t.インド洋津波

2006年12月26日 (火)

インド洋津波から2年

バンダ・アチェ、スリランカ、プーケットなどで大きな被害を出したスマトラ沖地震にともなうインド洋津波から今日で2周年。

インド洋津波のとき私はポイペトのゲストハウスでテレビを見ていた。清潔で200バーツ、テレビホットシャワーつきという結構なところがあった。

私は当時ブログなんてやりたいと思っていなかったが、あの災害に伴ういろいろな報道や事実の不条理に接しているうちに、この地域を旅する間それまで感じていたもやもやしたものがますますつのり多少は明確な形を取るようになってきて、それをどこかにぶちまけたいという気持ちが高まってきた。わけのわからないモヤモヤをぶちまけるところと言えば思いつくのは2chだが、しかし、この内容はどうも2chにはふさわしくない。2chにはそれを書くべきところがないように思われた。

というわけで、津波の半年ほど後にこのブログを作った次第。だから、インド洋津波はこのブログの原点といえます。

(何の仕事をしているのかよくわからない兄に、「ブログを作ってアフィリエイトをすればカネになるよ」とそそのかされたせいでもある。しかし、尊敬すべき兄によれば、成績を上げるコツは「旬のネタを旬のうちに、内容は適当でいいからとにかく大量に投稿しトラックバックを打つこと」だそうで、旅行しながらネット屋でやるのは難しそう)。

過去の記事から。

2004年12月タイ、イサーン周遊

26日。インド洋津波。部屋のテレビで知る。注:インド洋津波に関する報道は偏っていた。多くのタイ人売春婦や「レンタルワイフ」が犠牲になったはずだが、そのことはまったく報じられない。白人の死や行方不明のみが報じられる。スウェーデン人少年が病院から行方不明になったことで欧米メディアは大騒ぎし、kidnapされた疑いもあるなどと連日報じていたが、ローカルが何人不明になっているかにはまるで無関心だった。伝え聞くところによれば、タイ人救助隊による救助の場面においてさえ、ツーリスト(=白人)が最優先され、アジア人被害者は後回しにされていたという。

Sweden bitter over tsunami loss スウェーデン人どものツナミ狂騒【インド洋津波一周年】

Of all western countries, Sweden was the worst hit by the Asian tsunami.

The devastating wave killed nearly 550 and injured some 1,500 Swedish holidaymakers, who had flocked to Thai resorts for the Christmas period.

While the death toll cannot be compared with the enormous loss of life in the tsunami region, it has been felt strongly in this nation of only nine million people.

アジア人遭難者たちの傷ついた身体やハシタナイ姿をいつも平気でパチパチ盗撮していく白人メディアだが、ツナミ直後に「(白人)遭難者のプライバシー保護」をやたら騒ぎ立てていたのもスウェーデンだった。不明者のの名前が公開されることさえ批判されていた。

「その時プーケットにいたこと」を人に知られたくない犠牲者や遺族も多いはずだから、という惻隠の情だろうか。

Dead Rental Wives・・・・あるアメリカ人の手紙【インド洋津波】

No one speak about dead Thai, only how poor suffering white people had crushing disappoitment to their time in Thailand.

CNN never showed the grief of a Thai person in all this, what their tragedy is, here it is CNN puking this information out over and over and over every 15 minutes, to the very people, keeping the very falsehood standing. 

Dead Rental Wives・・・・インド洋津波一周年

カテゴリー「インド洋津波」

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2006年7月24日 (月)

【写真】バンダ・アチェ マスジッド

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バンダ・アチェのマスジッド。

ミナレットは津波で破損していたが、大変な荘厳さだった。

マスジッド内部。
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津波があたった?部分を修理中のミナレット。

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2006年7月23日 (日)

【写真】バンダ・アチェ マーケット

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

ホテルPrapatやメダン・ホテルの前のマーケット。

このあたりでも100人くらい死んだというが、今は普通の生活。

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Imgp0947Imgp0974マーケットの近くの時計塔           インターネット屋Imgp0948Imgp0949

ムスリムの女性には珍しく、写真を撮らせてくれた。

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真夜中の無人の街路を走り回る女の子。

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ストリートチルドレンではない。ストリートチルドレンは見なかった。路上に寝ているホームレスもいない。乞食もあまりいない。この子は人目を避けておしっこをしに行って走って帰るところだった。

その後マーケットで同じ女の子が寄ってきた。近くに両親が働いているので物乞いではない。私が女の子にもてることがわかる証拠である。

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コーヒーを淹れる兄ちゃん。

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マーケット夜景
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「イスカンダル」は人の名前だとか。
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メダンホテルとホテルPrapat
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銀行のATMも深夜までやっている。
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マーケットの地面に貝殻が目立つのは、もともとだろうか。それとも津波のせいか。
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バンダアチェのすばらしいコーヒー。みんな深夜までマーケットでこのコーヒーを飲んでいる。
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もう一杯。
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未検閲記事:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/25/

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【写真】バンダ・アチェ 船

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

立派な船が陸上に鎮座しているのは奇観である。

海辺でもなく、かなり奥まったところに大きな船が乗り上げている。

当然ながら、地元の観光名所にもなっていた。

建物の2階を圧し潰して乗り上がったままになっている船や、建物に突き刺さったような形になっているものもあった。

私が撮ったのはごく一部で、大小の船があちこちで座礁したままになっていた。いうまでもなく、すべて津波がもってきたものである。

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この船は美しかった。Imgp0980

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この船は小さいが姿勢がよい。
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これもよく乗っかっている。Imgp0987

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ちょっとしょぼい。
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ここが一番の観光名所になっていた。このあたりの陸上の船の中では一番巨大な船のようである。しかも、かなり内陸だった。ここに連れてこられたとき、そこにあるのが船であることにしばらく気づかなかった。あまり大きすぎるので、工場か倉庫か何かだと思っていた。この船の下には家が一軒丸ごと潰れたままになっているそうである。つまりこの船がたまたま水の引き具合でその家の上に鎮座することになったというわけである。
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誰が置いたかもわからない募金箱が並んでいる。募金箱がある船は多分ここだけ。 私も船を見て思わず厳粛な気分になり募金をしてしまった。大きな船の力であろう。いい商売かもしれない。
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記念撮影をする人たち。Imgp1017

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これもなかなかよくできた船であると思う。Imgp1024

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【写真】バンダ・アチェ タマン・トゥピ・ラオTaman Tepi Laut

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

タマン・トゥピ・ラオはインド洋津波で最も津波の勢力が強く、バンダ・アチェで最も被害の大きかった場所だという。

被害の後はまだ残っていたが、地元の人たちが水遊びを楽しんでいた。のどかな海水浴場という感じだった。

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タマン・トゥピ・ラオの立派なセメント工場。ここも津波にやられて動かなくなったらしい。
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2006年7月22日 (土)

【写真】バンダ・アチェ バラックとテント

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バラックとテント。

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【写真】バンダ・アチェ 痕跡

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

水溜りは津波でできたものだそうである。

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津波で削られた丘

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市内の建物。2階を中心に破壊されている。

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上の家はこのリキシャ運ちゃんが住んでいたところ。あちこちの津波名所を勝手に回ってくれて、あとで5万ルピア請求した。

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ここがこの運ちゃんの部屋だったという。本当かどうかわからないが。

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未検閲記事:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/24/

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【写真】バンダ・アチェ 美しい風景

バンダアチェの空港に降りたときの第一印象は、「景色が美しい」だった。

何もない広々とした平野は津波が作ったのだろうか。しかしおそらくもともと景色のいいところなのだと思う。

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

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2006年5月 9日 (火)

緒方貞子のヘッドスカーフ姿

テレビのニュースで見た緒方貞子のスカーフ姿を今になって思い出す。去年の夏にバンダ・アチェを視察したときのニュース。

髪と首をさらけだしたまま、頭の周りにだらしなくスカーフを巻きつけた姿。

あのおばさんは何のつもりであんな演出をしたのだろうか。

バンダ・アチェでも、ムスリム以外の女性(客家など)はスカーフをしていない。それは何の問題もない。もちろん毛唐女はNGOでも国連でもそんな間抜けなマネはしない。

緒方はムスリムなのか?しかし、ムスリムにしては掟やぶりのだらしなさだった。

ヘッドスカーフ姿(インドネシアではジルバップと言うそうだが、英語新聞にはヘッドスカーフと書いてある)を見慣れてくると、髪がはみ出していたり中途半端に首をさらけ出したりしているのがとてもだらしなく感じるようになる。そういうつけ方をしている人は少ない。

髪がはみ出さないように2重に被り物をし、首はしっかり覆って留め具でとめるのが普通。その上で、見栄えをよくするために、後ろのぶかぶかを留め金でとめたりする。

非ムスリムの日本人女がだらしなくスカーフをかぶった姿は、現地のムスリムにとっては、ガイジンがだらしなく着物を着て前をさらけたりしている姿が日本人にとって不快なのと同じだろう。

規範からはみ出しているところを誇示しているという意味で、いっそう売春婦らしく見えたかもしれない。

緒方はあれで現地に迎合したつもりなのだろうか。

勉強はできたのかもしれないが、本当に「知恵のない人」である。

そういう知恵のない連中ばかりが今の日本の「ブレーン」になっているようである。

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2006年4月 6日 (木)

バンダ・アチェ(Banda Aceh,スマトラ島)  インドネシア

バンダ・アチェはコーヒーがうまかった。いつかまたバンダ・アチェを訪れてあのコーヒーを飲みたいと思う。

06年3月。バンダ・アチェは平穏、治安もよく、町は清潔だった。今度のスマトラ旅行でドゥマイ、プカンバル、バンダ・アチェ、メダンを訪れたが、その中ではバンダ・アチェが一番治安が良かったのではないかと思う。バンダアチェの市内に関する限り、私は深夜に通りを歩いても危険を感じない。ホームレスや歩道で寝ている人をまったくみなかった。プカンバルでは深夜に大通りを歩くと危険を感じることがあった。

バンダ・アチェの空港に降り立つと、周囲に広がる風景の美しさに圧倒される。私は東南アジアでこんなに美しい風景を見たのははじめてである。ほとんど何もない平野がどこまでも続いていて、平野が尽きたところに低山が見える。平野と低山の境は里山があるのかもしれない。日本の沖積平野の風景を思い出す。この広々とした美しさをどれだけ津波に負うているのかは、津波以前に訪れたことがないのでわからない。

空港から市内へはかなりの距離がある。その間もずっと、美しい風景が続く。もちろん、津波被災者のテント村やバラックもある。

東南アジアに最初に来た頃は、「南国だから自然もきれいなのではないか」という期待を裏切られて幻滅したものである。「日本の方が自然はずっときれいじゃないか。海も汚いし」というのが率直な感想だった。しかしアチェには東南アジアでこれまで見たことのない美しさがあった。

バンダ・アチェの空港から市内までのタクシー料金は決まっていて、7万ルピア(1万くらいは負けさせられるかもしれない)。私は、津波の被害が一番ひどかったと聞いたビーチであるタマン・トゥピ・ラオ(Taman Tepi Laut)のリゾートホテル「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」に泊まってみようと思い、10万リンギでタマン・トゥピ・ラオに向かった。しかし、行ってみると「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」は跡形もなかった。津波で流されたらしい。のんびりとした小さなビーチで、地元の人たちが行楽している。飛行機の中であったアチェ男が、「ホテル・タマン・トゥピ・ラオ」は被害が一番ひどかったところなのでやめといたほうがいいと言っていたのはこういう意味だった。当然ながら海はごく普通に穏やか。

ちょっと降りてぶらぶらしてみた。人は多いがレストランも何もない。ちょっとした茶店や売店があるくらい。立派なセメント工場がある。それが妙に美しく見えた。市内に戻るのにまた7万リンギ要求される。

津波の後に残った中で一番良いと聞いた「スルタン・インターナショナル・ホテル」の前でタクシーを降りる。スルタンホテルは馬鹿高い。比較的安い部屋は、ベニヤ板張りの窓無しの狭い部屋でホテルとはいえないようなところ。まるでカオサンの安ゲストハウスのよう。他の部屋も値段の割りに設備は良いとは言えず、ホットシャワーは「今日は」壊れていると言っていた。

タイ北部にいるような壊れきった感じの毛唐オヤジもロビーに居座っている。こいつは災害の悲惨に惹かれてきたのだろうか。それとも、ベトナム難民のときを思い出して、人身売買や児童買春のチャンスを探してきたのだろうか。

しかし、スルタンホテルのフロントクラークは親切だった。客でもない私に他のホテルを教えてくれて、地図まで書いてくれた。

その時、私の後ろに宿泊客らしい白人男が待っていたが、その男のことはまったく意に介さないで私の問題に集中してくれている。ちょっとしたことだが、私は新鮮な感動を覚えた。タイではありえないことである。

タイには行かないほうがいいとつくづく思う。タイに先に行ってしまうと、東南アジアの連中はみな白人に媚びることしか能のない下司どもだろうという先入観を持ってしまいがちである。

スルタンホテルで教えてもらった「メダン・ホテル」に行ってみるが、「予約以外は満室」だと言われる。本当か?と念を押してみたが、本当らしい。Prapatホテルも満室。どうしたものかと途方にくれながらホテルを探し歩く。

いまバンダ・アチェに行くなら一日目のホテルは予約しておいたほうがいいかもしれない。津波でホテルが何件か潰れた上に、援助関係者やそのカネの周りに集まる業者などがたくさん来ていて、常に部屋不足になっているようである。

メダンホテルの隣のWisataホテルにようやく部屋を見つけてチェックイン。しかし、ここも明日は予約があるから一晩だけ、と言われる。小便臭い感じの部屋で、ホットシャワーはもちろんシャワーもない。流水はあるが、水槽に溜めた水で身体を流すローカルな方式。それで一泊18万ルピアもする。

Medan,Wisata,Prapatなどのホテルの目の前にある大きなマーケットで夕食。コーヒーがおいしいので屋台をはしごして飲み歩く。コピ・パナス1500~2000ルピア、コピ・スースー3000ルピアくらい。

バンダ・アチェのコーヒーは、メダン、ドゥマイ、プカンバル、あるいはバリ、ラオス・・・などのコーヒーとはまったく違うものである。淹れ方も違うし、豆も違うかもしれない。粉っぽさがなく、透明感があり、コクがある。これまで東南アジアで飲んだコーヒーでは一番おいしかった。カンボジアで飲んだコーヒーに幾分似たところがあると思った。カンボジアのコーヒーも透明感があり、舌にピリッとする刺激がある。コーヒーのグラスカンボジアのを少し大きくしたような形で、朝顔形のグラスいっぱいに注がれて出てくる。(コーヒーの有名なベトナムにはまだ行ったことがないので、あまり行きたいと思う国ではないが、いつかコーヒーを飲みに行きたいと思う。)

マーケットのコーヒーショップは深夜まで開いていて、地元の人々が集まり、夜もコーヒーを飲んでいる。酒を飲んでいる人はいない。この光景はミャンマーのティーショップに少し似ていると思った。ミャンマーでも、ティーショップに夜遅くまで人々が集まり、ラペイエ(ミルクティー)などを飲んで過ごしていた。

夜のマーケットをうろつく毛唐も少なくない。地元の人が多いのでまだ毛唐に占領されたような場所はないが、(今の)バンダ・アチェは、スマトラにしては毛唐が多いところ。肩で風を切って歩くバックパッカー風の半ズボン白人もいる。が、特徴的なのは、スラックスをはいた中年白人が多いこと。東南アジアの貧しい地域でスラックスをはいた白人男といえば、まず頭に浮かぶのはミッショナリー。国連関係者やNPO関係者かもしれない。

カンボジアに国連とNPOが来て、白人男の欲望を満たすために「スワイパー村」ができた。UNとでかく書かれた車両が戦車のように進軍していく。援助の口実の下、アチェが白人によって確実に汚染されつつあることは確かだろう。プカンバルに3泊した間、白人は一人も見なかったのである。アチェには難民がいる。郊外には汚いテント村が残っているし、バラックも多い。いったん倫理を捨てたら際限がなく、どこへでも行き何でもやる白人男たちにとっては、かっこうの児童買春・処女狩り・女奴隷狩りのターゲットと映るだろう。それが思ったほどうまくいかないとしたらイスラム教のおかげである。

アチェにイスラム教のタガがなかったら、津波被害を受けたこの土地はどんなにおぞましい臭気を放つ場所になっていたかわからない。

米国旗を掲げて米国の援助を宣伝する看板は目立っていた。日の丸つきの看板はほんの小さなのを見ただけである。どうしてもっと大きなのを堂々と立てないのだろう。「ジャイカ」の名前は売れているが、日本人の存在感が大きいとはいえない。

後にメダンで会ったアチェ出身のおばさんは、津波の後、シンガポールの人がたくさん来てシンガポール人の友達がたくさんできたと言っていた。日本から来た人もいたが、友達はできなかったとのこと。そのおばさんはたどたどしい英語を一生懸命話していて、英語学習中という感じだった。

ホテルWisataは中国人のやっている宿だったが、感じのいいおばさんだった。ハッカと言っていたから客家なのだろう。漢字はもう自分の名前がなんとか書けるくらいで(見せてもらったがかなりあやしい)、小さな娘にはインドネシア名をつけている。11歳の可愛い子だった。

二日目。

ホテルWisataをチェックアウト。後払いで17万5000ルピア。一階の部屋で、向かいの部屋が地元のNPOかなにかの事務所になっていた。どこでもそうだと思うがローカルの援助関係の人間なんてただ傲慢なだけ。NPOなどが傲慢なのはローカルに限らないが、ローカルだとさらに直接的になるのだろう。エアコンはあるのに扉は開けたままだし、夜の出入りが激しくなかなかうるさかった。夜その部屋のボスらしいインドネシア人に、「扉を閉めてくれませんか」といったら、すごい声で「ホワーイ」と開き直ってきたので、叱り付けてやらざるを得なかった。何とか夜を過ごすだけの部屋。

隣のホテルPrapatに部屋を見つける。一泊20万ルピアでここは先払い。どうしてWisataの人は一泊だけなのに後払いで良いといったのかよくわからない。Prapatは清潔で、Wisataよりは良いが温水はない。裸で歩き回る毛唐がいる。

ここのフロントの太ったお姉ちゃんも客家だと言っていたが愛想は良い。宿代のレシートに漢字で署名したら「中国語が書けるのか」と聞かれたので、これは日本語だと答えておいた。

津波の水はメダンホテル、Prapatのあたりで4メートルくらいまで来たらしい。マーケットのあたりで2メートルと言っていたが、マーケットとメダンホテルに標高の差があるとは見えないので、どうしてそういう差が出たのかは解らない。マーケット付近でも100人ほどの人が亡くなったという。

リクシャで大マスジッドを見に行く。たいへん立派なモスクですばらしい。マスジッドの門には、Perhatian Puda Memasuki Kawasan wajib Berbusana Muslim/Muslimahとか書いてある(走り書きなので記録違いの可能性大)。Attention you are coming into Muslim/Muslimah dress areaとも。

思うに、このPerhatianというのは、インドネシアの空港の館内放送で女の人が「プラハティア、プラハティア」と呼びかけているあれと同じ言葉なのだろうか。私はあれが大好きである。何度でも聴きたくなる言葉である。

マスジッドの敷地内に入って良いかどうか、その辺にいる人に聞くと良いといわれた。しかし、もちろん会堂に入ることはできない。そこは礼拝の場所である。

広くて清潔で荘厳で豪華なこの会堂を覗いていると、ひんやりした空気が流れ出してくるようで、自分もそこに入りたいという強い衝動に駆られる。どこのモスクでもそうだが、ここでも人々は暑気を避けて会堂内で休んでいるが、そのことによってこのマスジッドの荘厳さはいささかも失われない。

バンダ・アチェのマスジッドはさすがにすばらしい。これを見て、アチェに来てよかったと思った。

マスジッドへはメダンホテルやスルタンホテルから歩いてもいけるが、リクシャで5000ルピアで喜んで行ってくれる。マスジッドの塔(この塔をミナレットというのかどうかは私にはわからない)はホテルの前のマーケットからも見えている。塔の下のほうは修理中だった。これは津波で壊れたもの。

メダンホテルの近辺には白人がうろうろしているが、この立派なマスジッドを見に来る者はいないようだ。

マスジッドの前で「パン」を売っていた。スマトラに来て初めて「パン」スタンドを見た。久しぶりに「パン」を見た。早速買う。4個で1000ルピア。タバコは入っていなかったが、久しぶりだったせいか、かなり強く苦かった。

「パン」は売っていても、路上に「パン」を吐いた赤い痕跡は見当たらない。ここの人は行儀が良いのだろう。

スマトラに来てからインド人は見ない。インド系はいるのだろうが、マレーシアで見るような明々白々なインド人は見ない。しかしアチェでは「パン」を売っている。「パン」はインドの文化だと思ったが。

バンダ・アチェはどこも良心会計だった。食事はライスとチキンと野菜とコピ・パナス付で10000ルピアくらい。コピ・パナスは同じマーケット内でも店によって1500ルピアだったり2000ルピアだったりする。

ローカルレストランには、ネパール人のように同じテーブルに居座ってさかんに英語で話しかけてくるウェーターもいる。

プカンバルは、シンガポールより緯度は赤道に近く、ほとんど赤道直下だと思う。しかし、北端のバンダ・アチェのほうが昼間は暑い感じがする。

午後4時ごろ、塔のほうに向かう大通りの右手にあるガルーダの代理店で、パレンバンへ行く飛行機のチケットを予約。大変愛想がよい。ただ、これは後にジャカルタでトランジットであることがわかり取り消す。パレンバンへの直行便は無い。

夕方リクシャーで海岸などを回る。英語はまったく通じなかったが、「ツナミ」と言ったら「ツナミ名所」をいろいろ回ってくれた。

船が陸に打ち上げている光景はここではまったく珍しくない。錆びているのも多いが、美しい船もある。

巨大な船がかなり奥のほうまで上げられてそのままになっている。最初そこに近づいたときは工場でもあるのかと思った。すぐ近くまで来てようやく舟だと気づいた。感動することの少ない私も、それが船だと気づいたときには、おもわず「オー!」と声を上げてしまった。

箱型の大きな船だった。船のあるところにはもとは家があったという。家は押し潰されて今も船の下敷きになっている。しかしほとんど完全にぺしゃんこになったようで、その残骸も外からは見えない。

この巨大な船は地元の観光名所になっているらしく、スカーフをした地元の女の子たちが船を背景に家族で記念写真を撮っていた。募金箱も並んでいる。

そのほか、建物の2階に上がったままになっているわりと大きな船も見た。建物の2階を押し潰して2階の位置に上がったままになっている。

   
バンダ・アチェは活気があり、援助景気なのか内国の訪問者も多いようだ。リクシャで通りを走っていてもUNの車をよく見るし、援助関係らしい(ツーリストには見えない)白人もよく見かける。

昼間リクシャで大通りを走っているときに見かけた、別のリクシャに乗った若い白人女は非常に居丈高だった。

気取ったそぶりで、手をさし伸ばしてまわりの車に合図を出ながら、まるで自分でリクシャを運転しているようだった。リクシャと運ちゃんは「馬」で、彼女は「乗馬」をしていたのかもしれない。

私のリクシャの運転手に直接、「待て」と言う合図を出して道を譲らせ、私の前に割り込んだ。一見してツーリストでないことがわかる。国連関係かNPO関係者だろう。

あのそぶりをなんと表現したら良いのか。

「私が教えてあげているのです」「私から学びなさい」「私は正しい」という気を強烈に発していた。

私は彼女を一目見てこの人間のすべてがわかってしまうような気がした。

「私は正しい」「私の思想は正しい」「私の掲げる理念は正しい」「私の受けてきた教育は正しい」「正しい私にはミッションがある」「私のミッションは正しい」・・・・「正しさ」の権化のような女だった。

NPO関係者・援助関係者だからきっと「良い人」だろう、とか、まだまだ日本人は思い込みがちではないだろうか。

たいへんな見当違いだと思う。援助関係の白人など、どこでも非常に独善的で居丈高で、かつ人種主義的なものである。自分の行為の「正しさ」を生涯一度も疑ったことが無く、おそらく死ぬまで一度も疑わない。彼らは死ぬまで「『文明』の使徒」なのだ。

そういう白人の周りに集まるアジア人活動家たちもまた、「正しい」白人に媚び、白人の仲間になって、他の同国人やアジア人を見下すことがそこに来た動機であるような連中がほとんどである(もちろんカネも)。

白人ツーリズムはもとより、白人人道援助もまた、現代の植民地主義にほかならない。

(後に見た「ジャカルタポスト」には、「アチェへのジェラシーを防ぐために、アチェの特権の一部を他の地域にも与えよ」などという識者の意見が載っていた。メダンなどで、「アチェ出身者」という人が妙に明るい表情で自己紹介し、英語で外国人に話しかけ、外国人の友人がいることを自慢していたりするのを見ると、「アチェの特権」というのもありそうなことに思える。また、同じく「ジャカルタポスト」の他の記事では、津波の3ヵ月後におきたニアス島の地震の被災が先に起きた津波の陰に隠れてしまって見えにくくなっている、というような指摘もあった。アチェは国際的なブランドになり、「物語」になってしまったのだろう。)

今のバンダ・アチェの活気は、かつてのポイペトの活気に似ているのかもしれない。もちろんこちらのほうが先進国だし、インフラも比較にならない。ポイペトのような不健全さや危険さはバンダ・アチェには感じない。

ホテルの前のマーケットでは深夜12時過ぎまでコーヒーをやっている。深夜になると少しは肌寒くなるので、外で飲む強いホットコーヒーはちょうど良い。酒はもちろんテーを飲んでいる人はあまり見かけない。テーとかテースースーといってもあまり通じない。さすがにアラブの文化を直接に受けた土地柄だと感じさせられる。今日一日でコピ・パナスを何倍飲んだだろうか。多分10杯ぐらい。

夜のマーケットには乞食も回ってくる。そんなに多くはいない。子どももいるが、概してこざっぱりした服を着ている。十分働けそうな若い男も毎晩物乞いに来ていた。

三日目。ホテルPrapatに連泊。

バンダ・アチェに最初にはいったとき、ネパールのような臭いがすると思った。海と山で地理的には正反対なのだが。

バンダ・アチェの人間も少しネパール人に近いような感じがする。西のほうの影響を受けているということだろうか。それとも、援助経済でそういう性格が形成されるのだろうか。(ただし、バンダ・アチェはネパールと違いアーリア系は見ない。)

マーケットのレストランで働いている男がネパール人のように付きまとってくる。英語でさかんに話しかけてくるが、何を言っているのかわからないことが多い。

バンダ・アチェにもインド系がいないわけではなく、よく見るとそれらしい人はいるが、マレーシアのインド系のように見るからにインドという感じではない。

アチェ人は強いアチェ意識を持っている。英語を話せる人は少ないが、たまに会うとアチェアチェを連発し、インドネシアとは違うようなことを言っていた。

バンダ・アチェではあちこちでイスカンダル(Iskandar)という文字を見た。イスカンダルとはなんぞやと少し英語を話す茶屋の少年などにしつこく聞くと、どうやらアチェ人の名前らしい。インドネシア人にはない名前だと言っていた。

ホテルのあるところから海岸はそれほど遠くない。リクシャで1万ルピアくらい。

ホテルにいても風向きによって海の生ぐさい臭いがしてくる。これはあまり好きではない。

ガルーダ以外の航空会社代理店では英語はほとんど通じない。

明日の航空券を予約しようと思ったが、どの代理店で聞いても「ライオン」と「アダム」はシステム障害とかで電話さえつながらず。ガルーダはメダンまで40万ルピアほどする。他の航空会社は時間に難がある(朝早すぎる)。

プカンバルのフラヤホテルの代理店では、メダン→バンダアチェのフライトが予約できたのだが、バンダ・アチェの代理店ではメダン以降のフライトは予約できない。メダンは毛唐が多そうで行きたくないのだが(実際に行ったらそれほどでもなかった)。パダンやパレンバンに行こうとするとジャカルタでトランジットにしないと予約を入れられない。

いずれにせよ、まずメダンまで行って、メダンで次のチケットを手配しなければならない。

ガルーダの代理店の女の子はチェックと言う英語をcekと綴っていた。インドネシアではアルファベットはオランダ語読みらしく、cはチェー(ツェーではない)らしい。JYVなど以外はドイツ語などとほぼ同じ。アー・べー・チェー・デー・・・

バンダ・アチェは、東南アジアにイスラム教が最初に到達した土地ということで、東南アジアのムスリムにとっては特別な土地だということだが。黒いスカーフをしている人はほとんど見ない(ムスリム女性のスカーフはインドネシアではジルバップとかいうらしい。マレーシアではトゥドゥン)。色物のスカーフが多い。普通のスカーフを巻いて髪と耳と首を隠しているだけの人も少なくない。顔を隠している人や、マレーシアで見かけるような黒ずくめの人はまったく見なかった。

人間の美意識は可塑的なものだと思う。ミャンマーで顔にタナカを塗った女の人ばかり見ていたら、女性はタナカをしていなければ美しくないように感じるようになったし、マレーシアでトゥドゥンをした女性を見慣れると、髪を見せたり首をさらしたりしている女は下品に見えてくる。(ただし、タイ女のしかめっ面とか白粉とかはいくら見ても良いと思うようにはならないので限界はあるのだろう)。

今夜夕立があった。

四日目。

朝9時にガルーダの代理店に行き、いつもの親切な姉ちゃん(ぶすいけど)に、もういちど各社の料金を電話で聞いてもらう。「ライオン」は明日ので41万ルピアぐらい。「アダム」はプロモーションで23万ルピアぐらい。これは安い。明朝11:30のアダムのメダン行きチケットを買う。

今日は風邪気味で身体の節々が痛む。昨日蚊にさされた後、夜中に急に寒気がしたのでマラリアかと思ったが、高熱は出なかった。

  
マーケットのカフェで日本語を話す男と出会う。

95年から5年間も日本に不法滞在して「土方」をやっていたという。自分で「ドカタ」と言っていた。日本語の会話はできるが、読み書きはできない。

明日アチェをたつといったら、もう少しいるのならジャイカに話してくれて俺のことを推薦してもらえたのに・・・・とかわけのわからないことを言う。本気でそう思っているようだったが、読み書きができないなら日本語ができるとはいいがたいし(ワープロも打てないことになる)、第一、「不法就労で日本語を覚えたから日本語は確かです」なんて話が、まともな世界に通じるわけがないと思うのだが。

インドネシア人の友達に連れられて遊んだ西川口の風俗の話などには熱がこもっていた。→詳細はこちらhttp://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/09/discriminationb_bbd7.html

アチェは厳しいから25歳でも処女がごろごろいるとか言っていた。無職でごろごろしているのに、嫁さんも子どももいる。

この男もインドネシアが大嫌いだそうで、強烈なアチェ意識を持っているようだった。

彼から「女子割礼」の話を聞いた。「女子割礼」と言えば欧米および日本の進歩主義者やフェミニストたちによって、現代に残る野蛮の象徴のように言われ、フェミニストたちからは女性差別の行き着くところのように言われているものである。

彼は15歳くらいで割礼を受けたが(遅いほうだという)、アチェの女子は一歳位でみな割礼を受けるのだと言う。女子の割礼は、包皮を取るのではなく、クリトリス(陰核)を完全に切除する。

その辺にいるしとやかできれいなアチェ女性もムスリムなら皆割礼を受けている。それでなにか不自由したり、変になったりするわけではない、ということだろう。それによって不感症になったりしないことは、彼の嫁さんが証明していると言うことである。

こいつは西川口でしっかり見てきたはずだが、私の顔をしげしげと見て、「日本の女はアソコから何か突き出してるのか?気持ち悪いなあ」なんてことを言っていた。

彼らの「女子割礼」の習慣を異文化の人間が「人権問題」として騒ぎ立てることは、少なくともアチェ人の心情を害するだろう。直接イスラム教徒から女子割礼について話を聞いたのはこれが初めてなので、他のムスリムがどう考えているかはわからない。しかし、男子の割礼については他の地域でもムスリムなら当然のことという答えが返ってきた。
   

その男と話しているときに、日本人の若い女が二人通りがかったので話しかけてみた。某国立外語大インドネシア語科の学部生だそうで、先生と一緒に来たらしい。

研究なのかボランティアなのか物見遊山なのかはっきりしなかったが、「アチェの現状を日本に伝えるため」とか(ちょっと間抜けなことを)言っていた。アチェは飛行機が飛んでいてマスコミがいくらでも入れるところなのだが、インドネシア語ができるとはいえ・・・・まあいいか。アチェに来て3日目だという。

私が、アチェのマスジッドはすばらしいよね、と言ってもほとんど反応してくれなかった。モスクなどには興味が無いようだった。ムスリムのスカーフについては、あんな暑いものはたまらないとか、全体としてイスラム教やイスラム文化にはあまり良い感情を持っていないようだった。

きれいなバラック建ってたっているようにみえるが避難民の需要は十分に満たせていない(これは避難民のいるところならどこでも常に当てはまる真理である)、アチェには民族紛争があったが津波で下火になったとか、トゥドゥンはマレーシア語でインドネシア語ではジルバップというのだとか、一から講釈してくれた。

  
日本に不法滞在し不法就労したことのあるという男には、ネパール(ゴルカ)でもミャンマー(タチレク)でも会ったことがあるが、皆同じような品の悪さが付きまとう。ただ、タチレクで会った人は、幾分ましだった。日本人は同じだと思っていて、自分では日本人のことがわかっているつもりになっている。自分では日本人の足元を見ているつもりのようだが、ただただおのれの賤しさがにじみ出るばかり。日本で覚えてきた日本語も不法就労の現場で覚えたものだから同じように下品になる。(タチレクで会った人は、同じように土方をやっていたにもかかわらず、実家がしっかりしていたせいか全体にそれほど下品な感じは受けなかった。)

 
バンダ・アチェのネパールのような匂いは安物のガソリンを焚いた匂いだろうか。しかし、「ポイペト、ドゥマイ」グループとはまた違う。いつか中東の産油国に行っていろいろな油の匂いを調べてみたいと思う。

露天のガソリン屋はバケツから手桶でガソリンをすくって濾斗でバイクに注ぎ込んでいた。バケツはふたをしてあるが、ガソリンが気化して立っていくのが蜃気楼のように見えている。

これはあまり良いやり方ではない。露天でガソリンを売るときはペットボトルに詰めて一本いくらで売ったほうが安全だと思う。とくにコカコーラなど炭酸飲料のペットボトルは密閉性が高いので揮発油を売るのに適している。

Pante Pirak(スーパー)に行ったときに、近くのモダンなカフェでエスプレッソを飲んだ。客はいなかったがエスプレッソはおいしかった。8000か9000ルピアだったと思う。 

夜のマーケットで中国人のような女(日本人かもしれない)を連れた半ズボン白人を見た。

五日目。バンダ・アチェからメダンへ。

ホテルPrapatをチェックアウト。ホテルの前に待っているタクシーを拾い、空港へ。規定料金は7万ルピア。6万に負けてくれた。

朝8時半ごろ空港に着く。渋滞があるかと思って早めに出たが、まるでなく、早くつきすぎた。

空港のチェックインカウンターではガルーダに乗る毛唐のグループが偉そうに振舞っている。狭い検札の入り口に大きな身体の毛唐が平然と広がって突っ込んでいくので、チェックの係官が突き飛ばされそうになるが、毛唐はまったく意に介さない。

空港は市内以上に毛唐が目立つ。毛唐たちは皆ジャカルタに向かう。バックパッカーのようなのはおらず、一応仕事のようだ。アダムエアのチェックインは9時30分から。

 
待合室で英語を話すアチェ人のおばさんと話していた。子どもが4人もいると言うが若く見える。あちこちに知り合いがいるようで、しょっちゅう通りがかる人と挨拶している。

その友達の中国系の30歳くらいの女が来る。第一印象は非常に無作法で荒っぽいと言う感じ。この人はおじいさんが中国人というだけの人だそうだが、立ち居振る舞いがはっきりと中国人丸出し。色白で目は茶色でアラブ系も混じっているように見えるが、動きや雰囲気は完全にマンダリンと言う感じ。遺伝なのかそういうコミュニティにいるからか、それはわからない。しかし彼女もムスリムで、男子割礼について聞くと、当然だ、それでたくましくなるんじゃないの、みたいな答えだった。さすがに女子割礼については聞けなかった。麻酔をかけてレーザーで切るから平気なのだとか。

スマトラで(男子)割礼について何度か女性にも聞いたが、みなごく普通の話として冷静に答えてくれる。つまり、女性もたいてい幼いころに兄弟などの割礼を見聞きしており、割礼は子どもがやること、子どもの問題であって、成年男子の性の問題ではないと言うことなのだろう。

アチェ人の女のほうは、おとなしくちょっと洗練された知的な雰囲気があった。建築のデザイナーだといっていた。色黒で、ピラミッドの中の壁画に書かれている人のようなエキゾチックな顔立ちだった。

彼女は、自分の顔は「典型的なアチェ人」(ティピカルアチェ)の顔だと言っていた。中国人(中国系アチェ人)の女のほうもそういう。私は思わず、エジプト人みたいな顔立ちですね、と言ってしまったが、彼女にはピンとこなかったようだった。

彼女らによれば、アチェ人は「アラブ人とインド人と中国人」の混血で成っているのだそうである。「インドネシア人」が出てこないところが味噌というべきか。

そのエジプト人風(私が勝手にそう思っただけだが)アチェ人の女性とは、たまたま飛行機でも隣の席だった。これはまったくの偶然だった。

彼女は津波の前はバンダ・アチェに住んでいたが、今はメダンに住んでいる。津波ではオフィスをやられたが、家はやられなかった。しかし、津波の後、ジャイカに家を賃貸して、今はトルコ(政府?)からメダンに家を借りて住んでいる、ということだった。

「ジャイカの日本人は一日中コーヒーばかり飲んでいる。私は2杯も飲めば眠れなくなるのに・・・」なんて言っていた。たしかに、アチェのコーヒーはうまいと思う。

アダムエアは1時間遅れて、12時15分ごろ出発。スッチー(女性客室乗務員のこと)は日本人好みの美人ぞろいで、救命胴衣の指導もちゃんとやる。


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2006年1月 6日 (金)

「津波の幽霊」映画で集客たくらむプーケット【タイ】

6日付産経新聞によれば、観光客が激減しているプーケットで、外国人客誘致のための映画製作話が浮上しているのだとか。タイトルはもう決まっていて「津波の幽霊」。

日本人男優の起用も検討されているというが、どんな役かは不明。

映画の構想は昨年8月、タイ航空のカノク社長が発案したという。

ストーリーは『プーケットを訪れた外国人男性が地元の美しい女性とであって恋に落ち、女性が幽霊と知った後も現地にとどまろうとするが、最後は離れ離れになる』という笑ってしまうもの。

女を観光の売り物にするタイ人の姿勢は、幽霊になっても一貫して変わらないようです。けっきょく女しか売り物が思いつかないということなのだろう。

タイ観光協会は「幽霊映画でさらに客足が遠のく」と反発し、一時は宙に浮いていたが、カノク社長は「必ず映画化する」といっているそうだ。

カノク社長は主役男優はアジア系にしたいらしい。その背景には津波以後とくにアジア系の観光客が激減していることがあるらしい。

外国人はタイ人ほどには(タイで出る)幽霊を恐れていないと思うが、「変な日本人」が出てくる寒い映画になれば、日本人のプーケットのイメージはますます悪くなるだろう。

タイ人たちは「ラストサムライ」を見ながらも、くすくす笑っていた。私はタイの映画館でラストサムライを見たが、タイ人客が日本人の俳優のしぐさを見ながらくすくす笑う意味が良く理解できなかった。タイ人の感性は、実は日本人の理解を超えるものがある。


こんなストーリーならどうだろう。

『ヨーロッパで堅い仕事をしている独身の中年男性がクリスマス休暇をタイで過ごすことにし、ゴーゴーバーで知り合った女性と月5万円で同棲することにした。その女は飛び切り不細工で色黒だったが、男はむしろそこに惹かれる。ヨーロッパでの日常世界からかけ離れたエキゾチシズムと、これまで自分を呪縛していた固定観念から解放された自由感を満喫して羽を伸ばす。
彼女とビーチで寝転んでいるときに津波に襲われる(ここはCGと記録映像を合成する)。運よく彼は、怪我をしながらも救助されるが、女のほうは行方不明のままである。彼はその女のことはニックネーム以外は何も知らない。救助されたあとも、そのとき女と一緒にいたことや彼女が行方不明であることは切り出せない。白人のNGOもいっぱい駆けつけてきて、彼の意識は故郷のルールに引き戻される。しばらく病院で治療を受けたあと黙って帰国するが、帰国後しばらくして幽霊を見るようになる。その幽霊の顔は、もともとごてごてしていた彼女の顔をさらに醜く強調したものだが、確かに彼女なのである。彼はそのビジョンから逃れられない。かつてはエロスを感じたその醜さに、いま彼は激しい嫌悪を感じる。同時に、幽霊のビジョンと呼応しあうかのように、自分の中から自分のものでないどす黒いドロドロした何かが、もがき出てくるのを感じ、激しい恐怖を覚える。
ビーチで彼が彼女にささやいた「愛してるよ」という言葉が鍵になり、いまになって彼に襲いかかる。いや、そのときはじっさいそんな気分だったのだ。ウソを言ったつもりはなかった。このままずっとここで暮らしたいとさえ思った。しかし、そんな考えが幻想であることもまた、初めからわかっていた・・・・。
彼の世界と彼女の世界とは、もともと本質的に相容れないものだったのであり、むしろ、決して接触させてはならないものだったのだ。
彼は故郷に帰り、教会で祈るが、心は分裂したままである。やがて幻覚にさいなまれるようになり、仕事もやめ、アムステルダムで麻薬におぼれ、ついには自殺する・・・・。』
こんな話なら私も見てみたい。


ともあれ、タイ人たちに、津波の犠牲になった人たちの魂を畏れる気持ちや、特にタイ人犠牲者遺族の心情への配慮がほんの少しでもあれば、「津波の幽霊」ネタ、しかもタイ女の幽霊と外国人男性との恋愛ネタで集客しようなどという安直な発想が出てくることはありえないし、そんな極端な発想を責任ある者が公表することもないだろう。

タイ航空(TG)はそういう人間がボスをやっている航空会社ということである。

タイでは「外国人との恋愛」は一般に、豊かな女性がすることではない。外国人との「恋愛」と売春との明確な区別などない国である。

タイで、外国人と恋愛沙汰に入らざるを得ない女たちがどういう立場の人々なのかを考えれば、「津波犠牲者女性の幽霊と外国人男性との恋沙汰物語」を集客ネタにするなど、死んだレンタルワイフ(売春婦)へのいわば「セカンドレイプ」以外のなにものでもないことは、だれにでもわかるはずである。

これまた、タイ人・タイ族の、人間の尊厳に対する感性の根本的な欠如、他者の人格を尊重する観念の絶対的な欠落、を如実に物語るエピソードというほかはない。タイ人・タイ族のそういう卑しい精神性の頂点に君臨するものが、タイ国王であり、タイ仏教なのである。

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2005年12月26日 (月)

Dead Rental Wives・・・・インド洋津波一周年

インド洋津波に際しタイのビーチで亡くなった「レンタルワイフ」たちを悼む。

あのとき多くのレンタルワイフたちがプーケットで死んだことは一切報道されない。

白人男にプーケットに連れて来られて遭難した、多くが貧しいイサーン地方出身の娘たち。

レンタルワイフたちはバービア、ゴーゴーバー、カラオケ、エスコートクラブ、白人専門女紹介組織・・・などで客を見つける。月1万バーツから3万バーツ(当時1バーツ=約2.7円)で外国人客と契約し、セックス、観光ガイド、通訳、暇つぶし、身の回りの世話など一切をする。

タイ人救助隊も白人ツーリスト救助を最優先・最重要任務にした。

色が黒く「醜い」イサーン女などは見向きもされなかっただろう。タイ人にとって色が黒いということは「醜い」と同義であり、醜いことや貧しいことは「悪徳」と同義でさえある。


自分は運良く生き残り、最優先に救助され、自分が買って連れまわしていた女が行方不明になっていた白人ヴァカンス客たちは、何を思い、どんな顔で帰って行ったのだろうか。

おおかたコソコソと逃げて帰ったのだろう。
その女とプーケットにいたことを家族に言えない連中も多かったはずだ。
実際、プーケットでの外国人遭難者の名前を公表することに対してはヨーロッパで「プライバシーの侵害」であるという声があがっていた。


「ひどい目にあった。
やっぱりアジアは怖いところだ。
しかし俺は運がよかった。
俺は一人でバカンスに来ただけだ。
払うものはちゃんと払った・・・・」


彼らは一貫して何も語っていない。

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Dead Rental Wives
http://www.akha.org/modules.php?name=News&file=article&sid=196

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2005年12月25日 (日)

Dead Rental Wives・・・・あるアメリカ人の手紙【インド洋津波】

2004年12月29日

......No one speak about dead Thai, only how poor suffering white people had crushing disappoitment to their time in Thailand.

The party is over, their party is over, the girl they slept with in their room is dead and floating down the street, how is that for a sexual stimulant?

I have an Akha woman in Phuket right now looking for Akha bodies, the Thais told her already that some were drowned, the street vendors, the ones coming from Hooh Yoh, and such places, trying to keep their families alive, dead now........

Also we see now that the reality of ALL Thailand now shared with white people.  But you are right, CNN never showed the grief of a Thai person in all this, what their tragedy is, here it is CNN puking this information out over and over and over every 15 minutes, to the very people, keeping the very falsehood standing.  What is spent in Iraq on the war, to break and kill, is far more than all that was destroyed by this wave, which will be in the billions, but 400 billion or more like the war, or the 365 billion annual US military budget?

And yes, it is karma, for the thais killed 2500 in drug war or  more, and 800 muslim or more and no one said a word, no supply planes flew, no cnn came. and all the white shit journalists gripped the beer and ass more tightly and said nothing of what was going on.

But now they are paid back I think, God finding them where they wanted to hide, on the beach. All their lowly slaves, in and around the hotels, who drowned without so much as a video camera and a chance, we will never see their face, they are just fuel to help Thaksin rebuild the country coffers fast as he can.

Matthew
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インド洋津波に関する報道は偏っていた。多くのタイ人売春婦や「レンタルワイフ」が犠牲になったはずだが、そのことはまったく報じられない。白人の死や行方不明のみが報じられる。スウェーデン人少年が病院から行方不明になったことで欧米メディアは大騒ぎし、kidnapされた疑いもあるなどと連日報じていたが、ローカルが何人不明になっているかにはまるで無関心だった。伝え聞くところによれば、タイ人救助隊による救助の場面においてさえ、ツーリスト(=白人)が最優先され、アジア人被害者は後回しにされていたという。

明日で一周年。

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Sweden bitter over tsunami loss スウェーデン人どものツナミ狂騒【インド洋津波一周年】

Of all western countries, Sweden was the worst hit by the Asian tsunami.

The devastating wave killed nearly 550 and injured some 1,500 Swedish holidaymakers, who had flocked to Thai resorts for the Christmas period.

While the death toll cannot be compared with the enormous loss of life in the tsunami region, it has been felt strongly in this nation of only nine million people.

(人口の多すぎるアジアの雑民の犠牲はどうでもいいということだな)

Now, as Sweden marks one year since the disaster, criticism of the authorities here is mounting.

Many tsunami survivors and families of the dead accuse the government of reacting too slowly after the tsunami struck, and for behaving arrogantly towards those in distress. ................................................................................
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There have already been two memorial ceremonies for Swedes in southern Thailand, and there will be more over the Christmas holidays.

(スウェーデン人犠牲者だけのための慰霊祭をもう2回もやっている。外国で事故や災害が起きるたびに「日本人の犠牲者があったかどうかを報道するのは良くない」とか言ってる「ヒューマニスト日本人」とはえらい違いだな)

Many of the bereaved will travel there to take part, and to grieve. Danny Skoog will go there later in the New Year. This is a sad time of year for him, he says, but one year on he only feels stronger after managing for so long on his own.

"For me, the anniversary is just one day for thoughts, and for celebrating the beautiful people who went away that day. So I'm going to celebrate more than feel sorry."

http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4541590.stm

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アジア人遭難者たちの傷ついた身体やハシタナイ姿をいつも平気でパチパチ盗撮していく白人メディアだが、ツナミ直後に「(白人)遭難者のプライバシー保護」をやたら騒ぎ立てていたのもスウェーデンだった。不明者のの名前が公開されることさえ批判されていた。

「その時プーケットにいたこと」を人に知られたくない犠牲者や遺族も多いはずだから、という惻隠の情だろうか。

犯罪被害者ならまだしも、自然災害の被害者の名前も公開できないプライバシー思想というのも不思議なものである。

ツナミで流された白人は「ビューティフル」な人たちばかりでなく、バチが当たったとしか言いようのない連中も多かった。アジア女を借り切ってバカンスしてる時にやられた連中も多かったわけだが、そういう白人の恥部にかかわる事実についてはこの災害に関して一切報道されない。

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2005年12月23日 (金)

Tsunami orphans look to future

http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/4552042.stm

.........the tsunami hit, wiping out 60% of Baan Nam Khem's residents and thrusting the school into the spotlight for being in the area of Thailand worst affected by the disaster.

The school itself was badly flooded, and the old structure is no longer in use.

One year on, a new, state-of-the-art building stands alongside, paid for by a French supermarket chain.

Where once the facilities were fairly basic, the school now boasts a computer room, library and several volunteer English teachers.

But of course, a new school cannot make the hurt and pain of the tsunami disappear.
.........
Some of the pupils are there because their parents died, but many others live at the school because their families cannot look after them - through lack of money or because they have left the area in search of employment
.........

Lasting concerns

Despite all the options available to children affected by the tsunami, some have inevitably slipped through the net of the care on offer.
...........

Nantana Lotong, who teaches at Baan Nam Khem school, is also concerned about some of her pupils.

"One girl who lost her mother is feeling particularly bad right now because her father is going out with a new woman, and she's worried she'll be sent away," she said.

She added that one of her lasting concerns was for the teenagers who had spent most of the last year living together in temporary housing.

"At least one girl at this school got pregnant. She doesn't come to school anymore - I don't know what's happened to her now," she said.
.........

Looking forwards

Despite the tragedy of the tsunami, many of the children hit hardest by this terrible disaster can still imagine a future for themselves.
...........
....Other children are still clinging to the dreams they had before the tsunami took their parents away.

"I want to be a doctor. It's what my father wanted me to do," said Suwanee.

"He still talks to me about it in my dreams."

Suwanee
I want to be a doctor. It's what my father wanted me to do
Suwanee, 13

13-year-old Suwanee, who lost more than 20 relatives in the disaster. "It was Fathers' Day [recently] and that made me cry again."

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2005年12月20日 (火)

【タイ】ピピ復興で地元民が政府に不信感

大津波で壊滅的な打撃を受けたパンガー県ピピ島では、地元民が復興計画の進め方を巡って政府に不信感を募らせているという。政府は、地元の住民、観光ビジネスの関係者と内務省土木局が共同で打ち出したタウン・ゾーン計画と復興スキームの中止を決め、復興計画を政府が設置した機関「指定地区持続的観光本部」に任せることを決めた。同機関は、チェンマイ・ナイトサファリの獣肉料理問題で批判を浴びたプロートプラソプ副天然資源環境相が最高責任者。地元民のある代表によれば、政府関係者とつながりのある業者への利益誘導が優先される恐れがあるという

2005年12月20日18時11分 バンコク週報

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1568268/detail

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2005年12月16日 (金)

【インド洋津波一周忌】タイの津波追悼イベントに内外から批判の声

 [バンコク 16日 ロイター] タイ政府はこの年末年始、昨年末に同国を襲った津波の1周年追悼を目的とした「歌と踊り」のイベント開催を企画している。ただ、関心は予想以上に低く、配慮がないとの批判が集まっている。開催時期は12月26日から1週間で、生存者やその家族を招待する予定。
 これに対し外交筋やメディアからは、政府が同国の観光メッカであるプーケット島などでの観光産業の復活を強調しすぎているのでは、との批判の声が出ている。
 バンコクポストのコラムニストは、花火や新年のカウントダウンを盛り込んだ「歌と踊り」のイベントは、全く配慮がないとは言わないまでも、無神経だと批判。さらに、「こうした中途半端なイベントを考えたタクシン政権のスタッフには、このイベント自体が、津波による5395人の犠牲者と2906人の行方不明者の軽視につながることに気づいて欲しい」とも述べている。

(ロイター) - 12月16日20時7分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051216-00000262-reu-int
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
12月26日で一周忌。

この事例は人間の尊厳そのものに対するタイ人の軽い見方を象徴している。
タイ人は、下種な白人たちのもっとも卑しい側面を完全に内面化した、完璧な精神的植民地人といえると思う。
物理的植民地人よりタチが悪い。
(なかでもタイ人がすばらしく完璧に内面化した白人文化は、白人の作った人種秩序に基づいた人種差別主義。)
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(ネーションマルチメディア)
The government-sponsored memorial ceremonies is intended to show the world that the area is now ready to accommodate tourists.

Suwat(副首相、「津波一周年記念」委員会議長chairman of the "One Year in Memory of the Tsunami" committee) admitted that tourism in Phuket and Phang Nga had not revived as swiftly as the government had hoped, partly because of safety concerns and worries that hotels and infrastructure had been destroyed by the disaster.

http://nationmultimedia.com/

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オーストラリアが津波一周年記念行事にテロの危険を警告(バンコクポスト)
だそうです。そういうことがあってもあまり文句が言えないような振る舞いをしてるけどね。

TSUNAMI AFTERMATH / DISASTER PREPARATION
Australians warned of terrorist threats
Australia has issued a travel bulletin warning its citizens planning to attend the commemorative events in Thailand to mark the first anniversary of the Dec 26 tsunami tragedy to exercise a high degree of caution because of a threat of terrorist attacks. ''We continue to receive reports that terrorists are planning attacks against a range of targets, including places frequented by foreigners. You should read our full travel advice available at www.smartraveller.gov.au for further information.
http://www.bangkokpost.com/News/17Dec2005_news09.php

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2005年12月13日 (火)

【タイ】津波犠牲者IDセンターがプーケットからバンコクに移転(ネーション紙)

タイ紙「ネーション」によれば、

「The Thailand Tsunami Victims Identification Centre (TTVIC)がプーケットからバンコク警視庁に移転されることになった。」

約800体の遺体の身元がまだ特定されずに残っていて、そのうち548体がタイ人の遺体。遺体はプーケットの安置所からパンガの安置所に移される。」

遺体の身元の特定が出来てないのに国籍までわかるんだな。タイ人には。

「タイ人犠牲者よりも多くの西洋人が親族によって遺族であると主張されているのは、歯科治療記録や指紋、DNAサンプルなどの詳細なデータが出身国で保存されていて手に入りやすいからだ。」

ウソをつけ。
西洋人犠牲者のほうが多く身元特定されているのは、当局がまず第一に西洋人を救助し、遺体も丁寧に扱って、身元特定も最優先に努めたからだ
アジア系の遺体と見れば、モノのように扱って、野焼き処分をしたのだから、身元の特定などできるわけがない

また、こんな記事からも、タイ人の頭にはいまも「タイ人犠牲者」と「ファラン犠牲者」しかないということがわかる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://nationmultimedia.com/

Some 800 bodies remain unclaimed - including 548 Thais - and will be transferred from Phuket's Mai Khao morgue to Bang Maruan morgue in Phang Nga, Noppadol said.

The reason more Westerners have been claimed by relatives than Thai victims was the availability of detailed identification data such as dental records, fingerprints, and even previous DNA samples in many of their home countries.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
先に、日本人とイタリア人との混血の日本国籍を持つ少女が「タイ人と間違えられて」野焼き処分されていたという報道があった。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2005/12/1_3de3.html

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2005年12月 7日 (水)

福岡の少女、死亡確認=大津波で不明1年-タイ警察が遺体取り違え

【バンコク6日時事】昨年12月のスマトラ島沖地震の際、タイ南部を襲った大津波で行方不明になった福岡市東区の中学1年トレリ令亜さん=当時(12)=の遺体を、タイ警察が同国女性と間違えて家族に引き渡し、野焼きされていたことが6日、分かった。火葬現場から令亜さんの歯列矯正器具や骨の一部が見つかり、被災から1年近くたってようやく身元が確認された。
 令亜さんはイタリア人の父カタルド・トレリさん(48)と日本人の母恵子さん=当時(43)=の長女で、両国籍を持っている。
 令亜さん一家はパンガー県カオラックで津波に襲われた。トレリさんと長男は無事だったが、恵子さんとトレリさんの姉=同(52)=は遺体で見つかった。令亜さんだけ行方が分からず、トレリさんは何度も現地を訪れ、捜索を続けていた。 

(時事通信) - 12月6日17時0分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051206-00000090-jij-int
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「遺体取り違え」!?
人種を取り違えたということか。

犠牲者がアジア系だと見ると片っ端から「野焼き」処分していたんだね。
気の毒に、父親に似て白人顔だったら扱いが違ったんだろうが。

プーケットの津波では、救助の段階から、白人遭難者最優先、自国民(その他アジア人被害者)後回しがあまりに露骨だということが白人自身によっても語られていた。

(関連記事)
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2005/11/post_bdc7.html
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2005/09/200412_bb13.html

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2005年11月11日 (金)

「失踪白人女性症候群」

白人女性の失踪事件に異常な関心 謎が多くTV局も大きく報道
米アラバマ州出身のナタリー・ホロウェーさん(19)がことし5月、カリブ海のオランダ領アルバ(人口2万5000人)に高校の卒業旅行に出かけたまま行方不明になった。一見、数多くある女性失踪事件とみられたが、米メディアは、この事件に異常な関心を寄せている。8月末に米南部を襲ったハリケーン被害報道の時でさえ、ホロウェー事件の動きは、時々全米トップニュースとして忘れ去られることなく伝えられた。メディア批評家たちは、ホロウェーさんが「若い白人の金髪女性」のため、メディアの関心が高いと分析している。・・・・・・・・・・

こうした事件のミステリー性もテレビ局の関心を呼んだ。テレビ局にとっては、ホロウェー事件は、視聴率を稼げる格好の話題だ。一般に米国のテレビ局は、白人の少女や若い女性が巻き込まれた殺人や誘拐事件の方が派手に報道される傾向にあるといわれる。メディア批評家は、こうしたメディアの偏った傾向を、一般的に「失踪白人女性症候群」と呼んでいる。・・・・・・・・・・

2005年11月11日00時05分 ベリタ通信 
http://news.livedoor.com/trackback/1484595

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「女性」に限らない。スマトラ沖地震の津波でプーケットがやられたときも、無数のタイ人レンタルワイフが犠牲になったが、報道されたのはほとんど白人観光客の犠牲のみだった。タイの報道でさえそうだった。
そして恥知らずな欧米メディアは、病院から失踪した一人のスウェーデン人少年について「キッドナップ事件」だときめつけて大騒ぎをした。一方、この津波で行方不明になった有色人種の子供たちは無数にいたにもかかわらず、彼らについてはこの時点でほとんど何も報じられなかった。

私はちょうどあの津波の時、カンボジアのポイペトのテレビのあるゲストハウスにいた。直後にタイ領に入り、タイ南部を旅した。テレビのある宿ではCNNかFOXを見ることが出来たが、話題はもっぱら、(アジアの野蛮人に)「キッドナップされたにちがいない」スウェーデン少年の安否についてのおしゃべりだった。

(参考)
The Akha Heritage Foundation
Dead Rental Wives
Posted by quoctuan on Friday, January 07 @ 05:36:00 EST
http://www.akha.org/modules.php?name=News&file=article&sid=196

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2005年9月20日 (火)

2004年12月タイ、イサーン周遊

2004年
【パノムルン遺跡・プラコンチャイ】
12月3日。
アランガーデンホテルをチェックアウト。アランチャプラテートのバスステーションからブリラム行きのバスに乗り、バンタコで降りる。途中、感じの悪いタイ警察がまたしつこくパスポートをチェックしてきた。ロンジをはいてアカ族のショルダーバッグを提げているからだろう。
バンタコでモトサイを雇い、パノムルン遺跡を見に行く。大きくはないがなかなか立派な神殿。中心にシヴァリンガがある。クメールのヒンドゥ神殿。そのままモトサイでプラコンチャイという町に行き、「プラコンチャイリゾート」というホテルの150Bの部屋にチェックイン。モトサイは250B。プラコンチャイリゾートの近くには何もない。マーケットまで数キロ。夕方ホテルのオーナーの自家用車でマーケットまで乗せてもらう。食べ物を買って持ち帰って庭で食べる。
【スーリン】
4日。午前9時ごろチェックアウト。ホテルのバンでバス停まで送ってもらう。スーリンに行くエアコンバスに乗る。1時間ちょっとでスーリンに着く。このあたりクメール系の顔も目立つが表情や振舞いはタイ的。クルンスリホテルの140Bの部屋にチェックイン。
午後バスに乗り、シーコーラプーム遺跡を見に行く。5分で見終わるようなもの。どこまでが本物でどこからが再建なのかわからない。
スーリンの町は、2年半ほど前に来たときにはうらぶれた感じの静かな町だったが、今は妙に活気がある明るい感じの町になっている。
【プラサート】
5日。午前11時ごろチェックアウト。バスステーションから立派なエアコンバスでプラサートに行く。プラサートはけっこう大きな町。バスステーションの近くのHotelとだけ表示のある旅社にチェックイン。150B。スーリンのクルンスリより清潔な感じ。
バスステーションからソンテウでカンボジアボーダーの方に向かう(カプチューン)。途中でモトサイに乗り換え、チョンチュムのボーダーへ。スタンプなしでタイを出るが、カンボジア側で300B要求される。オスマチOsmachというマーケット。掘立小屋の小さな集落がある。オスマチのマーケットでカフェを2杯飲む。カンボジアの味。コンデンスミルクをかき混ぜるまでは透明で舌がしびれる刺激。
プラサートのマーケットは閉まるのが早い。午後8時には半分くらい店じまいをしてしまう。バスターミナルとマーケットと役所だけの町。
6日。引き続き名もないホテル(旅社)に滞在。プラサート・ヒン・バンプルアンを見に行く。その近くに住んでいる人の世話になる。ところがいいところに、パタヤにファランのボーイフレンドがいるという若い女がやってきてぺらぺらとしゃべりまくりうんざり。雰囲気ぶち壊し。しょせんここはタイだと再確認。
バンプルアンからプラサートに戻ってバス停近くのマーケットをぶらぶらしていると、バンプルアンに行くソンテウにたまたま乗り合わせて少し話しをした姉妹の姉のほうに声をかけられた。ソンテウの中で教えた私の名前を覚えていたのに驚く。スーリンの自分の家に戻るところだというのでスーリンへついていく。スーリンで一緒にバーベキューを食べて帰ってくる。姉のほうが23歳でオームといい、妹は20歳でオーという。母親がクメールで父親がクイ族だという。クイ族はスーリンあたりに昔からいる象使いの部族。
今日会った人たちはみなクメール系だが、本人たちはタイ族のつもりらしい。家庭ではクメール語を話すが、それはただカンボジアが近いから話しているだけだといっている。しかし、たとえカンボジア国境近くに住んでいても、クメール系以外の人がクメール語を話すということはないだろう。
【シーサケット】
7日。10時半ごろ発ってスーリンに行き(プラサトからシーサケット行きは2本のみ)、スーリンでバスを乗りかえる。
スーリンのバス停近くのコーヒー屋台のおばさんに最後の挨拶。このおばさんは英語を話す。この人の話によれば、イサーンには(方言として)3つの言葉が存在するという。一つは、固有のイサーン語で、スーリンやブリラムなどで話される言葉。この言葉も標準タイ語とは外国語といっていいくらいに違う。第二は、ラオ語で、コーンケーンやウドンターニの方で話される。タイ語と同系の言葉。第三はクメール語で、クメール系の人たちが話し、タイ語とはまったく違う。
シーサケット行きの途中で降りてサカンペンヤイ遺跡を見る。これもどこまでオリジナルでどこからが補修かわからない。彫刻も新しそうで、クメール風の顔のものは風化している。バスを拾い、シーサケットへ。鉄道駅前で降りてサムロー(リクシャ)でThai Siam Thaiホテルへ。180Bの部屋にチェックイン。シーサケットはスーリンより小さいくらいの町だが、町の人の感じはスーリンよりとげとげしい。
【カンタララク・カオプラヴィハーン遺跡】
8日。シーサケットの町は感じが悪いのですぐに出る。何も面白いことのない町。ローカルコーヒーもない。バスステーションに行くと、ちょうどカンタララク行きのバスがあったのでそれに乗る。昼ごろカンタララクに着。バス停の向かいの飯屋のオヤジの車でカオプラヴィハーンに向かう。その前にホテルを見つけてもらう。300Bでファンの良い部屋にチェックイン。新しいこの辺でナンバーワンの宿だそうだ。英語看板はないが、First Service Roomというところ。カオプラヴィハーンの前でタイ側の公園事務所に200B払わされる。そのあとイミグレのようなところでパスポートのコピーをとらされ、カンボジア側の事務所でも200B払う。カンボジア領に近づくにつれて風景は荒れ野のようになってくる。耕地が少なく木がまばらに生えている。地雷危険の標識に囲まれた道を行く。神殿は毀れているがなかなか立派なもの。敷地に入るとキーンと耳がなるような感じのところ。行き止まりは絶壁で柵も何もない。曇りがちの天気で展望は良くなかった。最初からずっとついてくるカンボジア人の物売りの女の子がいた。「私たちはクメールであることに誇りを持つ」という意味の言葉がクメール語と英語で大きく掲げられていた。あれはなんて読むのと聞くと、クメール語で読んでくれた。
【ウボン・ラーチャターニ】
9日。10時ごろにFirst Service Roomをチェックアウト。カンタララクを出る。バスで2時間ぐらいでウボンに着く。バスターミナルは北の方。インフォメーションが親切にソンテウの番号を教えてくれる。すべて5バーツ。最初、トーキョーホテルを見るが部屋が狭いのでやめる。次に乗ったソンテウがワーリンまで行ってしまう。もう一度戻り、シーイサンNo.2の160バーツの部屋にチェックイン。ツインベッドで広い部屋。安旅社だが臭くなく静かそうな環境。
ウボンの国立博物館を見る。施設も展示も貧弱。職員は怠惰におしゃべり。ふざけた態度で応対している。見るべきものもあまりない。クメールの仏像も風化して顔がよくわからなくなっているものばかり。管理もずさんで、古い文字の刻まれた石板が直射日光にさらされている。館内にある年表などによれば、タイ(ラオ)族がこの地域に侵入したのは18世紀になってかららしい。それ以前数百年はクメール、その前はモン(ドヴァラヴァティ)が支配していたとなっている。
【ピブーンマンサハン】
10日。朝シーイサンホテルの近くの通りでソンテウを拾い、ワーリン市場へ行き、そこからローカルバスでピブーンマンサハンに向かう。ピブーンは小さな町だが、かなり大きなマーケットがある。サムローでホテルへ。Phiboonkitホテル。英語はまったく通じない。大きなツインルームで280バーツ。宿にバッグを置いて、チョーンメックに向かう。一時間以上かかる。タイ側イミグレーションでラオスのアライバルビザが取れるかどうか聞いてみると、取れるということだった。
ピブーンにもどり、コンチアム行きのトラックバスに乗る。橋のところから出る。1時間ぐらいでコンチアムに着。ゲストハウスが2軒ほどあり、薄汚いファランも見かけた。コンチアムに着いたのが午後5時ごろで、もう帰りのバスがなくなっていた。ファラン宿のババアは私を完全に無視しやがった。バス停前の強欲オヤジの白タクで300バーツ払ってピブーンに戻る。車で飛ばすとほんの30分の距離。
【パクセ】
11日。ピブーンキットをチェックアウト。ソンテウでチョーンメックへ。アライバルビザを取る。土曜日ということで、ビザを取るにもスタンプを押すにもいちいち賄賂を要求される。ビザで1ドル。スタンプで70バーツも。しかも一ドル50バーツというでたらめな計算で、ビザ代をバーツで払うと1500バーツだという(普通は一ドル40Bくらい)。パクセまでトラックバス。パクセのラオチャルンもサラチャンパもほとんど満室。タイ人団体客がはいっているらしい。ポンサヴァンという汚いゲストハウス(3ドル)に入る。このあたり、タイ側よりラオス側のほうが白人ツーリストが多い。
【チャンパサク】
12日。サヴァナケットに向かうバスに乗るが、12時ごろから4時ごろまでずっとパクセ周辺のバス停をのろのろまわっていてまともに走ってくれないので、うんざりしてバスを捨てる(2.5ドル)。トゥクトゥクを拾い、チャンパサクの手前の渡しまで500Bで行く。渡し舟ででメコンを渡り、チャンパサクのAnouxa(アヌサ)ゲストハウスというところにチェックイン。5ドルでホットシャワー付の部屋。こんなところにもやっぱり毛唐がアジア女連れで来ている。
パクセは寒いが、チャンパサクは暖かい。パクセの夜はほんとうに寒い。
【ウボン・ラーチャターニ】
13日。10時ごろアヌサをチェックアウト。チャンパサクを出る。パクセでソンテウ(ピックアップトラックバス)を乗りかえて、ヴァンタオ(チョーンメック)まで行き、タイに入る。
ラオスのトラックバスのうしろにぶら下がって車掌をしていたラオス人の若い女の子とタイ国境前の食堂で食事をする。いい女だった。ラオスのトラックバスはタイのソンテウとは違い、車掌がうしろにぶら下がって乗客の世話をする。ピブンマンサハンでソンテウを乗りかえウボンラーチャターニーへ。シーイサン2にチェックイン。160B。
【ムクダハン】
14日。シーイサンをチェックアウト。ウボン工業技術大前のバス停から立派なバスに乗り、アムナートチャルンに向かう。アムナートがあまりに小さな町で何もなさそうだったので、そのままムクダハンへ。ウボンから3時間でムクダハン着。バントムカセム(Banthom Kasem)ホテルにチェックイン。英語看板はない。150B。
ラオスのパクセは寒かったが、ウボンは暖かかった。北へ向かったが、ムクダハンも暖かい。ムクダハンは川湊のある小さな町で、マーケットもさほど活気があるわけではない。ファランはときどき見かける。ラオスから入ってくるやつや、タイ女を連れたやつ。
町の人はウボンやシーサケットに比べて穏やかな感じがする。
15日。バントムカセムの居心地がいいのでもう一泊した。宿の人の感じが良い。同じ150Bでホットシャワーのあるいい部屋に変えてくれた。ムクダハンは小さな町だがケーキ屋がいくつかあり味もいい。ファランが少ないのが何よりいい。バントムカセムは英語表示のない商人宿で静か。商人宿だが旅社の雰囲気はない。床も板張りで外人向けのゲストハウスみたい
だがファランは見ない。ムクダハンは衣料品などの市場が充実していて、ウボンなどよりずっと品揃えが豊富。昨日米軍の迷彩シャツを買った。人は少ないのに、品数は充実している。
【ナコーンパノム】
16日。バントムカセムをチェックアウト。タートパノムへ行くがまともな旅社もない。流水のないようなところだけ(溜め水)。泊ろうかと思ったが、蚊の多さに閉口し、ソンテウでナコーンパノムに向かう。ファーストホテルにチェックイン。160B。近所が一晩中うるさい。
パノムというのはプノンペンのプノムと同じで、クメール語で丘という意味だそうだ。地元の人はパノムよりプノムに近い発音をする。
【ウドンターニー】
17日。サコンナコンに向けて出発。サコンナコンに着いたのがまだ11時ごろだったので、ウドンターニまで行くことにする。2時半ごろウドンに着。バス停前のSri Trakarnという安旅社にチェックイン。140B。ぼろいがそんなに汚くはない。ウドンはかなりの大都会で、ロビンソンデパートもあり、女連れのファランが目立つ。タイマッサージ屋も多い。
【アランヤプラテート】
18日。9時ごろバスでウドンを出て、コーンケーンへ。コーンケーンで降りてから、急にアランヤプラテートに行きたくなり、コラート(ナコンラチャーシーマ)行きに乗る。コラートで乗りかえ、アランヤプラテートに向かうが、アランヤプラテートだと思って降りたのがカビンブリだった。5時ごろ。運転手に聞いて降りたが、でたらめにそうだと言っていたようだ。結局、乗りかえてアランヤプラテートまで行く。50Bの損。アランガーデン2は満室で、アランガーデン1の道側のうるさい部屋。200B。
19日。アランガーデン2の300Bの部屋に移る。道側だが交通量も多くなくわりと静かで安眠できる。ファランも少ない。高いからだろう。
【ポイペト】
20日。ポイペトに出る。タイのイミグレにずいぶん時間がかかる。カジノ目当ての異様な雰囲気の白人団体が並んでいた。ドイツ人のようだったが、ふつうのツーリストと雰囲気が違う。顔立ちからしてなにか異様。ガタイが大きく、肌が荒れていて、みな無表情で黙っている。東ドイツの農民という印象。農協のカジノツアーなのかも知れない。ほかにはフィリピン人も多い。
ロータリーのロンセンリLong Seng Lyゲストハウスの一階の窓のない部屋にチェックイン。200B。天井は高く換気扇があるのでさほど閉塞感はない。
21日。ロンセンリに連泊。
23日。毎日ドリアンを食べる。シーズンではないと思うが甘い。窓のない部屋の居心地もまあまあ。
ポイペトは悪くない。ネットカフェもある。
25日。下痢で寝込む。熱もある。ドリアンの食いすぎと思われる。
26日。インド洋津波。部屋のテレビで知る。
注:インド洋津波に関する報道は偏っていた。多くのタイ人売春婦や「レンタルワイフ」が犠牲になったはずだが、そのことはまったく報じられない。白人の死や行方不明のみが報じられる。スウェーデン人少年が病院から行方不明になったことで欧米メディアは大騒ぎし、kidnapされた疑いもあるなどと連日報じていたが、ローカルが何人不明になっているかにはまるで無関心だった。伝え聞くところによれば、タイ人救助隊による救助の場面においてさえ、ツーリスト(=白人)が最優先され、アジア人被害者は後回しにされていたという。
28日。ずっとロンセンリに沈没。毎日やることも同じ。ポイペトは空気が悪いほかは居心地が良い。毎晩、道に並ぶ屋台をうろつき、殻ごと焼いた卵を食べたり、ドリアンやジャックフルーツの入った濃厚なカンボジア風フルーツシェイクを飲んだりするのが楽しい。これは一口飲むと口の中が痒くなる。
【アランヤプラテート】
31日。ロンセンリをチェックアウト。タイに入国。入国カードに、タイでの滞在先としてバンコクのタイペイホテル(台北大旅社)とを書いたら、女のイミグレ官にこれはどこだとしつこく聞かれた。バンコクだというとバンコクのどこだというので、ヤワラーの近く7月ロータリーの近くだといっても要領を得ない。知らないようだった。

2005年
【ブリラム】
1月1日。アランガーデン2をチェックアウト。ブリラムに向かう。ブリラム行きと教えられたバスに乗るとまったく別方向のチャンタブリ方面行だった。途中でバスを乗りかえ、午後4時過ぎようやくブリラムに着く。2年半前に一度来たはずだがまったく覚えがない。リクシャで適当なホテルに行ってもらう。「タイホテル」という安旅社の220Bの部屋。
ブリラムは死んだような町だが、売春婦連れ白人が溜まっている大きなバービアがあり、タイホテルにも売春婦連れが入っている。
【ナコンラーチャシーマー(コラート)】
2日。タイホテルをチェックアウト。11時の汽車に乗る。鉄道駅が近かったので汽車に乗ったのがマチガイだった。三等しかなく、満席で立ち。しかも込み合っている車両を3分おきくらいに物売りが大きなバケツを提げて乗客を書き分けて通る。駅だけでなく、走行中も頻繁に売りに来る。何を考えているのか、タイ人の頭の中はわからない。ナコンラーチャシーマ駅で降り、旧市街のほうに歩く。チュムポルホテルにチェックイン。240B。

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