s-my.コタバル

2006年6月30日 (金)

コピ・オのグラスがバーストした!

「爆発」数分後の写真 (コタバルの某所で)

Imgp1984

昨夜、前記事を投稿した後ネット屋を出てまだ開いているローカルレストランに入った。

コタバルの夜は早い。大部分のレストランは夕方6時を過ぎるとしまってしまう。

「バンダル・ラヤ・イスラム」だそうで、未婚の女の子と二人きりで部屋にいるだけでも宗教警察が乗り込んでくるという噂のあるクランタン州の州都・コタバルは、折り目正しい町である。金曜日の今日は華人系以外のレストランはどこも閉まっている。

しかし、タイに近いので地味な町のわりにはタイ崩れの傲慢な毛唐旅行者が目立つのが難点。それでもレンタルワイフ連れはあまり見かけない。

昨日の「仕事」はつらかった。

なぜなら、ネット屋に毛唐が多かったから。毛唐は用もないのに長居する。用が済んでもすぐに消えないのが毛唐の特徴である。

そしてうるさい。必ず何か「アピール」している。

僕のお気に入りのトゥドゥンをしっかりつけた受付のかわいいワルダちゃん(仮名)にちょっかいを出し、かわいいワルダちゃんがキャッキャ言っている。

ワルダちゃんが悪いのではない。毛唐はどうしてもそういうとこまで引っ張っていこうとするのである。

もちろん、いくら毛唐でもこの「コタバル・バンダル・ラヤ・イスラム」で、トゥドゥンをしっかりつけたマレーねーちゃんを難破しようというわけではないだろう。

要は、自分たちがここで「特別な客」であること、自分たちのその場所における「優位性」を、女にキャッキャ言わせることで自分も確認し、周囲にも確認させたいのである。

また、確認せずにはいられない。これが白人のアジアにおける基本行動であり、業である。

こういうことをしないではいられないのはどこかに不安があるからだろうし、後ろめたさがあるからかもしれない。毛唐の因業なのだが、しかし、それが毛唐というものである。

そういうわけで、前記事を書いている間、ワルダちゃんのほうが気になってぜんぜん集中できなかった。

集中できないので消耗し、疲れ果ててネット屋を出る。

ネット屋の近くにひとつだけある遅くまで開いているローカルレストランのテーブルに着き、やれやれという感じでコピ・オ(砂糖を入りで出てくるミルクなしコーヒー)を注文する。

コピ・オが出てきた。

コタバルのローカルレストランで毛唐を見たことはまだない。これは唯一の救いである。

一口口をつけて、グラスをテーブルの上に置く。

グラスから手を離して2、3秒たったとき、何の前触れもなく「パン」という大きな音を立ててコピ・オが破裂した。ガラス片がはじけとぶ。コーヒーが飛び散り、腰から下コーヒーだらけ。

本当に突然の出来事で何が起きたかわからなかった。爆弾かと思うような大きな音とともに破裂。原因は不明だが、コーヒーの熱ではじけたようである。

しかし、飲んでいる最中に爆発しなくてよかった。 さいわい怪我はなかった。

マレーシアでも、華人系の店を除き、熱い飲み物もガラスコップで出てくることが多い。このグラスは小さなビールジョッキのような形の取っ手のついたかなり分厚いもの。

ネパールではもっと熱々のチヤ(ミルクティー)が、泡の混じったような青っぽい安物グラスで出てくることがよくある。グラスに入った熱いチヤを何十杯飲んだかわからないが、こんな風にバーストしたことはなかった。グラスが小さいからかもしれない。

下半身コーヒーだらけになってホテルに帰る。

やはりこれはヤラ・ラーマ・ホテルの爆発現場の写真を撮ったタタリだろうか。

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2006年6月26日 (月)

スンガイ・コロク Sungai Kolok

ヤラからスンガイコロクへ。スンガイコロク行きのミニバスはヤラ駅の向かいから出る。120バーツもする。11時40分発のミニバスの切符を買う。

少し遅れて出発。9人乗りのミニバスに乗客5人だったのでわりと快適な旅。

検問などはなかった。

3時20分頃スンガイコロクのボーダー近くにつく。居眠りしているうちに町を通り越していた。

モトサイでスンガイコロクの街に戻り、町一番というMarinaホテルにチェックイン。一泊585バーツというが、デポジットを2000バーツも取る。

最初はパスポートを預けるように言われたがそれは断った。パスポートを預ければデポジットはなかったのかもしれないが、こんなところのホテルのフロントに預けるより自分で持っていた方が安心できる。

部屋のテレビには去年泊まった宿ではただで見られたエロビデオがない。何か損をしたような気持ちがする。

どこのホテルの前にもでかいタイ国旗と黄色の国王旗が大袈裟にぶら下げられている。

Marinaホテルのフロントは英語も通じて親切だが、客は感じの悪い×ャン×ロ・タイばかり。

それでも部屋の天井にはKibratの方向を示す矢印が張りつけてある。これを見るのも久しぶり。

ネット屋のおやじの話だと、Marinaホテルは2度爆発があったそうである。

去年私が泊まったValentineホテル(エロビデオがただで見れた)もセキュリティが良くないという。

お勧めはGentineホテルということだった。

スンガイコロクの町は国境の町らしいマーケットがあり、食事も便利である。マレーシア式の食事もだいたいOK(テー・タリクは無理だろうが)。

町の雰囲気もそう特別ではない。今回はやはりヤラのほうが殺伐としていた。

夜になると昼にはよく見えなかったこの町の正体が見えてくる。

Marinaホテルの周りには売春バービアや売春ディスコが堂々と軒を並べて営業している。

何人かの白人男がタイ式に土人女をはべらせて空間を押さえている。

警察・軍隊もいたるところにいる。街を厳重に監視し警備している。

売春バービアが堂々と営業しているのは放っておいて、客がバーの女を連れて帰る「高級」ホテルを厳重に警備している

売春を警備しているのだ。

タイ警察・軍隊は、土人売春国家たるタイランドの「土人売春国家体制」を警備しているにほかならない。

私にはこれは順序が違うのではないかと思われる。

当局がこの堂々たる売春営業を取り締まって売春バービアも売春ディスコもなくなれば、この場所でのテロは一般住民への説得力を幾分か失って収束せざるをえないのではないかとも思われる。

タイ国家がどれだけ本気にテロを抑えたいと思っているかは疑問である。深南部テロで死ぬのは売春婦と下っ端の役人だけであろう。

24日。

昼ごろ外に出ると毛唐のグループがぞろぞろ歩いている。

ナラティワトやパッタニではほとんど見かけなかった毛唐が、タイ式に半そで半ズボンでのし歩く。若いのもおやじも。女もいる。

昨日のネット屋には韓国人らしいのがいた。スンガイコロクで見ないのは日本人だけか?

ネット屋に行くと昨日は見なかった若い毛唐が二人来ていた。昨日は地元の生徒しか来ていなかった。

部屋中に響き渡る声で大声でしゃべり、電話をかけヒヒヒと大声で笑う。タイ売春婦にかけているような電話もあった。

自分の機械の調子が悪いといって地元の女の子がやっているところに行き機械を代われと言う。それは断られたか無視されたようだ。

マレーシアのネット屋に来る毛唐よりやはり一段下等になるように見える。ここにいる毛唐はみんなタイ滞在延長のためにスタンプを押しに来ただけだろう。

昨日は気づかなかったが、Marinaホテルの近くに“Lady Home”という英語看板を大きく掲げた「マッサージ」屋がある。家庭内暴力被害者のシェルターだろうか。

テロリストはもっとスンガイコロクを狙うべきだと思った。

毛唐が来なくなればそれだけでも世の中はかなりよくなる。

Marinaホテル近くの売春バービア遠景 (ほかにもいっぱい)

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美容室で

美容室 は普通の(?)女の子と普通に仲良く(?)なれるところ。

検閲により画像2枚削除

この人はチェンライ出身で父親は中国人だとか。私には懐かしい顔立ち。おそらく、母親はアカ族ではないかと推測する。タイの地の果てコロク川まで「戦火」の中をはるばるやってきて・・・・。

同じ美容室で

検閲により画像1枚削除

こちらは別口。ラインが違うのか、すでに臨戦体制にはいっているのか。
毛唐が好んで連れ歩くタイプの容姿ではあるといえる。しかし、白人が連れ歩いているアジア人レンタルワイフの平均水準に比べるとかなり美しい。
なお、この人はこの時点で毛唐のレンタルワイフではなかった。

25日。

Marinaホテルをチェックアウト。歩いてボーダーに向かう。

どうせ20バーツなのでモトサイ(バイタク)を使ったほうがいいが、途中のネット屋によるために歩いた。

イミグレーションの手続きを済ませて、ランタウ・パンジャンへ。タイ側はもったいぶってパスポートはしげしげと見る。

マレーシアに出るとふわっと空間が広くなる感じがする。空間が明るい。

早速バス停近くでテー・タリクを飲む。ボーダーを越えただけで、タイではマレー系にも意味が通じなかったテータリクが飲めるようになる。タチレクに出ただけでラペイエが飲めるようになるのと同じ。

チキンカレーがおいしい。チキンの味が同じくハラールでもまったく違う。

スンガイコロクではマレーシアリンギが使えたが、ランタウパンジャンではイミグレ近くの店でもタイバーツは受け取ってくれない。

公衆トイレ(有料)番のおばさんがタイバーツも受け付けていたので、手持ちのバーツコインをリンギ(セン)コインに両替してもらう。おばさんのコインが足りず「手数料」を取られた。

1時間半ほど待って3時半ごろようやくコタバル行きのバスが来る。

バスはパシル・マス(Pasir Mas)を経由して、1時間ほどでコタバル市内に入る。

夕方5時近く、Azamホテルにチェックイン。90リンギ。一部屋空いていた。

2日間はいられるが、その後は予約でふさがっている。一応「アレンジ」を頼んでおく。

スンガイコロクの小さなネット屋は今日若い毛唐(ドイツ人など)がいっぱい来て大声で暴れまわっていた。

コタバルに来てネット屋に入る。

地元の人は、パキスタン丸出しの若者であっても小さな声でひそひそと話す。

ところがまた、毛唐女が2,3人入ってくる。

入るなり大声で「ハーイうんたら」といい、自分たちがどこでもタイ同様に大歓迎されているものだと思い込んでいるようだ。

そして、このわりと大きな部屋の隅から隅までがんがんに響き渡る声でしゃべる。

画像未検閲記事:
http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/22/

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2006年5月27日 (土)

スクールホリデイ マレーシア

今年は5月28日からスクールホリデイだということ。2週間続く。

こういう予備知識はマレーシア旅行では重要なのだが、ラマダンくらいしか気にしていなかった。

泊まっていたホテルを追い出される。周りのちゃんとしたホテル(白人がほとんど泊まらない値段高めの宿)を探しても部屋がない。

やむを得ず、バックパッカー用の安宿に部屋を探す。どこも汚い白人だらけ。

どこに行っても彼らは醜い上半身をさらけ出さないではいられない。有色人種旅行者が同じ場所に来るだけで不快感を露骨に示す白人がいるのは、どこも同じ。

ホテルは勿論、ゲストハウスのスタッフも、タイ人とは違って人種差別などしないが、ロビーでクズ白人のお相手をしないで有色人種客の応対をしているだけでも白人客は気に入らないらしい。

他人が話しているのに横から口を突っ込んでくる。これが「西洋のマナー」なのだ。

コタバルのゲストハウスの番人には「ファラン」という言葉が通じるものがいる。

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安宿に泊まって

Azamホテルとスリヤホテルの間にある「KBバックパッカーズロッジ」という汚い宿の20リンギの部屋に泊まる。シャワートイレ共同・ホットシャワーあり。中途半端に不潔で、虫がいる。

以前はこういう宿ばかり渡り歩いていても平気だったが、近頃は安宿は嫌である。

哀しいことに、ここでなんとも薄汚い若い日本人女性バックパッカーを見かける。汚く日焼けしていて、肌を露出すればするほど醜悪である。コタバルあたりのマレーシア女性は色白美人も少なくない。この日本人女性は、どのマレーシア女性よりも汚く見える。ダラッと安宿に泊まっているこの薄汚い女の子が日本人女の代表なのか・・・・

こんな無用心な宿に泊まる女性は、レイプされることも平気なのだろうか。それともそういう乱交も旅の醍醐味のうちなのだろうか。あるいは、白人女のように大声を上げてガイドブックを振り回し格闘する覚悟があるというのか。

シャワールームは上がまる空きで、覗き込めるだけでなく、すぐに乗り越えて密室内で何でもできるだろう。部屋の内鍵もネジで止めた小さい閂に過ぎない。

新聞を見るとマレーシアも手荒なレイプ犯罪はよくあるようである。特にタイ国境近辺(ランタウバンジャンなど)とジョホルバルの犯罪が報じられているのを見る。クランタン州のような土地柄ではタイやシンガポールなどに遊びに行けない若い男はけっこう大変かもしれない・・・・

何年か前にタイで会った日本人女性旅行者は、24歳くらいの太った子だったが、レイプに具えてコンドームを持ち歩いていると言っていた。レイプされそうになったら「させてあげるからコンドームだけはつけて」とお願いするつもりだという。本当かどうか・たぶん本当だろうが、その太った女の子は「まだバージン」だということだった。おぞましい話である。

しかし、レイプ犯がそんなお願いを聞いてくれるだろうか。レイプというのは、相手の意に反してするところに興趣があるのだろうし、レイプに着手し、すでに暴力のモードに入った男がそんな懇願を聞くべき利益も動機も見出せない。

白人ツーリストは多いが、白人女の一人旅というのは意外に少ないように思う。大都会や白人ツーリストがいっぱいいる「白人基地」ですこし見かけるくらいで、単独で田舎回りなどしている女性旅行者は日本人ばかりである。

タイで会ったある白人男は、「日本人女は一人でどこへでも行く」といってあきれていた(ヤルのはタイ女より簡単だとも言っていたが、タイ女はどうしてもカネが絡むからだろう)。

彼女らが友達も連れ立たない一人旅にこだわり、そのうえ汚い白人のスクツ(巣窟=昔はソウクツと読んだがちかごろはスクツとも読むのだとか)のような無用心な安宿にことさら飛び込みたがるのはなぜだろうか。

白人は普通、お互いに西洋人というだけでも連帯意識を持ち(白人同士、あるいは、キリスト教徒同士)交流しあうのを自然のことと考えているようで、異国で出会う同国人ならなおさら仲良くするのが当然だと思うようである。彼らから見ると、若い日本人旅行者同士が互いに交わらずよそよそしくしているのが奇異に見えるとも聞く。

「日本人旅行者が単独行を好む理由は何か。」「日本人旅行者が互いによそよそしくしている動機は何か。」

こういう問題のほうが、「日本人は群れたがる」という聞き飽きた指摘よりは考えてみる価値があり、面白いと思う。

「私は『群れ』あってる普通の日本人とは違うんだ」というアピールなのかもしれない。

どの国民も民族も実は十分に「群れ」ているし、とくに白人は「人種的に」コロニーを作って群れたがるのだが、日本の進歩主義的言論界では、日本人が「群れる」ということには特別の色付けが与えられている。日本人が「群れる」のは特別恥ずべき「日本的な」ことであり、危険なことでさえあると本気で思いこんでいる人がいまだに少なくないようである。

あるいは、「私は旅なれしていてポット出のツーリストとは違う」という気持ちかもしれないし、「私は欧米経験が豊富でアジアなんかにいる日本人とは違う」という気持ちからかもしれないし、本当に日本人同胞が嫌いなのかもしれない。

あるいは、日本人は、日本列島という土地、風土を離れるとほんとうに共通の基盤を失ってしまうのかもしれない。

聞いたような話だが、日本人が「律法」を伴うような宗教を共有していないからかもしれない。確かにイスラム教徒同士は国や民族が違っても連帯感を持って協力しあうようである。(シーア派のイラン人もマレーシアに来ていて、すぐにマレーシア人と仲良くなる。マレーシア人のほうがだまされて麻薬の運び屋にしたてられるという事件もおきている。)

集団主義(やみくもに集団で行動すること・それを他人に強いること)と友愛(同胞と仲良くすること)との区別がつけられず、理性的に他人と協調することができない人が多いのかもしれない。もとより、それが日本特有だというのではないが、たとえばいまあげた友愛とか同胞とか協調という言葉を聞いただけでただちに盲目的集団行動を連想して嫌悪する人はわが同胞には多そうである。(同胞というのはキリスト教徒が好む言葉のようである。)

もっと単純に、われわれはほとんど日本列島で活動してきたので「海外にいるときは仮の姿」と思っているからかもしれない。「仮の姿」を日本人同士でさらしたくはない、さらに言えば、掻き捨てようとしている旅の恥を同じ日本人にすくいとられたくないということかもしれない。

このようなことをいうからといって、
「日本人は『個』が確立されていないから、群れることと協同することとの区別ができないのだ。結局、日本人には利己主義はあっても個人主義はなく、日本にはいまだ市民社会は確立されていない」
などというような妄想理論に話を引っ張っていくつもりはさらさらないのである。

私も単独行主義者のような旅行をしているし、人と一緒に旅行するのは好きではない。しかしそれは、「個我」とも「個人主義」とも「近代市民」とも「市民社会」ともまったく関係ない(ましてや「地球市民」とはさらさら縁がない)。

単独行を好む日本人旅行者が増えているとすれば、日本の文化や日本人の感性に一人旅を好むようなところがもともとあって、それが機会を得ていま表に出てきていると考えるほうが自然だと思う。

しかし自分で選んだ一人旅である以上「自己責任」の感覚は絶対に必要である。

旅先で、醜くだらしない日本人の女の子にかち合ってしまうと、自分が恥ずかしいような気になり、ことさら無視して「気がつかないフリ」をしたくなるのは事実である。(相手も私に対して同じように感じているかもしれないということはここではどうでもいいことである。)

この感情を「共同体意識」が特別強すぎるからだと決め付け責めることはできない。外国では、日本人は日本人として同視されひとくくりに扱われるのは珍しいことではない。

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2006年5月20日 (土)

バチョクBachok、コタ・バル、クランタン州、マレーシア

バチョクBachokは、コタバルの近く。ローカルバスで一時間ほど。コタバルの大きいバスターミナルから11番、2B番などのバスで行ける。

ムラウィ・ビーチ Pantai Melawi

バチョクから10キロ近く離れたところにあるリゾート。わりと良いところ。バチョクでバスを乗り換え、またはタクシーで。どのビーチも週末はローカル客で混み合う。

(日記)

5月16日。

コタバルのAzamホテルをチェックアウト。バスステーションで11番のバスに乗る。バスは一時間ほどでバチョクのバスターミナルに着く。

ムラウィビーチまでタクシーで3リンギ(地元客は2リンギ。さらに週末だと10リンギ吹きかけてきて、運転手同士で価格カルテルを作って下げさせないようにすることもある)。

「リゾート」までだと5リンギだというので、とりあえず3リンギでムラウィビーチの一番近いところまで行ってタクシーを降りる。

海岸は美しく、波も高い。独立式のシャレーを探すが見当たらない。1時間以上、荷物を全部背負ったまま炎天下を探し歩いて、"Sri Melawi Chalet"というところに独立式のシャレーを見つける。あたりにはスカーフのマレー式制服を着た女子学生(大学生のように見える)がたくさんきている。

外国人ツーリストらしきものは見当たらない。

ようやく探し当てた独立式シャレーだったが、鍵が壊れていてダメ。

同じ"Sri Melawi Chalet"の中の、海に面した2軒長屋式コンクリートの部屋に泊まることにする。エアコンはないが暑くはない。ドアをあけると椰子の木2,3本を隔ててすぐそこに海があり、波打際まで100メートルほどしか離れていない。50リンギ。

なんとこのリゾートは夕食の食えるレストランが一軒もない。朝食にライスとチキンカレーが食べられる茶屋が一軒あるが、飯を炊くのは朝だけで、11時ごろには売り切れになる。別の茶屋で夜9時ごろからローティチャナイをやっている。この村の茶屋はこの2軒だけで、いつでもライスがあるちゃんとした食堂に行くには30分ぐらい歩かなければならない。

そのわりにシャレー(長屋式が多い)はたくさんある。平日のせいか、滞在客の姿は見えない。いっぱいきていた女子学生たちも帰ってしまった。茶屋の兄ちゃんの話だと、ここに来る客はみんな自炊をするのだとか。

海岸には丈の高い椰子の木が多い。椰子の実が落ちている。椰子の間を歩いていると、いつ上から椰子の実が落ちてくるかとひやひやする。部屋にいるとき椰子の実が落ちる音を聞いた。恐ろしい音がして衝撃である。

夕方波打ち際で、子供たちが乗馬の練習をしていた。小さい子供は子馬に乗っている。

激しい夕立があり、夜になっても沖のほうに稲妻が見える。海岸に面した部屋なので、夜中でも気が向いたときすぐに浜に出ることが出来る。人っ子一人いない。Not a soul was to be seen.という例文を思い出した。全く成長がないものである。若いうちにもっと勉強しておかないとダメだ。

波の音がこんなに騒々しいものだとは知らなかった。

夜11時ごろ部屋の鍵が完全に壊れていることに気づく。内側からロックすることも出来ない。人が少ないとはいえ、バイクのガキが通ったりするので安全とはいえない。カギが壊れていることを知っている者がいないとも限らない。

オーナーの自宅まで行き外から声をかける。まだ電気のついている部屋にいた息子が出てくる。寝ていたオヤジを起こしてもらい、部屋を隣に変えてもらう。当然のように一悶着ある。このオヤジはこのときはじめて会った人。チェックインのときに応対した女主人は出てこない。

この浜はあまり海臭くない。砂浜に貝殻はあまりなく、海草は全くない。人影のない、深夜の波打ち際に立つ。薄曇りの月夜はかなり見通しがきく。風が冷たいのでセーターを着る(セーターやジャージは東南アジア旅行で必要なもの=小汚い貧乏旅行以外)。裸足で波打ち際を歩くと空気より海水のほうが暖かい。

水平線の上に遠雷がしつこく光り続けている。雷のような音で波同士がもみ合っている。雷の音なのか波の音なのか本当は良くわからないが、規則的な音ではない。大きな生命がそこにあるという感じがする。簡単に納得など出来ないといっているようである。

沖から黒い波が盛り上がってくるのを見ると、得体の知れぬケダモノが海から襲いかかってくるような気がして本当に少し怖くなる。

17日。

午前十時過ぎに表に出てみたら、隣の浜に中学生みたいな集団がいっぱい来ていて、男女に分かれて座っている。わりと行儀良くしている。女の子はみんなスカーフつき。遠足か?

この村には2軒しかない茶屋。一方はコピ・オ50銭もう一方はなんと40銭。

夕方50銭のほうの茶屋に行く。誰もいないようなので、どうせ昼寝してるのだろうと思って奥をのぞく。ばあさんが、あの照る照る坊主みたいな白いトゥドゥンをすっぽり被ってベッドに座り瞑想のようなことをしていた。瞑想のような姿勢だったがお祈りのようだった。

夕方、部屋の前の寝椅子(タイのビーチでも毛唐が好んで寝転ぶやつ)でうたた寝していたら、ひどく物狂おしい気持ちになった。古文に出てくる物狂おしさとはこんな感じなのだろうかなどと思ったりした。

この浜の波は不規則に出来て不器用に砕けていく。私の記憶にある太平洋の波とはまったく違っている。黒潮の引き起こす波は、もっと正統的で折り目正しいものであったように思う。しかし、この不規則な波もまた自然の一部、というより自然そのものであることは否定のしようがない。それでも私はどうしてもそのことを素直に受け入れることが出来ない。

自然の中で完全な一瞬に出会ったとしたら、その一瞬はすべての経験に取って代わりうるものだろう。それによってすべての経験が報われ赦されるといえるのだろうか。

そのような一瞬を持った者は、もう何も言いわけをする必要がない。何も語る必要がないだろう。野心をもつ理由もない。語る必要のない人は、語る言葉も持たず、表現に関心も持たないだろう。

浜辺で網の手入れをしている漁師。彼がそのような一瞬を持たなかったとは誰も断言できない。手の届きそうで届かないことに苛立つ者が、多くを語り、あれこれ思いめぐらすのである。しかし、思いめぐらしたからといって核心に届くわけではない。本当にモノにした者は語る動機をもたず、そのような場所に立とうとも思わないだろう。(ブログなど作っているのはモノにしていない良い証拠だといえる。)

18日。

今日も朝から生徒たちが先生に連れられてビーチに来ている。ガキは好きではない。

オフィスに近い木造の大型シャレーに移る。

11時ごろ茶屋に行くと飯はもう終わっていた。ここが終わると飯を食うところはもうこの村にはなくなる。9時ごろからもう一つの茶屋でローティチャナイをやるだけ。しかし、私はあまり困らない。パンとミルクティーと水だけでも何とかやって行けることは行ける。

パンはいろいろ売っている。ブミプトラパンのようなのとか、変な餡の入ったのとか、腐っているようで腐っていないクリーム入りのとか。

しかし、やることもないので、常時飯の食えるレストランまで30分くらいの道のりを歩く。魚カレーのみだったが、やっぱり美味かった。

歩いて帰る途中、車で通りかかったシャレーの女主人に声をかけられる。コタバルまで行くので乗って行かないかと勧められる。面倒そうなのでいったん断ったが、強く勧めるので乗ることにする。

このおばさんは快活で、立派なわかりやすい英語をよくしゃべる人だが、信用のおけない人である。なぜ信用のおけない人かといわれても困るが、ツーリズムによくいるあるタイプにはまっていて、私はそのタイプを信用しないからというほかはない。

立派な英語で色々話をし始め、自分自身が旅行好きであちこち行くことを話したまではよかったが、やっぱり毛唐との付き合いを自慢し始めた。常連の毛唐客(オランダ人)と昨年ボルネオ旅行をした話などをしきりに得意げに話していた。

今は白人客は見当たらないが常連の毛唐がいるということは毛唐もこのひっそりとしたビーチに結構来ているということになる。

毛唐にはタイという「聖地」があって特権も与えられているのだから、タイで満足しているべきではないだろうか。静かなところにまで出てこないでほしいとあらためて思った。

このおばさんにボルネオの宗教について聞いてみた。おばさんは得意げに、ムスリムとクリスチアンと「無宗教」がいるという。「無宗教」なのは「ビコーズ、彼らがオラン・アスリ(マレーシアの山岳先住諸民族)だからだ」と揚々と語った言ったあと、しまったという感じで口をつぐんでしまった。まずいことをいてしまったと思ったのだろう。気まずい沈黙が訪れた。

英語が上手なように見せたがる人は「ビコーズ」を連発することが多いように思う。コーの発音も大切であるようだ(東部出身のあるアメリカ人の「ビコーズ」ははっきりと「ビカーズ」に聞こえた。また、それを誇示しているようだった)。確かにアメリカ人はビコーズを頻繁に使うようだが、それは英語の問題というよりも、物事にはなんでも合理的な理由がなければならないという西洋思想の強迫観念から来ているのではないだろうか。

どうでもいいことだけど、私はどうしても「ビコーズ」が言葉として好きになれない。だから、「ビコーズ」を連発する人、揚々と「コー」を発音する人も好きになれない。私は、英語的には変かも知れないが、しゃべるときにはthatやwhenでごまかすか、日本語式に理由を先にもってきてandでつないだりして、ビコーズを避けることが多い。それはたんに「ビコーズ」が嫌いだからである。

おばさんが、「無宗教なのは彼らがオラン・アスリだから」と言ったあと、「しまった」という感じで沈黙してしまったのには理由があると私は思う。彼らにとって「宗教」とはアブラハム系の3宗教のことであって、それ以外のものは宗教ではなく、「啓典の民」(旧約聖書を共有する人たち)以外の者は「無宗教」なのだろう。この基準で言えば日本人も無宗教ということになる。そして、「無宗教」であるということは彼らにとっては「野蛮人」と同義なのだろう。

ここで連想するのはネパール人のこと。上位カーストのアーリア系ネパール人たちは、「われわれは同じ(優秀な)アーリア人だ」(「アーリアン」という言葉は欧米ではそれを口にするだけで問題になるだろうが、ネパールでは田舎の人も普通に使っていた)と言って、ドイツ人を中心とする白人たちと互いに媚びあって喜んでいるようであるが、それと同じように、白人にへつらうムスリムたちも「同じ唯一神を信仰している啓典の民だ」といって白人キリスト教徒たちと一緒に媚び合っているのかも知れない。このおばさんはスカーフをしているが、娘たちにはさせていない。

このおばさんはやたらインドネシアを馬鹿にしたようなことを言い、インドネシアは貧しい国で危険だが、タイは豊かだからさほど危なくないようなことを言っていた。まるで、白人の言うことをそのまま復唱しているだけのようだが、同じ系統の言葉を話すイスラム教徒の多い「格下」の国として、インドネシアを蔑視しているようにも見えた。しかし、物価から言えばインドネシアよりタイのほうが安いと思うし、インドネシアのほうがタイより貧しい国だとはいえないだろう。

豊かそうに見えるタイの方が物価が安いのは、ひどく貧しい人はタイの方が多く、そのような貧困層が身分的に固定しているからである。彼らの奴隷的低賃金と不安定で不明朗な社会的地位(特に少数民族と「合法」外国人就労者)が、金のあるタイ人の豊かさを支え、バカパッカーの貧乏ゴッコや白人ツーリストの横着三昧を支えているのである。

わたしはなんとなく、イスラム過激派が白人キリスト教徒に対してよりもむしろ、親欧米的なイスラム教徒に対して、よりいっそうの激しい怒りを向けることの理由が、少し理解できたような気がした。私の国際理解はこれでまた一段と進捗したといえよう。

途中で女中と旦那を拾って、運転が旦那に変わる。旦那の経営するコタバルの会社に用があるらしい。

コタバルに着いてなんとか解放してもらう。このおばさんたちに付き合うのは面倒くさい。インターネット屋に行ってブログに記事を書いたりする。自分で戻れるからもう大丈夫です、と何度行っても聞いてくれない。コタバルにいるから帰るときには電話をするようにと携帯番号を渡される。これでまた、時間を気にしなければならなくなった。

おばさんの常連客の毛唐たちもこんな付き合いを我慢しているのだろうか。それとも彼らはこういう付き合いが好きなのだろうか。彼らは私以上にあれこれ誘われて忙しい思いをしたはずである。

2時間ほどコタバルのネット屋で過ごす。言われたとおりに公衆電話から携帯にかけるが、ひどい雑音で使い物にならない。数日前まで泊まっていたAzamホテルのフロントに行き、顔見知りの女の子にフロントから電話を掛けてもらう。30分ほどAzamのロビーで待たされる。そのあとも買い物に付き合わされる。外はひどい嵐になるが、この人たちは雨の中を出歩くのが平気らしい。誰も傘を持っていない。スーパーの前で私に一緒に来るかと聞く。土砂降りのなかを数メートルも歩きたくないので断り、車の中で待つ。こういうつきあいの時間が一番ばかばかしい。車に乗って国道を走り大型スーパーに行くようなことは、どこの国でやっても同じである。

けっこうたいへんな一日だった。どこでもそうだが、現地人とだらだら付き合うのは避けたほうがいい。それは旅行の楽しみではない。どの国でも、そうまともな人間がひょこひょこと外国人と付き合いたがるわけがない。人種民族を問わず、やたら外国人に興味をもつというのは、おそらく人間の卑しい部類に属する感情なのではないだろうか。いずれにせよ、旅行者としては、こういうツーリズムの人間ではない地元の人たちとごく浅く付き合いながらいろいろ観察しているのがいちばんであろう。

19日。

さっそくもとのシャレーに戻る。こちらの方がまだ幾分静かだし、やはり海が目の前というのは魅力である。

週末が近づいて人が増えてきた。朝から泳いでいるのもいる。一昨日私も泳いだが、波が強くてちょっと怖かった。怖くて沖には行く気になれない。

イラマ・ビーチ Pantai Irama

炎天下をスリ・ムラウィからバチョクまで歩く。もっと短い距離かと思ったが、10キロぐらいあった。バチョクまではタクシーもない。観光地図に載っているイラマビーチを見ておきたかったからだ。もし良さそうだったらそっちに移ろうかと思っていた。

パンタイ・イラマはバチョクのバスターミナルのすぐそば。花やしきのようなノリの遊園地のようなものがある。回転木馬や空中をぐるぐる回るやつなどがあり悪趣味な絵がペンキで書き立てられている。全体にくすんだ懐かしい雰囲気。昔、田舎のデパートの屋上にはこういう感じの施設があったりした。ローカル客が楽しむ場所のようだ。長屋式のシャレーのようなものもあるにはあるが、「リゾート」という雰囲気ではない。

ムラウィに帰るタクシーは金曜のせいか10リンギなどとぼってくるので、バスを使うことにする。ムラウィ行きのバスはなかなか来ない。

コタバル行きのバスは多いので、コタバルに行くことにする。パスポートは持っているのでコタバルに泊まることにした。金曜なのでスリ・ムラウィも満室になり、コタバルのホテルのほうが静かになりそうだから、そのほうが快適かもしれない。

コタ・バル

Azamホテルは今日も明日も満室。

隣のスリヤホテルのデラックスルームにチェックイン。112リンギを100リンギに負けてもらうが、Azamの90リンギの部屋より古くて汚く狭い。デラックスといっても少しもデラックスではない。

フロントの姉ちゃんに、スリ・ムラウィ・シャレーの女主人に電話してくれるように頼む。2晩コタバルに滞在することにし、シャレーはそのままキープしておいてもらうように頼んでもらう。自分で話すと「なんで」ということになり、面倒なので、フロントの姉ちゃんに丸投げした。部屋代は2重に払うことになったが、そんなに大きな額でもない。

エアコン・ホットシャワー・テレビはある。コタバルのホテルはタイのテレビが映る。今日は金曜なのでiTVで日本のドラマの吹き替えをやっているはず。国仲涼子の出てくるやつ。なんとかチューニングしようとしたがなぜかiTVだけはほとんど映らない。ほかの局は何局も映っている。

20日。

通りを隔ててAzamホテルの真向かいにあるBunga Rayaというゲストハウスの45リンギの部屋に移る。エアコン、トイレ・シャワー付き。ただしコールドシャワー。

清潔だが、部屋の壁はベニヤのような薄い板。タイプからして毛唐がたくさん来そうな宿ではある。しかし、やや割高なせいかあれた雰囲気はない。兄ちゃんも感じがいい。もう少し安いところはファラン丸出しの毛唐だらけ。そういうところは番人もタイ人のようにアジア人ツーリストなど完全に無視していたりする。

来週末のためにAzamを予約しようとしたがすでに「フル」だといわれる。(ただ、ここは後で直前に行ったらなぜか部屋があいていた。ブッキングの仕方がへたくそなのだろうか。ホテルは普通オーバーブッキングすると聞いていたが。)

ちなみに、タイのゲストハウスで「フル」だといわれるときは、お門違いのところに入り込んだ可能性もある。白人専門とか、イスラエル人宿とか、オランダ人宿とか、いろいろあるようだ。田舎のフランス人宿に迷い込んだことがあるが、3月の一番暑いときでがらがらだったせいか泊めてくれた。売春婦あがりらしき女主人とファランハーフのつんとした娘がいてメニューはみんなフランス語というところだった。

21日。

Bunga Raya「別棟」は、私以外誰も泊まっていなかったようで、夜も静か。別棟(よく見ると別の名前の看板が出してある)にいくつも部屋があり、こぎれいなロビーがあるが、そこには"Please Silence"(まま)という張り紙がしてある。ホテル事情の悪いコタバルで土曜日の晩もがら空きというのは、客も自分にふさわしい宿を選ぶということだろうか。しかし、たまたま毛唐が押し寄せて来ていなかっただけかもしれない。

バチョク ムラウィ・ビーチ(スリ・ムラウィ・シャレー)

午前9時過ぎチェックアウト、ネット屋で少し暇をつぶしてから、バチョク行きのバスに乗る。バチョク行きのバスはバスターミナルの少し離れたところから出るので聞き回らないとわかりにくい。

バチョクからは23番のバスでムラウィビーチの近くまで。そこから一時間近く歩いてスリ・ムラウィ・シャレーに戻る。

部屋はそのままキープされてあった。女主人は相変わらず調子よく、食事に誘ったりするが、とてもこの人たちと飯を食う気にはならない。何を考えているのかわからない。マレー語でしゃべっているときの語調から推測すると、ずいぶん回りに威張りちらしている人という感じである。このあたりの大地主なのだろう。

ひどく蒸し暑い。

22日。

天候が優れないせいか、気分も優れない。

午後、茶屋へ行くと、小さな女の子2人がじいさんの指導でコーランの詠唱の練習をしていた。覗いてみると、アラビア語の原典をちゃんと読んでいた。こういう学習は本当に大切なものである。戦後の日本の教育では否定されてきたものだ。はっきり言ってテキストは何でも良い。

人間は「白紙」の状態では何も考えることが出来ない。実はモノを見ることすら出来ないのである。目から入った光をある像に統合するのは脳の働きである。先験的な制約や型というものがどれほどあるのかはわからないが、いずれにしても、われわれは最初に頭に叩き込んだ物事を土台にして、それを批判したり延長したりしながら、自分自身の思想を形成していくのだろう。

「批判」からモノを始めることは決して出来ない。最初になければならないのは「措定」というものである。何も持たない者は何も批判することが出来ない。

したがって、どんな本でもいいから子供のときに叩き込まれる「基本書」を持つことはそれだけで価値がある。子供のときに教育勅語を暗記させられるということは、当人の知性涵養のためにも、批判力養成のためにも、自由な思考力のためにも価値があり有効であったのである。戦前の知識人と戦後の知識人の創造性や思考の自由さを比較してみればわかるのではないだろうか。戦後の日本が「思想家」と呼べる人を持っただろうか(大江健三郎とか言わないでほしいところである)。自分は自由なつもりでも全く真似事しか出来なくなってしまったのが戦後の知識人ではないだろうか。最初から白紙のままで何でも好きなことを考えなさいといって放り出されるだけなので、批判力などとうてい身につけることが出来ない。最後に残った措定である自己の存在を否定して自殺するか、外界の存在を否定してとりあえず何でも反対の自虐的反体制に走るかしかない。「打ち砕くべきクビキ」すら持たせてもらえなかったのがわれわれである。

この問題はこういう憂国的な話ばかりでもない。もっと実用的なことがある。司法試験に超短期で合格したある人は、勉強を始める前に一ヶ月くらい前に東京の街を歩き回ることに専念するという方法を取ったという。勉強は一切せず、ひたすら都内を歩き回り電車の駅や街の風景やこまごまとしたものを頭に叩き込む。頭の中に具体的な地図を作り上げる。そして、あとはその一つ一つの要素に処理すべき概念や要件効果などをつないでいくのだという。

私は、これは記憶だけの問題ではないと思う。われわれの思考力や想像力の基礎には必ず何らかの地図があると思う。われわれは何らかの原初的な地図を土台にしてそれを取っ掛かりに雑多な表象を概念にまとめ上げて分類整理したり論理操作したりするのだろう。日常生活もそのようにして営まれている。そのようなプロセスにおいて地図の上にさらに地図が生じ、積み重なってより豊かな表象を喚起する。

幼い時に理屈抜きでコーランを暗唱した人には、コーランが強力な地図を提供する。

この地図は、要素が多いほうが多くの概念を関係させられるから有効だが、論理的に首尾一貫している必要は全くない。むしろ理屈が通っていないほうがいい。理路整然と首尾一貫したものは、容易に抽象的な概念に要約されてしまい、土台として役に立つ地図ではなくなってしまうからである。

つまり、矛盾だらけでよくわけのわからないものを理屈抜きで暗記して頭に叩き込んでおくことが、かえって豊かな想像力や思考力の土台を作るのだと思う。

この意味で、コーランや聖書や、意味のわからない漢籍などを子供に暗唱させることはますます有効である。これらの書物はたいていは面白くなく、わかりにくいものだからである。

23日。

夕、日が沈んでからまた泳ぐ。夜は珍しく星がよく見えた。

24日。

茶屋でコピを飲んでいるとき、毛唐が2人荷物を積んだ自転車で通っていった。地図を見ながらうろうろしている。この村で毛唐を見るのは初めてだ。どこまでも浸蝕し汚染しなければ気がすまないhivのような連中。毛唐がいるだけですべてが根底から汚染される。

この意見に同意しない人は、まずタイ王国(藁)に行って、素直な目でそこにいる毛唐たちの生態を観察してもらいたい。麻痺しない程度に。

夕方、大量のマレー人の学生グループが同じ長屋式シャレーに入って大騒ぎになる。毛唐が2、3人来るよりはましだが、静かな場所を求めてここにきている自分としては、もうここにいる意味はない。

金持ちの「プライベートビーチ」というのはいかにもイヤらしいように聞こえるが、そういうのを持ちたい気持ちになるのはわからなくもない。人がいないときはこの海岸をほとんど私一人で独占して、この自然を存分に満喫し、暗くなってから全裸で泳いだりもしていた。いったんそういう状況の味を覚えると、あとでほかの客が入ってきたときに自分の領分が侵されたように感じてしまうのだ。

夕方チェックアウトする、今日の分の宿代はもちろん戻らない。

予想通りだが、女主人がうるさい。このおばさんはどうでもいいことをしゃべりすぎる。私の勝手で出て行くだけで、マレー人の学生グループが入ったことに文句をつけているわけではないのに、盛んに言い訳をしようとし、それが終わると、あなたの自由意志だからなんたらかんたらとぐちゃぐちゃ言っている。最初から自由意志に決まっている。

多くの場合、後進国の人間は、英語を覚えると言い訳ばかりうまくなる。言い訳をするために英語を勉強しているようなものだ。その結果「ビコーズ」を連発する。言い訳をする必要もないときに散々言い訳を聞かされると逆に腹が立ってくる。このような言い訳英語の人たちは、英語を使って外国の知識を仕入れ、それを応用し、改良して、新しいものを作り、新しい価値を生み出そうというような考えからはほど遠い。

女主人の娘が、車でバチョクのバスターミナルまで送ってくれる。

バスの窓から看護学生のグループが見えた。白いズボンとシャツの上に、マレー人は白いトゥドゥンだが、インド系の女の子は世界共通の看護婦の帽子をしていた。

コタバルに着き、念のためにAzamホテルに部屋があるかどうか聞いてみると、窓なしの部屋だけがあった。先週聞いたときは予約が入ってフルだといっていた金曜日もあいていた。

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2006年5月12日 (金)

「アジア」とは

「そんなことを言っているとアジアの中で孤立しますよ」とか「アジアの人々」とか「アジアのかわいそうな子供たち」(ちょっと古いけど)とか、「アジアの人たちの気持ちを考えて」「アジアの人たちは日本がやったことを忘れていない」などとしばしば語られる。

こういうときの「アジア」とは何か。

私は今、マレーシアのコタバルという町にいる。この町は、日本軍が英領マレーに「侵攻」したときに最初に上陸したところだという。

日本軍はこの町から破竹の進軍を始めて、マレー半島を南下し、最後はシンガポールを陥落させて、シナ人住民を「大虐殺」したというのが、日本の学校で教えている「物語」である。

日本軍が上陸したのだから、コタバルの町でも「大虐殺」をし、女を強姦しまくったに違いない、と反射的に考える、というのが私自身が学校で学んだ発想法である。

私が「レイプ」ということがらについて学んだのは、このような「歴史教育」においてだった。中学生くらいのときに「南京大虐殺」について教わった。たいへんドキドキし、怒りと欲望とが交差しながら同時に突き上げてくるようなショッキングな経験だった。

私はそういう因縁のある町を訪れるときはどうしても構えてしまう。

しかしながら、現実にコタバルに来てみると、ここの人々は日本人の私にとっても親切にしてくれる。もちろん、日本人と知りながらである。日本人を恨んでいる様子はまったく見えない。ここは本当に、隣のタイなんかよりずっと親日的な雰囲気があると思う。少なくともマレー人はそんな感じである。

どうやら、日本軍はコタバルでは「大虐殺」や強姦はしなかったようである。

私の見るところ、マレー人の娘なんかに変な手出しをしたら、即刻親兄弟に殺されてしまいそうである。日本軍がもしここで強姦なんかしていたら、恨みとかハンとかじゃすまなかっただろう。

なぜ私がこんなに「強姦」にこだわるかというと、私は子供のころから学校や「朝日新聞」や「世界」などで、日本軍=銃剣で強姦、というイメージを叩き込まれて、長い間それを信じていたという事実があるからである。

私にとって「アジア」とは、長い間「日本兵、銃剣、強姦、慰安婦狩り、泣き叫ぶ無辜の民、犯した娘の写真を撮って喜ぶ日本兵」たちの修羅場のことだった。中学生くらいからそんなことを教え込まれたので、それがトラウマのようになり、性について屈折したイメージを持つようになってしまったかもしれない。

私は「アジアの女性たちを銃剣で狩り出し強姦した」日本兵に強い怒りを抱き、それを断罪する発言をしながらも、ひそかにそのような性のあり方を知り当時は誰にもいえない強い興奮を覚えた。

わかりやすく言ってしまえば、もし性欲を完全に解放してもいいのなら、私としてはぜひとも日本兵の軍服を着て銃剣を突きつけて処女をレイプするようなプレーをしてみたい、そこまでするのが本能に忠実な人間の姿に違いない、という妄想を抱くようになった、と思っていただいてかまわない。

私と同じ教育を受けたものがみんな私のようになってしまったわけではないが、そういうトラウマを抱えるようになったものもなかにはいると思われる。

私は「三光作戦」や「百人斬り」なんてのを信じていた。強い罪の意識と同時に、ひそかな興奮を覚え、誰にも言えない欲望を抱えるようになり、その欲望がまた「罪」を再確認させ、自分が日本人であることを恥じ、「日本」および「天皇」にたいする呪詛の言葉を当たりかまわず投げつけるようなことをもした。

私は、日本は一日も早く滅んだほうがいい国家なのだと10代のころ本気で思っていた。

で、「アジア」とは何か。

日本人が「アジアの人々」とか「アジアで孤立しないために」などというときの「アジア」は、「東北アジア(中国、朝鮮)と東南アジア」だが、その東南アジアからは「インド」と「イスラム」の要素が除かれるようである。

要するに、和辻哲郎の「風土」の分類の「モンスーン」の範囲に入るような文明と言うことになるのだろう。「イスラム」は砂漠の文明だからここでの「アジア」ではない、「インド」もアーリア人の文明は牧場か砂漠かの文明に属し、日本の属する「アジア」ではないということになる。

このような枠組みを暗黙の了解にして「アジア」を語る人がいまでも多いのではないだろうか。

和辻の「風土」は本当はこのような客観的存在の分類ではなく、「人間学」的了解であって、結局は、彼がその風土においてどのように自己を了解しうるかという形で循環する自己認識の形式のようであるが、そうだとしても、否そうであるならなおいっそう、われわれがここで「アジア」として概括したものはおよそ和辻が「モンスーン」として了解するものに重なるものだと考える。

ちなみに榊原英資とかのアジア主義の「アジア」からイスラムやインドの要素が外されるのも、その「アジア」が実は彼自身の「人間学」的な自己了解の形式に過ぎないからである。

これに対して、大川周明という人の「アジア」観はずいぶん違うようである。大川周明といえば、学校で習った知識では、戦前の右翼思想家で「アジア主義者」、北一輝、頭山満、井上日召などと並んで(受験的に並んで)名前が出てきたような「悪いやつ」というイメージしかなかった。

大川周明は最初インド哲学を専攻し、その後、イスラム教を熱心に研究するようになり、満鉄の研究機関や回教圏研究所に関与し、「意識と本質」の大学者・井筒俊彦のイスラム研究を支援した。井筒俊彦は日本でより海外で評価の高い大学者で、すごーく(普通の人の1000倍くらい)頭の良い人だが、大川と関与したせいか戦後の日本での評価はいまいちぱっとしないようである。大川が戦前に集めた大量のイスラム研究の資料はGHQに接収されていまでも行方がわからなくなっているという。戦前までの日本のイスラム研究の業績は、学者の頭の中に残ったもの以外全部アメリカに乗っ取られてしまったということになる。

大東亜共栄圏の建設による白人支配からのアジア解放を夢見たアジア主義者の大川周明が、これほど熱心にイスラム教を研究したのはただのムスリム対策のためだろうか?

そうではなく、むしろ、彼はイスラム教やイスラム文化の中に、西洋白人文明に対抗しうる「アジア」を見出したのではないだろうか。この辺は、大川周明の本を一冊も読んでいない私としては単なる憶測である。

井筒俊彦の「意識と本質」は、存在の深層に入っていく修法(瞑想法)についてもかなり具体的に論じている本であるが、イスラム教やその神秘思想にも多くのページが割かれていて、その副題は「精神的東洋を索めて」である。

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2006年5月 7日 (日)

コタ・バル Kota Bharu クランタン州 マレーシア

バスステーション付近に安宿が多い。去年泊まった宿は見つからなかった。

バスステーションに近い、Azam Hotelというところにはいる。一泊90リンギ。エアコンホットシャワーつき。

Azam Hotelはフロントに若いムスリムの女の子が何人もいて、ニコニコ愛想がいい。

しかし、こういうところに限って夜になるとブスっとしたオヤジが番をするものである。昼間の気持ちで帰ってくるとがっくりするが、しかしそれはやむをえない。

ところがこのホテルはかなり遅くまで若い女の子が番をしていた。

とはいっても、タイの田舎のホテルのように、フロントの仕事をしている女の子を自分の部屋に連れ込んでどうこうするようなことができないことは言うまでもない。そんな習慣の方がどうにかしている。

ホテルの前でさっそく毛唐見る。久しぶりに見る毛唐。スリ・トゥージューで10日間毛唐から「自由」だった。

外から毛唐ババアが人をにらみつけてくる。

やっぱり大東亜戦争は必要だった。

その近くの安宿を覗くと毛唐がロビーにたむろしている。

Azam Hotelに並行するとおりにはネット屋が何軒かある。日本語がかけないところが多い。コタバルでも、人はわりと親切なので、頼むとできる人はダウンロードしてくれることもある。よくわからないが機械によって失敗することもある。

ネット屋にはタイから来た白人も来る。言うまでもなく最高に無作法で、サルマタのままのような格好で来る白人男もいる。甲高いアメリカ英語を建物いっぱいに響かせていきなりHow muchから始める白人女。

コタバルはクランタン州だが、タイに近い都会なので、風紀も悪くなる。街角ではポルノの密売人が白昼堂々荷を解いて商談している。

Azamの近くにTourist Kioskという小屋があり、Backpackers Room in the Hotelsというのを紹介している。25MRからということ。こういうのはタイツーリズムの延長という感じがする。タイ式の汚い毛唐をクランタン州にも導入したいのだろうか。

去年安宿に泊まったときは白人など見なかったが、ここも増えているようである。

夜、セブンイレブンでアジア女連れの白人を見た。クランタン州でこんなのを見るのは初めてだ。

売春宿が禁止されているところで、売春婦を堂々と連れ歩くことが認められるのは奇異である。

コタバルのテータリクは値段の割りに量は少なく味は悪い。コタバルのレストランはしょぼい。スリ・トゥージュー・リゾートのほうが味も値段もよかった。

コタバルにはリクシャ(べチャBeca)もある。

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パンタイ・チャハヤ・ブラン(ビーチ) Pantai Cahaya Bulan(P.C.B beach), スム・アピSemut Api

コタバルからパンタイ・チャハヤ・ブラン(スム・アピ)への行き方。

コタバルのSuria HotelやAzam Hotelの方から見て、長距離バスステーションを越え、その向こうにある真新しいマーケット(岡山県カサオカ市とコタバルが共同で立てたちいさな『時計塔』のある公園のようなところ)の中を通り抜け、さらにBuluh Kubuを超えたところにある小さなローカルバスターミナルで10番のバスに乗る。

バスの運転手にパンタイ・チャハヤ・ブランと言っておき、ビーチの前まできたらブザーを押す。ブザーを押さないと戻ってきてしまう。4,50分で着く。

平日のせいか、閑散としているが、リゾート(シャレーが並ぶ)のほかにゲストハウスも何軒かある。リゾートは海のすぐ近く。スリ・トゥージュー・ビーチより広々とした海岸ではある。今日は人が少ないが、スリ・トゥージューよりはメジャーな雰囲気が漂っている感じ。こちらの方が水は澄んできれい。砂が多い浜で、あたりは砂だらけ。

クランタン州で最も古いビーチリゾートだと書いてある。

海もきれいだし、椰子の木も茂っていて、環境はとてもよさそうなところ。しかし、なぜか心をそそられない。俗っぽい感じがする(ビーチはそもそも俗っぽいが)。

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2006年5月 6日 (土)

スリ・トゥージュー・ビーチ クランタン州 マレーシア Pantai Seri Tujuh, Kelantan

一日目。

マレー鉄道トゥンパッTumpatの駅からタクシー5リンギで、スリ・トゥージュー・ビーチ(Pantai Seri Tujuh)の公営リゾートに着く。付近には個人経営の宿もある。

「スリ・トゥージュー・ビーチ・リゾート」は立派な門のある公営リゾート。客はほとんどマレーシア人でマレー人が多いように見える。平日は客は少なく閑散としている。

公営リゾートのエアコン付シャレーに入る。定価一泊75リンギのところを平日ということで65リンギに負けてもらう。

ビーチといっても日本の太平洋岸の海水浴場のような遠浅の浜があるわけでない。

海の生臭い匂いがするのは、海だから仕方がない。

海に近いシャレーに入ったので、歩いて5分で浜に出られる。海岸に出てみると思ったより遠浅だった。砂もある(それほど細かくはない)。

平日昼間のビーチには人っ子一人いない!これはすばらしいこと。

せっかくなのでパンツ一丁になり、少し泳いでみる。水は生ぬるく、濁っているが、汚いという感じはしない。油も浮いていない。

どこまで歩いても、水かさが深くならない。海水はとても辛かった。

ビーチに毛唐がいないということは本当に良いことである。このビーチには毛唐が一人もいない。

白人はなぜか、特にビーチに来ると、その人種主義的本性をあらわにする。クロヌラビーチの事件に象徴的なように、「白人だけの場所」あるいは「売春婦と従僕以外は白人のみ」という環境を作りたがる。「ビーチは白人のもの」という意識が、植民地主義時代以来の彼らの文化的伝統になっているようだ。

ここには今のところ毛唐も売春婦もいない(売春婦がいないのは当然だが)。それにしてもここは暑い。

ここからいちばん近いタイ国境は、Pengkalan Kubor(プンカラン・クボール、プカラ・コボー)で、表通りから43番のバス。

コタバル行きのバスは27番。(しかし、バスは少ないし、飛ばしていて止まってくれないこともある。)

タイ国境はここから3キロしか離れていないという。

夜の砂浜は明かりひとつなく、人っ子一人いない。この海は日本のほうに続いている、などと感傷に浸ることもできる。

深夜1時近くリゾート内のまだ開いているレストランで、「フマキラー」はないかと聞く。「モスキートーコイル」とかいうより、フマキラーとかバイゴンとか商品名を言うほうが通りやすい。2軒目の人が、すぐにバイクでどこかに買いにやらせてくれた。そして実費しか取らなかった。

蚊はあまりいないが、蟻は多い。

二日目。

未明4時ごろ、リラックスしすぎたのか、変な夢を見て怪我をした。

俺の部屋の中を白い車が通っていく。変だなと思ってみると、部屋の真ん中に隣の部屋の奴の車の通り道ができている。隣との間の壁に車の出入り口があるのに気づかなかった。

出入り口はちょうど車が通れるくらいの大きさで、白いペンキを塗ったコンクリートともプラスチックともつかない枠があり、枠には溝がついていて上から鉄扉でも下ろせるような形になっている。

その出入り口から隣の部屋のほうに自分の書類などがはみ出していたのであわてて回収する。

車の男は2人で、ひとりはまだ子供のようで、大きいほうの若い男はニヤけた奴だった。

そこで、そんな出入り口は閉めるようにと、大きいほうの男を捕まえて説教したが、その若造が生意気に反抗するので、両手を捕まえて思い切りケリを入れてやった。

気がつくとベッドの横のコンクリートの壁に本当に思い切りケリを入れていて、泣きたくなるくらいに痛い。右足のつま先にケガ。親指の爪が黒くなってぐらぐらしている。足の指三本の甲から出血。指の付け根の関節も痛めていて、痛くて歩けない。

ケリを入れたりする前には、それが現実なのか夢なのかよく考えなければいけないと思った。現実ならいいが、夢の中だとあぶない。ひどい怪我をするかもしれない。バンドエイドを持っていてよかった。

夢を見ているときは、脳が活発に働いている一方で身体は休んでいると聞いていたが、身体もちゃんと夢のとおりに動くことがあるようだ。

私は生来温和な性格でケンカなどしたこともないのに、眠っていながらケリが入れられるとは思わなかった。

このあと一週間足を引きずることになる。今も痛い。

リゾートの滞在を延長するが明日は予約が詰まっているという。週末は一週間前から予約が入っているようだ。足が痛くてまともに歩けないが、どこかに移らなければならない。

このリゾートに予約なしに来るなら、平日のみということになる。

大通り沿いのリゾートの門のすぐ隣に宿を見つけ、明日入る約束をする。口約束。「シャレー」といっているが、タイなどにもよくあるような長屋式のコンクリートのゲストハウス。

プンカラン・クボール(Pengkalan Kubor)からタクバイ(Tak Bai)

せっかく近くに国境があるのでちょっと越えてみることにした。国境を越えてもマレー人の町だろうし、国境の町というのはどこでもそれなりの魅力がある。みんなのそわそわした気持ち、期待感、文化の隔絶間などが国境の町の独特の雰囲気を作るのだろう。

大通りからタクシーでプンカラン・クボールPengkalan Kubor(プカラ・コボーみたいに発音している)のイミグレのところまで行く。カメラを持ってくるのを忘れたので、引き返し、もう一度で直す。片道5リンギ(4リンギまでは負けてくれる)。

タイ側の町はタクバイTak Bai

プンカラン・クボールのイミグレはマレー語表示のみ。簡単に手続きを済ませ、はしけで川(河口)を渡る。はしけは1リンギ。

タイ側に上陸するとすぐに市場がある。閉鎖されたイミグレはなく、このまま入国手続きをしないで国内に入っていくことも物理的には可能(バスなどで必ず警察のチェックがあるだろうが)。

市場を通り抜けて、少しはなれたところにあるイミグレオフィスまで出向く。このときはまだ、この町の名前を知らなかったので、タイのイミグレ役人に聞いた。

タクバイのイミグレはごく簡素なものだが(ピブーン・マンサハンとかと同じような)、顔を写すカメラと光で指紋を読み取る機械がおいてある。

多くのマレー系の人々(国籍はわからない)が行列していて、その機械に指を押し付けられている人もいる。全員ではない。タイだからどうせ「見た目」で決めているのだろう。タイ側では待たされた。

しかし、全体としてタイにしては控えめなボーダーだと思った。タイ国旗もそれほど目立たない。

メーサイのように「タイ王国」の権威を全面に押し出した感じではない。この地域でそんなことをしたら本当に多数派住民の反感を買うだろうし、こちらのほうが豊かな人が多いからかもしれない。というより、メーサイが背後に、より深刻な矛盾、より苛酷な抑圧を抱えているからこそ、ああいう派手な演出をして、毎日国歌を流して忙しく働いている人々を立ち止まらさせたりしなければならないのだろう。

この町の会話はマレー語が基本。

タクバイの市場のごちゃごちゃした雰囲気はタイそのものだが、マレー語の表示が目立つ。アラビア語も。

国境を越えただけで、急に、貧しい国に飛び込んだという感じがする。

レストランでは、「コピ・オ」は何とか通じるが、「テー・タリク」は通じない。「テー」は何とか通じるが発音条件がより厳しくなるようだ。マレーシアのような泡立たせたテータリクはなく、「テー・スースー」になる。「テー・スースー」は通じた。

言葉が通じなくても、マレー人の女の子は、タイ人のように「ハアー?」とはやらず、しかめっつらもせず、ニコニコしている。

タクバイからいちばん近い大きな町はナラティワトで、30キロくらい離れている。地図で見るとスンガイ・コロクも同じくらいの距離に見えるが、町の人に聞いても役人に聞いてもナラティワトが近いという。

一時間ちょっとぶらぶらして、飯を食い、コピやテーを飲んだりしてから帰る。帰るとき、ムスリム女性のガイドを連れた毛唐女が一人上陸してくるのにかち合った。

タイ出国のときのイミグレ役人は気持ちの悪い典型的なタイ男だった。恫喝するような口調でWhere you stay?と聞く。その後も、ネチッとした感じで何度も私の名前を読み、「ジャパン、ジャパン、、、」とネチネチいつまでも言っていた。

あの変な屈託に満ち満ちたタイ土人のネチネチ感は、タイを経験した(タイヲタ以外の)人ならピンと来るのではないかと思う。

タイに悪いことはいろいろあるが、タイにどれだけ耐えられるかを最終的に決めるのは、あの粘液感にどこまで耐えられる人間かということではないかと私は思う。

タイに滞在していてマレーシアに出てデイリターンでもするものと思っているようだった。「スリ・トゥー・ジューだ」と答えたが、意味が理解できないか、その名前も知らないかのどちらかのようだった。マレーシアに滞在して、タイにデイリターンというのも楽しいものだと思った。

マレーシアのイミグレは実務的で、何ヶ月滞在するかと聞くので、1ヶ月くらいと答えると、何ヶ月欲しいのかと聞きなおされたので、3ヶ月にしてもらった。エンバークメントカードは機械で作ってくれる。

パスポートのどこにスタンプを押して欲しいのかも聞いてくれた(これはよく国境を越える人にとっては結構重要な問題)。

タイ役人は、他の国が整然とスタンプを押してスペースを節約してくれているにもかかわらず、残り少ないページのど真ん中にバチっと押したりする(そうすることで「タイ王国」の威光を表現しているつもりなのか、単に頭が回らないだけなのかどうかはわからないが)。

タイは、罰当たりにも、日本国のスタンプにかぶさるように汚い青いスタンプを押してくることさえある。そのくせ、タイのスタンプが重なり合うことは異常に嫌う。

マレーシアはマレーシアスタンプが重なり合うことをいとわず、スペースを節約するような押し方をしてくれる。インドネシアは入国印のほぼ真上に重ねて出国印を押してくれた。タイ人の屈折した感情がスタンプの押し方にも表れているように見える。

あとでタイのイミグレが押したスタンプを見ると、入国期日の年度が2005になっている。滞在期限の年度は2006。よく見ると、2005の方は手書きで6に訂正している。出国のスタンプも2005を押した上で手書きで訂正している。

タクシー5リンギでスリ・トゥージューに帰る(4リンギでも可)。

タクバイの市場で完熟マンゴを4個買った。たった1.5リンギ(15バーツ)。「シップハー・バーツ」(15バーツ)というタイ語はまったくわからないフリをした。

「サットゥ・リンギ・リマプロー・セン」というのを聞き取ろうとしたが、クアラルンプールなどとは発音が違うようで、ちょっと難しかった。

彼らもマレー人なので、私がタイ語がわからなくても嫌な顔はしない。

マンゴはシャレーに持ち帰って、手で皮をむいてがつがつと食べる。エアコンに結び付けてちょっと冷やすとよい。よいマンゴだった。

タクバイの市場では、ライフルを抱えた兵隊がパトロールしていた。

コタバルからいちばん近いタイへの入り口はこのプンカラン・クボールということになる。タクバイからいちばん近い都市はナラティワト。ナラティワトから近いのはパッタニ。パッタニに近いのはヤラー。ここまでは健全な地域である(昨年一月ごろ)。ハジャイまで行くと売春婦連れの毛唐もいる。それでも北タイよりはずっとまともな地域。

夕方、ビーチに出る。地元の子供たちや家族連れが水浴びをしている。子供たちの歓声も波の音に消されて静か。本当に、海を見て立っているだけで気持ちがよい。海は嫌いだと思っていたが、必ずしもそうではなかった。

毛唐のいないビーチは、静かな「浜」に戻る。

KLCCのコーヒーショップなら、毛唐が「多いか少ないか」で雰囲気が変わるが、ビーチの場合には、「いるかいないか」、毛唐が存在するかしないかによって、その性質が根本から変わってしまう。

明日(週末)は釣り客がたくさん来るという。今日も中国系の女子学生らしいグループを見た。中国系の客がたくさん来ると、それはそれですごいことになるのかもしれない。

夜は7時過ぎまで明るいのに、朝は7時ちかくまで暗い。これはマレーシア時間のせいだろう。マレー半島だけから見ると、時間がちょっと早すぎる。マレー半島だけなら、タイより1時間早くする意味はない。チベットでは夜9時ごろまで明るかった記憶がある。北京時間を使わされていた。

「バカンス」という言葉にふさわしい、本当に何もしない生活。ただ、自分で痛めた足の養生に努めなければならない。

人も少ないリゾートでのんびりとすごしていると、ふだん表に出ないイメージや感情が湧き出してくることもある。ただ、精神分析が言うような性的なものはまったく表に出ない。

湾(河口)に面したリゾート内のオープンレストランで食事をしていると猫がたくさん寄ってくる。

チキンの骨を投げてやる。するといつも大きくて強い猫が取ってしまう。

弱い猫や若い猫はテーブルから落ちるパンくずにもなかなかありつけない。

少しはなれたところにいたやせた小さな猫のまえに、肉や軟骨のついた大き目のチキンの関節を投げてやった。その小さな猫は、その関節としばらく格闘しているが、不器用なのか力がないのか、食べきることができない。猫のくせにと思うほど、もどかしいほど力がない。

ちょっと目を離したあと、もう一度猫の様子を見てみると、変なことになっていた。

その小さな猫が自分の顔を前足でしきりに拭いている。猫が顔を拭くことはよくあるが、普通の拭き方ではない。しきりに拭き続けてやめようとしない。ふらふらとさまようように歩きながら、一心に顔を拭きつづけている。

目を移すと、骨を投げてやったところには大きな猫が鎮座して、私が小猫のために投げた関節を悠々と咀嚼している。

この大猫が小猫を襲って骨を横取りしたのだ。

私はカチンと来たので、この横着な大猫の無駄に太った横腹に、渾身のケリを入れてやろうかと本気で思ったが、周りのマレー人の目があるのでやめた。狂った日本人が猫を虐待しているとしか見えないだろうから。

やせた小猫はまだつらそうに顔をなで続けている。この痛みはどれだけ続くのだろう。猫の短い一生から見て、その長さはどれだけのものか。小猫はしばらくしてどこかに消えてしまった。

私が下手な情け心をおこして骨を投げてやったばかりに、この小猫は災難にあった。飢えよりもつらい痛みを受けることになった。

しかし、こういうことはいつものことである。これがこの世の中のルールなのだろう。

結局はみんな死ぬのだが、そこに至るまでの境涯はそれぞれに異なる。ある者はいい思いを見る。強いやつはますます強く、威を張るだろう。弱いやつは持っているものも奪われ、さらに痛い思いをさせられて追いやられていく。

強い者はなぜ強くなったのか。強い素質をもち、そのような位置に生まれたからでもあろう。その帰趨を決めるのは、結局は「偶然」としか言えないものである。

三日目。

今日は移らなければならない。足はますます痛く、まともに歩けない。11時ごろ、きのう予約した門の隣の長屋式の「シャレー」に移る。60リンギ。怪我した足を休ませるため、なるべく出歩かないように決心。

通りをはさんでこの宿の向かいにある何でも屋で、パンやマンゴを買う(この「何でも屋」の人たちには本当に親切にしてもらった)。「ブミプトラ」パンというパサパサしたサンドイッチ用のコッペパンがかえってうまかったりする。何でも屋のおばさんは申し訳なくなるほど愛想がいい。外国人ツーリストがめったに来ないからだろうが。

こちらの宿は海から遠くしょぼい感じがするせいか、週末の今日も満室にならない。狭い窓からは一応「湾」(川)がすこし見える。

宿の名前はSaujana Gulf View Resortという大げさなもの。設備は一応そろっているが、公営リゾートのシャレーのような広々さはない。

スリ・トゥージュー・ビーチには、全体として中国色がまったくない。漢字を見ない。インド色もない。純粋にマレー系のリゾートのようだ。

四日目。

出歩かないようにし、足の養生に努める。通りに面したローカルな茶店はコピ・オ50銭。味も悪くない(変化はある)。純粋マレー系の店だが、カレーの味はちゃんとしていた。

向かいの「湾」では網で漁をしている人もいる。

公営の「スリ・トゥージュー・リゾート」のレセプションに行き、前と同じシャレーを予約する。月曜日からしかない。シャレーにはそれぞれマレー語の名前がついている。自分が泊まったシャレーの名前はクネラKenerat。

五日目。

Saujana Gulf Viewの方の宿の主人はケチな感じのマレー人で、最初に来たときには、何日泊まるのかあらかじめ聞いて前払いを要求した。それは断ったが、きのう部屋代を払ったときもあと何日泊まるかと聞いてきた。公営リゾートのほうがあいたらそっちに戻るからというと「あっちはフルだ」と断定する。

六日目。

Saujanaを出て、予約しておいた公営リゾートの前と同じシャレー「Kenerat」に戻る。料金も前と同じで65リンギ。

この「スリ・トゥージュー・ビーチ・リゾート」は、Tumpat Local Councilとかいう地方公共団体らしいところが運営している。

七日目。

エアコンを入れなくても、朝はかなり冷え込む。タオルケット一枚しかない。

足の養生のため滞在をあと3泊延長して予約する。まだ少し引きずる。

リゾートのレセプションのおばさん(お姉さん)も親切で、車で通りかかったときに乗せてくれた。

表通りの何でも屋のおばさんは、よいマンゴを選んでくれたり、新しいパンを選んでくれたりする。

この辺の人は本当によい人が多いように感じる。内陸線(マレー鉄道東海岸線)沿いの人よりも穏やかな感じ。漢字が見当たらないことと平行している。内陸線は漢字が多かった。

リゾートはまたのどかな平日に戻ったが、来週末はもう予約で埋まっている。

夕方3時ごろから再びタクバイTak Baiに向かう。

表通りの何でも屋の前でバスを待つが、バスもタクシーも来ない。何でも屋の主人が見かねてポンコツのバイクでプンカラン・クボールPengkalan Kuborのイミグレの前まで送ってくれた。本当に親切にしてくれる。

手続きを済ませタイに入り、タクバイのジェティの前でバイタク(バイクタクシー)を拾って「タクバイ」の町に言ってみる。どんなところか見ておこうと思っただけ。ボーダーのマーケットのあるところは本来のタクバイの町ではない。

バイタクに「ここがタクバイだ」というところに連れて行ってもらったが、商店が2,3軒あるくらいで何もないところだった。その近くのモスクの写真だけ撮って帰る。結構長い道のりを片道2リンギ。

このマレー人のバイタク運転手に、最初にマレー語で話しかけたらその後ずっとマレー語で話されて困ってしまった。

タクバイのレストランのニコニコしたムスリムの姉ちゃんに「テリマカシー」というと「サマ・サマ」と答える。

スマトラのプカンバルのレストランの姉ちゃんも同じように「サマ・サマ」と答えてくれたのを思い出した。

マレー語・インドネシア語はとても国際的な言葉だと思う。

ただし、タクバイでは「パナス」(ホット)というときの最後のSをほとんど発音しない。これはタイ式の発音なのかもしれない。スマトラでは「パナース」という感じではっきり発音していた。マレーシアでも最後のSは発音すると思う。

タイのスタンプは本日も2005年のまま。

レストランで、私がマレー語で注文していたら、タイ語を話している下品な感じの若者グループの男たちが、「KL(クアラ・ルンプール)だKLだ」と騒ぎ始めた。

その中の一人が私に向かっていきなり、「どこから来た」と英語で聞いてきたので、期待に応えてKLからだと答える。さらに、KLのどこだと聞くので、でまかせに「ジャラン・スルタン」だというと、中国人かと聞く。それはさすがに勘弁してほしいので、日本人だというと、今度は東京かと聞く。

そこで、KLに住んでいる日本人だとウソをついておいた。ここではなんとなく、東京よりKLのほうが格上なように感じたので、ミエを張ってみただけ。

するとその汚らしい感じのタイ男はすかさず、「俺の友達はシンガポールに住んでいる」とか、KLよりさらに格上の町の名前を出してきた。

これはいかにもタイ人らしい反応だと思った。KLの人間はシンガポールに対して複雑な感情を持っているといわれる。そこをついたつもりなのかもしれない。

粘液を固めて作った人間の表面に汚れがついているような、実にタイ人らしい汚らしい男だった。

タクバイのジェティの前にはミニバスもあり、ナラティワトまで4リンギ。

スリ・トゥージュー・リゾートは官製リゾートで、本当に酒は置いてないようである。酒を飲んでいる人を見たことがない。敷地内に立派なイスラム礼拝所がある。

八日目。

昼から雨。雨が多くなってきた。

平日にもかかわらず多くの人がリゾートに来ている。中国語でしゃべっているグループも。

夜、激しい腹痛と下痢。きのうタクバイであれこれ食べすぎたのがよくなかったのか。

ゴキブリを追いかけていたら、横着にも俺のバックパックの中に隠れた。しばらくバックパックをかき回していたら出てきたので、さらに追いかけ、バスルームの足拭きでしとめた。

腹痛と下痢は、クラヴィットとイモジウムを飲んだら1時間ぐらいでおさまった。痛みがひどいときにイモジウムで下痢を止めることがよいのかどうかは問題。

夜になるとリゾート内をひっきりなしにバイクが走り回るようになった。人が増えている。最初は人っ子一人いなかった海岸の方でも、深夜までバイクらしい明かりが動いている。

足は完治には遠く、びっ子を引くような歩き方になる。

九日目。

なかなか本当に静かな穴場というところは少ない。

しかし、このリゾートで、毛唐は一人も見なかった。

深夜に重々しい音の雷雨になる。

十日目。

11時ごろチェックアウト。表通りに出ていつものローカル食堂で食事。

何でも屋のおじさんがお別れに冷えたペプシを一本くれた。この店の人たちは本当に親切だ。

バスは来ないので、タクシーを拾いトゥンパッTumpatのバス停まで行く。4リンギ。

トゥンパッのバス停に来ていたバスに乗り、コタバルへ。2.3リンギ。結構時間がかかる。

タクシーでコタバルまで行くと20リンギだという。コタバルまでは行かないというタクシーもある。

午後1時過ぎ、バスがコタバルのバスステーションに着く。コタバルの町は整然としている。町に見覚えがないが(一年以上前に一度来たことがある)、バスステーション付近はなんとなく記憶にある。

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オランダは日本の敗戦後、インドネシアの再植民地化をはかるが、「国際世論の非難」もあって失敗する。

なぜそのような「国際世論の非難」が起こったのか。それまでは平然と、正当なこととしてやっていたことを、もう一度やり始めようとしただけである。それにオランダは「戦勝国」の一員である。

日本が「白人支配からのアジアの解放」を掲げて戦争をし、その理念に一定の説得力があり、それに同調する人々がインドネシアにも多かったからに他ならない。

このような主張に対して、日本は戦争を始める前から「アジアの解放」を掲げていたわけではないと反論する人が多い。

しかし、戦争を始める前からその理念を掲げる必要がどうしてあるのだろうか。日本は米英の経済封鎖によって、息の根を止められ、米英の期待に応える形で戦争に追いやられていっただけである。そのような経済封鎖は現在北朝鮮に対しても行われていないものである。

戦争は戦争である。革命ではない。問題は、現に行わざるを得ない戦争にどういう意義を見出していくかである。また、日本は、戦前から人種差別反対を国際社会に訴えていたが、それはまったく受け入れられなかった。

大東亜戦争の理念は、アメリカによって追いやられた対米英戦争・対白人戦争の実践の中で、実践的に学び取られ、明確に自覚するに至ったものである。

開戦以前にその理念を掲げていなかったといって大東亜戦争の意義を否定するのはまったく子供じみた観念論でしかない。

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2005年9月20日 (火)

2005年1月2月マレーシア、インド(デリー)

2005年
【コタバル】
1月29日。スンガイコロクのワレンタインValentineホテルをチェックアウト。モトサイでイミグレに行き、難なく国境通過。マレーシアに入り、タクシー220バーツでコタバルへ。マレーシア時間1時半ごろコタバルに着く。タクシー停留所の前のAl-Rana Hotelという汚い宿に入る。エアコン付水シャワーの狭い部屋で35リンギ(350バーツほど)。宿の人の感じは良い。受付の色白の青年はカリマンタンのサバ州の少数民族出身だといっていた。英語もわかりやすい。香港銀行のATMが使えた。
【クアラトレンガヌ】
30日。Al-Ranaをチェックアウト。11時過ぎのバスでクアラトレンガヌに向かう。2時ごろ、クアラトレンガヌ着。ホテルをいくつかあたるがバストイレ付はどこにもない。結局バス停前のSri Tanjungというホテルのシャワーだけ付いたエアコンの部屋に入る。35リンギ。海沿いの長距離バスステーションの前。
【クアンタン】
31日。スリタンジュンをチェックアウト。12時半のバスでクアンタンにむかう。バスは遅れて出る。午後5時ごろクアンタンの長距離バスターミナルに着く。そこから歩いて10分ぐらいのメイバンクに近いRayaホテルというところにチェックイン。シャワーだけ付きトイレ共同のエアコンの汚い部屋。36リンギ。
クアンタンのスルタンアフマドモスクは外から見ただけだが美しい。

【クアラルンプール】
2月1日午後2時のバスでクアンタンを出る。それまでRayaホテルにいさせてもらう。
午後6時ごろクアラルンプールのプドラヤバスステーションの近くに着く。歩いてチャイナタウンに入り、楽安酒店という安旅社風のホテルに入る。50リンギもする。チャイナタウンは物価が高い。白人も多い。東海岸ではほとんど見かけなかったが。
2日。ひきつづき楽安酒店に滞在。高いが居心地は悪くない。KLCCに行く。伊勢丹の紀伊国屋で「歩き方インド」をさがすが、ない。同じSuria4階の紀伊国屋(洋書)でロンリープラネットインドを買う。バカ高い。120リンギくらいする。LRTというのにも初めて乗った。
クアラルンプールの人は概して感じが良いし親切。中年のおばちゃんでもよく英語を話し、道など親切に教えてくれる。
3日。午前中銀行を歩き回る。東京三菱、HSBC(香港銀行)は口座を持っていないと外国送金はできない。口座もツーリストでは作れない。Maybankが外国送金を受け付けてくれた。ただし両替はしてくれない。ドル札で送金を依頼することはできず、リンギのみ受け付ける。いったんHSBCでカードでリンギを引き出しそれを持ってMaybankに行き、送金を依頼する。
そごうを見に行く。伊勢丹よりはやはり大衆的でスーパーのよう。小さいデイパックを一つ買う。120リンギくらい。そごうに行く途中にマスジッドインディアを見たが、なんということはない。インド人街もたいしたことはないが、ミルクティーはさすがに旨かった。チョウキットも見に行ったがなんということもない。モノレールに乗る。
ミルクティーはインド人街が旨いが、コーヒーは楽安の隣の中国人の店が旨い。
4日。午後、プトラLRTのバンサー駅からパンタイまで歩き、パンタイメディカルセンターにたどりつく。パンタイにいちばん近い駅はバンサーの2つ外のKerinchi。
5日。夜8時ごろ、ブキビンタンのスンガイワンプラザに行くが、旅行代理店はもうみんな閉まっていた。スンガイワンプラザは(昔の)中野ブロードウェーのようでぱっとしない。
9日。今日から春節。店は大部分閉まる。インド人街やインド人経営の店は開く。
数日前から旅行代理店をさがしていたがどこも閉まっていた。
春節の休業は来週月曜日まで続く。航空券はどこでも買えない。KLCCからAmpang通りをすこし行ったところにあるMATIC(インフォメーション)は開いていたが、航空券は今はインターネットでしか買えないとのこと。
10日。スンガイワンプラザ3階のインターネットは春節の間も開いている。チャイナタウンのネット屋は閉まり。KLCCの伊勢丹も今日から開く。
11日。アマルテリア・セン「貧困の克服」を読む。紀伊国屋で買った。センはともかく訳者はクソ。アホな英語屋の典型。
14日。スンガイワンプラザの旅行会社が今日から開く。3階の代理店はどこも片道航空券(インド)を売ってくれない。2階の「安全旅遊」がデリー行き片道を売ってくれた。マレーシア航空。1215リンギ。安全旅遊は親切。
20日。楽安酒店の近くの両替屋で1500リンギをインドルピーに換える。16000ルピーにもなった。1リンギ9ルピーくらいだと思ったが。
【デリー】
21日。楽安を午後2時チェックアウトにしてもらう。KTMコミューターでニライへ。バスに乗り換えKLIAへ。田舎。空港はさほど大きくなく、人も多くない。チェックインはスムーズ。マレーシア航空デリー行きはすこし遅れて出る。インド人乗客が多い。サリー姿のおばさんたち。サービスは良くないが、タイ航空よりはマシ。
インド時間午後10時ごろデリー着。空港のプリペイドタクシーでパハルガンジヘ。この立派な窓口を構えたプリペイドタクシーがすべていかがわしい。「インドは初めてか、デリーは初めてか」と必ず聞き、高いコミッションを取れるホテルに連れて行こうとする。その意図がミエミエなのがすごい。パハルガンジの近くで車を降りてからもコミッション狙いのドライバーがつきまとう。Hotel Natrajというところにチェックインしようとしたが、ドライバーがついて入ってくるのでいったん外に出てドライバーをまき茶店でお茶を飲む。4R。ネパールより高くて量は少ない。味も落ちる。Natrajに戻りチェックインする。300Rs。高い。この宿の人はシーク教徒で陰険な感じ。
22日。朝早速Natrajをチェックアウト。そのときフロントの男が3日泊ると言っただろうとバカなイチャモンをつけてきた。そんなことは言った覚えもない。仮に予定として言ったとしても約束したわけではないから意味がない。しかしそんな恫喝で折れてしまう日本人ツーリストが多いということだろうか。
パハルガンジ・メインバザールのArjungゲストハウスの200Rsの部屋に移る。窓はほとんどない。
28日。コノートプレースの近くの旅行代理店でカトマンドゥ行き航空券を買う。コスミックエア5800Rs。かなりぼられた感じもするが面倒くさいのでそのままにした。

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