オーストラリア人英語教師が児童買春・児童ポルノ作成で逮捕される ジャカルタ インドネシア

Imgp2318【NEW STRAITS TIMES 8月9日 JAKARTA】昨日のマスコミ報道によれば、ストリートチルドレンを性的に虐待しチャイルドポルノを作成していたオーストラリア人の男が警察に逮捕された。

Media Indonesiaの報道によれば、警察はその男が金をやる約束をして子供たちをジャカルタの自分の家に誘っていたとしている。男は英語教師として働いていたという。


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これも氷山の一角ですね。

普通の夜遊びをするにはタイが便利で安く、白人にとっては東南アジアでもっともハードルの低い国ですが、「特殊な遊び」を志向するプロフェッショナルな連中は何かと不便で危なっかしくてもインドネシアやフィリピンを目指すということです。

彼らはそういう国々で、白人ならではの十字軍精神、大航海精神、開拓精神、パイオニア精神、創造性等を存分に発揮しているようで、出来合いのお子様ランチしか食えない日本人買春オヤジなどにはまったく手の届かない事業を展開しているようです。

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少し前は涼しかったのに、ここ2,3日クアラルンプルも暑くなってきました。世界の熱波が伝わってきたのか。

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2006年8月 5日 (土)

「短期契約結婚」の咎でサウジ人を追放 インドネシア

Imgp2315 【ジャカルタ・ポスト】Bogorイミグレーションオフィスは、水曜日、短期結婚の目的で入国しビザを乱用したとして逮捕された7人のサウジアラビア人のうち5人を追放した。他の二人はまだ拘束されているが、その法的地位は明らかではない。

当局者によれば、この5人はツーリストビザで入国したにかかわらず、(悪名高い)Puncak resortで、当地でKawin Kontrakとして知られる短期の契約で女性と結婚したという。

入管の長官は、彼らの行為は、①インドネシアでは契約結婚は禁じられている――きっと彼らの母国でも同じだと思うんだけど・・・・、②ツーリストビザで入国したのに、ヴァケーションをしないで結婚したのはビザの乱用である、という二つの点で違法であるとする。

当局は引き続き、外国人による短期の性的関係を正当化するための地元女性との結婚を取り締まっていく予定である。(THE NEW STRAITS TIMES 8/5より)

関連記事:「サマー結婚」の問題

インドネシアの大臣が「ツーリズムの振興になる。何も悪いことはない」と放言して物議を醸したこの問題だが、取締当局は厳しい態度で望む姿勢を表明しているようである。背景には最近のインドネシアで、特に性的な問題がらみで保守的風潮あるいはイスラム主義が強まっていることがあると思われる。

これは良いことである。

スマトラでも、スカーフをしたムスリム女性を連れ歩く欧米系白人男を見かけた。当然「結婚」はしているのだろうが・・・・・

いったん思い切ってイスラム教に改宗しさえすれば、プロフェッショナルな買春白人にとってインドネシアは天国かもしれない。複数の妻を持つことはもちろん結婚=離婚を繰り返すことも簡単のようである。

アラブの伝統では、結婚は妻を買う形式をとるらしい。男が結婚するのはとにかく金がかかることなので、中年を過ぎた男がようやく金をためて10台の娘を妻にすることも珍しくなく疚しいとか恥ずかしいということでもないという。

もっとも、「金がかかる」というのは相対的なものだから、資産の格差が大きければ小さな金でも大金になるのは当然だろう。イスラム教という宗教的障害をいったん乗り越えてしまいさえすれば、多くの白人男性にとって、この環境は願ってもない条件になりうるものである。

多少の出費は惜しまず東南アジアにじっくり腰をすえて若い娘とのレンタルワイフ遊びに専念したいという白人男は非常に多く、実践者も多い。この点、日本には「バカンス」の伝統がないので日本人男は概ねそそくさなことしかできていないようである。

インドネシアでのアラブ人ツーリストの「短期結婚」(アラブ式レンタルワイフ)の背景には、地元イスラム法学者の小遣い稼ぎ、あるいは地元モスクの財源という側面もあるようだ。

仮に「3時間の結婚」(「真面目に結婚したけど3時間後に事情があって離婚した」というケース)であってもウラマーが介在しなければならず、当然、手数料かドーネーションかを取るということである。

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2006年7月26日 (水)

Indecency:ミス・インドネシアは「みだら」、イスラム急進派が苦情

告発の直接の理由はHer vulgar appearancesだが、ミスコンに出ること自体が、イスラム的なインドネシアの文化に反し、容認できないという主張のようである。

しかし私は、白人が土人売春婦に生ませた娘が「自国を代表する美女」と称してしゃしゃり出てくれば、イスラム教徒でなくても「国辱もの」と感じるのが自然な感性ではないかと思う。

仮に、この人個人がそのような場合に該当しなかったとしても、白人男と現地女との「毛唐×土人」売買春関係・「レンタルワイフ」関係・「孤児を生み捨て母方の親族が育てる」という関係が農山村にまで蔓延し、歴史的に定着さえしている東南アジアにおいては、「父が白人」という子供が「売春婦の子」「女奴隷の子」という社会的評価を受けるのはやむをえないことである。

そのような子供は、国家の汚辱ではあっても栄光ではありえない。

まして、何百年も白人に蹂躙されてきた国。

なお、このような関係を、このブログでは「土人売春」関係と呼んでおり、そのような関係が公然とまかり通り、事実上公認され、白人ツーリスト誘致の餌として保護されてさえいる国を「土人売春国家」と呼んでいる。そのような関係の当事者の女を「土人売春婦」と呼ぶ。

日本もこの「土人売春国家」の道を邁進しているのではないかと危惧する。

ミス日本は沖縄出身だったらしい。

沖縄人は日本からの独立を望んでいるとも聞くが、もし仮に沖縄が日本から独立したら、(中国にでも再併合してもらわない限り)「東南アジアの土人売春国家」への道をまっしぐらなのは、ほぼ間違いないだろう。あちこち終わってしまってちかごろ楽しくなくなったという毛唐は大喜びするはずである。「新・幻の国」「気に入った娘を屋外で自由にレイプできる国」なんて伝説も生まれるかもしれない。

国家の力が弱いということは多かれ少なかれそういうことを意味する。決して強い国とはいえない日本国にとっても他人事ではない。

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拡大写真

 7月25日、ミス・ユニバース・コンテストに出場したミス・インドネシアに、イスラム急進派組織が「みだら」だと苦情。18日撮影(2006年 ロイター/Sam Mircovich)
 
 [ジャカルタ 25日 ロイター] 23日行われた第55回ミス・ユニバース・コンテストに出場したミス・インドネシアが、イスラム急進派組織のイスラム擁護戦線(FPI)から、「みだら」だとして警察に苦情を申し出されたことが分かった。FPIの弁護士が25日、明らかにした。
 ミス・インドネシアのナディン・チャンドラウィナタさんは、世界大会での栄冠こそ逃したものの、インドネシア人とドイツ人の両親を持つエキゾチックな容姿などが話題になりインドネシア国内で多大な注目を集めた。
 FPIの弁護士はロイターに対し、チャンドラウィナタさんが同コンテストに出場し水着姿を見せたことは「インドネシアの品位とインドネシア人女性に対する侮辱だ」と語った。

(ロイター) - 7月26日15時33分更新






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Indonesia's Miss Universe contestant, who failed to win a title, may face indecency charges after a Muslim group here reported her to the police, a lawyer said yesterday.

The women's chapter of the Islamic Defenders Front(FPI) reported Miss Indonesia, Nadine Chandrawinata, to the Jakarta police over her appearance at the pageant, said Sugito who heads the front's legal counsel................................................

"Her vulgar appearances is an insult to Indonesian women," he said, adding that participation in the beauty pageant went against the culture of predominantly Islamic Indonesia......................(NEW STRAITS TIMES, 25 JULY 2006)

続きを読む "Indecency:ミス・インドネシアは「みだら」、イスラム急進派が苦情 "

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2006年7月25日 (火)

【写真】メダン スマトラ島 インドネシア

メダン(Medan,スマトラ島) インドネシア

白人のいる風景 メダン MARCH 2006 MEDAN(土人売春婦連れ毛唐写真)

メダンの夜。

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マスジッド
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廃墟。

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警官。やたら貫禄がある。この写真を撮ったら右の警官が敏感に気づいて寄ってきた。写真を見せておべんちゃらを言ったら放免された。
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「カトマンズ以下的」な歩道橋。
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コーヒー。粉と砂糖をコップに入れてお湯をかけただけ。
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レストラン。
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飯を食べているとよってくる猫。
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静物。
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2006年7月24日 (月)

【写真】バンダ・アチェ マスジッド

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バンダ・アチェのマスジッド。

ミナレットは津波で破損していたが、大変な荘厳さだった。

マスジッド内部。
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津波があたった?部分を修理中のミナレット。

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2006年7月23日 (日)

【写真】バンダ・アチェ マーケット

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

ホテルPrapatやメダン・ホテルの前のマーケット。

このあたりでも100人くらい死んだというが、今は普通の生活。

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Imgp0947Imgp0974マーケットの近くの時計塔           インターネット屋Imgp0948Imgp0949

ムスリムの女性には珍しく、写真を撮らせてくれた。

検閲により画像削除

真夜中の無人の街路を走り回る女の子。

検閲により画像削除

ストリートチルドレンではない。ストリートチルドレンは見なかった。路上に寝ているホームレスもいない。乞食もあまりいない。この子は人目を避けておしっこをしに行って走って帰るところだった。

その後マーケットで同じ女の子が寄ってきた。近くに両親が働いているので物乞いではない。私が女の子にもてることがわかる証拠である。

検閲により画像削除

コーヒーを淹れる兄ちゃん。

検閲により画像削除


マーケット夜景
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「イスカンダル」は人の名前だとか。
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メダンホテルとホテルPrapat
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銀行のATMも深夜までやっている。
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マーケットの地面に貝殻が目立つのは、もともとだろうか。それとも津波のせいか。
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バンダアチェのすばらしいコーヒー。みんな深夜までマーケットでこのコーヒーを飲んでいる。
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もう一杯。
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未検閲記事:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/25/

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【写真】バンダ・アチェ 船

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

立派な船が陸上に鎮座しているのは奇観である。

海辺でもなく、かなり奥まったところに大きな船が乗り上げている。

当然ながら、地元の観光名所にもなっていた。

建物の2階を圧し潰して乗り上がったままになっている船や、建物に突き刺さったような形になっているものもあった。

私が撮ったのはごく一部で、大小の船があちこちで座礁したままになっていた。いうまでもなく、すべて津波がもってきたものである。

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この船は美しかった。Imgp0980

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この船は小さいが姿勢がよい。
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これもよく乗っかっている。Imgp0987

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ちょっとしょぼい。
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ここが一番の観光名所になっていた。このあたりの陸上の船の中では一番巨大な船のようである。しかも、かなり内陸だった。ここに連れてこられたとき、そこにあるのが船であることにしばらく気づかなかった。あまり大きすぎるので、工場か倉庫か何かだと思っていた。この船の下には家が一軒丸ごと潰れたままになっているそうである。つまりこの船がたまたま水の引き具合でその家の上に鎮座することになったというわけである。
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誰が置いたかもわからない募金箱が並んでいる。募金箱がある船は多分ここだけ。 私も船を見て思わず厳粛な気分になり募金をしてしまった。大きな船の力であろう。いい商売かもしれない。
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記念撮影をする人たち。Imgp1017

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これもなかなかよくできた船であると思う。Imgp1024

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【写真】バンダ・アチェ タマン・トゥピ・ラオTaman Tepi Laut

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

タマン・トゥピ・ラオはインド洋津波で最も津波の勢力が強く、バンダ・アチェで最も被害の大きかった場所だという。

被害の後はまだ残っていたが、地元の人たちが水遊びを楽しんでいた。のどかな海水浴場という感じだった。

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タマン・トゥピ・ラオの立派なセメント工場。ここも津波にやられて動かなくなったらしい。
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2006年7月22日 (土)

【写真】バンダ・アチェ バラックとテント

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バラックとテント。

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【写真】バンダ・アチェ 痕跡

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

水溜りは津波でできたものだそうである。

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津波で削られた丘

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市内の建物。2階を中心に破壊されている。

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上の家はこのリキシャ運ちゃんが住んでいたところ。あちこちの津波名所を勝手に回ってくれて、あとで5万ルピア請求した。

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ここがこの運ちゃんの部屋だったという。本当かどうかわからないが。

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未検閲記事:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/24/

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【写真】バンダ・アチェ 美しい風景

バンダアチェの空港に降りたときの第一印象は、「景色が美しい」だった。

何もない広々とした平野は津波が作ったのだろうか。しかしおそらくもともと景色のいいところなのだと思う。

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

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2006年7月20日 (木)

白人のいる風景 メダン MARCH 2006 MEDAN

メダンは、殺伐とした町という印象だった。タイ国境に近いマレーシアのペナンからの便が便利ということからか、プカンバルではほとんど見なかった白人も結構いた。それも、くずの中のくず、擦り切れてぼろぼろのような毛唐が多かった。

メダン空港の国際線乗り場近くのレストランで 。飯の食い方から一見してタイ女とわかるレンタルワイフを連れたジジイ。

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↓バックパッカー風の身なりをさせたアジア女を連れ歩くのは若い毛唐に多い。

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白人にぜんぜん似ていない「児童」を連れ歩く白人男

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ユキ・シンパン・ラヤのボーリング場で。タイ売春婦を連れた「終わってる」連中。

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未検閲記事:http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-7.html

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2006年6月30日 (金)

「サマー結婚」の問題

「サマー結婚」(夏だけの結婚)という言葉は、以前、私が日本で愛読している産経新聞の国際面コラムで知ったものである。

あくまで白人の悪行を告発し、白人の正体を暴露することを柱のひとつとする当ブログとしては、白人の乱行を相対化する懼れの少しでもある情報は流したくないというのが本音である。しかし、面白い記事だったので紹介したい。

インドネシアにおけるアラブ人の「サマー結婚」(ここではquickieと表現されている)是か非かという問題。

インドネシア人は欧米白人は嫌いのようであるし、ポルノにも敏感でプレイボーイ発刊も大問題になる。しかしムスリムのアラブ人の色事には寛容なようだ。

(白人にはタイをはじめインドシナがある。アラブ人にはインドネシアがある。日本人には・・・・・?)

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NEW STRAITS TIMES JUNE30, 2006

インドネシアの副大統領がアラブ人の援助交際(即席結婚・離婚)を肯定

Indonesia's vice-president said he saw nothing wrong with Arab men paying local women to marry and then divorcing them days or hours later, and suggested the practice--dismissed by critics as legalised prostitution--could boust tourism......!

......Jusuf said many Arab tourists currently travlled to the hill town of Puncak near Jakarata to enter into short-term marriage contracts with Indonesian women.

"We need different kinds of marketing campaigns, more targeted. At the moment, most Arabs go to Puncak. If they go there looking for widows or divorcees, that is not our business. It is not a problem." He said at the conference on Wednesday.

"So what, if the man goes home, the lady gets a small house, that is good, isn't it?"............................

「もしもアラブ人が未亡人や離婚した女をさがしにいってるのなら何の問題もない」というが、実際はアラブ親父も若い子大好き、処女大好きなんだが。

女性人権活動家が、中年(25歳過ぎ)の寡婦との援助交際は多めに見るが、18歳以上でも処女買いは告発するということだと、こういう「フェミニズム」は撞着に陥らざるを得ないだろう。

人権主義的に見れば、45歳のおばさんの性的自由も、18歳の可憐な処女の性的自由も、同じく個人の尊厳性に発するものとして同等に尊重されなければならないはずである。(「人権主義」という言葉は、学校ではあまり使われないと思う。しかし私はあえて「人権主義」という言葉を使いたい。「人権主義者」は、人権は「普遍的」であるという立場をとり、「これが真理なのです、これがすべての人にとって正しい道なのです、啓蒙が必要なのです」、という議論をするので、彼らの論理からは彼らの主張が「主義」になる余地がない。しかし、実際はそれが彼らの「主義」にすぎないということは注意しなければならない。)

なお、児童買いが特に監視され制裁を受けるのは、子供は性的行為の意味の理解が不足しており当該行為に関する判断能力が未熟なため自由な選択が困難であることや、物理的・心理的拘束をうけやすいこと、早すぎる性行為によって心の傷を受け易くまたそれからの回復が困難であることなどによると説明されうるだろう。このような観点から考えてみると、心身の発育も早く12歳くらいから性行為に入る者が少なくない日本で、「児童」の定義を18歳未満としていることには疑問が残るということになる。したがってこの規制はもっぱら国際世論(「人身売買」非難など)を意識した政治的規制である。なお、欧米の日本に対する「人身売買」批判は単なるレイシズムによる偏見とそれを増幅する目的の反日宣伝に他ならない。現実には、タイ売春婦など、日本に行くのは難しいのでヨーロッパに行っているのが多い。ヨーロッパこそ歴史的に、性奴隷、人身売買の宗家なのである。

(なお、私としては、10代の処女よりも25歳の処女なんてのが日本にいたらかえって萌えるのではないかと個人的には思う。これは趣味の問題である。もちろん処女を強いられている方々は別である。)

いずれにしても、性的な問題は個人差が大きく、性的な思想も多様である、ということはよく押さえておく必要がある。これこそ個人の尊重に則する。だから個人の勝手なように野放しにせよというのではない。そのうえで、「社会として」何を規制すべきなのかを考えなければならないというのである。

売春および援助交際が非難されるのは、個人の人権云々よりも、まずもってそれが社会の倫理規範意識を害し、多くの人々に不快感を与えるからである。現実の結婚も多くは制度化された援助交際にほかならないが、それが大手を振って歩けるのは伝統的な倫理規範に合致していて、社会的に認知されているからである。だから結婚がいかがわしいというのではなく、だからこそ尊重されるべきなのである。

繰り返して言えば、中年のおばさんが売春を強いられるのも、判断能力のある10代の可憐な処女が売春を強いられるのも、それによって侵害される「人権」は等価でなければならない。それによって侵害される価値は、個人の尊厳という原則からは等価である。人権思想からはそういう結論にならなければならない。

しかしながら、私もまた、このインドネシア副大統領ほどではないにしても、男が未亡人や離婚した女を買いあさるのと、処女を買いあさるのとでは、まったく別のことだと思う。

もちろん処女買いの方が悪いに決まっている。

また、男女の人種が同じかどうかでも私の評価は変わるだろう。

この意識は、「人権」とかフェミニズムとかの原理によるものではもちろんない。むしろ、「常識」とか伝承的・社会的な倫理規範意識に発するものであると思う。そして私は、後者をより信頼している。

売買春は見ていてけがらわしいものであり、その横行はわれわれの社会倫理規範意識を侵害するものであるから当然規制を受けるべきである。とくに少女買いや処女買いは、その沙汰が「おぞましい」からこそ忌避される。

なぜわれわれが(処女買い・幼女買いなどを)「悪いこと」と強く感じるのかについてもうひとつ付け加えれば、そこには、男性なら誰もがといわずとも多くの男性が多少は興味をそそられる、あるいは「一度やってみたい」と思いかねない誘惑が潜んでいるから、という点を見逃してはならないと思う。女性たちもこの男性の興味を目ざとく見出し敏感に反応し嫌悪する。規範の侵犯の誘惑が常にあるからこそ侵犯に対する非難の感情も強くなる。(しかし、妄想することと実際やることとはまったく別のことであり、いったん冒してしまえばまったく別の世界に入ってしまうだろうということも、重要なことである。実際、かつてあった多くの社会でそういうことが盛んに行われてきたが(タイではほんの10年ちょっと前まで、カンボジアではつい最近まで)、歴史的に称揚されることなくようやく淘汰されつつあるというのが現実のようである。)

「援助交際は日本が起源」なんて妄想している人もなかにはいるようだが、まったくの見当違いである。

思えば、コーヒースコラ哲学Al-が頭につく文物など、白人自身が西洋固有のものだと思いこんでいるものに実際はアラブ起源(または由来)のものが多いように、白人が愛好する東南アジア女性とのレンタルワイフ契約買春もまた、もともとアラブ起源の文化なのかもしれない。

しかし、このようなアラブ人の即席結婚はこうしてトピックスにもなり、マスコミに批判的に取り上げられることもある。白人メディアでも取り上げられて「まあなんてひどいこと。イスラム社会の女性の人権問題」という感じで話のネタになるのだろう。

しかしながら、他方、欧米白人が東南アジアとくにインドシナ全域で、戦前はもとより戦後も一貫して大々的に展開しているところの「レンタルワイフ遊び」については、マスコミによって正面から取り上げられることも批判されることもない。

白人向けガイドブック「ロンリープラネット」も、「カラオケ」や「マッサージパーラー」(これらは粗暴で不潔な者が多い白人買春客を歓迎しないといわれる)については「性奴隷」的売春施設などとして手厳しくこき下ろすが、白人ツーリストおよび白人長期滞在者の「レンタルワイフ」調達先である「レッドネックバー」、「ゴーゴーバー」および英字フリーペーパーの露骨な白人男性限定「出会い系」広告等は一切批判しない。まるで白人は何もしていないかのようである。

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2006年5月15日 (月)

インドネシアで華人排斥「数千人デモ、投石も」

インドネシア人は欧米も嫌いだけど(英字紙にさえそうとわかる記事が載る)華人も嫌いだったんだね。結構なことである。けど、日本人旅行者も気をつけたほうが良いかも。

(記事)

インドネシア・スラウェシ島のマカッサル市で、華人を排斥する動きが強まっている。プリブミ(土着のインドネシア人)を殺害したとされる華人の男が精神に異常を来していたとして、警察は重い処分を見送る方針を発表。怒った学生ら数千人が10日、デモ行進し華人の商店に投石するなどした。15日付で仏山日報などが伝えた。

 この事件はマカッサル市で商店を営む華人の男がプリブミのメイド(20歳)を殴るなどして殺害したとされるもの。警察は男の精神鑑定を実施したが、責任能力を十分に問えないなどとして軽微な処分で臨む方針を明らかにした。

 これに反発した大学生ら約100人は9日、集会を開き「華人を一掃する」などと宣言。10日には数千人が参加して市内をデモ行進。中には華人の商店に投石したり、通りがかる車から華人を引きずり出したりするなどの行為に出るものも現れた。けが人は伝えられていないが、華人の商店は一時営業を休止するところも出始めた。

 13日はインドネシアで大規模な反華人暴動が発生してから8年目だったが、当日の様子は伝えられていない。

 インドネシアのカッラ副大統領は10日、住民に対して冷静に行動するよう呼びかけた。中国外交部の劉建超・報道官は12日、インドネシア政府に対して民族間の調和を促進し社会の安定をはかるよう要求した。なおマカッサル市では1997年にも華人を排斥する暴動が発生している。(編集担当:菅原大輔)

(サーチナ・中国情報局) - 5月15日12時17分更新

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2006年5月 9日 (火)

緒方貞子のヘッドスカーフ姿

テレビのニュースで見た緒方貞子のスカーフ姿を今になって思い出す。去年の夏にバンダ・アチェを視察したときのニュース。

髪と首をさらけだしたまま、頭の周りにだらしなくスカーフを巻きつけた姿。

あのおばさんは何のつもりであんな演出をしたのだろうか。

バンダ・アチェでも、ムスリム以外の女性(客家など)はスカーフをしていない。それは何の問題もない。もちろん毛唐女はNGOでも国連でもそんな間抜けなマネはしない。

緒方はムスリムなのか?しかし、ムスリムにしては掟やぶりのだらしなさだった。

ヘッドスカーフ姿(インドネシアではジルバップと言うそうだが、英語新聞にはヘッドスカーフと書いてある)を見慣れてくると、髪がはみ出していたり中途半端に首をさらけ出したりしているのがとてもだらしなく感じるようになる。そういうつけ方をしている人は少ない。

髪がはみ出さないように2重に被り物をし、首はしっかり覆って留め具でとめるのが普通。その上で、見栄えをよくするために、後ろのぶかぶかを留め金でとめたりする。

非ムスリムの日本人女がだらしなくスカーフをかぶった姿は、現地のムスリムにとっては、ガイジンがだらしなく着物を着て前をさらけたりしている姿が日本人にとって不快なのと同じだろう。

規範からはみ出しているところを誇示しているという意味で、いっそう売春婦らしく見えたかもしれない。

緒方はあれで現地に迎合したつもりなのだろうか。

勉強はできたのかもしれないが、本当に「知恵のない人」である。

そういう知恵のない連中ばかりが今の日本の「ブレーン」になっているようである。

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2006年4月18日 (火)

榊原英資著「食がわかれば世界経済がわかる」(文藝春秋)をクアラルンプールで読む

某月某日。

KLCCスリヤ伊勢丹の紀伊国屋で目立つところに置いてあった榊原英資「食がわかれば世界経済がわかる」(文藝春秋)という本をタイトルにつられて衝動買い。久しぶりの読書。

読書の遅い私でもアッという間に読んでしまえるほど内容のない本だった。50リンギも出したが、読んだあとは完全にゴミになった。

著者が、英米が世界経済を支配できた原因は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などではなくて、植民地支配により「食」の資源を押さえたからであるというのは正しい。また、彼らに植民地支配を可能にしたのはなによりも軍事力だったというのも正しい。スペイン・ポルトガルはもとより英米蘭仏においても植民地支配・経営の原動力はまずもって軍事力だった。

この本の悪いところは、これ以上の内容がないだけでなく、「アジア」についての誤った幻想を日本人向けにまき散らそうとしているところであるように思う。

著者は、「日本の大衆はどうせバカだから」と思ってバカな話をしているのか。それとも何か深慮遠謀があってバカのふりをしているのだろうか。

しかし、「日本は覇道を目指さず、王道を歩まなければならない」などという意味ありげな結論は、欧米の世界制覇の原因に関する考察とは不釣合いで、取ってつけたような印象を与え、やはり中国共産党に女を抱かされて念を押されてきた仕事のようにも思われる。

理由があってバカを装っているのでないとすると、この著者の頭の単純さに驚かされる。まるで高校生のようである。

こんなナイーヴな小僧が日本国の財務官をやっていたのである。アジアの何処に行っても「日本はテクノロジーベーリーグッド」としかいわれないことにも理由がありそうだ。「日本人は頭は良くない。勉強はできない。技術があるだけだ」とネパールの上流カーストの田舎者にいわれたことを思い出す。

この人に「アジア」なんかまったく見えていないのではないか。大蔵省の財務官を勤めるほどのエリートに必要なのは本を読んだりする力ではなくて、どんな手段によってでもいいから、ちゃんとモノが見えていることではないだろうか。

著者の恥ずかしい中国幻想は、中国共産党に女を抱かされたからばかりでもなく、本気のように見える。

この人は東南アジアをほとんど自分の目で見たことがないようだ。

インド観が貧しいというより、インドはほとんど著者の視野には入っていない。

東南アジアは、シナのみならず、インド抜きには一言も語れないはずなのだが、著者の東南アジアはインドもアラブも抜きである。

したがって著者の東南アジア観は必然的に、買春オヤジ的レベルの恥ずかしいものになる。「東南アジアの仏教国はたぶん親日的で日本人と肌が合うだろう」的な恥ずかしい妄想。

何より滑稽なのは(本気で書いているならだが)この人にとっては「一神教」の世界は「アジア」ではないらしいこと。ということは、イスラムは「アジア」ではないということになる。一神教に対する多神教(中国・タイ・日本など)という図式で、「多神教こそアジア的である」という。そしてこれからは多神教の時代だから「中国や」日本の出番だということらしい。

現実のアジアを素直に見渡せば、「アジア」はかなりイスラム的である。「アジア」の多くの地域はたいへん「イスラム的」である。ムスリムでない人々もイスラム教・イスラム文化の影響を強く受けている。

イスラムこそは、好むと好まざるとにかかわらず、「アジア」のもっとも有力な倫理システムであり、最も元気のある人的および情報金融のネットワークだと思うのだが、そういうことは榊原氏の目にはまったく見えていない。

「一神教はアジアではない」ということになると、中東・中央アジアはもちろん、東南アジアの大部分、インドのかなりの部分は「アジアではない」ということになるのではないか?

以上のことからわかるのは、この著者の「アジア」観は、「日本近代主義」的「アジア」観を反転させただけのもので、相当小便臭いものだということである

二元論的図式化はわかりやすくて便利だが、あらゆる図式的二元説はインチキである。この本に出てくる「ファーストフード」と「スローフード」、「アングロサクソン型」と「フランス・ラテン・中国型」、「覇道」と「王道」なども同じ。

「わかりやすくてインチキな理論」ということは「危険な理論」だということである。

そのほかにもこういう本のインチキな罠にはまらないために気をつけるべきなのは、当然のことだが、「中国」や「インド」を定義することはできないということ。

普通の日本人が想像している以上に多くのインド人がムスリムであること。

とくに、外国にいる活動的なインド人にはムスリムが多いようだ。外国で活動(商売)するにはムスリムのネットワークが有効だからだろう。

ヒンドゥ教のインド人は、ヒンドゥ(インド文化・精神世界・ヨガなど)を外人に売り込んで商売しているのでない限り、外国人などにあまり接したがらないのではないか?

東南アジアに多いタミル系インド人がヒンドゥだと決めてかかるのも間違い。私がこれまでにマレーシアで会話したタミル系インド人のほとんどはムスリムだった。私はタミル語もマレー語も話せないので英語の会話に乗ってくるような人に限定される。つまり、少しでも英語を話す、英語を話したがるような人ほどムスリムが多いということではないか?

ムスリムのタミル系インド人に「彼はタミルヒンドゥだ」といって紹介された人はとてもシャイで素朴な感じで英語など話そうとしない感じだった。つまり、英語を良く話せるような社交的で活動的な人ほどムスリムが多いように思う。改宗も進んでいるかもしれない。

ミャンマーでは、多くの中国人がイスラム教に改宗しているとパキスタン系(インド系)のイスラム教徒から聞いた(彼らが「パキスタン」と自称する場合バングラデシュがルーツという場合もあるようであり、またインドとパキスタンが分離する以前からミャンマーに来ている人たちもムスリムは「パキスタン系」を自称したがるようでもある。したがって、パキスタン系には「ムスリムのインド系」という以上の意味はないようにも見えた)。パキスタン系と中国系との混血のムスリムも多いようだった(ヤンゴンのインド人街で屋台を出している人に多かった)。

いずれにしても、イスラム教は昔から「アジア」を代表する宗教のひとつであり、いまアジアで一番元気な倫理システムでありネットワークである。これは著者の気に入ると否とにかかわらず現実だと思う。

イスラム教はキリスト教以上に普遍主義的な宗教だが、同時にたいへん「アジア」的な宗教であると思う。

「一神教=(砂漠の宗教)(肉食・放牧文化)=個人主義=反共同体的」、という日本人のイメージは戦前からの「日本近代主義」の産物で、根拠のない妄想のようである。イスラム教徒からは、イスラム教はオアシス都市の宗教であり、「砂漠の文化」とは対極にあるものと考えられているようである。

イスラム教徒にとって重要なのは「唯一神」をめぐる理論ではなく(そんなことは当然の前提だから議論にもならないのだろう)、イスラム法の下の「共同体」と「ネットワーク」であると思う。これらが「宗教の外」にある「世俗」なのではなく、まさに宗教の中にあるのがイスラム教の特徴のようだ。

最近テロがらみのマネーロンダリングで問題になるイスラム教徒の闇送金だが、たいへん便利なものらしく、盛んに行われているようである。

外国に送金して即日に現地通貨でお金を受け取れるという便利なシステム。

ネパール人の多くはヒンドゥー教徒か仏教徒か「両方」かで、中東出稼ぎやイラクがらみで反イスラム感情も強いが、さかんにこのシステムを利用しているようである。

たとえば、日本で不法就労しているネパール人がネパールの家族にお金を送りたいとき、日本側にいる業者に日本円でお金を渡せば、手数料を引いてその日のうちに家族がカトマンドゥでルピアの現金を受け取れるというすばらしく便利なシステム。両国にお金がプールされていて、メール一本で指定した相手にお金を渡しすように通知し、本人確認だけして現金を渡し、決済は後でまとめてやるということなのだろう。ようするにWestern Union Money Transferと同じ便利なシステムである。こういうネットワークがイスラム教徒のいるところには世界中に張り巡らされているのである。

ムスリムであるということは、観念的個人主義的な信仰告白ではなく、二人以上の保証人がいて特定のイスラムコミュニティに属し、最低限のイスラム法に従うよう促される人間関係の中にいるといういわば「身元保証」である。ポイントはその人間関係なのだと思う。

つまり「一神教」云々よりもこのイスラム共同体の国際的なネットワーク性のほうが現実には意味を持っているのだと思う。

「イスラム共同体」という一つの国際的大共同体があるのではなく、極端に言えば自分の属している地方的な小共同体からの推薦を受けるだけでも、はるかかなたの国の見知らぬムスリムに対しても身元保証になりうるようなネットワークがあるということだと思う。イスラム法の共有ということがこのことを可能にしているのだろうが、とにかくイスラム教にとって重要なのは、唯一神に対峙する実存的「個人」でなく「共同体」でありネットワークであり、「ルール」なのだと思う。

このように、イスラム教はたいへん「非西洋的」な、アジア的宗教といえると思う。また「イスラムを抜いたアジア」というのは、どうみても、客観的に存在する「現実のアジア」とはいえない。これは今に始まったことではない。日本人が最近まで注意を払ってこなかっただけである。

「アジア」は「東北アジア」だけではないし、「東北アジア」がアジア文化や「アジア的なもの」を代表すると考えていい理由はどこにもない。

榊原氏の「妄想のアジア」と「現実に存在するアジア」との間には大きなズレがあるように私には見える。

「食」に関していえば、現在東南アジアには、ハラール食品を「味で」非ムスリムにも売り込もうという動きがある。榊原の好きそうな「仏教国」タイも、ハラール食品産業を輸出産業として成功させて何とか金を稼げないものかと企んでいるのである。

実際ハラールの鶏肉を食べるとはっきりわかるが、血を完全に抜いてあるので血なまぐささがない。日本などのケンタッキーなら二つも食べれば気持ち悪くなるが、ハラールの鶏肉なら同じフライドチキンでも皮以外は非常にあっさりしていて、いくらでも食べられる感じがする。ハラール肉はいわば動物の「活け締め」である。

今後数十年のうちに、地球環境の変動やインド・中国の急速な経済発展に伴い、世界規模の食糧危機が訪れるといわれる。そうだとすると、食料が再び「資源」として、危機的に重要なものになるということであろう。白人はそれにそなえて着々と手を打っていて、欧米国際金融資本はこの危機を利用してさらに覇権を拡大しようと、ブラジルの原始林を今から買い占めたりもしているともいう。

そのような状況が目前に迫っているのに、日本のように食糧自給率の低い国がおフランスを気取って「文化」だ「王道」だとやっているのはまったく滑稽ではないか?

日本人は飢えないとしても高くて危険な食品を食べさせられ、金融的にますます白人に差をつけられてしまうだろう。

シンガポールのように商売だけで生きればいいだろうか?しかしシンガポールは日本人が考えるような「旦那国家」ではなく、そうとう鼻っ柱の強い国だと思う。アメリカに危険な食品を食えと言われて、はい食いますと頭を下げている国とはすこし違うと思う。日本がシンガポールのようになれるだろうか?それにシンガポールは、食料も鉱物資源も豊かな途上国に囲まれている。

やっぱり日本人は食料の豊かな国にもっと移民したほうがいいのではないか?

移民は戦前戦後の貧乏なときに行われたが、貧乏なときや切羽詰ったときに移民することのほうが難しいと思う。ゆとりのある今のうちにカネを持って移住する潮流を作ったほうがいいと思う。そのほうが日本国のブランド価値も下げないですむ。このことは大切なことである。

先日スマトラのドゥマイのこざっぱりした裏通りで、新しい家の庭にきれいなマンゴとナツメヤシがたわわに実っているのを見た。バナナやジャックフルーツやココナツが庭になっているのはタイでもよく見た。

来るべき世界食糧危機に際しては、ジャックフルーツはまずくて食えないしココナツは腹のたしにならないので、バナナとマンゴとナツメヤシが庭にいっぱい生えている所に住んでいることが重要になるのではないだろうか。

また、榊原氏に望みたいのは、テレビ番組に出る前には鼻毛をよく抜いて、鼻くそをしっかりほじくり出してから出ていただきたいということである。今日は鼻くそはたまっていませんということを気持ちで表現していただきたい。

スマトラでは、4歳くらいに見える男の子がまだ母乳を飲んでいるのを見た。その辺を駆けずり回ったり、しゃべったりもしているが、時々母親のところに行ってちゅうちゅうとやっている(その母親がまた、生殖活動などとうに卒業した歳に見えて、しっかり乳を出していたようである)。

奇異な光景に見えたが、ひょっとしたらこれは良い考えかもしれない。ガキにあれこれ食わせるためにいろんな食品を作るよりも、大人がしっかり食べて母乳を飲ませておくほうが、地球環境にはヤサシイやり方といえるであろう。

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2006年4月 8日 (土)

ムラカに戻る(マラッカ海峡) マレーシア

3月某日

午前中、ドゥマイのコンフォートホテルの先にある大きなフェリーチケット屋(Indomal Express,Malaysia Expressという看板のあるところ)に行き、ムラカ行き午後2時発のフェリーチケットを買う。チケット代15万ルピアとポートタックス1万ルピア。船はIndomal Express。フェリーは10時と2時。

12時にチケット屋の前からミニバス(無料)でジェティ(桟橋)へ。5、6分の距離。ジェティの待合室で待つ。ドゥマイの港は、港というより、税関とジェティがあるだけという感じ。イミグレは広い。

帰りのイミグレには、行きの時に見たすごい美人役人はいなかった。

午後2時の定時前に出航。客が全員乗ったのが確認できたからだろうか。

海が少し荒れていて、船のゆれが以前よりひどい。ここ2、3日ドゥマイでも強い風が吹いていた。不吉な「マラッカ海峡の旅」である。とはいっても、今回も何もなく、海賊も出ずに終わるのだが。客は今度もまばらだが、行きよりは少し多い。

2時間ちょっとでムラカに着く。フェリーの中のビデオで、日本のホラー映画(「着信あり」だと思う)の韓国語吹き替えを字幕でやっていた。字幕は中国語とマレー語。最初、韓国のパクリ映画かと思ったが、口の動きとせりふが合っていないし、着信音が「着信あり」だった。どうせ字幕でやるのならどうして日本語のオリジナルをやってくれないのかと思った。

ムラカの税関はけっこう仕事をしていた。一応かばんを開けさせられた。ちょっと見て終わりだったが。

行きに泊まったジェティから歩いて5分くらいのところにあるHotel Mesra Mutiaraに再びチェックイン。一応エアコン・ホットシャワー付50リンギ。料金表は60リンギ。

前来たときにいたスカーフをした18歳の可愛らしいマレー人の女の子はいなくなり、英語のまったく通じないおばさんと、英語は話すがぶっきらぼうでむさーい感じのいつも寝ていて不機嫌そうに出てくるマレー兄ちゃんしかいなかった。こんなことなら、向かいのきれいなホテルに泊まればよかったと思った。

ムラカに来たら涼しかった。

早速、Mesraの下のインドレストランで、ローティ・チャナイとテー・タリクの軽食。インド人らしいインド人を見るのも久しぶり。

最初はいんちき臭く感じていた薬くさいテー・タリクも懐かしい味になった。

どうしてインド人は、マレーシアにはたくさんいるのに、スマトラにはあまりいないのだろう。スマトラの小汚さやリクシャのしつこさのほうが「インド的」に思われるのだが、インド人らしいインド人はスマトラではあまり見なかった。逆に、こぎれいなマレーシアに多い。

マレーシアは実に清潔で快適だと思った。

スマトラではBusと書いてあったが、マレーシアはBas。

ムラカの町を歩いていると、Shirah's Guest Houseという宿があり、「ようこそ」という日本語の表示もでてたので、ちょっと覗いてみる。

カオサン風の寝るだけの窓なしの部屋で16リンギ。自宅応接間風のラウンジには若い毛唐がくつろいでいて主人たちと話していた。

毛唐に例外なく、異人種の侵入者をなめまわすように見、不躾なぎらぎらした目でにらみつけてくる。こういうのを英語でglareというのだそうである。あるアメリカ人が、なぜ白人はglareするのか説明してくれたことがある。彼によればguiltyと感じているからだそうである。しかし私は、そんな立派なものかどうか疑問である。

日本でも一泊6000円くらいのビジネスホテルをネットで探して泊まると、下のフロント周辺に毛唐がたむろしていて(なぜか彼らは、何もないところなのに無意味にタムロしたがるのである)、割り込んできた「アジア人ツーリスト」をすごい目でにらみつけてくることがある。

彼らにとってアジア旅行は擬似「植民地争奪戦」なのである。アジア人がスタッフとしてそこにいる限りは平気だが、同じツーリストの身分で割り込んでくるのが我慢ならないか、あるいは、理解できないのである。

一見擬似的ゲームのように見えながら、実は、白人ツーリズムこそ、白人たちが世界の隅々にまで「個人的に」乗り込んで行き、それぞれの地の文化や地域住民個々人の精神まで白人の文化と価値によって支配統合し管理しようとする、現代のソフトだがより悪質な植民地主義であるからにほかならない。

白人が主観的には「個人的に」やっていると思いこんでいる白人ツーリズムこそ、白人価値の宣教活動にほかならないのであり、彼らは現代的白人植民地主義のミッショナリーなのである。

宿の主人はインド系の混じった感じで愛想がよかったが、見ただけで礼を言って出てきた。そのあたりは、この価格帯のゲストハウスも何件かあるが、毛唐の多い一帯だった。彼らが好みそうなこじゃれたカフェやレストランが立ち並んでいる。

そのあたりがこの町の中心部のようだった。ジェティに近い私の宿のある辺りは寂れた一帯だった。ひなびたところで、設備はいい加減で料金は割高な、ローカルツーリスト向けの宿に泊まる。それもいいと思う。というよりこれが私の旅のスタイルになりつつある。毛唐の「アジアごっこ」「貧乏ごっこ」「『野蛮』ごっこ」のマネッコをしても意味がないという真理が、頭で理解されただけでなく、実践においても領得されつつあるということだろう。

Mesraの部屋にはエアコンのほかテレビもある。ローカル客向けの宿なのでこういうところがより重要になる。その分料金は、泊るだけの宿よりは当然高くなる。

マレーシアでは日本はJepunだが、インドネシアではJepangだった。gをちゃんと発音していた。

日本の政治ニュースは、マレーシアのテレビのほうがインドネシアより多く流されている感じがする。橋本元首相が中国の政治家に会いぺこぺこ頭を下げている姿が実に醜く映し出されていた。ああいう卑屈なそぶりをする人を外国であまり見ないような気がする。

マレーシアのインド人はタミル系が多いということだが、シャイな人が多いように思う。初対面の頃は仏頂面をしていて、怒っているのかと思うが、何度か顔をあわせているうちに、他の民族にはみられない(もちろん北インドではありえないだろう)ようなかんじで、やさしく接してくれる人が多い。インドレストランでも顔なじみになると、とくに話しかけてくるわけでもないし、何をしてくれるわけでもないが、本当にやさしい雰囲気で迎えてくれるようになる。

翌日。

ミニ・マーケットと呼ばれる新しいコンプレックスには毛唐が多い。アジア女連れのオヤジもいる。ミニマーケットのスターバックスは薄くてまずいうえに、スターバックスの味もしない。

クアラルンプールに向かう。Mesraはツーリストバスチケットのアレンジもしない。

長距離バスターミナルは離れていて、タクシーを雇うと15リンギ位する。バスターミナルまでのローカルバスは、MAHKOTAホテルの前に来る。

ローカルバスがなかなか来ないので、近くの駐車場の番人のおじさんに聞くと、何の利害もないのに本当に親切に教えてくれた。ローカルバスも外観は観光バスのようなので(たぶんお古)ツーリストバスだと思ってやり過ごしていた。

ローカルバスに15分くらい乗ってムラカの長距離バスターミナルに着く。かなり郊外にある。新しくて清潔で広く冷房も入っていて大きい。デパートのようなインフォメーションカウンターもある。

バスターミナルはDomesticとInterstateに分かれていて、KL行きはInterstate。

「トランスナショナル」のカウンターでチケットを買うために並んでいると、後ろから中国人のおばさんが英語で話しかけてきた。「ここはKL行きか」「お前はどこから来た」「私の娘も日本にいる」などとポンポンしゃべったかと思うと、平然と私を追い越して前に割り込み先にチケットを買って行ってしまった。中国人というのはこういうことをごく普通のことと思っているのだろう。

2時間ほどでKLプドゥラヤバスステーションに着く。

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マレーシアでは英語を話す人は本当に良く話す。シングリッシュとかではないきれいな英語を話す人も多い。しかし、英語を話さない人はほとんど話さないし、とくに話そうともしない。それでも、話しかけると親切に応対してくれることが多い。I don't speak English.とかいいながら、こちらの英語を聞いて意味を汲もうとしてくれる。

KLに向かうバスの中で、ほとんど初めて強烈なシングリッシュらしきものを聞いた。携帯で話している男の声だが、中国語以外の何者でもない発音発声だった。しかし、ときどきbeforeとか英語らしきものが混じる。よくよく聞いてみるとどうやら英語で話しているらしかった。

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ドゥマイに戻る(スマトラ島) インドネシア

3月某日

午後7時ごろ前と同じCity Hotelにチェックイン。デラックスルーム19万ルピア。たいしてデラックスではない。スーペリアルーム17万のほうがよかったが、コネクティングルームだったのでやめた(隣の人間が宴会をやる可能性がある)。

このホテルは鳥のさえずりの音を館内に流している。それがけっこううるさかったりする。

ドゥマイは国境の町のせいか、港町のいかがわしさを期待してか、マレーシアから毛唐も来るようだ。確かにマレーシアよりは「自由」でいかがわしいところかもしれない。

シティホテルにチェックインしているときに、汚いくたびれた毛唐が一人、カウンターに宿泊料金を聞きに来た。料金表を見てすぐに行ってしまった。「アカン」という顔だった。

行きの時にシティホテルのフロントにいた2枚目はいなくなっていた。色黒のぶすっとした中国人顔の男だけはまだいる。昼間は相変わらず、スカルノプトリが腹を壊したような顔のおばさんたちが座っている。

ここに「オフィス」を構えて売春営業していた彼女ももういなかった。彼女はメダンに行くと言っていたし、町を転々としながら仕事をしている人である。

翌日。

シティホテルをチェックアウトし、コンフォート・ホテルのスーペリアルルームに移る。22万ルピアくらい。デポジットを35万ルピア取られる。こちらのほうがサービスは洗練されている。

シティホテルは中国人客が多かった。マンダリンではないが、中国語をしゃべり盛んに携帯を使っているような連中。「ビジネスマン」?

ドゥマイではタイ人かと聞かれることがある。たいへんな侮辱だが、タイ人も多く来ているのだろう。

三日目。

コンフォートホテルのデラックスルームに移る。多少広い。27万ルピアくらい。しかし、コンフォートホテルは熱いお湯が出ない。ぬるま湯のみ。シティホテルは、デラックスルームは熱いお湯が出た。

夕方、フェリーチケット屋で番をしているスカーフとビジネススーツ姿の若い女の子が、歩道で2回パンパンと手をたたいてリクシャ(ベチャ)を呼んでいた。

これが下僕等の正しい呼び方なのだろう。

このことで思い出したのは、以前タイのチェンマイの「カフェ・ド・サヤーム」という新しい大きな喫茶店でのこと。店に入ってもウェイターがまったく反応しない。注文も取りに来ない。それどころか、後から入って来た白人客たちのところにヘコヘコ注文を聞きに行っている・・・・という、タイでよくある状況だった。むかついたので、私は、パンパンと強く2回手を打ってみた。すると、今まで私の存在にさえ気づかないふりをしていたウェイターが、電流が走ったかのように反応してこちらを向き直り、ハイハイという感じでニコニコしながら飛んできた。

手をたたいて下僕を呼ぶという振る舞いはエロ親父や腐敗した政治家などが料亭などでやることで、日本の古い(悪い)習慣の象徴のように教わってきたのではないかと思う。しかし、やはり、アジアではこのやり方が正しいのかもしれない。

アジア人の下僕がアジア人の主人に期待する正しい振る舞い方は、彼らが白人の主人に期待する態度とは違うのだろう。(下僕・主人という言葉に色をつけて見ないで欲しい。接待する側とされる側。傅く側と傅かれる側。ツーリズムの現場は現実にどこでもこの関係で成り立っている。接待する側のほうが威張っていることも多い)

三日目。

ドゥマイは横道に入るとこざっぱりした路地が多い。路地は清潔感がある(どぶもあるが)。中流という感じの、小さいながらこぎれいな家々が並ぶ。

油井と製油所があるので、やはり豊かな地域なのだろう。ここは物価が高いと現地の人も言っていたが、最初に来たときほど高いという感じはしなくなった。同じブラックコーヒーでも2000だったり5000だったりする。必ずぼる人と決してぼらない人がいるのがスマトラなのかもしれない。一見の外国人にはぼって、何度か顔を見せるうちにぼらなくなる人もいるようである。

しかし、スマトラの物価はそれほど安くない。タイのような安さはない。インドネシアは石油など天然資源の豊富な国だからだろう。しかし、タイの物価が「犯罪的に」安すぎることもあると思う。

タイは貧しい国とは言えず、「非常に」豊かな人々も少なくないにかかわらず、物価が安すぎる。タイの安すぎる物価は、ひとえに低賃金労働者層すなわち貧困層や無権利状態のマイノリティの搾取の上に成り立っている。すなわち農山村の貧困層や無権利状態の少数民族、タイ政府が公認している周辺国からの越境労働者のほとんどタダ働きに近いような労働の搾取である。

タイの物価は安い安いと大喜びし、こんなに安く上げたと自慢し、更なる安さを求める先進国ツーリストたちは、そのような搾取収奪の果実を享受しているにすぎないことを忘れてはいけないと思う。

(「オレは女に一日400バーツしかやっていない。しかも日割り勘定だ。どうだモテルだろう」と自慢している白人もいた。その女はアカ族の20歳くらいの子だった)

タイの少数民族や公認の越境労働者らは、低賃金によって搾取された上に「都市に住むためのパーミット」料や過重な課金によってタイ官憲によるさらなる直接の収奪を受ける。たとえば、メーサイで外で昼間働いている人の多くはミャンマー人で、合法的に入国している。タチレク-メーサイの越境就労許可料は、日帰りで数十バーツ(5時か6時までにはタチレクに帰らなければならない)、年間のパーミットで4000バーツ(04年に聞き取り)。4000バーツという金額は決して小さくない。

夜、フェリーチケット屋を回ってムラカまでの値段を聞く。コンフォーとホテルの向かって右となりにあるBatam Jetはヤクザのようで、ムラカまで片道29万とか法外な値段を言っていた。最初私になぜか「アメリカ人か」と聞き、「日本人だ」と答えると「日本人はだめだ」と訳のわからないことを言っていた。「日本語はだめだ」ということだったのか・・・英語で話していたのだが。

シティホテルの向かって左、何件目か言ったところの大きな代理店は15万ルピアだった。こちらで明朝買うことにする。来たとき80リンギだったから。帰りのほうが安い。

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プカンバルに戻る(スマトラ島) インドネシア

3月某日。メダン

8時ごろホテル・スマトラをチェックアウト。ちょうどそのとき若い毛唐が二人チェックインするところだった。ちょうど良かった。

来た道をそのまま戻っていく。ホテルからメダン空港までは近い。タクシーで2万ルピア。10時50分発のシュリーヴィジャヤ航空でプカンバルに向かう。ほぼ時間通りに離陸。シュリーヴィジャヤはロールパンと葉っぱに包んだ餅米と水が出る。

空港でものを買ったら「カムシャ」と言われた。客家の「ありがとう」は「感謝」らしい。客家は雰囲気が日本人に似ているので、客家と間違えられたのかもしれない。

フラヤホテルの同じ部屋にチェックイン。プカンバルの空港からエアポートタクシーに乗ったら4万ルピアもとられた。メーターだが、ちょっと高い。

27万ルピアのエグゼプティブルームに前回22万で泊まったことをチェックしてもらい。22万にしてもらった。

フラヤホテルに一組だけ来る「ジャカルタポスト」を見ると、欧米資本による鉱物資源や森林資源の収奪に対するインドネシア国民の抵抗運動が大きく取り上げられている。インドネシア国民の反欧米感情は日本人が考えるより強いのかもしれない。

深夜の散歩は長年の趣味だが、プカンバルの深夜は物騒である。メダンよりも危ない感じ。大通りを歩いているだけで、頭がおかしいのか正気なのかわからないようなのがからんできたりする。メダンの深夜は表通りを歩く限りは危険を感じなかった。

結局、今回私が見たスマトラで一番安全に感じたのはバンダ・アチェだった。一番清潔でもある。街で寝ている人もいなかった。

メダンでは警察や警備員をよく見たが、プカンバルでは見当たらない。道端に刃物のようなものをもって仁王立ちしている男がいたりする。こちらをにらみつけて通りがかるときに何か言ってくる。もちろん大きく迂回して歩く。

翌日。

行きのときに尽力してくれたフラヤホテル付設旅行代理店の男は今日も来ていない。

マスジッドの隣のレストランの兄ちゃんが、白い帽子をかぶりタータンチェックのロンジをはいてマスジッドから帰ってきた。金曜日だった。ロンジはすぐに変えてズボン姿になった。

市バスに乗る。大きいバスは1000ルピアだったり2000だったり。ミニバスは2000。ただしミニバスは行き先を指定すると(とくにホテルだったりすると)タクシー並み(20倍ぐらい)の金額を言ってくる。英語はまったく通じない。「バスステーション」も通じない。いろいろ乗り換えているうちにホテルの近くに来たので降りる。

メダンはスマトラ・ウタラ州(アチェはナングローアチェ)。北朝鮮は、「コレア・ウタラ」。ネパールでは「ウッタル・コリア」だった。どちらも梵語起源の言葉のよう。

ホテルの近所の時計屋で、Q&Qの腕時計を買う。208リブー(20万8千ルピア)のを、180リブーまで負けてもらった。マレーシア時間に合わせてもらう。しかし、この時計はGMT(ロンドン時間)をあわせてから「ホーム」を決めなければならない。マレーシア時間にあわせてくれと言ったら、店のかわいい女の子が基準時間をマレーシア時間に合わせてしまったのでGTMがマレーシア時間になってしまい、他の都市の時間が全部おかしくなってしまった。あとで全部やり直す。「ホンコン」のところを「KULに書き換えて「ホーム」に指定する。この時計の仕組みを理解するのに何時間かかかった。

店で女の子に時計を合わせてもらっている間、このかわいい女の子の小さい体に似ずふっくらと「ティンバル果のように盛りあがった」おっぱいと、柔らかそうな腰のあたりを、今すぐこの場所でまさぐり、なでまわし、なぶりまわしたい、という強烈な衝動に襲われた。しかし、私は猛然とその悪に立ち向かい、ついに勝利を収めたのである。それ以来私はこの時計屋のある場所を「ジャヤカルタ」と呼んでいる。

昼間、ミニバスを乗り換えながらうろうろしていたとき、あるミニバスで運転手と車掌とが喧嘩を始めた。殴り合いにまではならなかったが、助手席に座った車掌がなぜか突然シャツを脱ぎ捨て、上半身裸になって怒っていた。シャツはまたすぐに着た。5000ルピア札をダッシュボードにたたきつけたりいろいろ変わった行動をしていた。ここの人たちは、怒るとシャツを脱ぐのだろうか。

途中で乗ってきたおばさんが喧嘩を見てしかめっ面をしていたが、その顔のほうが私は喧嘩よりも怖かった。気持ち悪いおばさんだった。インドネシアのおばさんは実に恐ろしい顔をしていることがある。あのかわいい女の子も年を食うとあんなふうになるのか・・・・なんてことは考えても仕方のないことなのだろう。

昼、「ケン」という中国人の種族の人のみせで鶏肉ビーフンを食べた。行きにも入ったことのある店。この人によれば「カムシャ」は「ホッケン」語だそうである。「ケン」では、ありがとうは「トーチャ」というそうだ。「ケン」とは何か。よくわからない。客家みたいにやわらかい雰囲気の人だった。奥さんは華やかな明るい感じのインドネシア人。

三日目。

大通りの向かいにある立派なモールにはじめて入る。その一角は新しいスーパーかデパートのようなコンプレックスが立ち並んでいる。そのひとつでようやく、甘くないコーヒーを飲める店を見つける。Plaza SenapelanのRestaurant Plazaにエスプレッソがある。味は結構良い。California Fried Chickenはブラックコーヒーがない。

今日は土曜のせいか中国人客らしい連中が大挙してホテルに来ている。フラヤホテルは中国人経営だとか。しかし、部屋にいるかぎりそれほどうるさくはない。私は、プカンバルのような「何もない町」がけっこう好きだ。

四日目。

フラヤホテルを出て左に行き、最初の角を左に曲がって3軒目にある小さなレストランは、チキン(ハラール)がとてもうまい。コーヒーもドリップで入れてくれてわりとうまい。コーヒー3000ルピア。

昨夜もけっこううるさかったが、今夜になってホテル中がディスコになったような大騒ぎになった。中国人の団体が入ったらしい。エグゼクティブのほうはまだましだが、スタンダードのほうは完全にパーティになっている。

五日目。

朝。フラヤホテル付設代理店でドゥマイ行きミニバスを予約。バス代今度は75000ルピア、一時半チェックアウト。ロビーで待つ。ドゥマイ行きのバスは10時と2時。30分ほど遅れる。

今度は満員の6人乗りミニバン。乗客は中国人みたいなのが多い。来たときほどではないが、激しい運転だった。

途中、道端の家に突っ込んだままになっているタンクローリーや横転しているトラックなどを見た。来たときより長く、4時間ほどかかる。

午後7時ごろ前と同じCity Hotelにチェックイン。デラックスルーム19万ルピア。たいしてデラックスではない。スーペリアルーム17万のほうがよかったが、コネクティングルームだったのでやめた(隣の人間が宴会をやる可能性がある)。

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2006年4月 7日 (金)

メダン(Medan,スマトラ島) インドネシア

3月某日。

アダムエアでバンダ・アチェからメダンへ。

メダンの空港でタクシーに乗り、ひとまず、ガルーダプラザやガルーダチトラなどのホテルの集まっているところまで行く。35000ルピア。

ガルーダ・チトラはスタッフが高級ぶって気取っているだけで部屋は良くない。それに廊下に昼真っから売春婦がつめているような感じだった。客で来てるのかもしれないが。きれいな売春婦ならまだしも、スマトラは・・・。スタンダードはフルだというので、エグゼクティブやデラックスを見たが、ただ広いだけでしけた感じ。

ガルーダ・プラザは、応対も洗練されて良い感じだったが、高い。近くのホテルを回ってみるが、満室が多かった。

結局、ガルーダ・チトラの隣のホテル・スマトラの20万5千ルピアの部屋に入る。通りに面しているが清潔感はある。スマトラのスタッフも愛想は良い。

メダンの町はややバンコク的。要するに何でもありそうな都会。

ホテルの近くのマスジッドラヤの通りを隔てて向かいにあるYuki Simpan Rayaの地下で久しぶりにインターネットを見つける。一台だけ日本語ができる機械がある。ただ接続は非常に遅い。時々電気が落ちるが、ログは残る。先払い式で、時間が来ると自動的に接続が切れる方式なので、時間を考えてやらなければならない。

バンダ・アチェ市内にも「インターネット」を掲げる店は2軒あったが、一軒は営業しておらずもう一軒は日本語がなかった。

インターネット屋では、タイ式の、あるいはそれよりさらにくたびれた感じの中年半ズボン白人がしゃべくりながらうろついていた。毛唐の生態はどこに行っても面白いくらい同じである。

このユキ・シンパン・ラヤの地下で、児童を連れた白人男を見かける。児童は色黒でインドネシア人に見える。白人にはまったく似たところがない。写真を撮っておいた。

白人がアジア人児童を連れているのを見かけたら、すかさずカメラを向けるべし。「ストロボ発光禁止」に設定し、パンフォーカスかマニュアルフォーカスにするとシャッターが速く、逃さない

メダンのホテルで、テレビで日本式の漫才をやっているのを見た。男女のペアで、着物をだらしなく着たでぶな女が「私の名前は・・・です」という日本語ではじめる。意味はわからないが、日本の漫才のような掛け合いで、けっこう面白そうなノリだった。意味がわからなくても自然に笑えてくる感じがある。

メダンはなんとも危なっかしい雰囲気の町で汚い。バンダ・アチェとは天と地の差がある。リクシャ(ベチャ)がやたらと声をかけてくる。さすがにタイのように「レディー・レディー」とは言わないが、インドネシア語で同じことを言っているのかもしれない。「トランスポート」なんて高級な単語で呼びかけてくるのもいた。

メダンのコーヒーはぜんぜんダメ。粉っぽいと言うより、粉そのもの。ローカルコーヒーはコピ・パナス2000ルピアくらいだが、豆をひいた粉をインスタントコーヒーのようにコップにぶち込むやり方がほとんど。

「ユキ」の一階のマクドナルドのコーヒーはまずまず。マクドナルドのコーヒーは国によって味が変わる。ここのもスマトラの味で、粉っぽい感じもあるが、かなり良いと思った。3300ルピア。屋台とそれほど変わらない。屋台によってはこれ以上ぼるところもある。

夜のメダンは、アチェよりも蒸し暑い。季節が下っているからだろうか。バンダアチェは昼間はどっかりと暑かったが、夜は涼しかった。

翌日。

スマトラの食堂の料理置き場にはなぜか昼間から蝋燭をともしているところがある。何かのおまじないなのだろうか。

スマトラホテルは、毎日冷えた小さな洋梨とりんごとみかんがもらえる。ただ洋梨の皮をむくナイフを貸してくれないのでそのまま食べる。

「ユキ」のマクドナルドに入って何も頼まず、ただ座っているだけの日焼けした毛唐を見た。嵌り過ぎだが、「タイ国旗」付のTシャツを着ている。やっぱりタイはファラン(白人)の聖地。

リクシャの運ちゃんがたむろしているような、どぶの上に板を張った屋台の店でナシゴレンを試みたが、食えるものではなかった。味が濃すぎる。肉体労働者向けの味か?

夕方同じ店で、白米と魚などを食べる。魚はおいしかった。

三日目。

ホテルを延長。ホテル・スマトラの部屋は大通りに面しているが、4回なので夜は割と静か。客も家族連れなどが多く、今のところ白人は見ない。

昨日と同じ屋台でコーヒーを飲んでいると、英語を話す男がよって来た。カタコトの日本語も話す(オンナとか下品な言葉ばかり)。近くのゲストハウスで働いているとかで、ホテル代はいくらだとか、トバ湖へは行くかとか、あれこれしつこく聞く。ゲストハウスには日本人客も来ているようなことを言っていた。

カメラマンだったかジャーナリストだったかライターだったかよく覚えていないが、なんかそんな仕事の人がそのゲストハウスに張り付いているとかで、聞くだけでそこには近寄りたくなくなるような話だった。

「ゲストハウスは嫌いで、ホテルが好きだ、トバ湖へは行かない」と答えておいたが、本当はトバ湖には行きたい。しかし、アチェで熱を出してから体調が良くない。まだ熱っぽい。

前にDumaiの同じホテルにいた売春婦の友達が、トバ湖に行かなければスマトラに来た意味がない、と言ってた。

「ユキ」の地下のインターネットは日本語ができる台が一台しかないので、そこがふさがっているときは待たされる。

私が使っている間、一人旅らしい、さえない、でぶっとした若い日本人の女が待っていた。暗くてどうしようもない感じの女だった。2時間先払いしたので、ちょっと代わってやるというわけにもいかない。

私が終わって台を代わったときにお愛想のつもりでちょっと話しかけてみた。返ってきた返事は丁寧な日本語だったが、人間の言葉になっていないという感じ。

怒っているとか気に入らないとか表現してくれたらまだよかったが、表情にも言葉にも感情がまったくなく、最初からコミュニケーション不能と言う感じだった。

その後も一度、彼女がユキ・ラヤの中を歩いているのを見かけた。歩く姿がたまらなく醜い。猫背で両足を引きずるように歩く。身体のどこがゆがんでいてあんな歩き方にになるのか、不思議なくらいだった。やっぱり、「修身」のような教育が必要だと思った。

四日目。

毎日どんよりした曇り。

近所の旅行代理店を回り、飛行機について聞く。

メダンからは、パレンバンへはジャカルタ経由の飛行機しかない。パダンへは朝7時発のが一便だけ。プカンバルへは7時と10時50分のが2便ある。

ガルーダ・プラザ・ホテルの隣のDhaksinaホテルの下にある代理店、Delta Wisataがよかった。ピリピリした感じだったが、いろいろと教えてくれて、料金の問い合わせなどもちゃんとしてくれる。言ってくる料金も安い。明日で、7時のが36万ルピア、10時50分のが45万ルピア。

ガルーダ・チトラのほうにある代理店はダメ。毎日刻々と変わる料金の問い合わせもしてくれない。何も見ないで43万という数字だけ出してきた。パダンへは飛んでいないとも言う。

ユキ・ラヤのマクドナルドはしょっちゅうコーヒーが売り切れになっている。5分かそこらでいれられるのだが、売り切れだと言って断られる。いれてくれ、と頼むと夜でなければ淹れてくれる。

スマトラの人は、日本人とよく似たしぐさをすることがあると思った。ハイという感じで笑顔を浮かべてうなずくように小さく2,3度頭を下げる人が時々いる。今の日本人よりは柔らかい感じ。こういう挨拶は、タイはもちろん、マレーシアでもデパート以外ではあまり見なかった。インド系の人がにこっとして頭をかしげるしぐさ(頭をかしげて肯定の意味を表す)は、全インド世界共通のようだが。

スマトラはあまり白人ずれしていないせいか、けっこう英語ができる人でも、まるで日本人のように「自分は英語ができないから」と謙遜する人が多い。本当にできない人ももちろん多い。できないくせに「日本人よりはできる」と思い込んでいる人はタイやネパールなど白人ずれしたところに多い。ただ、ネパールの場合、本当にまったく英語ができない日本人ツーリストが多いから仕方がないのかもしれない。

自分は英語ができないと言う日本人は、本当にできないのだろうか?中学英語程度の知識を動員する力があれば「英語ができる」といえるのではないか?タイ語、ネパール語・・・などの言語を少し話せる日本人が、自分はその言葉が話せると自慢するのに、それと同レベルの英語ができても、たいていの人は「英語はできない」と言う。

五日目。

いつものどぶ板レストランに行くと、妙に色っぽい感じのおばさんが寄ってきて、ニヤニヤしながら「You like ボンボン?」と聞いてきた。

あなたはインドネシア人かと聞くと、そうだと言う。「ボンボン」はタイ語だとばかり思っていたが・・・・

ホテルのテレビで見るインドネシアのドラマは、障害者ものや乞食のような貧しい子どもの話などが多い。これはタイ人の趣味とは対極的。言葉はわからないが、障害者やかわいそうな子供が主人公格で出てくるドラマが多いように見える。(ドラマの終わりに、イスラム法学者のような人?の説法がついているらしいのもあったように思う)

特に障害者者が多い。目の不自由な人が主人公格で出てくるドラマが複数あり、毎日のようにやっている。イスラム色の強いドラマにこのようなのが多いように見える(スカーフをつけた女性が多く出演する)。

六日目。

ホテル・スマトラの水道の水は妙に甘い。飲料水として部屋に持ってくる水はまずい。水道の水を飲みたい誘惑に駆られる。レストランで水道水をそのままコップに入れて出してきたので飲んでみた。

Dhaksina Hotelの下のDelta Wisataという代理店でプカンバル行き航空券を買う。明日のは売り切れなので、明後日10時50分のチケットを買う。38万ルピア。プカンバルから来たときよりは10万ルピアも高いが、これ以上安くならないと言う。プカンバルのフラヤホテルの代理店は尽力してくれたのだろう。

結局来た道をそのまま戻っていくことにした。

以前どこかで会った自称バックパッカーの達人という人が、「旅のコツは、来た道を戻らず、円を描くように移動することだよ。キミ」と教えてくれたものであるが、私は、同じ道をそのまま戻ることが結構好きである。

私は記憶力が悪いので、同じところに何度も行かないとすぐに忘れてしまう。それに、同じところにちょっと間をおいてまた行ってみると、必ずその場所の第一印象は裏切られる。

Delta Wisataの岸田今日子似のおばさんは今日もピリピリしながらつっけんどんに、しかしよく説明してくれた。ここから空港まではタクシーで15分ほど。1時間半前までに空港に行くこと・・・・。

夜、インターネット屋に、土人系のインドネシア女を連れた毛唐(たぶんオランダ人)がいた。

「ユキ」一階のマクドナルドは、マクドナルドだがローカル食が強いせいか毛唐はあまり来ない。ご飯や地元料理も出るようで、ライスとおかずを手で食べている人もいる。

七日目。

インドレストラン(それほどインド的ではないしインド人もいないが、カレーソースはある)で、アチェ出身と言うおばさんが英語で話しかけてきた。片言だが一生懸命英語で話す。表情は非常に明るく、アチェブランドを堂々と掲げている感じだった。援助景気のせいか、英語を話すことがカネになると言うことがわかったらしい。

津波の後、シンガポール人がたくさん来て「親友」になったという。携帯メールのやりとりをしているとかで、わざわざ見せてくれる。シンガポール人と日本人は顔が似ているといっていたが、日本人は津波では友達にならなかったという。彼女の幼い娘が津波の「トラウマ」で声が出にくくなっているとか。母親のほうは元気百倍に見えるが・・・・

ようやく気づいたことだが、ホテルの部屋にある小さな絨毯はお祈り用のもので、足をぬぐうものではない。私はこれを足ふきにしていた。

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2006年4月 6日 (木)

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バンダ・アチェはコーヒーがうまかった。いつかまたバンダ・アチェを訪れてあのコーヒーを飲みたいと思う。

06年3月。バンダ・アチェは平穏、治安もよく、町は清潔だった。今度のスマトラ旅行でドゥマイ、プカンバル、バンダ・アチェ、メダンを訪れたが、その中ではバンダ・アチェが一番治安が良かったのではないかと思う。バンダアチェの市内に関する限り、私は深夜に通りを歩いても危険を感じない。ホームレスや歩道で寝ている人をまったくみなかった。プカンバルでは深夜に大通りを歩くと危険を感じることがあった。

バンダ・アチェの空港に降り立つと、周囲に広がる風景の美しさに圧倒される。私は東南アジアでこんなに美しい風景を見たのははじめてである。ほとんど何もない平野がどこまでも続いていて、平野が尽きたところに低山が見える。平野と低山の境は里山があるのかもしれない。日本の沖積平野の風景を思い出す。この広々とした美しさをどれだけ津波に負うているのかは、津波以前に訪れたことがないのでわからない。

空港から市内へはかなりの距離がある。その間もずっと、美しい風景が続く。もちろん、津波被災者のテント村やバラックもある。

東南アジアに最初に来た頃は、「南国だから自然もきれいなのではないか」という期待を裏切られて幻滅したものである。「日本の方が自然はずっときれいじゃないか。海も汚いし」というのが率直な感想だった。しかしアチェには東南アジアでこれまで見たことのない美しさがあった。

バンダ・アチェの空港から市内までのタクシー料金は決まっていて、7万ルピア(1万くらいは負けさせられるかもしれない)。私は、津波の被害が一番ひどかったと聞いたビーチであるタマン・トゥピ・ラオ(Taman Tepi Laut)のリゾートホテル「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」に泊まってみようと思い、10万リンギでタマン・トゥピ・ラオに向かった。しかし、行ってみると「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」は跡形もなかった。津波で流されたらしい。のんびりとした小さなビーチで、地元の人たちが行楽している。飛行機の中であったアチェ男が、「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」は被害が一番ひどかったところなのでやめといたほうがいいと言っていたのはこういう意味だった。当然ながら海はごく普通に穏やか。

ちょっと降りてぶらぶらしてみた。人は多いがレストランも何もない。ちょっとした茶店や売店があるくらい。立派なセメント工場がある。それが妙に美しく見えた。市内に戻るのにまた7万リンギ要求される。

津波の後に残った中で一番良いと聞いた「スルタン・インターナショナル・ホテル」の前でタクシーを降りる。スルタンホテルは馬鹿高い。比較的安い部屋は、ベニヤ板張りの窓無しの狭い部屋でホテルとはいえないようなところ。まるでカオサンの安ゲストハウスのよう。他の部屋も値段の割りに設備は良いとは言えず、ホットシャワーは「今日は」壊れていると言っていた。

タイ北部にいるような壊れきった感じの毛唐オヤジもロビーに居座っている。こいつは災害の悲惨に惹かれてきたのだろうか。それとも、ベトナム難民のときを思い出して、人身売買や児童買春のチャンスを探してきたのだろうか。

しかし、スルタンホテルのフロントクラークは親切だった。客でもない私に他のホテルを教えてくれて、地図まで書いてくれた。

その時、私の後ろに宿泊客らしい白人男が待っていたが、その男のことはまったく意に介さないで私の問題に集中してくれている。ちょっとしたことだが、私は新鮮な感動を覚えた。タイではありえないことである。

タイには行かないほうがいいとつくづく思う。タイに先に行ってしまうと、東南アジアの連中はみな白人に媚びることしか能のない下司どもだろうという先入観を持ってしまいがちである。

スルタンホテルで教えてもらった「メダン・ホテル」に行ってみるが、「予約以外は満室」だと言われる。本当か?と念を押してみたが、本当らしい。Prapatホテルも満室。どうしたものかと途方にくれながらホテルを探し歩く。

いまバンダ・アチェに行くなら一日目のホテルは予約しておいたほうがいいかもしれない。津波でホテルが何件か潰れた上に、援助関係者やそのカネの周りに集まる業者などがたくさん来ていて、常に部屋不足になっているようである。

メダンホテルの隣のWisataホテルにようやく部屋を見つけてチェックイン。しかし、ここも明日は予約があるから一晩だけ、と言われる。小便臭い感じの部屋で、ホットシャワーはもちろんシャワーもない。流水はあるが、水槽に溜めた水で身体を流すローカルな方式。それで一泊18万ルピアもする。

Medan,Wisata,Prapatなどのホテルの目の前にある大きなマーケットで夕食。コーヒーがおいしいので屋台をはしごして飲み歩く。コピ・パナス1500~2000ルピア、コピ・スースー3000ルピアくらい。

バンダ・アチェのコーヒーは、メダン、ドゥマイ、プカンバル、あるいはバリ、ラオス・・・などのコーヒーとはまったく違うものである。淹れ方も違うし、豆も違うかもしれない。粉っぽさがなく、透明感があり、コクがある。これまで東南アジアで飲んだコーヒーでは一番おいしかった。カンボジアで飲んだコーヒーに幾分似たところがあると思った。カンボジアのコーヒーも透明感があり、舌にピリッとする刺激がある。コーヒーのグラスカンボジアのを少し大きくしたような形で、朝顔形のグラスいっぱいに注がれて出てくる。(コーヒーの有名なベトナムにはまだ行ったことがないので、あまり行きたいと思う国ではないが、いつかコーヒーを飲みに行きたいと思う。)

マーケットのコーヒーショップは深夜まで開いていて、地元の人々が集まり、夜もコーヒーを飲んでいる。酒を飲んでいる人はいない。この光景はミャンマーのティーショップに少し似ていると思った。ミャンマーでも、ティーショップに夜遅くまで人々が集まり、ラペイエ(ミルクティー)などを飲んで過ごしていた。

夜のマーケットをうろつく毛唐も少なくない。地元の人が多いのでまだ毛唐に占領されたような場所はないが、(今の)バンダ・アチェは、スマトラにしては毛唐が多いところ。肩で風を切って歩くバックパッカー風の半ズボン白人もいる。が、特徴的なのは、スラックスをはいた中年白人が多いこと。東南アジアの貧しい地域でスラックスをはいた白人男といえば、まず頭に浮かぶのはミッショナリー。国連関係者やNPO関係者かもしれない。

カンボジアに国連とNPOが来て、白人男の欲望を満たすために「スワイパー村」ができた。UNとでかく書かれた車両が戦車のように進軍していく。援助の口実の下、アチェが白人によって確実に汚染されつつあることは確かだろう。プカンバルに3泊した間、白人は一人も見なかったのである。アチェには難民がいる。郊外には汚いテント村が残っているし、バラックも多い。いったん倫理を捨てたら際限がなく、どこへでも行き何でもやる白人男たちにとっては、かっこうの児童買春・処女狩り・女奴隷狩りのターゲットと映るだろう。それが思ったほどうまくいかないとしたらイスラム教のおかげである。

アチェにイスラム教のタガがなかったら、津波被害を受けたこの土地はどんなにおぞましい臭気を放つ場所になっていたかわからない。

米国旗を掲げて米国の援助を宣伝する看板は目立っていた。日の丸つきの看板はほんの小さなのを見ただけである。どうしてもっと大きなのを堂々と立てないのだろう。「ジャイカ」の名前は売れているが、日本人の存在感が大きいとはいえない。

後にメダンで会ったアチェ出身のおばさんは、津波の後、シンガポールの人がたくさん来てシンガポール人の友達がたくさんできたと言っていた。日本から来た人もいたが、友達はできなかったとのこと。そのおばさんはたどたどしい英語を一生懸命話していて、英語学習中という感じだった。

ホテルWisataは中国人のやっている宿だったが、感じのいいおばさんだった。ハッカと言っていたから客家なのだろう。漢字はもう自分の名前がなんとか書けるくらいで(見せてもらったがかなりあやしい)、小さな娘にはインドネシア名をつけている。11歳の可愛い子だった。

二日目。

ホテルWisataをチェックアウト。後払いで17万5000ルピア。一階の部屋で、向かいの部屋が地元のNPOかなにかの事務所になっていた。どこでもそうだと思うがローカルの援助関係の人間なんてただ傲慢なだけ。NPOなどが傲慢なのはローカルに限らないが、ローカルだとさらに直接的になるのだろう。エアコンはあるのに扉は開けたままだし、夜の出入りが激しくなかなかうるさかった。夜その部屋のボスらしいインドネシア人に、「扉を閉めてくれませんか」といったら、すごい声で「ホワーイ」と開き直ってきたので、叱り付けてやらざるを得なかった。何とか夜を過ごすだけの部屋。

隣のホテルPrapatに部屋を見つける。一泊20万ルピアでここは先払い。どうしてWisataの人は一泊だけなのに後払いで良いといったのかよくわからない。Prapatは清潔で、Wisataよりは良いが温水はない。裸で歩き回る毛唐がいる。

ここのフロントの太ったお姉ちゃんも客家だと言っていたが愛想は良い。宿代のレシートに漢字で署名したら「中国語が書けるのか」と聞かれたので、これは日本語だと答えておいた。

津波の水はメダンホテル、Prapatのあたりで4メートルくらいまで来たらしい。マーケットのあたりで2メートルと言っていたが、マーケットとメダンホテルに標高の差があるとは見えないので、どうしてそういう差が出たのかは解らない。マーケット付近でも100人ほどの人が亡くなったという。

リクシャで大マスジッドを見に行く。たいへん立派なモスクですばらしい。マスジッドの門には、Perhatian Puda Memasuki Kawasan wajib Berbusana Muslim/Muslimahとか書いてある(走り書きなので記録違いの可能性大)。Attention you are coming into Muslim/Muslimah dress areaとも。

思うに、このPerhatianというのは、インドネシアの空港の館内放送で女の人が「プラハティア、プラハティア」と呼びかけているあれと同じ言葉なのだろうか。私はあれが大好きである。何度でも聴きたくなる言葉である。

マスジッドの敷地内に入って良いかどうか、その辺にいる人に聞くと良いといわれた。しかし、もちろん会堂に入ることはできない。そこは礼拝の場所である。

広くて清潔で荘厳で豪華なこの会堂を覗いていると、ひんやりした空気が流れ出してくるようで、自分もそこに入りたいという強い衝動に駆られる。どこのモスクでもそうだが、ここでも人々は暑気を避けて会堂内で休んでいるが、そのことによってこのマスジッドの荘厳さはいささかも失われない。

バンダ・アチェのマスジッドはさすがにすばらしい。これを見て、アチェに来てよかったと思った。

マスジッドへはメダンホテルやスルタンホテルから歩いてもいけるが、リクシャで5000ルピアで喜んで行ってくれる。マスジッドの塔(この塔をミナレットというのかどうかは私にはわからない)はホテルの前のマーケットからも見えている。塔の下のほうは修理中だった。これは津波で壊れたもの。

メダンホテルの近辺には白人がうろうろしているが、この立派なマスジッドを見に来る者はいないようだ。

マスジッドの前で「パン」を売っていた。スマトラに来て初めて「パン」スタンドを見た。久しぶりに「パン」を見た。早速買う。4個で1000ルピア。タバコは入っていなかったが、久しぶりだったせいか、かなり強く苦かった。

「パン」は売っていても、路上に「パン」を吐いた赤い痕跡は見当たらない。ここの人は行儀が良いのだろう。

スマトラに来てからインド人は見ない。インド系はいるのだろうが、マレーシアで見るような明々白々なインド人は見ない。しかしアチェでは「パン」を売っている。「パン」はインドの文化だと思ったが。

バンダ・アチェはどこも良心会計だった。食事はライスとチキンと野菜とコピ・パナス付で10000ルピアくらい。コピ・パナスは同じマーケット内でも店によって1500ルピアだったり2000ルピアだったりする。

ローカルレストランには、ネパール人のように同じテーブルに居座ってさかんに英語で話しかけてくるウェーターもいる。

プカンバルは、シンガポールより緯度は赤道に近く、ほとんど赤道直下だと思う。しかし、北端のバンダ・アチェのほうが昼間は暑い感じがする。

午後4時ごろ、塔のほうに向かう大通りの右手にあるガルーダの代理店で、パレンバンへ行く飛行機のチケットを予約。大変愛想がよい。ただ、これは後にジャカルタでトランジットであることがわかり取り消す。パレンバンへの直行便は無い。

夕方リクシャーで海岸などを回る。英語はまったく通じなかったが、「ツナミ」と言ったら「ツナミ名所」をいろいろ回ってくれた。

船が陸に打ち上げている光景はここではまったく珍しくない。錆びているのも多いが、美しい船もある。

巨大な船がかなり奥のほうまで上げられてそのままになっている。最初そこに近づいたときは工場でもあるのかと思った。すぐ近くまで来てようやく舟だと気づいた。感動することの少ない私も、それが船だと気づいたときには、おもわず「オー!」と声を上げてしまった。

箱型の大きな船だった。船のあるところにはもとは家があったという。家は押し潰されて今も船の下敷きになっている。しかしほとんど完全にぺしゃんこになったようで、その残骸も外からは見えない。

この巨大な船は地元の観光名所になっているらしく、スカーフをした地元の女の子たちが船を背景に家族で記念写真を撮っていた。募金箱も並んでいる。

そのほか、建物の2階に上がったままになっているわりと大きな船も見た。建物の2階を押し潰して2階の位置に上がったままになっている。

   
バンダ・アチェは活気があり、援助景気なのか内国の訪問者も多いようだ。リクシャで通りを走っていてもUNの車をよく見るし、援助関係らしい(ツーリストには見えない)白人もよく見かける。

昼間リクシャで大通りを走っているときに見かけた、別のリクシャに乗った若い白人女は非常に居丈高だった。

気取ったそぶりで、手をさし伸ばしてまわりの車に合図を出ながら、まるで自分でリクシャを運転しているようだった。リクシャと運ちゃんは「馬」で、彼女は「乗馬」をしていたのかもしれない。

私のリクシャの運転手に直接、「待て」と言う合図を出して道を譲らせ、私の前に割り込んだ。一見してツーリストでないことがわかる。国連関係かNPO関係者だろう。

あのそぶりをなんと表現したら良いのか。

「私が教えてあげているのです」「私から学びなさい」「私は正しい」という気を強烈に発していた。

私は彼女を一目見てこの人間のすべてがわかってしまうような気がした。

「私は正しい」「私の思想は正しい」「私の掲げる理念は正しい」「私の受けてきた教育は正しい」「正しい私にはミッションがある」「私のミッションは正しい」・・・・「正しさ」の権化のような女だった。

NPO関係者・援助関係者だからきっと「良い人」だろう、とか、まだまだ日本人は思い込みがちではないだろうか。

たいへんな見当違いだと思う。援助関係の白人など、どこでも非常に独善的で居丈高で、かつ人種主義的なものである。自分の行為の「正しさ」を生涯一度も疑ったことが無く、おそらく死ぬまで一度も疑わない。彼らは死ぬまで「『文明』の使徒」なのだ。

そういう白人の周りに集まるアジア人活動家たちもまた、「正しい」白人に媚び、白人の仲間になって、他の同国人やアジア人を見下すことがそこに来た動機であるような連中がほとんどである(もちろんカネも)。

白人ツーリズムはもとより、白人人道援助もまた、現代の植民地主義にほかならない。

(後に見た「ジャカルタポスト」には、「アチェへのジェラシーを防ぐために、アチェの特権の一部を他の地域にも与えよ」などという識者の意見が載っていた。メダンなどで、「アチェ出身者」という人が妙に明るい表情で自己紹介し、英語で外国人に話しかけ、外国人の友人がいることを自慢していたりするのを見ると、「アチェの特権」というのもありそうなことに思える。また、同じく「ジャカルタポスト」の他の記事では、津波の3ヵ月後におきたニアス島の地震の被災が先に起きた津波の陰に隠れてしまって見えにくくなっている、というような指摘もあった。アチェは国際的なブランドになり、「物語」になってしまったのだろう。)

今のバンダ・アチェの活気は、かつてのポイペトの活気に似ているのかもしれない。もちろんこちらのほうが先進国だし、インフラも比較にならない。ポイペトのような不健全さや危険さはバンダ・アチェには感じない。

ホテルの前のマーケットでは深夜12時過ぎまでコーヒーをやっている。深夜になると少しは肌寒くなるので、外で飲む強いホットコーヒーはちょうど良い。酒はもちろんテーを飲んでいる人はあまり見かけない。テーとかテースースーといってもあまり通じない。さすがにアラブの文化を直接に受けた土地柄だと感じさせられる。今日一日でコピ・パナスを何倍飲んだだろうか。多分10杯ぐらい。

夜のマーケットには乞食も回ってくる。そんなに多くはいない。子どももいるが、概してこざっぱりした服を着ている。十分働けそうな若い男も毎晩物乞いに来ていた。

三日目。ホテルPrapatに連泊。

バンダ・アチェに最初にはいったとき、ネパールのような臭いがすると思った。海と山で地理的には正反対なのだが。

バンダ・アチェの人間も少しネパール人に近いような感じがする。西のほうの影響を受けているということだろうか。それとも、援助経済でそういう性格が形成されるのだろうか。(ただし、バンダ・アチェはネパールと違いアーリア系は見ない。)

マーケットのレストランで働いている男がネパール人のように付きまとってくる。英語でさかんに話しかけてくるが、何を言っているのかわからないことが多い。

バンダ・アチェにもインド系がいないわけではなく、よく見るとそれらしい人はいるが、マレーシアのインド系のように見るからにインドという感じではない。

アチェ人は強いアチェ意識を持っている。英語を話せる人は少ないが、たまに会うとアチェアチェを連発し、インドネシアとは違うようなことを言っていた。

バンダ・アチェではあちこちでイスカンダル(Iskandar)という文字を見た。イスカンダルとはなんぞやと少し英語を話す茶屋の少年などにしつこく聞くと、どうやらアチェ人の名前らしい。インドネシア人にはない名前だと言っていた。

ホテルのあるところから海岸はそれほど遠くない。リクシャで1万ルピアくらい。

ホテルにいても風向きによって海の生ぐさい臭いがしてくる。これはあまり好きではない。

ガルーダ以外の航空会社代理店では英語はほとんど通じない。

明日の航空券を予約しようと思ったが、どの代理店で聞いても「ライオン」と「アダム」はシステム障害とかで電話さえつながらず。ガルーダはメダンまで40万ルピアほどする。他の航空会社は時間に難がある(朝早すぎる)。

プカンバルのフラヤホテルの代理店では、メダン→バンダアチェのフライトが予約できたのだが、バンダ・アチェの代理店ではメダン以降のフライトは予約できない。メダンは毛唐が多そうで行きたくないのだが(実際に行ったらそれほどでもなかった)。パダンやパレンバンに行こうとするとジャカルタでトランジットにしないと予約を入れられない。

いずれにせよ、まずメダンまで行って、メダンで次のチケットを手配しなければならない。

ガルーダの代理店の女の子はチェックと言う英語をcekと綴っていた。インドネシアではアルファベットはオランダ語読みらしく、cはチェー(ツェーではない)らしい。JYVなど以外はドイツ語などとほぼ同じ。アー・べー・チェー・デー・・・

バンダ・アチェは、東南アジアにイスラム教が最初に到達した土地ということで、東南アジアのムスリムにとっては特別な土地だということだが。黒いスカーフをしている人はほとんど見ない(ムスリム女性のスカーフはインドネシアではジルバップとかいうらしい。マレーシアではトゥドゥン)。色物のスカーフが多い。普通のスカーフを巻いて髪と耳と首を隠しているだけの人も少なくない。顔を隠している人や、マレーシアで見かけるような黒ずくめの人はまったく見なかった。

人間の美意識は可塑的なものだと思う。ミャンマーで顔にタナカを塗った女の人ばかり見ていたら、女性はタナカをしていなければ美しくないように感じるようになったし、マレーシアでトゥドゥンをした女性を見慣れると、髪を見せたり首をさらしたりしている女は下品に見えてくる。(ただし、タイ女のしかめっ面とか白粉とかはいくら見ても良いと思うようにはならないので限界はあるのだろう)。

今夜夕立があった。

四日目。

朝9時にガルーダの代理店に行き、いつもの親切な姉ちゃん(ぶすいけど)に、もういちど各社の料金を電話で聞いてもらう。「ライオン」は明日ので41万ルピアぐらい。「アダム」はプロモーションで23万ルピアぐらい。これは安い。明朝11:30のアダムのメダン行きチケットを買う。

今日は風邪気味で身体の節々が痛む。昨日蚊にさされた後、夜中に急に寒気がしたのでマラリアかと思ったが、高熱は出なかった。

  
マーケットのカフェで日本語を話す男と出会う。

95年から5年間も日本に不法滞在して「土方」をやっていたという。自分で「ドカタ」と言っていた。日本語の会話はできるが、読み書きはできない。

明日アチェをたつといったら、もう少しいるのならジャイカに話してくれて俺のことを推薦してもらえたのに・・・・とかわけのわからないことを言う。本気でそう思っているようだったが、読み書きができないなら日本語ができるとはいいがたいし(ワープロも打てないことになる)、第一、「不法就労で日本語を覚えたから日本語は確かです」なんて話が、まともな世界に通じるわけがないと思うのだが。

インドネシア人の友達に連れられて遊んだ西川口の風俗の話などには熱がこもっていた。→詳細はこちらhttp://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/09/discriminationb_bbd7.html

アチェは厳しいから25歳でも処女がごろごろいるとか言っていた。無職でごろごろしているのに、嫁さんも子どももいる。

この男もインドネシアが大嫌いだそうで、強烈なアチェ意識を持っているようだった。

彼から「女子割礼」の話を聞いた。「女子割礼」と言えば欧米および日本の進歩主義者やフェミニストたちによって、現代に残る野蛮の象徴のように言われ、フェミニストたちからは女性差別の行き着くところのように言われているものである。

彼は15歳くらいで割礼を受けたが(遅いほうだという)、アチェの女子は一歳位でみな割礼を受けるのだと言う。女子の割礼は、包皮を取るのではなく、クリトリス(陰核)を完全に切除する。

その辺にいるしとやかできれいなアチェ女性もムスリムなら皆割礼を受けている。それでなにか不自由したり、変になったりするわけではない、ということだろう。それによって不感症になったりしないことは、彼の嫁さんが証明していると言うことである。

こいつは西川口でしっかり見てきたはずだが、私の顔をしげしげと見て、「日本の女はアソコから何か突き出してるのか?気持ち悪いなあ」なんてことを言っていた。

彼らの「女子割礼」の習慣を異文化の人間が「人権問題」として騒ぎ立てることは、少なくともアチェ人の心情を害するだろう。直接イスラム教徒から女子割礼について話を聞いたのはこれが初めてなので、他のムスリムがどう考えているかはわからない。しかし、男子の割礼については他の地域でもムスリムなら当然のことという答えが返ってきた。
   

その男と話しているときに、日本人の若い女が二人通りがかったので話しかけてみた。某国立外語大インドネシア語科の学部生だそうで、先生と一緒に来たらしい。

研究なのかボランティアなのか物見遊山なのかはっきりしなかったが、「アチェの現状を日本に伝えるため」とか(ちょっと間抜けなことを)言っていた。アチェは飛行機が飛んでいてマスコミがいくらでも入れるところなのだが、インドネシア語ができるとはいえ・・・・まあいいか。アチェに来て3日目だという。

私が、アチェのマスジッドはすばらしいよね、と言ってもほとんど反応してくれなかった。モスクなどには興味が無いようだった。ムスリムのスカーフについては、あんな暑いものはたまらないとか、全体としてイスラム教やイスラム文化にはあまり良い感情を持っていないようだった。

きれいなバラック建ってたっているようにみえるが避難民の需要は十分に満たせていない(これは避難民のいるところならどこでも常に当てはまる真理である)、アチェには民族紛争があったが津波で下火になったとか、トゥドゥンはマレーシア語でインドネシア語ではジルバップというのだとか、一から講釈してくれた。

  
日本に不法滞在し不法就労したことのあるという男には、ネパール(ゴルカ)でもミャンマー(タチレク)でも会ったことがあるが、皆同じような品の悪さが付きまとう。ただ、タチレクで会った人は、幾分ましだった。日本人は同じだと思っていて、自分では日本人のことがわかっているつもりになっている。自分では日本人の足元を見ているつもりのようだが、ただただおのれの賤しさがにじみ出るばかり。日本で覚えてきた日本語も不法就労の現場で覚えたものだから同じように下品になる。(タチレクで会った人は、同じように土方をやっていたにもかかわらず、実家がしっかりしていたせいか全体にそれほど下品な感じは受けなかった。)

 
バンダ・アチェのネパールのような匂いは安物のガソリンを焚いた匂いだろうか。しかし、「ポイペト、ドゥマイ」グループとはまた違う。いつか中東の産油国に行っていろいろな油の匂いを調べてみたいと思う。

露天のガソリン屋はバケツから手桶でガソリンをすくって濾斗でバイクに注ぎ込んでいた。バケツはふたをしてあるが、ガソリンが気化して立っていくのが蜃気楼のように見えている。

これはあまり良いやり方ではない。露天でガソリンを売るときはペットボトルに詰めて一本いくらで売ったほうが安全だと思う。とくにコカコーラなど炭酸飲料のペットボトルは密閉性が高いので揮発油を売るのに適している。

Pante Pirak(スーパー)に行ったときに、近くのモダンなカフェでエスプレッソを飲んだ。客はいなかったがエスプレッソはおいしかった。8000か9000ルピアだったと思う。 

夜のマーケットで中国人のような女(日本人かもしれない)を連れた半ズボン白人を見た。

五日目。バンダ・アチェからメダンへ。

ホテルPrapatをチェックアウト。ホテルの前に待っているタクシーを拾い、空港へ。規定料金は7万ルピア。6万に負けてくれた。

朝8時半ごろ空港に着く。渋滞があるかと思って早めに出たが、まるでなく、早くつきすぎた。

空港のチェックインカウンターではガルーダに乗る毛唐のグループが偉そうに振舞っている。狭い検札の入り口に大きな身体の毛唐が平然と広がって突っ込んでいくので、チェックの係官が突き飛ばされそうになるが、毛唐はまったく意に介さない。

空港は市内以上に毛唐が目立つ。毛唐たちは皆ジャカルタに向かう。バックパッカーのようなのはおらず、一応仕事のようだ。アダムエアのチェックインは9時30分から。

 
待合室で英語を話すアチェ人のおばさんと話していた。子どもが4人もいると言うが若く見える。あちこちに知り合いがいるようで、しょっちゅう通りがかる人と挨拶している。

その友達の中国系の30歳くらいの女が来る。第一印象は非常に無作法で荒っぽいと言う感じ。この人はおじいさんが中国人というだけの人だそうだが、立ち居振る舞いがはっきりと中国人丸出し。色白で目は茶色でアラブ系も混じっているように見えるが、動きや雰囲気は完全にマンダリンと言う感じ。遺伝なのかそういうコミュニティにいるからか、それはわからない。しかし彼女もムスリムで、男子割礼について聞くと、当然だ、それでたくましくなるんじゃないの、みたいな答えだった。さすがに女子割礼については聞けなかった。麻酔をかけてレーザーで切るから平気なのだとか。

スマトラで(男子)割礼について何度か女性にも聞いたが、みなごく普通の話として冷静に答えてくれる。つまり、女性もたいてい幼いころに兄弟などの割礼を見聞きしており、割礼は子どもがやること、子どもの問題であって、成年男子の性の問題ではないと言うことなのだろう。

アチェ人の女のほうは、おとなしくちょっと洗練された知的な雰囲気があった。建築のデザイナーだといっていた。色黒で、ピラミッドの中の壁画に書かれている人のようなエキゾチックな顔立ちだった。

彼女は、自分の顔は「典型的なアチェ人」(ティピカルアチェ)の顔だと言っていた。中国人(中国系アチェ人)の女のほうもそういう。私は思わず、エジプト人みたいな顔立ちですね、と言ってしまったが、彼女にはピンとこなかったようだった。

彼女らによれば、アチェ人は「アラブ人とインド人と中国人」の混血で成っているのだそうである。「インドネシア人」が出てこないところが味噌というべきか。

そのエジプト人風(私が勝手にそう思っただけだが)アチェ人の女性とは、たまたま飛行機でも隣の席だった。これはまったくの偶然だった。

彼女は津波の前はバンダ・アチェに住んでいたが、今はメダンに住んでいる。津波ではオフィスをやられたが、家はやられなかった。しかし、津波の後、ジャイカに家を賃貸して、今はトルコ(政府?)からメダンに家を借りて住んでいる、ということだった。

「ジャイカの日本人は一日中コーヒーばかり飲んでいる。私は2杯も飲めば眠れなくなるのに・・・」なんて言っていた。たしかに、アチェのコーヒーはうまいと思う。

アダムエアは1時間遅れて、12時15分ごろ出発。スッチー(女性客室乗務員のこと)は日本人好みの美人ぞろいで、救命胴衣の指導もちゃんとやる。


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2006年4月 5日 (水)

バンダ・アチェに向かう(スマトラ島) インドネシア

朝、ホテル付属の代理店でシュリーヴィジャヤ航空のメダンまでのチケットを受け取る。結局27万ルピアぐらいまで安くしてくれた。近所の代理店でも40万ルピア以上といっていた。たいへん良心的。

午前11時、フラヤホテルをチェックアウト。ホテルの無料のシャトルバス(ミニバス、乗客は私一人)でプカンバルの空港まで送ってもらう。

プカンバル空港のチェックインカウンターは英語がまったく通じない。居合わせた地元の乗客が通訳してくれた。毛唐はまったく見かけない。

空港に入るときとチェックインのときと2回荷物チェックがある。こんなローカルな空港のわりには厳しく、チェックインの時には荷物をあけさせられた。いきなり手を突っ込んでくる。

シュリーヴィジャヤ機は一応ジェット機。12時15分発の予定で、15分ほど遅れる。このときのシュリーヴィジャヤ機では、クルーによる酸素マスクなどの指導がなかった。酸素マスクや救命胴衣の指導は、私の愛するミャンマーエアウェイズ(MA)の国内線でもあったのに・・・・。機内は長距離バスという感じで、かなりボロいが、ミャンマーエアウェイズほどすばらしくはない。

スッチー(女性客室乗務員のことである)の制服は上出来で、愛想もよく、美人ぞろい。ピリピリしたようなところがない。ミャンマーエアウェイズもエアインディアもロイヤルネパールもとくにピリピリはしていなかったが、愛想よく美人ぞろいというわけにはいかなかった。

メダンの空港では、国内線の出口と入口とがずいぶん離れたところにあって迷った。国内線の出口は国際線の入口の近くにある。

最初まちがえて国際線の方に行ってしまった。そこにレストランがあり、案の定というべきか、ペナン経由で持ち込んだらしいアジア女を連れた白人が二人。

そのうちひとりは一見して20歳前後のタイ売春婦。男のほうは60歳位と見えるジジイ。女は飯の食い方ではっきりタイ女とわかる。

もう一組のほうは若い男で、女のほうにもバックパッカーのような格好をさせている。若い白人ツーリストは、タイあたりで拾った女にこういうナリをさせて、「本物のガールフレンド」のように見せて連れ歩くことも多いが実質は買春。両方とも写真を撮っておいた。

なんとか国内線入口を探し出し、チェックイン。メダンでのチェックインはスムース。荷物を開けさせられることもなかった。空港待合室には白人は数人、中年以上のオヤジが多く、固まっている。

バンダ・アチェへのチケットは53万ルピアくらい。ライオン航空。昨日ホテルで聞いた値段よりは少し安くなっている。

バンダ・アチェへのフライトには、毛唐が多い。若い白人女も2,3人いる。ローカルも英語を話す連中が多いようだ。ジャーナリスト風に、偉そうに振舞っている毛唐もいる。バンダ・アチェはいろいろあって国際的に名前が売れているせいか、毛唐ズレしているのかもしれない。東南アジアのイスラムの発祥の地で東南アジアムスリムにとっては特別な土地のはずだが。

チケットを買うとき、係が4時発といったのはデタラメで、14時45分発だった(14時15分発のが遅延)。

ライオンエアは国内線でもちょっと国際線風で、スッチーはツンとして救命胴衣などを実演している。

 
ライオン機に搭乗するとき、またまたきわめて不快な毛唐と遭遇した。(毛唐は常に不快なので、さらに何か不快な条件が加わる場合には「きわめて不快」となる)

その中年のジャーナリスト風の白人の席は私の席とと同じ列の窓側で、私は通路側になっていた。真ん中の席はアチェ人の中年男。

その毛唐は客室にいくつも大きな荷物を持ち込んだうえ、それを私の座るべき座席の上にどっかり載せている。

「ここは俺の席だ」というと、平然とI knowという。

上の荷物棚はもう他の荷物でいっぱいになって入れるところがないので、自分の持ち込んだ多すぎる荷物を他人の座席の上に置き、開き直って通路に立ったまま「困ったなあ」「どうしたものか」と考えているのである。

私も座れないし、その男が入り口に近いところの通路をふさいで棒立ちになったままなので、後から入ってくる人たちもそこで中に入れず待っている。ほとんどの客が有色人種である。

この男は自分で考えて問題を解決しようともせず、「みんなの邪魔をして突っ立っていれば誰かが何とかしてくれるだろう」という姿勢で「困っている」のだ。

この種の開き直りは白人特有のものである。中国人やインド人の横着(おうちゃく)は、自分が横着をしているということを知らないのである。つまり、互いに相手の立場に立って自分の嫌なことは他人も嫌だろうからしないようにし、自分がしてほしいことは他人もしてほしいのだからするようにしていれば、結果としてお互いの利益になるだろう・・・・という「市民社会のルール」をまだ知らず、共有していないだけである。他人の立場に立つ、とか他者に共感するという(アダムスミス的な)習慣がないだけである。

しかし、この白人は、「市民社会のルール」を熟知したうえで、それを公然と破り捨てているのであり、さらにタチが悪い。他人の立場を熟知しながらも、「自分は(アジアでは)その規範を公然と破って(有色人種に)迷惑をかける権利がある」と思っているのだ。

「どうしてくれるんだ」みたいな感じで、「個人主義」も「自助自立」もすべて取っ払った、ケダモノのようなナマ白人のむき出しのわがままを周囲に垂れ流しながら、「困ったなあ困ったなあ」とやっている。周囲の人間が彼のために何か「特別の配慮」をするのが当然だというそぶりである。

この男にとっての「アジア」とははコレなのだということがわかる。

すなわち、彼にとってアジアは、彼が自国での教えられてきたあらゆる倫理規範から「自由」な、どんなむき出しもわがままも気まぐれも許されるルールなき天地なのである。ここでは自分のエゴをあたりかまわず自由に垂れ流してよいと思い込んでいる。彼は現代のゴーギャンなのだ。

私が、「椅子の下に詰め込め」と強く指図すると、気に入らないようだったがしぶしぶ従った。

誰かが犠牲になって自分の荷物を抱え込み、彼のために上の棚を空けてくれるのを待っていたのだろう。アジアでは、特に白人に対しては、そういう犠牲を進んで受け入れる人も少なくない。

  
その後に来て私と白人男との間の席に座った中年のアチェ人男が、また滑稽だった。白人の作り出したアジア人の典型を見るような気がした。

白人男が私の席に勝手に置いた荷物を、私が真ん中の席に移して自分の席に座ったのを見て、彼は白人男を責めるのでなく私を責めた。

この男はひどくなまっていたが英語を話す男で、毛唐のほうを向いてさかんに英語で話しかけた。50過ぎの中年男なのだが、中学生のようなハリキリぶりである。

毛唐のほうも好き勝手に言いたいことをいろいろ言っているようだったが、英語のネイティブスピーカーではないようだった。「観光か」とアチェ人が聞くと、毛唐は大威張りで「アチェに住んでいるんだ」と答える。ビジネスをしているようなことを言っていたが、かなり胡散臭かった。

しかし、やがて飛行機が離陸すると、この白人男は隣のアチェ男をまったく無視して本を読みはじめた。一言も話さなくなり、自分の世界に入ってしまった。

(白人が近くにいる他者を自分の世界から完全に度外できる心の技術には感心することがある。遺伝もあろうが、そういう訓練を子供のときから受けてもいるのだろう。しかしこれは日本の文化とは相容れない。日本人がそのマネゴトをしたら、ただの屑な中国人になるだけである)

アチェ男は完全に無視されてしまい、もう相手にしてもらえない。アチェ男がいくら目配せしたり、白人男の読んでいる本に興味を持つふりをしてみても、白人男のほうはまったく反応しなくなった。白人男はすっかり自分の世界に入ってしまったようである。

こうなるとアチェ男はどうしていいかわからない。今まで身も心も傾けて、全精力を集中していた相手にあっさりと身をかわされて無視されてしまい、どうやって座っていればいいかさえわからない風情であった。

しばらくは待機姿勢で白人男の方に体を向けていたこのアチェ男だが、やがて、やっぱりというべきか、突然これまで一顧だにしなかった私のほうを向き直って話しかけてきた。

内容は後進国の後進な連中から100回も聞かされてきた英会話である。早い話がネパール青年が茶店で話しかけてくるようなたわごとである。

「どこから来た」(お前に関係ないだろ)
「日本のどこだ」(東京も大阪も見たことのないお前にそんなこと答えてやって何の意味があるの?)
「アチェはビジネスか?ジャイカか?」(ジャイカ?知るかそんなもん。物見遊山だよ。お前みたいな馬鹿のツラを見物しに来ただけだ)
「どのくらいアチェに滞在するのか?」(だからそんなことお前に何の関係があるの?)
「あなたは英語ができるね。」(できないと思ったか?お前よりはましかもな)

私は紳士なのでこんな風には答えなかった。

こういう連中は何でもぺらぺらしゃべりたがるので、必要な情報を聞き出すには便利である。バンダ・アチェのホテルの事情を聞きホテル名などをチェックして、あとは無視しておいた。

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2006年4月 4日 (火)

プカンバル(Pekanbaru,スマトラ島) インドネシア

3月某日。

ドゥマイからミニバスでプカンバルに向かう。道は悪くない。運転手は平均100キロくらいのスピードで飛ばし、しかもたいへん個性的な運転をするので多少は揺れるが、つかまっていれば天井に頭をぶつけるほどではない。カンボジアよりずっといいしラオスとは比較にならない。

この運転手の兄ちゃん、無理な追い越しをしようとして対向車線に出て、対向車と正面衝突しそうになることが何度もあった。正面衝突を避けてもとの車線に戻ろうとするときにトラックやタンクローリーに追突しそうになる。追突ぎりぎりまでスピードを落とそうとしない。

途中のドゥリで食事休憩。ドゥリを過ぎるとさらに田舎になり、道も多少悪くなる。モスクもあるが、キリスト教会も目立ってくる。貧しい辺ぴな地域につけ込んだキリスト教ミッショナリーの「文明化」工作・欧化洗脳工作。貧しい人々やマイノリティをターゲットにして「文明とは何か」を教え込む。

貧しさ、悲惨、犠牲などをテコに「義」を確立して宣教し、白人の支配を正当化しようとするのはキリスト教ミッショナリーの昔からの手法である。

ドゥマイのシティホテルで聞いた「フラヤホテル」にチェックイン。スタンダードルーム一泊22万ルピアくらい。エアコンも動かず、トイレも故障。2回部屋を変えてもらい、エグゼクティブルーム(本来27万ルピアぐらい)にスタンダード料金で泊る。レセプションの対応は悪くない。

フラヤホテルはここでは3星ホテルらしい。その外に中級ホテルで「アノウ」というのがあると聞いた。

プカンバルからバンダアチェに飛ぶ飛行機があると聞く。ただし、これはメダンで乗り換えての話だった。

プカンバルはさらに大都会で、テースースーが5000ルピアもする。

翌日。

夜は静かだったので、連泊することにする。ホテルの前は中央分離帯のある大通り。付近は交通が立て込んでいて、リクシャはいない。

食堂のテーブルの上にあるボウルの水は手を洗うためのもの。手を洗えと指図されることも。

スマトラでもミャンマーでよく見るような長細いいあげパンを見る(KLでもたまに見る)。コーヒーなどを受け皿にたらした飲むことがあるのもミャンマーに似ている。熱いコーヒーがガラスコップいっぱいに出てくるので最初は持つこともできない。受け皿にあふれているのが普通。

紅茶などを受け皿に垂らして冷まして飲むのは、本来イギリスの習慣だったらしい。インドを植民地にし、インド人の真似をしてミルクティーを飲み始めたが、白人は猫舌なので熱いお茶が飲めない。それで受け皿を考案しそこに垂らして冷まして飲むことを思いついたのだという。ミャンマーではコンデンスミルクいっぱいの甘いミルクティーを受け皿に垂らし、そこにさらに土瓶ででてくる中国茶を入れて味を調節して飲むこともある。そういう風にやれと指図されたこともある。

フラヤホテルの前の大通りに沿って右にしばらく行った所に何件か並んでいる質素な木造のローカルレストランは、コピ・パナス(熱いコーヒー。砂糖だけのコーヒー)が2000ルピア。

ただし、ドリップを使っていないか穴が開いていると思われる。スマトラではコーヒー豆をひいた粉をインスタントコーヒーのようにコップに直接入れてお湯を注ぐだけというコーヒーを何杯飲んだかわからない。これもすぐに慣れるが、たまにちゃんとドリップを使ったコーヒーを飲むと高級なものを飲んだ感じがする。

そのレストランは明朗会計だった。ただし、ここは、店とは無関係に(?)たいへんローカルな売春婦がたむろする場所でもあった。質素だが見通しもよく明るい場所に昼真っから売春婦がたむろする。といっても、いかにも売春婦然としているような国際的売春婦ではなく、普段着やパジャマ姿などで客のように座っているだけ。

最初はそういう店だと思わずに入った。満席だったのでインドネシア人のおじさんと相席した。そのおじさんがすぐに話しかけてきて、自分は警察官だという。よく見ると、ジャンパーの下にちゃんと制服を着ている。身分証まで見せてくれた。ほとんど同時にどこからとも泣く女の子たちがよってくる。その警察官のおじさんがその中の一人をさして「この子はどうだ、いい子だろ、自分のホテルに連れて行ってもいいしそこのホテルでオーケーだ」とか推薦してくれる。その子は若かったが、顔にいっぱい痘痕ができていて、梅毒でももってそうな感じだった。

そのオジサンは美人局とかでなく本当にただの客だったようだ。その後も何度かその店でコーヒーを飲んだが、一度しか見なかった。

コーヒーショップのおばさんは感じの良い人で、女の子をどうしろとかはいわない。そういうそぶりも見せないが、コーヒーを飲みに行くたびに女の子たちが蜂の巣をつついたようになって、まあ面白かった。

買わないとわかると、コーヒー一杯おごってくれとか、こっちがどんなに仏頂面をしていてもなにかと働きかけてくる。インドネシア語でさかんに話しかけてくるが意味がわからない。私は「地球の歩き方・マレーシア」のマレー語会話のところを切り取って持っているだけ。ほとんど見たこともない。数字の読み方はインドネシアでは必須だが、後はブラパ、クマナ、ダリマナ、アパ、くらい。

意味が通じないとわかると、ある女の子は、アルファベットで書けばわかるはずだと思い込んだようで、私のボールペンをとって自分の手のひらにローマ字でインドネシア語を書いて見せるが、知らないのだからわかりようがない。

女の子たちがアコウーaku、マウーmauというのを何度となく聞いた。この「マウー」という言い方がなんとも餓鬼っぽくてどうしようもない感じ。

その「レストラン」からフラヤホテルのほうにすこし戻ったところに、夕方から屋台の立ち並ぶ横丁があり、そこを入っていくと左手にマスジッドがある。マスジッドの傍らにPalembanなんたらと書いてあるこぎれいなローカルレストランがあり、チキンがうまい。よく血を抜いてあって、白身がたっぷり。注文してから揚げる(たいていのレストランは作り置きが普通)。ここはもちろん、前述のコーヒーショップとはまったく性格の異なる場所である。
  

今のところプカンバルで白人を見ていない。フラヤホテルでも。しかし、もしここに白人が2,3人でも来たらどうなるだろうか。

あのような売春婦駐在の「オープンカフェ」型レストランに白人が2,3人来て、ここは安全で「フレンドリー」だという情報が流れたらどうなるだろうか。

すぐに「アジアバカンス」白人オヤジどもが20人・30人と押し寄せて来る。白人は白人のいるところに集まるからだ。そしてコロニー作りをはじめる。そうして作り上げた租界の中で、白人どもはまっぴるまっから地元の女を傅かせビールやコークを飲み始めるだろう。

地元の通行人を、動物園の動物でも見るように彼らのギトギトした目で観察したりしながらたむろするようになる。そういう空間ができてしまうと、この町の性格はまったく違ったものになるだろう。

すなわち、地元の商業システムも変わってくる。白人は白人のための場所では英語が通じるのが当然だと考えるから、ぜひとも英語が必要になる。英語を話せる売春婦が要請される。

それと同時に、急増した白人客の需要を充たすため、近郊の貧しい娘たちがリクルートされツーリスト向け売春婦が「創出」される。つまり白人ツーリズムのシステムが出来上がる。

このような流れがいったん出来上がると、売春婦はかえって供給過剰になる。貧しい娘はいくらでもいるし、システムは公認された。あとは決心だけである。友達もやり始めた・・・

白人客が急増したとしても潜在売春婦はもっと多い。代わりはいくらでも見つけられるよということになると、当然売春価格は下落する。今はショート20万、25万、30万ルピアなどと調子のいい事を言っているが、タイ並みに10ドル前後に下落するかもしれない。

売春婦がより良い稼ぎを得るためには、英語が要件となる。タイでも良くあるように、英語を覚えるために、ほとんど無料・実費だけで白人と同棲したり一緒に旅をしたりする者もでてくるだろう(「白人は英語ができる」という頭はアジア共通)。どうせ売春婦になってしまうのなら、そうしたほうが家にいるよりホテルやアパートに泊まれて白人の行くレストランで食事ができて、家にいるよりいい生活ができるかもしれない。

白人の集まる売春的施設は確立し、白人の好む音楽が流され、英・仏・カナダ・豪・独などの国旗が飾られる。こうしてその場所は地元民の近寄りがたい場所になるのだが、同時並行的にローカルの売春文化も進行する。

まず、地元民の倫理意識が変容崩壊する。というのは、このような場所をひごろから目にしながら、従来からの倫理規範意識を保持することは困難であり、あえてそうしようとするならばたいへんな苦痛を伴うことになるからだ。

規範は必ずしも充たされるわけではないからこそ規範なのだが、それが目の前で踏みにじられている状況で、個人的にあくまでそれを保持するということはたいへんな苦痛である。

このような次第で、白人が2,3人来てあのコーヒーショップに目をつけるだけで、タイ型白人買春文化がこの地域にも確立することになり、それを核とするタイ型白人ツーリズムが定着し、ローカル文化破壊の基地となる(イスラム勢力からの反撃の要素は今は度外視している)。

それと同時に、児童買春もひそかに深く進行するだろう。

そして次にやってくるのは「アジアの女性と子供を救え」とばかりに、実は「アジアの野蛮」と闘い(キリスト教白人)「文明」を宣教するミッショナリーたる、白人人権団体だったりNPOだったりするのである。

 
時間は、マレーシアが香港時間、スマトラがバンコク時間のようである。

ポルノ禁止法案がさかんに議論されている。フラヤホテルで見た「ジャカルタポスト」では、カトリック神父と称する人などが、インドネシアの文化の多様性やエロティックかどうかの主観性などを理由に法案反対の論陣を張っていた。

しかし、「規範」は「事実」ではない。法律が文字通りに実現するわけでもない。貧しい国ではよほど厳しい倫理的なタガをはめておかないと、必ず白人ツーリズムのエジキにされてしまう。

外人に娘を売ることがシステムとして定着してしまってからでは遅いのである。それは後戻りのできない文化破壊、倫理規範の破壊、とり返しのつかない精神破壊を招来する。

三日目。

昨夜もほぼ静かだったのでさらに連泊することにした。

食堂でプカンバルの地元紙(インドネシア語)をめくってみる。風俗広告らしきものが載っていて、女の子の写真と、18+、24jam、そして電話番号、No sex, sara politikと書いてあるのとNo politik,sara dan sexと書いてあるのと2種類あるようだ。Telepasi Hipnosisとか書いてある占い師か霊能力者の広告らしきものも。

ホテル付属のトラベルエージェンシーで明日の飛行機を予約する。

プカンバルからバンダ・アチェへの直行便はない。メダンでトランジットのみ。プカンバルからメダンまで、シュリーヴィジャヤ航空でその時点で45万ルピアぐらい。時間が遅くなればどんどん安くなるから今買わずに待てといわれる。わりと良心的。ホテル付属代理店にしかできないサービス。

メダンからバンダ・アチェへはライオン航空のビジネスクラスしかないという。近所の旅行代理店で聞いたときはこのラインは明日の便はもう売り切れているといわれた。

近くの別の旅行代理店のほうも東南アジアの旅行代理店とは思えないほど親切で、値段を聞くだけなのに長く電話をかけて丁寧に応対してくれた。色白の胸のむっちりしたすこし日本風のきれいな姉ちゃん。

きれいなお姉ちゃんのいるところで買いたいのは人情だが、ホテル付属の代理店は本当に時間が経つにつれて値段が安くなり、1時半ごろには30万ルピアまで下がった。買うことに決めて、30万ルピアのデポジットを払う。さらに下がるかもしれないから、マネージしておくと言ってくれる。チケットは明朝受け渡し。

メダンからバンダ・アチェへのフライトはここでブッキングだけして、メダンで支払うことにしてもらった。ここで支払ってしまうと、万一シュリーヴィジャヤ機が遅れたり欠航してライオン機に乗れなかったときにどうなるか不安だったから。

マスジッドのある通りをさらにいったところにある、どこも同じようなローカルレストランで、アヤム(チキン)を注文したら、ビーフンのスープに鶏肉を少し切って入れたスープが出てきた。そのほかにライスも注文したのでまるでラーメンライスになってしまった。

鶏肉はハラールの白い肉だったが、その店は中国人の店だった。しかし、その中国人は感じのいい人で、ぼりもしなかった。コーヒー、ナシ(ライス)、アヤム入りビーフンで9000ルピア。いつも食べているところは、コーヒー、ナシ、アヤム、生野菜で15000ルピアくらい。

この人は中国人らしくなかった。「ケイ」という種族で、上海の出自だとか。

プカンバルは何もない町。観光的な要素はまったくない。私はこういう町がけっこう好きだ。ただ、こういうところはホテルが高く質も低くなる傾向があると思う。

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ドゥマイ(Dumai,スマトラ島) インドネシア

3月某日

ドゥマイの港に着くと、すぐに「公認ガイド」に付きまとわれる。「外国人」の中でも私だけはこの「公認ガイド」の案内で別室に呼ばれ、入国手続きをする。このフェリーに白人客はいなかった。

「公認ガイド」はイミグレの事務室まで入ってきて、手続きの間中ずっと私の横についている。応対したイミグレ役人に、彼は何だと聞くと、公式ガイドだから彼に何でも頼みなさい、ということだった。イミグレのボスが来るまでかなり待たされる。

ようやくボスが来て、アライバルビザの手続きが始まる。「ボス」は、ハッとするような、びっくりするような美人だった。日本人のようでもありアラブ人のようでもある。物腰は日本人のようで肌もきれいだが、顔立ちはややコーカソイド系のよう。ただし、昨日や今日の混血という感じではなく、よく「こなれている」印象を受ける。とても安定感のあるバランスの良い美貌だった。

これほどの美人はその後スマトラで見なかったし、マレーシアでも見たことがない。しかも若い。それがイミグレのビザ発行責任者で、彼女が来ないと手続きが始まらないのだった。思わず、写真を一枚撮らせてくれといいそうになったが、美人は写真には良く写らないものだし、間抜けなことを言ってバカをさらすだけになりそうだったので抑えた。

アライバルビザの期間は一ヶ月で延長不可。25ドル。

ここの女性は誰もスカーフをしていないなと思った。確かにスマトラはマレーシアよりはちゃんとしている人は少ない。

ドゥマイの港に降りると油の匂いがした。

「公認ガイド」は「外はメニーヤクザ」だなんていい加減なことを言っていたが、初めてのスマトラなので逆らわずにこの男についていく。あまり遠くないホテルまでバイクで5リンギ。

City Hotelというところの13万5000ルピアの部屋ににチェックイン。

礼儀正しくハンサムな若いフロントクラークが応対する。3分もしないうちに「女性を呼びましょうか。ショートタイム20万ルピア、オールナイト・・・・」と慇懃に申し出てくる。「健全なツーリスト」である私は一応断っておいた。

そのフロントはなかなかの好青年だった。現在28歳だが、19歳のときこのドゥマイで同じ19歳の日本人の女子学生と会ったことがあるという。その出会いの思い出をしみじみと語っていた。この美男子が遠くを見つめるようにして語るその日本の女子学生はどんな女だったのか・・・・・その出会いの「内容」がどんなものだったのか、について彼は語ろうとしなかった。

その話が出る前に、彼は私に対してすでに「ジキジキ」という言葉を使っていたので、私も「ジキジキはできたのか」と聞いてみた。しかし、彼は「シークレットだ」といって教えてくれなかった。

彼にとっては本当に大切な思い出なのかもしれない。その女はその後北海道で教師になったという。しばらくは消息があったらしいが、今は音信も途絶えているという。

「シティホテル」からも、油井から立ち上る炎が見える。ドゥマイには製油所がある。

この町の匂いは、カンボジアのポイペトの匂いにすこし似ている。野焼きの臭い。ポイペトほど強烈ではない。ポイペトのはビニールなどを焼く臭いなのだろう。

ドゥマイはマレーシアより物価が高い印象を受ける。コピスースー(コンデンスミルク入りコーヒー)がローカルな店で4000ルピアもする。2リンギ近い。安いところで3000ルピア。コピスースーはコーヒーの色があまりしない。白っぽいコーヒー。

ドゥマイでは「テータリク」は通じない。コピオは通じる。ローティ・チャナイも通じない。ローティは通じるようだが、あまりない。インド人は少ない。

ドゥマイにはリクシャが多い。リクシャ運ちゃんはしつこく下品に見えるが、自分が経験した限りではわりと誠実でとくにぼったりはしなかったと思う。物見遊山のツーリストがたくさん来るところではないので、特別にぼったくってやろうという発想はないのかもしれない。

両替レートは、1万ルピア前後が1ドル。ルピアを買うときは1ドル8000ルピアくらい。ドルを買うときには12000ルピアくらいのようだ。

1万、10万、100万という金額のイメージをつかむのは難しい。とくにインドネシアルピアは、1万、5万、10万という高額紙幣があるので混乱しやすい。最初、1万ルピア札と10万ルピア札、5000ルピア札と5万ルピア札をよく間違えて混乱した。両替のときなど10万ルピア札を10枚ホッチキスで閉じたのを渡される。これを次に使うとき、100万ルピアの札束を10万ルピアと間違えて渡したこともあった。ホテルだったので、向こうが注意してくれた。インドネシアは、10年位前にバリに行っただけ。

「地球の歩き方」には、両替レートなどいちいち気にせず、インドネシアの相場を覚えようなんて書いてあったが、旅行者にそんなことを要求するほうがどうにかしている。インドネシア人の金銭感覚といっても、金持ちと庶民とでは一桁も二桁も違うだろう。

バリで第二夫人になろうという人ならともかく、普通の旅行者が(自分の予算や旅行スタイルに見合った)その国の金銭感覚を「肌で」身につけることなど土台不可能なことである。

したがって、為替レートはしっかりと頭に叩き込んでおくべきだと私は思う。細かいところまで考える必要はもちろんないし、正確なレートである必要さえない。

どうせいろんなところでズレはおきるし、買いレートと売りレートも大きく違う。客観的に正確なレートが存在するわけではないので、自分なりのレートでいいと思うが、レートに関して「定見」を持っておくことがとにかく必要である。そうしないと、桁違いのミスをしかねない。

私は1ドル10000ルピアと決めておいた。1ドル何ルピアですかと両替屋やホテルで聞けば8000ルピアくらいと言われると思う。しかしそれは、相手がドルを買ってルピアを売ることを念頭においているからだと思う。

私は、1リンギを売って2400ルピアほどだから(ホテルならもっと安い)、10000ルピアぐらいが1ドルと決めた。4リンギが1ドル。1リンギが10バーツと決めておく。

ドゥマイのATMはシティバンクのキャッシュカードも使えるが、100万ルピアまでしかおろせなかった。特別の料金を取るような表示も。一回100万ルピアということは一回100ドルしか下ろせないということ。

翌日。

フロントに出ると昨夜のハンサムな男はいなくなり、制服を着た無愛想なおばさんが3人くらい並んで座っていた。これがまた、なんというか、インドネシアの政治家のような、スカルノプトリを怒らせたようなしぶい顔の貫禄のあるおばさんばかりで、何か怒られるのかと思った。

怖い顔のおばさんに両替屋の場所を聞く。両替屋は、シティホテルからジェティ(桟橋)の方にすこし行ったコンフォートホテルの2,3件先にある。

因みに宿泊料は、「コンフォートホテル」はスタンダード17万ルピアくらいから。「シティホテル」は13万ルピア台から。

両替屋は、やはり中国人の女がいて、このときは1リンギ2450ルピア。ムラカのジェティとあまり変わらない。

近くで見つけたインド(風)レストラン(インド人はいない)でテーを飲む。「テータリク」は通じないが、「テースースー」は通じた。うまくはない。コンデンスミルクたっぷり。あのシンガポール製の固いコンデンスミルクは安くはないと思うが・・・・ミャンマーでは入れるコンデンスミルクの種類によってラペイエ(ミルクティー)の値段を変えているところもあった。上等なほうはシンガポール製コンデンスミルク入り・・・・

「テースースー」を注文したとき周りの人に、お前テースースーなんか飲むのかという感じで笑われた。こちらではブラックティー(砂糖入り)を飲む人が多い。

コピオはインドネシアでは「コピ・パナス」。

ミャンマー式に注文しないお菓子を並べて食べた分だけ払うという店もある。この方式はKLのインド人街にもある。インド式なのかもしれない。

昨日見かけた立派なマスジッド(モスク)を見たいと思い、リクシャを雇うが、いくら言っても違うところばかりに行ってしまう。結局遠く離れた小さなマスジッドまで来たところでリクシャを捨てる。そのマスジッドでごろごろしていた英語をすこし話すおじさんと話をする。いきなり宗教は何かと聞かれ、「シントーだ」と答えると、知っているようだった。

結局、昨夜見たマスジッドはホテルのすぐ近くにあった。夜見たのでライトアップで立派そうに見えただけだった。ごく普通の実用的なマスジッドだった。

同じ階に部屋を借りている売春婦から何度も内線電話がかかってくる。この子は、ホテルに部屋を借りて、そこを売春オフィスにして、宿泊客に営業しているようだった。

最初部屋を決めるときに、ホテルのボーイが案内した部屋はこの子のオフィスの正面の部屋だった。そのときは売春オフィスだとわからなかったが、扉を開け放しているので、うるさい中国人がいるかもしれないと思い、そこから離れた端っこの部屋にしてもらった。

それでも通りがかるたびに手招きするので、夜ちょっとそのオフィスに立ち寄って彼女と話をした。

念のために強調しておくと、私は彼女の客になったのではない。私はあくまで健全な旅行者である。私は最後まで彼女の客にはならなかった。

彼女とは扉を開け放したまま、けっこう楽しく会話した。客がないらしく、暇をもてあましているようだった。

英語をすこし話す。ハイスクールで4年間英語も習ったという。かなりの高学歴である。白人客から教わったというのではなさそうで、しゃべるときはよくしゃべるが、ありふれた単語が出てこないこともある。客家語もすこしはなす(ハッカといったから多分客家のことなのだろう)。これは客から教わったのだろう。

なかなかよい子だと思った。まともな感じの子で、人をリラックスさせる術を心得ているし、下品な感じではなかった。何も要求してこない。暇をもてあましているようなのに、客になれとも言わない。

バンドゥン出身で、本当は21歳だが、24歳と騙っているといっていた。健全なこの国では、21歳の女性は単身でホテルに泊まれないらしい。毎日収めなければならないホテルのデポジットを稼ぎ出さなければならない。昨夜フロントの二枚目が呼んでやるといった女がこの子なのかどうかわからないが、彼は20万といってた。この子は25万でやっていると言っていたから、違う人なのかもしれない。

「バンドゥンに17歳の妹がいて、彼女にはこういう仕事はさせたくない。アカデミーまで出してやりたいから・・・」なんて、泣かせどころもちゃんと心得ている。話し方が自然なので、率直な気持ちという感じで、そんなに嫌味もなかった。

各地のホテルを転々としながら営業しているらしく、2,3日のうちにメダンに行くといっていた。一箇所に長居すると何かと差しさわりがあるのだろうか。

彼女は時に貴婦人のように振舞った。どういう関係かわからないが、ヨボヨボな感じのほとんど口をきかないおじさんが一人彼女の周りにいる。そのおじさんに雑用を頼み、そのたびにさっと1000ルピア札のチップを渡す。

その振舞い方がまったくさりげなく、手馴れている感じで、自然で、跡を引かない。これは日本人の若い女にはできないことだと思った。私も難しい。

このおじさんは本当に貧しい感じで、おとなしくほとんど目を上げないような人だったが、携帯電話を持ち歩いていた。彼女が何か頼みたいことがあると携帯で呼び出して指図する。

私は彼女の勧めで彼女の部屋で食事をしたが、そのときも携帯でおじさんに近くの屋台で飯を買ってくるように指示した。バナナの葉っぱに包んだ飯と簡単なおかず。

私が代金のほかに1000ルピア札を一枚おじさんに渡そうとすると、彼女は、この屋台はすこし遠いところだから2000渡さなければだめだと私に教えてくれた。

日本人旅行者もアジア旅行をするときには、倹約ばかりするのではなく、下僕や目下の者をスマートに使い、チップの関係で上手に付き合うことを勉強してみるのもいいのかもしれない。

三日目。

大通りをはさんでCity Hotelの向かいにある旅行会社でプカンバル行きのミニバスチケットを買う。70000ルピア。高くない。この旅行会社は英語がまったく通じない。飛び切りの美人がいて大変感じの良いところだった。

バス時間に合わせて2時チェックアウトにしてもらった。

今日ドゥマイに来て初めて毛唐を見た。本当に大きな声を出す。

昼頃、例の売春婦からまた内線電話がかかってきた。行ってみると、ひたすら髪を染めていた。例のように扉を開け放したまま彼女としゃべっていると、その向かいの部屋、つまり最初私が案内されて断った部屋に、中年の毛唐が一人入るところだった。ベーリーグッド、ベーリーグッドと大騒ぎしている。

次にその毛唐は私たちを見つけた。私たちは、部屋の椅子に並んでいて、まあカップル然としていたのだが、その毛唐はいきなり女のほうに声をかけてきた。

こういうことはアジアではよくあることである。これが初めてではない。彼ら白人にとっては、アジア女はみな売春婦と同じであり、彼らが常に優先権を持つモノでしかないのである。東南アジアで日本人の女と知り合って話していても、毛唐は平気でずかずかと割り込んできて女に話しかける。毛唐の目には、日本人女も、バービアにたむろして客をあさっているタイ売春婦と同じようにしか見えない。そして売春婦に対してさえ、一緒にいる有色人種の男よりも白人である彼らが優先権を持つのが当然だと思っている。

日本人女性が白人男性と結婚して、一緒にタイのビーチなどに遊びに行ったら悲惨なものであろう。周りの白人たちがニヤニヤして男のほうに聞くだろう「いい女だな。どこで拾ってきたんだ。月いくら払ってる・・・・ヒルトライブの娘か?俺にもひとつ紹介してくれないかな」。(白人に「いい女」といわれたらあなたは相当なゲテモノということなのだが。)

こんなちょっとしたことでも何度も経験し、その「意味」がわかってくると大変気に触るようになる。その意味がわかって平気でいられるのは奴隷である。白人とわれわれとの対等な共存ということは、原理的に無理である。せいぜい、「穏当な住み分け」が可能なくらいである。

アメリカに批判されていたアフリカのどこかの国の大統領が、「ライス(国務長官)は、白人が黒人の友にはなりえないことをわかっていないのだ」と言っていたが、彼は正しい。白人は非白人の友にはなり得ない。白人が非白人と対等な関係を築くことは、原理的に不可能である。白人には「気づく力」がないからだ。彼らは自分たちが教わってきた教義を確認したり、ときには否定してみせたりしているだけで永久に「気づく」ということがない。

ホテルのテレビでは、さかんに「ポルノ反対運動」のデモのニュースを流していた。一緒に見ていた売春婦もI hate pornoと言っていた。彼女もムスリムである。

室内でやることと外にさらすこととはまったくの別物である。社会倫理規範は万人にとって現実に重要なものであり、生きるための「よすが」でもある。倫理規範を失うと本当に生きることができなくなる。人格が歩くたびにぼろぼろ崩れ落ちるように。倫理的にデタラメな社会では、本当に息をするのも苦しくなる。それが人間の本来の性質である。

私は長い間そのことがよくわかっていなかったが、この売春婦はわかっているようだった。

実に最も立場の弱い売春婦も、そういう社会規範によって容認された範囲で稼業しているのであり、倫理の否定の上に立ってやっているのではない。この点われわれは勘違いしがちである。

ホテル売春が儲かるからといって一箇所に長居し、堂々と名前を売って看板を出すような真似をしてはならない・・・周囲に知れ渡る前に移転すべきである・・・等々。

あなたが買春するとしても表通りに売春婦を連れまわすような事はしてはならない。それは白人の文化である。白人の真似をしてはいけない。必要ならコソコソ買うのが正しい。そして買春話を人にしてはならない。

白人が売春婦を好んで連れ回すのは、性欲というより「倫理規範破壊欲」のゲームであり、獣欲ゲームである。彼らはもちろん狂っている。室内でやっていいことなら何でも外にさらしてもいい「はず」だ、「真理」は暴露されるべきであるという狂信は、社会倫理規範の全否定、すなわち人間性の全否定であり、狂った思想である。彼らのさらす脛毛すら、狂気の発露として文化破壊の尖兵となる。

そういうわけで、ドゥマイを出て、プカンバル(Pekanbaru)に向かった。彼女は、芯にマトモなところがある良い子だったが、良い子とは別れなければならない。

シティホテルの向かいの旅行代理店の前からミニバスに乗る。乗客は私を含めて二人だけ。

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マラッカ海峡を渡る ドゥマイ(スマトラ島)へ

某月某日 ムラカ

8時ごろ起きだしてジェティ(桟橋)のほうに行き、脇に並んでいるチケット売り場兼両替屋でドゥマイ便のチケットを買う。カウンターの中国女がどんどん話を決めてしまうので不安になるがとくにぼられているわけでもカモられているわけでもないようだった。

ドゥマイまでのフェリーのチケットは80リンギ、ポートチャージ9リンギ。

両替も勧められるがほかでもレートを聞いてみる。近くにいた闇っぽいインドネシア人らしい両替屋は、レートは同じだがコミッションを取る。結局その中国女のカウンターで、1リンギ2410ルピアで200リンギを両替する。インドネシアルピアを買うのだから、供給の多いインドネシア側のほうがレートが良いのではないかと思い、少しだけにしておく。

12時にMesraをチェックアウトし、下のインドレストランで時間をつぶす、ここは親切な人が多い。

2時半ごろジェティへ。イミグレで手続きを簡単に済ませて乗船。3時15分ごろエンジンがかかる。さあマラッカ海峡へ!

常に冒険を求めるツーリストにとって、この危険極まりない、天下のシーレーン、日本経済の頚動脈、凶暴きわまりない海賊の多発地帯である天下のマラッカ海峡を横断する機会を得たことは、この上ない栄誉というべきではないか。

今私はまさにそのマラッカ海峡へと船出しようとしている!これは日本に帰ったら相当自慢してもいいことではないか?

などと気負いこんで、この危険きわまりない海峡へと船出したのであるが・・・・2時間半ほどの船旅の間中、海は平穏そのもの。いつ出るのか、今か今かと待ち構えているのに、海賊など出る気配もない。

考えてみれば、海に海賊がいたとしても、乗客もまばら、というかちらほらしかいないこのフェリーをわざわざ襲うわけもないか。

HIKARIという日本名が書かれた大きな船がのんびりと通り過ぎていく。

フェリーのトイレは大変シンプルなものだったが、清潔で、水が常に流れていた。

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ムラカのイミグレで写真を撮ろうとしたら止められた。まあ当然だろうけど。イミグレはマレーシア人と外国人(フォリナー)とインドネシア人とに別れていた。「外国人」のところに並んでいる人も見た目マレーシア人やインドネシア人と変わらないような人ばかり。女の人はスカーフをした人が多い。国籍はわからないがマレー系タイ人とかかも知れない。

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2006年2月28日 (火)

アルカイダが資金提供 バリ島テロ、運び役を逮捕

【ジャカルタ28日共同】インドネシア国家警察幹部は28日、バリ島爆弾テロなど同国で昨年まで4年連続で起きた大型テロで、国際テロ組織アルカイダの指導部が少なくとも3回、資金を直接提供していたことが確認されたと述べ、資金の運び役だったアルカイダの複数のメンバーを逮捕し調べていることを明らかにした。
 押収したビデオ映像も公表され、首謀者のうち依然逃亡中のマレーシア人、ヌルディン容疑者が登場して「アルカイダのマレー地域(マレーシア、インドネシアなど)の指揮官だ」と名乗る場面があった。
 捜査幹部によると、運び役はいずれも外国人。資金はマレーシアやタイを経由して現金で届けられ、東南アジアのイスラム地下組織ジェマ・イスラミア(JI)が集めた募金や犯行グループが強盗で稼いだ金とともに使われた。逮捕した犯行グループの一部は、アルカイダの指導者ビンラディン容疑者と面会し、テロ実行の誓約書に署名したと自供した。

(共同通信) - 2月28日22時23分更新

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2006年2月23日 (木)

米企業の金鉱山が操業停止 パプア先住民が道路封鎖

【ジャカルタ23日共同】独立紛争を抱えるインドネシア・パプア州(ニューギニア島西部)で、世界最大の産金企業、米フリーポート社が採掘する金・銅鉱山への道路を先住民が封鎖し、同社は22日から操業を停止した。23日には首都ジャカルタの同社現地法人本社ビルで「人権侵害をやめろ」と叫ぶ先住民学生グループが放火や投石をした。
 先住民の伝統的生活や環境が破壊され、豊かな資源を米企業や中央政府に収奪されているとの不満が抗議の背景にある。今のところ独立運動と直接連携はしていないが、アチェ州で独立紛争の和平が進展したことに刺激され、パプア独立派の動きも再燃しており、ユドヨノ政権の新たな難題となっている。

(共同通信) - 2月23日18時46分更新

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2006年2月 9日 (木)

ムハンマド風刺画掲載のデンマーク紙、3年前キリスト風刺画掲載を拒否

[コペンハーゲン 8日 ロイター] イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を最初に掲載したデンマークの新聞ユランズ・ポステンが、3年前、攻撃的過ぎるとしてキリストの風刺画の掲載を拒否していたことが分かった。漫画の作者がロイターに明らかにした。
 同紙の編集者は、この風刺画は勝手に送り付けられたものだったとしたうえで、西側諸国が主張している表現の自由に挑戦する形でイランが掲載すると表明したホロコースト(ユダヤ人虐殺)の風刺画も掲載したいとの考えを示した。
 同編集者は、ムハンマドの風刺画掲載によりイスラム教徒の心情を傷つけたことを謝罪する一方、表現の自由を主張し、掲載の権利はあるとしていた。
 キリストの風刺画の作者は、ロイターに送った電子メールで「私が漫画を見せたキリスト教徒は誰も傷つくことはなかったが、編集者は、キリスト教徒に限らず読者全般に対してこの漫画は攻撃的だとして掲載を拒否した」と述べた
 これに対して、掲載を拒否した当時の編集者は、漫画が優れていなかったから掲載しなかった、としている

(ロイター) - 2月9日13時41分更新

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何も言うことのない、ダブルスタンダード。

「勝手に送りつけられた」って?フリーの作家が持ち込むものなら、そういう理屈をつけることは常に可能だろう。

「キリスト教徒に限らず読者全般に攻撃的」というときの「キリスト教徒」は「熱心なキリスト教徒」で、「読者全般」は普通のクリスチャン白人といったところだろう。

この感覚が欧州白人のスタンダードなんだろう。

以前、チベットを旅したとき、若いドイツ人2人の前で、話の流れで「自分はキリスト教徒でない」といったら、彼らはギョッとしたように急に表情が変わり、獣を見るような目でにらみつけてきた。

これが異教徒か、これが野蛮人か、と確認しているようだった。

チベットまで来るやつなら「異教」の予備知識くらい仕入れているだろうに、このくらいのことに驚くのか、とそのときは意外に感じたが、私が甘かったようだ。

異教徒=野蛮人はあくまで「観察の対象」であって、「観察する側」(ツーリストの側)にいるということがピンと来なかったのだろう。

これは白人ツーリストに共通する心理的特徴である。

白人は地の果てまで行っても白人である。白人ツーリズムは、現代の植民地主義の環にほかならない。

     
風刺漫画余波、デンマークとの試合をインドネシア中止

 【ジャカルタ=黒瀬悦成】デンマーク紙の風刺漫画掲載問題で、インドネシアのバドミントン協会は9日、インドネシア国内で3月14日開催予定だったデンマークとの親善試合を中止したと発表した。

 同協会幹部は中止の理由について、「試合会場でデンマーク人選手の安全を保証できないため」としている。

 ジャカルタのデンマーク大使館は、イスラム過激派からの抗議デモの激化に伴い、6日から臨時休館したほか、インドネシア在住の自国民に対しても国外退避を勧告するなど、緊張状態が続いている。

(読売新聞) - 2月9日20時30分更新

イスラム教侮辱は「犯罪」 国連人権理決議案で対立

 【ニューヨーク9日共同】国連改革の目玉の一つである人権理事会設立をめぐり、パキスタンやイランが「信仰を侮辱するのは人権侵害」との立場から、宗教への中傷行為を「犯罪」とみなす表現を設立決議案に盛り込むよう提案。これにトルコなどは反対してイスラム諸国間に対立を招いていることが9日、分かった。イスラム圏の国連外交筋が明らかにした。
 イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画掲載問題を踏まえた主張。しかし、欧米諸国が重視する「表現の自由」を侵す恐れがある上、パキスタンなどは当初、理事会設立に抵抗していたため「設立交渉の妨害が真の狙いでは」といぶかる声がイスラム諸国からも出ている。

(共同通信) - 2月9日16時41分更新


経営者は正常、編集者はキチガイ。

風刺画問題も議論へ NATO国防相理事会

 【タオルミナ(イタリア南部)9日共同】北大西洋条約機構(NATO)の非公式国防相理事会が9日、イタリア南部シチリア島のタオルミナで2日間の日程で始まった。
 NATOが平和維持活動を行うアフガニスタンでは、イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画問題でNATO加盟国も対象とする抗議デモが起きており、この問題への対応も急きょ議論される見通し。
 主要議題は、国際テロなどに対応する即応部隊の完全運用や、経費の公平負担をめざす共通基金など。しかし10日にはイスラエル、ヨルダン、エジプトなど地中海諸国7カ国の国防相らとの、初の昼食会も予定されており、ここでも風刺漫画問題が話し合われる可能性がある。

(共同通信) - 2月10日0時28分更新

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2006年2月 8日 (水)

デンマーク政府、国民にインドネシアからの出国を勧告

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 2月7日、デンマーク紙などがイスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画を掲載した問題で、デンマーク外務省はインドネシア滞在のデンマーク人に同国からの出国を勧告。写真はインドネシアの反デンマークデモ(2006年 ロイター/Tarmizy Harva)
 

 [ジャカルタ 7日 ロイター] デンマーク紙などがイスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画を掲載した問題で、デンマーク外務省は7日、インドネシアに滞在しているデンマーク人に同国からの出国を勧告した。
 この問題をめぐっては、欧州、中東、一部のアジア諸国でイスラム教徒による抗議活動が続発。
 駐インドネシアのデンマーク大使によると、インドネシアの3都市でも、デンマークの国旗や首相の写真が燃やされる事件が相次いでいる。
 同大使はロイターに「外務省は、デンマーク人のインドネシアへの渡航自粛とインドネシアにいる国民の出国を勧告する」と述べた。

(ロイター) - 2月8日7時0分更新

       

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インドネシアといわず、東南アジアから消えてほしい。
   

地球規模の危機と懸念 デンマーク首相

 【ロンドン7日共同】AP通信によると、デンマークのラスムセン首相は7日の記者会見で、イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画掲載問題について「われわれは現在、拡大する地球規模の危機に直面している」と語り、関係各国や国民に冷静な対応を呼び掛けた。
 デンマーク紙が昨年9月に風刺漫画を掲載したことが、今回の問題のきっかけとなった。
(共同通信) - 2月8日2時26分更新

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危機とは大げさな。

自分で勝手に掘った「墓穴」だろう。

 
ノルウェー大使館に投石 風刺漫画掲載に抗議

 【テヘラン7日共同】イランの首都テヘランで7日夜、約50人がイスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画掲載に抗議し、ノルウェー大使館に石や発火物を投げ付けた。
 イランでは6、7の両日、抗議デモの参加者がオーストリアやデンマークの大使館に投石するなど、抗議行動が続いている。

(共同通信) - 2月8日7時21分更新

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2006年1月31日 (火)

「プレイボーイ」の発行規制は困難 頭悩ますインドネシア政府

世界最大数のイスラム教徒を持つインドネシアで、米男性雑誌「PLAYBOY(プレイボーイ)」のインドネシア版発刊問題をめぐり、イスラム系団体を中心に反対運動が起きている中、同国政府が発刊を規制する法的根拠を見つけられず、頭を悩ましている。手を打てない最大の理由が、1998年以降の民主化の下、国民が求めていた出版規制の撤廃=言論の自由化=にあるのは何とも皮肉。副大統領らは「事前の規制は不可能」と繰り返し、3月発刊予定の同誌の内容を見た上で対策を講じる考えだ。(ベリタ通信=都葉郁夫)

 インドネシア版「プレイボーイ」を出版するのは、ジャカルタに拠点を置くベルベット・シルバー・メディア社。同社で広報・宣伝を担当するアビアント・ヌグロホ氏が今月初め、「同誌の発刊許可を既に取得し、3月中に発刊させる予定」と明らかにした。

 イスラム教徒が人口の約90%を占め、女性のヌード写真などには極めて保守的なイスラム団体から反発が出るのは、ヌグロホ氏も十分に分かっており、想定通り、出版計画を地元インターネットサイトで発表した直後から、イスラム団体などから「出版反対」運動が早速起きた。

 反対運動は今や女性団体も巻き込みながら、ジャカルタにとどまらず、第2の都市東ジャワ州のスラバヤや古都ジョクジャカルタなどにも拡大。デモに参加したイスラム教徒たちは「ポルノ雑誌の発禁を」などと書いたプラカードを掲げ、政府に出版差し止めを決定するよう求めている。

 これに加え、ディスコやカラオケにも強い不快感を示しているイスラム過激派勢力は、政府が規制しないのなら、自分たちが実力を行使してでも同誌の発刊を阻止するとの高圧的姿勢をみせ始めている。

 これに対し政府側は、イスラム教徒および同団体の反対運動に一定の理解を示しているものの、期待される措置を講じられないのが実情だ。

 1966年から32年間続いたスハルト独裁政権下では、当局が厳しく管理していた「出版物認可制度」があり、反政府的は書籍、新聞、週刊誌だけでなく、際どい写真などを掲載した娯楽雑誌にはこの「伝家の宝刀」を抜けば、規制や発禁処分がたちどころに可能だった。

 ところが、1998年5月、学生らによる民主化要求運動でスハルト大統領が辞任を余儀なくされたのを機に、同国では政治の民主化が一挙に進み、中でも象徴的存在のひとつとなったのが、言論弾圧の具として悪名の高かった「出版物認可制度」の完全撤廃だった。

 この結果、インドネシアでは同年後半以降、新聞、雑誌などの出版物が雨後の筍(たけのこ)のように発行されている。今回の「プレイボーイ」インドネシア版も昨年11月に出版許可を得たという。

 こうした経緯から今回の事態で最も頭を悩ませているのが、民主化を進めてきた当のインドネシア政府。訪日を終えて帰国したカラ副大統領も「プレイボーイ」対策を質問された際、「発刊には反対だが、現状で政府に規制権限は一切ない」と話し、お手上げ状態をさらけ出す始末。

 そこで注目されているのが同国国会で進むポルノ規制法案審議の行方だが、成立をいくら急いだとしても3月の「プレイボーイ」の発刊には間に合わないという。

 政府の限界を知ったイスラム団体は今後、インドネシア版「プレイボーイ」発刊への反対運動をさらに全国規模へ拡大、出版社に発刊を断念させるまで粘り強く闘う姿勢を明らかにしている。


2006年01月31日00時05分 ベリタ通信

前記事 
プレイボーイ・インドネシア版にイスラム団体怒り爆発
 

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バリ島テロ容疑者が新組織 JI離れ独自行動

【ジャカルタ30日共同】インドネシアのスタント国家警察長官は30日の国会答弁で、バリ島爆弾テロの首謀者とされるマレーシア人のヌルディン容疑者について「最近集めた部下を率い、新しい組織名を名乗っていることが分かった」と述べた。
 東南アジアのイスラム地下組織ジェマ・イスラミア(JI)が分裂状態に陥り、離脱したヌルディン容疑者ら分派が独自行動をとって爆弾テロを続けているとの見方が一層強まった。
 長官や警察幹部によると、新組織名は「タンジーム・カイダ・アル・ジハード」(聖戦基地集団)。昨年10月のバリ島同時爆弾テロの後、逮捕した11人の取り調べや押収資料で判明した。

(共同通信) - 1月30日21時26分更新
       
       
In this picture released by Indonesian police on Nov. 3, 2003, Malaysian terror suspect Noordin Mohamed Top is shown.
Noordin Mohammad Top narrowly escaped a police raid in November

An Islamic militant wanted for a string of attacks across Indonesia has claimed to be leader of a previously unknown group, Indonesian police have said.

Police said Noordin Mohammad Top described himself as head of Tanzim Qaedat al-Jihad, covering Indonesia, Malaysia, Brunei and the Philippines.

Analysts say he could have split from the group he was previously associated with, Jemaah Islamiah (JI).

JI has been blamed for the devastating Bali 2002 attacks, among others.

Tanzim Qaedat al-Jihad translates as Organisation for the Base of Jihad.

It is not clear what the group stands for, although jihad in this context means holy war, and the use of Qaedat suggests an ideological connection with the militant group al-Qaeda.

Indonesian police chief Sutanto told reporters the information came to light after police interviewed several suspects and witnesses following the latest attack on Bali, last October.

"In his own account related to the Bali bombings on October 1, 2005, Noordin M Top said that he was the leader of the Tanzim Qaedat al-Jihad for the Malay island group, which includes Malaysia, Brunei, Indonesia, the Philippines and parts of several other Asian countries," Gen Sutanto said.

'Split with JI'

He gave no further details of the organisation.

Analysts have speculated that Malaysian national Noordin Mohammad Top has drifted away from the main JI structure due to a disagreement about attacks on "soft targets", which often kill civilian bystanders.

Noordin Mohammad Top narrowly escaped capture last November after police raided a house he was staying in in East Java. His associate Azahari Husin was killed in a separate raid on another house.

More than 200 people were killed in the 2002 attacks on Bali's nightclubs, and 23 people, including three suicide bombers, were killed in the latest Bali bombings in 2005.

新組織はソフトターゲットは狙わないということか?

ジェマアイスラミア(JI)

Terrorism - Jemaah Islamiah

バリ島テロの衝撃
 

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2006年1月26日 (木)

日本のODAを批判 インドネシア副大統領

【ジャカルタ26日共同】インドネシアの英字紙ジャカルタ・ポストは26日、ユスフ・カラ副大統領が、東京で開かれたインドネシア人の会合で、最大援助国である日本の政府開発援助(ODA)について、借款供与に偏重しており自国の利益にならないと批判、対日依存からの脱却と中国重視を訴えたと報じた
 インドネシアは日本にとっても、最大のODA供与国。対外債務がインドネシアの重荷になっていることから、日本は2000年度から円借款などの返済繰り延べを実施している。非政府組織(NGO)はインドネシアを借金漬けにしたと日本を批判しているが、首脳級による批判は異例。
 同紙によると、副大統領は「一国(日本)に頼っていてはならない」と述べた。また、日本の援助は借款に力を入れすぎ、日本側の利益の方が大きいとして「借款は支援と呼べない」と批判、中国との経済関係を重視する姿勢を示した

(共同通信) - 1月26日18時10分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060126-00000198-kyodo-int

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東南アジアに対する中国の影響力は強くなっている。東南アジアの金持ちといえば華人が多く、華人に対する中国共産党の影響力も強くなっているようだ。
中国共産党は、「中華」思想を体現する現代の中華皇帝になりつつあると思う。

東南アジアの英字紙が、ことさら反日記事を書くことは良くあると思う。そういう記事が出ると、日本共産党が好んで引用し、それが現地の輿論であるかのように言うものである。

外国はいろんなことを言うものであり、つねに日本側に立ってくれる「親日国」などあると思うのが幻想である。問題は、やはり、日本国内の反日主義者だろう。これは、他の先進国にはあまり見ない現象だと思う。

そして見落としがちなことだが、日本共産党こそ、日本の反日主義の土台であり、いまなおその中軸であることを忘れてはいけないと思う。戦後は朝鮮総連とも深い関係にあった政党である。日本人がこんな政党に、9もの衆院議席を与えていること自体、非常におかしいのである。

西洋の左翼でさえ、自国の発展の歴史そのものを否定したり、「西洋文明」自体を否定したりはしない。文明といえば西洋文明のことであるというのは彼らの共通の認識である。しかし、大航海時代、植民地支配、帝国主義は、「西洋文明」の成立に不可欠の条件であったし、輝かしい「西洋文明」(の歴史)の不可分の要素なのである。文明とは歴史である。

アメリカのどんなリベラルも、白人による先住民の土地収奪(=白人のアメリカ移住自体)を否定したり、奴隷から搾取して蓄積した富を返還しろと主張したりはしないだろう。

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2006年1月19日 (木)

プレイボーイ・インドネシア版にイスラム団体怒り爆発

【ジャカルタ=黒瀬悦成】世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシアで、米男性月刊誌「プレイボーイ」のインドネシア語版が今年3月に発刊されることになり、イスラム団体から非難が噴出している。

 アジアでプレイボーイ誌の現地語版が出版されるのは、日本に続き2か国目。

 酒場や風俗店など「反宗教的施設」への襲撃を繰り返している過激派「イスラム防衛戦線」(FPI)のムハンマド・リジク議長は、「発行されたら、『一掃作戦』を展開する」と警告。国営アンタラ通信によると、恐れをなした同誌の編集者が事情説明のためFPI本部を訪ねたところ、同議長から〈1〉雑誌名を「ジェントルマン」や「プリア」(インドネシア語で男性の意味)にする〈2〉記事をイスラムの教えに沿った内容にする――などの“改善案”を提案されたという。

 国会でも論議の対象となるなど、社会問題化。発行元の地元企業は、「グラビアの露出度は抑える」と、火消しに躍起となっている。

(読売新聞) - 1月19日23時39分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060119-00000315-yom-int

前記事:
雑誌「プレイボーイ」創刊に驚き イスラム教徒多いインドネシア
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/01/post_800d.html
 

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2006年1月18日 (水)

雑誌「プレイボーイ」創刊に驚き イスラム教徒多いインドネシア

2億人近いイスラム教徒が暮らすインドネシア。世界最大のイスラム教徒数を誇るこの国で、セクシー女性のピンナップ写真が売り物の米の月刊誌「PLAYBOY(プレイボーイ)」のインドネシア版が近く、発刊されることになった。早ければ3月には登場する見込みだが、この突然の発刊ニュースに、保守的な体質のイスラム教団体などからは早くも、「社会に乱れを持ち込む、とんでもない話」との反発が飛び出している。(ベリタ通信=都葉郁夫)

 中東地域のイスラム諸国などに比べれば、イスラム教が「国教」ではないことなどから、インドネシアでは女性の化粧や服装も自由。とはいえ、信仰熱心で、保守的な同教徒たちの参加する大規模なイスラム団体が隠然たる社会的影響力を持っているほか、最近ではカラオケクラブにも目を光らせ、過激な行動に出る原理主義組織の台頭も目立っている。

 その中、同国のインターネットサイト「ドゥティックコム」が「インドネシア版プレイボーイが近く発刊」とのニュースを載せ、社会に衝撃を与えた。

 同サイトによると、同誌の出版・宣伝を担当するアビアント・ヌグロホ氏は「出版許可を昨年11月末に取得し、今年3月までに創刊にこぎつけたい」と話している。

 価格は5万ルピア(約600円)の予定で、これは他の月刊誌の価格に比べて2、3倍も高くなる。また、販売方法にも神経を使い、当初は契約購読形式にするほか、店頭販売も特定の書店でしか行わない予定という。

 そうした中、最も関心を集めているのがその内容。つまり、インドネシア版も本家米国で出版されている内容と同様、女性のヌード写真などが掲載されるのかどうかだ。この点についてヌグロホ氏は「女性だけを売り物にするのではなく、読者のためになる内容にする」とだけしか語らず、具体的な企画は“企業秘密”として明かしていない。

 しかし、プレイボーイの現地出版社がインドネシア人女性を対象として、水着姿になる「モデル募集」を行ったとの報道も出るなど、どのような写真が創刊号を飾るのかに、インドネシア人男性らは早くも興味を寄せている

 これに対し、米国の性文化の象徴ともいえる「プレイボーイ」誌のインドネシア上陸に不快感と警戒感を強めているのが、会員数3500万人を誇る「ナフダトゥール・ウラマ」(NU)などのイスラム教団体だ。

 NUのムザディ議長は同誌発刊のニュースに「発刊は大きな災禍をもたらす」と“最大級”の反発と不快感を表し、「発刊を控えるべきだ」と続けた。

 発刊のニュースは、現在、ポルノ規制法案を審議中の国会にも衝撃をもたらし、イスラム系政党「福祉正義党」のユスロ議員は「インドネシア版はこの国の文化伝統に沿った内容にすべき」と釘を刺すと同時に、「米国版と同様の内容であれば、直ちに発禁運動を起こす」と強く警告している。

 インドネシアではイスラム教の影響もあり、映画やテレビなどではキスシーンをはじめ、男女のきわどい行為は放映禁止で、出版物に関しても女性のヌード写真掲載はご法度となっている。

 とはいえ、実際にはジャカルタの「秋葉原」と呼ばれ、中国人街コタに近いハルコ地区などでは、外国版のポルノ映画などを複製したDVDなどがほぼ公然と売られているほか、時には、地元の有名女優の入浴シーンなどを隠し撮りしたとされるDVDも出回るなど、国民の間にポルノに対する“免疫”がないわけではない。

 現地出版では18番目とされるインドネシア版「プレイボーイ」が、果たしてどのような内容で登場し、読者獲得に成功するのかに関心が高まっている。


2006年01月18日00時08分 ベリタ通信

http://news.livedoor.com/trackback/1641071

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マレーシアと違い、インドネシアでは、白人買春客も堂々と振舞っているようだ。
貧困と、イスラム教が国教でないということがあるからだろうか。

イスラム圏ではないが、バリでの日本人女による男買いが、現地の人々の顰蹙を買っているのはいうまでもない。これは現地女性にとっては、男性による買春よりオフェンシブだろう。現地の倫理規範破壊=ローカル文化破壊という意味で、男の買春よりも強烈な行為であると思う。

先日テレビで、「カネがあるのを買われて」バリ男の第二夫人にしてもらい、第一夫人から徹底的ないじめを受け、夫からは「売春婦」と罵られ、自らも「私は家族を買った」と開き直りながらも、もう行くところがないからバリにとどまっているというある日本女の実録ドキュメンタリーを見た。

あの日本女があんなに恥を晒してまでテレビに顔出ししてたのは、金に困っていたからだろうか。それとも、バリにああいう人は腐るほどいるので、恥ずかしいとも感じなくなっているのだろうか。しかし、これほど明確に女の「買春」をさらけ出す人も少ないと思った。
  

この「プレーボーイ」問題の要点は、まず白人性文化を輸出して地ならしをすること。
つぎに来る策は白人買春ツーリストをいっそう大量に輸出すること。

どこでも若い男性の多くにとって、セックスが自由だということは無条件に歓迎すべきことである。楽しそうに見える白人ツーリストたちに習って「自由な性」の享楽に酔い、宗教規範や社会の伝統など捨ててしまう。

社会の伝統や宗教規範を無視して刹那の享楽を追求する。それがその社会の常識になってしまえば、白人にとってきわめて御しやすい国になる。

倫理的に乱れに乱れ、貧困や人身売買などの矛盾が深刻になったところで、ミッショナリーや人権NGOを送り込み、根本から洗脳して白人の奴隷民族にするという手法もある。
こうして表からも裏からも、白人がきっちりイデオロギー的に縛り上げてしまう。

これが性の自由を輸出する白人側の計画だろう。

「性的活動の自由」の輸出は、それがどんなに現地の伝統文化を破壊するものであっても、「個人の自由の増進」ということで、「人権」側から批判が出る余地がない。

   
「自由な性的活動」と「買春」とは、実は日本人が普通に思うほど距離のあるものではないと思う。

「恋愛」に金銭授受が伴うことに抵抗感の全くない国もある。結婚でも、「妻を買う」形式を取る国は少なくない(アラブ圏はそれが普通だろうし、日本にも結納がある)。

性は解放されなければならず、性欲は常に満たされて当然である、という思想を前提とするならば、売買春の放任は避けられないだろう。

醜い者にも性欲は同じようにあるし、年をとっても人によってはさほど低下するわけでもなさそうだ。性欲は強い衝動を伴うにもかかわらず、その満足は、意のままにならない他者を要する。

満たすためには相手が必要な欲望を、常に十分に満たそうとすれば、男女を問わず、買春に依存するしかないだろう。

  
また、ある国の性的規範を破壊することは、宗教規範など人間の行動に関する基本的な規範を根底から破壊することを意味する。

「性」というのはあんがい重要なもので、「どういう性のありかたを受け入れるか」ということは、われわれがどういう社会を形成したいのかというときのキーとなるものだと思う。

         
ところで、あるブログに「援助交際は日本人が考え出した」なんて書いてあったが、これはまったくのウソ、でたらめである。

「援助交際」という「言葉」は日本人が作ったものだが、援助交際(中長期契約売春)の「実態」は、昔から白人が東南アジアなど途上国でやっていたことを、日本人が最近になって真似してるだけ、というのが正確なところ。

インドネシアでは、金持ちのアラブ人の「サマー結婚」という名の期限付き契約同棲も定着しているらしい。東南アジアに来たのは白人よりアラブ人のほうが先なので、東南アジアで白人が好む契約同棲はもともとアラブ人の真似なのかもしれない。

なお近頃の女子高生が「援助交際」というときは、「路上契約の単発の売春」のことを意味するそうである。この数年で日本語の「援助交際」の概念も変遷しているようである。

「フリーセックス」というのは和製英語だそうである。文字通りの英語だと「無料のセックス」という意味になるそうだ。

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2005年12月31日 (土)

爆発テロで6人死亡 スラウェシ島、宗教抗争か

【ジャカルタ31日共同】インドネシア・中スラウェシ州(スラウェシ島)の州都パルで31日朝、爆発があり、警察などによると、少なくとも6人が死亡、40人以上が負傷した。同州でくすぶるイスラム教徒とキリスト教徒の抗争に絡む爆弾テロとみられる。
 爆発があったのはキリスト教徒が多い住宅地の一角で、豚肉を売る商人が集まる場所だった。
 ユドヨノ大統領は「残念な事件だ。犯人を強く非難する」と述べ、警察に徹底捜査を命じた。
 同州では2000年から01年にかけて宗教抗争が激化し、1000-2000人が死亡。双方の宗教指導者が和解を呼び掛けて抗争はほぼ収まっているが、その後も爆弾テロなどが続いている。
 05年5月には、抗争を避けて移住したキリスト教徒が多い同州テンテナで爆弾テロがあり、約20人が死亡した。

(共同通信) - 12月31日11時16分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000031-kyodo-int


Indonesia flashpoints: Sulawesi

Ever since Indonesia achieved independence in 1949, the Jakarta government has faced a constant battle to keep the nation's 13,000 islands together.AcehKalimantanSulawesiMoluccasPapuaIntroduction

Sulawesi

Central Sulawesi has been the scene of particularly brutal skirmishes between Christians and Muslims in recent years.

The town of Poso has acquired an unenviable reputation for some of the region's worst inter-religious violence.

Muslim gang members carry makeshift rifles as Christian homes burn in sectarian violence-wracked Poso, December 2001
The town of Poso was the focal point for much of the violence
Hostilities first surfaced in late 1998, and carried on well into 2000. After a period of relative calm, they broke out again in late 2001.

Some analysts claim the violence began when fighting between Christian and Muslim communities in the Moluccan islands spilled over into Sulawesi.

Others say it was a consequence of the influx of Muslim migrants from Java under President Suharto's transmigration programme - which reduced the Christian majority in Poso, and thus their powerful position.

A drunken brawl between Christian and Muslim youths sparked the violence in Poso in December 1998 - leaving hundreds dead and thousands homeless.

Unfounded claims that churches had been burned added to the chaotic atmosphere, and there were rumours of black magic being invoked, further inflaming this very traditional region.

By the time the violence subsided many months later, about 1,000 people had been killed and tens of thousands expelled from Poso and the surrounding villages.

In late November 2001, the fighting flared up once again.

SULAWESI: KEY FACTS
Previously known as Celebes, Sulawesi is Indonesia's fourth largest island
80% of the population are Muslim, while 17% are Christian
Christians mainly in the north, influenced by nearby Philippines
There were reports that the militant Islamic group Laskar Jihad was leading the Muslim side, and a study by the International Crisis Group suggested that another regional militant group, Jemaah Islamiah (JI), was also involved.

A paramilitary organisation calling itself the Red Force emerged to retaliate on behalf of the Christian community.

Both groups were armed with bows and arrows, as well as homemade bombs and firearms.

In an attempt to bring about a long-term solution, the two sides met in December 2001 in government-sponsored peace talks.

The resultant declaration of peace, the Malino Accord, was signed by both sides, and produced a dramatic decline in the violence.

But systematic one-sided attacks - bombings and unexplained killings of mostly non-Muslim victims - have continued.

In October 2003, masked gunmen killed 13 Christian villagers in the Morowali and Poso districts - proving that the inter-religious violence in Sulawesi is far from over.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3812737.stm


7人死亡45人重軽傷

 【ジャカルタ=黒瀬悦成】インドネシア・中スラウェシ州(スラウェシ島)の州都パルにある豚肉市場で31日朝、爆弾が爆発し、住民ら少なくとも7人が死亡、45人が重軽傷を負った。

 市場はキリスト教徒が多く住む地域に位置し、近くに教会もあったことから、国家警察は同州で続くイスラム教徒とキリスト教徒の宗教対立に絡む、イスラム過激派による爆弾テロと見て捜査を始めた。

 同州のポソでは05年10月、何者かがキリスト教徒の女子高生3人の頭部を切断し殺害。5月には州都に近いテンテナで爆弾テロが起き、19人が死亡、少なくとも40人が負傷した。2000年から2001年にかけて激化した宗教抗争では、計1000人以上が死亡した。

 政府は、05年11月に東南アジアのテロ組織ジェマア・イスラミア(JI)上級幹部のドクター・アズハリ容疑者が警察に射殺されたのを受け、「JIが年末年始にかけて報復テロに走る可能性が高い」(国家情報庁長官)として全土で警戒を強めていた

(読売新聞) - 12月31日19時26分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000211-yom-int


7人死亡、48人重軽傷

 【ジャカルタ岩崎日出雄】インドネシア中部スラウェシ州(スラウェシ島)の州都パルで31日午前7時(日本時間同8時)ごろ、爆発があり、住民7人が死亡、48人が重軽傷を負った。イスラム教徒とキリスト教徒の宗教紛争の再燃を狙ったイスラム過激派のテロの可能性がある。
 州警などによると、キリスト教会付近の市場でキリスト教徒向けに豚肉を売る簡易店舗付近で爆発があった。爆発力は小さいが、金属片が仕込まれ、殺傷力が高かったという。イスラム教徒は豚肉を忌避する。
 ユドヨノ大統領は「残念な事件だ。犯人を強く非難する」と述べ、徹底捜査を命じた。
 同国全体ではイスラム教徒が約9割だが、同州ではキリスト教徒との比率が半々。両勢力の衝突が98年から断続的に続き、00~01年を中心に1000人以上が死亡している。01年末に両勢力が平和宣言に合意後も05年5月に屋外市場でテロがあり22人が死亡した。

(毎日新聞) - 12月31日19時33分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000045-mai-int

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2005年12月23日 (金)

年末年始にインドネシアでテロの恐れ=米大使館が警告

年末年始にインドネシアでテロの恐れ=米大使館が警告

  【ジャカルタ22日】ジャカルタの米大使館は22日、クリスマスから新年にかけての休暇シーズン中に、インドネシア国内で新たなテロが発生する恐れが高いと警告した。(写真はジャカルタの米大使館前で警備に当たる警察官)

 大使館は在留米国人に対し、「近年この時期にテロ攻撃が起きており、特に今年はその可能性が高い」と通告。「先月警察がテロリストのアズハリを射殺した時に得た情報から、過激派が西洋人に対する新たな攻撃計画を進めていることが分かった」としている

 警察が急襲した東ジャワ州バトゥにあるアズハリのアジトからは、仲間のテロリスト、ヌルディン(逃亡中)のものと見られる攻撃予告のビデオ声明のほか、パソコンに収録した殺害方法の指南書などが見つかった。それによれば、過激派はインドネシア国内でのテロ戦術を変更しつつあると見られ、乗車中や歩行中の西洋人が狙われる恐れがある

 インドネシア国家情報庁(BIN)のシレガル長官も20日、イスラム過激派が外国人高官などの誘拐を企てており、従来の爆弾テロ戦術に変化が見られると指摘していた。警察はジャカルタ一帯にクリスマスイブの24日から少なくとも1万6000人の警官隊を配置し、教会などの警備を強化する予定。

 インドネシアでは2000年のクリスマスイブに、教会などを標的とした全国規模の連続爆弾テロが発生、19人が死亡した。〔AFP=時事〕

2005年12月23日00時37分 時事通信社

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1575103/detail


クリスマスのテロ警戒 インドネシア

 【ジャカルタ22日共同】在インドネシア米大使館は22日、クリスマス前後にイスラム地下組織ジェマ・イスラミア(JI)などがテロや誘拐事件を起こす恐れが大きいとして警戒を呼び掛けた。
 11月に警察との銃撃戦で死亡したJIの爆弾専門家アザハリ容疑者の隠れ家にあった資料などから「この時期の危険性は例年以上に高い」としている。
 2000年のクリスマスイブにインドネシア各地のキリスト教会が連続爆破された事件は、JIの犯行とみられている。

(共同通信) - 12月22日21時33分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051222-00000280-kyodo-int

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インドネシアのテロの危険が高まっていることと関係があるのか、これまで白人の比較的少なかったタイ南部の普通の町に白人ツーリストが増えているそうだ。タイ売春婦連れの白人も目立つという。

しかし、私の見るところ南部住民は北部のタイ人ほど白人の横着に寛容ではないと思う。白人が北部でやっているようなノリで、南部の(ビーチ以外の)普通の町で売春婦を連れまわすことは、地域の住民感情を相当深く害するに違いないと想像する。
痛いしっぺ返しを受けなければ良いが(本音を言えば、白人はタイでも一度くらい手ひどいしっぺ返しを受けたほうがいいのだが)。

自称「アジア理解者」の白人たちは「タイは北部が静かで良い」とか「真にタイの文化を求める人は北部へ向かう」といったことをシラッと言う。ガイドブックにでも書いてあるのか、同じ事を何度か聞いたことがある。それをまた鸚鵡返しにいう日本人も少なくない。
しかし、ビーチを除けばこれはまったく逆だと思う。

落ち着いた雰囲気を求める人や白人の傍若無人な振る舞いにうんざりしたタイ旅行者は高い金を払ってでも南部に移動する(やがてマレーシアやシンガポールに逃げ、タイには来なくなるだろう)。

貧しい農山村を背景にして物価も安く、宗教的倫理的制約が事実上なく、人身売買がむかしから盛んで買春に対する抵抗が少なく買春代が安いタイ北部こそ、ビーチとならぶクズ白人の聖地である。そのうえ伝統文化めいたものもあり、「言いわけ」も準備されている。だからこそチェンマイは白人ツーリズムの世界でかくも称揚されているのだ。

チェンマイなど、町の中心部を歩いている人間のほとんどが薄汚い白人ツーリストということがある。ラオスも年々ひどくなっているようだ。

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2005年10月 3日 (月)

【バリ島テロ】インドネシア・豪州関係にも影 産経新聞10月3日朝刊

【シンガポール=藤本欣也】インドネシアのバリ島同時爆弾テロ事件で多数の死傷者を出したオーストラリアでは、相次ぐテロ被害に衝撃が広がっている。二〇〇二年に同じバリ島で起きた爆破テロ、〇四年のジャカルタの豪州大使館爆破テロに続く今回の事件でインドネシアでは三度もテロに巻き込まれた。オーストラリアのハワード政権は、インドネシア当局の捜査に全面協力する方針ながら、国民の中には複雑な対インドネシア感情も横たわっており、対応に苦慮しそうだ。

 ハワード首相は二日、「民主国家インドネシアを傷つけようとする無差別のテロ行為だ」と激しく非難、負傷者をオーストラリアに搬送するよう関係機関に指示した。

 ロイター通信によると、オーストラリア人は十六歳の少年を含む三人が死亡、二十人が重軽傷を負うなど、外国人では最大の被害を受けた。やはりバリ島で三年前に起きた爆破テロでも、最多の八十八人のオーストラリア人が死亡している。

 同国はブッシュ米政権、ブレア英政権とともにイラク戦争に本格参戦し、今もイラク南部サマワに約四百五十人の兵を駐留させており、国際テロ組織、アルカーイダなどから、しばしばテロ攻撃の脅しを受けていた。

 このため、豪州政府としても「テロ攻撃の危険がある」として、国民のインドネシア渡航には注意を促してきた。しかし、バリ島は豪州から約三時間で行ける人気のリゾート地で、またもや多数の国民が巻き込まれる事態を防げなかった。

 ダウナー外相は二日、「インドネシア当局から捜査協力の要請があった」と述べ、テロ捜査に最大限協力する方針を表明、警察や爆弾専門家などを急遽(きゅうきょ)派遣した。

 ハワード政権は、昨年十月にインドネシアに親米派のユドヨノ政権が誕生すると、関係改善を加速。現在、政治レベルでは両国関係は良好だ。

 しかし、今年五月、バリ島で大麻所持により逮捕されたオーストラリア人女性が有罪判決を受けた際、多くの豪州国民が「裁判は不公正だ」と非難、人種差別的な発言も出るなど、両国民間の感情的対立に発展した。

 今回もテロを許したインドネシア政府への不満が豪州側にはくすぶっており、今後の両国関係にも影を落としかねない。
http://www.sankei.co.jp/news/morning/03int002.htm

                                                                                                                    
オーストラリアのマスコミは早速犯人探しを始めたようである。
オーストラリア人ツーリストが撮影した家庭用ビデオ映像の断片から、そこに映っている有色人種の中の疑わしいやつを特定するという狂乱ぶりである。その結果、オーストラリアマスコミは、レストランの中を歩いている「不審な」小さいバックパックを背負ったローカルらしい男を犯人と断定したようである。この男性が生きているのか死んでいるのかも明らかではないし、調べるつもりもないようだ。「白人のための場所」には場違いな有色人種の男というほかに、この男のどこが不審なのか分からない。
数キロのTNT火薬の入りそうなバッグを持ってレストランに来ていた者はほかにもいたはずである。明らかなのはオーストラリア人にはわれわれが考える常識的な人権感覚などないということだろう。
オーストラリア人には、オーストラリア人ツーリストが東南アジアでどれだけ嫌われているかについてもまったく自覚がないようだ。

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2005年9月24日 (土)

ジェマアイスラミア(JI)について

アルカイダとの関係も指摘されるイスラム過激組織「ジュマアイスラミヤ」について私が知るようになったのは、2002年のバリ島ディスコ爆弾テロに関する報道によってだった。
旅先で読んだ衛星版の新聞(たぶん読売)の解説記事が印象深く記憶に残っている。
ジュマアイスラミヤは、インドネシアを本拠とし、フィリピン・ミンダナオ島、タイ南部3県などイスラム圏を統合する広大なイスラム国家を構想しているということだった。しかし、私がとくに印象深く感じたのは、彼らがアメリカ・イスラエルだけでなく「白人」一般を敵として掲げていることだった。中東系のイスラム過激派に「白人」を敵として名指ししている集団があるだろうか。当時私はタイ周辺を旅していたので、その理由が妙に納得できてしまった。
バリ島爆弾テロの犠牲者の大部分はオーストラリア人ツーリストだった。地元民の犠牲者は少なかったようである。そこにいなかったからだろう。そういう場所が平時どんな雰囲気に満たされているかは、東南アジアを旅した人なら容易に想像がつく。

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2005年8月 4日 (木)

1996年バリ

1996年8月14日
午前11時55分成田発 コンチネンタルミクロネシア 
グアム(乗り換え) デンパサール 現地時間8時半過ぎ着

8月19日
「ウブドのプリサラスワティバンガローでわれわれが泊った『バラデワ』という部屋は、テラスが広くてよかった。隣に工事中のお寺がありその前の庭の蓮池がすばらしかった。そこで蓮をながめていたが時間を忘れて楽しめた。」(全く記憶にない)

8月21日 帰国

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