一日目。
マレー鉄道トゥンパッTumpatの駅からタクシー5リンギで、スリ・トゥージュー・ビーチ(Pantai Seri Tujuh)の公営リゾートに着く。付近には個人経営の宿もある。
「スリ・トゥージュー・ビーチ・リゾート」は立派な門のある公営リゾート。客はほとんどマレーシア人でマレー人が多いように見える。平日は客は少なく閑散としている。
公営リゾートのエアコン付シャレーに入る。定価一泊75リンギのところを平日ということで65リンギに負けてもらう。
ビーチといっても日本の太平洋岸の海水浴場のような遠浅の浜があるわけでない。
海の生臭い匂いがするのは、海だから仕方がない。
海に近いシャレーに入ったので、歩いて5分で浜に出られる。海岸に出てみると思ったより遠浅だった。砂もある(それほど細かくはない)。
平日昼間のビーチには人っ子一人いない!これはすばらしいこと。
せっかくなのでパンツ一丁になり、少し泳いでみる。水は生ぬるく、濁っているが、汚いという感じはしない。油も浮いていない。
どこまで歩いても、水かさが深くならない。海水はとても辛かった。
ビーチに毛唐がいないということは本当に良いことである。このビーチには毛唐が一人もいない。
白人はなぜか、特にビーチに来ると、その人種主義的本性をあらわにする。クロヌラビーチの事件に象徴的なように、「白人だけの場所」あるいは「売春婦と従僕以外は白人のみ」という環境を作りたがる。「ビーチは白人のもの」という意識が、植民地主義時代以来の彼らの文化的伝統になっているようだ。
ここには今のところ毛唐も売春婦もいない(売春婦がいないのは当然だが)。それにしてもここは暑い。
ここからいちばん近いタイ国境は、Pengkalan Kubor(プンカラン・クボール、プカラ・コボー)で、表通りから43番のバス。
コタバル行きのバスは27番。(しかし、バスは少ないし、飛ばしていて止まってくれないこともある。)
タイ国境はここから3キロしか離れていないという。
夜の砂浜は明かりひとつなく、人っ子一人いない。この海は日本のほうに続いている、などと感傷に浸ることもできる。
深夜1時近くリゾート内のまだ開いているレストランで、「フマキラー」はないかと聞く。「モスキートーコイル」とかいうより、フマキラーとかバイゴンとか商品名を言うほうが通りやすい。2軒目の人が、すぐにバイクでどこかに買いにやらせてくれた。そして実費しか取らなかった。
蚊はあまりいないが、蟻は多い。
二日目。
未明4時ごろ、リラックスしすぎたのか、変な夢を見て怪我をした。
俺の部屋の中を白い車が通っていく。変だなと思ってみると、部屋の真ん中に隣の部屋の奴の車の通り道ができている。隣との間の壁に車の出入り口があるのに気づかなかった。
出入り口はちょうど車が通れるくらいの大きさで、白いペンキを塗ったコンクリートともプラスチックともつかない枠があり、枠には溝がついていて上から鉄扉でも下ろせるような形になっている。
その出入り口から隣の部屋のほうに自分の書類などがはみ出していたのであわてて回収する。
車の男は2人で、ひとりはまだ子供のようで、大きいほうの若い男はニヤけた奴だった。
そこで、そんな出入り口は閉めるようにと、大きいほうの男を捕まえて説教したが、その若造が生意気に反抗するので、両手を捕まえて思い切りケリを入れてやった。
気がつくとベッドの横のコンクリートの壁に本当に思い切りケリを入れていて、泣きたくなるくらいに痛い。右足のつま先にケガ。親指の爪が黒くなってぐらぐらしている。足の指三本の甲から出血。指の付け根の関節も痛めていて、痛くて歩けない。
ケリを入れたりする前には、それが現実なのか夢なのかよく考えなければいけないと思った。現実ならいいが、夢の中だとあぶない。ひどい怪我をするかもしれない。バンドエイドを持っていてよかった。
夢を見ているときは、脳が活発に働いている一方で身体は休んでいると聞いていたが、身体もちゃんと夢のとおりに動くことがあるようだ。
私は生来温和な性格でケンカなどしたこともないのに、眠っていながらケリが入れられるとは思わなかった。
このあと一週間足を引きずることになる。今も痛い。
リゾートの滞在を延長するが明日は予約が詰まっているという。週末は一週間前から予約が入っているようだ。足が痛くてまともに歩けないが、どこかに移らなければならない。
このリゾートに予約なしに来るなら、平日のみということになる。
大通り沿いのリゾートの門のすぐ隣に宿を見つけ、明日入る約束をする。口約束。「シャレー」といっているが、タイなどにもよくあるような長屋式のコンクリートのゲストハウス。
プンカラン・クボール(Pengkalan Kubor)からタクバイ(Tak Bai)
せっかく近くに国境があるのでちょっと越えてみることにした。国境を越えてもマレー人の町だろうし、国境の町というのはどこでもそれなりの魅力がある。みんなのそわそわした気持ち、期待感、文化の隔絶間などが国境の町の独特の雰囲気を作るのだろう。
大通りからタクシーでプンカラン・クボールPengkalan Kubor(プカラ・コボーみたいに発音している)のイミグレのところまで行く。カメラを持ってくるのを忘れたので、引き返し、もう一度で直す。片道5リンギ(4リンギまでは負けてくれる)。
タイ側の町はタクバイTak Bai。
プンカラン・クボールのイミグレはマレー語表示のみ。簡単に手続きを済ませ、はしけで川(河口)を渡る。はしけは1リンギ。
タイ側に上陸するとすぐに市場がある。閉鎖されたイミグレはなく、このまま入国手続きをしないで国内に入っていくことも物理的には可能(バスなどで必ず警察のチェックがあるだろうが)。
市場を通り抜けて、少しはなれたところにあるイミグレオフィスまで出向く。このときはまだ、この町の名前を知らなかったので、タイのイミグレ役人に聞いた。
タクバイのイミグレはごく簡素なものだが(ピブーン・マンサハンとかと同じような)、顔を写すカメラと光で指紋を読み取る機械がおいてある。
多くのマレー系の人々(国籍はわからない)が行列していて、その機械に指を押し付けられている人もいる。全員ではない。タイだからどうせ「見た目」で決めているのだろう。タイ側では待たされた。
しかし、全体としてタイにしては控えめなボーダーだと思った。タイ国旗もそれほど目立たない。
メーサイのように「タイ王国」の権威を全面に押し出した感じではない。この地域でそんなことをしたら本当に多数派住民の反感を買うだろうし、こちらのほうが豊かな人が多いからかもしれない。というより、メーサイが背後に、より深刻な矛盾、より苛酷な抑圧を抱えているからこそ、ああいう派手な演出をして、毎日国歌を流して忙しく働いている人々を立ち止まらさせたりしなければならないのだろう。
この町の会話はマレー語が基本。
タクバイの市場のごちゃごちゃした雰囲気はタイそのものだが、マレー語の表示が目立つ。アラビア語も。
国境を越えただけで、急に、貧しい国に飛び込んだという感じがする。
レストランでは、「コピ・オ」は何とか通じるが、「テー・タリク」は通じない。「テー」は何とか通じるが発音条件がより厳しくなるようだ。マレーシアのような泡立たせたテータリクはなく、「テー・スースー」になる。「テー・スースー」は通じた。
言葉が通じなくても、マレー人の女の子は、タイ人のように「ハアー?」とはやらず、しかめっつらもせず、ニコニコしている。
タクバイからいちばん近い大きな町はナラティワトで、30キロくらい離れている。地図で見るとスンガイ・コロクも同じくらいの距離に見えるが、町の人に聞いても役人に聞いてもナラティワトが近いという。
一時間ちょっとぶらぶらして、飯を食い、コピやテーを飲んだりしてから帰る。帰るとき、ムスリム女性のガイドを連れた毛唐女が一人上陸してくるのにかち合った。
タイ出国のときのイミグレ役人は気持ちの悪い典型的なタイ男だった。恫喝するような口調でWhere you stay?と聞く。その後も、ネチッとした感じで何度も私の名前を読み、「ジャパン、ジャパン、、、」とネチネチいつまでも言っていた。
あの変な屈託に満ち満ちたタイ土人のネチネチ感は、タイを経験した(タイヲタ以外の)人ならピンと来るのではないかと思う。
タイに悪いことはいろいろあるが、タイにどれだけ耐えられるかを最終的に決めるのは、あの粘液感にどこまで耐えられる人間かということではないかと私は思う。
タイに滞在していてマレーシアに出てデイリターンでもするものと思っているようだった。「スリ・トゥー・ジューだ」と答えたが、意味が理解できないか、その名前も知らないかのどちらかのようだった。マレーシアに滞在して、タイにデイリターンというのも楽しいものだと思った。
マレーシアのイミグレは実務的で、何ヶ月滞在するかと聞くので、1ヶ月くらいと答えると、何ヶ月欲しいのかと聞きなおされたので、3ヶ月にしてもらった。エンバークメントカードは機械で作ってくれる。
パスポートのどこにスタンプを押して欲しいのかも聞いてくれた(これはよく国境を越える人にとっては結構重要な問題)。
タイ役人は、他の国が整然とスタンプを押してスペースを節約してくれているにもかかわらず、残り少ないページのど真ん中にバチっと押したりする(そうすることで「タイ王国」の威光を表現しているつもりなのか、単に頭が回らないだけなのかどうかはわからないが)。
タイは、罰当たりにも、日本国のスタンプにかぶさるように汚い青いスタンプを押してくることさえある。そのくせ、タイのスタンプが重なり合うことは異常に嫌う。
マレーシアはマレーシアスタンプが重なり合うことをいとわず、スペースを節約するような押し方をしてくれる。インドネシアは入国印のほぼ真上に重ねて出国印を押してくれた。タイ人の屈折した感情がスタンプの押し方にも表れているように見える。
あとでタイのイミグレが押したスタンプを見ると、入国期日の年度が2005になっている。滞在期限の年度は2006。よく見ると、2005の方は手書きで6に訂正している。出国のスタンプも2005を押した上で手書きで訂正している。
タクシー5リンギでスリ・トゥージューに帰る(4リンギでも可)。
タクバイの市場で完熟マンゴを4個買った。たった1.5リンギ(15バーツ)。「シップハー・バーツ」(15バーツ)というタイ語はまったくわからないフリをした。
「サットゥ・リンギ・リマプロー・セン」というのを聞き取ろうとしたが、クアラルンプールなどとは発音が違うようで、ちょっと難しかった。
彼らもマレー人なので、私がタイ語がわからなくても嫌な顔はしない。
マンゴはシャレーに持ち帰って、手で皮をむいてがつがつと食べる。エアコンに結び付けてちょっと冷やすとよい。よいマンゴだった。
タクバイの市場では、ライフルを抱えた兵隊がパトロールしていた。
コタバルからいちばん近いタイへの入り口はこのプンカラン・クボールということになる。タクバイからいちばん近い都市はナラティワト。ナラティワトから近いのはパッタニ。パッタニに近いのはヤラー。ここまでは健全な地域である(昨年一月ごろ)。ハジャイまで行くと売春婦連れの毛唐もいる。それでも北タイよりはずっとまともな地域。
夕方、ビーチに出る。地元の子供たちや家族連れが水浴びをしている。子供たちの歓声も波の音に消されて静か。本当に、海を見て立っているだけで気持ちがよい。海は嫌いだと思っていたが、必ずしもそうではなかった。
毛唐のいないビーチは、静かな「浜」に戻る。
KLCCのコーヒーショップなら、毛唐が「多いか少ないか」で雰囲気が変わるが、ビーチの場合には、「いるかいないか」、毛唐が存在するかしないかによって、その性質が根本から変わってしまう。
明日(週末)は釣り客がたくさん来るという。今日も中国系の女子学生らしいグループを見た。中国系の客がたくさん来ると、それはそれですごいことになるのかもしれない。
夜は7時過ぎまで明るいのに、朝は7時ちかくまで暗い。これはマレーシア時間のせいだろう。マレー半島だけから見ると、時間がちょっと早すぎる。マレー半島だけなら、タイより1時間早くする意味はない。チベットでは夜9時ごろまで明るかった記憶がある。北京時間を使わされていた。
「バカンス」という言葉にふさわしい、本当に何もしない生活。ただ、自分で痛めた足の養生に努めなければならない。
人も少ないリゾートでのんびりとすごしていると、ふだん表に出ないイメージや感情が湧き出してくることもある。ただ、精神分析が言うような性的なものはまったく表に出ない。
湾(河口)に面したリゾート内のオープンレストランで食事をしていると猫がたくさん寄ってくる。
チキンの骨を投げてやる。するといつも大きくて強い猫が取ってしまう。
弱い猫や若い猫はテーブルから落ちるパンくずにもなかなかありつけない。
少しはなれたところにいたやせた小さな猫のまえに、肉や軟骨のついた大き目のチキンの関節を投げてやった。その小さな猫は、その関節としばらく格闘しているが、不器用なのか力がないのか、食べきることができない。猫のくせにと思うほど、もどかしいほど力がない。
ちょっと目を離したあと、もう一度猫の様子を見てみると、変なことになっていた。
その小さな猫が自分の顔を前足でしきりに拭いている。猫が顔を拭くことはよくあるが、普通の拭き方ではない。しきりに拭き続けてやめようとしない。ふらふらとさまようように歩きながら、一心に顔を拭きつづけている。
目を移すと、骨を投げてやったところには大きな猫が鎮座して、私が小猫のために投げた関節を悠々と咀嚼している。
この大猫が小猫を襲って骨を横取りしたのだ。
私はカチンと来たので、この横着な大猫の無駄に太った横腹に、渾身のケリを入れてやろうかと本気で思ったが、周りのマレー人の目があるのでやめた。狂った日本人が猫を虐待しているとしか見えないだろうから。
やせた小猫はまだつらそうに顔をなで続けている。この痛みはどれだけ続くのだろう。猫の短い一生から見て、その長さはどれだけのものか。小猫はしばらくしてどこかに消えてしまった。
私が下手な情け心をおこして骨を投げてやったばかりに、この小猫は災難にあった。飢えよりもつらい痛みを受けることになった。
しかし、こういうことはいつものことである。これがこの世の中のルールなのだろう。
結局はみんな死ぬのだが、そこに至るまでの境涯はそれぞれに異なる。ある者はいい思いを見る。強いやつはますます強く、威を張るだろう。弱いやつは持っているものも奪われ、さらに痛い思いをさせられて追いやられていく。
強い者はなぜ強くなったのか。強い素質をもち、そのような位置に生まれたからでもあろう。その帰趨を決めるのは、結局は「偶然」としか言えないものである。
三日目。
今日は移らなければならない。足はますます痛く、まともに歩けない。11時ごろ、きのう予約した門の隣の長屋式の「シャレー」に移る。60リンギ。怪我した足を休ませるため、なるべく出歩かないように決心。
通りをはさんでこの宿の向かいにある何でも屋で、パンやマンゴを買う(この「何でも屋」の人たちには本当に親切にしてもらった)。「ブミプトラ」パンというパサパサしたサンドイッチ用のコッペパンがかえってうまかったりする。何でも屋のおばさんは申し訳なくなるほど愛想がいい。外国人ツーリストがめったに来ないからだろうが。
こちらの宿は海から遠くしょぼい感じがするせいか、週末の今日も満室にならない。狭い窓からは一応「湾」(川)がすこし見える。
宿の名前はSaujana Gulf View Resortという大げさなもの。設備は一応そろっているが、公営リゾートのシャレーのような広々さはない。
スリ・トゥージュー・ビーチには、全体として中国色がまったくない。漢字を見ない。インド色もない。純粋にマレー系のリゾートのようだ。
四日目。
出歩かないようにし、足の養生に努める。通りに面したローカルな茶店はコピ・オ50銭。味も悪くない(変化はある)。純粋マレー系の店だが、カレーの味はちゃんとしていた。
向かいの「湾」では網で漁をしている人もいる。
公営の「スリ・トゥージュー・リゾート」のレセプションに行き、前と同じシャレーを予約する。月曜日からしかない。シャレーにはそれぞれマレー語の名前がついている。自分が泊まったシャレーの名前はクネラKenerat。
五日目。
Saujana Gulf Viewの方の宿の主人はケチな感じのマレー人で、最初に来たときには、何日泊まるのかあらかじめ聞いて前払いを要求した。それは断ったが、きのう部屋代を払ったときもあと何日泊まるかと聞いてきた。公営リゾートのほうがあいたらそっちに戻るからというと「あっちはフルだ」と断定する。
六日目。
Saujanaを出て、予約しておいた公営リゾートの前と同じシャレー「Kenerat」に戻る。料金も前と同じで65リンギ。
この「スリ・トゥージュー・ビーチ・リゾート」は、Tumpat Local Councilとかいう地方公共団体らしいところが運営している。
七日目。
エアコンを入れなくても、朝はかなり冷え込む。タオルケット一枚しかない。
足の養生のため滞在をあと3泊延長して予約する。まだ少し引きずる。
リゾートのレセプションのおばさん(お姉さん)も親切で、車で通りかかったときに乗せてくれた。
表通りの何でも屋のおばさんは、よいマンゴを選んでくれたり、新しいパンを選んでくれたりする。
この辺の人は本当によい人が多いように感じる。内陸線(マレー鉄道東海岸線)沿いの人よりも穏やかな感じ。漢字が見当たらないことと平行している。内陸線は漢字が多かった。
リゾートはまたのどかな平日に戻ったが、来週末はもう予約で埋まっている。
夕方3時ごろから再びタクバイTak Baiに向かう。
表通りの何でも屋の前でバスを待つが、バスもタクシーも来ない。何でも屋の主人が見かねてポンコツのバイクでプンカラン・クボールPengkalan Kuborのイミグレの前まで送ってくれた。本当に親切にしてくれる。
手続きを済ませタイに入り、タクバイのジェティの前でバイタク(バイクタクシー)を拾って「タクバイ」の町に言ってみる。どんなところか見ておこうと思っただけ。ボーダーのマーケットのあるところは本来のタクバイの町ではない。
バイタクに「ここがタクバイだ」というところに連れて行ってもらったが、商店が2,3軒あるくらいで何もないところだった。その近くのモスクの写真だけ撮って帰る。結構長い道のりを片道2リンギ。
このマレー人のバイタク運転手に、最初にマレー語で話しかけたらその後ずっとマレー語で話されて困ってしまった。
タクバイのレストランのニコニコしたムスリムの姉ちゃんに「テリマカシー」というと「サマ・サマ」と答える。
スマトラのプカンバルのレストランの姉ちゃんも同じように「サマ・サマ」と答えてくれたのを思い出した。
マレー語・インドネシア語はとても国際的な言葉だと思う。
ただし、タクバイでは「パナス」(ホット)というときの最後のSをほとんど発音しない。これはタイ式の発音なのかもしれない。スマトラでは「パナース」という感じではっきり発音していた。マレーシアでも最後のSは発音すると思う。
タイのスタンプは本日も2005年のまま。
レストランで、私がマレー語で注文していたら、タイ語を話している下品な感じの若者グループの男たちが、「KL(クアラ・ルンプール)だKLだ」と騒ぎ始めた。
その中の一人が私に向かっていきなり、「どこから来た」と英語で聞いてきたので、期待に応えてKLからだと答える。さらに、KLのどこだと聞くので、でまかせに「ジャラン・スルタン」だというと、中国人かと聞く。それはさすがに勘弁してほしいので、日本人だというと、今度は東京かと聞く。
そこで、KLに住んでいる日本人だとウソをついておいた。ここではなんとなく、東京よりKLのほうが格上なように感じたので、ミエを張ってみただけ。
するとその汚らしい感じのタイ男はすかさず、「俺の友達はシンガポールに住んでいる」とか、KLよりさらに格上の町の名前を出してきた。
これはいかにもタイ人らしい反応だと思った。KLの人間はシンガポールに対して複雑な感情を持っているといわれる。そこをついたつもりなのかもしれない。
粘液を固めて作った人間の表面に汚れがついているような、実にタイ人らしい汚らしい男だった。
タクバイのジェティの前にはミニバスもあり、ナラティワトまで4リンギ。
スリ・トゥージュー・リゾートは官製リゾートで、本当に酒は置いてないようである。酒を飲んでいる人を見たことがない。敷地内に立派なイスラム礼拝所がある。
八日目。
昼から雨。雨が多くなってきた。
平日にもかかわらず多くの人がリゾートに来ている。中国語でしゃべっているグループも。
夜、激しい腹痛と下痢。きのうタクバイであれこれ食べすぎたのがよくなかったのか。
ゴキブリを追いかけていたら、横着にも俺のバックパックの中に隠れた。しばらくバックパックをかき回していたら出てきたので、さらに追いかけ、バスルームの足拭きでしとめた。
腹痛と下痢は、クラヴィットとイモジウムを飲んだら1時間ぐらいでおさまった。痛みがひどいときにイモジウムで下痢を止めることがよいのかどうかは問題。
夜になるとリゾート内をひっきりなしにバイクが走り回るようになった。人が増えている。最初は人っ子一人いなかった海岸の方でも、深夜までバイクらしい明かりが動いている。
足は完治には遠く、びっ子を引くような歩き方になる。
九日目。
なかなか本当に静かな穴場というところは少ない。
しかし、このリゾートで、毛唐は一人も見なかった。
深夜に重々しい音の雷雨になる。
十日目。
11時ごろチェックアウト。表通りに出ていつものローカル食堂で食事。
何でも屋のおじさんがお別れに冷えたペプシを一本くれた。この店の人たちは本当に親切だ。
バスは来ないので、タクシーを拾いトゥンパッTumpatのバス停まで行く。4リンギ。
トゥンパッのバス停に来ていたバスに乗り、コタバルへ。2.3リンギ。結構時間がかかる。
タクシーでコタバルまで行くと20リンギだという。コタバルまでは行かないというタクシーもある。
午後1時過ぎ、バスがコタバルのバスステーションに着く。コタバルの町は整然としている。町に見覚えがないが(一年以上前に一度来たことがある)、バスステーション付近はなんとなく記憶にある。
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オランダは日本の敗戦後、インドネシアの再植民地化をはかるが、「国際世論の非難」もあって失敗する。
なぜそのような「国際世論の非難」が起こったのか。それまでは平然と、正当なこととしてやっていたことを、もう一度やり始めようとしただけである。それにオランダは「戦勝国」の一員である。
日本が「白人支配からのアジアの解放」を掲げて戦争をし、その理念に一定の説得力があり、それに同調する人々がインドネシアにも多かったからに他ならない。
このような主張に対して、日本は戦争を始める前から「アジアの解放」を掲げていたわけではないと反論する人が多い。
しかし、戦争を始める前からその理念を掲げる必要がどうしてあるのだろうか。日本は米英の経済封鎖によって、息の根を止められ、米英の期待に応える形で戦争に追いやられていっただけである。そのような経済封鎖は現在北朝鮮に対しても行われていないものである。
戦争は戦争である。革命ではない。問題は、現に行わざるを得ない戦争にどういう意義を見出していくかである。また、日本は、戦前から人種差別反対を国際社会に訴えていたが、それはまったく受け入れられなかった。
大東亜戦争の理念は、アメリカによって追いやられた対米英戦争・対白人戦争の実践の中で、実践的に学び取られ、明確に自覚するに至ったものである。
開戦以前にその理念を掲げていなかったといって大東亜戦争の意義を否定するのはまったく子供じみた観念論でしかない。
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