a.タイ北部

2007年4月 9日 (月)

ミャンマー武装勢力同士の戦闘再燃

タイ=ミャンマー国境、混乱している模様。

AFPのニュースのほうは、政府に近い民主カレン仏教徒軍とキリスト教徒カレン民族同盟との戦闘という。newsclipの記事は、ミャンマー政府軍がカレン民族同盟に攻撃をかけたとする。

同一事件のことなのかどうかも確かにはわからないが、newsclipのニュースの出所が「タイ国営テレビ局チャンネル9など」なので、AFP=時事のほうが確からしい?

カレン族200人以上がタイに逃げ込む(AFP=時事)

【バンコク8日】タイ西部と国境を接せるミャンマー南東部で、ミャンマーの反政府武装勢力、カレン民族同盟(KNU)とミャンマー軍事政権に協力してKNUと敵対している民主カレン仏教徒軍(DKBA)との間で7日から8日早朝にかけて戦闘が再燃し、戦火を逃れてカレン族200人以上がタイ領内に逃げ込んだ。タイ国境警察が8日、明らかにした。

 逃げ込んだカレン族の大半は戦闘がやんだ後、ミャンマー領内に戻ったが、婦女子ら60人がタイ領内にとどまっている。この戦闘で双方に合わせて30人の死者が出たと伝えられているが、タイ国境警察は否定している。

 KNUはミャンマー最大の反政府武装組織で、軍事政権との間でまだ和平協定に調印していない数少ない反政府勢力の一つ。ミャンマーは1962年以来、軍事政権の支配下にある。軍政はこれまでに、17の少数民族反政府組織と停戦協定に署名している。タイ国境沿いの難民キャンプでは、最大15万人のカレン族難民が暮らしている。

 ミャンマー軍事政権は1年前に、カレン族に対する大規模な軍事攻勢を開始した。人権擁護団体によると、この攻勢で数千人の村民が村を放棄して密林に逃げ込んだという。
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_int&k=20070409011848a

ミャンマー軍がカレン族攻撃、タイ国境近くで激戦(newsclip.be)

2007/4/ 8 (14:55)| インドシナ  主要ニュース  社会

【タイ】タイ国営テレビ局チャンネル9などによると、タイ北西部ターク県と国境を接するミャンマー領内で7日夜からミャンマー政府軍が少数民族カレン族の武装組織KNUに攻撃をかけ、8日午前中までにKNUの拠点数カ所を奪取した。

 タイ側でも砲声、銃声が絶え間なく聞こえるなど激戦で、双方に数十人の死傷者が出たもよう。また、カレン族の男女約300人がミャンマーからタイ領に避難した。

 カレン族はタイ、ミャンマー国境地域に住む少数民族で、ミャンマーの人口の約1割を占めるという。キリスト教徒が比較的多く、英国植民地時代には、ビルマ族支配の道具として官吏・軍人に登用された。第2次大戦では日本がビルマ族を押し立て、両民族の反目が深まった。

 KNUは第2次大戦後すぐの1947年にカレン族の独立を目指し設立された。49年には首都ラングーン(現ヤンゴン)近くまで攻め込み、その後ミャンマー東部の広範囲を支配したが、94年に仏教徒系のグループがミャンマー軍政側に寝返ったことから勢力が衰え、現在はタイ国境周辺に追い詰められている。
http://www.newsclip.be/news/2007408_010827.html

前記事:

タイがミャンマー国境閉鎖へ、タイ兵射殺への報復
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/03/post_cecf.html

タイ=ミャンマー国境で銃撃戦、1人死亡(国軍同士)
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/03/post_227e.html

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2007年3月31日 (土)

タイがミャンマー国境閉鎖へ、タイ兵射殺への報復

泰緬国境、やはり不穏になっているようです。

http://www.newsclip.be/news/2007330_010654.html

2007/3/30 (18:46)

【タイ、ミャンマー】タイ政府は4月2日から、北部メーホンソン県のミャンマー国境検問所4カ所をすべて閉鎖する。3月21日に同県のミャンマー国境地域でタイ軍のパトロール隊が武装グループの襲撃を受け、タイ兵1人が死亡したことに対する報復措置。

 一方、ミャンマー政府は3月27日午後からタイ北西部ターク県メーソート(タイ・ミャンマー友好橋)とタイ西部カンジャナブリ県スリー・パゴダ・パス(サンカラブリ)の国境2カ所を閉鎖し、30日現在も再開に応じていない。理由は明らかにしていないが、タイの警官2人をミャンマーの武装組織が誘拐した事件でタイ側が一部国境を閉鎖したことに対する対抗措置とみられている。

 タイ北部チェンライ県メーサイのミャンマー国境は30日も通常通り出入国が認められた。

前記事:

タイ=ミャンマー国境で銃撃戦、1人死亡(国軍同士)

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2007年2月21日 (水)

ネパール、インドネシアよりひどい税関=チェンマイ

「チェンマイ雑記帳」様より引用。

http://blog.chiangmai-life.net/archives/50066857.html

私は日本からチェンマイに直接飛んだことがないのでこういう経験はありませんが、チェンマイの税関はまるでヤクザですね。バリではこれに似たこともあると聞くが、いくらなんでも「表で女が待ってるだろう」はない(男が待ってるだろうはあるかもしれない)。

メダンの空港でもドゥマイの波止場のイミグレでもこんなことはなかった。

ネパールでも帰るときに100円ライターや電池を取り上げるくらいだろう。

日本人だけ狙われているのか、白人ツーリストも同じようにやられているのか。その辺にも興味があります。

とにかく、タイって国は・・・・以下略。

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2006年9月 7日 (木)

男性が踊るゴーゴーバー(タイのゴーゴーボーイ)

もう3年以上も前のことだが、ゴーゴーボーイ(ボーイゴーゴー)というところに行ったことがある。タイ北部のチェンマイとチェンライで一回ずつ。

ボーイゴーゴーは、男性が男性として踊るゴーゴーバーであり、オカマショートかキャバレーショーとはまったく意味が違う。たいていは全裸になり、その内容は、普通のゴーゴーバーよりはるかにグロテスクでえげつないものであった。

ボーイゴーゴーに興味があったわけではないが、当時チェンマイで少し仲の良かったタイ族の女の子に誘われて行ったのである。

そのころ私は、普通のゴーゴーバーにもほとんど行ったことがなかった。チェンマイ・タペー門とロイクローの間にある誰もが知っている「スポットライトバー」を覗いたことがあったが、コーラを一杯飲んですぐに出てきた。ぎらぎらした毛唐客だらけで居心地が悪かった。

そういうこともありゴーゴーバーに多少の未練があったので、私は彼女に普通のゴーゴーに連れて行ってほしいんだけど、と懇願してみたのだが、そういうことを頼んだだけで彼女は機嫌が悪くなり、まったく相手にしてもらえなかった。しかし、ボーイゴーゴーなら一緒に行きたいと言うのである。

ボーイゴーゴーがどんな風にえげつないものであるかを、具体的にここに書くべきかどうかは迷うところである。

(チェンマイの)普通のゴーゴーバーは、番号札をつけた女の子が水着で踊っているだけであった。舞台にしがみついてアホ面さらしている白人オヤジたちが、三々五々番号で指名して、彼らの泊まっている安ホテルやらトイレシャワー共同のゲストハウスやらに「お持ち帰り」するのである。そういう場面でも毛唐の身振りというのはわざとらしく気取っていて、まるで買春じゃないかのような態度である。これが普通のゴーゴーバーである。(今はどうか知らないが、3年前くらいは、木造のゲストハウスの三畳間に白人バックパッカーがバーの女を持ち帰ってハッスルし、ソノ音で夜中に起こされるというようなことがタイでは珍しくなかった)。

ボーイゴーゴーに買春があるかどうかは、私はよく見なかった。ただ、「踊り子」は最終的にはみな全裸になり、それまでも身体の一部を姿勢よく保つため、踊っている間ずっと刺激を与えていた。そして、男性同士でいろいろなことをしたり、「ふりかかりそうになる」ようなことをしたりする。

踊りがうまいとか何か趣向が凝らされているとかいうことはなく、ただただエゲツナイだけ。日本でなら耐え難いものだが、しかし、ここまで来ると感受性も鈍磨している。これもまたタイの罠である。

チェンライでも一度見に行ったことがある。あの辛気臭い陰気な町で、酒を飲まない私は夜やることがなかった。気分的にもボーイゴーゴーは入りやすい。内容はチェンマイと同じだったが、「踊り子」がチェンマイとは違っていた。顔も違うが、骨格が特に違っていた。チェンマイはナヨっとして都会風だが、チェンライはガッチリとして百姓仕事で鍛えてきたという風情で、全体に垢抜けず田吾作という感じだった。観客の多くはごく普通の女の子たちのように見えた。

後にチェンマイで知り合った「かわいそうな生い立ち」の少数民族の女の子が、ボーイゴーゴーには友達とよく行くと平然と言うのを聞いてちょっと引いた。

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2006年9月 2日 (土)

一回20-50バーツで売春していた小六少女等を保護

ウタラディットはタイ北部。タイ北部ほど売春が堂々とまかり通っていて、買春白人が堂々としている地域も世界に少ないのではないかと思う。地域の人びとも売春には無関心で、むしろレンタルワイフ連れ白人客を歓迎する態度である。それは彼ら北部タイ族住民が、売春婦やレンタルワイフたちをはなから「同胞」とは思っていないからである。同胞でない者を外国人に売り払うことにはなんの抵抗感もない。この感性こそ、タイ北部の文化である。

  • タイ南部はビーチなどの特別の場所(白人用リゾート)を除けば、住民の目は白人に対して冷ややかであることが多いと思う。イスラム教徒も多い。
  • 貧困といえば東北部が有名である。バンコクで働いている売春婦にも東北部出身は多い。バーで雇ったレンタルワイフを連れて女の故郷に遊びに行く白人も多い。これは「恋愛」ではなくタイでの「定番の遊び」の一つである。(日本人もたまにやっているが、コミュニケーション能力と長期休暇が必要なので数は少ない。圧倒的に白人の市場である。また、こういうのを素人の日本人が真似すると、泥沼にはまったり容易に手玉に取られたりすることが多いようである。白人もタイに慣れている人は北部で身寄りのない少数民族の娘を探して同棲したがることが多いようである(売春婦と書類上の「結婚」さえするが、離婚も容易である)。ただ、東北部は全体的に貧しい地域であり、北部ほど、貧富の差、固定した身分の差、少数民族(クメール系、クイ族など)に対する差別、等は顕著でないように見えた。
  • タイ北部には、身分的に固定した貧富の差が存在し、少数民族や合法非合法の越境外国人の身分の不安定と貧困が慢性的に存在している。ここには目に見えない奴隷制があり、人身売買類似行為への抵抗感も少ない。女奴隷としての売春婦を供給する構造が伝統的に存在するといえる。

1バーツは3円ぐらいだから、20バーツは60円、50バーツは150円。1回1㌦以下の売春。

この価格から考えて、客はタイ人だったように思われる。外人相手に小学生を売るとやばいことになるという感覚が生まれているのだとすれば、それは結構なことといえるだろう。

しかし、本当は特別価格で外人にも売っていたのだが、それは当局も表に出したがらないので、永久に隠蔽されたという可能性も高い。

記事:「タイの地元新聞を読む」より

http://thaina.seesaa.net/article/22822059.html

国立行政開発大学院校(NIDA)のスパンニー教授は25日開かれたセミナーの席上で、ウタラディット県内の複数のコミュニティー内で一回20バーツから50バーツで売春をしていた小六から中一くらいの年齢の少女達が保護されていた事を明らかにした上で、その少女達の多くが家庭内不和や両親の離婚、更には母親も同じく売春をしていたという問題を抱え、また中にはエージェントが学校にまで迎えに行き中心部で売春をさせていたケースがあったことを明らかにしました。

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2006年2月14日 (火)

東南アジアにおけるオーストラリア人の生態実例

タイ山岳民族の少女を性的虐待した男逮捕=タイ・バンコク
【ライブドア・ニュース 08月24日】- AP通信によると、タイ山岳民族の当時12歳の娘を養うと言って親元から引き取ってバンコク市内の自宅に住まわせ、約4年間、繰り返しレイプし虐待したオーストラリア人の男が23日、逮捕された。タイ警察当局が24日発表した。

  警察によると、逮捕されたクリストファー・ロナルド・ホワイト容疑者(46)は、オーストラリア・パース出身で、5年以上前からタイに住んでいる爆破物の専門家。同容疑者は、約4年前、タイ北部チェンライ県の山岳民族の家族から、当時12歳の少女を養うという約束で引き取った。だが、娘が虐待されていることを知った家族がチェンマイ警察に訴え、男はバンコク市内の自宅で逮捕された。同容疑者は取調べ中、黙秘を通しているものの、少女暴行罪など6つの罪に問われ、最高で禁固20年の刑を科される見通しだ。

  タイ北部には2万人以上の山岳民族が暮らしているが、少女を養育すると偽って性的虐待をした外国人による事件が数件発生している。 【了】

ライブドア・ニュース 城塚愛也記者
(記者ブログ:http://blog.livedoor.jp/acowslip/
(参照:http://blog.livedoor.jp/emasutani/
この記事に関するお問い合わせ先:newscenter@livedoor.net

Australian man charged with sex abuse of hill tribe girl
http://www.akha.org/article434.html

引用者註:日本で12歳(小6)の少女といえばもうかなり発育していて同級生とセックスしてるようなのもいるようですが、タイの山岳少数民族の12歳というのは本当に子供です。身体も小さく、日本人から見ると8つか9つにしか見えない場合がほとんどだと思います。

 
東南アジアにおける「買春」といえば日本人だと思ってる人も多いかもしれない。日本はなぜか児童ポルノ・児童買春が「野放しになっている」と「国際社会」から批判を受けているそうだ。日本ではそういう報道が多いから、アジアでの児童買春の犯人も日本人ばかりだと思っている人もいるかもしれない。
しかし東南アジアの売春大国にしばらく滞在して観察してみれば、セックスツーリズムに関する欧米の日本人非難がいかに根拠のないインチキなものか分かるはずである。そういう国でまずもって目立つのはレディーバー、レッドネックバーにたむろしアジア女を連れまわす白人であり、日本人ではない。
日本人を買春の主犯とするような欧米の統計の秘密は、「売春」の定義にあると思う。こういう統計で売春とされているのは、「売春宿」や「置屋」や「マッサージパーラー」などにおける売春のみであって、「自由恋愛」は含まれない。白人は「自由恋愛」は大いに尊重するのである。たとえそこに金銭授受が介在したとしても、それは困っているパートナーへの好意による援助にほかならないとされる。ここに白人の作り出す数字のインチキなからくりがある。
もちろん日本人が買春しないというわけではない。日本人は長期休暇がとりにくいので、日本人の買春旅行者は短期旅行者が多い。したがって日本人のスケベオヤジ・農協さん・買春客は、置屋やマッサージパーラーなど出来合いのところに殺到するということになる。そういう場所にも一昔前は「児童」がいたことがあるようだが、近年、国際的に規制が非常に厳しくなっており、カンボジア等においても置屋がリスクを冒して児童を置くということはほとんどなくなっているようだ。置屋が「児童」を置かなくなれば、こういう日本人オヤジが児童を買う機会もなくなるというのが現実のようである。
一方、白人ツーリストには長期滞在者が多い。彼らにはバカンスの伝統がある。ゴーギャンもタヒチでやってたことは鬼畜だった。植民地バカンスの伝統が日本とは違う。この伝統は今でも変わらない。
アジア女の「レンタルワイフ」を雇って一緒にのんびり滞在するというのが、東南アジアにおける白人ツーリストの一つの典型的な「型」になっていて、そのための女性紹介業者もある。タイの英字のフリーペーパーなどを見るとそのような広告―いい女紹介します―を容易に見つけることができる。それについて白人は何の恥じらいもないようだ。そういうことを嫌う人ももちろんいるが、そこは「個人主義」のよいところで、同国人がどんな生活をしていても日本人のように自虐的にとやかく言ったりしないようだ。
日本の駐在員は都会で生活しているので農山村に長期滞在することはないが、バカンスの白人長期滞在者は地元の女を囲って田舎に滞在することも多い。現地ガイドを雇ったり自分で現地語を覚えたりして、いい女をさがすのにも熱心である。タイの農山村から、貧しい「処女」や「児童」を掘り出してきてこっそり同棲する白人は跡を絶たない。
彼らは相手を「ガールフレンド」「ボーイフレンド」と称し他人にも堂々と紹介するが、「援助交際」が売春ならばこれらもれっきとした売春であろう。私もタイのチェンマイで「17歳まで数年間白人の『ガールフレンド』として同棲していた」という山岳民族の少女に会ったことがある。もちろん「支払われるガールフレンド」である。男に捨てられたあとはNGOのようなところに保護されて売春婦にはならなかったようだが、白人に使い捨てにされた心の傷は浅くないように見えた。若い娘を囲う男は若いから好きなのであり、トウが立ったら捨ててしまう。たいていの子の「その後」はより厳しい売春の道しかないようだ。これらも白人の作る統計では「売春」には数えられていないのである。

(05/10) 

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2006年1月 8日 (日)

山岳少数民族の女の子 タイ

タイ北部メーサロン方面で。たぶん普通にしてる女の子(観光客のために民族衣装を着て商売に使われてる子ではないとそのときは思ったが・・・・)。

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未検閲記事:http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/15/

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2005年11月12日 (土)

アカ族のかぶりものをつけた日本人ツーリスト

彼女は北陸出身でとても色白だった。
彼女が白い足を洗うと、タイ男たちの熱い視線と女たちの嫉妬を一身に集めた。

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チェンライのタイ人ガイド「サネー」は、われわれにはインスタントラーメンを食べさせておいて、タイ人だけ集まって豪華な料理を作って食べていた。これ見よがしにやっているようだった。食い物の恨みは深い。
山刀を威嚇するように振り回して、藪の中をどんどん一人だけ進んで行くので、われわれが取り残されて道がわからなくなることもたびたびあった。文句を言うと「足跡を見て来い」などと言ったが、藪の中で足跡などわかるはずもない。日本人ツーリスト2人だけのツアーだったのでバカにしきっているようだった。

サネーを斡旋した「バナナゲストハウス」の日本人女主人にあとで苦情をいうと、「あの人はそんなことはないはずだ。そんなことをいわれてもわれわれのほうが困る」というばかりだった。私はこのころはまだ、タイ人や在タイ日本人のことをよく知らなかった。

未検閲記事:
http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/14/
                                                 

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2005年11月11日 (金)

アカ族の女性たち 北タイ 観光用の山村で

トレッキングコースの村で。
ツーリストのために出てきてくれたアカ族の女性たち。

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http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/13/

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2005年11月 8日 (火)

高床式の住居 北タイの山村

高床式の住居など。
トレッキングコースの村で。
民族により住居の形式も異なる。                                                                                  

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2005年11月 7日 (月)

子ども 北タイトレッキング

子ども。

画像未検閲記事:
http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/12/

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2005年11月 6日 (日)

高床式の住居の内部 子供たち 北タイ

チェンマイからのトレッキングツアーコースにある、「観光用」の村で。

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ツーリストを連れてくるとガイドは村にお金を払う。
タイ人ガイドが旅行代理店に申請する金額と、実際に村に支払う金額とはもちろん違う。出費を抑えてその分のカネを私服するために、代理店がコースに入れた村を勝手にとばして寄らなかったり、車を使うはずの行程を歩かせたり、ツーリストにインスタントラーメンばかり食べさせたりするタイ人ガイドもいる。

チェンライの日本語ガイド「サネー」は悪質(チェンマイの「バナナゲストハウス」が斡旋していた)。

ツーリストのために集められた子供たち。

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http://ibrahim.blog.shinobi.jp/Entry/11/

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2005年11月 5日 (土)

山岳少数民族の村 北タイ

山岳少数民族の村。
チェンマイからのツアーコースになっているところ。
たぶんチェンライ県。

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2005年9月19日 (月)

2004年11月ラオス~カンボジア周遊

2004年
【チェンコーン】
11月1日。メーサイのスリラートレストランをチェックアウト。9時ごろ出る。2番目のセブンイレブンの前からチェンセン行きのソンテウに乗る。チェンセンまでは30バーツ。わりと早くつく。チェンセンでソンテウを乗りかえてチェンコーンへ向かう。チェンセンからチェンコンまでが長かった。あちこち回る。一度乗りかえさせられる。25バーツ×2=50バーツ。メーサイからの合計80バーツ。チェンコーンのメコン河沿いにあるBaan Faiという小さなゲストハウスにチェックイン。ホットシャワー付150バーツ。チェンコーンに着いたのは午後1時ごろ。このBaan Faiというゲストハウス、日本人がたくさん泊っているようだ。
【フエサイ】
2日。午前10時頃Baan Faiをチェックアウト。この宿の人はタイリュTai Lu(uウムラウト)らしい。宿の人の感じは悪くないが、蚊が多く、よくわからない虫の糞らしきものがシーツに。
イミグレーションでスタンプを押し、ボートでフエサイに渡る(20バーツ)。イミグレは社会主義の役人らしく偉そう。イミグレに近いManirathゲストハウスというがらんとした大きな宿にチェックイン。宿の人は感じがよい。140B(35000キップ)。イミグレのところで1000バーツをキップに両替。大変な札束になる。1ドルが10000キップ。
フエサイの町の雰囲気はタイとは違うが、人の感じはタイに近い。タイ人よりツンとした感じだが、白人にへつらうときはよりストレートかもしれない。自然の成り行きとして、毛唐が偉そうにしている。とくにフランス語を話す連中が今も植民地であるかのように振舞っていた。町にはとくに見るべきものはない。ラオスといってもここはラオカフェはあまりなく、あってもタイコーヒーのようなもの。トゥクトゥクでマーケットまで行ってみたが閑散としてつまらなかった。
【ヴィエンポーカー】
3日。9時ごろフエサイのマニラートをチェックアウト。ソンテウでバス停へ。役所のようなチケット売り場で、ルアンナムタ行きのチケットを買う。シエンコックへ行きたかったがスピードボートをチャーターするのに4000Bもかかるというのでやめた。ルアンナムタ行きのバスは、舗装してあるようなないような道をのろのろ走る。隣に座った変なインド人が大騒ぎ。白人数人と若い日本人ひとりもいた。こいつは頭をちりちりに編んでいるが、口をいつも半分開けている。英語がしゃべりたいのか、隣の白人にしきりにぶつぶつと小さな声でしゃべりかける。休憩で外に出るとしょうもない白人にやたらすりよってしきりに話しかけている。全体にアホ丸出し。
タバコを吸う毛唐が多い。イスラエル女とみえるやつなんか車内でも吸う。
チケット売りの役人はルアンナムタへ7時間と言っていたがウソ。午前11時に発車して、午後7時過ぎに半分くらいのところにあるヴィエンポーカーという町に着く。もう暗い。他の連中はまだ乗っていたが私はここで泊ることにする。バス代は45000キップ(180バーツくらい)。バス停近くのゲストハウスにチェックイン。山小屋風のつくりで2万キップ(80B)。
【ルアンナムタ】
4日。午前9時、ヴィエンポーカーのマーケットのところにある「バス停」からピックアップに乗り、未舗装の道をルアンナムタに向かう。砂ぼこりがひどい。肌寒いのでウィンドブレーカーを着てフードを頭にかぶせて行く。4時間ぐらいでるアンナムタに着く。途中橋のない川を何度か渡った。丸太だけを何本か渡しただけの橋も。ルアンナムタに近づくとコンクリートの橋が目立つようになる。ルアンナムタは特徴のない、まとまりのない町で、閑散としている。マーケットもあまり活気がない。バックパッカーが目立つ。タバコをくわえて歩く毛唐も。
バスターミナル近くのチャルーシンゲストハウスというところに入る。コールドシャワーで2万5千キップ。ルアンナムタは中国色がやや濃い。
5日。朝チャルーシンゲストハウスをチェックアウト。近くにあるバスステーションゲストハウスのホットシャワーのある部屋に移る。4万5千キップ(180B)。水圧が低くて他の部屋が水を使うと湯沸かし器が働かなくなる。ルアンナムタのカフェラオは良い。インターネット屋は一分400キップ(2.4B)だから7円くらい。かなり高い。マーケットのカオソイは旨い。フランスパンも。今日は金曜日だからか、夜中までバスステーションで大音響の音楽。すべてタイ音楽のようだ。ルアンナムタは中国に近いせいか漢字も目立つ。
【ムアンシン】
6日。午前11時ごろバスステーションゲストハウスを出て、ピックアップでムアンシンに向かう。15000キップ。道は舗装あり。1時間半くらいで着。ムアンシンは道が一本あるだけの宿場町という感じ。Daen Neuaとかいうコンクリート造りのゲストハウスに入る。マーケットはしょぼい。マーケットの近くのタイラム族という人たちの市で、小さなマフラーを買う。
【ルアンナムタ】
7日。午前Daen Neuaゲストハウスをチェックアウト。ムアンシンのバスステーションは少しわかりにくい。食品などを売っている小さいほうのマーケットの近く。11時のマイクロバスでルアンナムタに戻る。バスステーションゲストハウスの別の部屋に入る。
8日。バスステーションGHをでて、チャルーシンGHに移る。
【ウドムサイ】
9日。正午のバスでルアンナムタをでて、ウドムサイに向かう。でこぼこ道を4時間ちょっと走りウドムサイに着く。Vongprachitゲストハウスというところの4万キップの部屋に入る。バス代は2万6千キップ。ウドムサイにもインターネットがあり、一分700キップ。
10日。ヴォンプラチットGHはしょっちゅう水を止める。昨夜は一晩中止められた。今日も昼間水を止めていた。女主人は「ウドムサイは8時から5時まで断水する」などとウソばっかりついていた。今日白人が数人入ったら、すぐに水が出るようになった。ひどい宿。
【ルアンパバン】
11日。午前11時のミニバスでウドムサイを出る。5時間ぐらい走ってルアンパバンに着く。ルアンパバンのバス停からソンテウで5000キップ。パ・ファイという寺の前にあるパ・ファイゲストハウスという木造の簡素な宿に入る。ルアンパバンは確かにこぎれいな町
だが、人工的な感じがする。欧米人観光客のために作った町という感じ。若いバックパッカーやカップルが多いが、中にはタイ売春婦を連れた白人爺も迷い込んでいる。町の中心部はローカルな店がほとんどないといっていい。
ナイトバザールはHmong族の服飾品が目を引く。
ネット屋も何軒かあり、一分200キップ。ルアンナムタが600キップ、ウドムサイが700キップだったから安い。タイより安い。タイは普通一分1Bでミニマム10Bとかだが、ここはミニマムがない。ローカルなラオカフェが飲めるところがまったくない。ファランカフェで飲むと旨くないのに5000キップもする。
ルアンパバンのネット屋で、地元の中学生か高校生のグループがフランス語でおしゃべりをしていた。訛ってはいるようだが、自分の言葉としてごくふつうにフランス語でしゃべくっていた。
【バンビエン】
14日。バス停まで30分ほど歩いて行き、12時発のバスでバンビエンに向かう。7時ごろ着。車内には自動小銃を持った私服の若者が一人乗っていた。軍隊なのか警察なのかはわからない。銃は目立たないように持っていて、最初は気づかなかったが、休憩で外に出るとき背中に背負っていた。席に戻るとまた目立たないように脇に隠した。ほんとにまだ幼さの残る少年だったが、目立たないように控えている感じだった。国道13号線は強盗が出るともいうが、見晴らしもよく一見して危険な感じではない。不思議な形の山々が見える。
バンビエンのバス停近くのSimoなんとかというゲストハウスに入る。ホットシャワーつきで40000キップ。バンビエンは最悪な町。不良白人の巣窟。カオサンとチェンマイを足して10で割って埼玉の田舎に移したようなところ。
【ビエンチャン】
15日。午前10時ごろSimoなんとかゲストハウスを出て、12時半発のバスでビエンチャンに向かう。ビエンチャンの目抜き通りから少し川のほうに入ったミミゲストハウスというところ入るが、うるさい。イスラエル人なのかインド系のようにも見える連中が夜遅くまで騒いでいる。ベニヤ板の壁。タイ売春婦を連れた白人オヤジも泊っている。バストイレ共同で3.5ドル。以前ビエンチャンに来た時はラオカフェもよく飲んだ記憶があるが、今回は見当たらない。
16日。朝ミミをでて、川沿いのJoeゲストハウスという小さなところに移る。やや高い(55000キップシャワー共同)が、きれいで感じのいいところ。どこも同じくファランばかりだが、ここは夜は静かだった。午前中にトゥクトゥクでカンボジア大使館に行き、ビザを申請する。エキスプレスで30ドル。本日中。USDしか受け付けない。タイバーツもダメ。
メコン河沿いのインターナショナルクリニックに行く(マホソート病院)。
ラオスはタイ以上に白人優先が徹底している。いろいろな受付でも後から来た白人を平気で先にすることが多い。タイ系の民族ということもあろうが、後進国はみんな基本的にはそうなのだろう。
【タケーク】
18日。Joeゲストハウスをチェックアウト。正午のバスでパクサンPakxaneヘ向かう。パクサンに着いたのが午後3時。そこでバスを乗り継ぎ、タケークThakhekというところまで行く。7時ごろ着。まともなゲストハウスが見つからず、バスステーションの中の汚いモーテルにはいる。3万キップ。出発には便利。同じところに流水がない宿もある。流水があるほうに入った。ここまで来ると人の感じが柔らかく親切な人が多い。タイとはもちろん北部やビエンチャンとも違う。
【サヴァナケート】
19日。正午ごろのバスでタケークを出て、サヴァナケートに向かう。すごく感じの悪いフラ公爺が二人乗っている。2時間ほどでサヴァナケートに着く。ここはタイの町のような雰囲気。Leenaゲストハウスといところに入るが、白人とかちあい、またまた露骨な白人優先・白人へのへつらいを見せつけられる。自分が入ったときは、部屋がひとつしかないと言っていたのに、直後に来た白人にはしっかり窓二つのいい部屋をあてがっていた。ババアの笑顔からしてまったく違う。金を払ってしまったが、不愉快だったし暗い部屋だったので、他のゲストハウスに移る。Savasoukchaiとかいうところ。3万5千キップ。Leenaに払った4万キップはドブに捨てた。サヴァナケートはメコンが近いだけで、面白くない町。メコンのせいか夜は肌寒い。
【パクセ】
20日。正午ごろ発のバスでパクセPakxeに向かう。午後5時ごろ着。ラオチャルンLao Cha Leunホテルにチェックイン。奮発して10ドルの部屋に。
パクセまで来ても夜は肌寒い。エアコンを入れていて窓を開けたら、外のほうが涼しかった。パクセは雰囲気のある町。
21日。Lao Cha Leunホテルをチェックアウトし、向かいにあるSalachampaホテルに移る。ミャンマーのモーラムヤンで泊ったホテルに少し似た感じの木造で大きな造りの部屋。植民地風の建築。植民地時代の建物なのかもしれない。
パクセは白っぽい植民地風の建物がひしめきあっている。人通りは閑散としている。フランス植民地時代はこのあたり(いまのラオス南部)の中心都市・植民地行政の中心として栄えたそうだ。今は人口が少ないわりに建物がたて込んでいて、ちょっとゴーストタウンのような独特な雰囲気がある。新しい建物も古いものにあわせた白い植民地風の形式になっている。風が強く、夜は寒い。人気のない通りに強い風が吹き、砂ぼこりが立つと荒涼とした雰囲気が増す。
【カンボジアボーダー・メコンの中洲】
22日。サラチャンパホテルをチェックアウト。昼ごろ、パクセから8キロ離れたバスステーションに行く。英語はまったく通じない。アタプーに行こうかどうか迷ったが、アタプー行きのバスは午後3時ということだったので、Vaem Khamのカンボジアボーダーに向かうことにした。最初から頼んでおいてVaem Khamにいちばん近いというところでバスを降ろしてもらう。そこに一人だけ待ち構えていた素人バイタクでボーダーまで2ドル(2万キップ)。5時を過ぎていた。ボーダーは何もないところで泊るところもないので、カンボジアにいかざるを得ない。ラオスのイミグレは時間外だといってスタンプを押すだけで2ドル取る。川を渡ってカンボジアのイミグレ(小屋)に行くのに舟代2ドル。カンボジアのイミグレもまた時間外と言って5ドル取ってくる。(「マイタイム」だ、なんて言っていた。私的時間に公的仕事をするという変な話。)ボートを借り切って40ドルでいちばん近い町へ行けると聞く。明日行くなら25ドルだという。どうせなら今日行ってしまおうと思ってボートを借りたのが間違いのもと。ボートは夕暮れのメコン河をすごい勢いでとばしていく。少し暗くなりかけたころ案の定、座礁して浸水。中洲で動けなくなる。船頭が携帯電話を持っていて、何度も通話を試みる。電波状態が悪く、中州の立ち木に登ったりしてようやく少し通じたようだが、今夜はもう船は来ない。通過していく船はたまにあるが、助けに来てはくれない。結局メコンの中州で一夜を過ごすことになる。船頭がビニールシート敷く。タイ語を話す若いカンボジア人の男。寒いと言うので私の厚いシャツをひとつ貸してやる。この船頭と2人きり、ビニールシートをかぶり砂まみれになって寝る。この男がどういう人間かわからない。はじめて今日が最後の日かもしれないと思った。
【スタントレン】
23日。結局無事に砂の上で夜明かし。船頭の携帯が通じたらしく、朝7時半頃小さなモーターボートが来る。それで一時間くらいかけてスタントレン(Stun Treng)に着く。金は昨日前払いした40ドルだけで、追加料金なし。船頭が悪人でなくて良かった。スタントレンのリバーサイドゲストハウスというところにチェックイン。中国人の経営。スタントレンのマーケットはほとんどタイやラオスと変わらない。カフェもない。地図がないので、ローカル本屋でカンボジアの地図を買うがあまり良くない。
両替レートは10000キップ=3500リエル、1B=97リエル、1ドル=4000リエルだった。(リエルを買うとき)。
スタントレンのレストランで、たいそう洗練されたアメリカ黒人と話をする。彼はレストランの主人とフランス語で話をしていた。そのレストランのカンボジア人の主人はフランス語は話せるが英語はまるで話せない。そのアメリカ黒人は長くヨーロッパやアフリカに滞在してフランス語を覚えたと言う。旅先にフランス語が必要な国が多いから便利なのだと言う。コンピューターの仕事をしながら旅をしているそうで、一番大切なものだといってパソコンなどの入った重そうなデイパックを肌身離さず持ち歩いていた。フランス語圏のアフリカ人がアメリカ人を騙っているのとは違うようだった。
【カンポンチャム】
24日。午前7時半の大型ボートで出発。白人たちはいつも船のデッキに乗りたがる。私は船室の椅子に座る。
船の中で隣に座っていた英語を少し話す若いカンボジア人が昼飯を分けてくれた。そのためにわざわざご飯をもうひとつ買ってきてくれた。
午後1時過ぎにカンポンチャムにつく。日本の援助で作ったらしい大きな橋が目印。マーケットを目指して歩いていると日本語を話すガイドがタダでバイクに乗せてくれた。
マーケットの近くのNavaゲストハウスというところにチェックイン。トイレシャワー付3ドル。広い部屋。
【プノンペン】
25日。10時過ぎ、近くでミニバスに乗る。プノンペンへ。3時間半ぐらいで着。キャピトルゲストハウスのシングルに入る。2年半前に来たときとはずいぶん感じが変わっている。乞食も少なくなり中途半端にこぎれいになってきた。
【カンポンチュナン】
26日。11時ごろチェックアウト。Psar Thmey(セントラルマーケット)の前でカンポンチュナン行きのバスに乗る。6000リエル。バスの窓からムスリムがいっぱいいる地域を見た。白い帽子と白いシャツにピカピカのカラフルなルンギをはいている男たちがいっぱい道を歩いていた。2時間ぐらいで着く。バス停やマーケットのあたりには泊るところが見あたらない。バイタクでPhkay Proeukゲストハウスというところに行きチェックイン。5ドル。
【プルサート】
27日。午前8時ごろガソリンスタンドの近くでピックアップを拾いプルサートへ向かう。10時過ぎに着く。ピックアップはシート席1万リエルでぎゅうぎゅう詰め。New Than Sourというホテルにチェックイン。5ドル。
【バッタンバン】
28日。8時過ぎ橋の近くでピックアップを拾いバッタンバンに向かう。プルサートからバッタンバンへの道は景色がとても良い。地平線まで農村風景が続いている。11時ごろバッタンバン着。Mohatepというゲストハウスに入る。水シャワーだけの汚いツインルーム(TV付)で5ドル。オーナーはクメールと中国人の混血で感じの良い爺さん。中国風の白いコンクリートの建物。バッタンバンは小さな町だが毛唐が目立つ。グループできている連中の他に売春婦を連れたやつも。自転車に乗ったミッショナリー(こいつらが最悪)など。驚いたことにこのゲストハウスのTVにはNHKの衛星放送が映る。ただし画質は悪い。
【ポイペト】
29日。12時少し前にバッタンバンをバスが出る。途中シソフォンを過ぎたあたりから道が悪くなる。ポイペトには2時ごろ着。
ポイペトはすっかり変わってしまった。ロータリーも舗装され、ニタゲストハウスはなくなっている。ニタには泊ったことがなかったが、日本語を勉強している双子の兄弟がいた。新しいビルがどんどんできていて、大きなクレーンで工事をしている。自分の記憶の中にあるポイペトはすっかり消えてしまい、すこしがっかりした。
2年半前にはじめてポイペトに来たときはショックだった。当時ポイペトにはまだ「戦後」があった。降ればぬかるみ、照れば砂嵐、夜は何が起きるかわからない恐るべき町だった。舗装もなかったし、マーケットへ行く道には街灯もなかった。人力で引っ張る木製の大八車、馬車、赤いターバン(?)を頭に巻いたクメールの女、汚いぼろをまとってぬかるみに立つ美少女、獰猛な目をしたバイタク・・・・それらもろもろがロータリーを中心に凝縮されて飽和していたが、そういう印象はいまはほとんど消えていた。
ロータリーに面したLong Seng Lyゲストハウスにチェックイン。2年前いつも泊っていたChav Pha Yaゲストハウスはもうなくなったように見えたが、よく見ると大きなカジノの敷地の中に残っていた。その前の未舗装だったぬかるみの路地もすっかり舗装され、チャオファヤの前にはインターネットができていた(ただし異常に高く機械も2台しかない。マーケットに行く道にあるネット屋のほうが安い)。周囲の様子もすっかり変わった。
その路地に並んでいた高床式バラックの店は、残っているものもあるが床はコンクリートになっていた。以前は板張りで板の隙間からゴミを捨てていた(道の横のドブの上に道と同じ高さの高床がある形式)。毎日のようにフランスパンサンドを食べていた店もコンクリート床になっていたが、いつも不機嫌そうな足の悪いお姉さんはいまもいた。しかしフランスパンサンドは私が来たちょうどこの日を最後にやめてしまった。フランスパンサンドイッチはカンボジア「ローカル」な食べ物なのかもしれない。2年半前、最初にこの店の生野菜たっぷりのフランスパンサンドを食べたときは少し勇気が要った。
チャオファヤを覗くと受付のおばさんはあいかわらずだった。
ロータリーの周りの屋台はすっかり数が少なくなった。ロータリーの南側に2軒あったバラックのカフェレストランも一軒はなくなり、残っている一軒は床がコンクリートになっていたが以前の活気はなくなっていた。オーナーのたくましい兄ちゃんが淹れるカフェー(カンボジアコーヒー)の味だけは変わらない。
30日。午前8時ごろ。Long Seng LyをチェックアウトChav Pha Yaゲストハウスに移る。
歩く人の顔つきも変わった。以前は獰猛なまなざしをよく感じたが、いまはそういうことはあまりなくなった。マーケットへ行く道も舗装されて街灯がつき、夜でも一人で歩いてマーケットへいけるようになった。マーケットの中も明るくなった。何よりコンビニがいくつかできた。イミグレ・ロータリー周辺だけでなくマーケットのほうにもコンビニやレストラン、ゲストハウスができている。
ニタゲストハウスは、マーケットに近いほうに移転していた。双子の兄弟はあいかわらずいたが日本語はもう勉強していないようだ。

【アランヤプラテート】
12月2日。午前9時ごろチャオファヤをチェックアウト。タイに入国。
モトサイでアランヤの町に行き、アランガーデン2にチェックイン。ファンの大きな部屋。300B。

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2005年9月18日 (日)

2004年10月メーサイ

2004年
【チェンマイ】
10月12日カンペンディン通りのガーデックスというトラベルエージェンシー(日本語を話すおばさん)にラオスビザを依頼。30日ビザ。エクスプレスで1900バーツ。かなりぼられた感じ。他の代理店の話でもアライバルビザは15日間のしか取れないらしいので、旅行会社に頼むことにした。ビザ申請フォームにはraceという項目があった。Japaneseと書いておいた。
15日。ラオスビザのついたパスポートを受け取る。午後1時半のエアコンバスでチェンライに向かう。チェンライホテル(清莱旅社)にチェックイン。ラオスビザにはdurationのところが何も書いてない。空欄になっている。これが不安。ほんとうに30日あるのか。
【メーサイ】
18日。チェンライホテルを昼ごろチェックアウト。
メーサイ行きのバスに乗る。バスには売春婦連れのファランが一人乗っていた。
途中でバスに乗り込んできたタイ警察は、私のパスポートをしつこくチェックしたが、売春婦連れ白人のほうは(当然)ノーチェック。これまでは私もほとんどノーチェックだったが。
いつだったか、インド人顔のタイ人男性がこの路線に乗っていたことがあった。その人はIDカードも提示していたが、タイ警察にべたべたと身体をさぐられていた。
メーサイではいつものSureerat Restaurantの部屋が満室だったので、向かいのダウDawゲストハウスにチェックイン。
19日。Dawをチェックアウト。スリラートはあいかわらず満室なので、バンブーゲストハウスに行く。150バーツの部屋。良く見たら、隣のキングコブラゲストハウスの部屋だった。
バンブーがキングコブラを併合していた。壊れた湿気たベッド。
バンブーはもう日本人の経営ではなくなっていた。
20日。川沿いの道東側の「メーサイコンプレックスホテル」に入る。エアコン300バーツ。昼はあまり効かず、夜は効きすぎる。変なにおいがする。
21日。メーサイコンプレックスをチェックアウト。
スリラートの窓側の部屋に入る。200バーツ。窓側はうるさい。
22日。スリラートの3号室(3階の奥側)に入っていた日本人がでたので、そこに移る。
荷物整理をしていたら、日本から持ってきた5万円のTCがなくなっているのに気づいた。他のものは現金も含めてそろっているので、何処かに自分で捨ててしまったようだ。要らない書類を処分したときに一緒に捨ててしまったのかもしれない。番号の控えも無い。
25日。トラベラーチェックを買おうとしてメーサイの銀行を回るが、どこも売っていない(ミリタリーバンク、クルンタイ、カシコーン)。銀行で300ドル、商店で200ドル買う。商店は興義か義興かそんな名前の問屋のようなところ。銀行のほうがレートは良いが、商店の方が札は新しく、古いものは替えてくれと言えば替えてくれる。2003年のをくれというとくれる。この店のオヤジはいつも分厚い札束を持っている。すごい現金がまわっている店だ。銀行のドル売り41.25バーツ/ドル、ブラック41.50バーツ/ドル。
メーサイやチェンマイの銀行が売るドル札はツーリストが両替したもの。ツーリストが落としたドル札があるときは売ってくれるが、それが無いときは無い。ツーリストが持ってきた札なので、汚いものが多い。
メーサイホスピタルに行く。
夜は冷え込み、風邪気味。フリースジャケットを着て寝てもまだ寒い。

補遺:メーサイでは、ほぼ毎日朝の8時と夕の6時にタイ国歌が流れる。国歌の流れているあいだは、仕事中であっても急いでいても起立清聴が強要される。国歌の時間が来ると国境の前の警察官がピーという笛を吹き、表に出ている有色人種はすべて直立不動で清聴しなければならない。
白人ツーリストは無視して歩いているが、それについては誰も文句を言わない。しかし、日本人を含む有色人種がこれに従わずに歩いていると、タイ人市民が怒り出すことがある。私はこれを経験している。
メーサイで外に出て働いている人はミャンマー人など外国人も多い。屋台や店で働いているミャンマー人等は、不法滞在者ではなく、かなりの大金をタイの役所に払ってパーミットを取り合法滞在している人たちである。彼らも起立清聴に絶対に従わなければならない。
タイ政府は、警察の威嚇をもって私たちに起立清聴を強要すると言うなら、白人たちにも同じことを強要してみたらどうだろう。タイ人にそれができるだろうか。
短期ツーリストにとってはなんでもないことのようだが、すこし長期滞在してみると、タイ国家によるこの異邦人に選別的に及ぶ思想統制および「感性のコントロール」がたまらなく嫌になる。
というのは、この感性のコントロールの基礎にもまた、肌の色によって人間の扱いを変えるのを当然と考える人種主義、帰属勢力(出身国や人種)の強さや財力によってその人の法的扱いさえ変えることを恥じない事大主義、というタイ人に顕著な体質(人種差別体質、事大主義体質)があるからだろう。彼らのそのような体質には政治思想(の右左等)とは無関係に嫌悪を感じる。
タイ政府・市民が、有色人種の外国人に対するのと同じように高圧的に、白人にも同じことを要求すると言うのなら、私は彼らの政策になんの異議も申し立てるつもりはない。

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2004年9月10月ミャンマー(マンダレー、ミチナ、ヤンゴン、バゴ、モーラムヤン)

2004年
【マンダレー】
9月9日。午後2時半ごろ、チェンマイ空港からエアマンダレーでマンダレーへ。マンダレー空港から以前と同じく8000チャットのタクシーで市内へ。5時半ごろ、前と同じサバイプユゲストハウスにチェックイン。サバイプユのフロントはフレンドリーで感じがいい。4月に泊ったとき、私が受付で並んでいると、白人客が横から割り込んでフロントに何かを聞こうとしたことがあったが、フロントの女の子は相手にしなかった。タイなら別の展開になっただろう。
10日。マンダレーは雨季。よく雨が降る。道路が川のようになり、ロンジのすそをたくしあげて水の中を歩かないとどこへもいけない。私は4月以来タイでもロンジをはいている。マンダレーはティーショップがあまりない。夕方の六時くらいに閉めてしまうところが多い。雨が降って道が川のようになるとティーショップはどこも閉めてしまう。
11日。川のフェロー乗り場を見に行く。以前と少し雰囲気が変わった。川沿いを歩くと変なにおいがする。
ホテルの同じ部屋に陣取っている中国人がうるさいので昨日部屋を変えてもらった。ドアを開けたまま十数人がひとつの部屋に集まり大騒ぎをしている。紙切れを細かく破って放り投げあたりに散らかすので、中国人の部屋の前はゴミだらけ。バクチかなにかしているようだ。エアコンの部屋なのにどうしてもドアを開けたいらしい。中国人と同じ階になってしまったら、部屋が離れていてもダメ。その階中響き渡る。インド人も泊っていて、やはりドアは開けているがおとなしく行儀は良い。中国人が泊っていないという別の階の部屋に移るが、運悪くそのあと別の中国人が同じ階に入り、同じように扉を開けたまま大騒ぎを始める。
【ミャンマーエアウェイズ(MA)】
12日。ミャンマーエアウェイズでミチナへ。ミチナへはミャンマーエアウェイズしか飛んでいない。空港のチェックインはスムーズ。チャイントーン空港より簡単で、荷物を開ける検査はない。X線のみ。ミャンマーエアウェイズはとっても良い飛行機だ。座席指定がない。自由席。みんな思い思いに座る。座席は廃車になった観光バスよりさらにぼろい感じ。飛んでいる間に食事用テーブルが留めがはずれて落ちてくる。英語アナウンスはない(ヤンゴン路線はある)。一応ジェット機でエアマンダレーの国際線より機体は大きい。その飛行機はヤンゴンから来て、マンダレーで客を入れ替えてミチナに向かう。ヤンゴンからマンダレーまでの客が食べた弁当の屑が、椅子の前のポケットに入ったまま。
ロンプラはこのミャンマーエアウェイズをキチガイのようにたたきまくっている。その理由は、「悪い」政府の経営する国営航空だからというもの。ミャンマーエアウェイズを使うと「悪い」政府にカネが入るからよくない、という小学校のクラス委員的な立派な理由である。その裏には、ミャンマーエアウェイズは、「ツーリスト」(=白人)の方を向いていない、媚びてくれない(「フレンドリー」でない)、というのもあるのだろう。
しかし私は、ミャンマーエアウェイズは、少なくともタイ航空(TG)なんかよりはずっと立派な航空会社だと考える。MAはミャンマーの辺鄙な町にも飛んでおり、ミャンマー国民の重要な足になっている。乗客はほとんどミャンマー人で、大きな荷物を客席に持ち込む人もいる。大きな竹篭に入った行商用らしき品々など。スチュアーデスは無愛想だがよく見ている。困っている人がいると表情も変えず手を差し伸べる。赤ん坊を連れた客が入ってくると、混んでいる客席のなかで子供を寝かせられるような席を見つけてやる。
【ミチナ】
空港付近は兵隊が厳重に警備していてあらためて軍事政権を実感する。
空港からオートリクシャで800チャット。YMCAにチェックイン。ロンプラの記述に反してシングルルームあり。バストイレ共同の広いこぎれいな部屋。7ドル。部屋には無料のインスタントコーヒーとお湯が用意され、毎日換えてくれる。インスタントコーヒーは小袋に入った砂糖入りネスカフェ。こちらにはブラックコーヒーを飲む習慣はない。ここも雨。YMCAには一人汚い感じの白人がいて、YMCAで勉強してるらしい地元の女の子たちに囲まれてしゃべっている。
14日。ミャンマーエアウェイズのオフィスを聞き出し、プータオにいけるかどうかを聞く。パーミットがあるガイドが一緒でないといけないようだ。そしてパーミットはヤンゴンでないと取れないらしい。ミチナのイミグレーションオフィスにも行って頼んでみる。イミグレの役人と一対一で対面し、なんとか行けないものだろうかと聞く。パーミットがないからダメだというので、あなたがパーミットを出してくれるわけにはいかないのかと聞くと「自分はオーソリティがないから」ということだった。賄賂も示唆したつもりだったがムリのようだった。そのときはどうしてもプータオまで行ってヒマラヤに近づきたい気持ちだった。
16日。ミャンマーエアウェイズのオフィスまで行きヤンゴン行きチケットを申し込む。ヤンゴンまで165ドル。つり銭はくれないというので、5ドルまできっかり払う。ドル札の番号を一枚一枚控えていたのに驚いた。午後一時もう一度オフィスに行きチケットを受け取る。
YMCAの「ボス」にドルをチャットに両替してもらう。ミチナはマーケットでも両替してくれない。一ドル900チャットだった。マンダレーよりずいぶんいいレート。「ボス」によるとヤンゴンでは910チャットくらいらしい。
ミチナに日本人が寄進したらしい巨大な寝釈迦大仏がある。新しいものだがミャンマー人の仏教徒が跪いて礼拝している。その敷地の隅に、日本人が立てた招魂碑がある。静岡県の人が寄進したらしい。ミチナでも多くの日本兵が玉砕した。日本兵とともに最後まで闘い玉砕したビルマ人兵補のことを忘れない、とあった。日本軍が強い間は日本軍と一緒になって英領ビルマ(チャイントーン)に進駐したりし、日本軍が劣勢になると手のひらを返したように連合軍に付いたタイ人たちとは対照的だと思った。戦争の是非でなく人間の質の話。
ミチナはカチン州の州都だが、民族衣装はほとんど見ない(ビルマ族のロンジを除く)。ロンプラによれば、カチン州は戦前からキリスト教のミッショナリーが集中攻撃して宣教したところだかららしい。そういうこともあって、少数民族の伝統を守る人が少ないようだ。北タイやミャンマーでのミッショナリーのやり方は、少数民族の固有の文化や伝統を野蛮なものとして一切捨てさせるというもので、その結果、キリスト教徒の子供は本来の名前を持たずクリスチャンネームのみとなる。祖先崇拝や自然崇拝などの宗教的伝統を一切捨てさせる。
山岳少数民族の中には祖先の名前を何十代も暗証するのが習慣になっているところもある。そういう文化を野蛮なものとして一切否定し捨てさせるのがキリスト教ミッショナリーのやり方。(キリスト教徒自体、マタイ伝の系図を暗記してたりするのだが)。
ミチナの人々がミャンマー人にしては冷淡に見えるのはキリスト教徒が多いからかもしれないなどと思った。
17日。空港までオートリクシャで700チャット。ミチナの空港の建物は木造で村の小学校という感じ。発着ロビーのほうは鉄筋で少しいい。11時チェックインとあったが午後2時まで待たされる。白人女が2人乗った以外はアジア系ばかり。マンダレーまではローカル線という感じ。マンダレー-ヤンゴン間はお菓子と薄いミルクコーヒーが出た。お菓子は弁当のような紙箱に入っていたが、小さなカステラとビスケット。マンダレーを出たときスチュアーデスが酸素マスクの使い方を初めて簡単にやっていた。
【ヤンゴン】
ヤンゴンに着くとき英語アナウンスがあった。ヤンゴン空港から4000チャットで4月に泊った大富華旅館へ。一泊10ドル(以前と同じ)。窓のないエアコンの部屋(どの部屋も同じ)。
18日。宿の中国人のオヤジに人民元をチャットにしてもらう。100元10000チャット。モンラに行った時にチャイントーンで買った人民元がたくさんある。このオヤジは華人だがロンジをはいていてビルマ語も話す。しかしやっぱり中国人の猛烈さはある。
19日。タチレクのビルマ人チョーチョー(Kyaw Kyaw)さんから紹介されていたチョーチョーさんのお姉さんのところに朝電話をかけて訪ねる。ドー・キン・タン・ミンというおばさん。草木染の工場を経営している。ヤンゴンの郊外の公営住宅のようなところに住んでいる。工場はメイティラだという。工場を見学できると思っていたが商品が少しあるだけ。老眼鏡をかけたおばさんだが日本に4年ほど留学していたそうで、日本語はかなりできる。漢字も読めるようだ。お茶とラスクのような質素なミャンマーのお菓子がでる。ミャンマーのお菓子だと言ってしきりにこれをすすめてくれた。食パンを乾燥させたような、甘くないラスクみたいなもの。この人も日本からミャンマーに帰るとき、タイのイミグレでやばいことになりそうになったという。バンコクはトランジットだけだったが、間違えて団体客に混じって外に出てしまったそうだ。タイ人役人の嫌がらせをうけるのは必至なので、乗ってきた大韓機のオフィスに行き、付き添ってもらってなんとか事なきを得たとか。チョーチョーさんも、日本でオーバーステイをして送還されるとき、バンコクのイミグレ役人に3万円要求されたという。
行きはタクシーで1500チャット。帰りはキン・タン・ミンさんの娘(か使用人の女の子)と一緒にバスで市内に戻る。バス代は20チャット。えらい違い。ボジョクアウンサンマーケットの近くで降りる。
毎日インド人街の屋台でダヒ(ヨーグルト)を食べる。一人だけ露骨にぼるババアがいるがあとはいい人が多い。
20日。午前中にインド大使館にビザ申請に行くが、日本大使館のリコメンデーションが必要と言われる。日本大使館に電話をすると今日(敬老の日)もやっていた。日本大使館に行きリコメンデーションの書類を作ってもらう。
ミャンマー日本大使館の職員は守衛まで日本語をよく話す。チェックは厳重ですべてガラス越しの会話だが、概してすごく親切。特に中の窓口の人は、日本語が良くできるミャンマー人でいろいろな質問に丁寧に答えてくれる。わからないことはわざわざ調べて教えてくれた。地図まで書いてくれる。日本人職員は見えるところにはいないようだった。待合室にはミャンマー人がちらほら。インド大使館にもどるが、開いているのは午前中だけ(9:30~11:00)で今日は申請できない。
Bogyoku通りの西の端のほうにあるBahosiクリニックに行く。最初ヤンゴンジェネラルホスピタルに行くと職員が親切に、ここは国立で(外国人は)ドル払いで高いからといってBahosiクリニックを紹介してくれた。
21日。午前中にインドビザ申請。金を払う。「4仕事日」待てといわれる。来週の火曜日までヤンゴンから動けない。(パスポートがないとホテルに泊れない。ツーリストが民家などに泊るのはご法度)。
23日。スーレーの近くのエアマンダレー代理店に行き、チェンマイ行きを予約。20ドル払う。総額75ドル。
24日。スーレーから東に行ったところのバス停で218番のバスに乗り、タンリインへ。小さな町。マーケットがある。シャンヌードルのようなものも。バスの番号はビルマ文字だけだが、少しわかるようになった。
大富華旅館近辺はチャイナタウンで中国人施設が多い。「江氏家族会」「戴氏家族会」「陳氏敬愛会」などの立派なビルがある。特に江氏のが大きい。華人は氏族のつながりが強いのか、そういう名の秘密結社のようなものか・・・・。
25日。昨日とは別のルートのバスでなんとなくまたタンリインに行ってみる。すぐに帰ってくる。20K×2。
26日。バゴ(ペグ)に日帰り旅行。アノーラタ通りの西の端の公園(ターキンミヤThakhyin Myaパーク)にあるバスステーションから、バゴ行きのバスに乗る。Phyo Express。400チャット。バゴは客引きが多かった。日本語を話すサイカ(トライショー)の運転手兼ガイドが日本語で話しかけてきた。モンMon族地区に近い寝釈迦大仏のある寺でも日本語を話す物売りの女の子がたくさん寄ってくる。帰りはソンテウのようなピックアップバスしか捕まらない。これも400チャットで行きの「エアコンバス」(例によってエアコンは動かない)と同じ。ヤンゴンに着いて48番の市バスでスーレーへ。行きのバスはちょうど2時間、帰りのピックアップは3時間くらいかかった。
27日。空港への行き方を調べる。空港への市バスは、スーレーの南のマーチャントストリートを西に入ったところから51番のバスで、ピヤイロードを通って「10マイルズマーケット」(セマイルズゼイ)まで行き、そこからピックアップで行くか、歩く。10マイルズマーケットは終点ではないので注意。金色の門を通り過ぎたらすぐ。
【バゴ(ペグ)】
28日。午前インド大使館に行きインドビザを貼ったパスポートを受け取ってから、大富華旅館をチェックアウト。
ターキンミヤ公園のバスステーションからPhyoエキスプレスでバゴ(ペグ)行きに乗る。正午発。バゴに着き、エンペラーモーテルにチェックイン。6ドル。狭い部屋。エアコンは夜だけ。スコール。
インド人のトライショー運転手に頼んで、モンMon族の集落を案内してもらう。バゴのまちからそれほど遠くないところに高床式の集落があり、昔ながらの機織を営んでいる。そのひとつをお願いして見学させてもらった。木造の古い織機に女性たちが一本ずつヒを飛ばして絹の生地を織っていく。商品も売っているがどれも一枚布ばかり。女性のロンジ用が主流のようだった。そういう家内工場のある家がいくつかあった。いまもモン語を話す。しかし、インド人の話では、モン族は貧しいのだという。(Mon族はタイ中部にも分布する。しかしタイのモンがどれだけ民族的なアイデンティティを保持しているかは疑問。モン語を話せるモンがタイにもいるのだろうか。なおラオス等のHmongはまったく別の民族)。
29日。エンペラーモーテルをチェックアウト、右斜め向かいにあるサンフランシスコホテルに移る。同じく6ドル。広い部屋。ただしエアコンはPM11:00以降のみという。ファンはある。サンフランシスコホテルのスタッフは、チェックインのときはいい顔をしていたが、そのあとがらりと態度が変わって悪くなる。変な感じ。電気も深夜になると切れ、エアコンなどまったくのウソ。広くて窓が多いわりに蒸し暑かった。エンペラーモーテルの下の切符売り場でチャイティオ行きのバスを予約する。1500チャット。
【タットンThaton】
30日。9時半、エンペラーモーテルの前からバスに乗り、Thatonに行く。チャイティオは通過。タートンでトライショーにBlue Cloudゲストハウスというところに連れて行ってもらう。昼からエアコンがあるが、バストイレ共同の部屋で8ドル(言い値は10ドル)。タートンは小さな町だが立派なパヤがある。町が小さいだけにすばらしく大きく見える。

【モーラムヤンMawlamyaing】
10月1日。タートンを出る。正午ごろのピックアップでモーラムヤンMawlamyaingに向かう。500チャット。3時ごろ埠頭に着き、外国人料金1ドルを払ってフェリーに乗る。ピックアップはさほど混みあわず、後ろの席でもわりと快適だった。フェリーはモーラムヤンのHpa-an Jettyに着く。着く頃にひどいスコールになる。4月にロイムウェーで夕立にあったときに買ったビニールをまとうがびしょぬれに。川沿いを右にしばらく歩き、Breezy Rest Houseにチェックイン。途中、親切な人がバイクに乗せてくれた。乗っている間いくら請求されるかはらはらしたがタダだった。いろいろあると善意を受けるのもだんだん心苦しくなってくる。
Breezy Rest Houseのだだっ広い2回の部屋に入る。一泊8ドル。2泊15ドルにしてもらう。ほんとうにだだっ広い部屋。このBreezyは、植民地風のつくりというのだろうか、床は板張りで柱や壁はコンクリートと木造のミックス。
部屋の壁に隙間があるらしく、夜のあいだこうもりのような小さな動物が、部屋の中をすごいスピードで飛びまわる。真っ暗だから鳥ではない。正体を見極めようとしたがすごいスピードで部屋の壁の端から端へと飛ぶのでわからなかった。この部屋は天井も高くがらんとした空間。ベッドに蚊帳がつってあるので、この動物に噛まれることはないだろうと思っておそるおそる寝る。
2日。朝遅く起き出すと部屋の前のホールに朝食が出された。すぐに出せるように用意されてあった。小さい食パンのトーストとオムレツと「コーヒーミックス」(ミルク砂糖入りインスタントコーヒー)とオレンジジュース。
バスチケット売り場を教えてもらい、ヤンゴンへのナイトバスのチケットを買う。セイジョーというバスステーションから出る。2700チャット。昼、果物ばかり売っているマーケットでドリアンを半分買う。1500チャット。高いが色も濃くてうまかった。
3日。正午にチェックアウトし、マーケットやティーショップ、ゲストハウスの下のロビーなどで時間をつぶし、3時45分ごろモスクの近くのチケット売り場の前まで歩き、セイジョー行きのピックアップを拾う。セイジョーまで30分ぐらい。100チャット。
バスは日本製でゆったりした新しいもの。一応エアコンが働いている。しかし時々停車して車輪か車軸かにさかんに水をかけていた。
タットンThatonまでは来たときと同じく3時間で行く。タットンからがのろのろで長くかかった。時々検問もある。ほとんど全員おろされた。それでも降りない人もいる。ネパールほど高圧的ではないが、人の顔を見ているようで調べる人は念入りにチェック。しかしタイほどいやらしい感じはしなかった。服装や人種でどうこうというやり方ではないようだ。逆に言えばもっと高度なチェックをしているということになる。ミャンマー人にしかわからないサインがあるのかもしれない。
【ヤンゴン】
4日。午前5時過ぎ、12時間かかってヤンゴンに入る。その間、食事休憩二回と故障らしきこと一回。初めて停車するバスターミナルで降ろされる。マハーバンドーラ通りをずっと西に行ったところで、バスターミナルらしさがまったくない場所。そこから市バスでマハーバンドーラをスーレーのほうに行き、ライライホテルが見えたところで降りる。シュウェトンダンロードを北に歩いて、大富華旅館にチェックイン。市バスの中に山岳少数民族と思われる女性が三人はだしで乗っていた。一人は若く、短いスカートをはいていた。バスに裸足のまま乗る人ははじめて見た。表情を見る限り悲惨でも不幸でもなさそうだった。周りの人も気にしない。
昼過ぎまで眠ってからエアマンダレーオフィスに行き、チケットを受け取る。
7日。10時までにエアポート。エアポートまでは、大富華旅館近くのバス停から51番のバスで10マイルズ(セマイルズ)まで行く。バスの中でシャン族の太った女の子が親切に荷物をひざに乗せてくれた。英語教師で日本語も少し話せた。
チェックインは非常にわかりにくい。人に聞いてもあそこここといいかげんな答えしか返ってこない。最初は指示されてドメスティックロビーの方に行かされた。
【チェンマイ】
飛行機は時間通りにチェンマイに着く。チェンマイ空港からはるばる歩いてコンコートホテルまで行く。350バーツでエアコン付の部屋。一時間以上歩いた。
夕方、ナイトマーケットの近くの「デパート」のノースフェイス代理店と、カドスアンケオ(セントラルデパートなど)をまわり、カドスアンケオの方でアディダスの小さなショルダーバッグと「スポーツジャンクション」でノースフェイスの大き目のショルダーバッグを買う。
8日。銀行でドル札を買う。チャイントーンのブラックマーケットとレートはさほど変わらないが、札が汚いし古いのがある。変えろといってもでかい態度で「無い」という。ミャンマーなどでは札がきれいで新しいことは重要だ。特にドル札の場合、古かったり汚れていたり破れていたりすると受け取ってもらえないことがある。タぺー通りのクルンタイバンクで1000ドル(レート41.55バーツ)とカシコーンバンク(かつてのタイ農民銀行)で200ドル(レート41.56バーツ)買う。とくにクルンタイは態度が悪かった。

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2005年9月17日 (土)

2004年7月8月チャイントーン、モンラ

2004年
【チェンマイ】
5月10日。チェンマイラム病院。
チェンマイは夜も早くなり、今の時期、売春婦連れ白人は少なくなっている。
【チェンライ】
16日。チェンマイアーケードからエアコンバスでチェンライへ。バーンブアゲストハウスにチェックイン。
17日f。ブーンブンダンゲストハウスに移る。
【メーサイ・タチレク・チェンライ】
26日。午前11時。ブーンブンダンをチェックアウト、メーサイに向かう。2時間ほどで着く。
Sureerat Restaurantの部屋に入る。200バーツ。以前は150バーツだったが、テレビがついた。
27日。タチレクに出る。最近はタイのイミグレにパスポートのコピーをさかんに要求される。それも全部ではなく適当なページだけ。そういう情報はコンピューターにも入っているはずなのだが。
28日。チェンライへ。バーンブア。

【チェンマイ】
6月1日。バーンブアをチェックアウト。エアコンバスでチェンマイに向かう。そのあいだチェックなし。ヴァラナンゲストハウスに入る。
2日f。チェンマイラム病院
3日。チェンマイラム病院。
4日。チェンマイラム病院。
5日。Tokyo Opticsで新しいレンズを作る。前に作ったフレームに明日つけてもらう。
6日。歯医者。めがね屋。
11日。毎日オロロットマーケットに「マンゴ+もち米」を買いにいく。
ロイクローのガラス張りコーヒーショップ。
眼鏡を変えてからものの見え方が変わりヘンな感じがする。腰痛も。
14日。夕方部屋に戻ると女を連れたファランが部屋のまん前で裸で座っていた。どこうとしないのでトラブルになる。
15日。ヴァラナンにいるのが嫌になり、チェックアウト。堀の内側のトップノースゲストハウス。
17日。チェンマイラム病院。
【チェンライ】
19日。トップノースゲストハウスを出る。ソンテウでチェンマイアーケードへ。30B。ヴィップバスでチェンライへ。時計塔に近いSiam Hotelという旅社に入る。200B。大通り沿いの旅社で、裏の部屋でもうるさい。
【メーサイ・タチレク】
22日。サイアムホテルを出る。緑のバスでメーサイへ。警官のチェックが2回。チェックされる人とされない人がいる。Sureeratにはいる。
25日。朝、タチレクにでる。

7月6日。日本から本が届く。
18日f。
【チャイントーン】
23日。スリラートをチェックアウト。一ヶ月の滞在。
タチレクのミャンマーイミグレーションに行くと、四月には取れた4週間のアライバルビザが取れなくなっていた。2週間のパーミットしか取れず、マンダレーやヤンゴンには行けない。やむなく、2週間のパーミットでチャイントーンに向かう。パスポートはタチレクのイミグレに預けなければならない。出国もタチレクのみ。車代400B。ゆっくり5時間ぐらいかけて走る。ノイイーホテルにチェックイン。
24日。チャイントーン2日目。朝、マーケットで変な日本人に会う。恥ずかしい買春オヤジにありがちなことだが、メーサイにいたときからこちらの行動を逐一監視していたらしい。こっちはまったく知らなかった。私がどこのマッサージ屋に行くのを見たとか言う。50歳近くになってほとんど買春のためだけに旅している。それがなぜか大真面目にやっているようにみえる。いろいろなことに興味がある人のようで、放送大学の通信講座を受講もしながら海外旅行もしてるという。放送大学に学籍をもっていると日本に帰ったときに大学の宿泊施設を使えるのだとか。その後も何度か出会うが、置屋通いを隠そうともしない。タチレクでたまたま再会したときは挨拶もそこそこに「いま置屋行ってきたところなんですよ。300バーツでした」なんて明るく声をかけてきた。言葉遣いは丁寧で、偉ぶったり自慢話したりはしない人。
バーツでドル札をを800ドルくらい買う。ドル買い1ドル40バーツのところと41バーツのところがある。中国元も1,000元くらい買う。
4月に来たときは本当に白人が少なかったが今度は増えている。ニヤニヤしながらきょろきょろと「野蛮人」を観察する目でマーケットに来ているファランオヤジが不愉快。
チャイントーンマーケットには、「本物の」山岳少数民族が、民族衣装のまま買い物に来たり物を売りに来たりする。ここには北タイトレッキングで見るようなの観光用の見世物にされている少数民族村とはまったく違う本物の生活がある。アカ族もよく見るが、タイのアカ族とは支族が違うようだ。
毎日雨が降ったりやんだりで時々晴れる。人民元を2000元買う。一元=4.95バーツ。
26日。隣の部屋に女を連れたファランが入った。熊のようなバカっぽい若い大男で、女のほうは子供のようなタイ女(と思われる)。音は筒抜け。朝から半裸で庭を歩き回り、女に洗濯をさせている。ノイイーホテルは水が真っ黒。ボーイは「ガヴァメントウォーターだから」などと言いわけをするが。
【モンラ】
27日。ノイイーホテルをチェックアウト。モンラに向かう。10時半ごろ車が来る。ミャンマー人客がフロントシートに陣取っていた。後ろにはもう一人タイ人の若造。モンラーまで6500チャット。道もよく舗装されている。タチレク-チャイントーンよりいいくらい。
モンラの近くのチェックポイントで入境料を払わなければならない。ミャンマー政府に払うのだろうが、なぜか人民元で払わなければならない。36元。午後1時ごろモンラにつく。運転手はミャンマー人客を最優先してホテルのチェックインの手伝いなどをし、そのあいだ車で待たされる。パーミットは運転手が「関所」に預けてしまい、身分証明書は何もなくなる。
「155旅館」という新しいきれいなところにチェックイン。身分証なしで泊めてくれた。ドーミトリ形式のベッドがいくつもある広い部屋を一人で使い15元。お姉さんの感じがいい。ビルマ人のように見えるが、タイ語がすこしできる。漢字は読めない。
28日。モンラの立派な方の橋を渡った向こうに、野球場くらいの広さの大きなマーケットがある。塀で四角く囲った空間で、人間がカネで満たすことのできる欲望はすべてその中だけで満たせるようになっている。いかにも中国的な便利な空間。まだ新しく、建設中という感じ。泰式中式緬式などの按摩屋があり、どこも25元(125Bくらい)。昨日中式按摩というのを試すが、泰式の要素がかなり入っていた。マッサージをするのはほとんど中国人の女の子。たまにタイヤイがいる。モンラはチャイントーンより暑い。メーサイがいちばん涼しい。
町はずれにシャン(タイヤイ)の集落があり、建物など風情があって面白い。新しく建った家と対照的。
29日。ミネラルウォーターは1.5リットルで3元(15バーツほど)。これはまだいいが、中国製のシャンプーが15元もする。ビルマ人茶屋のラペイエ(ミルクティー)が2元。
「シャン邦東部第四特区警察局」というところがあった。初めてパトカーらしき車を見たが乗っている人は警察官に見えなかった。
30日。数少ないタイヤイの屋台(非常に簡素なもの。台だけ地べたに置き低い腰掛に座る形式。作る人と相対して食べる)で、麺類を食べる。スープはほとんどなく少し「たれ」をかけて手でかき混ぜるカオソイ方式。なかなかうまい。155ホテルに近い町外れに2軒だけあって、そのうち一方のおばさんはチャイントーン出身でタイ語を話した。マッサージの子などは、シーサンパンナ出身のタイヤイでもタイ語を話したがらない。「普通話」を話せと漢字で書いてくる子も。彼らは中国人であることにプライドというか面目を感じているようにみえる。
昼間、ビルマ茶屋のテレビで、侮日的な中国の娯楽ドラマをやっていた。滑稽なちゃんばらの日本人が悪役で出てくる。中国のテレビのようだ。この店の主人はムスリムのビルマ人らしい。娘がいかにもビルマ娘という感じでかわいい。ロンジも良く似合う。数少ないムスリム住民がこの店に集まってくる。この町はムスリムが少なくて居づらいと言う人もいた。ラペイエを出す店もたぶんここ一軒だけ。
155ホテルの姉さんもビルマ娘で、いつもジーンズでロンジをはかないが、タナカをしっかり塗ってなかなか魅力的。
マーケットには堂々と、甜蜜蜜酒口巴(口偏に巴)、激情酒口巴、浪花酒口巴、夜来香酒口巴・・・・・などが並ぶ。
31日。近所の山からやたら鉄砲を撃つ音が聞こえてくる。この辺を支配している不正規軍(ビルマ人やタイヤイの混成軍らしい)の演習のようだが激しい。

【チャイントーン】
8月1日。朝、マーケットの近くのバス停まで車をさがしに行き、イミグレーションの人も捕まえて、ようやく155Motelをチェックアウト。155はいいところだった。2時間ほど走って、10時半ごろチャイントーンに着く。マーケットの近くのSam Yweatゲストハウスにチェックイン。「Sam Yweatホテル」は別のところで遠い。
2日。いつも行くマーケットの茶屋に、感じの悪いタイ人老夫婦が来ていた。こんなローカルな場所に来て、タイ語しかしゃべろうとせず、それが通じないといっていらだった顔を見せる。ババアのほうはさらに感じが悪い。タイ語が通じる人もいるが、チャイントーンでは基本的に国語のビルマ語が共通語。支払いの時も、チャットで払ってくれといわれているのにあくまでもバーツで払おうとする。ババアがティーショップのタナカを塗ったお姉さんを呼びつけて、吐き捨てるように「タオライ」という。ジジイのほうは「ライオンズクラブバンコック」という文字の入った野球帽をかぶっていた。ババアの鼻はとって付けたようにまっすぐで、整形でもしたようにみえる。
3日。Sam Yweatゲストハウスはファラン客が少なく、その意味では良い宿。しかしその分タイ人客が多く、中国人のような振る舞いをする。
Sam Yweatはきれいな水が出た。ノイイーホテルのボーイがガヴァメントウォーターだから汚いといっていたのはウソのようだ。たぶんノイイーの貯水タンクが汚いだけだろう。
【タチレク】
4日。Sam Yweatをチェックアウト。宿のアカ族の女の子に11時にタクシーを呼んでくれるように頼むが、12時になってもこない。客の人数が足りないというのだが。少し強く言ったらすぐに来た。来たのはいいが他の客を拾うためにそれからまた一時間ぐらいかける。同じことだった。しかしそれからが最悪。最初運転手かと思っていたのは酔っ払ったタイ人客の一人だった。ミャンマー人運転手をバンのうしろの荷台に追いやって、自分ででたらめな運転を始めた。ミャンマー人運転手のほうはまったく言いなりのようだった。私は助手席に座り、うしろに3人タイ人客がのっている。タイ人ニセ運転手がキチガイじみた大声で後ろのタイ人客と話し続ける。アルコールの臭いをぷんぷんさせてでたらめな運転をしながら、ひっきりなしに強烈な大声で話し続ける。ティッシュペーパーで耳栓をつくり耳に詰め込むがあまり効果がない。どうしょうもないタイ猿だった。タチレクまでの道のりが長かった。車代400バーツ。苦行のような旅で腹が立っていたし、運転手が運転していないので300バーツに負けさせようとしたがムリだった。
この日はタチレクに泊る。ドリームフラワーゲストハウス。160B。汚い宿で水シャワー。ムスリム地区にあり、スタッフもムスリムだが感じは良い。
【メーサイ】
5日。午前中にメーサイに出る。スリラートレストラン2号室にチェックイン。ここの従業員はみんなミャンマー出身のビルマ人。部屋に残しておいた本はとっておいてくれた。夜は01古式按摩へ。いつもやってもらっていたピーム(フィム)は、身体を壊してタチレクの村に帰っていた。この子はミャンマーのアカ族。
6日。眼鏡がどれも合わないので、新しいレンズを作ろうと思い、セブンイレブンの近くの眼鏡屋Top Charoen opticsに行くが、ここで作るのは無理だった。レンズを作るときはバンコクに送るのだそうだ。メーサイにレンズを作れるところはないらしい。
9日。向かいの1号室にキチガイファランが女を連れて泊り、夜中大騒ぎ。ファランにしてはふつうかもしれないが、この宿としては大騒動。裸で廊下を歩き回る。
11日。三日連続でタチレクにでて、昨夜は遅くなり、タイ側で厳しいチェックにあう。タチレクの日本滞在経験のあるビルマ人の店で話し込んでいるうちに遅くなった。タイのイミグレにここぞとばかり身体検査や持ち物検査を受ける。チェンマイラムでもらった薬なども開けられる。
【チェンライ】
12日。スリラートレストランをチェックアウト。チェンライへ良く。清莱(チェンライ)旅社のエアコンの部屋(350B)にチェックイン。チェンライは暑い。ファランが増殖している。ツーリストバスで大量に来ている連中。セブンイレブンでも英語でまくし立てる。このあたりのセブンイレブンのスタッフはほとんど英語を話さない。ネットカフェにも当然自分たちが優先されるはずだという勢いで乗り込んでくる。
美容院で髪を切ったが下手。
20日。ドストエフスキー「悪霊」を読む。
【メーサロン】
21日。清莱旅社をチェックアウト。バスでメーチャンへ行き、ソンテウに乗り換えてドイメーサロンに行く。ソンテウ50B。メーサロンの「Akhaゲストハウス」にチェックイン。シャワー共同100B。このアカゲストハウスはわりといい。アカ族のショルダーバッグを買う。隣のShinesaneゲストハウスはファランが多く夜遅くまでうるさい。売春婦をつれた白人ジジイもいる。
【タートン】
22日。Akhaゲストハウスをチェックアウト。黄色いソンテウに乗りタートンThatonに向かう(途中で乗りかえ。25B×2)。一時間半くらいでタートンに着。小さい町だが立派なゲストハウスやリゾートがある。ガーデンホームというところにチェックイン。ふつうの部屋、ホットシャワーつきで150B。(バンガロー300B)。暑い。アカ族の物売りが目立つ。
【チェンダオ】
23日。10時ごろガーデンホームをチェックアウト。黄色いソンテウでFangに向かう。Fangはかなり大きな町だが、泊るところはホテル一軒しかない。バスに乗りチェンダオに向かう。チェンダオはファンより小さな静かな町。町にひとつしかないホテルはファンより高く(500B)、ゲストハウスのあるチェンダオケーヴまでは数キロある。チェンダオネストという白人の経営するゲストハウス(バンガロー)に泊ることにする。バストイレ別で290Bもする。山の中で環境は良い。イギリス人がタイ人妻とやっている宿。
【チェンマイ】
24日。チェンダオネストをチェックアウト。黄色いソンテウで表通りまで数キロ行くのに100Bもかかる。他の客も乗せてだ。表通りからバスに乗り、一時間ほどでチェンマイに着く。ヴァラナンゲストハウスにチェックイン。
27日。タペー通りのPPトラベルでマンダレー行きの航空券を申し込む。ミャンマービザもついでに頼む。航空券が3500バーツほど。ビザは1400B。(ヤンゴンからチェンマイは75ドルだったのだが。)
ビザ申請用紙にComplexionという項目があったのでGood and beautiful と書いておいた。

9月4日。昨晩はコンコートホテルに泊る。ヴァラナンは借りたまま。ヴァラナンに大量のファランが入って深夜までうるさいので避難。400B。コンコートは水が出なくなる。ヴァラナンにも家賃を払い、荷物も置いたままコンコートと同じカンペンディン通りにある「トラベルロッジ」のファンの部屋にチェックイン。350B。
6日。昨晩はタペープレースホテルに泊る。エアコンを切っても寒すぎる。全館に冷房が効きすぎている。ヴァラナンは借りたまま。
マンダレー行きのチケットとヴィザを受け取る。

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2005年9月15日 (木)

2004年タイ、4月ミャンマー(チャイントーン、マンダレー、トーンジー、ヤンゴン)

2004年1月9日。ロイヤルネパールで、午前8時半カトマンドゥ発、午後1時半ごろバンコク着。タクシーでワットチャナソンクラムへ。Merry5にチェックイン。ウェートレスもフロントも前と同じ。
10日。船着場まで歩いてワットアルンを見学。塔の周りを逆(反時計回り)に回る白人。ワットプラケオを外から見る。
12日。タニヤ、パッポン見学。「有馬温泉」でタイマッサージ。
13日。メリー5に半日滞在。ホアランポーンから寝台車でチェンマイへ。
【チェンマイ】
14日。チェンマイ着。チェンマイに着くとファランだらけ。カンペンディン通りのコンコートホテルにチェックイン。350バーツ。
16日。Rama2に移る。Rama2は経営者が日本に行っていて。無愛想な管理人もいなくなっていた。テーブルもレストランも物干しもない。時々経営者の弟が来て見ている。広い部屋120バーツ。
18日。留守中にエルフがメッセージをゲストハウスにに残す。チェンマイに来たとメールに書いたが、どこに泊っているとは書かなかったのだが。
19日。エルフの部屋に泊る。ゲストハウスに帰るところでたまたま出会う。
20日。エルフの部屋に泊る。
21日。エアポートプラザの映画館でエルフと「ラストサムライ」を見る。一部タイ語の吹き替え。なぜか小雪の台詞は日本語のままだった記憶。
23日。エルフの希望で、ラストサムライをもう一度見る。エアポートプラザ。映画の間ずっとしゃべり続けている客がいる。映画のなかの日本人が何かしゃべるとそのたびに笑いが起きる。
25日。歯医者(サカラ)にいく。
26日。ラーマ2をチェックアウト。同じソイにあるVaranannゲストハウスに移る。広い部屋。ホットシャワーつきで150B。ファランが多い。

【チェンライ】
2月3日。ヴァラナンをチェックアウト。チェンマイアーケードまでトゥクトゥク50B。チェンライ行きのバスに乗る。
チェンライのトゥーリストインにチェックイン。200B。部屋は立派過ぎ。日本人の経営者は言葉遣いがなれなれしく、そのタイ人妻は無愛想。
4日。チェンライを出てメーサイまでバスに乗る。メーサイからメーチャンに戻り、乗り換え、チェンセンに行く。チェンセンゲストハウス180B。
5日。チェンセンゲストハウスの前からソンテウでメーサイに戻り、いつもの宿(川沿いの西の通りのスリラートレストラン)。
6日。午前中にミャンマー、タチレクに出る。ミャンマーはすこしネパールみたいなノリ。パン(噛む嗜好品)を売るスタンドがある。ミタパンだった。
午後チェンライに戻る。パムゲストハウス。
【チェンマイ】
7日。午後バスでチェンマイに向かう。ヴァラナンに入る。
8日。歯医者。
10日。毎日ロイクローのオープンハンドコーナーで食事。ダウ(フィム)の料理。
15日。歯医者
16日。自転車を買う。
25日。歯医者終了。ヴァラナンゲストハウスは不良白人の巣のようなところ。

3月1日。自転車をダウに預ける。
【チェンライ】
3日。チェンマイアーケードから正午のバスに乗る。3時、チェンライ着。ワットチェッヨッの隣のブーンブンダンゲストハウスに入る。きれいな部屋200B。
【メーサイ・タチレク】
5日。チェンライを出て、バスでメーサイへ。スリラートの向かいのゲストハウスに入る。窓がなく息苦しい部屋。タチレクに出てリクシャーを40Bで雇う。お寺で古いビルマ紙幣のセットを買う。本物かどうかはわからない。売っていたおばさんがちょっと観光案内のようなことをしてくれる。お寺の拝観の仕方など。
6日。昨日に引き続きタチレクに出る。タイ側のイミグレ役人が何をしに行くのかと聞くので観光だと答える。タチレク側のイミグレは感じが良い。日本人に親切。
タチレクのイミグレでミャンマーのアライバルビザを取れるようになったらしい。2週間と4週間。4週間のほうは飛行機でヤンゴンまでいける。(これは後に廃止)
タチレクのティーショップはのんびりできる。
バンブーゲストハウスに移る。よくない。
【チェンライ】
7日。メーサイを出て、チェンライへ。ブーンブンダンに入る。
16日。引き続きチェンライで生活。新聞や本を読むだけ。良い妄想は妄想に過ぎないが、悪い妄想は現実。良い妄想にとりつかれても幸福とはいえないが、悪い妄想にとりつかれたら確実に不幸。
18日。午前2時ごろ。タイマッサージ屋のアカ族の子マリが突然部屋に来た。以前友だちと二人で来たことがある。今度は一人で。アカ族と中国人の混血で22歳。英語を少し話す。現金のやり取りはなかった。が、すぐに月いくらくれるかという話になる。距離を置かざるを得ない。
チェンライのタイ人(タイ族)はチェンマイよりさらに感じが悪く、中国人は反日的。ゴーゴーバー街に近い中国茶店のオヤジは華字紙の「殺人魔」という見出しをわざわざ私に見せ、日本人はこれだという。
29日。別のマッサージ屋の24歳のアカ族の子ムイも中国人との混血。メーサロン出身。漢字名を持ち、自分の名前は書ける。黄玲梅(ホアリンムイ)という。阿梅(アムイ)とか梅花(ムイファ)とも呼ばれる。

【メーサイ・タチレク】
4月1日。ブーンブンダンゲストハウスをチェックアウト。チェンライバスターミナルより、メーサイ行きのローカルバスに乗る。3時ごろメーサイ着。スリラートレストランにチェックイン。リンカフェでネット三昧。林という日本語を話す中国人の経営するネット屋。
3日。タチレクに入る。カフェでインスタントコーヒー。タチレクのほうが落ち着けるし、人の感じも良い。ネパール人が経営する茶屋でチヤ。
【チャイントーン】
4日。KyaingTongチャイントーンへ。午前中にイミグレを出て、ミャンマーイミグレにビザを申請。4週間ビザが取れる(ただしスタンプと手書きのみ)。写真2枚要。25ドル。ミャンマーイミグレが車を呼んでくれる。ミャンマーイミグレのビザ係の女の人も親切。万田久子を若くして顔を小さくしたような美人(3ヶ月ほど後はいなくなる)。
ポンコツ車で3時間かけてチャイントーンへ。他に3人タイ人が乗っていたが、このときはさほどひどくなかった。車代500B。LonelyPlanetで見つけたノイイーホテルにチェックイン。コールドシャワー200B(5ドル)。
5日。ノイイーホテルは自家発電で、11時頃になると停電になる。蝋燭だけ。大きなマーケットに行き闇両替。1000チャットが48バーツ。1000バーツ両替。2万ちょっと。
角のお茶屋の隣にネパール人のミルク屋がある。ダヒ(ヨーグルト)200K。祖父が戦争のときグルカ兵でミャンマーに来てそのまま定着したらしい。二人姉妹と兄弟の三人でやっている。ネパールには一度も行ったことはないそうだが、ネパール語を話す。英語はあまりできない。若いネパール人の親戚が二人来ていた。一人はアーリア系でもう一人はモンゴロイド系。パキスタン人のインド料理屋で夕食。
ステージショーがあるというので行ってみる。500チャット払って運動場のようなところに入ると屋台などがいくつかあり、ステージでローカルポップを演奏している。別のネパール人のミルク屋がダヒの屋台を出していて、声をかけられる。メーサイに6年も不法滞在して働いていたとかでタイ語もできるが英語もよくできる。普段はマーケットに屋台を出しているという。
6日。朝9時半ごろマーケットに行くと、昨夜のネパール人はもう店じまいをしているところだった。後は外回りをするという。
MMB(ミャンマー・メイフラワー・バンク、五月花銀行)に寄って両替レートを聞こうとすると、ちゃんと制服を着た感じのいいお姉さんに、当店では両替はやっていないので(ブラック)マーケットに行けと言われる。ここではブラックマーケットが公認両替屋のようだ。
ヤンゴンエアウェイズのオフィス(小さな店のようで女の人が一人だけいる)に行き、マンダレー行きの飛行機を予約する。10日午後1時半発。89ドル。9日に支払えばいいとのこと。エアマンダレーのオフィスでも聞いたが同じ値段だった。ドル払い。
ドルを作るため、マーケットに行き、バーツをドルに両替。親切なムスリムインド人のオヤジに昨日とは別の両替屋のところに連れて行ってもらう。1ドル40バーツで500ドル買う。このインド人は親切で朝も道を教えてくれた。英語ができる。
7日。ミャンマー人は概して親切で、しかし媚びない。外国人に尻尾を振ることもない。タイ人のようにもったいぶったりせず、ネパール人のように腰が軽い。シャン族でも同じ。日本語のできるシャンが何人かいて、時々日本語で話しかけてくる。ネパールみたい。
ダヒ屋のネパール人を捜してマーケットを歩いていると、突然人に呼びとめられる。誰かと思うと女の子で、どこかで見た顔。チェンマイで行きつけだったタペー通りの喫茶店のウェートレスだった。女友達と二人で同じノイイーホテルに泊っているらしい。女友達がチャイントーンの人と結婚するのだとか。
【ロイムウェ】
8日。11時ごろマーケットのへんでバイタクを雇い、ロイムウェという村に向かう。4000チャット。マーケットのネパール人に教えてもらった、コ・トゥン・ルという人を訪ねる。ロイムウェには1時に着。ネパールの山村をこぎれいにして家のつくりをゆったりさせたようなところ。トゥンルの奥さんを見つけた。雑貨屋のような店をやっている。若くてきれいでニコニコしている。カヤ族の女性。ちょっとタマンみたいな感じで、うなずくときにエーエーというのも山のタマンみたい。突然訪ねてきた異邦人を店に入れて席を勧めてくれ、お茶まで出してくれた。トゥンルはアカ族で、この奥さんはカヤ州からこの村に嫁に来たという。カヤ州は鎖国状態。彼女はカヤの村とこの村しか知らず、町に出たことはない。しかし英語をかなり話す。悲しいかなクリスチャン。英語はカヤ州の村の教会で教わったのかもしれない。そうでなくてもミャンマーでは小学校でも英語を教えるので、小学校に行った人は少しは英語を話せることが多いようだ。この村がネパールと違うのは血や糞がころがっていないこと。こぎれいで、家が広々としていること。ロイムウェに着いてから夕立になった。トゥンルは技師で、テレビ塔の勤めに出ていて留守。会えず。雨が上がってから帰る。ロイムウェにも良いお茶屋がある。
9日。午前中ヤンゴンエアウェイズに行き、エアチケットを買う。89ドル。受付のシャン族の女の人がニコニコして親切。ミャンマー旅行に関するルート作りやらいろいろなことをくどくどと聞いてもうるさがらずに答えてくれる。同族でもタイ人とはえらい違い。タイ語とシャン語とではかなり違うところもあるようだ。お茶はタイ語でナムチャだがシャン語ではナムラ。ビルマ語ではラペイエ。
【マンダレー】
10日。12時半ごろノイイーホテルを出る。リクシャでチャイントーンのエアポートへ。チェックインカウンターにチャイントーンのヤンゴンエア事務所のお姉さんがいた。役人がうるさく荷物をチェック。ノーと強くいうと何もいわくなる。もういいだろという意味。賄賂を取る口実くらいのもの。プロペラ機でへーホー経由、マンダレーへ。
マンダレー空港に着くと、タクシー業者が寄ってくる。市内まで8000チャット(10ドルほど)だという。どうしても安くならない。マンダレー空港から市内までは45キロもある。ロンプラにあったトーンザラットホテルは満室。その向かいのサバイプユホテルにチェックイン(サバイといってもタイ語ではないらしい。サバイプユはビルマ語でハスの意味だとか聞いた)。5ドル。コールドシャワーにエアコンつき。トイレットペーパーがネパールでよくみた赤いやつ。
マンダレーは予想以上の大都会。巨大都会と言ってもいい。道も広く車も多い。どうせチェンマイくらいの町で、ミャンマーだから寂れてるのだろうと思っていたが、まったく間違っていた。
11日。マンダレーのホテルはどこもそうらしいが、部屋代が朝食込み。あまりうまくないトーストとフルーツとお茶。パンにはイギリスパンの面影がなくはない。タイのよりはいい。ホテルのフロントやレストランのウェートレスも白人に媚びるということがない。みんな英語がよくできる。
マンダレーのティーショップは、タチレクやチャイントーンと違い、注文しないものをテーブルに並べることはしない。屋根なしのサイクルリクシャ(トライショー)でマンダレーヒルまで行く。800チャット。マンダレーヒルには靴を脱いで登る。仏像にネオンサインがついていることがある。パチンコ屋のネオンみたいな動くやつが光背についていたりする。その前で小僧が跪いて祈る。
【タジ】
12日。10時過ぎに出て、バスでメイティラへ。バスに乗るのに一苦労する。3時ごろメイティラに着く。ここでタジThazi行きの乗り物をさがすのに一苦労。タジ行きソンテウ(のようなピックアップ)を見つけて乗るが、水祭りの猛攻撃を受け狙い撃ちに。タジに着いたのが4時過ぎ。ムーンライトゲストハウスというところにチェックイン。暑い部屋。4ドル。連泊することにして3ドルにしてもらう。タジは小さい何もない町だが、メイティラよりこざっぱりして水かけもすくない。祭りが終了するまでここに滞在することにする。マンダレーからメイティラまでバス代5000チャット。メイティラからタジまでソンテウ(?)300チャット。マンダレーでメイティラ行きのバスが出るのは「ハイウェーステーション」というところ。ここが始発らしい。
13日。宿の人はみんな英語はよくできる。アメリカ帰りという兄ちゃんがいる。宿で売っているロンジを一枚買う。はいてみると気持ちいい。女物はタメイという。作りは同じだが、はき方が違う。お茶屋を転々とする。
いちばん年寄りの婆さんがきれいな英語を話し、私に戦時中の日本軍の話をあれこれ言おうとしたのでさえぎった。英語がうますぎるので戦前にイギリス人の女だったのかもしれない、それで日本人に何か含むところがあるのかもしれない、などと想像した。
14日。アメリカ帰りの兄ちゃんは食事に来る白人客とさかんにしゃべっている。へらへらして白人客が食事中にうちわであおったりしていた。
【トーンジー】
15日。午前4時前にゲストハウスを出て駅に向かう。馬車馬がしゃがんで寝ていた。5時半ごろか6時ごろか、なんとか汽車は出た。眠っていて、気がついたら明るくなっていた。駅(小さな駅舎らしいものがあるだけ)にとまるたびに、少し水をかけに来るが、そんなにひどくはないし、窓ガラスがある。汽車がスイッチバック方式で坂を上る。これは初めて経験した。「アッパークラス」の列車に乗る。7ドル。オーディナリークラスは3ドル。どちらもツーリストプライス。
朝10時半ごろ、まだカラウに着く前に列車が脱線。動かなくなる。代替車か料金払い戻しを近くの駅の駅員に談判しても埒があかず。場所はカラウから6マイルも手前。他の人たちは歩いて散っていった。諦めが早い。ツーリストは私以外乗っていなかった。駅員が車を用意するからカラウまで行って待てという。車代はタダだという。しかしそれはみんなウソだった。車はホテルのもので、有料。カラウのセントラルホテルに泊ることにする。
16日。朝6時にバス乗り場でチケットを買い、ティーショップで食事。ホテルの朝食(料金込み)はまずい。カラウは開けた町でインド系も多い。私にはなんとなく魅力がない。ツーリストのための町という感じ。ローカルツーリストも多い。バスは7時半に来て、10時ごろタウンジ(トーンジー)のマーケットの近くに着く。
トーンジーはかなり大きな町で、大きな通りがある。標高が高いせいか肌寒いほど。カラウからトーンジーまでの道はでこぼこだった。トーンジーはかなり盛大に水掛をやっているが、被害はない。通行人には知り合い以外やたら水をかけないし、やめてくれと合図すればやめてくれる。不意打ちのようなことはカラウで一回あっただけ。ロンプラに載っていた大通りのKhemarat Hotelにチェックイン。トイレシャワー共同しかも水シャワーで5ドル。この町はインド系がいままでにまして目立つ。夜は半そででは寒いほど。夜、アジア女を連れた白人を一人見た。大通りにシーク教寺院。モスクもある。
17日。今日が新年。せっかくトーンジーに来たのに。マーケットなど閉まっている。(ミャンマーのマーケットは塀で囲まれた一種の城砦都市のようなもの。夜は無人になり門に鍵がかけられる)。外では商売をしている。モスクの近くであったインド系ミャンマー人の青年にいろいろ案内してもらう。カネも取られず、それどころかバス代まで出してくれた。カシミール人のような顔(ギリシャ系の顔)をしているし、会ったのがモスクの近くだったので、てっきりムスリムかと思っていたら、仏教徒だった。メインストリートの仏教寺院に入って、跪いて3度頭を地につける礼拝をしていた。
18日。マーケットは今日も休みだが、隣の横丁の市場はにぎやか。黒や紺の衣装のパオ族の人たちが目立つ。頭にカラフルなバスタオルをターバンのように巻きつけて、チベット風の(ネパール山岳民族風の)ショルダーバッグを提げている。ネパールのよりカラフル。女は黒か紺のロンジの下に細いズボンをはいていて、男はタイ族のようなゆったりしたスラックスだがこれも紺のみ。
19日。ヤンシュエまでソンテウでいく。インレー湖を見るためにはボートを借切らなければならない。外国人とミャンマー人とはまったく別のボート。ローカルボートには外国人は乗れない。ボートはあきらめる。ヤンシュエはひなびた観光地という感じ。白人が2、3人。インターネットにアクセスできるというところがあり(ミャンマーでは原則としてwwwにアクセスしていけないことになっているそうだ)、ホットメールのチェックもできるというが、30分2000チャット(ミニマム)。ヤンゴンとマンダレーに地下サーバーがあり、違法にやってるということだった。違法といっても看板も出しており(ホットメールとヤフーメールのチェックができるという)、半公認のよう。ヤンシュエは別に魅力もない。お茶屋もひどくぼってきた。ホテルは安い(多いから)。トーンジーは何があるわけでもないし、整備されすぎていて古い家など見当たらないが、観光地でないところが良いし、空気もすがすがしい。
21日。12時ごろ、トーンジーのエンパイアホテルの角をしばらく入ったところにあるピックアップ乗り場から、ピックアップのフロントシートに乗り、メイティラに向かう。3000チャット。荷台は2000チャット。メイティラについたのが夜8時ごろ。
メイティラについてからが大変だった。車を降りるとすぐにコミッション狙いの男たちにつきまとわれる。それをふりきってハニーホテルをさがすのにひと苦労。ハニーホテルは夜遅いのでこちらの足元を見て15ドルと吹っかけてくる。断ってそこを出て、荷物を持ったまま夜道をふらふらする。やけっぱちな気持ちで、いっそお寺に泊めてもらおうかと思って、境内に入ってみると、坊さんがヴィパッサナの立ち瞑想をしていた。最初はまったく気づかなかった。変なところに像があるなあと思って通り過ぎるようとしてはっと気づくと生きた坊さんだった。立ち瞑想のための場所がちゃんとあり、それがそこに身じろぎもしないで立っていた。こちらが近づいてもまったく無反応。そのあと寺の前の茶屋で、お茶一杯200チャットをふっかけられて腹を立てる。普通は100チャット。80チャットもある。チャイントーンの角のお茶屋は70チャット。捨て鉢な気持ちでふらふらしていると(どうしてそれほど捨て鉢な気持ちになったのか自分でもよくわからないが)、日本語で声をかけられた。15年前に日本にいたことがあるという、少し日本語を話すそのおじさんに事情を話すと、その人の家の向かいにある8ドルのモーテル(ゴールデンドリーム)を紹介してくれた。そこに泊る。
22日。午前11時ごろまでにピックアップ乗り場を自分でさがしあてる。ピックアップバスの後ろの長椅子にのり、ピンマナに向かう。砂ぼこりで全身が汚れる。道は悪くない。午後4時ごろピンマナ着。フェニックスモーテルにチェックイン。トイレシャワー共同の部屋が7ドルもする。ミャンマー人は2000チャット。メイティラでもトーンジーでもトライショーは見なかったが、ピンマナにはトライショーが多い。馬車もメイティラ同様に多い。フェニックスモーテルは発電機らしい音で夜うるさい。反対側に部屋を変えてもらう。
23日。24日発のバスチケットを買う。ヤンゴン行きエアコン2450チャット。ほとんど満席で23日のは売り切れ。一日歩き回る。
【ヤンゴン】
24日。夜行バスに無事に乗る。「エアコン車」だが、エアコンはなし。JRバスのお古で、フソー製だがエンジンはあまりよくない。途中でタイヤ交換。隣の席の若いミャンマー女がひっきりなしにゲロを吐いていた。袋が足りないようだったので、ビニール袋をやった。ちょっとインテリ風の感じだったがタメイをはいていた。
25日。午後5時半ごろヤンゴンのバスステーションに着く。市バスに乗り換えるが、どこに向かっているのかどこで降りればいいのかわからない。30分か40分乗っていると少し都会になって、たまたまロンプラに出ていたライライホテル(来来旅館)を見つける。すぐにその次のバス停で降り、行ってみるが、12ドルのシングルはフル。そこの感じの良い中国系の若者に、近いホテルを紹介してもらう。Full Wealth Hotel(大富華旅館)。10ドル窓なしの部屋にチェックイン(エアコンあり)。ライライホテルのある通りとと平行に走る大通り(アノーラータ通り)から、シュウェドンダンロードを北に少し入ったところにある。このあたりは中華街。しかしバンコクの中華街とはまったく違う。閑散として旅社もない。市バスは最高に古くて20チャット。床が板張り。
26日。スレパヤの傍らの旅行代理店で航空券を買う。タチレクまで買おうとしたが120ドルもする。ヤンゴンエアもエアマンダレーもこれは同料金。チェンマイまでは、エアマンダレーがプロモーション中ということで75ドルだった。チェンマイまで買う。
27日。夕方なんとなくヤンゴン川を大きな渡し舟で渡り、どこにいくかもわからないままバスに乗る。レココンビーチに行くらしいので乗っていた。終点まで行ったときはもう暗くなっていた。ホテルも帰りの車もない。茶屋の兄ちゃんにお寺に案内してもらう。坊さんに頼んでお寺に泊めてもらえることになり、坊さんに言われるまま水浴びをして出てきたら、警察がいっぱい来ていた。しつこい尋問を受けヤンゴンまで護送される。タクシー代12ドルを払わされたが、運転手でなく警察官のほうに払わされる。おそらくこのカネも運転手でなく警察官の懐に入ったのだろう。運転手は受け取ろうとしなかった。ヤンゴンに入ってからも、この私服(ロンジー)のいやらしい感じの警官がつきまとおうとするのでふりきった。
28日。夕方アノーラータ通りを歩いていると、すぐ後ろで日本語を話す声が聞こえたので、思わず振り返って声をかけた。おじさんと若い男。おじさんの方とそのあとしばらくぶらぶらする。このオヤジ昨夜ナイトクラブ「エンペラー」で売春詐欺にあい30ドルほど騙し取られたそうだが、全然怒っていないのに驚く。店に全額前払いして女の子を連れ出し自分のホテルの部屋に連れ込んだところ、女の子がおなかが痛いと言い出して帰すしか仕方がなくなったのだという。本当ならバカまるだし。会社をやっているというが頭が悪そうで声が下品。8時ごろ別れる。
【チェンマイ】
29日。朝9時ごろホテルの少年にタクシーを呼んでもらい空港へ。ヤンゴン空港はマンダレー空港よりずっと小さい。わかりにくいところで空港税を払いチェックイン。出国のイミグレで係員たちが少しもめていたようだった。タチレク発行のビザがスタンプと手書きだけだったからだろう。このあとファランの坩堝のようなところにいくと思うと気が重い。エアマンダレー。国際線だがプロペラ機。ミャンマーの12時半発、チェンマイに着いたのはタイの2時。約1時間のフライト。ヴァラナンゲストハウスにチェックイン。

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