s-th.スーリン

2007年6月14日 (木)

クメール世界

6月10日。

スーリン(Surin)は、ハジャイとは別の意味で、あまりタイ的ではない。

ここにいると、本当に黒い人が多いことに気づく。思わずタミル系のインド人かと振り返るほど黒い。よく見るとインド人ではなかった。子供たちも本当に黒い子がいる。マレー半島では見ないような黒さ。

ここはなかばクメールの世界。しかし、カンボジア人はこんなに黒かったか?と思うほど。

ジーンズの膝を裂いている若い女の子もいる。もちろんファッションだが、特別流行の先端をいっている子というわけではない。ジーンズをわざとぼろく見せるようなことはタイ人の好まないことではなかったか?

 
スーリンはタイの町にしては毛唐は多くないが、長期滞在らしい少数のクズ毛唐オヤジたちがいつも群がっていて、喫茶店などの店先に空間を作っている。

タイ毛唐レベルでも相当よれよれのクズ。

もちろん土人売春婦をはべらせている。

もうどこにも行くところはない、といった感じだが、アジアでは毛唐同士は仲がいい。

タイ在住の日本人などと違い、仲間同士で足の引っ張り合いなどはしないようだ。

白人は(地元を意識して)身なりを気にしたり人の目を気にしたり地元の文化を気にしたりといったケチなことはしない。

自分がしたい格好をし、自分がやりたいことをひたすらやっている。

仲間同士でネットワークを作っていて、自己防衛と女遊びには怠りがないようだ。

白人なら本国で最下層でも世界のどこかに行けば貴族(気分の)生活ができるところがある。

高校生のような白人男も一人いる。これは落胤で、ここ育ちかもしれない。よくネット屋に来ている。

しかし、大声のドイツ語で電話をしている様子はライオンのようで毛唐そのもの。

白人はいくらタイで育ったとしても、日本人のようにホイホイ地元に同化したりしないし、自国語まで忘れてしまったりはしない。

その人の容姿が白人なら世界中どこにいても、きっと「白人としての教育」を施してやろうという人が現れて手を差し伸べるだろう。

気の毒に白人の子がアジアで「野蛮人」に囲まれているなら、本国の最下層にいるよりは有利であろう。しかもこの種の物語は白人世界では「美談」になる。

  
スーリンの人は笑顔が多いが、外国人には決して心を開かないように見える。これは正常なことである。ここでは毛唐に媚びている様子もあまり見ない(毛唐が少ないからそういう場面に出会うことがないだけかも知れない)。

白人向けの風俗施設、売春施設(バービアなど)も見あたらない(どこかにはあるのだろうが)。

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2007年6月 5日 (火)

プラサート Prasat

5月27日。

チョンジョム(Chong Chom)のイミグレ前の広場から、10時半ごろ発のミニバスでプラサートPrasatに向かう。すいている。40分ほどでプラサート着。

プラサートはバスターミナルの辺りは町だが、それ以外はがらんとした田舎。バイタクの案内で、バスターミナルから3キロほど離れたところの国道沿いにある真新しいホテルに入る。一泊550バーツ。セブンイレブンもバス停の近く。かなり不便な立地。

バンガロー風のいいホテルだが、離れに立つレストランには感じの悪い毛唐がやっぱり陣取っていた。外を歩いていてもギロっと睨みつけてくる。タイではこんな田舎町も毛唐から自由ではない。毛唐フリーな空間はないと思ったほうがいい。北部の山村などに舞い込んだらかえって毛唐濃度が濃くなることを覚悟しなければならない。

毛唐はアジア系のツーリストの存在自体が気に入らない。

リゾートはそこがアジアであれどこであれ、白人(と女奴隷)だけの空間であってほしいというのが毛唐の願いであるのみならず、権利要求でもある。

スーリンの街中で大きな毛唐がボウゼンを気取って歩道に突っ立ちタバコをふかしていた様子を思い出す。

オヤジだがそこが自分だけの舞台であるかのように気取って立っている。歩道の幅の半分以上を占領しているが平気だ。

ポーズをとって突き出したタバコの火先すれすれを地元の女子学生のグループが避けるようにして通っていく。が、毛唐はまったく意に介さない。

毛唐がいったん空間を作ったら、その範囲で他者、ことに有色人種は完全に「物」またはケモノ(野蛮な敵)になる。

毛唐にいったん空間を作らせてしまったら取り戻すことは不可能である戦争しかない。しかし、普通の戦争で一番強いのも毛唐(=白人国家アメリカ)なのだ。だから「普通じゃない戦争」が必要になるのだろう。

タイの街中でタバコを吸う毛唐は多い。くわえタバコ、歩きタバコ、ポイ捨ても平気である。

「よその国にお邪魔しているから遠慮して」などという日本的な観念は、いうまでもなく彼らにはもともとない。そういうことは聖書にも書いてないからである。

こういう毛唐を野放しにしておきながらテレビに映るタバコにいくらぼかしを入れても喫煙防止の効果はあまりないだろう。

悪い生活習慣から子供たちを守るためには、タバコにぼかしを入れる前に毛唐にぼかしを入れることがぜひとも必要である。街中から毛唐を消さなければいけない。これは日本も同じことである。

タイに行くような人間の喫煙率は高い。タイヲタ日本人の喫煙率、アル中率も平均に比べて非常に高いのではないか。

        
町から隔離されたホテルは、いくら快適であってもやはり自由感がない。特に暑いところでは長い道を歩くのは大変である。このときは変な客も目に入らずよかったが、ひとつでもイヤなことがあるとそれから逃げられない感じになるかもしれない。

国道を10分ほど歩いたところにある108というコンビニに行きミネラルウォーターをたくさん買う。

28日。

午前10時前にプラサートのホテルをチェックアウト。床がタイル張りだったことを除いてはなかなか快適なホテルだった。タイル張りの床はよくない。ジャワのチパナスのゲストハウスでタイルに滑って怪我をして以来、タイル張りの床を歩くと股間のあたりがすくみ上がるような感覚を覚える。

バスターミナルに行く。スーリンに向かう。今度は大きなローカルバス。15バーツ。ミニバスも来たが満員。ミニバスには冷房があるが、満員ならすいたローカルバスのほうが快適だろう。

サロンをはいたよく日に焼けたクメールのおばさんがミニバスに乗り込む。おばさんといってもおそらく20台後半だろう。サロンをはいてバイクを運転している人。そんな姿もちらほら見られる。(ミャンマーではありふれたことだが)。

月曜日はここでも黄色を着ている人が目立つ。黄色のポロシャツを着た毛唐オヤジがいる。サロンをはいているような人はたいてい普通の格好。

大型ローカルバスは時間がかかる。40分ぐらいかけてゆっくりスーリンに入る。

前と同じSang Thongホテルの同じ部屋に入る。

スーリン・プラザ(ショッピングコンプレックス)の3階にもうひとつインターネット屋を見つけた。きれいですいている。機械もいい。前払い制、一時間20バーツ。中央制御になっていて勝手に日本語が入れられなかった。タイ語は入っているが「東アジア言語」が入っていない。しかし、スタッフがあれこれ苦労して私のWindowsXPホームエディションのCDを使って何とか日本語を入れてくれた。

29日。

スーリンに戻ってみたら30バーツのコーヒーショップの感じのいい女の子が消えていた。オヤジは変わっていない。代わりにちょっときれいな感じの子がいたが英語はまったく話さない。前の子の方がよかった。

31日。

木曜日だがタイは祝日。ネット屋は子供でいっぱい。スーリンプラザも子供だらけ。

コーヒーショップにいたとき、真っ黒いタイの子供の手を引いて歩いている白人オヤジを見かけた。

白人の「児童買春」と「養子」「孤児の保護」はそれぞれ紙一重の関係にあり、相互浸透しているといって良い。

白人国家においては「養子」「孤児保護」名目の児童性的虐待が深刻だろうが、彼ら白人は根拠もなく(彼らの主観的な根拠はある。「野蛮」)「アジア」(日本を含む)では彼らの国々以上にそのようなことが蔓延しており、また「自由」であると思い込む

そしてつぎつぎと「アジア」にやってくるのである。白人の児童愛好家が「アジア」に来てそれを試みない理由はないだろう。

6月1日。

スーリンの町も乞食が多い。

スーリンプラザにはゲームのほかにカラオケボックスもある。ガラス張りで中が丸見えなので悪いコトはできない。休日は女の子でいっぱいになる。

カシコーン銀行(泰華農民銀行)にいたら、中年のアロハシャツ・半ズボン毛唐がすたすたと店内に入ってきた。そのまままっすぐ奥の部屋まで行き、トイレを使い、黙って出て行った。

驚きである。ここは一応銀行。慣れている様子で在住のようだったが。

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2007年5月29日 (火)

チョンジョム(Chong Chom)=オスマッチ(Osmach)、カンボジア

5月26日。

スーリンのSang Thong(セントーン)ホテルをチェックアウト。昨日と同じチョンジョム(Chong Chom)行きのミニバスに。

バスターミナルで毛唐に出くわす。交通機関や役所やレジなど逃げられないところで毛唐とかち合うのは本当に嫌である。毛唐が多い場所ももちろん嫌だが、毛唐がいなさそうなところに入り込んでいるのを見るのはさらに不快。

とくにタイで(タイだけではないが)毛唐と同じ列に並ぶ以上は、さまざまな屈辱的な扱いを受けることを覚悟しておかなければならない。

しかもこの毛唐、同じくチョンジョム行きのバスチケットを買った。

ミニバスで毛唐と一緒は嫌だ。チベットツアーを思い出す。

スーリンの毛唐状態は、タイとしてはましなほうだった。

不幸中の幸いというべきか、チョンジョムに行く毛唐は一人だけなので、イミグレではこいつの姿が完全に消え去るまで待とう。

毛唐は意味もなくうろつきまわる。

しかも、バスの時間に遅れる。イミグレでも手間取るだろう。

毛唐はあらゆる手続きで必ずゴタゴタして手間取るが、その上最優先だからなおさら迷惑なのだ。

ミニバスは超満員で毛唐入り。最後列の座席に座ったのもまずかった。毛唐も最後列に来る。あとから乗り込んでくる人たちはみな最後列のシートに割り込む。

毛唐はバスに乗り込むやいきなり私にタイ語で何か聞いてきた。excuse meにあたる言葉の一言もない。私は客引を無視するように完璧に無視。

その態度はいかにも見下すように横柄で、毛唐特有の(タイ語をマスターしようとアジアに何年いようと白人である以上決して変わることのない)「貴族が民草にあわせて付き合ってやっている決まりの悪さ」あるいは「地元民たちが白人である自分に一目置き、あるいは憧れていることを互いにわかっていることの決まりの悪さ」を示唆するようなシニカルな「ニヤケ」があり、自分が常に周囲からさまざまな特別の配慮を受けることを当然と思っている様子が一見してよくわかる。

この毛唐は若いがバックパッカーのような格好ではなく、荷物はデイパックひとつ。しきりに携帯で誰かと連絡を取り合っていた。おそらくビザなし滞在で何か仕事をしているのだろう。タイに長く住んでいるようだが、イミグレで目に入った国籍はUSA。

毛唐入り超満員のバスに乗っていると気分が悪くなってきた。本当に気分が悪い。デング熱以来、快適だったことはほとんどない。

やがて外は嵐になる。

プラサートにつくまでに嵐は上がっていた。プラサートPrasatでは一人しか降りない。毛唐が降りてくれるかもしれないという淡い期待はやはり甘かった。

午後2時ちょうどチョンジョム着。スーリンから1時間半。

タイの出国地点名はKap Choeng。

カンボジア側の町の名前はOsmach(オスマックなのかオスマッチなのか、よく聞き取れなかった)。タイ側にいるうちからカンボジア式にガイドがつきっきりで世話をする。特に拒絶する必要もない。一人に一人完全にガイドがついてすべて指図するので(指図されなくても国境越えの経験のある人ならすぐにできるようなことばかりだが)、ラノンイミグレとちがい毛唐優先という感じにはならなかった(カンボジア人に白人崇拝がないわけではない。ビエンチャンのカンボジア大使館員など、白人ツーリストと有色人種ツーリストとで猿のように態度を変えていた。が、カンボジアはタイほどではない)。

毛唐もここは初めてのようで、やはりうろうろと手間取り、ガイドがつきっきりでものろのろしていた。

この毛唐はビザを取り国境を越えてすぐにタイに戻ったようだった。

カンボジアのイミグレ役人は仕事は遅いが丁寧で、礼儀正しかった。

ビザ代は1000バーツ。ドルでなくバーツで請求された。バーツが高くなっているからだろう。ビザを見るとFee欄は空欄になっている。普通はここに30ドルとか書いてあるのだが。

前日タイイミグレ役人が言っていたマルチプルビザが取れるというのはウソだった。シングルエントリー30日のみ。写真が一枚必要(なくてもいいかもしれない)。たまたまいつ撮ったかも忘れた古い写真をもっていたのでそれを出す。

何もないところにぽつんと立つ真新しいゲストハウスに、タイ側からずっと付きっ切りのガイドにバイクで案内されて入る。モトサイ代いくらかと聞いてもup to youというので、結局20バーツやる。毛唐(とくにネパールに来るやつなど)にはこういうときに完全に開き直ってほとんど払わないというのが結構いるようである。ネパールではガイドから直接そんな苦情を聞いた(オランダ人だったといっていた)。ちなみにタイでは買春代金を踏み倒す毛唐も多いとか聞いたことがあるが・・・・。「若いとき(禿げる前)はタイ女なんかほとんどタダでやれたものさ」なんて自慢話をする禿げ毛唐がいたが、あれもたんに踏み倒していただけなのかもしれない。

ゲストハウスにはたいへん美しくて笑顔の優しいクメールの少女が二人、下働きで働いていた。私が汗だくでゲストハウスに入っていくと、珍しいものを見に来る蝶々のように(そんなものがあるかどうか知らないが)、フワーっという感じで2人現れて、なんとなく近くに寄ってきた。適当な距離になんとなくいる。

浅黒い肌にリラックスした瞳。かすかにインド系の混じった顔立ちと姿勢、背筋のライン。柔らかい物腰。色白つんつんに憧れ「治療」さえするというタイ人には理解できない美しさだろう。

ゲストハウスの名前はChhay Na。国境近くのマーケットまで歩いて10分ぐらいかかる。ファン300バーツ、エアコン500バーツ。

オスマッチは整地はしてあるが舗装はない。砂嵐は今のポイペトよりひどいだろう。ただ、ポイペトのような変な臭いはない。

ところどころにカンボジアらしいマーケット・集落がある。

しかし、カンボジアの楽しみであるカフェー(タイやラオスのよりは透明なホットコーヒー)もフランスパンサンドもこの町にはない。「カフェー」を注文したら当然のようにアイスコーヒーが出てきた。

しかし、「ストローが立つ」フルーツシェークはあった。といってもポイペトのように濃くはない。ドゥリアンも入っていない。

27日。

オスマッチからシエムレアプへはタクシーしかない。一人だと2000バーツだという。朝は客が多いので乗り合いタクシーがあるそうだがそれも9時まで。

シエムレアプへの道はすべて未舗装でかなりキツイ道のりのようである。

結局、軟弱にもタイに舞い戻ることにする。

カンボジアイミグレは結構丁寧な照合をしていたが、タイイミグレは難なく通過。「帰りの航空券提示」なんてこともない。

カンボジアイミグレを過ぎたところでタイのセキュリティチェック(兵隊)になんとなく道を聞いたら荷物検査をされた(何で道など聞いたのか自分でもわからないが)。

タイのイミグレを通過して、別のタイ役人の詰め所の前でパスポートを荷物にしまっていたら、どこに行くのかと聞かれる。プラサートだと答えると、バンコクかだとか。はじめから結論が決まっていのなら聞かなければいいのに。

役人には極力近づかないのが無難である。ヤクザと同じ。

10時半ごろのバスでプラサートPrasatに向かう。

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2007年5月26日 (土)

スーリン Surin

5月21日。サラブリからスーリンへ。

昨夜も朝まで眠れなかった。

チュンポン・ホスピタルで10日分もらいデング熱が治ってからも律儀に毎日飲んでいた睡眠薬が切れた日から、さっぱり眠れなくなってしまった。朝はネット屋。

午前9時過ぎにホテル正面の長距離バスターミナルに行き、10時ちょうど発というスーリン行きのエアコンバス(エアバス)のチケットを買う。しかし、買ったと思ったチケットは単なる前払いの代金券だった。座席指定もない。

長距離バスは国鉄のように時間厳守ではなかった。

ほとんど言葉が通じない中で一時間以上待つ。いつか来るのかもう今日は来ないのかさえわからない気分になる。この辺も当然のように英語は一切通じない。タイ語を思い出していろいろ聞くしかない。それもあまり通じない。ガイドブックはもっていない。チュンポンで片言の日本語を話す女の子にもらった「指差し会話帳」はプラチュアップの宿に置いてきた。相手のタイ語も難しい。「マイマー」しかわからない。話してわかってもらうのはさらに難しい。「スーリン」の発音さえ確実にわからせるのは難しい。ちょっとわからない言葉を話す相手にはすぐに心を閉ざして、逃げるか居丈高になるか、というのがタイ人にありがちな特徴。このあたりインドネシアのような海洋国と異なる。

10時50分ごろになってようやくバンコク発スーリン行きの「エアバス」が来る。正午ごろ30分の食事休憩。がらんとした広くてきれいなバス休憩用レストラン。コンビニと一体となっている。サラブリは鶏肉料理が少なかった。カオマンガイしか見つけられなかった。この食堂には鶏肉のぶっ掛けご飯があった。

午後4時ちょうど終点スーリン着。サラブリから5時間。外に出ると非常に暑い。

スーリンでバスを降りる人もスーリンの人も笑顔が多いと感じる。

バスターミナルの食堂でようやくクイッティオ・ガイ(鶏)にありつけた。サラブリのクイッティオは当然のように豚クイで(クイッティオ・ガイはないかと聞いて歩いたがなかった)、スープが泥臭くてまずかった。ここのクイッティオ・ガイはスープも澄んで上品な味。

スーリンのバスターミナルにはモトサイ(バイタク)はおらず、サムロー(自転車リクシャー)のみ。サムローの運転手にも英語を話す者がいる。

サムローにお任せでホテルに連れて行ってもらう。以前はこういうことをせずガイドブックと首っ引きで自分の足で歩いて安そうな宿を探したが、近頃はそういうことに価値を見出せなくなってきた。今スーリンのネット屋で自分のブログを検索して、以前泊まった宿は「クルンスリ」だったことを思い出した。当時140バーツの部屋。

サムローに連れて行ってもらった大きな旅社のファンの部屋(250バーツ)に入る。エアコンの部屋(400バーツ)も見たが、ファンの部屋のほうが広々として開放感があった。

このホテルのスタッフはみんなそろいの赤いポロシャツを着て立派な英語を話す(と思ったが・・・)。

案内係のクメール人の女の子もニコニコして英語を話した。タイ人Thaiか?と聞くと、そうだと答える。それで、クメールか?と聞くとまた、そうだと答える。前回イサーンを回ったときにプラサートで会ったスーリン在住のクイ族の女子学生も「クイ族だけどThaiだ」とタイ人意識を強調していた。ただ、タイには一流大学(タマサート大学)の学者にも国名をシャムに戻すことを公然と主張している人もいる(過去記事あり。「タイ  国名  シャム」で検索してね)。

このクメール人の女の子は名前(ニックネーム)を「ソムジャイ」だといっていた。男の名前かと思っていた。チェンマイではソムジャイはダサい名前だと聞いていた。

こういうクソ暑いところでは下手なエアコンの部屋に入るより、ファンの部屋のほうが却って快適で健康的。

宿には英語のスーリン市街地図コピーも用意してある。このホテルの名前はSang Thong(ホテルの人はセイントーンと発音していた)。インターネット屋の場所も示されている。

これだけツーリストのための用意が整っていて毛唐がいないわけがない。サラブリでは一匹も見なかった毛唐だが(すでにタイ人になってしまっているようなロシア人のような雰囲気の若い白人女がタイ人の男と一緒にいて、ほかのタイ人たちとも流暢なタイ語で話しているのを見ただけ。毛唐の落胤かもしれない)、スーリンではさっそく女連れ毛唐オヤジを見かける。黄色を着た女とバイクに乗っている。

毛唐オヤジは連れのタイ女に黄色(現国王の色)を着せることが多くなっているのだろうか。そういうのをよく見かける。まさか本気で国王様マンセーになっているのではないだろう。あるいは、そうやってタイに媚びて見せないと白人といえども女連れ長期滞在は多少居心地が悪くなっているのかもしれない。そうだとすれば必ずしも悪いこととはいえない。

それでも、スーリンの町の人の表情は今も概して穏やかである。クメールやクイ族などの非タイ族系が多いからかもしれない。英語がよく通じてしかも感じの良い人が多いように感じる。

西洋式の喫茶店に入っても(コーヒーは常に機械淹れ)つんつんした感じはなく、(特別美しいというわけではないが)穏やかな笑顔の女の子がこちらの英語にちゃんと応対しながら、「カー、カー、Hot?、、カー、モーメンプリーズ、、、、Thirty bahtsナカ」という具合。。タイでは極めて珍しい柔軟な接客ではないだろうか。英語がまったくできない父親らしいオヤジに英語でネット屋の場所を聞いたときもいやな顔をまったくせずに娘を呼んできてくれた。

町に毛唐がけっこう来ているにもかかわらず悪擦れてしまわないというスーリンの秘密は、やっぱり多民族性、つまり、クメールとクイ族というタイ族より伝統があり、あるいは民族意識の強い異民族の基盤があるからだろうか。(といっても彼らがタイ族を常に憎悪してそれを支えに暮らしているというわけではないと思う。日本で見られる民族をめぐるある現象とは違う。そうならないのは、クメールやクイ族は自分たち固有の文化に対しタイ族がなんといおうと関係なく十分な自信を持っているからだろう。しかしタイ族の周辺異民族や在住アジア系外国人に対する同化〔タイ化〕要求感情は強烈である。生活習慣やものの考え方が仏教徒タイ人とははっきりと違う南部のムスリムはストレスを感じざるを得ないということになる)。

スーリンに来るのは3度目。2年ちょっと前にイサーン地方(タイ東北部)をしつこくまわってみたが、スーリン以外の町は(プラサトなどさらに奥地を除き)意外にタイ式シカメッツラが多いと思った。とくにシーサケットは感じが悪かった。

その喫茶店の近くのネット屋でパソコンをちょっと見たら日本語のドキュメントがいっぱい入っていた。

夜8時過ぎ、2年以上前に来たとき泊まった安ホテル「クルンスリ」がどんなところだったかなんとなく見に行ったとき、その近くのタイ的な屋台マーケットの薄暗いテーブルで、毛唐オヤジが16,7歳のかわいらしい土人系の女の子を抱え込んでいた。向かいには女の子の父親らしい人もいる。どうやら父親と直接交渉しているところのようだ。あるいはもう話がまとまったので嬉しそうにしているのかもしれない。写真を撮ってやろうと思って覗き込んだらその土人系のかわいい女の子がニコニコしてこちらを見るので断念した。土人系でしかもかわいくて何も知らない感じの女の子だったので、非常に腹が立った。毛唐の「処女買い」交渉の現場かもしれない。東南アジアでは児童買春が取り締まられるようになったといっても12歳前後以下の取り締まりが始まったという程度であり、16,7歳の少女を買って捕まる者はいないだろう。レンタルワイフ契約でもおなじ。それに「処女」とレンタルワイフ契約(1ヶ月とか1週間、金を払ってどこかに一緒に住む。数ヶ月ないし一年でもおなじこと)をしても、それだけでは罪にならない。そんなのを罪にしたら「非処女差別」といわれるだろう。女の子は嫁にでも行くつもりで、父親にもいいことばかり含まされて、周りの外人がみんないい人ばかりで自分には明るい将来が開けているように思い、私のほうをニコニコと見ていたのかもしれない。こういうことがあるからタイはイヤなのだ。

5月22日。

昨夜も良く眠れなかった。同じホテル(セイントーン)に連泊。

ホテルは日中電気が止まってしまう。

昨日、フロントスタッフはよく英語ができると思ったが、定型的なせりふを丸暗記してしゃべっているだけだった。それ以外の変則的なことはまったく理解できない。理解しようともしない。書いてもダメ(しかしここまで付き合うだけまだかなりまし。たいていのタイ人はすぐに逃げてしまって書いたものを見ようとなどしない)。マイカオチャイを繰り返す。

昼は停電になるのだろうと思って、電気が止まるのは何時から何時までかということを聞こうとしたのだが。powerは分かる。

実は一日中電気はあり、節約でとめていて、客が戻ってきたのを忘れて止めたままにしていただけなのかもしれない。

昨日は電気が来ていた4時ごろになってもファンが回らないので、フロントにいうと中央制御ですぐに入れてくれた。これはその後の話である。

やっぱりタイ人は他人の言うことを理解しようと努力したりはしない。自分が自然に理解できる範囲でしか理解しようとせず、後は相手(外国語)のせいにして、マイカオチャイを繰り返すならまだいいほうで、完全に無視あるいは腹が痛くなるようなシカメッツラで無視になる(今回の旅では、強烈なしかめっ面には出会わなかった。「シカメッツラ地域」を通らなかったからかもしれない)。時制の観念がないせいか、今日電気が止まったという事実と、毎日電気が止まるという事柄との区別ができないように見える。タイ人は今すぐ用のないことには関心がないのかもしれない。

今日到着したばかりのような30歳台と見えるファラン男が一人、街中をきょろきょろしながら歩いている。どこかの家の電気メーターの前に立ち止まりそれをジーッと覗き込んでいる。しばらくたってもう一度外出すると同じようにきょろきょろ覗き込みながら歩き回っていた。ずっとうろつきまわっているのかもしれない。

23日。

今回タイに来て(記憶にある限り)今日はじめて典型的なトゥクトゥクを見かける。

24日。

デング熱が治りきっていないのか(そんなことがあるのか)、体調がよくならない。特に昨日は気分が悪かった。ほとんど一日中部屋で横になっている。眠れないが、ときどき瞬間的に意識を失って妄想のような夢を見ることがある。

深夜になって少し深く眠れた。深く眠れたといっても夢だけ見ていたような感じだったが、ちょっと眠ったと思って気がついたら朝の11時になっていた。

ここ数日「死」に関係のある夢をよく見る。怖いというほどでもないが、とても感じが悪い。目が覚めたあと落ち込むような夢ばかり。

自分の死に関するある抽象的なイメージを夢に見ることがある。最後に「事柄」が「1」になって、もうそこから抜け出せなくなる。呼吸が止まり、やはり絶望的な滅びのイメージ。最後に「事柄が1」になってそこに閉じ込められるというイメージが共通している。1が消えるというところまではなかなか行かない。どう消えればいいのか、どこに抜けられるのかがわからないところが絶望につながっている感じ。

愛すべきかわいい女の子の死を医療関係者として見取る、という夢も見た。(現実の世界で医療に携わったことはまったくない)。自分はなぜか偉い先生の下で働いているパラメディカルのようだった。そして先生にほめられる。女の子との心の通い合いや甘美なイメージがあり(かなり若い少女、ただし顔はなし)、彼女を救えるような感じがする。しかし突然容態の急変する。気がつくと彼女の手の色が変わってしまっている。小指側のふちがどぎつい黄色になり手のひらが紫になっている。ぎょっとしたところで幕切れ。彼女が死んだことだけはわかった。夢ではっきりと色を見る。しかし女の子は若くないと・・・・悲劇が始まらないことは確かのようだ。

25日。

午前中の掃除の時間、どこかの部屋から、ノー、ノー、ノー、ノー・・・・・・という女の声。逃げ回るような気配。昨日この宿に入ったらしい、昨日からこの近所で見かけるようになった毛唐が掃除の若い女を押し倒そうとしているのかもしれない。

タイの田舎の宿ではフロントで働いている子がそのまま客の求めに応じて売春しているようなところもある。(私はそういう宿をラオス国境の町、シー・チェンマイで一軒見たことがあるだけだが、タイの宿では昔は下働きが売春するのはごく普通のことだったとか。物知り顔のタイヲタオヤジが言っていた)。そうでなくても、ここでは押し倒してあげないといけないのかも・・・という義務感にさいなまれかねないような変に隙だらけな場面に出くわすこともある(もちろんその後はビジネスだろう)。

昼、カンボジア国境へ行ってみることにした。ひょっとしたらビザが取れるかもしれない。

バスターミナルからミニバスで「チョンジョム」(Chong Chom)というところに向かう。そこがボーダーらしい。

立派な道路を30分ぐらい走ってプラサート(Prasat)に着く。ここも感じのいい田舎町。

2年前にはバスターミナルでよく売っていた竹に甘いもち米を詰めたローカルなお菓子はクーデタで禁止されたのだろうか。以前は黙っていても売りに来たが、今回はまったく見ない。あれが食べたかった。あれを食べたくてわざわざタイに来たようなところもある。

プラサートを過ぎると道も細くなる。舗装はそれほど悪くない。周囲はますます潅木がまばらに生えた荒地の趣に。しかしカンタララクの方に比べるとここはまだ豊かさを感じる。新しい家も建っていたりする。スーリンから1時間半ほどでチョンジョム(Chong Chom)に着く(道路標識のローマ字表記は同じ発音Chになっているが、タイ文字では微妙に違う。地元発音でははっきり「ジョム」)。

チョンジョムのバス停はイミグレの目の前。ローカル客がばらばらと国境を越えていく。外国人らしい姿は見かけない。イミグレーション事務所の他には何もない田舎だった。スーリンの町ではあまり見ない物乞いの子がつきまとう。それでもこざっぱりした服装。あまり汚いとカネがもらえないのかもしれない。

仁王立ちのイミグレ役人に聞いてみると、タイイミグレを出たところにあるカンボジアイミグレでアライバルビザが取れるということだった。

しかも、30日ビザの他に90日のマルチプルビザももらえるという。あくまでタイ役人の話。明日また来ることにする。今日の仕事はこれだけ。

日陰に座っていると涼しい風が吹いてくる。荒れ野だが今は緑が多い。

帰りの道はやはり検問をしているが、バスの中までは見に来なかった。スーリン‐チョンジョム往復、所要約3時間。

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2005年9月20日 (火)

2004年12月タイ、イサーン周遊

2004年
【パノムルン遺跡・プラコンチャイ】
12月3日。
アランガーデンホテルをチェックアウト。アランチャプラテートのバスステーションからブリラム行きのバスに乗り、バンタコで降りる。途中、感じの悪いタイ警察がまたしつこくパスポートをチェックしてきた。ロンジをはいてアカ族のショルダーバッグを提げているからだろう。
バンタコでモトサイを雇い、パノムルン遺跡を見に行く。大きくはないがなかなか立派な神殿。中心にシヴァリンガがある。クメールのヒンドゥ神殿。そのままモトサイでプラコンチャイという町に行き、「プラコンチャイリゾート」というホテルの150Bの部屋にチェックイン。モトサイは250B。プラコンチャイリゾートの近くには何もない。マーケットまで数キロ。夕方ホテルのオーナーの自家用車でマーケットまで乗せてもらう。食べ物を買って持ち帰って庭で食べる。
【スーリン】
4日。午前9時ごろチェックアウト。ホテルのバンでバス停まで送ってもらう。スーリンに行くエアコンバスに乗る。1時間ちょっとでスーリンに着く。このあたりクメール系の顔も目立つが表情や振舞いはタイ的。クルンスリホテルの140Bの部屋にチェックイン。
午後バスに乗り、シーコーラプーム遺跡を見に行く。5分で見終わるようなもの。どこまでが本物でどこからが再建なのかわからない。
スーリンの町は、2年半ほど前に来たときにはうらぶれた感じの静かな町だったが、今は妙に活気がある明るい感じの町になっている。
【プラサート】
5日。午前11時ごろチェックアウト。バスステーションから立派なエアコンバスでプラサートに行く。プラサートはけっこう大きな町。バスステーションの近くのHotelとだけ表示のある旅社にチェックイン。150B。スーリンのクルンスリより清潔な感じ。
バスステーションからソンテウでカンボジアボーダーの方に向かう(カプチューン)。途中でモトサイに乗り換え、チョンチュムのボーダーへ。スタンプなしでタイを出るが、カンボジア側で300B要求される。オスマチOsmachというマーケット。掘立小屋の小さな集落がある。オスマチのマーケットでカフェを2杯飲む。カンボジアの味。コンデンスミルクをかき混ぜるまでは透明で舌がしびれる刺激。
プラサートのマーケットは閉まるのが早い。午後8時には半分くらい店じまいをしてしまう。バスターミナルとマーケットと役所だけの町。
6日。引き続き名もないホテル(旅社)に滞在。プラサート・ヒン・バンプルアンを見に行く。その近くに住んでいる人の世話になる。ところがいいところに、パタヤにファランのボーイフレンドがいるという若い女がやってきてぺらぺらとしゃべりまくりうんざり。雰囲気ぶち壊し。しょせんここはタイだと再確認。
バンプルアンからプラサートに戻ってバス停近くのマーケットをぶらぶらしていると、バンプルアンに行くソンテウにたまたま乗り合わせて少し話しをした姉妹の姉のほうに声をかけられた。ソンテウの中で教えた私の名前を覚えていたのに驚く。スーリンの自分の家に戻るところだというのでスーリンへついていく。スーリンで一緒にバーベキューを食べて帰ってくる。姉のほうが23歳でオームといい、妹は20歳でオーという。母親がクメールで父親がクイ族だという。クイ族はスーリンあたりに昔からいる象使いの部族。
今日会った人たちはみなクメール系だが、本人たちはタイ族のつもりらしい。家庭ではクメール語を話すが、それはただカンボジアが近いから話しているだけだといっている。しかし、たとえカンボジア国境近くに住んでいても、クメール系以外の人がクメール語を話すということはないだろう。
【シーサケット】
7日。10時半ごろ発ってスーリンに行き(プラサトからシーサケット行きは2本のみ)、スーリンでバスを乗りかえる。
スーリンのバス停近くのコーヒー屋台のおばさんに最後の挨拶。このおばさんは英語を話す。この人の話によれば、イサーンには(方言として)3つの言葉が存在するという。一つは、固有のイサーン語で、スーリンやブリラムなどで話される言葉。この言葉も標準タイ語とは外国語といっていいくらいに違う。第二は、ラオ語で、コーンケーンやウドンターニの方で話される。タイ語と同系の言葉。第三はクメール語で、クメール系の人たちが話し、タイ語とはまったく違う。
シーサケット行きの途中で降りてサカンペンヤイ遺跡を見る。これもどこまでオリジナルでどこからが補修かわからない。彫刻も新しそうで、クメール風の顔のものは風化している。バスを拾い、シーサケットへ。鉄道駅前で降りてサムロー(リクシャ)でThai Siam Thaiホテルへ。180Bの部屋にチェックイン。シーサケットはスーリンより小さいくらいの町だが、町の人の感じはスーリンよりとげとげしい。
【カンタララク・カオプラヴィハーン遺跡】
8日。シーサケットの町は感じが悪いのですぐに出る。何も面白いことのない町。ローカルコーヒーもない。バスステーションに行くと、ちょうどカンタララク行きのバスがあったのでそれに乗る。昼ごろカンタララクに着。バス停の向かいの飯屋のオヤジの車でカオプラヴィハーンに向かう。その前にホテルを見つけてもらう。300Bでファンの良い部屋にチェックイン。新しいこの辺でナンバーワンの宿だそうだ。英語看板はないが、First Service Roomというところ。カオプラヴィハーンの前でタイ側の公園事務所に200B払わされる。そのあとイミグレのようなところでパスポートのコピーをとらされ、カンボジア側の事務所でも200B払う。カンボジア領に近づくにつれて風景は荒れ野のようになってくる。耕地が少なく木がまばらに生えている。地雷危険の標識に囲まれた道を行く。神殿は毀れているがなかなか立派なもの。敷地に入るとキーンと耳がなるような感じのところ。行き止まりは絶壁で柵も何もない。曇りがちの天気で展望は良くなかった。最初からずっとついてくるカンボジア人の物売りの女の子がいた。「私たちはクメールであることに誇りを持つ」という意味の言葉がクメール語と英語で大きく掲げられていた。あれはなんて読むのと聞くと、クメール語で読んでくれた。
【ウボン・ラーチャターニ】
9日。10時ごろにFirst Service Roomをチェックアウト。カンタララクを出る。バスで2時間ぐらいでウボンに着く。バスターミナルは北の方。インフォメーションが親切にソンテウの番号を教えてくれる。すべて5バーツ。最初、トーキョーホテルを見るが部屋が狭いのでやめる。次に乗ったソンテウがワーリンまで行ってしまう。もう一度戻り、シーイサンNo.2の160バーツの部屋にチェックイン。ツインベッドで広い部屋。安旅社だが臭くなく静かそうな環境。
ウボンの国立博物館を見る。施設も展示も貧弱。職員は怠惰におしゃべり。ふざけた態度で応対している。見るべきものもあまりない。クメールの仏像も風化して顔がよくわからなくなっているものばかり。管理もずさんで、古い文字の刻まれた石板が直射日光にさらされている。館内にある年表などによれば、タイ(ラオ)族がこの地域に侵入したのは18世紀になってかららしい。それ以前数百年はクメール、その前はモン(ドヴァラヴァティ)が支配していたとなっている。
【ピブーンマンサハン】
10日。朝シーイサンホテルの近くの通りでソンテウを拾い、ワーリン市場へ行き、そこからローカルバスでピブーンマンサハンに向かう。ピブーンは小さな町だが、かなり大きなマーケットがある。サムローでホテルへ。Phiboonkitホテル。英語はまったく通じない。大きなツインルームで280バーツ。宿にバッグを置いて、チョーンメックに向かう。一時間以上かかる。タイ側イミグレーションでラオスのアライバルビザが取れるかどうか聞いてみると、取れるということだった。
ピブーンにもどり、コンチアム行きのトラックバスに乗る。橋のところから出る。1時間ぐらいでコンチアムに着。ゲストハウスが2軒ほどあり、薄汚いファランも見かけた。コンチアムに着いたのが午後5時ごろで、もう帰りのバスがなくなっていた。ファラン宿のババアは私を完全に無視しやがった。バス停前の強欲オヤジの白タクで300バーツ払ってピブーンに戻る。車で飛ばすとほんの30分の距離。
【パクセ】
11日。ピブーンキットをチェックアウト。ソンテウでチョーンメックへ。アライバルビザを取る。土曜日ということで、ビザを取るにもスタンプを押すにもいちいち賄賂を要求される。ビザで1ドル。スタンプで70バーツも。しかも一ドル50バーツというでたらめな計算で、ビザ代をバーツで払うと1500バーツだという(普通は一ドル40Bくらい)。パクセまでトラックバス。パクセのラオチャルンもサラチャンパもほとんど満室。タイ人団体客がはいっているらしい。ポンサヴァンという汚いゲストハウス(3ドル)に入る。このあたり、タイ側よりラオス側のほうが白人ツーリストが多い。
【チャンパサク】
12日。サヴァナケットに向かうバスに乗るが、12時ごろから4時ごろまでずっとパクセ周辺のバス停をのろのろまわっていてまともに走ってくれないので、うんざりしてバスを捨てる(2.5ドル)。トゥクトゥクを拾い、チャンパサクの手前の渡しまで500Bで行く。渡し舟ででメコンを渡り、チャンパサクのAnouxa(アヌサ)ゲストハウスというところにチェックイン。5ドルでホットシャワー付の部屋。こんなところにもやっぱり毛唐がアジア女連れで来ている。
パクセは寒いが、チャンパサクは暖かい。パクセの夜はほんとうに寒い。
【ウボン・ラーチャターニ】
13日。10時ごろアヌサをチェックアウト。チャンパサクを出る。パクセでソンテウ(ピックアップトラックバス)を乗りかえて、ヴァンタオ(チョーンメック)まで行き、タイに入る。
ラオスのトラックバスのうしろにぶら下がって車掌をしていたラオス人の若い女の子とタイ国境前の食堂で食事をする。いい女だった。ラオスのトラックバスはタイのソンテウとは違い、車掌がうしろにぶら下がって乗客の世話をする。ピブンマンサハンでソンテウを乗りかえウボンラーチャターニーへ。シーイサン2にチェックイン。160B。
【ムクダハン】
14日。シーイサンをチェックアウト。ウボン工業技術大前のバス停から立派なバスに乗り、アムナートチャルンに向かう。アムナートがあまりに小さな町で何もなさそうだったので、そのままムクダハンへ。ウボンから3時間でムクダハン着。バントムカセム(Banthom Kasem)ホテルにチェックイン。英語看板はない。150B。
ラオスのパクセは寒かったが、ウボンは暖かかった。北へ向かったが、ムクダハンも暖かい。ムクダハンは川湊のある小さな町で、マーケットもさほど活気があるわけではない。ファランはときどき見かける。ラオスから入ってくるやつや、タイ女を連れたやつ。
町の人はウボンやシーサケットに比べて穏やかな感じがする。
15日。バントムカセムの居心地がいいのでもう一泊した。宿の人の感じが良い。同じ150Bでホットシャワーのあるいい部屋に変えてくれた。ムクダハンは小さな町だがケーキ屋がいくつかあり味もいい。ファランが少ないのが何よりいい。バントムカセムは英語表示のない商人宿で静か。商人宿だが旅社の雰囲気はない。床も板張りで外人向けのゲストハウスみたい
だがファランは見ない。ムクダハンは衣料品などの市場が充実していて、ウボンなどよりずっと品揃えが豊富。昨日米軍の迷彩シャツを買った。人は少ないのに、品数は充実している。
【ナコーンパノム】
16日。バントムカセムをチェックアウト。タートパノムへ行くがまともな旅社もない。流水のないようなところだけ(溜め水)。泊ろうかと思ったが、蚊の多さに閉口し、ソンテウでナコーンパノムに向かう。ファーストホテルにチェックイン。160B。近所が一晩中うるさい。
パノムというのはプノンペンのプノムと同じで、クメール語で丘という意味だそうだ。地元の人はパノムよりプノムに近い発音をする。
【ウドンターニー】
17日。サコンナコンに向けて出発。サコンナコンに着いたのがまだ11時ごろだったので、ウドンターニまで行くことにする。2時半ごろウドンに着。バス停前のSri Trakarnという安旅社にチェックイン。140B。ぼろいがそんなに汚くはない。ウドンはかなりの大都会で、ロビンソンデパートもあり、女連れのファランが目立つ。タイマッサージ屋も多い。
【アランヤプラテート】
18日。9時ごろバスでウドンを出て、コーンケーンへ。コーンケーンで降りてから、急にアランヤプラテートに行きたくなり、コラート(ナコンラチャーシーマ)行きに乗る。コラートで乗りかえ、アランヤプラテートに向かうが、アランヤプラテートだと思って降りたのがカビンブリだった。5時ごろ。運転手に聞いて降りたが、でたらめにそうだと言っていたようだ。結局、乗りかえてアランヤプラテートまで行く。50Bの損。アランガーデン2は満室で、アランガーデン1の道側のうるさい部屋。200B。
19日。アランガーデン2の300Bの部屋に移る。道側だが交通量も多くなくわりと静かで安眠できる。ファランも少ない。高いからだろう。
【ポイペト】
20日。ポイペトに出る。タイのイミグレにずいぶん時間がかかる。カジノ目当ての異様な雰囲気の白人団体が並んでいた。ドイツ人のようだったが、ふつうのツーリストと雰囲気が違う。顔立ちからしてなにか異様。ガタイが大きく、肌が荒れていて、みな無表情で黙っている。東ドイツの農民という印象。農協のカジノツアーなのかも知れない。ほかにはフィリピン人も多い。
ロータリーのロンセンリLong Seng Lyゲストハウスの一階の窓のない部屋にチェックイン。200B。天井は高く換気扇があるのでさほど閉塞感はない。
21日。ロンセンリに連泊。
23日。毎日ドリアンを食べる。シーズンではないと思うが甘い。窓のない部屋の居心地もまあまあ。
ポイペトは悪くない。ネットカフェもある。
25日。下痢で寝込む。熱もある。ドリアンの食いすぎと思われる。
26日。インド洋津波。部屋のテレビで知る。
注:インド洋津波に関する報道は偏っていた。多くのタイ人売春婦や「レンタルワイフ」が犠牲になったはずだが、そのことはまったく報じられない。白人の死や行方不明のみが報じられる。スウェーデン人少年が病院から行方不明になったことで欧米メディアは大騒ぎし、kidnapされた疑いもあるなどと連日報じていたが、ローカルが何人不明になっているかにはまるで無関心だった。伝え聞くところによれば、タイ人救助隊による救助の場面においてさえ、ツーリスト(=白人)が最優先され、アジア人被害者は後回しにされていたという。
28日。ずっとロンセンリに沈没。毎日やることも同じ。ポイペトは空気が悪いほかは居心地が良い。毎晩、道に並ぶ屋台をうろつき、殻ごと焼いた卵を食べたり、ドリアンやジャックフルーツの入った濃厚なカンボジア風フルーツシェイクを飲んだりするのが楽しい。これは一口飲むと口の中が痒くなる。
【アランヤプラテート】
31日。ロンセンリをチェックアウト。タイに入国。入国カードに、タイでの滞在先としてバンコクのタイペイホテル(台北大旅社)とを書いたら、女のイミグレ官にこれはどこだとしつこく聞かれた。バンコクだというとバンコクのどこだというので、ヤワラーの近く7月ロータリーの近くだといっても要領を得ない。知らないようだった。

2005年
【ブリラム】
1月1日。アランガーデン2をチェックアウト。ブリラムに向かう。ブリラム行きと教えられたバスに乗るとまったく別方向のチャンタブリ方面行だった。途中でバスを乗りかえ、午後4時過ぎようやくブリラムに着く。2年半前に一度来たはずだがまったく覚えがない。リクシャで適当なホテルに行ってもらう。「タイホテル」という安旅社の220Bの部屋。
ブリラムは死んだような町だが、売春婦連れ白人が溜まっている大きなバービアがあり、タイホテルにも売春婦連れが入っている。
【ナコンラーチャシーマー(コラート)】
2日。タイホテルをチェックアウト。11時の汽車に乗る。鉄道駅が近かったので汽車に乗ったのがマチガイだった。三等しかなく、満席で立ち。しかも込み合っている車両を3分おきくらいに物売りが大きなバケツを提げて乗客を書き分けて通る。駅だけでなく、走行中も頻繁に売りに来る。何を考えているのか、タイ人の頭の中はわからない。ナコンラーチャシーマ駅で降り、旧市街のほうに歩く。チュムポルホテルにチェックイン。240B。

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2005年9月12日 (月)

2002年タイ、カンボジア、ネパール

2002年
【チベット・ネパール】
1月1日、再び人民医院へ、酸素吸入。なぜか30元
(明細が前日が材料費、この日は治療費)。
4日、人民医院へ、酸素吸入と薬。
7日、ネパール領事館へ行きヴィザ申請。
「西蔵中国国際旅行社」に行き、ランドクルーザーを予約。
8日、ヴィザ発給。旅行社にランクル代3080元のうち2080元を支払う.。残りはボーダーで。
9日、10時ラサ発。7時ごろラツェ着。「ラツェ賓館」泊。
10日、ダムの税関を越え友誼橋の手前で残金支払い。白タクを拾い、カトマンドゥ着。

【日本】
2月13日帰国。

3月13日成田発、バンコクへ(エアインディア)。ワットチャナソンクラムのゲストハウス泊。                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

【ノンカイ】                                                              3月15日、タイ航空でウドンターニーへ。ウドンターニーからバスでノンカイへ。メコンゲストハウス泊。ベニヤ板壁。隣の部屋の白人が夜タイ女を連れ込む。まる聞こえ。
17日、Mut-meeゲストハウス。このあたり白人のコロニーのよう。
18日、リムコンゲストハウスへ。    
20日。シーチェンマイへ。ティムゲストハウス泊。ダニエルというスイス人の経営。ダニエルはそこにはいない。ダニエルの昔のタイ人の妻?がティムだったが、ティムと別れて後にくっついたのがいま(そのとき)の女主人(暗い閉じた雰囲気のある女)。この町出身で以前は貧しかったという。ゲストハウスにいるインド人顔の小さな娘はダニエルとティムの間の子。女主人に良く似た男は兄弟。以上は町のタイ人男の話。サウジに出稼ぎ経験があり英語を話す。
24日ノンカイへ。
26日、ビエンチャンへ。
29日ノンカイへ。

4月6日、夜行列車でバンコクへ。                                                【カンボジア】
16日、モーチットマイ(北バスターミナル)からアランヤプラテートへ。アランガーデンホテルⅡ泊。
17日、トゥクトゥクでカンボジアボーダーへ。アライバルビザをとり、ポイペトへ。ChauPhaYaゲストハウスにチェックイン。400バーツ。ポイペト滞在。
21日、シエムレアプへ。フレッシュエアゲストハウス。
22日、アンコールへ。
24日、プノンペンへ。船旅。アンコールトムゲストハウス。
26日、キャピトルゲストハウス。
27日、シエムレアプへ。フレッシュエアGH。
28日、「クメール伝統織物研究所」見学。
29日、バスでポイペトへ。チャオファヤゲストハウス。

5月1日、アランヤプラテートに出る。アランガーデンⅡ泊。
2日、ブリラムへ向かう。タイホテル。
3日。スーリンへ。クルンスリホテル。
4日、コラートへ。エクナコーンホテル。163バーツ(なぜかこんな半端な数字)。コラートではホットコーヒーを飲めるところが見当たらない。インスタントコーヒーすら出すところがない。スーリンではわりと簡単に見つかった。カンボジアから離れるにつれてコーヒーの文化がなくなっていくのか。
5日、バスでバンコクへ。台北大旅社。薬屋で「大活絡丹」を10箱買う。
7日、ワットチャナソンクラムRoof Garden泊。
8日、カオサンBarn Thai泊。
9日、マンゴゲストハウス泊。

【日本】
5月11日、エジプト航空で帰国。

6月26日成田発、エジプト航空、マニラ経由、23:05バンコク着。台北大旅社泊。

【チェンマイ】                                                                 7月1日、ホアランポーン駅よりノンエアコン2等寝台(下段)でチェンマイへ。
2日、チェンマイ。グッドウィルゲストハウス泊。
4日、(日記から)「昨夜ははす向かいのハゲ白人が深夜に女を連れ込んだ。このゲストハウスにはわざわざPlease do not bring "the lady"from outside.という貼紙があるのだが、夜12時ごろに圧し殺した声で入ってきて、2時ごろまでヒィーヒィーハーハーというのを3回戦ぐらいしたようだった。シャワーの音もずっと聞こえていた。2時ごろ女が帰る気配がして、近所の犬がいっせいに騒いだ。・・・このグッドウィルゲストハウスはなんかしっくりこない」 
5日、タぺー通りのソイのRama2ゲストハウスに移る。
8日、フィットネスクラブに行く。夜11時ごろタペー通りにあったバス停に耳の聞こえないかわいい女の子が座っていた。客をとってるようだった。
14日~18日、タイマッサージスクール。
20日、ノンエアコン寝台車でバンコクへ。
21日、台北大旅社。
22日、ワットチャナソンクラム、Merry5ゲストハウス泊。                                         【ポイペト】
24日、モーチットマイからバスでアランヤプラテート。ポイペトへ。チャオファヤゲストハウス。
29日、顔が怪物のように変形した女の人がトラックの荷台に乗っているのを見た。
30日、アランヤプラテートへ。昨日見た女の人がボーダーを越えたところの橋の上で子供を抱いていた。目が合ってしまった。目と目の間の普通はくぼんでいるところが、おでこのように大きく隆起してふくらんでいる。当然目の位置はずれていて、鼻もほとんどないようだった。大変恐かったが、赤子を抱いているのだから、ここでは生きていけるのだろう。アランガーデンⅠ泊。
31日、エアコンバスでバンコクへ。台北旅社。                                

【チェンマイ】
8月1日、ノンエアコン寝台でチェンマイへ。
2日、ラーマⅡ泊。
5日、ロイクロー通り、「オープンハンドスペース」のボスにタイ語を習い始める。
7日、シュガーシャックというバーでサウードというオマーン人の男と知り合う。
9日たまたま再開、一緒に夜遊び。ゴーゴーバー、ディスコ、ファランバーなどをはしご。チェンライ、メーサイ。
28日ポイペトへ出る。
31日タイに入る。

9月29日、バンコク発、ネパールへ(ビザ期限30日:同年2度目の滞在のため)。

【バルパック】                                                              10月29日ネパールビザ延長(30日)、
11月28日ビザ延長(30日)。

12月24日出国。この間、バルパック滞在など。マオイストの支配する村。

【タイ】
12月24日、ネパール発、タイへ。
12月31日、寝台車でバンコク発、チェンマイへ。

2003年1月1日、チェンマイ着。                                                  
20日メーサイ~タチレク、デイリターン。
2月17日メーサイ~タチレク、デイリターン。
3月2日、夜行チェンマイ発。
3日、バンコク着。
【日本】
3月5日帰国。

補遺:①どこかでエルフとメーサロン
②ヒルトライブの村をまわるトレッキング。バナナゲストハウス
のツアー。日本人の女の子と二人だったが、タイ人ガイドが最悪。
行くはずの村をいくつかスキップし、使うはずの車を使わず、
ひどい藪の中を歩かされる。
村をスキップするのはカネを浮かすため。
訪れる山岳民族の村はすべて観光村で、ガイドが村にお金を払う。
高床式の家が並ぶ村をまわって目に付くのは、けばけばしいペンキ
を塗りたくった場違いな教会小屋。ピンクのハートマークを描いた
キリスト教の集会所など。ミッショナリーが建てたものと思われる。
白人との混血の孤児も。

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*「人種差別」に関する考え方 | 1.タイ国王戴冠60周年行事 | 2.ココログ写真検閲 | A-1.白人はなぜ白人か | A-2."Discrimination"、BBCの日本批判 | A-3.白人が増えることの脅威 | A-4.本来的な意味の「人種差別」について | A-5.「NYタイムズ日本たたき顕著」 | A-6.「白人コンプレックス」論 | a.インド | a.インドネシア | a.オーストラリア | a.カンボジア | a.タイ | a.タイ北部 | a.タイ深南部 | a.チベット | a.ネパール | a.マレーシア | a.ミャンマー | a.ラオス | p.すべての写真 | p.ソルクーンブ写真 | p.白人のいる風景 | s-cmbd.シエムレアプ | s-cmbd.ポイペト | s-dst.スンガイコロク | s-dst.タクバイ=プンカラン・クボール | s-dst.ナラティワト | s-dst.パタニ(パッタニ) | s-dst.ヤラー | s-id.インドラマユ | s-id.クニンガン | s-id.ジャカルタ | s-id.スバン | s-id.チアトル | s-id.チアミス | s-id.チパナス | s-id.チルボン | s-id.ドゥマイ | s-id.バンダ・アチェ | s-id.バンドゥン | s-id.パマヌカン | s-id.プカンバル | s-id.メダン | s-id.レンバン | s-mm.コートーン | s-mm.タジ | s-mm.タチレク | s-mm.タートン(ミャンマー) | s-mm.チャイントーン | s-mm.トーンジー | s-mm.バゴ | s-mm.ピンマナ | s-mm.マンダレー | s-mm.ミチナ | s-mm.メイティラ | s-mm.モンラ | s-mm.モーラムヤン | s-mm.ヤンゴン | s-mm.ロイムウェ | s-my.アロースター | s-my.イポー | s-my.クアラルンプール | s-my.クアラ・トレンガヌ | s-my.クアンタン | s-my.クタム島 | s-my.クラン | s-my.コタバル | s-my.シャーアラーム | s-my.スレンバン | s-my.バタワース | s-my.マレー鉄道 | s-my.ムラカ | s-np.イラム | s-np.カトマンドゥ | s-np.グファポカリ | s-np.ジャナクプル | s-np.ジリキムティ | s-np.ソルクーンブ | s-np.ダラン | s-np.チャインプル | s-np.チョウキ | s-np.ナラヤンガート | s-np.バサンタプル | s-np.バルパック | s-np.ヒレ | s-th.アランヤプラテート | s-th.イサーン | s-th.サラブリ | s-th.スラタニ | s-th.スーリン | s-th.チェンマイ | s-th.チェンライ | s-th.チュンポン | s-th.チョンジョム | s-th.ノンカイ | s-th.ハジャイ | s-th.バンコク | s-th.プラサート | s-th.プラチュアップ・キリ・カン | s-th.メーサイ | s-th.ラノン | s-th.ロッブリ | s.ビーチ | t.「オリエンタル」ホテル | t.「ミラー財団」 | t.「土人」とは何か。「土人」に関するテーゼ | t.「失踪白人女性症候群」 | t.「白人コンプレックス」論 | t.インド洋津波 | t.ゴーギャン | t.ジェマアイスラミア(JI) | t.タイ人の白人崇拝と人種差別 | t.タイ北部・山岳少数民族 | t.タイ王室ネタおよび『不敬罪』 | t.タイ航空(TG) | t.ミャンマー・エアウェイズ(MA) | t.リンク | t.三つ穴コンセントの対処法 | t.人種差別ネタおよび白人ネタ | t.児童買春(子供買春) | t.売買春・レンタルワイフ関係 | t.旅先のネット屋での日本語IMEの入れ方 | 「BBCニュース」 | 「アーリア人」ネタ | 「靖国問題」 | インテリジェント・デザイン論 | ウェブログ・ココログ関連 | ニュース | パソコン・インターネット | ブログ記者の取材源秘匿権 | ムハンマド風刺画事件 | 司法・憲法 | 心と体 | 旅行・地域 | 日記・コラム・つぶやき | 欧米の『日本たたき』 | 皇室および天皇制 | 経済・政治・国際 | 読書