奴隷売買、奴隷搾取によって資本の本源的蓄積を行った欧米白人諸国家
あるブログのコメントから。
聖書とユダヤ共産主義によって被害となったアジア。それと自演したり、戦った国、日本。
かつて奴隷市場が何軒もあったこの町。この広場も奴隷市場だった建物に面した広場。広場が石畳の急な坂になっている珍しい立地にある。下から上がっていくと、坂の上までがやたら遠く感じるけれど、きっとその昔、奴隷市場に運ばれた黒人たちにはもっと遠く感じたに違いない。
近辺は安宿・土産ショップが建ち並び、博物館や記念館にも程近い広場。
でも何と言っても、この広場がある地区は、毎晩、各広場などで無料のサンバからレゲエまで色んな音楽が夜な夜な掛かって楽しい(そして怪しい)雰囲気。
底抜けに明るいブラジル人。ココロにズシンッと響く太鼓の低音のリズム。様々な要素が毎日、毎晩、重なり合って、サルバドールの1日に、サルバドールの夜になる。
人が集まるから広場。広場に行けば、何かがある。日本では何だかなくなってしまったかのような、そんな広場の光景。
http://www.geocities.jp/trancekazz/brasil01salbador01.html
イギリスが奴隷貿易を禁止してから200年 市民が「鎖の行進」
3月25日でイギリスの議会で奴隷貿易を禁止する法律が成立してから200周年になるというのです。奴隷の苦しみを追体験する「鎖の更新」などの記念行事が各地で開かれたということです。
そして、ブレア首相は『昨年11月、英紙に投稿し、「(奴隷制を)深く恥じる」と遺憾の意を表明。今月7日、訪英したガーナのクフォー大統領との共同記者会見で「改めて申し訳なかった」と謝罪した。』のです。
最近になって、広がる人身売買にも目を向け、さらに『内務省は23日、暴力団などが仲介する売春や他の低賃金労働を「現代の奴隷制」と位置づけ、厳しく取り締まるための新たな行動計画をまとめた。』ということです。
http://u-tmame.cocolog-nifty.com/u_tmame/2007/03/post_0ce4.html
Ⅲ.白人による黒人奴隷貿易とアメリカの奴隷制度
ヨーロッパ人は16世紀から19世紀までの400年間にわたって奴隷貿易を、国家的事業として組織的に何の罪悪感もなしに繰り広げた。
大西洋の奴隷貿易は、16世紀にスペインによって始められた。西ヨーロッパの安物の綿製品、真鍮の腕輪などの金属製品・アクセサリ、ジンなどの酒類、鉄砲そして現地では通貨だった子安貝などを積んだ船がアフリカ西海岸でそれらを奴隷と交換する。代わりに奴隷を積んだ船は西インド諸島やアメリカ大陸へ渡り、そこで、積んできた奴隷との交易によって砂糖や綿花やタバコを手に入れ、それらの商品を積んで、西ヨーロッパの母港にもどるという形をとったため三角貿易と呼ばれた。
17世紀にはスペイン・ポルトガルに代わって、イギリスとフランスが西インド諸島に植民地を築き、18世紀からは、産業革命をいち早く迎えたイギリスが、海上覇権をオランダから奪い、イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えた。
アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダの奴隷商人たちは、300年間に1500万人に上ると推計される黒人奴隷をアメリカ市場に売って巨利をむさぼった。この奴隷貿易は19世紀まで続いた。
イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年でしあった。
奴隷貿易には、ヨーロッパ文明諸国のほとんどが手を染めていた。そして、ほとんどが熱心なキリスト教徒であった。アフリカの歴史に恥辱と屈従と衰退の烙印を焼きつけ、19世紀に始まるヨーロッパ帝国主義のあのむきだしのアフリカ侵略=近代植民地主義にみちびいた、数世紀にわたる黒人奴隷貿易は、こうして今から550年程前の15世紀半ばに、まずポルトガルの手によって開始された。
この黒人奴隷貿易は、世界近代史の最も血なまぐさい一局面をなすとともに、いわゆる資本の本源的蓄積過程においてきわめて重要な役割を果たしたが、そこでは人間が人間の尊厳はおろか、そもそも人間が人間であることさえ完全に否定されてしまった。リスボンの宮廷の熱心な支持のもとに、奴隷狩りは奴隷貿易という商取引のかたちを整えていった。
16世紀から17世紀初頭にかけては、殆どポルトガルとスペインの独占の時代がつづいた。だが、他のヨーロッパ諸国がいつまでも黙ってこれを見ているわけがなかった。まもなくオランダ、ついでフランスが、さらにイギリスが、そのうちにはイギリス領アメリカ植民地までがこの「人肉市場」にくびを突っ込み、獅子のわけまえを主張し始めた。
本田創造 『アメリカ黒人の歴史』岩波新書
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-16-3.html歴史教科書などではキリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、 信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。
しかし秀吉に宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、だんだん危険視するようになり制限を設けたが、 神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が, 秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。
☆コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
Column : Japanese Slaves in the Age of the Middle Passage天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。 日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
「付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、 若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した、 1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、 ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、 1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、 世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で、小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/39672c9acf2925bcdccf38cb4f86ce15
「プロテスタンティズムの倫理・・・」だとか「ロビンソンクルーソー」だとか、嘘八百だということ。
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