*「人種差別」に関する考え方

2008年1月 2日 (水)

バラク・オバマ氏は「アフリカ系」か

バラクオバマ氏は、(特に日本のメディアで?)「アフリカ系」候補と呼ばれることはあるが、(日本でもどこでも)「ヨーロッパ系」と呼ばれることはない。それはなぜか。

学校などで習ったところによれば「人種」は生物学的、遺伝的分類でありいわゆる「自然人類学」的な分類であり、これに対して「民族」は、言語、文化、宗教、歴史的背景などによるグループ分けである、ということだったと思う。

しかし本当はそうではなくて、「人種」の種別にとってもっとも重要なことは生物学でも遺伝でもなく、「白人」か「黒人」か「黄色人種」「モンゴロイド」「北方モンゴロイド」「古モンゴロイド」か、普通の人が見て「どれに見えるか」、による分類にほかならないと私は思う、というのがここでの話題である。(シベリアの寒さを経験していない東南アジア先住民がどうして「古モンゴロイド」などと呼ばれるのかさっぱりわからない)。

とくに、まずもって「『白人』といえるかどうか」「白人に見えるかどうか」が「人種」を語る上で最も重要である。

偽善的な白人が「白人」という言葉を避けて「コーケイジアン」などという言葉を使うのは、現に白人が「白人」であることによって(「どこから見ても白人に見える」ことによって)世界中で享受している特権をあいまいにしようとする意図に出たものにほかならない。彼らが「白人」のことを「コーケイジアン」とごまかして呼ぶとき、その「コーケイジアン」にはインド人やアフガン人やアラブ人やが含まれることはないのである。

白人によるハロウィーン山手線占拠騒動を弁護していた白人サイトが、「集まったのはほとんどコーケイジアンと日本の女だった(と2ちゃんねるに書いてあった)」と書いていたのは大嘘で、2ちゃんねるには「白人」と書いてあったはずである(私は見ていないが、コーカソイドとかコーケイジアンなどとは書かれていなかったと確信している)。

「コーケイジアン」という言葉はこういう風に使われる、主に非白人を煙に巻くためのウソ構成の術語だといってよい。

バラク・オバマ氏は父が「アフリカ系」といわれ、母は白人だといわれている。父親がどれだけ「純粋」なアフリカ系かもわからない。彼がたっぷりと「白人」の血を受け継いでいることは確かである。先祖を一人一人数えていったら「ヨーロッパ出身者」のほうが多いかもしれない。

それでも彼が「白人」に分類されることは決してない。不用意に「黒人」に分類されることはありうるだろうが(特に日本のマスコミなどで)、「白人」に分類されることだけは世界中どこでもない。

奴隷制時代のアメリカでは、先祖に一人でも黒人がいる人間は「黒人」とみなされ、それが発覚すると直ちに商品として売られることもあったという。古い「世界の偉人伝」のリンカーン伝には、「リンカーンは子供のころ黒人たちが奴隷として引き立てられていくのを見てとてもかわいそうだと思ったのです。なかにはまったく白人にしか見えない美しい女性もいましたが、一滴でも黒人の血が混じっていると奴隷として売られていくのでした」なんてひどいタワゴトが書いてある。

しかし、今日ではそういう分類の仕方は行われなくなっているように思われる。

今日の人種問題上重要なのは、「見た目で白人に見えるかどうか」だと思う。バラクオバマ氏がどんなにたっぷり白人の血を受け継いでいても白人として扱われないのは、彼が「白人に見えないから」にほかならない。

つまり、今日では自然科学的(「自然人類学」的)な分類が問題なのでなく、「白人かどうか」が問題なのであり、白人かどうかはほとんど「白人に見えるかどうか」によって決められる。まずそこが最初の「篩い」になっていて、白人への門は人為的、つまり政治的に狭くされていることに注意しなければならない。

たとえば「純粋な白人」と「純粋な黒人」がいるとする。彼らが交配して両者の遺伝的な特徴を外見的にも半分ずつ承継した「完全なハーフ」の子供ができたとする。両親の特徴を正確に1/2ずつ発現している彼は、この世界でどの人種として扱われるだろうか。

おそらくは「黒人」に分類されるだろう。仮に4分の1であってもそうなるだろう。少なくとも白人に分類されることはないはずである。

逆に、もしもいま白人が支配しているような仕方で、「純粋黒人」(という言葉が悪ければ本当に真っ黒な黒人でもいい)がこの世界を支配していたとしたら、バラクオバマ氏は「アフリカ系」の仲間にはまったく入れてもらえなかったかもしれない。

以上のようなことを思い巡らしてみれば、「人種」は自然科学上の意味のある概念ではまったくなく、もっぱら政治的概念、われわれの政治性のある意識の上の概念であるということがわかると思う。

したがって、このような「人種」の区別を現実に誰が(政治的に)決めているのか、ということが重要になる。

もしも「真っ黒な純粋黒人」(というものがあるとして、その勢力)が決めていたとしたら、この世界の「黒人」への門は狭くなり、肌の「真の黒さ」が高く評価されたはずである。

人種の区別を決める権限はこの世界の支配的人種にあり、支配グループに仲間入りするための門は当然狭くしている。人種の類別を決める権限を持つ人種集団が支配的人種なのである。

アメリカの役所に自分の所属人種を申告するときに「俺はAryanだから白人だ」と主張して受け入れられたインド人がいるという。それは、彼がAryanであることを主張できたからである。

Aryanが白人であるとという規定は白人自身が昔から認めていることだからだ。しかしどんなに肌の白い日本人がいたとしても「白人」として登録してもらうことは絶対できないだろうと思う。

つまり、今日の世界において人種の区別(その存否を含めて)を決める政治的権限は白人にあるということである。この世界の現実を直視しなければならない。いくら自分はそう思わない、思いたくないといっても、それが現実ならその現実から出発するほかないだろう。私はそれが現実だと思う。

歴史的に「白人」を定義してきたのは白人自身である。その定義を非白人に押し付け、「非白人」を定義してきたのも白人である。なによりまず最初に「白人」が定義された。その定義を支えるために(白人によって)他の人種が説明され定義されたのである。したがって「非白人」という括り方はきわめて合理的で正直なものである。

白人は、自分で作ったその区別によって、利益を受けることがあれば不利益を受けることもあるだろう。仮に不利益を受けることがあったとしても、今になってその区別を「差別」と称してして排除する権利は白人にはない。

こういうことに気づき始め新たな戦略を練っている賢い白人たちもいる。

昨年末の当地紙New Straits Timesに、バラクオバマ氏を支持するフランス人の論説が転載されていた(Project Syndicate)。世界のためにもアメリカのためにもバラクオバマ氏が大統領になることが良いという。

その論者の主張はおよそ次のようなものだったと記憶する。バラクオバマ氏を「アフリカ系」と呼ぶのは適切ではないが「白人」ではない。いまのアメリカはいま西洋の権化(incarnation)のように見られていて、この場合の西洋とは「白人」のことにほかならない。「白人」とはっきり書いていた。そのことがアジアやアフリカを含む世界中で、アメリカさらには西洋の立場を悪くしているが、バラクオバマ氏がアメリカ大統領になることによって、そのような欧米のネガティブなイメージを抑えることができるだろう(つまりは中和剤になるだろう)ということだった。

このように、白人のなかでも賢い連中は、人種問題を「アフリカ系」「コーケイジアン」などという言葉でごまかしていくやり方はもう賞味期限切れになっていることを認め、「白人かどうか」が問題なのであり人種問題は「白人問題」にほかならないという(昔からの)現実を正面から認めた上での対策を考え始めているということだろう。

たとえば、アメリカは白人世界の砦であり白人の人種的利益を守るための実力組織だが、その顔があまりに白人的過ぎないほうが白人世界全体の利益になるという考え方がありうるだろう。

しかし、イメージによって人の行動や富をますます支配できるようになるこの時代に、白人支配層だけを切り離して下層白人大衆を切り捨てるということはできないと思う。

なぜなら、世界に大量の貧しい白人があふれて彼らが見下され白人のイメージが地に落ちるような状況になってしまっては、白人の文化、白人の言語、白人の思想、そして白人のルール、法制度が危うくなる。それは直ちに白人貴族階層の既得権を危うくするだろうから。

この点いちばんナイーブで、(左も右も)「人種」という問題を深く考えたことが一度もない、というのはやはり日本のマスコミだと思う。
 

| | コメント (7)

2007年8月 2日 (木)

人種主義が白人固有の思想であること〔補足〕

「人種主義」は誰もが任意に抱きうるような形式的な観念ではなく、歴史的現実に相応する歴史的な概念であること、「人種主義」の基礎には白人至上主義が存し、白人至上主義を基礎とする白人の人種差別思想のみが正しく「人種主義」の名に値すること、をこれまで述べてきた。

人種主義が白人世界固有の思想である事実は、常識的な観察からも明らかではないかと思う。

白人社会には常に白人至上主義の社会的な勢力が草の根的に存在する。

これは白人社会の土壌に根ざす彼らの体質的思想であり、日本の右翼など比べ物にならない危険な衝動である。日本の右翼が異人種の通行人に石を投げつけたり車道に突き落としたりするだろうか。

日本にはそのような「人種主義」勢力は存在しない。

日本の風土にそのような衝動がないだけでなく、思想としても存在していない。

日本に「黄色人種至上主義」や「アジア人至上主義」が存在するだろうか?

そのようなものをでっち上げたとしてもカリカチュアでしかないだろう。なぜなら、そこに出てくる「人種」という概念がそもそも白人至上主義に基づいて成立しているものだからである。「アジア人」を定義したのも白人である。

日本のいちばん右端のほうを眺め回してみてもも「大和民族至上主義」すら見当たらない。

続きを読む "人種主義が白人固有の思想であること〔補足〕"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月30日 (月)

サルコジ仏大統領、アフリカ植民地支配「謝罪」拒否

仏大統領、アフリカ訪問 植民地政策は「過ち」、謝罪は拒否

7月29日8時39分配信 産経新聞

【パリ=山口昌子】フランスのサルコジ大統領はセネガルの首都ダカールで26日に行った演説で、過去の奴隷制度を「人類に対する犯罪」とし、仏の植民地政策を「大きな過ち」と認める一方、「悔恨に関するあらゆる考え」を拒み、謝罪拒否の姿勢を示した。
 大統領は、27日までの3日間、旧仏植民地のセネガル、ガボンを初めて公式訪問。ダカールでの演説で大統領は、強い口調で、黒人に対する奴隷制度やかつてフランスがアフリカ諸国にとった植民地化政策を糾弾した。
 しかし、「間違いや犯罪を否定するためにやってきたのではない」とも言明。「過去の世代が犯した罪の償いを現在の世代に要請することは誰もできない。植民地化は現在の困難のすべてに責任はない」とし、独立後、さまざまな問題を抱えるアフリカ側にも責任の一端はあるとの認識を示した。
 ルモンド紙によると、大統領の演説に対し、約1300人の聴衆は「儀礼的拍手」を送るにとどまり、セネガルの野党社会党議員も「説教のようだ。アフリカ人は問題を意識している」と冷たい反応を示したという。ただ、“謝罪拒否”に対する反発は特に伝えられていない。

   
何年も前に読んだ新聞報道で、どこの国の言い分だったかも忘れたが、

「アジア人はなぜもっとひどかった白人の支配は許せるのに日本の『植民地支配』や『侵略』の過去を許せないのか」

という問いにまじめに答えさせている記事があった。

それに答えたアジア人の言い分は、

「同じ人種だからこそ許せないのだ」

というものだった。

昔読んだ記事だが、この理由だけははっきり覚えている。

もっと前、東南アジアの反日暴動のときの彼らの言い分のなかには、

「日本人は有色人種のクセに白人のような贅沢をしているのが気に入らない」

というのもあった(タイかインドネシア)。

         
こういう発想こそ「人種主義」ではないか?

白人に支配されるのは平気だが日本人に支配されるのが我慢がならない、という彼らの感情の基礎には、(中国韓国の場合は直接的には中華思想があるのだろうがもっと普遍的にいえば)「人種主義」がある。

すなわち、白人の人種主義(=人種主義とは白人至上主義を基礎とする白人固有の思想である)をそのまま受け入れて内面化し、「奴隷同士の平等」または「奴隷内部での正当な序列」を求める思想である。

奴隷にとっては主人である白人に殴られるより奴隷仲間に殴られることのほうが耐え難いのである。奴隷仲間だと思っていた者が自由民になり主人の地位に座ることは奴隷に甘んじる者にとって耐え難い屈辱である。

白人の「人種主義」は有色人種に受け入れられることによって「奴隷の思想」に転化する。

続きを読む "サルコジ仏大統領、アフリカ植民地支配「謝罪」拒否"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月25日 (月)

人種によって遺伝的に異なる気質 日本人の「おとなしい民族性」も解明(Sankei Web)

「人種」は「『民族』と異なり」、生物学的に決まる客観的なものという考え方が「公式」としてまかり通っている。

しかしこれには根拠がないと思う。

そもそも「人種」という概念を生んだのはヨーロッパの「人種主義的」(=白人優越主義的)な自然人類学であり、「いろんな人種が存在する中での白人種の優秀性」を説明する動機から出たものである。

その後の研究がどのようなものであったとしても、「人種」という概念はその概念のこの「由緒」を消し去ることはできない。

「人種」概念は、いろいろな生物学的特徴を任意に取り上げて総合した人文的な概念であり、最後は「見た目」(容姿)と「事実としての血統」が決めてだと思う。

「人種は自然科学的概念であり民族は歴史的文化的概念だから『人種』と『民族』とは峻別すべき」などという通俗的な「公式」はいよいよ根拠のないものになる。

「人種」概念と「民族」概念との関係については、

人種」は遺伝と関係のある概念だがその分類に「自然科学的な客観性」があるわけではなく、本質的には人文的な概念であり

民族」もまた歴史的文化的な概念だが、生物学的な遺伝と無関係なわけではない

と一応は言えるのではないだろうか。

しかし私は、白人優越主義的な由緒を持つ「人種」という概念を不用意に使う前に、まず「白人」を定義することが重要であると思う

つまり、「人種」よりも「白人」のほうが先に規定されるべき概念なのである。

人種」を使う前に「白人」を使うべきなのである

たとえば、ある言説が「人種差別的かどうか」を論じる前に、その言説に「白人優越主義、白人至上主義が潜んでいないかどうか」を検討すべきなのである

世界の「人種差別」の源泉は「白人」であることを見失うべきではない。

われわれはまず「白人」と「非白人」とを区別するところから始めなければならない

つまり、当の白人自身がそこから手をつけた原点に立ち戻って問題を解きほぐす必要があると思う

「白人」はたしかに単なる「生物学的な特徴」にすぎないものでないことは言うまでもない。客観的に存在する重要な政治的文化的なグループであり勢力である。

これにたいして、血液型がA型であることは生物学的な特徴だろうが、何の政治的文化的な意味も(たぶん)もたず、A型集団は勢力グループではない。

   
【試行私考 日本人解剖】「脳」おとなしい民族性も解明

http://www.sankei.co.jp/culture/kagaku/070625/kgk070625000.htm

気質と遺伝子

  脳の機能が「人類共通」ではない可能性は、遺伝子レベルの研究でも指摘されている。

 脳内神経伝達物質の一種のセロトニンには、興奮や不安、抑鬱(よくうつ)感を軽減して精神を安定させる作用があり、鬱病(うつびょう)患者では量が不足している。

 その脳内量を左右するのが、神経細胞(ニューロン)の間の結合部(シナプス)から放出されたセロトニンを再吸収する入り口「セロトニントランスポーター」(5-HTT)の働きだ。放射能医学研究所の須原哲也・分子イメージング研究グループリーダーらもPETにより、視床と呼ばれる部位で、鬱病患者らの5-HTT活性が高まっていることを確認している。この5-HTTの遺伝子には複数のタイプがあり、日本人を含むアジア人の約8割を占めるタイプはストレスに弱くて鬱病になりやすく、不安を覚えやすい性格で神経質とされる。このタイプは白人では約4割しかおらず、人種差が大きい

 ドーパミンという神経伝達物質に関連するタンパク質(ドーパミン受容体D4)の遺伝子型は、新奇探究性(好奇心にまかせて行動する傾向)の強弱との関係が指摘されている。日本人には新奇探究性が最も強い遺伝子型が見つからず、「おとなしい」という民族イメージにも合致している。

文化の影響?

 海外では、これらの神経伝達物質関連の遺伝子と性格の相関を示す研究報告が相次ぎ、ほぼ確実視されている。ところが、神庭重信・九州大医学研究院教授(精神医学)の研究では、ドーパミン受容体D4と新奇探究性は日本人でも相関したが、5-HTTでは否定された。

 「日本人の多くが持つ遺伝子の作用が独特の文化や社会環境をつくっており、その環境がまた遺伝子の作用に影響しているのかもしれない」と神庭教授。石浦章一・東大大学院教授(分子認知科学)も、「海外の研究でも遺伝子型と性格の相関はごく弱いもの。たった1個の遺伝子で性格が決まることはなく、別の遺伝子など他の要因が影響しているようだ」と話す。

 石浦教授によれば、アメリカでは、体質や気質と遺伝子型との関連性を調べる研究は人種などによる差別につながるとしてタブー視され、薬剤の効果に人種差があることが判明した今世紀に入って進展し始めたばかり。今後、思わぬ「日本人らしさ」が遺伝子研究で発見されるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年6月19日 (火)

人種差別したと、ディスコの警備員に罰金 パリの4店

2007年06月17日23時25分

 黒人やアラブ系の客の入店を断ったのは人種差別にあたるとして、パリの裁判所が、シャンゼリゼ通りのディスコ4店の警備員5人に各1千~1500ユーロ(17万~25万円)の罰金支払いを命じていたことがわかった。様々な人種の調査員に同じ服装で入店させ、ディスコの対応を探った人権団体の「覆面調査」が有罪の決め手になった。

 裁判所は14日、安全のため警備員が客を選別する必要性は認めたが、有色人種の客が来ると「満員」などと断り、直後に訪れた白人客を入店させていた対応は「明らかな人種差別」と認定した。

 仏人権団体SOSラシズムは05年7月、仏各地のディスコ約80店で覆面調査を実施し、23店を告発していた。同団体は求職活動などでも覆面調査を実施しているが、有罪判決につながったのは今回が初めてだという。

http://www.asahi.com/international/update/0617/TKY200706170167.html

 
タイでいつもあげつらわれるのは「日本人専門店」で、白人にもこれを批判する者が多い(あらゆる邪悪なことが密かに行われている「アジア的」な魔窟だと妄想しているのもいるようだ)。

しかし、タイのような国では現実に「日本人専用店」はぜひとも必要である。

タイではほとんどの接客の場面、つまりほとんどの公共の場所は、(上に行くほど)「白人最優先」がデフォールトである。

タイはもともと身分によって肌色の白さの違う身分社会であり人種差別のタブーがまったくない国だが(「肌色による差別OK主義」という意味)、古くから白人勢力との接触があり、形式的には植民地にならなかったとはいえ東南アジアの白人植民地に囲まれて白人からの圧力に譲歩してきた歴史をもち、白人の怖さとホンネとを熟知している国でもある。

タイに人種差別のタブーがない(「人種差別上等!主義」という意味)のは、タイが一貫して白人最優先を打ち出し忠実に実践してきた国であり、白人にだけは楯突いたことがない国であるため、白人からの人権状況批判、ことに「人種差別」批判にさらされたことがまったくないからでもある。この点は日本との大きな違いである。

したがってタイでは、近くに白人がいるだけで有色人種客はたいへん不快な思いをさせられる確率が非常に高い

ウソだと思ったら、白人の友達を連れてタイ国内を旅行してみればはっきりわかることである(同性がわかりやすい)。私は昔経験がある。

ホテルでもレストランでも連れの白人だけが客として扱われ、有色人種のあなたはその白人が連れてきた下僕のように扱われ、客としてはほとんど無視されるだろう。

このような国で白人と同席することは、それだけでもたいへんな苦痛である。

したがって、タイでは、日本人が楽しみリラックスするためには「日本人専用店」がぜひ必要あろう。(私はそういうところに出入りしたことがないが)。

少なくとも「白人お断りの店」が必要だが、西洋と違いアジアの文化は多様であり同質性は少なく楽しみ方や趣味趣向がまったく違うから、日本人にはやはり「日本人専用店」が良いということになると思う。

  
タイのような国でなくても、その国柄によって、人種が交じり合えばどのグループかが優先されるということはよくある。

マレーシアなら日本人よりも中東や北アフリカから来ているムスリムのほうが上客として優先されることもあるだろう。

また、そういう疑念が却って人種間の無用の憎悪を増幅させることになりかねない。

  
「人種差別による利益」を現に享受しながら、一方で「人種の平等」と「人種の混住」を建前として世界の隅々まで押し付けようとしている白人だが、これは言うまでもなく、「白人が世界のどんな隅々までも入り込み、そこに残された価値あるものをexploitできるようにする」ための口実にすぎない。

早い話が、白人が日本の銭湯で騒いだり地元の人たちがマッタリする居酒屋に押し入って女の子にちょっかい出したりすることができないのは「人種差別」だ!とゴネるための口実である。(白人にとってアジアの酒場とは「ホンネ」をそのまま出して良いところ、つまり「大騒ぎできる売春バー」というのが基本的な位置づけである)。

これはつまらない小さなことのように見えるが、そういうことを世界中でこまめにやっていくことが、この世界における白人のヘゲモニーを確固不動のものにし、白人の支配するマーケットを拡大するのである。

しかしその一方で白人は、「白人しか入れない場所」を手放す気はさらさらない

そこは白人がちゃんと確保しながら、一方で、他人種専用だった場所には土足で踏み込む自由を「権利」として主張するというのが白人のいつもの理屈である

日本にも事実上白人(および白人が連れてくる「無料売春婦」)しか入れない店がある。

もちろん東南アジア全域に「事実上」白人専用の場所は多い。日本人が入っても店員はみな無視し注文も取りに来ず、10分も20分も待たされる、その間に入ってくる白人には打って変わった歓迎の声がかけられて先にサービスされる。正式に白人専用の場所も多いだろう。

そういうところは世界中に無数にあると思う。
  

「形式的平等」はフランスの国家イデオロギーなのだろうが、以上のような理由から、形式的な人種平等・人種混住を推し進めることが実質的に人種間の対等な関係を作りだすとは私には思われない。

私は形式的な平等を押し付けていくことよりも、人種・民族の「棲み分け」、それぞれのエスニック集団の「避難所」を世界各地に作ることのほうが重要だと思う。そうすることによってそれぞれの固有の文化を保持することもできる。

「棲み分け」をやってみて、その結果、白人が良いところばかりを取り有色人種には悪いところばかりが割り振られることになったとしたら、むしろその方がわかりやすくて良い。それが今の世界の現実だということである。その現実から出発すべきだろう。

  
今のところ、海外にある日本人の「避難所」は、大部分、企業駐在員や役人などが集まっている「いやらしい場所」か、タイなどのどうしょうもないクズオヤジたちが吹き溜まっている「どうしようもない場所」しかないのが残念である。

ネパール人がクアラルンプールに着いたらジャラン・シランに行けばとにかく自国民と情報交換ができる。ミャンマー人も同じ。他の民族にもそれぞれの場所がある。

しかし、ポッと出て来た日本人旅行者・滞在者が「スリ・ハルタマス」に行く気にはならないだろうし、行っても何も得られないだろう。

役所や企業に属さない個人が、海外で、日本人としてのアイデンティティを保持しながら自分のペースで滞在し、楽しみ、リラックスできる「日本人のための場所」は現実には少ない。

  
西洋白人ツーリストは言葉が通じないところには行きたがらない。行くとしてもツアーである。

彼らはそこにいて自分のアイデンティティを保持でき、重要な問題は自国語か英語で処理できるところにしか行かない。

しかし白人の場合、世界中にそういうところがネットワーク状に広がっているし、そのようなネットワークを作ることに利己心を超えた熱心さを見せる。

タイにはフランス人宿やオランダ人宿もある(フランス人宿はラオス国境沿いに点在している。ラオスはいまでもフランス語が通じることがある。オランダ人宿は聞いた話なので厳密にそうなのかわからない)。タイのゲストハウスには白人専用のところもあり、そういうところでは日本人旅行者が来てもたいてい「満室」と断られるようだ。

一回目のバリのテロ(ディスコ爆破事件)で攻撃対象になったディスコは、麻薬とセックスの魔窟のような所で当時からインドネシアでは悪名の高い所だったそうだが、同時に、「オーストラリア人専用ディスコ」だったという。有色人種はもちろん白人でもオーストラリア人以外はなかなか入れないところだったという。

狙われるのも当然、という気がするが、そんなところで吹っ飛ばされた「犠牲者」の遺族が恥ずかしげもなく反インドネシアの抗議デモをしていたのは、白人の下賎な本性をよくあらわしていた。

  
なお、以前産経新聞で読んだ話によれば、パリの入管は911テロ以後どうやら人種差別がひどくなったらしい。以前は「ラシスト!」というといくらか効き目があったのだが、最近は「ラシスト!」といっても役人のほうが「おうよ、俺はラシストだ」と開き直るようになったのだという。

ヨーロッパがこうなると、タイのような白人準拠の国の役人が人種主義をいっそう露骨にしていくのは自然な成り行きかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月30日 (水)

「どっちもこっち」論再点検@疲れ気味

ブログ閲覧者が増えるたびに(新参者が来るたびに)再三繰り返される「どっちもこっち」論について。

このブログでも何度も答えてきたような気がするが、メールにまでいちいち答えるのはたいへん疲れる作業。(ただでも病み上がりのうえ移動も多く疲れ気味)。

ブログ過去記事を検索してみると、「どっちもこっち」論を正面から扱っているのは次の記事だけだった。 

「日本人もやっている・・・」で黙らせる論法について
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/02/post_4d22.html

「どっちもこっち」論は、「白人の買春」や「タイ人の人種差別」や「白人の歴史的なアジア(アフリカアメリカ)植民地支配」に対する批判に対して、反批判として必ず出てくるものだが(「日本人も・・・」「日本も・・・」という形で)、テーマは変わっても共通の論理を持つと私は思う。

しかしここでは主に、「日本人に対する人種差別」の批判に対して行われる「どっちもこっち」論を念頭において述べたい。

結論から言えば、「私は『どっちもこっち』とは思わない」で終わりなのだが、関連して思いついた点を(ばらばらと)並べておく。

「買春」や「植民地支配」についての「どっちもこっち」論について一言で言えば、(白人とは)「量が圧倒的に違う」「年季とスケールが圧倒的に違う」、「『量から質への転化』を故意に見落とすな!」ということ。買春についてはある程度資料もあげてきた(カテゴリー「白人のいる風景」、「児童買春」など参照)。

Ⅰ「どっちもこっち」論者は、「批判」自体を好まない 否定的な意味でいわゆる「日本的な」人々。

彼らが見落としていること:

①「批判」とはそもそも「不公平」なものである。あらゆる批判は当座において不公平でなければならない。

②「公平な批判」は、拡散または中和を意味し、何も生み出さない。これは実は「批判」ではない。

③「批判」は一時的に「不公平」を生み出して、人々の関心を事態のある特定の側面に集中させることから始められなければならない。これに対する反批判がたとえば別の側面に光を当てるならわれわれは2つの側面を得るであろう。しかし、「批判をしないこと」あるいは「公平な批判」(それはすでに批判ではない)しかしないならば、物事はすべてあいまい無自覚のまま放置されるだろう。

④「どっちもこっち」論者は実は「落としどころ」を用意している。それは彼らが学校で習ってそのまま受け入れていることかもしれないし、朝日新聞が書いていることかもしれないが。「落としどころ」を用意しておくこと、これは「自由な批判の市場」における「見えざる手」による均衡とは正面から対立するもの。「見えざる手」は人間に見えないところに意味がある。しかし、「どっちもこっち」論者が用意しているのは、最初から当事者に見えている「落としどころ」であり、談合である。

Ⅱ「どっちもこっち」論者は、「何もしないこと」を提唱している

① 「どっちもこっち」論は「容認」を引き入れる。「どっちもこっち」は消極的にであれ事態を「肯定」する言葉である。

②痛烈な他者批判者は、防禦のためであれ自らの行いを正さなければならない(少なくとも批判している相手と同じことは出来ない)が、これに対して「どっちもこっち」論者は気楽である。彼らは互いに今までどおりのことをマイペンライで続けていくことが出来る。

Ⅲ「どっちもこっち」論の「どっち」と「こっち」

①「どっちもこっち」論の「どっち」と「こっち」は多くの場合実は「内」と「外」である。

②「ど・こ」論は、「内」にあって議論を起こそうとする者、「言上げする」者に対する、冷ややかな敵意と嫌悪感に支えられている。実に、「ど・こ」論は「言上げする者」の口を封じることを動機にもつ。

③「ど・こ」論は、日本人は「内」に目を向けてせいぜい自らの行いを正し自分たちのことを考えていればいいのであって「外」=外国を批判したりすべきではない、という鎖国的な事なかれ主義を背景にもつ。

④「ど・こ」論者は、「われわれ日本人」は互いのことは良くわかっている、原理的な議論などする必要はない、という(かーなり百姓的な)確信から出発している。彼らは日本人がたとえば「白人」を一括りにして論じることを厳しく非難したりもするだろうが、そういうときでも、彼ら自身が「こっち」において「われわれ日本人」を(すでに了解されたものとして)一括りに処理している事には気づいていない。

Ⅳ「どっちもこっち」論で得をするのは誰か

思想に関する議論で実はいちばん大事なところである。

「ど・こ論」の要点は批判も反批判もともに封じて現状を維持するところにあった。(現状が維持されていて初めて朝日新聞的な批判も職業として成り立つのだ)。

現状が維持されることによっていちばん得をするのは、すでに支配と権益を確保している者、すなわち、世界的に言えば「白人」である。

白人は日本人なんかよりずっと血縁・血統を重視することに注意。 ヨーロッパの上流階級が国境を越えて血縁で結ばれていることは良く知られているところ。アメリカも同じだろう。だから、白人は支配の座にある限り黒くなることはない。彼らの圧倒的な豊かさを支える配当の原資が(プロテスタンティズムの倫理と勤労などではなく)奴隷と植民地の収奪によるものであることはいうまでもない。

「白人」とは血縁で結ばれた世界支配層を中核とする実体的な勢力なのである。

 
     
なお、「日本人は」(タイ人なり何なりを)「差別」していると騒いでいる連中のほとんどは、たんに自分自身の「差別」意識を糾弾しているに過ぎないとみなしてよい。

しかし自分のことを他人のことのように言って糾弾するからタチが悪いのである。

彼らにとって自らの「差別」意識は荷が重いらしい。そこで、自分個人のその「意識」を「日本人一般の意識」にすりかえて糾弾することにより、自分の心理的な負担を減らそうとしているとみるのが合理的だと思う。

 
もうひとつ関連記事:

「白人崇拝はタイも日本も同じ」という論(タイヲタ左派の主張)について
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/10/post_8b81.html

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月30日 (金)

「アーリア人は容姿が整っていた」という言説について

私がここでしようとしているのは、「アーリア人とは何か」という議論ではない。

「アーリア人」でも「ゲルマン人」でも「チュートン族」でもかまわない。

ここでは(容姿に関する)「整っていた」という言説を問題にするが、もっといえば、「美しかった」という言説でもかまわない。

ここで問題にするのは、たとえばこの「はてなダイヤリー」は、「アーリア人は容姿は整っていた」と断定しているが、一般にそのようなことがいわれるときに前提となっている基準はなになのか、そしてなによりも、その基準はどこから引き出されたものなのか、ということである。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A1%BC%A5%EA%A5%A2%BF%CD 

ロシア地方に居住し牧畜を営んでいた民族のひとつであると考えられている。背が高く、色は白く、鼻は真っ直ぐに長く、容姿が整っていた。使われていた言語は現代ヨーロッパ民族の古語と同一系である。「インド・ヨーロッパ語族」とも言う。アーリアとは高貴なものと云う意味

あるものを「整っていた」とか「美しかった」と評価するためには、その前に、「整った」あるいは「美しい」の基準がなければならない。

あるものを「整っている」とか「美しい」と評価するときにはその基準に照らしてそう評価するのである。その基準はあくまで先になければならない。「整」なり「美」なりの評価の言説には、その基準の存在が論理的前提として要求されるのである。

では、その基準は何か。そして、それはどこから引き出されてきたのか。

その基準が学校の美術室の石膏像だというならば、それなりにわかりやすい理屈ではある。学校がこれが美の模範ですといっているということだが、なぜあれらの石膏像が基準になるべきなのか、あるいは、なぜそのオリジナル彫刻が基準とされなければならないのかは明らかでない。

美術室石膏像あるいはそのオリジナルは、それを最初に作った(あるいは模範として採用した)者が理想とする自画像にすぎず、普遍的な美の基準とはいえないだろう。

「整っていた」という字義に即して解釈するなら、「完全に扁平な顔」や、「完全にまん丸な顔」、あるいは「正三角形な顔」も、幾何学的に美しく「整っている」といえるだろう。

これらは「整った顔」の基準になりうるものであり、そうなってはならない理由は見つからない。

結局、どこかに先天的で普遍的な「整った容姿」の基準が存在していて、「アーリア人」の容姿が「その基準に照らして」整っていたと評価したということではない。

そうではなくて、「アーリア人」を自称した者が、「アーリア人的な容姿」を「人間の容姿の理想型」と認定し、その認定が現在も権威を与えられ続けているからこそ、「アーリア人の容姿は整っていた」ということになっているのである。

その「アーリア人」なるもの、あるいはその近親種族の文明が、現在も世界の文化的なヘゲモニーを執り続け、メディアを通じて人々の美意識までも支配しているているからこそ、「アーリア人は容姿が整っていたとされ、そのように感じさえされてしまっているのであろう。

自己の容姿をもとに美の基準を定めたのがアーリア人で、その基準に当てはめてアーリア人は美しい(整っている)といっているのである。つまりはただの循環論法である。

しかしそのような没論理を支えているのは、究極において、そのような容姿の人種がこれまでの世界を政治的に支配しているという「力の論理」である。

関連記事:

「白人コンプレックス」論 美意識は先天的か
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/05/post_b7d1.html

チェトリの女の子2 ネパール
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/04/post.html

参考:

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/whiteness/page7.html

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月12日 (火)

白人はなぜ白人か

進歩主義者や、市民主義者、「地球市民」主義者らは、われわれが「白人」というカテゴリーを用いて問題を取り扱うことを、唾棄すべきことのように言うであろう。そのような論者に対しては直ちに右翼、さらには「人種主義者」のレッテルが貼られる。しかし、このような進歩主義者は、「人種差別」「人種主義」の意味すら理解していない。

しかしながら、われわれは正当に、「白人」という範疇を用いて、問題を取り扱うべきなのである。「白人」範疇を用いなければ解明することができない多くの諸論点・諸問題が、論ぜられるべきものとして歴史的にわれわれの前に提示されているからである。

「白人」範疇を最初に作り出したのも白人自身であることもよく確認しておく必要がある。「白人」は白人の自称である。これに対して、黒人、黄色人種等は、白人による他称である。

われわれは「白人」と対決しなければならない。われわれの真の敵は、「白人」なのである。

では、白人はなぜ白人か。

続きを読む "白人はなぜ白人か"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年9月11日 (月)

白人の横暴

日本にいると白人種がいかに横暴で悪質な人種であるかよくわからないかもしれない。

白人に幻想を抱く日本人は多いが、私は身近に体験する小さな例を紹介したい。身近によくある小さなことだが、小さなことに本質が宿る。

今日のこと、東南アジアのある大都会の、わりとこぎれいな場所で。

私は階段を降りようとしていた。私は少し急いでいた。

しかし階段には、ツーリストらしい半袖半ズボンの大柄な白人が三人、周囲をはばからずダラッと広がって、のそのそ歩いていた。

私はそいつらの間を縫うように歩こうとしたが、一人の肩に触れてしまった。とても礼などに値する連中には見えなかったし、特に強くあたったわけではないので、黙って通り過ぎようとした。

すると突然、その男がいきなり私の背を突き、私を階段から突き落とそうとした。私は転げ落ちはしなかったが、よろけて前にいた白人にもぶつかった。

すると今度は前にいた白人がいきり立った。まるで私が故意にぶつかってきたかのように責め立てる。

先に私をついた白人も一緒になって私を責め立てる。You push me! No,you pushed....go home,back to Europe.... Racists! 後はむちゃくちゃである。

私を突き落とそうとした男は30代と見える男で、もう一人は50過ぎにみえた。いずれも半袖半ズボンだったが、けして若造ではなかった。

都会のど真ん中だったのでそれ以上の喧嘩にはならなかったが、辺ぴな場所だったら無事ではすまなかったかもしれない。

とにかくこれが白人の本性である。アジアに来てもアフリカに行っても、どこでも自分たちが主人であり一級市民であって、有色人種は当然自分たちに恭しく道を譲るべきだと固く信じて疑わない。

白人は、自分より体の小さい有色人種を、気に入らないからといって平気で階段から突き落とそうとすることのできる人種なのである。この性向は彼らの遺伝というほかないだろう。

欧米で白人同士がちょっとの接触にも神経質な礼を言うといわれるのは、階段から突き落とされないためなのかも知れない。

しかし、東南アジアでは、人にぶつかってくる白人は多いが、礼のあることは非常に少ない。

彼らを滅ぼすか、稀少種にしない限り、人類の平和な未来はないだろう。白人は決して力を持たせてはいけない人種なのである。

ここは中国人の多い都市であり、私はツーリストのような格好はしていないから、彼らは私をローカルだと思ったはずである。

彼らはかつて搾取収奪した東南アジアの町に来て、ローカルに対してこのような暴行を平気でするのである。

このような彼らに対しては言葉や理屈でのいかなる説得も無効であろう。

彼らをわからせてやるには、やはりテロルしかないのではないか?(私はテロルを称揚しているのではなく、事実としてそうではないかと問うているだけである。)

現実的なものは理性的であるといわれる。いま現におきているテロルにも高度の必然性があるのではないか?

彼らがテロルによってしか気づけないのだとすれば、テロルをもって彼らに気づかせてやることが、彼らを人間として認め人間的に遇してやる、唯一のヒューマニスト的な道なのかも知れないのだ。

彼らは、いまはまだ、「イスラムテロ」だけを恐れていればいいかもしれない。「イスラムだから」と納得し、却って安心もしているだろう。

しかしもしたとえば、イスラム等の背景組織の全くない有色人種が、しかも貧しくもない日本人が、ひたすら「反白人」の動機によって、アジアで白人に対して無差別の個人テロ・しかも自爆テロ・を敢行するようなことが仮に起きたら、彼らは今度はどう反応するだろうか。

その時のことを想像すると愉快である。

続きを読む "白人の横暴"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月10日 (日)

"Discrimination"、BBCの日本批判【忘れないために】

自称日系ペルー人、カルロス・ピサロ(ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ)による、広島市の木下あいりちゃん強姦殺害事件に関し、BBCニュースは、その背景に日本社会の「差別」があることを強く示唆した。

この事実を忘れてはいけないと思う。
これが白人ジャーナリズムの日本批判、日本報道の基準を示すものであるからだ。

またBBCニュースは、「ある一人のセネガル人」から聞き取ったという日本での「差別体験」を紹介し、日本人の「外国人差別」を強調する。それは何の具体性もないただの被害妄想と言ってもいいもので、次のようなものである。

For many foreigners living in Japan, however, discrimination is a real problem. Treatment appears to be determined by a range of factors - from socio-economic status to ethnic background.

Gemba, a Senegalese who works in a topless bar in the red-light district of Kabukicho, said: "Every day, I feel discriminated against. Japanese people don't like foreigners.

"If you are inside a train, the Japanese will not sit close to the foreigners."

http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/3708098.stm

これはもうお笑いというしかないが、彼がもし差別を感じたとしたら、それは彼が歌舞伎町の「トップレスバー」で働く不法就労外国人だからというのが、普通のマトモな頭の人間の考え方だろう。しかし、BBCはそうは考えないのである。

大男が大股開きで中途半端な位置に座り、足をぐらぐらゆらし、周囲の日本人を睥睨し、コカコーラをラッパのみしたりチューインガムをくちゃくちゃ噛んでいたりすれば(この種の振る舞いは、ほとんどの白人が東南アジアでごく普通にやっていることでもあるが)、そいつが外人であろうと日本人であろうと、白かろうと黒かろうと、普通の人間なら近寄りたくないのは当然である。

合法的に日本に滞在しているまっとうなセネガル人は、この「トップレスバーのセネガル人」についてどう思うだろうか。

また、欧米豪の白人諸国において、白人たちは、電車で不法滞在者らしきアフリカ出身男性の隣の席に座る義務を感じ、その義務を誠実に履行しているというのであろうか?

ともあれ、ジャーナリストがこのような一人の(事実上匿名の)外国人の主観的経験の聞き取りで記事を書いていいのなら、私にも言うことがある。

私が3年ほど前にタイで話をしたあるタイ女性は、かつてデンマーク人と結婚していて、一年ほどデンマークに住んでいた。その間、初めて雪の実物を見るという楽しい体験もあったが、見知らぬデンマーク人から「アジアへ帰れ」と罵倒されることはしょっちゅうであったという。言葉だけではなかった。あるとき彼女が自転車に乗っていて、交差点で信号待ちをしていたとき、2人の巨体のデンマーク女が突然彼女の自転車を二人がかりで押さえつけ、前へ押し出してきた。彼女はただ恐ろしいだけで、何事が起きているのか一瞬理解できなかったが、それがひたすらなる「悪意」による「嫌がらせ」であることを了解した。女二人で示し合わせたこの犯行は個人の思いつきや出来心とはいえないない。ネオナチでもないだろう。白人社会の本来の土壌に根ざしたきわめて悪質な人種差別犯罪といえる。

有色系外国人は白人諸国で、白人の人種差別に基づくこのような現実の生命の危険に日々晒されているのである。

このような犯罪は、白人国家では毎日起きているはずだが、白人ジャーナリズムがそれを報じることは決してない。

また、BBCニュースはタイでいかに白人が優遇され、有色外国人、とくに色の黒い人種がひどい扱いを受けているかについても一言も語ったことがないはずである。

優遇のあるところには差別もある。不当に優遇されるものがいれば必ず不当に差別されるものがある。しかし、白人メディアはタイにおけるきわめて明瞭かつ明示的な「白人ゆえの白人優遇」については一切語らない。

というのも、このようなタイのシステムが、白人にとってもっとも都合の良い「アジアのあり方」を示すものであるからである。すなわち、白人の理想とするアジアは、全アジアが「タイのような自由な国」になることだからである(その対極にあるのがイスラム社会であろう)。

したがって、白人の作り上げる評価基準は、タイを「自由な国」とし、デンマークのようなレイシスト国家を「高度に人権の保障された国」と認定し、ロシアでさえ自由で民主的な国と評価する。

ロシアをはじめヨーロッパ各国で、東洋系人種が投石、暴行、殺害等、直接の暴力の危険にさらされていることはほとんど論じられない。

これらの問題が白人ジャーナリズムによって「ネオナチ問題」という「特定地域の特殊問題」として語られることはあるが、彼ら自身の世界の人種差別問題として問われることは一切ない。

すなわち、ヨーロッパ全般で見られるアジア系人種に対する嫌がらせ、罵詈雑言、暴行、投石等の事案は、「ネオナチ」の枠内で処理され、そのことによって「知的でリベラルな」彼ら自身とは無関係な特殊な人々の問題と見做され、安心して脇に置かれる。

これらの切迫した現実の危険を伴う問題が、「ネオナチ」問題の定式を介さず、「白人による有色人種差別」すなわち「白人世界の人種差別主義的な土壌に根ざした人種差別犯罪」として、白人ジャーナリズムによって率直に問題にされたことが一度でもあるだろうか。

______________________

白人の「日本の人種差別」批判は白人自身の人種差別・アジア蔑視に由来する

続きを読む ""Discrimination"、BBCの日本批判【忘れないために】"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 5日 (金)

「白人コンプレックス」論  美意識は先天的か

白人を「白人」として批判する主張に対しては、日本では必ず、直ちに「白人コンプレックスだ」という批判がなされるものである。

そのような批判の最大の特徴は、「一言で片付ける」ところであり、根拠を示すということはない。斜にかまえた特に背景のない単なる事大主義や、進歩主義的国際主義の潮流にのった形の事大主義によるものが多いと思うが、大人ぶった欧化保守・体制派保守の側から「たしなめるように」行われることもある。

いずれにしても彼らに共通しているのは、「それは白人コンプレックスだよ」の一言ですべてが「片付けられる」という「確信」であるように思う。そう批判された側の多くも「片付けられた」ような形になって沈黙することが多い。

「白人コンプレックス」論者たちには、「白人コンプレックス」という言葉を出しさえすれば直ちに了解される確固としたある共通認識が、お互いの間にあるかのような確信があり、それゆえに「白人コンプレックス」の一言が相手の「弱み」をつくと同時に、自分はその「弱み」を知っているということを相手に示すことによって、相手を沈黙させられると思い込んでいるかのようである。

たいていの相手はその「確信」の強さによってまずもって沈黙させられるであろう。

ここではそのような「確信」がどこから来ているのか、その基礎に何があるのかについて考えてみたい。

日本書本屋に並んでいる書物を立ち見していると(私は日本語本を買う金もなく図書館もない旅行者である)、「白人に対する劣等意識」と「アジアに対する蔑視」とを軸として近代日本人論を展開する「学者」さえもいるようだが、これらの「白人コンプレックス」論に共通しているのは最初に述べたとおり、その根拠が何も示されないことである。

つまり「白人コンプレックス」論者にとって、「日本人の白人コンプレックス」は論証の必要がないと考えられている。この「事実」は論証の必要がないほど明白な、批判者と被批判者との間に共通の感覚だと考えられているようである。

また、「日本人」が「白人コンプレックス」を持つということを論ずる必要のない当然の前提だというのであるから、彼らにとっては、「日本人」という範疇も無前提的に与えられているということになる。

民族主義を批判したり(民族や国家国民などという括りに意味はないといったり)、「日本人の日本人論好き」を揶揄したりする者が、さらっと「日本人の白人コンプレックス」を前提にしたりするのは奇異であろう。

このようにみてくると、どうやら、「白人コンプレックス」論は、日本を「ムラ社会」と信じている論者が、その「事実」を受け入れた上で、自分自身もその「ムラ人」の一人として、「日本ムラ」の常識・共通認識を指摘してくれているものであり、それゆえ、あえて根拠を示す必要がないということのようである。つまりそれは、「どうせお前もオレと同じ・・・」という形式の指摘であるからである。

要するに、「白人コンプレックス」論は、何よりもまずその論者の無条件的な「白人コンプレックス」の告白であり、それが大変卑近卑俗なものであるがゆえに、すなわち、「自分もそうだからお前もそうに違いない」という幼児的な理屈に全面的に依拠したものであるがゆえに、根拠を示すに及ばないのである。

では、どうしてこのような無条件的な「白人コンプレックス」論を生むほどの、確固不動の「白人コンプレックス」の共通認識が、彼らの属するところの「日本ムラ」を捉えて離さないのだろうか。

この「日本ムラ」においては、先に述べたとおり、あらゆる「白人」批判は「白人コンプレックス」の一言で片付けられるーーーーこの機能から見る限り、「白人コンプレックス」論は「白人」を利するものであるから、その基礎にある「白人コンプレックスの常識」を「日本ムラ」に設置したのは白人自身だと考えるのが合理的であろう。

そうだとしても、いったん設置された「白人コンプレックスの共通認識」は、相対的に独立し、独立に機能し、独自の論理構造を構えるに至っていると思われる。

その構造の中核にあるのは何か。

私はやはり、絶対的な「負け」の論理であるように思う。すなわち、「結局、白人にはかなわないよ」という無条件の命題である。その命題を受け入れてしまうような理屈抜きの「諦め」の感覚が、彼らのムラを支配しているように見える。

では、その「諦め」の感覚は何に由来しているのだろうか。その基礎にあるものは何か。

政治、経済、文化、学術、これらは、客観的に見てそれ自体では現代の日本人が「白人にかなわない」というべきものではないだろう。現実に、どうしても白人にかなわないのは軍事である。

しかし私は、彼らの「白人にはかなわない」いう感覚にとってより直接的で有力な基礎は「美」にかんする評価であるように思う。

端的に言えば、彼ら「日本ムラ」の日本人は、一般的に、「白人に容姿では決してかなわない」という「事実」を所与のものと考え、日本人の共通認識であると信じている。そして私は、この意識が陰に陽に、他のもっとマジメな分野にも影響を及ぼしていると思う。

たとえば、彼らは、日本の民主主義はまだまだ未熟であるとくどく主張するかもしれない。そのとき前提におかれているのは欧米の民主主義であるが、西洋近代民主主義の基礎は「近代的市民」であるという。「近代市民」とは、「近代的個我」の確立した、独立の人格を備えた実存的「個人」であると主張される。

これが未確立だから、日本の政治も経済も文化も駄目なんだという俗論は、根拠もないまますでに何十年も繰り返されていると思うが、政治経済を語るにはいかにも文学的な表象といわざるを得ない。

しかし同時に、この根拠のない俗論がある種の説得力を持ち、いまだに払拭されずに生き延びているとすれば、それはこの論が基礎におく「個人」という表象が「文学的」な表象であるからでもあろう。

この日本近代主義の提供する「個人」像は、ある種の甘美なビジョンを伴うのである。また伴わなければ機能しない。

われわれは偶像に関する禁忌を持つわけでもないから、容易にその「人格」の理想像を目に見えるようなビジョンによって想定することができる。

「近代的個我」にしても「自我」「個人」等々にしても、われわれはまずもってその目に見えるようなビジョンとしてのイメージを要し、それぞれに具体的な個人像のビジョンを描くことからはじめることにならざるをえない。

そこには必ず人間の「容姿」に関する理想型という要素が忍び込む。

そしてそれは「独立した個人」「個」「個我」といった甘美な表象にふさわしい立派な容姿でなければならないのだが、その立派さ=美の判断基準をわれわれの多く(日本人に限らない)は、人間の感性に先天的に与えられたものであるかのように考えていることが多い。

要するに、「彼ら」が、近代的個我とか人格とか個人とか、そういう言葉を聴いたり使ったりするときに前提として無意識に表象している人間像は、(市民法的な抽象的人格ではなく)実は、肉体を持ち「容姿」を伴う生きた人間のイメージなのであり、その容姿をあえていえば、それは決してモンゴロイド丸出しでもオーストロネシア系でもなく、少なくともコーカソイド的容姿でなければならないということになるのだろう。これは語られない前提ではないかと思う。

彼らが日本人は近代的個我に至っていないと理由もなく嘆くとすれば、それは実は、現実の日本人の肉体と実生活の視覚的イメージが、彼らに与えられたビジョンになかなか「追いつかない」(実は追いつきようがない)といって嘆いているに過ぎない。

結論を言えば、美意識、美の判断基準は「力」によって与えられた枠組みであると私は思う。しかしこの美の型は、いったん与えられてしまうと、それ以外の美はありえないように感じられる強力なものである。

あらゆる偏見の中でもっとも強固なものが、美に関する偏見である。しかし、否、だからこそ、美はいっそう政治的に機能し、また利用されるのである

ダ・ヴィンチ・コードがあれほど話題になっても、イエスが茶髪の白人にマグダラのマリアが金髪の白人に描かれていることに関する批評は、(少なくともマレーシアの英字紙で見る限り)まったく行われない。

(つづく)

----------------------------------------------

関連する文章を含む記事:

マレーシア女性

タイムス、BBCの紀子さま侮辱報道(コメント欄)

「アーリア人は容姿が整っていた」という言説について

チェトリの女の子2 ネパール 
   


   

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

KL中華街のネット屋で

クアラルンプール中華街は安ホテルもインターネットもあって便利だが、KLにしては白人が多いのが難点である。(売春婦連れが少ないのは救いである。)

インターネット屋はスンガイワンプラザにもあるが、中華街のホテルにあるもの方が安く、清潔で機械や回線もまあまあ。しかし、騒々しい白人が入っていることが多い。

白人というのは本当に周囲の迷惑を気にしない人種であり、部屋中に響き渡って余りある大声を出してしゃべらないと気がすまない。

ネット屋にはいつも、二人以上の組でやってきて、一つのパソコンにへばりついている。椅子は勝手にその辺のを使い、料金は一人分しかはらわない。これはどの国のツーリスト基地のネット屋にも見られる光景であろう。

ひっきりなしに喋り捲り、椅子をずらして動き回り、友人を求めて歩き回る。歩きながらまた大声でしゃべる。ローカル利用者の迷惑など一切顧慮しない。というより、この世に自分たちしかいないと思っているようだ。

白人の中年夫婦も来ている。これも、一つの機械と二つの椅子を占領し、若い連中ほどではないにせよ部屋中によく響く声でしゃべりつづけている。

醜くただれたような足と肩、背中を恥知らずにさらけ出し、汚く悪意に満ちた2匹のケモノといった風体である。

 
白人は個人主義だというのはまったくのウソである。彼らは一人でいるのがとても不安らしい。 西洋の「個人主義」といわれるものは、あくまで歴史的な「個人主義思想」に過ぎない。

現実の個々人が個人主義的に鍛錬されているとか、個人主義を血肉化しているということではない。規範として共有されているということですらない。これは近代日本人の陥りやすい妄想であり、白人もまたそれを助長するように付け込んできたものである。

日本人は西洋の個人主義なるものを特別な道徳意識・むしろ美意識とさえ妄想しがちである。現実の白人個人が「個人主義的」なのは、平然と他者を顧慮しないセルフィッシュなところに過ぎない。

彼らはイラン高原(またはロシア南部)を出てヨーロッパに広まったときから、「征服して根絶やしにする」こと、すなわち「ホロコースト」「民族浄化」によって自らを確立した人種である。根が極端にセルフィッシュなので、まともな社会を築くには外から道徳規範を特別に叩き込まれる必要があった。

そうされないと何でもやってしまうDNAだからである。この上から教え込まれなければならない道徳規範がキリスト教であったり、現在の人権思想や環境保護思想だったりするのである。

アジアにおいてはさまざまな系統の言語が錯綜していて日本語のような系統不明の言語も散見されるのに対し、ヨーロッパは、後に侵入したモンゴル系の言語やバスク語などごくわずかな例外を除き、ほとんどがインドヨーロッパ語族一色である。

このことは、ヨーロッパ人種がその始原において「ホロコースト」「民族浄化」を要件として成立したことを意味する。すなわち「ホロコースト」「民族浄化」の衝動は、白色人種の持って生まれた刻印(性格)なのである。

  
クアラルンプールでイスラム色のもっとも弱いと思われる中華街は、白人の好む避難場所だが、ここでも白人ツーリストはとにかく「かたまる」のが好きである。

白人は実に集団主義的である。かれらは、自分たちにとって快適そうな場所を見つけると、どこからともなく集まってきて塊になる。そして、小さい場所であっても、とにかくその場所を「占領」して縄張りを作るのを好む。そのように白人に占領された空間は見事に白人しかいなくなる。

そういう白人が集まっている場所でも、観察する限り、彼らは黙って座っているだけでお互い面識もないことが多いようである。ただひとえに同じ白人だからということで近くにいるだけで、友人でも同国人でもないことも多いようだ。しかし、彼らはともかくも白人だけの空間にいないと不安に感じるらしい。

この町でも日本人ツーリストらしい人を見かけることがあるが、たいてい単独行動をしている。日本人やアジア系ツーリストが塊りになっている光景は見たことがない。

|

2006年2月14日 (火)

白人は『公共空間の白人による支配』を要求する

犬と中国人はなぜ公園に入ってはいけないのか。それは公園が「公共空間」だからである。

中国人の入れないところには日本人も入れないのが大原則である。この原則を無視して名誉白人の特権を行使する日本人を、白人は「卑怯である」と評価する。これが白人世界の「卑怯」の概念である。

オープンカフェ、船のデッキ、これらは白人の好む場所であるが、これらも「公共空間」である。彼らはこれらの公共空間が白人のみによって占められている状態を強く要求する。

   
差別撤廃訴え、初の会議 ロマ民族、42カ国から参

【パリ18日共同】欧州各国で少数民族として生きるロマ(ジプシー)の42カ国の代表が参加し、差別撤廃を訴える国際会議がこのほどフランスのストラスブールで開かれ「(他の欧州市民と)同等のパートナー」を目指すとの声明を発表した。主催者によると、各国のロマが一堂に会するのは初めて。
 会議は、ストラスブールに本部がある欧州会議の後押しを受け、ロマの5つの国際組織を統合する形で開催。13日から15日まで活動目標や憲章について協議した。
 欧州に1200万人いるとされるロマは、長く移動の民として生活してきたが、最近は各地での定住も進んでいる。ナチス時代のドイツでは、ユダヤ人らとともに強制収容所に送られるなど差別や迫害を受けてきた。
 声明は、今も続く差別を念頭に「住宅や福祉など基本的な権利」を、他の市民同様に享受できることを目指すと強調。「(社会からの)隔離と戦う」と誓った。

(共同通信) - 12月18日15時36分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051218-00000048-kyodo-int

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ジプシーの語源はエジプシャンで、かつてエジプト出身だと誤認されていたことによる。
「ロマ」は「人間」を意味する民族語の「ロム」の複数形。
18世紀末、ロマ固有の言語ロマニー語が古代インドのサンスクリット語と近いことがわかり、今日ではロマは、インド北西部のパンジャブを原郷とするアーリア系民族であるというところまで定説となっている。

「アーリア人」純血主義を掲げるナチスは、ロマがアーリア系であることをむろん知っていた。それでいてロマの絶滅をはかったのは、ロマには非ヨーロッパ系の劣った血が混じっているに違いなく、ゲルマン民族とはまったく相容れないその生活習慣はアーリア人の面汚しで、放っておけばドイツ人の純潔が汚される、という勝手な理屈による。

以上、21世紀研究会編「民族の世界地図」(文春新書)より。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ナチスの人種主義は、「アーリア主義」という「装い」を凝らした、たんなるたんなる「白人至上主義」だったんでしょうね。

白人は2人集まると人種的な「シマ」をつくりはじめる。日本人が日本人同士の間に線を引いて派閥を作りたがるのとは少し違う。

また白人は「空間の支配」に強いこだわりを見せる。日本人も日本人専門店などに集まるがそれはある種の避難所で、特殊なむしろ私的な場所である。日本人はどちらかというと閉鎖的な場所に仲間だけでいることを好む傾向がある。

これに対して白人は、「公共空間」の事実上の支配を要求する。その背景には、「公共」という概念は西洋のもの、という西洋人の信念があるのかもしれない。

しかし「公共」が西洋固有のものなら、「市民」と呼べるのも白人だけということになるだろう
   

人種に関しては、日本人が鼻の高さや目の形を気にするのに対して、白人はあくまで「肌の色」「目の色」「髪の色」にこだわるように見える。
(彼らに言わせると日本人も「ブラウンピープル」に一括される。「イエロー」は語感がよくないらしい。主観的に人種差別に反対しているつもりの自称リベラルな白人に「君たちはブラウンピープルだ」などといわれると日本人としてはちょっと変な感じがする。さらに「イエスもブラウンだった」などとへつらいを言われることがある。日本人としてはますますわけがわからなくなる。)

白人はインドや中東などで、顔立ちが白人に似ている有色人種を支配・搾取してきた長い歴史を持つ。そういう歴史の中で白人の優位性を根拠付け人種秩序を合理化するために彼らが作り上げてきたのが「肌の色による優劣」というイデオロギーである。それは彼らの文化に欠くことのできないものであり、感性にまで浸透しているのだろう。

人種主義は白人文明にとってその成立においてすでに不可欠の要素であった

|

「NYタイムズ日本たたき顕著」(産経新聞)

よく言われることではあるが、ドイツはただ侵略戦争をしただけでなく、ドイツ国民自らの意志で選んだ独裁者の下で、国籍を問わず特定人種民族の殲滅を目的とする政策を掲げ、それを組織的に実践した。戦後は、ホロコーストの罪はドイツ国民ではなくナチス党にあるという論理によりすがり、憲法忠誠を国民に課す(価値自由のない)民主制の下で早々に再軍備したが、いまなおその社会に白人至上主義あるいはアーリア人至上主義を正面から掲げるネオナチを平然と抱えている。(これは日本の街宣右翼(その構成員のかなりの部分は在日朝鮮人である)等とはまったく異質の「人種主義」運動である。)

にもかかわらずドイツは日本のように欧米リベラルによる非難を受けることはない。なぜか。日本の「民族主義」「排外主義」を批判する欧米リベラルの動機の根底にあるものは、彼ら自身の人種主義、白人至上主義にほかならないからである。まず第一に自らの人種主義を糊塗するために日本の「民族主義」をことさら強調するのだが、それだけではない

自由で民主主義の実績を持つ日本が「民主主義」に遠く及ばないことを彼らが強調するのは、まさに、日本は民主主義に「及び得ない」というレッテルを暗に貼るためなのである。すなわち、有色人種は専制や全体主義の被害者にはなりうるが、それを自ら克服し民主主義を自ら運営する主体にはなりえないことを、彼らは確認したいのである。それはつまり有色人種は「文明には及び得ない」ことを確認する行為にほかならない。

このように欧米リベラルの日本批判の動機の根本にあるものは、「文明」と「野蛮」との人種主義的定義の再確認であり、白人キリスト教徒の人種的文明的優位性の確認にほかならないのであるが、それを白人自身が直接手を下してやるのでなく、アジア系や日系人あるいは反日日本人を使ってやらせるところが白人の狡猾なところである。分割して統治する、部族対立・民族対立を引き入れて内紛を起こした上に白人支配を確立するというやり方は、彼らがアジア・アフリカで数世紀にわたって実践してきたことでもある。

人種的優位性の認識が白人にとっていかに死活的なものであるかを示すエピソードの一例を挙げると、19世紀末、イギリス人が「ローデシア」と名づけたジンバブエで、アクロポリス、神殿などからなる巨大な石造建造物群が発見されたが、白人はそれをどうしても黒人が作ったものと認めたがらなかった。それで彼らはそれを旧約聖書「列王記」にあるオフェール(オフルOphir)の遺跡だと発表した。しかし、ジンバブエ遺跡から発見された遺物の中にはそれが黒人文化の所産であることを示す像などがあり、アラブや中国との交易を示すものも見つかった。それでもイギリス人はそれを認めず、都合の悪い遺品を隠蔽して公にしないという暴挙に出た。それらの多くは現在なお公表されていないのである。(文春新書「民族の世界地図」より)

異人種・異民族との支配・被支配とは無関係に独自の文明を作り上げた日本人には理解しにくいことだがが、白人文明は、その揺籃においてすでに有色人種の「野蛮」世界に対する支配・搾取をその要件としていた

すなわち西洋文明は、有色人種の奴隷や植民地に対する搾取の「果実」の上に初めて成立しえたシステムなのである。いいかえれば搾取なくしては成り立たず、搾取しながらも非難し嘲笑すべき「野蛮」なくしては自己を確立し得ない文明が、まさに白人キリスト教文明である

アジア系の口を借りた彼らの日本に対する執拗な攻撃・非難も、このような文脈においてのみ初めて正当に理解せられるものであると思う。

以上は前置きでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(記事)
産経新聞11月28日朝刊「NYタイムズ日本たたき顕著」
【ワシントン=古森義久】米国左派リベラルの大手紙ニューヨーク・タイムズの日本への否定的な論調がこのところ鮮明かつ露骨となってきた。靖国問題で中国側の主張を全面的に正当だとするだけでなく、米国との同盟関係に基づく日本の安全保障政策や国会議員の大多数が賛成する憲法改正までも「危険な軍国主義志向」として扱うという日本への不信や非難の姿勢が明らかなのだ。同紙の最近の反日論調を点検してみた。

 ニューヨークタイムズは日米同盟の強化に反対し、日本が米国とともに東アジアの安全保障に関与することにも留保をつける点では日米安保条約自体にも難色を示すといえる。同時に中国の動向には奇妙なほど理解をみせる。十九日付の「冷戦的な中国政策」と題する社説をまずみよう。
 同社説はブッシュ政権の対中政策を冷戦時の対ソ連「封じ込め」に等しいと批判し、「中国はいまは米国への明白な軍事的脅威ではない」と述べ、中台衝突の危険も緩和されたと断じる。そのうえでブッシュ政権が中国の周辺諸国との軍事的きずなを強めることはよくないとして日本をその「最も厄介な実例」と評し、次のように述べる。
 「ブッシュ政権はすでに心配な民族主義的な日本政府に軍事に対する戦後の制約を捨てて、もっと野心的な地域安保の目標を目指すことを積極的に促しだした」
 この「心配な民族主義的な日本政府」という基調は、日本国民を民族偏見と劣等感をもつ偏狭な民族として描くところまで暴走する。同日付の「アジアのライバルの醜いイメージが日本でベストセラーになる」という報道記事がその一例だといえる。
民族偏見 排外主義
 同紙東京支局長のノリミツ・オオニシ記者の同記事は、日本で人気を集めた「マンガ中国入門」(飛鳥新社)などの漫画本を、 日本人の「長年のアジアの他民族への偏狭な排外主義」や「複雑な優越感と劣等感」の表れとしての「中国人、韓国人への憎悪」と決めつけ、日本人が中国人らに民族偏見を抱いているように描く。同記事はこうした漫画本が出る原因となった中国側の激しい反日には一言も触れていない。
 この種の一方的な「報道」記事と「評論」である社説とは二人三脚で日本たたきを続ける。日本の政治を一党独裁の中国と同一視するオオニシ記者の「なぜ日本は一党に統治されることに満足なのか」と題する記事(九月七日)は日本には民主主義はないと断ずるに近い偏見に満ちていた。単に自民党の長期政権が続くという理由だけで、日本の政治を中国や北朝鮮の独裁にたとえ、韓国や台湾のほうが市民社会や自由なマスコミが健在で民主主義も進んでいる、というのだ。記事には次のような記述が続出する。
 「政治家と選挙民の関係はパトロンと顧客の関係であり、民主主義ではなく、その正反対なのだ」
 「日本の民主主義は一九五五年に作られた幻想であり、五十年の一党支配が民主主義の成長を止めてしまった」
 日本の国民が民主主義の下で自由に意志を表明した結果の自民党政権への信託という結果をまったく無視するわけだ
アジアは小泉警戒
 総選挙での自民党の大勝利を受けての九月十三日の同紙の社説も、日本の民主主義の基盤や対米同盟の根幹を無視し、侮辱さえする内容だった。
 「(選挙での自民党の勝利は)小泉首相の軍事的ナショナリズムという日本の伝統の愚かな擁護を容認することになった」
 「軍国主義者が祭られる神社への小泉首相の参拝と、より力強い軍事政策への小泉首相の支持はアジアの世論全体を警戒させることになった」
 この記述はいまの日本には軍事的ナショナリズムという伝統が残り、その伝統を守ることは「愚か」なのだとする。しかも小泉首相が安保面でとる政策はみな「軍事的ナショナリズム」であり、「アジアを警戒させる軍事政策」なのだ。
 だが首相の「より力強い軍事政策」というのはみな米国との同盟関係の維持や強化の範囲内である。日米共同のミサイル防衛や中国の軍拡への懸念の表明、その日米共同の抑止の効用を高めるための種々の措置など、みな米国から奨励されての動きなのだ。その日米同盟の本質といえる各措置を危険扱いするわけだ。
 共和党保守派を一貫してたたく同紙は、「敵」の「友」は自動的に「敵」とみなすような情緒的な態度を示す。その一例としては小泉改造内閣の顔ぶれを報じる十一月一日の東京発オオニシ電に以下のような記述があった。
 「官房長官となった安倍晋三氏は北朝鮮と中国へのタカ派的なスタンスで日本でも最も人気のある政治家となり、ブッシュ政権のお気に入りともなったが、アジアの近隣諸国の強い不信を招いた」
 つまりブッシュ政権に気に入られることは好ましくないというのだ。こうみてくると同紙が靖国問題でさらに反日親中の偏りを激しくするのも自然に思える。小泉首相の十月十七日の靖国参拝に対し同紙は十八日の社説で「東京での無意味な挑発」と題し、日本を攻撃した。
軍国主義 伝統擁護
「小泉首相は日本の軍国主義の最悪の伝統をあえて公式に擁護してみせた。靖国は日本の二百五十万の戦没者の単なる慰霊の場ではない。二十世紀前半の数十年の日本による虐殺にまみれた朝鮮、そして中国と東南アジアの大部分での凶暴行為への悔いない見解を促進している。神として追悼され、崇拝される霊には裁判で有罪とされたA級戦犯十四人も含まれているのだ」
 同社説は日本の首相をさらに激しく非難する。
「小泉首相の靖国参拝は日本の戦争犯罪の犠牲者の子孫たちに対する計算ずくの侮辱だ。首相は自分が何をしているかを明白に知っている。その参拝は自民党の右翼ナショナリストの礼賛を得たが、首相はこの勢力を抑えつける必要がある」
 この独善的な非難は小泉首相の靖国参拝への「国のために亡くなった人への弔意」とか「平和のため」「戦争を繰り返さないため」という説明をまったく無視して中国の主張をそのまま繰り返すに等しい。
 また同紙は日本では国会議員の大多数、国民の多数派が支持するにいたった憲法改正をも「危険な軍国主義志向」と断じており、日本にとっては民主主義同士の同盟国の大手メディアの論調とは思えない。

続きを読む "「NYタイムズ日本たたき顕著」(産経新聞)"

| | トラックバック (0)

タイムス、BBCの紀子さま侮辱報道

「今日の覚書、集めてみました」より

『皇室のペテンが再び』@タイムスhttp://blog.goo.ne.jp/kitaryunosuke/e/13b21e9323b57ad7a5b8bbe1410bc072

BBC曰く『日本の偏屈な皇室は大喜びだろう』@BBC
http://blog.goo.ne.jp/kitaryunosuke/e/f1b57ba56a351e7f3930d83bb4800c51


『皇室のペテンが再び』@タイムス

Read my colleague Leo Lewis's account in this morning's Times (I'm on leave for a couple of months, back in the Tokyo bureau in March). At the age of 39, Princess Kiko, wife of the Emperor's younger son, Akishino, is six weeks pregnant. If the child is a boy, then he will become the third in line to the throne, thereby defusing the succession crisis and scuttling imminent plans to allow a woman to become a reigning empress.
僕の同僚
レオ・ルイスの説明を読んでよ。今朝のタイムスでさ(僕は2ヶ月ほどお休みでね、東京支局には3月に帰るよ)。39歳でだよ、紀子妃っていう天皇の若い方の息子秋篠の奥さんがさ、妊娠6週間だってさ。この子供が男の子なら、彼は後継順位第3位になるんだよね。って事で、後継危機は消えつつあり、女性が天皇になるのを許すって直ぐそこまで来た法案はおじゃん。

Two immediate thoughts. I have no inside information (I'm writing this in Heathrow Airport, awaiting a flight back to Tokyo), but I think that we can confidently assume that none of this was Princess Kiko's idea - that she has come under intense pressure from someone to have another child. The Princess is 39 and has two daughters, Mako and Kako, aged 14 and 11. That she and her husband should suddenly decide to have another child after more than a decade, or that they should conceive accidentally, is scarcely credible, given the intense political pressure generated by the succession crisis.
パッと思いつく事が2つある。僕は内部情報なんて全く持っていない(東京へ戻るフライトを待ちながら、僕はこれをヒースロー空港で書いている)。でも、これは紀子妃のアイデアでは全くない、と自信を持って推理できると思う。誰かからもう一人子供を産め、って恐ろしいプレッシャーをかけられていた、って事。このプリンセスは39歳で眞子と佳子って14歳と11歳の娘が2人いる。彼女と彼女の旦那さんが、10年以上も経ってから、突如としてもう一人子供を持とうと決意するとか、偶然出来ちゃったとかってのは、とてもじゃないが信じられない。跡継ぎクライシスで出来た物凄い政治的プレッシャーを考えればさ。

So who has persuaded them to try for one more?
って事で、誰がもう一人頑張れよ、と二人を説得したのか?


It could of course be the traditionalists, desperate to avert the horrific prospect of a female monarch. To understand how irrational and reactionary some of these people are, consider the words of Takeo Hiranuma, a one time trade minister and the leading campaigner against the Empress proposal. "If Aiko becomes the reigning empress, and gets involved with a blue-eyed foreigner while studying abroad and marries him, their child may be the emperor," he told a group of MPs and academics. "We should never let that happen."
そりゃあ勿論、伝統主義者達かもしれない。女性天皇のおっそろしー可能性をなんとかしようと死に物狂いの伝統主義者。この連中がどれほど非理論的で脊髄反射なのかを理解するには、平沼赳夫の言葉を考えてみれば良いよ。一時は経済産業大臣で、女帝法案反対キャンペーンの親分だ。
「もし愛子が女帝になり、留学中に青い目の外国人と係わり合いになって結婚すれば、彼らの子供が天皇になれるのだ」
って、国会議員やら学者やらの団体に言ったんだ。
「決してこんな事が起こるのを許すべきではない」。

   
こういうことを書くのは、秋篠宮ご夫妻に対する讒謗であり、紀子さまの「人格否定」だと言うことを考えても見ないのだろうか。

白人にとって、アジア人女はつねに売春婦でしかなく、そもそも人格など考えてみたこともなかったということが、ますます明確になった。

特に「タイムス」の妄想はひどい。醜悪な陰謀論。

こういうのを自身の鏡というのだろう。
この毛唐は、自分たちならやりそうなことを語り、イギリス人の品性の水準がどんなものであるかを教えてくれてるわけだ。

そして、「青い目の天皇」ができるのを日本の「伝統主義者」が嫌がってるなんていう話をわざわざもちだしてくるのは、白人たちは日本に「青い目の天皇」を創出したくてたまらないことの告白なのだろう。

しかしながら、日本人が「青い目の天皇」は嫌だと思っていったい何が悪いだろう。

そんなことは特別に「伝統主義者」でなくても、「白人」がどんな生物か知っているまともな人間なら当然に抱く感想ではないか。

白人はアジアで自分たちが愛される理由があるととでも思っているのだろうか。アジアで「青い目」の連中がどんな風に振舞っているか、自ら省みたことがまるでないことに恐れ入る。

欧州の王家はアジア人や黒人の夫を喜んで迎えるとでも言うのか。

ウェンツ瑛痔や滝川クリステルみたいなのがでてきて将来の天皇になることになったとしたら、日本人なら日本から逃げだしたくなるのが当然だろう。

それでも、町にモスクができるだけで不満たらたらの欧州人に比べれば、日本人はよほど異文化に寛容である。

 
にしても、このタイムスの記者、本当にケダモノのような顔だな。
実によく決まったファランといえる。

これでもアジア女にはモテルつもりで、「留学生と恋愛」でもしたんでしょうかね。

あきれてものが言えないので、どう怒っていいかもわからなくなるような記事です

 
当ブログは今後もますます反白人の立場を明確にして、下手なアジビラをできるかぎり切っていくつもりである。

これまでも述べてきたとおり、「白人」は文明論上の客観的な範疇であり、その成立において侵略的な本質を具え、日本民族とは根本的に相容れないものである。

白人に対する嫌悪の表明を人種差別だというバカがたまにいるが、そういう人間はこのタイムスの記事をよく見ればいいと思う。
   

| | コメント (1)

白人が増えることの脅威

日本に帰ったら街に白人が増えていた。どの異人種よりも白人が増えたように感じる。
白人が不愉快に増え始めた。

日本もタイのようになってしまうのだろうか。
私は脅威を感じる。
故国日本には外国人は少なくあってほしいというのが、私の正直な気持ちである。

中国人や韓国人が増えるよりは先進国の白人が増えたほうがいいだろうというのは、よく聞かれることである。
しかし、中国人韓国人の集団が手におえないのはいまさら言うまでもない。世界中の誰もが認めている自明のことである。だから却って、彼らに対してはわれわれに共通認識の防御壁ができているといえる。中国人韓国人が横着でやることは、横着であって権利でないことはみなわかっている。

ところが白人は、数が少ないときは猫のようにおとなしくしていることもあるが、数が増えるとがらりと態度が変わる。たんに横着で態度がでかくなるという単純なものではないから却ってタチが悪い。

白人は数が増えると、彼らの横着を「権利」として要求し始める

そうなると誰も彼らを止めることは出来ない。その社会では白人の横着を批判することさえ禁じられることになる。すでに日本はそうなりかけているが、その行き着く先にどんな社会があるか、その始末についてはタイに行けば全国いたるところで見ることが出来る(深南部三県を除く)。

関連記事:

本来的な意味の「人種差別」について

白人は『公共空間の白人による支配』を要求する

白人はなぜ白人か

2005/10

| | コメント (6) | トラックバック (0)

人種の棲み分け

私は、人種・民族は「棲み分け」ができたほうが良いと思っている。異なる人種・民族はそれぞれ別の場所に居られるようにして、それを普通のことにしたほうが良いと思う。

旅をして感じるのは、白人と日本人との旅先での楽しみ方はまったく違うということ。白人とアジア人という区分けでも違うと思う。
とくにバックパック旅行のような「生活する」長い旅では、それぞれのいちばん素の部分が出る。人間の縄張り意識や本来の人種意識も率直に出やすい。縄張り意識や異人種・異民族に対する違和感はどの人種・民族も持っている。

アジアの観光国やツーリスト地域のレストランやカフェやバーなどは、ほんらい「白人のための場所」であることが多い。
経営者も白人客をターゲットにして店を作っていて、本音では有色人種の客を歓迎しないし、そういうところの白人客もアジア人やローカルの客が同じ場所にいるのを好まない。

それなのにタテマエ上は人種を問わずに入っていいということになっているために、却ってそういう場所で日本人が不愉快な経験をすることも多いと思う。

ほんらい「白人のための場所」であるのにアジア人も入っていいことになっているのは、ひとえに「白人男がアジア女を連れて入ってもいい」という意味だと思っておいたほうが良い。

こういうことを変えるのは難しい。何百年も続いている世界の秩序を根本から変えようとするようなものである

   
欧米流のマナーについてあれこれと言い神経質になる人がいるが、かえって滑稽である。

マナーの基本は周りの人を不快にしないことだといわれる。そのとおりだろう。しかし、白人の半分くらいにとっては、ここは良い所だと思って入ったところに東洋客がいるだけで不快なのが現実である。これはアジアのリゾートでも同じであるか、むしろ顕著である。

日本人でも穴場的な雰囲気の良い落ち着いた店とか、とっておきの日のための高級な店に入ってみたら、隣のテーブルに中国人が2、3人陣取っていて中国語でしゃべっていたとしたら、それだけで多少はゲンナリするのが正直なところだろう。その中国人が特別行儀が悪くなかったとしても、中国流におしゃべりして中国流の表情やしぐさをしているだけで巡り合わせが悪かったと思うのではないだろうか。

何でもかんでも異文化としょっちゅう接触していることがいいことなのではないし、異文化を受け入れる努力をしなければならないわけでもない。

誰にとっても「異文化」は、基本的には不快なものである。だからこそ、文化は均質化せず、異なった文化が存続しているのである。このことをまず確認しなければならない。

均質化主義のグローバリズムは究極の全体主義であり、大変危険なものである。しかし、日本で「異文化交流」を掲げたり、白人と仲良くしましょうといっている連中はみな、自覚的にか無自覚にか、この危険な立場に立ってものを言っているのである。

   
したがって観光地でもリゾートでも、それぞれの人種・民族ごとに居心地の良い場所があるなら、それが理想だと思う。
清潔で景色がよく空気がよく静かであるというような、基本的な環境の良さというものは人種にかかわりなくおおよそ共通だと思う。
その上でどんな音楽をかけるのかかけないか、どんな大音響で音楽をかけるか、などの好みはそれぞれのエスニックグループによって変わってくるだろう。
しかし、基本的な良い条件というものはあると思う。そういう良い場所がそれぞれのグループに公平に分配されるなら、それが理想といえる。

しかし、現実には居心地の良い場所は「白人のための場所」になっている場合が多い。

___________

ツーリズムの場面でいえば、遊ぶところはともかく、宿とインターネットカフェは切実な問題である。

いわゆる日本人宿は、もっとも嫌われるタイプの日本人が主(ぬし)になって最悪の人的環境を作り出すという傾向があることが過去の実績からわかっているので、反省が必要である。

しかし、インターネットカフェについては日本人専用店を考える余地があると思う。

ツーリズム関係者はぜひ、日本人専用インターネットカフェが各地に設立されるよう働きかけてほしいと思う。

ビルの一室にインターネットを並べて日本語看板だけ出して英語看板を出さずにおけば、おおよそ日本人専用店にすることができると思う。

インターネット屋は旅先での図書館であり書斎である。図書館で大声を出して喋っていいと思っている人たちとの共存は難しい。

白人のいるアジアのネット屋はきわめて不快な空間である。

白人はネット屋の狭い空間内でも、外にいるのと同じようなとどろくような大声でしゃべりまくり(声の質が違う)、一つの機械を平気で二人で使い、その間絶え間なく喋りつづける。

室内をうろうろ歩き、歩きながらまた大声で喋る。このような感性の連中と普通の日本人が長時間同じ空間にいることはやはり難しいと思う。これはゲストハウスや白人の多いホテルでも同様である。白人の行動様式はどこに行っても変わらない。

結果として、このような白人連中と一緒にいられるような感性の持ち主だけがアジア旅行に居残ることになる(ビジネスマンや高級ホテル宿泊組の短期旅行者を除く)。

若くてまともな日本人はアジア旅行を2度と選ばず、アジアはますます白人ツーリストに占領されていくことになる。

|

本来的な意味の「人種差別」について

人種差別とは「人種主義」に基づいて人を差別することだと私は考える。人種主義に基づく差別でなければ言葉の本来の意味における人種差別とはいえない

人種主義とは、白色人種と自ら称する人種が、グローバルな植民地制度を打ち立て、彼らが有色人種と名づけた人々を奴隷にしたり隷民として搾取したりするために自ら作り出した世界戦略的なイデオロギーである

人類は知能や理性に関して、その属する人種により、生まれながらにして優劣があり、白人は有色人種に対しこれらの点で優越する、というのが人種主義の考え方である。

これは白人が考え出したイデオロギーであって、白人、黒人、黄色人種、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドという人種の区別自体、白人が作りだしたものである黒色人種、黄色人種は、白人にそのように定義された人種であって、自らをそう呼んだのではない

人種主義および人種差別にはこのような固有の歴史がある。この点は注意を要する。

日本人が「無意識のうちに」人種差別を持つなどということは原理的にありえない。たんなる異質な他者に対する警戒や、村社会の排他性や、民族対立などは、この意味の「人種主義」とはまったく別物である。

有色人種が人種主義を持つことがまったくないわけではない。それは、白人のイデオロギーを内面化してしまった場合である。白人に精神的に従属した結果、白人の精神構造を進んで内面化して同化しようとする場合である。(これはタイ人に顕著な精神的傾向といえる)

-----------------

【当ブログ読者からいただいたメールから】

人種差別ーシドニーからの報告

はじめまして。私は現在オーストラリアで語学留学している者です。

今日のシドニーは晴れ。なのに突然頭上から大量の水が降ってきて、ずぶぬれになりました。見上げるとある家の窓で白人の男がこちらに向けてビデオカメラをまわしており、その横で見るからにバカそうな白人女が大声で笑っていました。

私はすぐに何が起きたのか、なぜ道を歩いていただけの私にこのようなことが起きたのかを理解しました。彼らは「下等なアジア人には何をしようが許される」と思っているのでしょう。きっと私のずぶぬれ映像はレイシストサイトか何かで配信されるんでしょうね。

日本にも「ガイジン差別」があるとよく聞かれますが、白人の差別はその比ではありません。露骨な悪意を感じます。日本人は決して、道を歩いているだけのガイジンさんに水をぶっかけビデオを撮るなんてことはしません。日本の「ガイジン差別」は実は差別ではなく、異質な他者に対する警戒の類いだというあなたの意見に激しく同意します。

このような民度の低いバーバリアンの植民地に私はいったい何を学びに来たのか、分からなくなってきました。。。

M

(05/10)

|

2006年1月 4日 (水)

「怒りの抑制」

「怒りの抑制」が必要な時代に 放置すると暴力を増殖
怒りを爆発させてあとで後悔することはよくある話だ。しかし、怒りが、現代社会では大きな問題の一つになってると聞くと、そう安閑としてはいられなくなる。怒りは、放置すると、広範な暴力に転化するといわれる。米国では数年前、人気俳優のアダム・サンドラーが主演した「アンガー・マネジメント」が上映された。怒りを抑制できない若者の“怒り治療”をコメディー・タッチで描いた作品だが、心理学者ら専門家は、現実の世界でも怒れる人々が増えていると指摘している。(ベリタ通信=エレナ吉村)

 街頭での口げんか、学校内でしばしば起きる銃発射事件、職場での暴力、それに家庭内暴力など、社会全体に怒りが充満している。心理学者によると、怒りは、家庭や、職場などに“伝染”していく性質を持つという。

 米デトロイト・ニュースによると、ヘアー・スタイリストのロニャ・ホワイトさん(25)は、時として怒りを抑制できない

 レストランに行っても、サービスが良くないと思うと、突然店から出てしまうことも。ブティックの店員が、店に入ったときに、挨拶をよこさないと、ぷりぷりして店からUターンしてしまう

 こうした怒りや不満が募ると、次のどこかの店で、ささいなことから叫んだり、ののしりの声を浴びせたりする結果に。「怒りを十分に抑制できない。怒りを爆発させるが、醜悪だと思う」と、反省するホワイトさん。

 事実、怒りを抑制できない米国人は意外と多い。「アンガー・ダイエット」の著者で心理学者のブレンダ・ショシャナさんは「怒りは、米国人の5人に1人の割合で、深刻な問題になっている」と話す。

 ショシャナさんによると、精神安定剤の利用や、アルコール・麻薬中毒患者の多さ、肥満などは、遡ると原因が怒りにたどり着くとという。怒りには様々な形があるとされる。

 本の中では、怒りをできるだけ小さくするための「30日ステップ計画」を紹介。ショシャナさんは、「怒りを抑えることができれば、より幸せな、より健康的な、そしてより創造的かつ若々しい生活が送れる」と話している。

 「アンガー・マネジメント/平穏な生活のための6つのステップ(仮訳)」の著者、ピーター・ファバロさんは、店の会計係の女性が、自分にだけ無作法だと思って腹を立てるようなことは慎むべきだ、と指摘する

 「彼女は誰にでも無作法だからだ」とファバロさん。また相手が無作法だからといって、個人的にやり合っても意味がないという。大人になるまでに母親から作法を習っていない者に、説教しても時間の無駄になるからだ。

 ファバロさんたち専門家は、怒りを放置すると、いつの日にか爆発し、究極的にはさらに怒りや暴力を増殖させていくことになると警告する。怒りのもつ破滅的な行動を抑制するためにも、怒りの内容を知り、管理することが重要だと、述べている。

 公立図書館で黒人の生徒を引率していた31歳の男性は、職員が、生徒がうるさいと退去を要請された。これに反論すると、職員は警察を呼んで、逮捕すると話したという。明らかに差別と感じたが、怒りを抑えて図書館から退去した

 この男性は、後日、図書館に電話をかけ謝罪を要求したという。ファバロさんは、この男性の行動は、正しいものだったと話している。


2006年01月04日00時04分 ベリタ通信

http://news.livedoor.com/trackback/1602885

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後に出てくる「引率の男性」自身が黒人あったかどうかは、この記事では明らかにされていない。彼自身が白人であるか有色人種であるかによっても、彼の個人的な怒りの質はまったく別のものになったはずである。


欧米の人たちは、一般論では「差別」を大いに批判するが、個人的な体験として差別を語り、それを怒るということがあまりないのではないか?

欧米に住む有色人種の人々が、個人的な語りとして、人種差別の体験を語ったりそれに対する怒りを表現したり批判したりすることを、マスメディアで見聞きすることがあまりないように思う。暴動やヘイトクライムに関する報道を除くと、欧米の日常生活に人種差別などないかのようである。

日本人も海外での自分の人種差別体験(被差別体験)については、自分の問題としては語りたがらない。語るとしてもまるで悟りを開いたような語り口で、自分はぜんぜん気にしていないがというふうに客観的に語られることが多いと思う。

じっさい海外では「この人は誰にでも無作法なのだ」と思えない扱いを受けることがある。国や場所によってはしょっちゅうあるだろう。

支払う金額が違っていたり、身だしなみにはっきり差があったりするのならまだ納得がいくのだが、半ズボンをはいた汚い白人の若造たちが、こざっぱりした格好の日本人よりも、レストランやホテルではっきりと優遇されるような場面も、国によっては多い。

そういうあからさまな状況で、白人はどういう態度を取るかというと、当然のような済ました顔をしていたり、ニヤッと皮肉な笑いをうかべて一瞥したりするだけである。

そのような体験は日本人にとっては屈辱的なものだが、日本の紳士たちはなかなかそのような「体験」を語りたがらない。そういうことを気にしていることすら「恥」だと感じているようである。

それはちょうど、個人的に貧乏であるとか、学歴がないとか、背が低いとか、頭が禿げているとか、顔が醜いと思うとか、そういうことについて悩んだり、異性にもてないことに不平不満を言うことを「恥」と感じるのと同じような心理で、人種差別された(らしい)ことについて語ることを「恥」と感じているようだ。

短期の旅行者にとっては、そういうことは海外での特殊な経験に過ぎず、それも一種の旅の思い出であって、日本に帰れば普通の環境が待っているということになるのだろう。長期旅行者や在住者の多くは、そういうことについて「達観」しているようにも見える。気にしない人もいるだろうし、気になる人でもいちいち気にしていてはストレスがたまるだけということだろう。

じっさい白人によって作られたこの人種秩序は世界を覆っており、文化的にも世界の隅々にまで浸透し、人々の美意識をも支配しているようである。この秩序を個人の力で変えることは難しい。変えようのないものはいくら批判しても愚痴にしかならないと感じるのももっともなのかもしれない。

しかし私はそういうふうに「達観」はしたくないと思う。
日本人として、すくなくとも、「海外で人種差別をされたと感じた」と語ることを「恥」とする日本的な意識の壁を、破りたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月 1日 (木)

フランス「植民地時代を“肯定”」(産経新聞12月1日朝刊)

【パリ=山口昌子】フランスの国民議会(下院)は29日、野党・社会党などが提出した植民地時代の「肯定的役割」を教科書で承認する法律の条項の廃止を反対多数で否決した。

(この法律は)今年2月に制定、発布済みの法律の第4条。「海外領土、とくに北アフリカにおけるフランスのプレゼンスの肯定的役割」を教科書で認めるようにと規定したもの。

教科書などで歴史を振り返る必要があるという点では社会党も一致している。

社会党も、「一国の歴史は白か黒ではない。たたえるべき栄光のページもあり、理解し、認めるべき暗澹たるページもある。われわれは父親の誤りを数え上げる会計士ではない」(エロウ議員)と述べ、植民地時代をすべて否定してはいない。

(以上、記事の抜粋)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

植民地統治そのものを謝罪した欧米諸国はないはず。もしそれをやってしまったら、今の白人支配の世界秩序を根底から覆すことになり、世界を無秩序に引き込むことになる。自由や人権の観念も民主主義制度も根拠を失うことになりかねない。それは当面はたしかに誰の利益にもならない。

このことは日本の植民地支配にも当てはまるはずだろう。常識的に考えて、統治された側にもプラスの面もマイナスの面もあったはずだと思う。

それにもかかわらず日本のみが非難されるのは、日本の試みたことが、一部ではあってもすでに成立していた白人支配の秩序に抵抗する性質を持っていたからにほかならない。

それともうひとつ、日本の進歩主義者・左翼主義者たちがフランスの左翼とは異なり、例外なく「われわれは父親の誤りを数え上げる会計士」を任じ、父祖の誤りをないものまでもでっち上げて強調することに奇妙な喜びを感じるひとたちで、それが白人側の都合とうまく一致しているからだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

その他のカテゴリー

*「人種差別」に関する考え方 | 1.タイ国王戴冠60周年行事 | 2.ココログ写真検閲 | A-1.白人はなぜ白人か | A-2."Discrimination"、BBCの日本批判 | A-3.白人が増えることの脅威 | A-4.本来的な意味の「人種差別」について | A-5.「NYタイムズ日本たたき顕著」 | A-6.「白人コンプレックス」論 | a.インド | a.インドネシア | a.オーストラリア | a.カンボジア | a.タイ | a.タイ北部 | a.タイ深南部 | a.チベット | a.ネパール | a.マレーシア | a.ミャンマー | a.ラオス | p.すべての写真 | p.ソルクーンブ写真 | p.白人のいる風景 | s-cmbd.シエムレアプ | s-cmbd.ポイペト | s-dst.スンガイコロク | s-dst.タクバイ=プンカラン・クボール | s-dst.ナラティワト | s-dst.パタニ(パッタニ) | s-dst.ヤラー | s-id.インドラマユ | s-id.クニンガン | s-id.ジャカルタ | s-id.スバン | s-id.チアトル | s-id.チアミス | s-id.チパナス | s-id.チルボン | s-id.ドゥマイ | s-id.バンダ・アチェ | s-id.バンドゥン | s-id.パマヌカン | s-id.プカンバル | s-id.メダン | s-id.レンバン | s-mm.コートーン | s-mm.タジ | s-mm.タチレク | s-mm.タートン(ミャンマー) | s-mm.チャイントーン | s-mm.トーンジー | s-mm.バゴ | s-mm.ピンマナ | s-mm.マンダレー | s-mm.ミチナ | s-mm.メイティラ | s-mm.モンラ | s-mm.モーラムヤン | s-mm.ヤンゴン | s-mm.ロイムウェ | s-my.アロースター | s-my.イポー | s-my.クアラルンプール | s-my.クアラ・トレンガヌ | s-my.クアンタン | s-my.クタム島 | s-my.クラン | s-my.コタバル | s-my.シャーアラーム | s-my.スレンバン | s-my.バタワース | s-my.マレー鉄道 | s-my.ムラカ | s-np.イラム | s-np.カトマンドゥ | s-np.グファポカリ | s-np.ジャナクプル | s-np.ジリキムティ | s-np.ソルクーンブ | s-np.ダラン | s-np.チャインプル | s-np.チョウキ | s-np.ナラヤンガート | s-np.バサンタプル | s-np.バルパック | s-np.ヒレ | s-th.アランヤプラテート | s-th.イサーン | s-th.サラブリ | s-th.スラタニ | s-th.スーリン | s-th.チェンマイ | s-th.チェンライ | s-th.チュンポン | s-th.チョンジョム | s-th.ノンカイ | s-th.ハジャイ | s-th.バンコク | s-th.プラサート | s-th.プラチュアップ・キリ・カン | s-th.メーサイ | s-th.ラノン | s-th.ロッブリ | s.ビーチ | t.「オリエンタル」ホテル | t.「ミラー財団」 | t.「土人」とは何か。「土人」に関するテーゼ | t.「失踪白人女性症候群」 | t.「白人コンプレックス」論 | t.インド洋津波 | t.ゴーギャン | t.ジェマアイスラミア(JI) | t.タイ人の白人崇拝と人種差別 | t.タイ北部・山岳少数民族 | t.タイ王室ネタおよび『不敬罪』 | t.タイ航空(TG) | t.ミャンマー・エアウェイズ(MA) | t.リンク | t.三つ穴コンセントの対処法 | t.人種差別ネタおよび白人ネタ | t.児童買春(子供買春) | t.売買春・レンタルワイフ関係 | t.旅先のネット屋での日本語IMEの入れ方 | 「BBCニュース」 | 「アーリア人」ネタ | 「靖国問題」 | インテリジェント・デザイン論 | ウェブログ・ココログ関連 | ニュース | パソコン・インターネット | ブログ記者の取材源秘匿権 | ムハンマド風刺画事件 | 司法・憲法 | 心と体 | 旅行・地域 | 日記・コラム・つぶやき | 欧米の『日本たたき』 | 皇室および天皇制 | 経済・政治・国際 | 読書